2015年9月15日火曜日

外人にも、お叱りが必要?

他人様に声をだしてまで話せないちい~ちゃなこと。ネズミの心臓?猫の屁のようなものだ。先月8月3日の昼ごろ、JR横須賀線に乗っていた時のことだ。

外人夫婦とその夫婦の子供と思われる小さな男の子と女の子、彼らの激しい言葉のやり取りとやんちゃな行為を止めてくれるように、英語で細やかなお願いをした!!これには根性がいった。

横須賀駅からの上り、東逗子駅までのことだ。何十年か前のように、鬼畜米英!糞!垂れ!!なんて、酷(ひど)い言葉で罵るつもりはない。私は、日本人らしい、厳(おごそ)かで優美な言(こと)の葉(は)で表現したい、と思って、チョコチョコ。

2つの車両は静かな人ばっかりだったが、衣笠駅で乗っかってきた当のグループは後ろの車両の隅っこに、私は前の方の車両の一番の隅っこ、彼らとは一番遠い場所に座ったことになる。太宰治さんの短編の娯楽本を読んでいた。彼の本を長閑に読むときほど、幸せを感じることはない。ところが、そんなに幸せだった私の澄んだ頭に、カチ~ん、ツ~ン カチ~ンと詰まらぬものが入り込み、幸せが何処かにすっ飛び、悲しい事態を生むのではないか、と、、、、、、

私の働いていた場所は、横須賀駅のもう1駅久里浜駅寄りの衣笠駅から歩いて40分のところにある、弊社の社有物件。その中古住宅の庭から生えた草刈りを終えての帰りのことだ。暑い太陽光線に射され、全身の筋肉はフラフラ、精神はそれ以上にくたばっていた。建物は古風で山村風、商品としては申し分なし。

客の気分をシッチャかメッチャカにさせる、彼達の行為を気にしている人が増えてきた。戦勝国なんだから、外人のいい加減な言辞や行為は、いいじゃんか!と諦めることはできない。そこで、私にできることは、拙(つたな)い英語でも遣り繰りして、おしゃべりを避けてもらうか、声を小さくしてもらうことだ。そんなことを主張する日本人だって、マルマル皆が行儀の良い人ばかりでないことは、十分承知している心算なんだが、昨今は気の利く大人が多く、むやみやたらな子育ては少ない。

one do”es talk in a lound voice in a compartment.(私流には、車室のなかでは大きな声で、喋るもんじゃ、ネエー、なんだけど?どうかな?)。

もう一つ、外人に言いたいことがあるんだけれど、今日は、ここまで。

2015年9月11日金曜日

どん底

(パンフレットの表現をそのまま利用させていただいた。)

  

「われらは、ひとしく恐怖欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利する

 

時代を超え、国境を越え

人間の願いをのせ

くりかえし、くりかえし上演されてきた

ことばといのちあふれる”名作”に

アンサンブルが挑む

 

「そこには、死がある、恋がある、縊死がある、温情、かっとう、嫉妬、猜忌(さいき)、奸策、あらゆる人生の要素がアリーーー(岩波文庫 解説より)」

 

20世紀初頭、ロシアでは、何千万人もの人々が餓死線上をさまよい、農民は都市へ流れ込み、あふれる失業者は、貧民窟へ落ち込んでいった。泥棒、売春婦、イカサマ師、「元」役者、「元」貴族、「元」職人、汚辱の日々から逃れられない男と女ーーーー。抜け出す術を持たない「夜の宿」の住人の前に、ある日、流浪人ルカが現れる。自身の尊厳を知らぬ住人たちにルカが持ち込んだのは、希望か、はたまた絶望かーーーー?

人間とは何か?人間らしいとはどういうことか?

踏みにじられ辱められた人々のあふれることばが通して見える、「人権」発見の黎明期、革命の予感。

いま、「人権は停止できる」と発言する首相を持つ国に生き、戦後最悪の暴挙がまかり通る土壌に生きる私たちは、問いかけられているーーーことばといのちについて。人間の尊厳について。

 

観劇日は20150910、公演は19:00~

「どん底」を公演する「東京演劇アンサンブル」とは、大学時代から親しくしてもらっている。15年ほど前に、この劇団の大部分を改造しなければならないことが発生して、私が社長をしていた会社も些少の寄付をさせてもらった。その際、劇団代表者の胸算用???か 、ヤマオカさんには、今後のお芝居の入館料をいただかないようにします、、、、。こうりゃ、私にとっても有難い算用だった。こんなに親しくさせてもらったのは、この劇団の社長さんと仲のいい脚本家が居て、その脚本家が私をすごく可愛がってくれたことから、始まっている。脚本家さんとのことは、20日あっても30日あっても済まされない。原稿用紙にしたら書き終えるまでに、半年はかかりそう。

話は少し変わりますが、この劇団の社長の奥さんと私の義母(妻の母)、北朝鮮に拉致された娘さんの母、元自民党幹事長の野中広務の妻が、京都にある旧制の女学校の同窓生だということも知った。

50年前、この類の小説をシッチャかメッチャカ、読み漁っていた。太宰治 織田作之助 坂口安吾 田中英光 壇一雄 ドストエフスキー トルストイ チェーホル 高見順の本に出てくる出場者は苦しくて、悲しくて、それでも簡単にはくたばらない、そんな主人公と私との共感に心が奪われた。

本日、この芝居を一緒に観にいこうと言ってくれたのは、私と劇団の社長、脚本家と付き合いの好い四羽の音? マサだ。今や、ソニーの下請けをメインに羽振りの良さを見せている。私の愛すべき友人の一人。昨年の私が受けた作業中の事故についても、よくぞそこまでと、感極まるほど心配してくれた。

 

作……M・ゴーリキイ

訳……神西清    演出……三由寛子    音楽……池辺晋一郎    装置……三木元太   照明……真壁知恵子

       

効果……大場神   衣裳協力……竹内陽子    宣伝美術……本多敬    舞台監督……三木元太    効果オペレーター…篠原祐哉

制作……小森明子・太田昭・辻尾隆子    制作チーム……TEE運営委員会    演出助手 ……奈須弘子・永濱渉

舞台監督助手……入江龍太・雨宮大夢・大橋隆一郎

 

ブレヒトの芝居小屋(西武新宿線 武蔵関)

東京演劇アンサンブル 東京都練馬区関町4-35-17  03-3920-4433  

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以下はインターネットで得た文章です。       

執筆当時のロシア社会の貧困層が描かれ、木賃宿を舞台に住人達の物語が展開される。本作には筋がなく、主人公もいない。アントン・チェーホフからの影響が指摘される。

ゴーリキーの戯曲は知識階級を描いた作品が多いが、本作はゴーリキーの物書きとしての初期作品に見られるルンペンプロレタリアーが描かれている。しかし、ゴーリキーの特色たるロマンティシズムの面影はほとんどなく、実写主義が全体を貫いている。本作はゴーリキーのルンペン時代を葬る挽歌、訣別の辞として知られている。

 

あらすじ

コストゥイリョフの妻ワシリーサは、夫から自由になることを画策する。ワシリーサは情夫ペーペルが、彼女の実妹ナターシャに惚れていることに目をつける。ナターシャは姉夫婦の家に居候していて、虐待を受けていた。夫を殺害すれば、妹と結婚させ300ルーブリを提供しようと申し出る。ナターシャは結婚することで虐待から逃れられることができ、ペーペル自身もコストゥイリョフに2度も牢屋に送られた仕返しをでき、ワシリーサは夫と別れることができ、皆が幸福になるという。ペーペルはワシリーサの誘惑にのり、コストゥイリョフを殺害する。ところが、ワシリーサはペーペルが殺したと訴える。騙されたと知ったペーペルはワシリーサを道連れにしようとし、ワシリーサから計画を持ち込まれたことをしゃべる。そうしてナターシャは姉と自分の夫となる人が、共謀して義兄を殺害したことを悟り、ワシリーサ、ペーペル、そして自分を牢屋に入れてくれと訴える。

ペーペルとワシリーサは捕まり裁判にかけられ、ナターシャは病院から失踪してしまう。彼女たちの叔父のメドヴェージェフは警察を首になっていた。犯罪を犯さないものも、貧困という牢獄から抜け出すことを夢見ながらも、抜け出せない。誰一人幸福になることがなく、どん底にいる市民たちは、歌と酒だけを娯楽に日々の生活を送っていく。