2015年4月2日木曜日

気骨な才媛の勤め先を訪問した

3月27日の金曜日の昼、20年前弊社にも勤続したUさんに会いに出かけた。10年近く働いてくれた。彼女の働き場所は横浜地下鉄の上永谷駅前だ。

先日、私の二女が産んだ子供のお祝いに、どんな動物のお産に必要な物?を持って来てくれた。そして、その後、1週間後再びまたもや同じ品を?持ってやってきてくれた。彼女は、見かけが良く頭が良く、働き者だ。何よりも根っからのスポーティなのだ!

Uの会社で、二人の今までのオツキアイを話すことは、万巻の書に十分値する、と子供時代の友人は言っていた。その熱いオツキアイの話をここに、書き揃えてみよう。余りにも熱い内容だったので、聞き捨てするわけにはいかない、、、、、、のだ。

彼女は生まれつきのスポーツが大好き人間。私は昭和49年に全日本大学サッカ選手権で優勝した。二人は双葉関係?双葉蒼(ふたばあおい)似ということからこの稿は始まる。

茨城県のとある街で生まれた。理想とする人物像は、スポーツができて勉強もできる、そんな女学生だった。ところが、高校生の時にスポーツ虫が暴れ出し、そのエネルギーはハンドボールに向かった。生まれながらの性格から一所懸命に頑張るのは、当然と言えば当然。彼女が出場している試合風景を、ある電気会社のハンドボールの監督が観て、その監督さんに呼ばれることになった。俺の会社で、一緒にハンドボールをやろうよ、という具合だ。

Wikipediaより、、、ハンドボール (handball) は、7人ずつの2組がボールを相手のゴールに投げ入れて勝負を競うスポーツである。走・跳・投という運動における基本3要素を求められ、さらにボディコンタクトという格闘的な要素も含まれる総合スポーツであり、ダイナミックなシュートシーンやスピーディな試合展開が魅力となっている。

Handball Bosnia Greece.jpeg

 

大学進学も諦められない夢だったが、今は勉強よりもスポーツだ、とこの監督に身を委ねた。思い通り、お世話になったチームは、国内では高順位に居るだけに練習は激しかった。筋肉や神経は破裂寸前、破滅まっしぐら! なんとか、精神状態だけは正常に維持していくことが先決。私のコ・ン・チ・ク・シ・ョ・ウ魂を、私を育ててくれた父母や祖父母、友人、近所の人々、学校の先生方に表意したかった。

寮生活は凄まじいものでした。1階、2階、3階とはそれなりに住み込む人間は違っていて、上階へ行けば行くほど居丈高、精神がキュウキュウすることもあった。精神はゴロゴロに丸く納まった。工場で働くことはほとんどなかったけれど、練習時間の多さや凄まじさでは、さすが○□△●■▲電気と言われるだけあった。練習場に屋根や壁がなければ、猛烈な血しぶきが吹っ飛んだことだろう。 

そんな激しい生活の9年目に、胸に病気が発生した。今まで通りの練習はできなくて、しょうがないからマネージャでもやれと言われた。今までの充実した日々ではなかったので、毎日が苦しかった。

こんなことでは、どうすることもできないではないか?その解答として、アメリカで語学を学び、此処でも又、我を忘れて学ぶことだ、と決めた。臥薪嘗胆、腹をくくった。この想いに心は揺さぶられた。完璧には学びとることはできなかったが、過ごした数年間は夢のようなものだった。

帰国して何をやるかと考えたが、私のような勉強好きの頑張り屋の就職さきは、これしかないと思われるものはなかった。世評や日本の経済状況から、不動産や建築を扱う宅地建物取引業と建築業が華々しくて、専門的な仕事を扱う土地建物取引主任や設計士などが話題になった。これしかない、と決めた。

この場に及んでもやる気が湧いて、この決戦に挑もうとするのは、イット、イズ、ナチュラル、フォー、ミーだ。

土地建物取引主任資格に受かってから、入った会社は横浜駅の傍。社長の最終学歴はは東京大学の何とか学部で、彼には彼なりの事情があったようで、決して甘い生活をしていなかった。そのうち二級建築設計にも受かった。東戸塚に面白い会社があるんだよ、社長と専務が早稲田大学で、やることなすことが奇抜過ぎるんだ、とよく話していた、そこで私を知ったらしいのだ。それから、彼女の頭に私たちのことが噴出した。

そんなことでわが社のことを、こっぴどく知るようになった。それからの私たちのお付き合いは、誰もが入り込めないほど激しい交流を重ねた。

仕事のことは言うまでもないが、仕事以外のことでもアーでもない、コーでもないと話した。

昨年の5月16日、私は4~6メートルの高さから、アスファルトに落ちて気絶をした。4日間の気絶状態。そんなニュースを知ったならば、そう簡単に顔を出せないことはよく理解できるが、今年になって、ヤマオカは比較的にうまく生き延びたそうだよ、と聞いた。魔法の卵をいっぱい持って、二女の次男誕生を祝いに来てくれた。ついでに、俺も傍にいれば、尚、ケッコウだったのだろう。