2012年10月31日水曜日

登山家・芳野満彦を読む

アルムクラブ創設者の1996年当時八ヶ岳ビジュ間hp

芳野満彦氏

この1ヶ月で、芳野満彦氏の著作「山靴の音」(二見書房)と「新編山靴の音」(中公文庫)、それに芳野満彦氏をモデルにした新田次郎の「栄光の岩壁上下」(新潮文庫)を読み終えた。

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20120207の朝日新聞の訃報記事で、芳野満彦氏のことを初めて知った。当時は仕事のことで頭が混乱中。日本人として初めて欧州アルプスのマッターホルン北壁登攀した登山家の彼が心筋梗塞のため死去。80歳だった、との記事を読み進めていくと、彼は五文足(約12センチ)のアルピニストと言われているとあり、これはどういうことだと興味を持った。

そして、上の本4冊を読むことにした。

低い山や安全な山を散策する程度の私には、この本に書かれている山々や峰々の名前や登山の装具のこと、使われている登山用語のほとんどを理解できない、まして近寄り難い岩壁登攀なんて、、、、なのに読書のペースはどんどん進む。

氷も雪も、風も雨もない暖かい部屋で、私の読書は岩壁登攀の取り付き点から、カーテン越しに暖かい日差し受けて、ピッケル、ハーケンやカラビナではなく、温かいコーヒーカップを手にして、1ピッチ、2ピッチと一気に進んだ。彼なら、きっと今でも冥界にある山岳を攀じ登っている。      

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「山靴の音」の冒頭の「八ヶ岳遭難」は友人との八ヶ岳登山で遭難した時の内容だ。18歳で遭難してその翌年にこれを著している。出発して、遭難、救助されるまでの詳細が、恐ろしいばかりの記憶力で振り返っている。悲惨な事故に、これだけ冷静に描写していることに恐れ入った。

この遭難事故をきっかけにますます、山にのめりこんでいくさまが、鬼気じみる。何故、そこまでして?と問いかけたくなる。その私の問いに、彼は別の本のなかで答えているのを見つけた。「そこに、希望があるからだ。だから、僕は涙して登る」だった

山にとりつかれた男が、山から山を攀(よ)じ登る。そしてどの山にも情熱を高らかに謳って止まない。

本文中には、山岳や動作する人の絵があり、マジックなのかペンなのか絵筆なのか、描かれたものは登山家の心そのものだ。自然には、強く賢く冷静に対峙している。山男らしい純情詩が幾編も盛り込まれていて、どの詩も読み人を粛然とさせる。

こんなに山を愛した登山家は他にはいないのではないか。

それに、小説「栄光の岩壁」を併せて思うに、彼は山仲間のことは当然、関わった人たちとの人間関係を大事にしていた。岳人、クライマーとしてだけでなく、立派な人格者だったのだろう。

 

小説「栄光の岩壁」は、彼をモデルにした主人公・竹井岳彦の幼少からマッターホルン北壁登攀を征服するまでの物語だ。

18歳の時に学友と八ヶ岳で遭難し、友人は凍死、彼は凍傷によって両足先の大半を失う。それでも山への憧憬は増すばかり、鴨居にロープを吊るしての歩行訓練を始めた。

北アルプス、上高地の氷壁の宿と言われる徳沢園(山小屋)の冬の管理を任される。この小屋を拠点に、未踏峰の岩壁を十以上も征服する。指のない足が痛む。靴下を重ねて履いても、歩行したり岩を蹴ると血が溢れる出る、それでも岩壁にむしゃぶ-りついていった。

1962年、大倉大八(本名)氏と組んでアイガー北壁を目指すが悪天候のために無念の撤退を強いられた。そして翌年、アイガー北壁に再挑戦したが、失敗。

この再挑戦の報を聞いたカメラマンの藤木高嶺さんと朝日新聞の本多勝一記者が、カナダ・エスキモーの取材の帰途、現地で、1800メートルの魔の北壁の1000メートル地点で悪天候のために断念したところに立ち会った、とこの本の解説の欄にあった。この本多勝一、藤木高嶺コンビでいくつもすばらしい仕事をこなしている。彼らのファンだったが、こんなところに出現してきたことに驚いた。朝日文庫の「カナダ・エスキモー」をかって夢中に読んだ。

そして、1965年、日本人として初めて.渡部恒明(本名)氏とマッターホルン北壁を完登に成功した。最初からずうっとトップを登っていた渡部氏が、登頂約20メートルを前に、疲れたから代わってくださいと彼を立てた。

二人は引き続きアイガー北壁を狙うが、彼の足先からの出血がひどく断念した。

「ツエルマットより愛を込めて、我北壁に成功せり」と奥さんに電報を打った。

おっ母(か)さん、スカイツリーだ

20121020、京都向日市物集女に住んでいる義母が、今まで私の敷地だった横浜市保土ヶ谷区権太坂に、次女夫婦が自分たちの住まいに建て替えた、そのお祝いに来てくれた。

82歳だ。腰が以前に会ったときよりも随分曲がったことに驚いたが、腰の曲がり以外は、顔の色よく、よく喋り、体の調子もよさそうだったので、迎えた我ら横浜族は内心ホッとした。

長距離の移動には車椅子で誰かが押して歩いたが、短い距離ならば、杖を頼りにゆっくりゆっくり、歩くことができた。今回も、京都駅までは息子に送ってもらって、新横浜駅までは迎えに行ったが、その間は自分で歩いてきた。

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ハル像

権太坂で義母を迎えたのは、新しく建ちあがった新居と、玄関前に設(しつら)えたハル像だった。このハル像は三女の夫・タツが、私の会社にあった廃材を利用してリメイクしたものだ。人知れずアパートでこつこつと創った。元の石像に粘土やコンクリートやらを盛り付けたようだ。顔の表情は、実にハルの人柄がよく表現されている。サッカー狂いのハルは、サッカー気違いのジジイを信奉している。いいサンプルでなくちゃイカンなあ。

義母はいつも京都高島屋で、私の大好物な鯖寿司を買って来てくれる。このシーズンは米の収穫期、新米を使った鯖寿司は、最高に美味い。今回は、鯖の焼いたものを載せた鯖寿司も持って来てくれた。初めてだ。美味かった。

義母が来浜するに際して、次女夫婦は東京見物を企画していた。旧古河庭園のバラ、東京スカイツリー、東京駅の見物をして、昼食は深川飯、こんなコースを用意していた。孫のハルが突然サッカーの試合が入ったので、オヤジよ、一緒しないかと次女に声を掛けられ参加することになった。

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全員を撮るチャンスを逃した

夜の宴会は賑やかだった。子供、孫、大学時代の友人・マサチカも含めて17人の大宴会になった。マサチカ以外は全て身内だ。長女は200メートル傍に、長男は歩いて20分ほどの距離の東戸塚の駅前に、三女は道路を隔てた向かいに住んでいる。イザという時に直ぐに集まれるのが、山岡軍団の強さの秘訣だ。長女は、世界のビールをセットにしたものを持って来てくれた。ビールの世界一周旅行だ。

孫たち5人は、特別に作ってもらったテーブルで仲良く食事していた。

宴がたけなわになったころ、岩壁ならぬ居間の壁面登攀が始まった。ボルダリングだ。壁面に埋め込まれたホールドと呼ばれる突起物を手でしっかり捕まえて、足ではしっかり踏ん張って、壁面を登る。落下しても大丈夫なように命綱も用意していた。ザイルだ。

皆で代わる代わる登った。長女の長女・モミジが、誰もがそれほど運動的な子ではないと思っていたが、進められるままに登り始めると、それはそれは勇猛果敢、恐れを知らぬクライマーに変身、観衆の心配を尻目にどんどん登っていった。その、いつもとは違う彼女の行動に拍手喝采、両親も目から鱗(うろこ)落ち。翌日、モミジの母親は、うちの子はスピード競技は苦手だけれど、時間をかけて取り組むことには優秀なんですよと言っていた。

私も登った。酔ってはいたが、ジジイの意地とプライドを賭けて登った。不確かな指によるキャッチ、不安定な足場のまま、次のステップに進むのは危険だ。何事も同(おんな)じだ。

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そして、20121021(日)。

私は急遽休日をとった。

サラリーマン生活から経営者として40余年仕事をしてきたけれど、当日は当然、前日に休みを申し出ることは絶対にしなかった。休みは1週間前に通告するのが私の常識にしてきたが、今回初めて前日に休みを所望した。

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次女夫婦

先ずは旧古河庭園だ。住所は東京都北区西ヶ原。

大正時代の古河財閥の屋敷と聞けば、直行で憎っくき足尾銅山鉱毒事件を思い出すが、それは過去の話。今はジェフ市原の出資者でもあるから、かっての悪行は不問に付す、か。

治外法権の撤廃を認めさせた不平等条約の改正に辣腕をふるった陸奥宗光の別邸だったが、次男が古河財閥の養子になった時に古河家の所有になったらしい。

武蔵野台の丘陵地に、小高い丘に英国風の洋館、斜面を利用したテラス式の洋風庭園、低地には池を囲むように日本庭園を配している。人込みが混雑、列を作ってノッソリノッソリ見て回った。義母は車椅子。通路は小石が敷かれていて、車椅子には難儀だった。

手入れの行き届いた英国風の庭園には、いろいろなバラが大輪になって咲き誇っていた。まだつぼみのままのもあった。私は、バラの花に馴染みがない、近づき難い何かを感じるのだ。

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洋館のなかの喫茶室で、庭園の人々とバラを窓越しに見ながら紅茶とケーキを食った。義母がお金を払ってくれた。紅茶580円、ケーキはいくらだったか忘れた。

 

 

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次に東京スカイツリー。住所は東京都墨田区押上。

近くに車を駐車させて、タワーの下に陣取った。近くでは高過ぎてカメラ画面に全貌を上手くおさめられない。仰向けに寝っ転がって、見上げて撮った。それにしても、この迫力にはビビラされた。H鋼ではなく鋼管。鋼管が何本も群立して地中に突き刺さっている。青空を突き抜けて宇宙にも届けとばかりに尖(とんが)っている。東京タワーは女性的で優美だが、スカイツリーは男性的で挑戦的だ。

東京タワーの周囲には超高層建物が林立して、電波の行き届かない陰の部分が発生して、その解消の目的のために建てられた。事業主体は東武鉄道、工事の施工会社は通天閣でもお馴染みの大林組だ。

全高(尖塔高)は634メートル、建築物としての高さは、470,97メートルで横浜ランドマークタワーの296,33メートルを上回って、建築物としては日本一高い。

Wikipedia=構造システムは法隆寺の五重塔を参考に、心柱(鉄筋コンクリート造高さの375メートル、直径の約8メートルの円筒で内部は階段)により地震などによる揺れを防ぐ心柱制震構造となっている。

 

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上3葉の写真は、Wikipediaのものを拝借した

次に向かったのは改装された?と言うよりも復原された東京駅だ。日本の表玄関と言われる。住所は東京都千代田区丸の内一丁目。

東京駅の開業は1914年(大正3年)、すでに開業していた新橋駅と上野駅の間に、首都圏の中心的役割を持たせるために作られた。駅舎の設計は辰野金後。前の旧古川別邸も、同時期の建築だったと思われる。

車で、駅舎の正面が見られるところまで来ると、周辺を埋め尽くした大勢の見物者が、ウロウロしていた。車の停められるところがなくて、私は車の中で待機、みんなは近づいて見て来た。私には見る機会がいつでもある。

少し前、テレビで見たライトアップされた赤レンガの駅舎が綺麗だった。今も夜間にはライトアップされているのだろうか。

1923年の関東大震災でもほぼ無傷だったらしい。終戦直前に米軍による空襲を受けて屋根と3階部分が燃えて、簡易に修復していたものを、今回、ドーム屋根に復原された。

 

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アサリとしめじの炊き合わせ

次は、肝腎の昼飯だ。次女がネットで調べておいた店に向かった。深川飯(ふかがわめし)だ。

深川飯はアサリのすまし汁をご飯にかけたもので、元々、江戸の漁師たちが考え出した簡便なもので、庶民の味だ。古くはアサリではなく深川近辺で多く採れたバカガイだったものが、大正の時代にアサリを使うようになった。定型なものはなく、店によって趣向をこらしているようだ。

私たちはアサリの炊き込みご飯をオーダーした。

ぶっ掛け風ご飯の方は漁師に、炊き込みご飯は大工などの職人さん用だったようだ。

店内には、観光で来ているような人が多く見られた。この辺りは、名所旧跡が多いところのようだ。深川不動尊、深川八幡宮、芭蕉記念館、東京都現代美術館、出世不動尊、清澄庭園だ。店の前には、何故か日本地図を作った伊能忠敬の像があった。彼は千葉の人と記憶にあったのだが、説明書きにはこの辺りで活躍したとか? 活躍したのは日本全国だった筈だが。相撲取りの顕彰碑のようなものもあった。

帰りの運転は次女が快く引き受けてくれたので、次女の夫・竹ちゃんと人肌燗の2合徳利を2本いただいた。空っぽの胃袋にお酒が沁みる。竹ちゃんは、私の申し出にいっつもにっこり、盃を受けてくれる。

御代は義母が引き受けてくれた。

帰途の車中、孫のハルに電話で試合の結果を聞くと、1試合目は勝った、ゴールを入れたよとのことだった。車中は大いに沸いた。もう1試合勝たなければ公式戦の本大会に出られない。首都高速から、東京スカイツリーがよく見えた。

 

20121022、義母に「葉トウガラシ」をお願いしようと、数日前に野良仕事のお手伝いをしている山田農園からトウガラシの葉っぱを貰ってきていたが、手入れを怠(おこた)ったので、料理するまでもなく傷(いた)んでしまった。不肖者! め。前もって京都の義母に電話で了解をとっておいたのに。電話を切ってから、82歳の先輩に酷なお願いをしたことを悔いた。

私は、子どもの頃から、この葉トウガラシが大好きで、私の母によく作ってもらった。作ってもらうためには、枝から葉をもぎ取り整理して母に渡した。毎年この季節だ。ちょっぴり辛く、甘く、炒めて煮るのか ?

葉トウガラシは未遂に終ったが、「塩昆布」作ってくれた。素材が第一だと言って、これも鯖寿司と同じように京都高島屋で買って来てくれた。最高級の昆布に、ジャコ、山椒、筍を醤油で煮たものだが、これも格別に美味い。これさえあれば、いくらでもご飯が食えた。

夜は、長女の家で義母と長女の子供たちに囲まれて食事をした。

翌日20121023、義母は焼津に新幹線を使って向かった。小学生時代の友人たちと食事とお泊りだと言っていた。70余年も前の友人と会うなんて、凄い。腰は曲がってしまったけれど、元気だ。長生きして欲しい。

来浜、ありがとうございました。

2012年10月29日月曜日

チェンソーに手を出した!!

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チェンソーを会社で買った。

1967~68年、大学進学を目指していた2年間の浪人時代。

1浪の時も、2浪の時も、3月から8月末まではドカタをして入学金と4年間の授業料を何とか稼ぎ出そうとしていた。働いた場所はあっちこっちの山の上で、関西電力の高圧線の鉄塔の基礎工事の現場だった。私を雇ってくれたドカタ屋は近畿電気工事の孫請け。基礎工事のために周辺を整備して、関西電力から指示された図面通りに穴を掘る。建設重機が入らないので、全て手仕事だ。このアルバイトで、スコップやツルハシ、鋸(のこぎり)、斧(おの)、鎌の使い方を身につけ、その後の私の人生に大いに役に立った。

朝8時に現場に集合、そこでオヤジがその日の仕事のノルマの指示を出す、それから仕事にとりかかるのだが、始まったら、私語なし小便なし水なし、ひたすら仕事に熱中、手を休めることはない。そして、必ずその日の予定の仕事を昼過ぎに終える。

ドカタ屋のオヤジは、他の作業員に対して、山岡にはチェンソーを使わせるな。こいつは俺たちとは違って、これから東京の大学に入って勉強しようとしているんだ、だから、指でも腕でも怪我をさせるわけにはいかない、ええか!と皆に言ってくれていた。それほど、チェンソーは素人には危険な代物だ。

その危険な代物をネットで購入した。仕事でどうしても必要になったのだ。

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伐採前

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伐採後

弊社の生業は、何らかの事情で不要になった中古住宅を仕入れて、間取りの変更、耐震のチェック、設備や仕様の変更などのリノベーションを施して商品化する。そのように仕上げた住宅を希望者に購入してもらうことだ。

その商品化の過程においては、設計士やデザイナーなどの専門家の知恵を借り、施工は手慣れた職人さんにお願いするのだが、私も現場の作業員としての仕事を担当している。スタッフは余計なお世話だと思っている人もいるかもしれない、が、私はどうしても関わりたい。

担当している仕事は、敷地内の庭木を伐採したり、雑草取りをすることだ。これらの仕事は、強烈なストレスに打ちのめされササクレ立ちな精神を慰撫する。

幼少の頃、田舎の山や川、原っぱに畑に水田、そんな環境の中で育(はぐく)んできた野性の覚醒を自覚するのだ。そして私の心と体は調子を合わせて快くなる。体の疲れは誤魔化せないが、単純に言えば、いい気晴らしになっている。

土を見てはニンマリ、草を見ては親しみを、樹木を見ては寄り添いたい。

2012年10月23日火曜日

花巻東の大谷投手にエール

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大リーグ挑戦を表明した花巻東の大谷翔平投手(左)。右は父親の徹さん=日吉健吾撮影

 

私立花巻東高校(岩手県)の大谷翔平投手が、両親や同校の佐々木監督の反対を押し切って、「自分の気持ち」として米大リーグに挑戦する意向を表明した。

日本のドラフトの目玉と注目されている大谷が日本のプロ野球に一歩も踏み入れることなく、アメリカに新天地を求めると重い決断をした。

高卒の日本選手がすぐにメジャーで活躍できるほど、米大リーグはそう甘くはない。それでも大谷のタフな決意を尊重したい。応援したい。米の入団する球団が決まれば、その球団はこの原石を丁寧に大事に育てて欲しいもんだ。

20121021の朝日新聞・スポ-ツの記事を転載させてもらった

今夏、全国高校野球選手権岩手大会で、高校生史上最速の球速160キロを記録した花巻東の大谷翔平投手(18)が20121021に、大リーグに挑戦することを表明した。ドラフト会議で指名されるかは12球団の判断次第。日本プロ野球の野球協約に基づき、指名が確定した球団には、来年3月31日まで交渉権が与えられる。一方、日米間では双方のドラフト対象選手の獲得は自粛されている。ただ、これは「紳士協定」で日本球団が交渉権を持っている間に、米球団と契約してもルール違反にはならない。

ところが、やっぱり、日本のプロ野球貧困村には、可笑しな狐や狸がうろうろしている。

今までの経験では、このようなことがあると、必ずあのナベツネなるぽんぽこ狸の大ボスが何かを言い出すのだが、今はかっての部下の子狸と係争中、発言は控えていると思っていたら、やはり同じ穴の狢(むじな)、巨人軍・桃井恒和球団社長が次のように語った。「日本プロ野球の一員として、危機感を感じている。社会人の田沢君(現・レッドソックス)の場合とは違って、高校生でしょ。プロ野球が空洞化していく。田沢君の時に決めたルールが、本当にそれでいいのかどうか、もう一度議論すべきではないだろうか」と、20121022の朝日新聞・スポーツにあった。何を議論するというのだ?

今度は狐たちが隣村から現れて、別の何かを言い出すのだろう。

この桃井社長の発言には、大谷本人の心中を微塵も考えていない。大谷はこんな料簡の狭い日本の球界が嫌になったのだ。唯、ひたすら日本のプロ野球の興行に関することだけ、商売上のことしか考えてない、こんな連中らにはスポーツは文化だということを、これぽっちも解っていない。文化は限りなく華開くのだ。未だにこのような球団経営者がいることを悲しむ。日本サッカー協会は、選手の海外進出を勧奨しながらも、Jリーグの各チームと調整の努力をしている。サッカー力(ちから)の底上げのために。

ここは、大谷選手のチャレンジにエールを送ろうではないか。

2008年、ケツの穴の小さい日本野球機構が、若くて人気の逸材が日本からの流出を抑止するために愚策を案出した。こんなことを真剣に考えること自体、可笑しな話なんだが。

新日本石油ENEOSの田沢純一が大リーグ挑戦を表明して、ドラフト会議では指名しないことを要求した。田沢の決意の固さを判断してどの球団も指名しなかった。ここで、野球機構はドラフトを拒否して外国球団と契約した選手は、帰国後、高校生は3年間、大学・社会人は2年間、日本の球団とは契約できない、と内規した。

めそめそ日本に帰ってきても、そう簡単にプロでは野球できないよ、と嫌がらせだ。見苦しい。

ここに至って、又、野球機構は次の手を考えようというのか。

2012年10月22日月曜日

またもや、読売新聞か?

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読売新聞は20121011日朝刊1面で、「IPS細胞(人工多能性幹細胞)から心筋を作り、患者に移植した」と最初に報じた。

国内では数日前に山中伸弥・京大教授がノーベル生理学・医学賞を授賞したニュースで盛り上がっていた矢先の出来事だ。

ところが、その後、読売新聞は、この移植をしたとする森口尚史氏の主張に疑義が相次いでいる問題で、その発言に基づいた一連の記事は、誤報だったことを認め、おわびと検証記事を、13日付け朝刊に掲載した、と20121013の朝日新聞の記事で知った。

山中伸弥教授は「此の段階で、十分な動物実験なしでいきなり人間というのはあり得ない」と話している。

もう一つ、別件。東京医科歯科大学は12日夕に記者会見を開いて、今回の臨床応用とは別に、森口氏が同大と、IPS細胞を使ってC型肝炎の効果的な治療薬を見つけた、とする2010年5月の読売新聞の記事についても、「東京医科歯科大学で実験及び研究が行われた事実はない」と発表した。こんなところでも、読売は汚点を残している。

この不思議な渦中の人物、森口氏のことについては三面記事的に十分興味を引くが、ここは、そんなショウモナイ人物のことに触れようとしていない。

ここで暴(あば)かれたのは、読売新聞の取材に対する姿勢だ。裏づけ調査をしないまま、上の2件以外にも6件を記事にした。

森口氏自らが売り込んできて記事化を督促、それを鵜呑みにして記事にしたのが読売、共同通信、産経、内容に信頼性が薄く、調査が必要として記事化しなかったのが、朝日、毎日、日経、時事通信だった。

こんな失策を重ねている読売に、尚、鞭(む)を打ちたい。特別、読売を嫌っているわけではないが、下の2件についての調査の結果を報道して欲しい。

それは、読売巨人軍の原監督が、2006年、過去の女性関係を理由に元暴力団員ら2人から1億円を要求され支払っていた問題についての詳細な報道がないことだ。当初、暴力団ではなかったと主張しただけで、疑惑に十分応えていない。

もう一つは「巨人、6選手に破格の高額契約金」、「球界申し合わせ超過」、「複数年に分け支払い」「上原・二岡両選手の覚書判明」の見出して、朝日新聞が報道したことについても調査後の報道がない。

マスコミは民主主義の第四の勢力と言われている。日本で一番売れている日刊紙は読売新聞社だ。読売新聞は報道機関のなかでも最強だ、身内(子会社)のこと故に、毅然とした姿勢を見せて欲しい。納得する記事を書いて欲しい。

読売に君臨するあのドンの存在が気になる。まさか、それが原因で組織全体が疲弊しちまったのではないだろうか。

2012年10月14日日曜日

アウトレイジ ビヨンド

昨日20121013、19:10から、海老名のワーナーマイカルで、北野武の「アウトレイジ ビヨンド」を観てきた。夕方、30年近く付き合っている友人Aから、突然、今、何をしているんだと電話があった。

私は、もう一人の30年近い友人Bの娘さんの6歳の誕生パーティーの真っ盛りで、ビール飲んで、ワインを飲んで、友人と友人の義弟が作った南国情緒溢れるエスニック料理を、ただ今頂き中ですと返答した。私には珍しい料理ばかりだったので、去り難かった。ほろ酔い以上の気分だったが、今、ここでアルコール類を飲むのを止めれば、時間的に余裕もある、勢いで、行くことを約束した。

ビールとワインだったので、アルコールに頭の芯の芯までは侵されていない。今夢中になっている新田次郎の「栄光の岩壁」の一字一句を理解した.

そして、本番。

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映画を観ようと誘われたが、何の映画なのか駅で合流するまで聞かされていなかった。友人と一緒に映画を観たいという欲望が強いだけで、映画は何でも好かったのかもしれない。

北野武の映画だと知って、これならば、重たい頭を抱えながら映画館を出る羽目になりそうもない、ひとまずは安心した。

この映画は2010年にヒットした「アウトレイジ」の続編らしい、前作は観ていない。

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禁断の手を使って幹部、会長に上り詰めた男ら。先代を裏切り寝返った会長。そして、志半ばに死んでいった男ら。

先代亡き後、会長が交代して新体制となり、関東の頂点を極めた暴力団「山王会」は、ついに政治の世界にまで手を伸ばし始めた。巨大ヤクザ組織の壊滅を企てる警察組織、マル暴は、山王会の過剰な勢力拡大に業を煮やしていた。そのことを快く思わない古い幹部らは花菱会の若頭とたちと提携し、山王会の権力を握ろうと画策するのだがその企(たくら)みは露見、幹部は殺される。

そこで目をつけたのが、関西の雄である「花菱会」だ。表向きは友好関係を保っている東西の巨大暴力団の対立を目論見、刑事・片岡は裏で策略を仕掛けていく。

そんな中、驚愕の事実が持ち出される。

なんと前回の抗争中に獄中で死んだはずのヤクザ・大友が生きていた。突然出所を告げられた大友。「俺が死んだって噂を流したのはお前か」、「だれがまたヤクザをやるって言った」。警察が仕掛ける巨大な陰謀と抗争の足音が着々と聞こえてくる。

片岡は、刑務所を出た大友とかって大友の敵だった木村とを組ませ、山王会への恨みを梃子(てこ)に抗争を仕掛けさせる。木村はヤクザの世界から足を洗ってバッテイングセンターを経営していたが、山王会には恨みをもっていた。大友と木村は兄弟の杯を交わして山王会に立ち向かう。花菱会が後ろで協力する。そして血を血で洗う殺戮(さつりく)と報復の連鎖が始まる。

山王会の会長は見苦しく殺され、木村も木村組を立ち上げた矢先に綺麗に殺される。木村の葬儀にやってきた片岡は大友に、用心のためにピストルでも持っていた方がいいですよ、と拳銃を大友に渡す。拳銃を受け取った大友は、その拳銃で片岡を撃った。

ストーリーはこんなものだ。兎に角、出てくる奴はみんな殺されていく。

一緒に観た友人は、女が出てこなくてすっきりしたなあ、と言っていた。やっぱり映画は小津安二郎と北野武だ、とも言っていた。私には友人が考えている真相がわからない。

それで、私ですか? 私はどう感じたって、聞いているんですか? 

そうですね、「ソナチネ」を観た時ほど、興奮しなかったけど、バカヤロウ。脚本もよくできているように感じたけど、バカヤロウ。次回はもっともっと暴力的に興奮させてくれ、バカヤロウ。バカ、バカ、バカヤロウ。

2012年10月10日水曜日

PC遠隔操作で殺人予告

そんな馬鹿なことがあって堪(たま)るか、と思う。

第三者のPCを遠隔操作してネット上に無差別殺人予告をしたというニュースだ。コンピューターの知識は疎く、新聞をよく読んでやっと理解できたけれど、こんなことが現実に起こり得る、嫌な渡世だ。

これも世情の一つとして目を瞑(つむ)るわけにはいかない。20121008の朝日新聞の1面と31面の記事の一部をそのまま転載させてもらった。

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1面

ネットで無差別殺人予告

第三者PC遠隔操作

大阪市のホームページやインターネットの掲示板に無差別殺人などを予告する書き込みが7~9月にあり、威力業務妨害容疑で逮捕された2人が利用した個人パソコンがウイルスに感染し、遠隔操作できる状態だったことが警察当局への取材でわかった。何者かがウイルスを送り込み、書き込んだ可能性も出てきたため、2人は釈放された。

大阪・三重 逮捕の2人釈放

2人は大阪府吹田市のアニメ演出家・北村真咲(まさき)被告(43)=偽計業務妨害罪で起訴=と、津市白山町の無職の男性(28)。それぞれ大阪府警と三重県警に逮捕されたが、一貫して容疑を否認していた。警察庁は全国の警察本部に注意を促すとともに、このウイルスの情報を民間のウイルス対策ソフト開発者に提供した。

府警1課によると、大阪市のHPにある市民の声を募るコーナーに7月29日、「来週の日曜に大量殺人する。歩行者天国にトラックで突っ込んで無差別にひきまくる」などと書き込みがあった。同課は、ネット上の住所にあたる「IPアドレス」などの捜査から、アニメ演出家のパソコンが発信元と特定した。任意捜査の段階で遠隔操作の有無も調べたが、確認できなかったという。

一方、津市の男性は9月10日に、ネット掲示板「2ちゃんねる」に「伊勢神宮を爆破する」などと複数回書き込んだ疑いがもたれた。三重県警によると、IPアドレスが男性のパソコンと一致したという。

大阪府警は、演出家が起訴された後の9月中旬、三重県警と情報交換を開始。津市の男性のパソコンが新種ウイルスに感染し、遠隔操作で書き込める状態になっていたことが判明したという。府警は演出家のパソコンも同一のウイルスに感染していた痕跡を確認。しかし、ウイルスに感染させるファイルは消えていた。ファイルを自動削除する機能も備えていたという。

府警は何者かが演出家になりすまして書き込んだ疑いがあるとして、不正指令電磁的記録作成や同供用容疑で感染経路を調べる。

 

31面

ウイルスPC 乗っ取り

第三者遠隔操作 本人知らぬまま

ウイルス感染したPCが外部からの遠隔操作で動き、攻撃の中継点にされた可能性が高いとみる。こうしたPCは「踏み台」といわれ、犯罪グループなどが不正アクセスやサイバー攻撃を行う際、発信元を突き止められないように悪用する。

踏み台は、第三者にメールの読み書きやネット閲覧など「何でもされてしまう」が、PC所有者は普段通りに使え、見た目の変化もない。だが裏ではウイルスを送り込んだ第三者に「御用聞き」のように指示がないかを、頻繁に問い合わせているという。第三者側は、踏み台の画面が映し出された手元のPCで操作。その情報が踏み台に送られる仕組みだ。

こうした遠隔操作ソフトは、PC管理ソフトという触れ込みで中国語のサイトなどで売られ、踏み台に入っているソフトをウイルス化する機能まであるという。専門家でも感染に気づくのは難しい。メールの添付ファイルや、怪しいホームページにアクセスしないなどの自衛手段をとるしかない。

所有者が気づかないうちにPC遠隔操作するウイルスは「ボット:と呼ばれる。ボットを含め新たなウイルスは世界で1日12万~20万種類が作られるが、対策ソフトなどで駆逐できるのは、このうち1千~2千種類にとどまるといわれている。

TSOTSI ツォツィ

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2005年に映画化された原作・「ツォツィ」を読み終えた。

映画のことを知って、その原作を読みたくなった訳ではない。いつものようにこの本を古本屋で手に入れただけのことだ。今回は何とかオフとかの店ではなく何とか船と名のつく古本チェーン店だ。よって、105円ではなく税込みの100円だ。映画は、06年度のアカデミー賞の外国語映画賞受賞作品だ。

読み始めると、グングン、ドンドン映画を見ているような感覚にはまっていく、なるほどこれは劇作家による物語だと感心した。映画化したいと思った人は沢山いたのではないか。まるで戯曲を読んでいるようだ。

著者は、アソル・フガード Athol Fugard。

現役の最も偉大な劇作家の一人と称され、その戯曲は世界中で上演されている。南アフリカでは国民的作家だそうだ。私はお初にお目にかかった。

訳者は、金原瑞人(かねはらみずひと)と中田 香(かおり)。この本を一人では訳しきれないなあとも思った。

大江健三郎の短編集を読んだ後で、少しの間疲れていた。ようやく回復の兆しが出てきて古本屋に出向いた。それで、この本に出会った。

1990年、南アフリカはネルソン・マンデラを釈放し、翌年の1992年アパルトヘイト政策の廃止を宣言した。その20年後の2012年に、FIFAW杯(サッカー)南アフリカ大会が開かれた。

この物語の時代背景は南アフリカの1960年代。突然父は居なくなり、母は意味もなく警察に連行された、アパルトヘイトの時代だ。一人っきりになったツォツィは、同じような境遇の子供たちと野で暮らす。

そして、盗みや強姦、殺人強盗を繰り返す日々を過ごすようになる。ゴロツキの4人グループ、主人公ツォツィはこのグループの最年少でリーダー格だ。何時、何処で、何誰から生まれて、どのように育ったのか、過去を知らない。

このゴロツキたちは、金曜日の夜、電車の中で仕事帰りの男を取り囲んで、自転車のスポークを心臓に刺殺、給料袋を抜き取った。仲間の一人ボストンはこの行為に耐えられなく吐く。そのボストンがツォツィに、君は心に痛みを感じたことはないのか、と詰め寄る。その質問に答えるだけの用意のないツォツィは、訳もなくボストンを殴り倒す。

ボストンに対する憎悪は消え、後悔しながら、街を彷徨(さまよ)い、闇の中、立ち寄った木立の幹に背中をあずけてぼんやりしていると、見知らぬ女が近づいてきて赤ん坊の入った箱を押し付けられた。赤ん坊のために慌ててミルクを買い求める。

翌日、脅すか殺すかで金を得るいつもの仕事ににタウンシップに出かけた。仲間と外れたツォツィは、膝から下がない物乞いの男を襲うと決めた。この男は、坑道で崩れかかったときに梁で体の半分を壊してしまった。ところが、その男を追ううちに不思議な、今まで感じたことのない同情を感じるようになってしまう。

この24時間の間に、ボストンを殴り倒し、赤ん坊を押し付けられ、狙った物乞いに同情を感じるツォツィは、いままでのゴロツキの生活にはもう戻れないと感じ始める。赤ん坊にも同情を覚えた。

ゴロツキグループは解散したが、ボストンのことは気にかけていた。

赤ん坊を抱いていることに喜びを感じ出す。今までのような嫌悪感やいらだちは感じなくなっていた。くさい臭いやしわくちゃの醜い顔にも、泣き声にも幸せな気分で満足した。ツォツィのの近くに住む、子育て中の女性から赤ん坊にお乳をもらう。この女性から赤ん坊をくださいとせがまれるが、断わる。

ツォツィは、もぐり酒場で、血まみれになって気を失って寝転がっているボストンに会った。ボストンの傷ついて横たわる体を見て、膝から下がない物乞いに感じたのと同じように、同情を感じる。殴り倒したことに涙した。

かって、ボストンは前途有望な学生だったが、下校中、悪意のない行為だったのに、相手の女性から腑に落ちぬ批判を受け、放校処分になる。納得できないが、自らを責め続け、その後は過ちに対して、異様なまでの執着を見せるようになる。

糞尿まみれのボストンを自分の部屋のベッドまで担ぎ込んだ。目を覚ましたボストンにツォツィは話しかけた。先ずは赤ん坊のこと。物乞いにあわれみを感じたこと。まだ、あの草原で母が待っているかもしれないこと。

ボストンは、「生きることに俺らはうんざりしているんだ」、ツォツィの腕を掴んで「お前は変わったなあ」「変わることを恐れてはいけない、よくあることさ」と言う。

「どうしてなんだ、なんでこんなことになったんだ?」

ボストンは「俺は行かなきゃならないんだ、子供のころは、草原の草が驚くほど青々していた。だから、俺は行かなきゃならない」と、覚束ない足取りで出かけて行った。

ここから、私にはどうしても理解できない欧米特有のキリスト(神様)が出てくるのだ。物語だからしょうがないんだけれども、私には彼らの神様が理解できない。

終幕はちょっとせわしない。

赤ん坊を可愛がってくれた女性から取りあげ、自分の故郷ともいえる廃墟に隠した。

翌日その廃墟は解体工事が始まった。やめろ、という声も聞かずに赤ん坊を探しに廃墟に戻った、が、ツォツィは壊れた瓦礫に埋もれるようにして死んだ。

ゴロツキには似合わない笑みを浮かべていたそうだ。

2012年10月7日日曜日

マリノス VS サンフレッチェを観てきた

20121006、日産スタジアムで横浜F・マリノス VS サンフレッチェ広島を観てきた。

キックオフは14:00。

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3日前に次女から、Jリーグの横浜と広島の試合を観に行かないか、主人が仕事で行けなくなったので、息子と一緒にどうだ?と打診があった。息子・晴が行きたがっているので、できたら付き合って欲しいとのことだった。私は、不覚にも仕事の都合も確認しないうちにオッケーサインを出してしまった。Jリーグのサッカー観戦が久しぶりなので、猛烈に観たいと思った。

横浜F・マリノスクラブの創設20年特別企画で、横浜市立小学校に通う小学生をホーム自由席に親子ペアで招待するという企画に次女が応募して、目出度く当選したのだ。

午前中は会社で仕事をこなして、次女がジジイの私とと孫をスタジアムまで車で送ってくれた。

スコアーは前後半0-0の引き分け。首位広島は勝ち点1を上積みした。絶体絶命のピンチは76分、横浜・小野裕二のドリブルに広島・ミキッチが反則して、横浜はPKを得た。が、19歳小野の蹴ったボールはゴールのはるか上を越えた。広島にラッキーだったのは、キックの名手中村俊が退いていたことだ。マルキーニョスは2試合出場停止中だった。ベンチからは、兵働に蹴るようにと指示がでていたようだが、自分が仕掛けて得たPKなので、小野は自分でどうしても蹴りたかったようだ。

この反則について主審に異議がある。ペナルティエリア内でのミキッチのプレーは、きちんとボールにアタックしていた。私は当然、目のいい孫も確認していた。広島陣営からもっと激しい抗議があっても不思議ではなかった。皆の目にはどのように映ったのだろうか、聞いてみたいもんだ。

私の経験では、このようにビッグチャンスを逃した方が負けることが多いが、この日の横浜はよく踏ん張ったと思う。

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ここからがこの試合を観戦した感想だ。

最近は次回のブラジルW杯の予選などで、日本のA代表の試合ばかり観てきたので、Jリーグの試合が物足りなくなってしまった。中村俊輔は確かにボール扱いは上手いが、それがどうした?攻撃しないと勝てないんだよ、と怒鳴りたくなる衝動を覚えた。こんな選手を大事に使っているようでは、横浜が上位まで上がるのは無理だろう。佐藤寿人も確かにゴール前、ペナルティ付近では非凡な動きを見せていたが、アカン、アカン、この程度ではA代表に呼ばれそうにもない。

選手の名前は知らないので具体的な説明ができないのだが、トップ下の3人の違いが、私には興味深かった。横浜はボールを器用にグルグル回すのだが、広島に比べて強引さが足りない。広島は、強引にボールを回し、相手を前にドリブルで突破を狙っていた。この強引さこそ大事なのだ。強引に抜く、強引に接触する、強引に無理なスルーパスをする、そんな時こそチャンスが生まれる。

勝点54で広島が首位、横浜F・マリノスとFC東京は勝点40で同じ、順位は9位と10位だ。首位と9位とがこの程度のどんぐり試合をしているようでは、アカン。首位は首位らしく、チャレンジする方はチャレンジャーらしく、戦ってもらいたいもんだ。

サッカーの知らない人には、それなりの感心をさせられるだろうが、ちょっとでもサッカーの魅力を理解している人にとっては、実に退屈な試合だった。前の席の中年の夫婦らしき男女も、隣の若い男女も、わけもなく横浜に声援を送っていて、調子外れ。悲しいよ、サッカー文化が未成熟? 試合内容の出来不出来は、孫の表情に如実に表れていた。

この試合では、PKが決められなかったこともあるが、決める時に決められないようでは、幸運の女神も尻尾「シッポ」を振って逃げていく。そして、試合はつまらないものになる。

康介さんの後に続きたい

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競泳少年男子A200メートル平泳ぎ決勝で、世界新記録を出した山口観弘=細川卓撮影

 

先のロンドン五輪で日本の競泳陣は、銀3銅8個のメダルを獲得した。目標だった金メダルは獲れなかったが、テレビの画面に連日、何とも爽やかに、溌溂とした面々が映しだされる度に、我輩までも気分好くさせてもらった。

リレー以外は個人競技なのに、日本チームのチームワークの良さは今回の五輪は格別だったようだ。テレビの画面からも十分観て取れた。一緒に練習した成果なのだろう。

そんな五輪がロンドンで華やかに行われ、終わった。メダリストはそれぞれに由緒ある箇所箇所でその栄誉を称えられ、大忙しだ。その繁忙の中、練習不足にもかかわらず、ロンドン五輪に次いで、20120928,女子レスリング世界大会55キロ級の吉田沙保里(29)は10連覇を遂げた。五輪の3連覇を合わせて13大会連続世界一を記録した。

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吉田沙保里

吉田の快挙の2週間前、大忙しのメダリストをよそ目に俄然気を吐いたのが、五輪出場の選考にもれた高校生スイーマー平泳ぎの山口観弘(志布志高校3年)だ。20120915の国民体育大会「ぎふ清流国体」で、競泳少年男子A200メートル平泳ぎで2分7秒01の世界新記録を打ち立てたのだ。前人未到の2分6秒台に迫る勢いだ。

4月の五輪選考会で派遣標準記録を破りながら、3位で代表に選ばれなかった。選ばれたのは、北島康介(日本コカ・コーラ)、立石諒(慶応大・NECグリーン)の2人で、選ばれなかったことが、発奮材料になったようだ。

以下20120916の朝日・スポーツの記事をダイジェストさせてもらった。

山口の最大の強みは、手のかきとキックのバランスのよさだ。五輪競泳日本代表ヘッドコーチで東京スイミングセンターの平井伯昌コーチは「北島が四輪駆動の自動車だとしたら、山口はリニアモーターカー。減速しない」と言う。

ストローク数が多くなってもタイミングが崩れないので、4泳法で水の抵抗を一番受ける平泳ぎでありがちな「がんばっているのに進まない」という失敗がない。水中で流線型の姿勢を取った時、頭が両腕から上にはみ出て減速する課題も、この日はきちんと頭を両腕にはさみ、手先から足先まできれいな一直線になっていた。

終盤までスピードを保つ体力もある。北島は体力温存のためにストローク数を減らし、一度に大きく伸びる泳ぎだったが、山口は最後までテンポを落とさず押しきれる。

スタートやターンの細かい技術に取り組んだわけではなく、筋力もまだ強くはない。

変身のきっかけは、平井コーチとの出会いだ。地元クラブの勧めで昨冬から東京での練習に参加。一緒に練習していた五輪組の姿勢にも強い刺激を受けた。

来春からは、平井コーチが指導することになった東洋大に進み、4年後の五輪を目指す。楽しみな選手だ。

「康介(北島)さんの後に続けるような選手になる。タイムの目標は5秒台です」。

2012年10月4日木曜日

紫蘇焼酎の旬は終わった

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先週の水曜日、山田農園で農作業の帰り際、農園の隅っこに残っていた紫蘇を鷲掴みにして持ち帰った。紫蘇の濃縮ジュースを作って、安物の焼酎を割って飲むためだ。今夏、覚えた貧乏人の生活の知恵だ。

だが、この時期の紫蘇からは今までのような豊かなジュースは作れなかった。採取した紫蘇は豊潤な夏物のとは違って、干乾びていた。農園主は、どうかねえと、期待していなかったようだが、負けん気の強い私は、実からも、今までとは異なる味わいが楽しめるんではないかと、素直じゃなかった。

でも、結果は悲しいものだった。味が薄く、パサパサ、ピシッとこない。農園主はメールで確認してきたが、やはり、貴方の言う通りだったと報告した。

どんな時も、こんなことぐらいでくたばる私ではない。

安物の焼酎があって、それを唯のお湯割で飲むことに、もう私は満足できなくなってしまっていた。美味いものを知ってしまった後遺症か。

考えた。

台所の食料棚を見渡してそこらにあるものを、焼酎割りに使えないかと試みてみた。

先ずはトロロ昆布だ。

昆布を酢に漬けて軟らかくしたものを薄く削ったものだ。これを焼酎のお湯割りに入れてみた。樽貯蔵酒を3%も加えているとのサントリー酒類株式会社の意気込みは解るけれど、でもやっぱり、ただの焼酎甲類だ。それでも磯の香りとミネラル?が加わって味わいは悪くなかった。2杯飲んだ。鱶鰭(ふかひれ)酒が懐かしいと、頭の隅っこを過(よ)ぎった。

次は「あおさ」だ。

潮の満ち引きのある浅い海の岩などに生えている、あの→あおさだ。弊社の経営責任者の中さんから、うちではお好み焼きなどに使うのに、青海苔は高いのであおさを使っているんですよと聞かされていたので、我が家も同じように鞍替えした。私の手元にあるあおさの入っている袋には、えび、かにの生息する海域で採取したものだと強調している。あおさには、何処にでも生えているという安っぽいイメージが付きまとっているのだろうか。これも、いける。2杯、満杯で飲んだ。

此の夜5杯目の焼酎のお湯割りに入れるのは、「野沢菜わかめ」だ。

これは先日、大学のかって40余年前の同窓生と東日本大震災の被災地を巡ってきた時にドライブインで、友人が私のために買ってくれたものだ。私が彼の新妻に喜多方ラーメンを買ったお返しだった。ご飯にふりかけたり、お握りに入れたり、チャーハンの具などにご利用ください、高原の新鮮な空気と清らかな水に育てられた野沢菜、ミネラルの海に育ったわかめを原料にしましたと説明書にあった。野沢菜もわかめも少し硬そうだったので、お湯は熱くして、少し時間をおいてから飲んだ。3杯飲んだ。これも悪くはない。

文字通りの酔興な人間になってしまったようだ。

こんな具合にして、今夜は凌(しの)げたが、明日の夜はどうしようか?

2012年10月3日水曜日

登山家・芳野満彦氏

愛用した小さな靴や登山装備

愛用していた靴や登山装備

 

会社の私の椅子の後ろにあるホワイトボードの下隅に、小さな新聞記事のスクラップを磁石でおさえておいた。ホワイトボードを見る度に気づいてはいたが、手にとって再読することはなかった。登山家・芳野満彦氏の追悼の意を込めた評伝だ。いつかじっくり、この登山家で画家でもあった同氏の詳細を確認しようと思いながら、ほっぽらかしたままだった。

いつもなら、新聞名とその記事の日付を、切り取った記事に添えておくのだが、それがなかった。筆者は編集委員・工藤憲男氏とあって、この名前から日経新聞の記事だと解った。この新聞記事を下の方で、記事そのままを転載させてもらった。

内容は、彼の紹介を『青春求めた「五文足」』のタイトルで著したものだ。この記事を読んで、初めてこの登山家のことを知ったのだが、此の記事を読んでしまったら、只では済まされないと血が騒ぐ。

そして、今、新田次郎が芳野氏を主人公にした「栄光の岩壁」を読んでいる。この本の読後感想を後日ブログしたいと思っている。

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以下記事のまま。

学生時代に山の本に夢中になって読んだ中で、新田次郎の「栄光の岸壁」が一番心に残る。主人公の竹井岳彦が、八ヶ岳で遭難し凍傷で両足先の大半を失い12センチの足になる。ふつうの人間なら松葉づえか義足でないと一生歩けないと言われた障害を負ったが主人公は鴨居に帯ひもをぶら下げ、腕の力だけで起き上がることから訓練を始める。その度に足から血が噴きだしたが、この不屈のクライマーは冬期の国内の初登攀(とうはん)記録を次々と打ち立て、やがて日本人初のマッターホルン北壁登頂も果たし、伝説のクライマーとなる。

栄光の岸壁のモデルとして芳野満彦さんは新田次郎の家に通い、泊りがけで取材に応じた。「しつこかったねえ。その執念はすごかった」というが、新田こそ芳野さんの生きざまに圧倒され、それを上回る意気込みを見せようとしたのだろう。

芳野さんの、大胆なタッチの山岳画展では、入り口に小さな登山靴が置いてある。子供の靴といってもいいほどのかわいいものだ。”五文足”のアルピニストといわれた。超人的な山男が、この小さな靴で世界中の山々を駆け巡ってきたと思うと、胸を締め付けられるものがあった。

晩年の芳野さんは酒を愛し、子供の頃から大好きだった大相撲の世界を語るのを楽しんでいた。無為自然の画人として絵筆をとり、山と対話しながら大作に挑んだ。2度、八ヶ岳美術館で絵画展を行ったが、若き日に遭難し、岳友を亡くした鎮魂の思いもあったろう。

1959年に27歳で出版した「山靴の音」は、多くの登山家に読み継がれている。厳冬期、半年も社会と隔絶された山小屋・徳沢園での孤独な生活が、山に生きる芳野さんの精神を鍛えていった。「山がそこにあるからではなくて、やっぱり山には何かがあるのだと思う」。いくつになっても芳野さんには「山には青春のにおいがした」のである。

ニッポン柔道の落日

 

夏は終わって、それでも暑秋はしぶとい。初老の我が身には堪(こた)える。

それでも、20121001は台風一過、ここにきて朝夕に涼しい風が吹き始めた。

あれよあれよと言っているうちに、2012年のロンドンオリンピックとパラりンピックは終わって、2ヶ月が過ぎた。感動を受けた事柄をまとめようと思っていたが、光陰は矢のように過ぎていくばかり、纏めておいたスクラップはごちゃごちゃ、整理せずに袋にごそっと入れたまま。

開幕式から閉会式まで、内容はその多彩さに息をつく暇もなかった。そして、今、オリンピックの受賞者は、行く先々で歓迎されている。

だが、男子柔道の面々は、その歓迎の渦の中にはいない。1964年東京オリンピックで競技種目に柔道が採用されてから、金メダルゼロは初めてだ。

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20120925の朝日新聞・朝刊の耕論(オピニオン) ”ニッポン柔道の落日”のなかで、かって女三四郎といわれた現在筑波大大学院体育系准教授の山口 香さんとノンフィクションライターの柳澤 健(たけし)さんが、今後の日本柔道復活にはどのようにすれば、再び世界の頂点に立つことができるのか、記者とのやりとりを文章にしたものが掲載されていた。なかなか、内容が面白かった。

山口氏は現役当時、細身でその技の切れは今風の表現ならスマートだった。女性柔道家のパイオニアだ。氏は一本にこだわれと主張している。体力で劣る外国人に勝つには一本を取る技術を持つ選手を戦略的、計画的に育成すること、技をプラスアルファするために体幹を徹底的に鍛えることが必要だと述べる。

ノンフィクションライターの柳澤 健氏の話は、私が初めて知る柔道の歴史のことを語っていたので、これはマイファイルさせてもらおうと思いついた。聞き手は太田啓之さんだ。きっと朝日新聞の記者だろう。

 

国際大会で戦う日本の選手はかわいそうです。海外の選手はルール内であれば何をやってもいい。スポーツである以上、当然です。だが、日本の選手はルールに加え、講道館が唱える「正しい柔道」にも従わなければならない。

正しい柔道とは、襟と袖をきちんと持ち、投げ技を掛け合うというものです。海外選手が変形の組み手を考案したり、他の格闘技の技術を取り入れたりする一方、日本は講道館柔道の宗教にも似た硬直した思想に呪縛されている。これでは勝てるわけがありません。

本来、講道館は柔道の一流派であり、茶道や華道の家元のような私的組織に過ぎません。だが、現代の日本では、段位を講道館が独占しているため、「柔道イコール講道館」になっている。日本の柔道家のすべてが弘道館の身内であるために、外部から相対化し、批判する人がいないこと。それが、日本柔道の最大の問題です。

戦前の柔道界には、大きく分けて三つの勢力がありました。

東日本には講道館。西日本には武道の振興を目的とする大日本武徳会と、もうひとつ旧制高校の学生らによる高専柔道がありました。

 

寝技の器量に差

 

武徳会や高専柔道と、講道館との最も大きな違いは、寝技への姿勢です。講道館は寝技を軽視して、寝技にいくと「卑怯だぞ」と罵倒されることさえありました。一方、高専柔道は寝技に特化したことで、柔道を始めて2年程度の学生たちが、警視庁や武徳会の代表を圧倒するほどの技量を身につけました。華麗な投げ技は確かに魅力的ですが、勝つには寝技の技術が必要なのです。武徳会もそれに気づき、立ち技と寝技の両方に力を入れるようになりました。

戦後、大日本武徳会は皇国思想の温床として連合国軍総司令部(GHQ)から解散を命じられ、高専柔道も旧制高校と共に失われました。唯一残った講道館は、いわば「棚ぼた」的に柔道界を独占します。以後、日本の寝技の技術は徐々に失われていきます。

皮肉なことに、ブラジルには明治時代ごろ日本から伝わった寝技の技術が「ブラジリアン柔術」として今も進化し続けている。2008年世界団体選手権では、ブラジリアン柔術の出身のフラビオ・カントが、日本最高の寝技の使い手、加藤博剛に完勝しました。

ロシアはロンドン五輪で男子柔道で三つの金メダルを獲得しています。ベースはレスリングとサンボの技術です。敵を知らなくては勝てません。まともな指導者ならば、日本選手をロシアやブラジルに長期遠征させるはずです。しかし、「外国の柔道は間違っている。講道館柔道だけが正しい」という思想に染まった日本柔道界には、そんな発想はありません。

 

アマレスが好例

 

柔道と対照的なのが、日本のアマチュアレスリングです。元柔道家の故・八田一朗に率いられた日本レスリングは、柔道に比べ競技人口が極端に少ないにもかかわらず、64年東京五輪で金メダル5個を獲得した。足の短い日本選手に適した低く速いタックルに特化したことが最大の原因です。そこには「正しいレスリング」などという思い込みはなく、勝つことに徹した合理性だけがありました。ロンドン五輪では女子が3個の金メダルを取ったのも、現日本レスリング協会会長の福田富昭氏が80年代から女子の育成に乗り出していたという先見の明が大きい。

一つのスポーツが広がるには八田や福田氏のような「傑出した個人の力」が鍵を握ります。柔道の普及も、講道館の創始者である嘉納治五郎を抜きにしては考えられません。だが、その後の日本柔道界は嘉納と講道館を神格化するばかりで、優れたリーダーを育てられませんでした。学校現場で続発する死亡事故にも有効な対策を打てず、国内の競技人口は減る一方。日本の柔道人口約20万人に対して、フランスは約60万人です。

危機を打開するには、「講道館」という思想から自由になるしかありません。全日本柔道連盟は講道館との一体化を改め、柔道界の外部から、例えば福田氏のような有能なリーダーを招く。そして「正しくない」と思っていた海外の柔道から学ぶ勇気を持つことです。実現は極めて難しいでしょうけど。