2006年12月29日金曜日

「いのちがけでかく」教えた先生 灰谷 健次郎

「いのちがけでかく」教えた先生  灰谷 健次郎   

立派な人が次から次と逝去される。朝日新聞の「惜別」では、亡くなった方々の、お人柄や業績、諸々を紹介している。どの人の場合にも、感心させられる内容なのだが、私にとって、今回はちょっと気分よくさせてもらったので、記事にめぐり合わなかった人に、読んでもらいたい、と思ってキーボードを叩いています。筆者の大野博人さんは、朝日新聞社の記者の方だと、思い込んでいいのかな。その紹介はなかったので、勝手に思い込んでしまうことにしましょう。小学生だった大野さんが、作家になる前の先生・灰谷 健次郎さんとの(てがみ)を通しての交流を著していた。読者を、楽しく、微笑ましくさせる文章作法で。灰谷先生との邂逅が、記者・大野さんの人格形成に大なる影響を与えたことなのでしょうね。灰谷先生は、教師を辞めて、作家活動に入る。一方の大野さんは、勉学を重ねて、新聞社に入社。モノの考え方、文章の綴り方で、恩師からの教えの通りに精を出して、その仕事の一部が今回の記事なのでしょう。

私のような者が言うまでもないが、灰谷 健次郎さんは天国で、大野さんの記事のできばえをさぞかし、満足されているのではないでしょうか。こんな、偉そうなこと、書いて、失礼しました。もう、仕方ないことだけど、私も、あなたたちの中に、飛び入りたかった。

2006年12月25日 朝日(夕)

惜別  灰谷 健次郎さん   

1冊の古い便箋が手元に残っている。ぼろぼろの表紙には「ひろひとちゃんと先生のてがみ」とユーモラス文字。書いたのは灰谷先生だ。45年前の神戸市立東灘小学校で、ぼくら2年2組の担任だった。便箋に、友達と遊んだ話や詩をたどたどしい文でつづると赤ペンで返事をくれる。先生はクラスのみんなとそんなやりとりをしていた。 面白い表現があると「きょうまでのてがみのなかでいちばんよかった。さいこうやな」とほめる。でも、いい加減な文章には「こんな詩あかんワ。自分をふりかえってみることができるのがつづりかたや。そやないと、ちょっとあたまのええ、もんくのよういうふつうのにんげんになってしまうぞ」。で、「ごめんなさい」と書くと、「いいたいことがあったら、なんでそのことを紙いっぱいにかかへんのや。先生ごめん、なんてあやまるのはかしこいのとちごうて、ずるいのや」。それに反発すると「おこってるときのほうがよっぽどええわ。おまえがわかるまでなんぼでもけんかしたるぜ」

「絵や詩は、先生にいわしたらいのちがけでかくもんや。ひろひとみたいなやりかたでかかれたら、先生までばかにされたような気がするわ」。

二十代。まだ作家として世に出てはいなかったが、表現することの切実さを幼い子供にも懸命に伝えようとしていた。授業でも本気で向き合うから、子供達には圧倒的な人気があった。

大好きな先生とも別れる学期末。「てがみ」のおしまいに先生はこう書いた。

「むかしの中国の詩人が、さよならだけが人生だ、とかいている。にんげんはいきているあいだ、なんかいもしたしい人とさよならをせなあかん。さびしいこっちゃ。でも、それがにんげんのべんきょうのみちや。まあ、そんないみやな」

「サイナラ。また、あそびにこいな」

あそびにいきたいよ、せんせい。  

2006年12月27日水曜日

その個性を壊すな、自然のままが一番。

その個性を壊すな、自然のままが一番。   

 

世界に通用する次代の科学者を育てようと開かれている、高校生の科学技術コンテスト「ジャパン・サイエンス&エンジニアリング・チャレンジ」(朝日新聞社主催、内閣府、文部科学省、農林水産省、経済産業省ほか後援)の最終審査の結果、科学技術振興機構賞を受賞した山口県立厚狭高校2年生の3人組(阿部美弥子さん、井上真理子さん、植田奈津美さん)の研究成果を紹介している記事を見つけた。他にもいろいろな研究の成果の紹介はあったのですが、科学に弱い私には、この山口県の3人組の研究の記事しか関心が湧かなかったし、他の賞には理解できなかった。

 

 

「善意のメダカ放流」警告、

のタイトルを見て、わが意を得た思いで、ニタットとしてしまった。

内容は、私が考えていたことと、随分違うのだけれども、川のメダカの生態をよくも、こんなに気を揉んでいてくれて、よくもこんなに科学的に調査して、何気なく行われてきたメダカの放流に警告を発した。川を、水中に棲む魚や虫たちのことを、常に気に留めている私には、彼女たち3人の行為が嬉しいのです、感謝しているのです。彼女たち3人組の研究の成果は後のほうで新聞記事を転載したので、その項で確認してください。いく種類もいるメダカのそれぞれの個体としての保存が必要なのでは、という問題提起である。

 

 

以前(2006年9月29日 金)に、この私のブログで、川に放流された鯉が異常に大きくなって群遊、大きな口を広げて小魚、虫を、あたかも鯨のように、何もかも漁ってしまう。一網打尽。平和だった頃の川は、農薬などは流れ込んではこなかったし、両岸には草が繁茂していて、陸(土)の世界と水の世界が一つになって、交流しながら調和がとれていた。

その大きい鯉を間引くことで、水中の世界を自然な状態に戻したい、と思ったのです。

この考え、間違っていますか? 間違っているとお思いの方はどうぞ、お知らせください、納得できれば、いつでも主義主張を換えられます。

メダカや鮒、タニシやヤゴ、小魚、虫が大きな鯉に食われたくないのです。

善意の方が、善意で、何かいいことでもするように、鯉を放流したのでしょう。これは、大きな勘違い、大きな間違いです。

私には科学的な思索ができないので、誰か、私が危惧する問題を科学的に証明して欲しいのです。

 

 

2006年12月23日 朝日

科学技術振興機構賞   

 

「善意のメダカ放流」警告     山口県立厚狭高校(2年)

動物園の協力で、サギなどの鳥に野生メダカとヒメダカを食べ比べさせてみた。よく目立つヒメダカの方が、圧倒的に食べられやすかった。彼らが自然界で生き残れない理由がよくわかった。

遺伝子汚染を調べるきっかけは、ある新聞記事だ。学校近くを流れる川に、毎年、大量のヒメダカが放流されていることを伝えていた。ヒメダカは、川ごとに遺伝的な特徴を保って生きながらえてきた生き物。「その個性を消すようなことをやっていいのかしら」

ヒメダカ由来の遺伝子検出の有効な方法が今のところ見つからず、野外の固体にヒメダカを交雑させる方法で検定に取り込む。大量放流された川にヒメダカの痕跡がないのに、放流の記録の無い川に交雑固体が確認される、といった不思議な現象もあり、まだ解決すべき問題が多い。大陸産のメダカが交じっていると疑われる川もある。

放流は、ほとんどの場合が善意から行われるので、やっかいだ。「それでも、訴えるべきことはちゃんと訴えたい」と阿部さん。

 

 

「メダカの遺伝子汚染」

広く飼育されているヒメダカは、生物学的に野生のメダカと同じ種で、自由に交雑する。ヒメダカ放流が、野生集団にどう影響するのか、野外調査や各種実験、遺伝子レベルでの比較による検証を続けている。

2006年12月23日土曜日

悪風なびく今こそ、弊社のチャンスだ

マンション販売 首都圏で8万戸割れは8年ぶり

 売り惜しみが加速      

 

不動産研究所は今月14日に、首都・東京圏(東京、神奈川、埼玉、千葉)で06年中に発売される新築マンションが前年比15%減の7万2000戸程度にとどまる見通しになったと発表された。

売値が、地価上昇、建築費アップによる影響を受けることは必至だ。その売値をめぐって、我々業界は今、販促活動は休眠状態にある。それはお互いに他社の動きを牽制し合っていると言うほど激しいものでなく、静かに相手の動向を窺がっている、と言ったほうがいいだろう。

最近の地価の上昇は顕著、弊社のモノサシではどうしても事業化を断念せざるを得ない案件でも、大手デベロッパーは仕入れて事業化を目論んでいる。土地取得については、大手さんは非常に派手です。私は、ホンマに大丈夫かヨ、と懸念している。

どこかの会社が高値で売り出して、その高値に追随して「お客さん、土地は高くなったし、工事費も高くなったので、しょうがないでしょ」と言いたいのだろう、か。その節目でちゃっかり余分に儲けよう、との魂胆が垣間見える。そんな状態が、結果的に、売り惜しんでいると、言われている理由です。

そのように、欲ぼけした売値を、我々業界人は「新価額」といって、「あそこにある物件の新価額は幾ら?で売りにでるのでしょう」なんて、話し合っているのです。

弊社には、07年秋に完成予定で進んでいるプロジェクトがある。

パラジスハウス 伊勢原・桜台タワーです。

小田急線 伊勢原駅徒歩10分 32戸 2タワー 全室角部屋 各室2面採光が特色

ここで弊社の営業をかけようとするのが、このブログの主旨ではない。

弊社は、売り惜しみ状態を利用?して、新価額で利益を上げようとする風潮とは一線を画して、独自の戦略を立てなさいと指示している。

従来通り、普通通りで、いい。

できる限り、品質を高め、経費を削減、他社よりも手ごろな価額で買ってもらえるようする。この悪風なびく今こそ、事業拡大可能なチャンスとみた。

私の07の初夢は、新価額で売り悩む会社を尻目に、弊社の売り出し現場はヤイノやいのの大賑わい、お客さんに大いに喜ばれて、~そんなようになりそう。

07には大きく飛躍するぞ。

 

 

 

2006年12月22日金曜日

「超一流」の言葉の繊細さ

私の感性は、もはや超一流のアスリート並みに達してきている?のかな。今回、松坂大輔のレッドソックス入団発表の記者会見での彼のコメントは、私も、大いに聞き耳を立てた。テレビの前で釘づけになった。さすが、松坂なら、やっぱり、このようにコメントするのだろうなと感じた。結果はどうなるか、解らないけれど、自信満々の表情から、当然の言辞だ。満を持しての登場。私まで、マウンドに登りたいと、興奮した。

それから、松井秀喜のコメントだ。このコメントも、スポーツ紙で読んだその時、彼ならば、そのように発言するだろう、と思った。

じとっと、彼の心境を理解できた。

そんなことが、新聞社の記者には、ネタになるのだ。文章を綴れる能力を持っている人が羨ましい!!わ

「超一流」の言葉の繊細さ 

2006 12 19 朝日より

アスリートの発する言葉の繊細さに驚くことがある。

「元々、僕は夢という言葉は好きでない。見る事はできても、かなわないのが夢。大リーグで投げられると信じて、目標にしてやってきたので、今ここにいると思う」

レッドソックスの入団が決まった松坂大輔のボストンでの記者会見だった。「夢が実現したが」という質問に答えた。「夢」という言葉を彼はきちんと定義し直した。

超一流の選手たちは、独特の感性を持ち、それを言葉にする。例えば、イチローはこんな言葉を残してきた。首位争いをしているとき、ライバルの名をあげられると、「他人の打率は僕にコントロールできない。意味のない質問ですね」。「自分にコントロールできることとできないことを分ける。自分で制御できないことに関心をもたないことです」。

ヤンキースの松井秀喜のセリフがイチローのそれに似ていて驚いたことがある。入団1年目、不調が続いた時、ニューヨークのマスメディアにバッシングされた時だ。「人の書く記事を僕はコントロールできないでしょ。だから全く気にならないですよ」

ニューヨークよりも厳しいかもしれないボストンのマスコミに対しての心構えとして、松坂への有効なアドバイスにもなるだろう。

「目標」という言葉にも、厳密な定義を与えたアスリートの一言も忘れられない。スピードスケートの長野五輪金メダリスト、清水宏保はこういった。「目標とは達成すべき結果のことです」

「夢と目標」。漠然と口にしがちな言葉に、彼らは人生の意義をこめ、再生させる。 

2006年12月21日木曜日

沢村栄治さんって、どんな人?

沢村栄治さんって、どんな人?    

私の机を移動することにしたので、この際とばかりに本棚、引き出しを整理していたら、黄色染みた新聞が出てきた。私は、これはという記事を見つけたときは、取り敢えず切り取って(どこか)に仕舞って置くようにしている。でも、きちんとファイルをしてないので、今回のように、思わぬときに、飛び出してくる。毎年プロ野球のシーズンが終わると、その年度に活躍した選手の表彰が行われる。そこで投手部門に沢村栄治賞というのがある。私は、出身が京都だから、沢村栄治のことは、よく知っている。でもその人と、なりについては何も知らない。そういうわけで、私は新聞を切り取っておいたのだろう。その記事を此処に転載したので、読んで欲しい。




1997年 朝日新聞 月日不詳


戦争が奪った「160キロ」の速球


容赦なく3度出征・最後は代打だった




宇治山田の小学校から旧制京都商業まで、沢村とずっとバッテリーを組んだ山口千万石さん(80)は、元気に故郷で少年野球の世話をしている。


「栄ちゃんは、そりゃ、すごかったよ。中3(京商3年)の時、急に速よなって、ひざの高さの球がきゅーん伸びる。ドロップは肩からひざまでストーンやった、サイン間違ったら絶対に捕れへん。練習で受けるときも命がけやった」


「毎日三百球は投げていた。天才いうけど努力家や。ふだんはおとなしい。やさ男で、ピアニストみたいに長い、細い指してた。それが試合になるとものすごい強気で、追い込んで変化球のサイン出すと、怒って、『三振とるのは直球や、頭に入れといてな、千ちゃん』


やった」


千ちゃんの手は突き指だらけで、第一関節はどれも曲がったり節くれ立ったままだ。千ちゃんの宝物である。「ようけ三振とったなあ。野球の醍醐味、味わわせてもろた。戦争なかったら四百勝は楽にしてたやろ」




沢村の伝統的快投は昭和9年〈1934年〉秋、来日したベーブ・ルースら「史上最強」の全米軍相手に投げた静岡草薙球場の試合。0-1で負けたものの、ゲーリックの本塁打1本に抑えた。この時の全米軍は十八戦全勝。前の三試合だけで五十得点をあげていた。十七歳の沢村はこの猛打線をわずか五安打に抑え、四連続を含む九個の三振を奪った。


千ちゃんと夏の甲子園大会に出場した三ヶ月後である。「トライキ(ストライク9!)。千ちゃんが小学校から叫び続けてきた快速球に、ルースもゲーリックも三振した。四番ゲーリックは三球で。巨人軍の故・青田 昇さんは「百六十キロは出ていた。落合や清原、イチローでもバットにかすりもしなかっただろう。」と書いている。


沢村はこの日からちょうど十年、終戦の前年に、三度目の出征で台湾にに向う途上、輸送船が米潜水艦に撃沈され、戦死した。


戦後五十年の記念の年、米大リーグのオールスター戦のマウンドにドジャースの野茂投手が立った。試合開始前、センターの大スクリーンに、真珠湾攻撃と、戦場に向う大リーガーたちの記録フイルムが流され、白髪のジョー・ディマジオがグラウンドに現れた。


=一部、焼き鳥のタレのため読解不可能=


沢村は「快投」の翌年、誕生直後の巨人軍のエースで渡米、若きディマジオとも対戦した。本塁打を打たれたが、大リーグから何度も誘いを受けた。迷いつつ、「こんなでっかい国と戦争したらあかん」と沢村。


「大リーグの主力選手は危険な戦線には送られなかったんだよ」と、元ニューヨーク・タイムズ紙のD・ハルバースタム記者に後日、聞かされた。沢村らには容赦なかった**?〈刺身用の醤油のシミと、思われる、読めない〉中国戦線へ。


その前の*(ソースの零れと思われる、読めない)年秋、プロ野球公式戦がスタート。沢村は二度のノーヒット・ノーランなど、その秋と春で通算三十七勝六敗。柔らかいフォームからの抜群のスピードと制球力。が、二年の兵役で手投げ弾を投げすぎて肩を痛め、左手には銃弾を受けた。帰国後、スピードを失う。


二度目は初恋をやっと実らせた新婚五ヶ月で、フィリッピンのジャングルへ。一年余りでげっそりして帰国。今度は制球力も失う。四十年十月、六番青田の代打出場が最後だった。巨人軍をくびになり、失意のなか、出征。生まれた長女の顔を見ることもなく戦死した。二十七歳だった。


「最後はくやしかったやろなあ。あの気の強い栄ちゃんがノックアウトならあきらめたやろけど、代打やったんや」



千ちゃんと育った伊勢市の。近鉄・宇治山田駅のすぐ近くに一誉坊墓地。お墓は近所の石屋さんがひと肌脱いだ。遺骨はない。大切にしていたベーブ・ルースのサイン入りボールなどが葬られた。  

日米戦での快投で、日本のプロ野球誕生の原動力になった。


(大リーグからの誘いに)「わし、行ってみたいが、怖いわ」

 

2006年12月20日水曜日

もう、面接なんかしたくなあい!!

もう、私、面接なんかしたくありません。こりごりだ!!




現在、弊社は社員募集中です。面接に来る誰もが、それぞれに過去の実績を履歴書、職務経歴書に書き込んでやって来る。これが、私には苦痛なのです。それぞれに、「実録人生物語」を引っ提げて。失敗談、成功談、苦笑混じりでないと語れないこと、涙なしでは語れない、聞けない話が、初めて会う人の口から溢れ出す。


私は、その場から逃げ出したくなるのです。


面接中、この人はどんな人なのだろうか?と一生懸命に思いを巡らせる。


今までどんな仕事をどのようにしてきたのですか。 


何を思って生きているの、何を背負ってる、何を目的に、何を目標に、夢は、希望は、人生で一番大事にしているものは、尊敬する人は、軽蔑する人は、愛する人は、好きなもの、嫌いなもの、趣味は、と聞きまくる。


極彩色に彩られた、人生模様が私を圧倒する。


弊社に足りない部分の補充なのか、事業拡大したい部分の補強なのか、何れかの目的で、募集をかけている弊社の都合を、我はすっかり忘れてしまい、頭は蚊帳の外へ。


人と会って見て、誰がいいのか、判断がつかないのです。


人を見る目が無い私は、社長としては、落第かもしれない。


長所と思われる部分は、それを伸ばしてやればいいし、短所と思われるところは改善・修復すれば、済むことなんだけれど。


会社を立派にして、入社を望む人なら誰でもが入社できる会社にしたいものです。この思いつきは危険ですか。



あいつ

前の(ID 137)で、現東京都知事のことを「あいつ」なんて、書いてしまったものだから、又また、茨木のり子さんの詩を紹介したくなりました。












あいつ









〈あいつの言葉は腐っている〉


人ごみのなかで 通りすがりに


吐き出すような台詞が耳朶を打った


あいつとは どいつなのか 知らないが


私はただちに了解した その内容もわからずに







〈そう あいつの言葉は腐っている〉 

なぜなら日々


腐った言葉に首まで漬かり


憤懣やるかたないのだから


自分の言葉にすらそれを感じ


身ぶるいすることがあるのだから


あいつが どいつでも おんなじだ



















私は、茨木のり子さんが存命中に聞き質したかった。


茨木のり子さんの、「のり」は何ですか? お父さん、お母さんはどういう思いを込められたのでしょうか?

2006年12月19日火曜日

倚りかからず

数日前のブログで記した茨木のり子さんだ。


その茨木のり子さんの詩を一編、ここに紹介させていただく。何故、又、ここで茨木のり子さんなのかは、詩の後方の文章で、私の意図を解ってください。



 

 

恥ずかしいことなのですが、茨木のり子さんが、記した(人ベンに奇をくっつけた字)がPCでは、綴れなくて、止むを得ず『寄』の字を使わせてもらおうと思った。


そんなことしちゃ、私の詩?想はどうなっちゃうの、とあの世から降臨、怒りまくっていただけたら、私、この上なき幸せちゅうもんですが。


ところが、数日後、弊社の賢明なスタッフの小沢雅子から、「倚」の字を見つけ出す方法を教授された。教えてもらった。きちんと、茨木のり子さんの原文通りに綴れました。



 

 

倚りかからず



 

 

もはや


できあいの思想には倚りかかりたくない


もはや


できあいの宗教には倚りかかりたくない


もはや


できあいの学問に倚りかかりたくない


もはや


いかなる権威にも倚りかかりたくない


ながく生きて


心底学んだのはそれぐらい


じぶんの耳目


じぶんの二本足のみで立っていて


なに不都合のことやある


倚りかかるとすれば


それは


椅子の背もたれだけ




私が、茨木のり子さんを尊敬しても、尊敬しきれない、神々しい茨木のり子さんの毅然とした醍醐味を、皆さんも楽しんで?欲しいのです。「私の詩想を甘くみるんじゃ、ねーぞ」と、茨木のり子さん。


今、報道されている官製談合事件から、茨木のり子さんの詩を彷彿させたのかもしれない。知事の椅子に倚りかかり、いや、どっぷり椅子に埋まって、離れようとしない。逮捕されるまで、天地神明に誓ってそのような、天の声など発したことなどありません。福島、和歌山、宮崎の三県の知事は皆全く同じ様な発言を繰り返した。逮捕されるや、舌の根も乾きもしないうちに、ゲロちゃった。こんな知事に票を投じてきた県民の失望は計り知れないものがある。地方権力の象徴である知事の椅子はよっぽど居心地が良さそうだ。茨木のり子さんにとって、必要だったのは、背もたれだけだって、ヨウ

倚りかかる、と言えば権力以外にもあるのです。

言葉、文字に倚りかかった例です。著名な人が「冒険者」ぶった言辞をしたとする。ただの普通の人なのに、もうその人は冒険者になってしまうのです。1962年、堀江謙一さんが単独無寄港で太平洋をヨットでアメリカまでたどり着いた快挙を、あの東京都の現知事石原慎太郎が、この快挙に水を差した発言をしたことを、私は憶えている。余りの快挙に、石原は疑問視した。勇気の無い奴が余りの快挙に嫉視したようだ。その知事さんと言えば、日本の近海をうろうろ浮遊しているだけじゃないか、冒険を語るなんて資格が、「あいつ」のどこにあるんだ、と中学生時代に感じた。

知事の息子が、東京都から特別任務を委嘱されたが、実の無い成果の割りに、派手に公費をつかってくれた報道があったものだから、ついつい文章が長くなってしまった。

2006年12月14日木曜日

弊社は、何ごとにも、へつらうことなく、生きる

弊社は、立派な宅建免許業者です 。 

免許許可日は、平成18年5月3日


商号は、株式会社 アーバンビルド


業務に従事する事務所は、

      横浜市保土ヶ谷区天王町2丁目45番地32

神奈川県知事 (3)21757号  

社団法人 全日本不動産協会会員


社団法人 不動産保証協会会員



 

 

どうですか?皆さん。堂々とした不動産会社だとお思いになられましたか。


が、おかしな政治団体に、否応なしに、納得のいかない賛助金を支払わされている悲しい部分を抱えている会社でもあるんです。



今年10月に朝日新聞で報道されたことを、以前に私も同じ経験をした。余りにも一致しているものだから、此処に新聞の記事を転載させてもらって、広く世間の人々や同業者の反応を窺がいたいと、思いました。 

以下 2006年10月30日 朝日(夕)より



東京都内の不動産業者の6割が加盟する業界団体「東京都宅地建物取引業協会」(都宅協)が、新規加入者に対し、系列の政治団体への入会を事実上条件づけて賛助金を求め、その一部は自民党東京都宅建支部を受け皿にするなど不透明な形で集められていたことが分かった。東京都選挙管理委員会が公表した05年の政治資金収支報告書で明らかになった。本来は自主的であるはずの政治献金が、本人の自覚があいまいなまま集められ、処理されている実態が浮かんだ。~ここまで 朝日(夕)。 

弊社が宅建業の免許を取得する際にも、同じだった。免許申請の受付で、「黙って入会して頂いたほうが。審査はスムーズにいくと思いますよ。更新の際にもですよ」と言われた。ムカッツときたけれども、その時は、(商売したさ旺盛)で、矛盾に挑む意思は稀薄だったようです。少しはおかしいぞ、とは思ったのですが。何も行動を起こさなかった。恥ずかしい、ことだった。


今、又、この場で、怒りが蘇ってきた。


自民党が嫌いだとか、好きだとか言っているわけではありません。隠れたように仕組まれていることが、許せないのです。一番信頼されなければならない業種である、不動産業に関する関連団体が、ペテンまがいのことをやっていては、やっぱり、「不動産屋は信用できんわ」という事になってしまう。



私の知り合いの不動産屋さんは~「おかしいと思うよ、だけど、業界の慣例に従うしかないんだよ。狭い業界なので、何を言われるかわからん。近所の役員が、マア そう言うなよ、と説得にくるんだ。それも嫌だしな」 

私は、自分が創業した会社を、「開かれた、社会民主主義会社」にしたい、と思っている。左派の経済人でもありたいと、思っている。夜は、当然左利き(左党)ですが。


都宅協への入会、

 不動産業を開業したり、支店を新たに開設したりする場合、法務局へ営業保証金1千万円の供託が必要だが、都宅協に加入した上で全国宅地建物取引業保証協会(全宅保証)に分担金60万円を納入すると供託が免除される。このため、業者のほとんどが都宅協のような業界団体に入会している。

2006年12月13日水曜日

台湾代表監督 今井敏明君。君の活躍に期待する。

 



 

今井敏明は、早稲田大学ア式蹴球部(通称:サッカー部)の昭和52年度卒業生。高校は浦和西高校。学生時代は、ガッツある元気者で、硬い体でガツウン、ガツウウンとプレーする選手だった。大学では、私のほうが4年先輩だったので、同じ時期に同じグラウンドで一緒に練習したことはない。彼は私の卒業と入れ替わりに入学してきた。

でも、彼たちの学年は楽しい奴ばかりで、私は卒業後も彼らが4年になるまで、練習や試合をよく観に行ったものです。彼らは卒業後も、各界に華々しく活躍しています。奴等のキャラクターならば、当然のことのように活躍するであろう、と想像はできた。


結果、今井敏明以外、学校の先生は4人、教育委員会、大手医療器メーカー、老舗百貨店、酒醸造会社、スポーツクラブ、大学サッカー部の監督さん、大手食品会社、大病院の事務局、大手飲料会社、事務機器販売等で、各地で遺憾なく腕を振るっている。


卒業後、彼たちは1年に1度の試合を取り込んだ同窓会をあっちこっちでやりだした。今年で、30年は続いている。彼らに親近感を持っていた私と田中正親は、当然のように毎年参加している。


その今井敏明君が朝日新聞に大きく取りあげられたので、マイ・ポケットする。私とは随分、人生観、価値観、スポーツ観が違うのだけれども、今此処でそんなことを議論する余地はない。頑張っている今井敏明に、もっと頑張って欲しいとエールを送りたいのです。



 


2006年11月27日  朝日(夕)



監督武者修行 


午前7時15分。台湾中西部・嘉義市の中正大学の一角で、サッカー台湾代表の朝礼が始まった。1人の選手が話を始めた。周りは笑って聞いている。最後を軍歌で締めた。「うまいじゃないか。ちょうど3分9.時計を見た今井敏明監督(51)が言った。2人目は2分で話を終えた。通訳が内容を伝える。「1人目は、会社の上司に誘われ、飲みに行くのが好きになった話。2人目は人に言われるだけでなく、自分の意見を持つことが大事だという教訓の小話でした。8月から、3ヶ月間、大学の寮を借りて合宿をした。


毎朝交代で3分間スピーチを課すようになったのは、「選手に考えさせ、主体性を植えつけるため」だ。午前の練習は10時に始まった。ほぼ北回帰線上にある嘉義の気候は熱帯に近く、10月下旬でも暑い。長距離走の合間にパスの基本練習を行う。「ただ蹴るんじゃない!パスだ!」今井監督が叫ぶ。疲れた状態での正確な球扱いが目的なのに、集中に欠ける雑なキックが目立つ。こんな合宿は初めて。学食の中華料理は口に合うが、さすがに毎食だと「機械的に口に運んでいる」と、今井監督は苦笑する。ほとんどの選手にとって、今井監督は初めて出会う外国人。その存在を有効活用しようと、台湾サッカー協会が日程を組んだ。


かってJリーグ・川崎フロンターレを率いた今井監督は、昨年12月から台湾代表(当時世界ランキング156位)を引き受けた。就任後、アジアカップ予選はここまで韓国、イラン、シリアの強豪相手に5連敗。失点が計21も喫し、得点がない。選手は大学生中心に20代前半が多いが、世代交代を図っているわけではない。今井監督は「こうなっちゃうんだよ。台湾の選手寿命はとても短いから」と話した。企業チームは台湾電力と大同の二つ。軍のチーム、大学、高校を加えた短期の大会などを年に数度開くだけだ。脂がのった社会人がしのぎを削る場は少なく、仕事をこなしながら漫然とプレーするだけになる。「台湾の選手は目標を設定しにくい環境にある」と、今井監督をサポートする陳俊明コーチ(37)も語る。今井監督は、代表に招集した社会人10人から「メリットがない」と断られた。運動能力の高い先住民も「プロがある野球に流れる」(陳コーチ)と言う。サッカー代表には2人しかいない。ほとんどの代表選手隠れて喫煙するのを今井監督は知っている。向上心にも欠けるのだ。就任当初は1時間半だった練習を1時間に縮めたのは、集中力を高めるためのやむを得ない工夫だ。10月には若手2人を横浜マリノスの練習に2週間参加させた。海外で、刺激を与えるためだった。台湾協会には、選手が目標を持ち切磋琢磨できるよ、環境の整備を求めた。林徳嘉秘書長は「企業チームを増やせなくても選手がサッカーに専念できるよう、個人スポンサーは探せる。また県ごとに社会人、大学生、高校生の混合選抜チームを作って戦うリーグを来年から作る」と、改善案を示している。午後練習は4時開始。対人プレーで、守備の位置取りや、それを突破する攻めの動きを説く。鄭勇仁主将(29)には「一つ一つの練習が何のためかを考えさせられる」と新鮮に映る。11月15日。アジアカップ予選最後のシリア戦も0-3で敗れたが、台湾協会は来年の契約延長を希望する。「何としてもここで結果を出す」。生まれ変わろうとする台湾と走り出した今井監督の思いだ。

2006年12月10日日曜日

今、社員旅行中だ。グアムだってヨ

今、社員旅行中です。


 

当社では、毎年、12月初旬に社員旅行を行っている。直接の担当者は、この2 3年は若手の元気者だ。その以前には、(オジサンばかり)会社だったので、幹事は皆を驚かせる企画が立てられなくて、(まあ、しょうがないか)コースばかりだった。旅行社との、日程、行き先、費用、行き先での時間の過ごし方、を打ち合わせているその側で、聞き耳を立てるスタッフたち。楽しいことの打ち合わせは、私にも、心なごませてくれる。グアムに決めたようだ。


グアム島は、日本から約2,500キロメートルの距離にあり、飛行時間は約3時間余り。日本から一番近いアメリカです。


 

2006年12月8日~11日 3泊4日


滞在:パシフィック・アイランド・クラブ グアム


タモン湾に面し広大な87,000㎡の敷地に島内最大のウォーターパークがある。


 

私は、来年、アメリカにリフォームの勉強に行くので、今回は辞退した。


 

社員旅行の、全ての目的は社員の慰労である。仕事の事をすっかり忘れて遊ぶことだ。


会社負担は、社員は全額、社員の夫や妻は実費の1/2、義務教育期間中の子供は0。フィアンセ、愛人は全額個人負担。


 

私からは、大いに遊んで、楽しんできてくれることを、願うばかりだ。


行って、来おうい!!


 

後日の報告編をお楽しみに

2006年12月8日金曜日

茨木のり子さんの遺稿 来年詩集に

夫への愛 40編

気骨の人 別の一面




茨木のり子さんの遺稿が、来年詩集として出版されると新聞記事で読んだ。


よかった。嬉しかった。


忘れかけようとしていた、茨木のり子さんが紙面といえども私の前に再び現れてくれたことに、喜んでいる。


私は、大学生だった4年間、東京は武蔵野、東伏見のグラウンドを核に直径2キロメートルの範囲内で浮遊? 暮らしていた。



東伏見は、入学時は、東京都北多摩郡東伏見町だった。それから確か3年生の時に、東京都保谷市東伏見になり、現在は東京都西東京市だ。 

 

朝から晩まで、サッカー漬け生活だった。当時毎日といってもいいほど会っていた牛島孝之さんから、彼女のことを教えてもらった。牛島さんは、あたかも自分の恋人のように話してくれた。


(注)後日、牛島さんのことについて、記述する機会はあろうかと思われますが、今回は、素通りです。


「茨木のり子さんは、詩人です。何に対しても、端然として毅然、気骨の人。この人の詩にガ~ンとやられてからは、私は盲目的な読者になりました。時々、グラウンドにも現れるのですよ。私はそのことも気になって、毎日、ラグビーとサッカーを見に来ているんですよ」とも言っていた。


牛島さんから彼女の詩集を借りて読ましてもらった。その時は、唯、強い女性だと思った。


当時の私は、詩集を読むなんて柄に合わないと、ハナカラ決めてかかっていた。詩集を手にするだけで恥ずかしかったのです。何故って聞かれても、当時若者だった、私の心情は複雑でした。


それから、約35年経った。私の蔵書に茨木のり子さんの詩集は増えた。読後の感じ方も随分変わってきたように、思う。


その茨木のり子さんが、今年2月に79歳で亡くなった。


死を知った時、彼女の体の状態などお構いもなしに、もう茨木のり子さんの詩を楽しめないのか、と、咄嗟に不肖のファンは悲しんだ。私は恥じた、不埒な読者、詩不適確者かもと。




40編の遺稿が見つかった。「歳月」と題した詩集にまとめられ、来年2月の命日に出版される。夫と二人の世界、だそうだ。




2006年12月4日の朝日(夕)より


「新婚の夜のけだるさのなか


わたしは思わず呟いた


どちらが先に逝くのかしら


わたしとあなたと」 (『その時より』)



今年6月 東京都西東京市の自宅の書斎で、甥の治さんが「Y」と書かれた箱を見つけた。「Y」は75年に死別した夫・三浦安信サンの頭文字。中には錆びたクリップで留められた原稿の束があり、掲載順も記されていた。 

 

治さんが作品の存在を聞いたのは数年前だった。「なぜ生きているうちにださないの」と聞くと、(照れくさいのよ)と笑った。出版元になった花神社の大久保憲一さんには「最後の詩集はよろしく」とだけ、頼んであったという。


今年2月17日、茨木さんは友人に配る別れの手紙を用意したあと、くも膜下出血で亡くなった。


「本人にとって本質的なことはすべて、死ぬ前に肩がついていた気がします」。治さんはそう振り返る。


戦後の世のあり方を問いかけた代表作とは違い、(歳月)は安信さんへの思いや男女の心の機微を描く。安信さんが夢枕に立つ「夢」、夫が入院する前に最後の食事を囲んだ思い出の「最後の晩餐」、通勤路に足跡を見出そうとする「駅」。


大久保さんは「人間がこんなにも深い愛情を持っていて、それを惜しげもなく詩にできた才能に心を打たれた」と話す。


23歳だった茨木さんが8歳年上の医師だった安信さんと結婚したのは49年だった。私生活について多くを語らなかったが、取材に訪れた学生に「(自分の世界を持つことを)夫が理解してくれ、育てようとしてくれた。上等の男性でした」と話したこともある。安信さんを亡くした後は、共に過ごした家で、ひとり暮らした。


死後、寝室の枕元で小さな木箱が見つかった。何度も触った後があり、安信さんの戒名と「骨」が数かけ入っていたという。

2006年12月2日土曜日

樋口一葉の心意気


天声人語を読んで、筆者はうまいこと書くなァ、と感心した。5千円札の絵模様になった樋口一葉さんの人となりを、5千円札と他の札との使われ方の違いをもって、表されている。  

やっぱり、この記事も一つマイ・ポケットさせて頂こう。




以下 天声人語からの抜粋より


2006年11月23日は、二十と四年で世を去った作家・樋口一葉の命日だ。


短く、しかし強く生きた一葉の生涯をたどると、改めてその際立った心意気が思い出される。


「人情かみの如しうすく、~ 世はいかさまにならんとすらん~わがこころざしは国家の大本にあり」



「たけくらべ」では、吉原の遊郭という独特な場所の周辺に生きる人々の思いを見事に描き出した。森鴎外主宰の雑誌「めさまし草」の合評蘭に「たけくらべ」に関する一節がある。「この人の筆の下には、灰を撒きて花を開かす手段あるを知り得たり、~この人にまことの詩人といふ称をおくることを惜しまざるなり」

22歳の年の日記にこう記した。


他の札と違って、5千円は札束にはなじまないようだ。使われる時も1枚だけのことが多い。一葉は、札になっても一葉か。それが、やや切なくもあり、あの心意気の高さにはふさわしいようでもあった。

2006年12月1日金曜日

私は、私の会社を、『社会民主主義会社』にしたい。

会社の財務内容がよくなったこと、これから5年間でやらなくてはならないこと。

                 
①     会社の財務を良くした方が、何故いいの?
何故、会社を良くしなければならないの?

会社がよくなったら、どうなるの?

誰のために、良くするの?

こんな疑問を、誰でも持つものです。

会社は、株主が出資した資本金を利用して、企業活動を行っている。利益をあげて、株主が出資してくれたお金に対して、配当金を支払い、税金を支払って社会還元する。

利益があげられないと、必然的に財務状態が悪くなり、株主に対する配当金が少ししか払えなかったり、全く配当金が払えないことになる。金融機関からの評価も悪くなる。そうすると希望する額の融資金が受けられない。資金不足に陥る。事業の展開が貧困にならざるをえない。やりたい事業をうらめしく眺めることしかできない。 当社のように、自己資金が少なくて借入依存度が高い会社は、内外における突発性の政変・経済の変化によって、市場が大きく揺れる、その時のリスクは高く、危険だ。債務を保証している私も不安だ。よって、会社は、どんなことがあっても、いい会社にするしかないのです。ほどほどに、なんてことは許されない。

*     役員(社長・専務・取締役)と株主と社員の相互理解を得ながら、社員にとっての会社《会社にとっての社員》、株主にとっての会社(会社にとって株主)の認識を深めたい。

②会社が良くなったら、社長、特に創業者は、会社をどういう方向に舵を取りたく思うのですか?


人によるが、世の社長はこういう事態に面した場合に、大体二通りの方向性を露わにすることがある。

《会社温存型》 自分の給料をほどほどに抑えて、会社に利益をどんどん上げさせ、株主には配当金、税金(社会還元)を支払って、内部留保金を増やそうとする。 会社を大きくして、沢山の人に雇用の機会を用意する。チャンスがあれば、上場を目指し、社員に上場のうまみを、味わらせてやりたいと思う。創業者、社員にとって、とにかく、会社の今までやってきたこと、今後やり通そうとしていることを、社会に認めてもらいたいと思う。会社は、永続するものだと考える。会社の将来と、自分の将来を見据えて、仕事に励む。会社の成長と、社員としての人間的成長を喜びとする。



《社長個人だけ温存型(身内もふくめて)》 社長を含めた身内のスタッフの給料を、会社に利益が出ない限界ぎりぎりまで上げる。結果、会社には利益が出ないようにする。 自分の女房か娘を、バカ息子を役員にして、給料を支払う。儲けられる時に儲けておこう、後の事は重要じゃない。個人資産を増やすことを第一に考える。社員を使い捨て感覚で使用する。給料体系を、フルコミッション、歩合給偏重になりがち。

*山岡は《会社温存型》を目指したい。 


 ③今、私が置かれている状況
以下 税理士の五浦氏の見解より A ,*氏・+氏の株式持分について、*氏は純資産価額方式、+氏は配当還元方式による評価であることに留意せよ。 

  B , 土地保有特定会社    現状では、税法上の大会社に該当するため、総資産に対して70%以上の土地保有率をもって土地保有特定会社となり、同族株主の株の評価が純資産価額方式に限定されている。 土地の保有割合を下げることにより類似業種比準方式を選択できる。

(注)当社は、不動産会社で、土地を仕入れて付加価値を付けて売却する。そのような事業展開を行っているゆえ、土地の保有比率を下げるわけには、いかない。

そこで*氏の株式の評価はどうなるの?上記のA Bにより、同族株主の評価、純資産価額方式によると前期末:@?円《1株》?*?=?円この数字を見て社員はどう思うのか、社長にとって、どういう意味があるのか? 社員は=ひぇー、それがどうしたの? 俺にとって、私にとって、何か、ええことでもあるの? 社長は=ヒャー、それどういうこっちゃ。 ????? それ、俺に呉れるの? なんか、ええことあるのか?

そこで、税理士の五浦さんの、コメントより。

「山岡さんが、ここで、何も準備も用意もしないで、死んだら、この???が相続税評価対象額になるのですよ。山岡さんの私財については、仕事柄知り得ています。全財産を処分しても処理しきれないでしょうね。奥さん、子供は家を追われるように出て行くしかない。このまま、やり続けていれば、会社は益々よくなり、社長が年を重ねていく。こんな危険なことはないですぞ」。

④今、社員が置かれている状況
社長の株式の評価が??? 俺には関係ない。そんなこと、知っちゃおらんよ、と思うのが社員各自の実感だろう。でも、じっくり考えたら、俺達社員が働いた成果でもあるんだよな、と思い巡らしてもいいのではないのか。社長は、社員からのそんな声を待っている。社長は、借入金の連帯保証を重ねる。この債務を背負うプレッシャーは、並みたいてのものではないことも、よく理解して欲しい。でも、山岡はちょっと変な部類の人間だから、会社運営の楽しみと苦しみを、チャラにして、それなりに楽しくやってるんだからええのだ、と割り切ってくれても、いいのだ、よ。 そこで、山岡は、この評価を、これまで頑張ってくれた社員、これから頑張ろうとしてくれている社員に、お裾分けできないか、と思い当った。でも、今のままでは、どうにも、何もしてやれないのが実情だ。 社員は、今後の取締役会で、社員の株主しての利益分配方式を検討するので、その検討結果が出るまで、待っていて欲しい。

⑤上場できたら?
上場しなくても、頑張っている企業は幾らもある。例えば、リクルート、サントリー、ロッテ、竹中工務店などがそうです。これらの会社は経営トップの強力なリーダーシップの下、株式市場から資金調達を行わなくても自らの生み出すキャッシュフローを基に事業拡大しています。また、「上場企業」という肩書きがなくても、これまでの実績から十分に社会的信用を得ています。私達の会社では、このような会社の真似はできません。よって、上場するしかないと考えている。上場するためには、どの証券取引所にも、上場実質審査基準がある。以下の通りです。このことは、本来、なにも上場の為に行うことではないことばかりなんだが。

1、企業の継続性及び収益性 2、企業経営の健全性

3、企業内容等の開示の適正性

4、その他公益又は投資者保護

について審査され、証券取引所が承認しなければ、上場はできない。

私の会社、私達の会社から、公器としての会社になるわけだから、高いハードルを越えなければならないのは、当然だろう。

社員に対しては、働くことにおいて、社員を守ること、会社が当然しなくちゃならないこと、備えなくてはならないこと、労使に対して、すごく緊張維持できる環境を整備しなければならないことが多いのです。

会社は誰のもの? の根源的質問についての、必然的解答は《上場を目指す》と結論を下す。

 
 何故なら、会社は良くなったけど、社員には具体的にはメリットがない。株主だって少しぐらい高い評価(配当金)を受けたところで、物足りない。会社の大発展の夢を実現したいと思っている、役員・株主・社員には欲求不満が募るばかりです。

この不満を解消するには、上場することが、一番手っ取り早く、直接効果のでる方法だ。

とは言え、上場を達成するには、今期、来期、再来期、その次の期、その次の期の次の期の、業績を計画通りに実行しなければならないのです。その強い決意を共有されなければ、実行は無理だ。社員のため、会社のため、社長のため、どんなことがあっても、上場するしかないのです。 上場できれば、会社、社員、株主にも、エエことがあるのですか? 問題は、ココなのです。

株式上場のメリット

・     財務面・資金調達の能力の強化・     知名度・対外的信用力の向上

・     社内管理体制の整備

・     株式流通性の向上、株式価値の顕在化、増大

・     従業員へのインセンティブ

株式上場の主な留意点

・     企業内容の開示義務、説明責任の増大

・     証券取引法、会計基準、その他法令への対応

・     事務量・経費の増加、人件費の増加

・     コンプライアンスの強化

社員に対しては~決められた株数を発行しなければならないから、前もって、社員持ち株会(山岡自身はこのやり方は、スカン)とか、何らかの方法で各社員に株を保有してもらい、その株の市場評価次第では、差益をゲットできる。ストックオプションなどで、会社が良くなれば良くなるだけ、株価が上がって、より以上のゲットが可能になる方式も検討してみたい。上場できたら、流通性のある株になるから、資産としても十二分だ。これが、大きいのです。これだけを目的に上場を目指す社もあるぐらいだ。当社はそんなアホな集団ではない。

上場すると、市場から資金が集められ、会社の財務的な運営は進めやすくなる。又、研究費、将来を見越した投資が可能になる。調達した資金を事業に投資することにより上場していない会社よりも成長のスピードをあげることができる。
全ての活動において、何事に対しても、ひるむことなく堂々と対処できる。(当社は上場できなくても、堂々とやってきたし、今後も堂々とやらなければならない)他社との業務提携がスムーズに進められる。 社員の募集がやり易くなる。いい人材が集まり易くなる。

⑥上場は通過点だ
社会的に認証され、益々公器としての役割が重くなる。だが、社会的に認められたといえ、最低限の基準をクリアーした程度に過ぎず、もっと高いステージでの活躍を求めてチャレンジしたい。我が社は、あらゆる情報を、根源的変革を視点に、最適利用を考え、加工し、高付加価値の環境創造をお客様に提供している。この活動のさらなる飛躍を目指している。

荒ぶる魂を持つ熱き若者たちが、雄叫びをあげて、勇猛果敢に前進するのだ。

私たちは、横浜で一番元気のいい会社だ

2006年11月22日水曜日

ドフトエフスキーが、本屋さんから消えた?

 



私には持病がある。何かの拍子にやってくる「ドフトエフスキー病」です。無性に、ドフトエフスキーを読みたくなるのです。 

太宰 治が、トカ トン トン と表現したような感じで近づいてくる。きたかな、と思いきや、今度は突然急に。それも、(カラマーゾフの兄弟)を。そろそろかな、と予感がしていた矢先、もう全く完全な病人状態になってしまった。


(カラマーゾフの兄弟)を最初に読んだのは、大学3年生夏合宿の前後1ヶ月で。


大学生の間には、代表的なロシア文学はだいたい読破した。


大学4年間のうち2年間は、校舎はロックアウトされていて中には入れなかった。クラス討論とそのあとのデモで忙しかった。昼間は本物の体育会のサッカー部員だった。



 

 

2回目は37歳の秋、某電鉄系レジャー施設運営企業を9年7ヶ月勤めて退社した時。それまで勤めていた会社の社長さんは、日本体?協!とか日本オ?ン!ック#員会とかの組織の要職について、鼻息荒い二代目だった。この人、ちょっと胡散臭いぞ、と思ったときには、辞表提出済みだった。その約25年後、この二代目は事業家としては、悲しい結末をもかえることになった。事業家としては、落第だった。逮捕まで、されちゃった。



 

 

3回目は、53歳の時、平成13年だ。


バブル崩壊後、我が社は荒波に呑み込まれる寸前の難破船状態だったが、なんとかほぼ10年を経て(ゼロ)の位置にたどりつけるようになった、その頃だ。難破船時には、以前の社員は皆、恐れを感じて去って行った。専務と私以外は、新しく参加してくれた社員のみになった。



 

 

今回、再発したのは4回目。平成18年11月だ。58歳の今だ。



 

 

「ドフトエフスキー病」が発症するときは、自分の内に何かが、起こっているときなのです。



 

 

居ても立ってもいられなくなって、チェーン店になっている古本屋さんに、(カラマーゾフの兄弟)を買い求めに行った。以前に読んだ本は私の本棚を探せばあるのだろうが、今回は活字の大きい本で読みたかったのです。


その店には(カラマーゾフの兄弟)が見つからなかった。


(カラマーゾフの兄弟)だけではなく、古典的な名作といわれる本の類が、何も、何処を探しても、見つからない。現代作家の著作物は、棚に溢れているのに。


商売にならないのだろうか?誰も古典的な作品を買おうとしないのだろうか?


古典的名著は、もう読まれないの?


読んだ本を、古本屋には持ち込まないで、自分の書庫にしまいこんでいるのだろうか。


どうなっているのだろう? 不思議だ?



 

 

私は、腑に落ちないまま、次の古本屋に行く覚悟をして、その店を出た。


が、しかし、もう一軒の古本屋にも無かった。学生街の古本屋にでも行けば、あるのだろうか、とも考えたが、そんなところへ行く時間がない。


古本屋さんで買い求めるのは諦めた。


しょうがないから、宮部みゆきさん、桐野夏生さん。長編、ダーク、ブレイブ ストーリーを買わせていただきました。


けっして、ドフトエフスキーさんの代打ではありませんから。私は、あなたたちの真剣な読者ですから、あしからず。



この数年間のうちに、本を買うのは古本屋さんで、という習慣が知らず知らずのうちに、身についてしまったようだ。そう言えば、駅前の情報誌やコミックをメインにしている本屋さん以外の、総合的に品そろえしている本屋さんには、永いこと行ってないことに、驚いた。



古本屋さんからは、間違いなく、ドフトエフスキーさん、トルストイ、チェーホフさんもいなくなっちゃいました。



 

 

新刊なら、本屋さんにあるの?



 

 

2006年11月21日


横浜駅ビルのなかにある、横浜では有名な本屋さんに行ってみた。さすが、有名な本屋さんだけあって、「カラマーゾフの兄弟」はあった。全て文庫本になっていた。買った。経済的に多少余裕ができたことと、小さい字では疲れるので、大きい字の本を手に入れたかったのだが、もうそんな本はなかった。やっぱり、この店にも、古典的名作といわれている本は少なかった。




宮部さん、桐野さんの次には、憧れのドフトエフスキーさんの苦悩の世界に突入するぞ。



 

 

この苦悩の世界が、たまらないのです。


この苦悩が人を成長させるのだろう。

k取締役が、アニサキスを土産に、出社した。

アニサキス君が、会社にやってきた   


弊社取締役のk氏が、「俺、胃ガンにやられているようなので、明日朝、病院に行ってくるわ」。「胃がんでも、胃潰瘍でもしょうがないんや、あれだけ、不摂生してりゃ。なあ、せやろう」と言う会話で、前日は仕事を終了した。


習慣になっている、仕事上がりのビール一杯もなしに帰社した。


私に対しては、そのように言ったが、他のスタッフには、2 3日前に食った刺身にやられたようだ、と打ち明けていたようです。生来の刺身好き、身体防御精神希薄、とん馬な衛生知識、そのうえ、食い意地が張ってりゃ、胃袋に何らかの変調が発生しても、何等不思議なことではない。


翌日昼過ぎ、k取締役は出社した。ポケットから出した小さな容器を皆の前に突き出した。透明の小さな容器には、何やら、白い小動物が泳いでいる。


容器の中のご主人様は、恐れ多くも、アニサキス君では、ありませんか。お医者さんもなかなか気が利くじゃないか。ちゃんと、お土産物にして、帰らすなんて。


大事に、育てましょう。なんて言う輩まででてきた。


会議室のテーブルにでも、置いとけばいいのに、と思ったのだが。


死んでしまっちゃ、面白くない、とk取締役は捨ててしまいました。

2006年11月21日火曜日

私の育った、宇治田原の里のご紹介

私の育った、宇治田原の里のご紹介。

  宇治平等院の裏を流れる宇治川をさかのぼっていくと、天ケ瀬ダムがある。源流は琵琶湖だ。川に沿ってダムを見下ろすような道が蛇行している。この道こそ、その昔、ここで紹介している私のふるさとの、京都、大阪に通じる唯一の出入り口でした。高校に、マフラーをカットしたホンダのスーパーカブに乗って、レーサー気取りで、通った。もう少し川をさかのぼっていくと、宇治川は、瀬田川と田原川に分かれる。その支流である田原川に沿った道を進むと、我がふるさと、宇治田原町に入ります。河岸段丘の少しばかりの平地を、山々がぐるりと取り囲んでいる。

ここで私は生まれ、20歳まで過ごした。


(2006年10月14日 京都新聞の記事より)


和みのまち 

大規模集団園を造成 

 京都府綴喜郡宇治田原町は今年町制50周年を迎えた。田原村と宇治田原村が合併で宇治田原町が誕生して半世紀。住宅や工業団地の開発が進む町はいま、茶文化をキ-ワードにした(和みのまち)を目指している。  

 

府南部のほぼ中央東に位置し、人口1万249人(10月1日 現在)。南東部に修験の山・鷲峰山がそびえ、中心部を田原川が流れる。町内各地区には由緒ある寺社や史跡が多く、豊かな歴史を今に伝える。また、緑茶製法の発祥の地として、町挙げて茶を通した国際交流など茶文化の発展に力をいれてきた。


史跡・伝統  豊かな歴史 今に伝え 

 古くは奈良と京都、近江を結ぶ要所だった宇治田原町は、由緒ある寺社や史跡をもち、文化財が数多く残る。同町で国の重要文化財に指定されている八件のうち、禅定寺所有は七件を数える。本尊(木造十一面観音立像)、平安時代―江戸時代の同寺伝来の古文書「禅定寺文書」などで、藤原道長から頼道に伝えられた領地が同寺に寄進されたことなどが文書に残るという。正寿院(同町奥山田)の「木造不動明王坐像」も国の重要文化財で鎌倉初期の仏師、快慶の作とされる。  

 

神社では、こぶとりの神で知られる猿丸神社(同町禅定寺)が有名で、緑茶製法を開発した同町出身者の永谷宗円を祭る茶宗明神社もある。


一方、各地区には今も古来の風習が伝わる。落ち武者の隠れ里とされてきた高尾地区に女人禁制の小正月行事「縁たたき」が残り、奥山田地区には、「ねりこみばやし」が代々受け継がれている。酒を飲ませたウナギを滝つぼに放流する一風変わった雨乞い行事は、湯屋谷地区で毎年開催される。


農林業 

日本緑茶発祥の地である宇治田原町は、江戸時代に永谷宗円が「永谷式煎茶」を生み出して以来、茶作りの歴史を積み重ねてきた。町内に広がる茶園の総面積約二百三十ヘクタールで、生産農家は約五百七十戸。年間の生産量は約四百トンに上る。春の茶摘みの時期には茶園のあっちこっちで、青々とした茶の芽を摘み取る摘み子たちの姿が見られ、初夏の新茶作りの最盛期には、町内の製茶工場から茶の甘い香りが漂う。

緑茶と並ぶ同町の特産品が「古老柿」だ。皮をむいたつるのこ柿という渋柿を山里の寒風にさらし、甘く柔らかな「古老柿」に仕上げる。晩秋のころには稲刈りの済んだ田んぼに古老柿作りための柿屋が立ち並び、何万個ものつるのこ柿が干してある風景は、昔から続く宇治田原の風物詩だ。


町は本年度から、町内に大規模な集団茶園を造成する事業を始めた。移りゆく時代とともに、茶業を取り巻く環境も変わってきたなかで、緑茶発祥の地として茶文化を支え続けてきた町は、これからも茶の歴史に新しいページを付け加えていく。



教育・文化   

宇治田原町は「地産地消」をキーワードに、地元産の食材を生かした食育に力を注いでいる。新茶のシーズンには、町立保育園や小学校の子供達が町内の茶園で茶摘を体験し給食には新茶を使ったかき揚げや茶の芽の炊き込みご飯など、郷土色豊かなメニューが出る。小学校では、茶やキュウリなどの生産農家を講師に招いた授業や休耕田を利用した米の栽培体験など、学校と地域が一体となって食の大切さを学んでいる。茶を通した国際交流も盛んで2004年から茶発祥の地といわれる中国雲南省との交流事業を進めている。04年からは町内の三小学校の児童が摘んだ茶を同省に贈り、友好を深めてきた。食を通してふるさとの文化に親しみ、茶を通して世界の文化を知る試みが続いている。


産業  

緑豊かな茶畑に囲まれて、平屋の工場が立ち並ぶ宇治田原工業団地。1988年、府内初の民間開発による工業団地としてオープンした。総面積約80ヘクタールの広大な敷地の中に、約50の製作場や工場が立ち並び、府内有数の工場団地に発展してきた。オープン当時は金属プレスの工場が多かったが、時代とともに業種も移り変わり、今は紙加工や印刷技術、食品関係の工場が多く入居している。半導体部品や精密機械の組み立てなど、先端技術を支える企業の進出も目立つ。

同工業団地に隣接する緑苑坂地区にも、2002年に緑苑坂テクノパークがオープンした。約10ヘクタールの敷地には学校給食共同調理場や印刷工場などが入居し、現在も新たな企業が工場を建築中だ。



産業の発展が進む一方で、同町は環境保全の取り組みにも力を入れている。今年8月には、町内に生息する府の絶滅寸前種や絶滅危惧種などの野生動植物800種の生態をまとめた(宇治田原町レッドデータブック)を発行した。地域に残された豊かな自然という財産を町はこれからも守っていく。  

2006年11月16日木曜日

社長、会社は変わりましたよ

社長、会社は変わりましたよ

2006年11月14日 夕方 


長年頑張ってくれていた女性スタッフが、悲願のオメデタ。出産激励会を会社内で行った。当の本人は、お腹、ポンポコリンのために、早い目に帰宅してもらった。産休だ。


後は、弊社のいつも通りの、大騒ぎの大宴会。


「社長、新しい人が入ってきて、会社に活気が出てきました。とっても楽しいです」とベテラン社員のT君が、言ってくれるじゃありませんか。


私は、「有難う、そう言うてくれると、嬉しいじゃありませんか」。なんて会話がいき交った。


そうなんだ。一人が入社するごとに、会社は変貌しなければならないのだ。


決算を終えた後の、不思議な精神状態は快方に向かっている。怖気づいた私の経営者としてのマインドも、やっと乗り越えたようだ。


スタッフの面構えを見て,今後の会社運営に自信復活って、とこかな。


 

2006年11月15日水曜日

絵本「ハチドリのひとしずく」

2006年11月14日 朝日新聞から抜粋させていただいた。



 


一冊の絵本から環境問題に目を向ける人が増えている。


「ハチドリのひとしずく」


南米・アンデス地方の先住民族に伝わる民話で、燃えさかる森にハチドリが一滴ずつ水を落としていく短いストーリー。地球温暖化に対して「一人ひとりができることをやろう」とのメッセージにも読める。この話を広めようという動きが、各地で自然発生的に起きている。



 

 


絵本(ハチドリのひとしずく)より



 


森が燃えていました


森の生きものたちは


われ先にと逃げていきました


でもクリキンデイという名の


ハチドリだけは


いったりきたり


くちばしで水のしずくを


一滴ずつ運んでは


火の上に落としていきます


動物たちがそれを見て


「そんなことをしていったい何になるんだ」


といって笑います


クリキンデイはこう答えました


「私は、私にできることをしているだけ」



 

 


ハチドリの物語は勝利を暗示しているが、結果については語っていない。伝えているのは結果ではなく、過程の大切さだ。過程の力強さが、結果を暗示している。結果は読者に委ねられている。


ハチドリが燃える森に落とした一滴の水は、伝統文化やその基盤である環境を守るためのものだ。自分の巣だけでなく森という社会や経済全体も守ろうとしている。そして、自らが行動することの大切さを示している。

一星(いっせい)が、結婚した!!



 

 

2006年11月12日


息子の高校生時代のサッカー部の部友、高橋一星が結婚した。


仕事中、祝辞でも一発かまさないと、面白くない、と思いつき、披露宴会場に届けてもらうように、急遽、ファックスした。



 

 

ご結婚おめでとう、一星!!       草平の父  岡山 ?



 

 

結婚生活のスタートに際し、一言、祝辞を献上させていただきます。


君が、高三の時の公式最終戦、対座間高戦を思い起こしてください。


私は、君のことを「黒い弾丸」と名づけていました。


その名の通り、とにかくよく走ったヨなあ。よく頑張った。


試合は二転、三転した。


うまくいっている、と安心していると、突然ピンチに襲われ、


又、苦しく藻掻いている最中にも、思わぬチャンスがやってくることも、学んだヨな。


一星!! 新郎の「黒い弾丸」君、走れ。


君には、強い味方がいる。


最強の味方だ。


君が、どのような苦境に追い込まれようが、そばには優しく微笑む妻がいる。


輝いている妻がいる。


喜びを分かち合える、妻がいる。


走れ、一星。


水飲み場には、ちゃんと妻が待っている。


体の渇きを癒して、一息ついたら、


世界の偉大さに気づくことだ。


そのすべての真実を極めるのだ。


走れ、一星。


千里も万里も。



ええか、一星、


これからは、妻の手をとって、走るのだ、一星。

2006年11月12日日曜日

天声人語なしでは、今の私はない

何もこんなところで、朝日新聞を褒めちぎっても、しょうがない、と言えばしょうがない話だ。けれども、私と天声人語との付き合いは、実に永く深い関係だ、としみじみ思う。



 

 

勉強嫌いだった中学生の私に、慕っていた国語の先生からの影響は大きかった。その先生は、天声人語のことを、何か大変なもののように話され、それを私は、何か大変重要なことのように理解してしまったようです。中学1年生のある時から、今に至るまで天声人語は空けることなく、毎日読み続けてきた。私は、中学生、高校生、浪人中、試験勉強として、国語の教科書・参考書を広げたことはない。ひねくれ者だった。お仕着せには、素直に従いたくなかった。国語ぐらいは、自分で勝手にやらあ、と息巻いていた。かわりに、中高、浪人時代には、「国語」として、天声人語を完全に理解できるように努めた。漢字の読み書きも完全にものにした。


内容が時事的(即時的)・社会性に溢れ、啓蒙的、道徳的、教訓的、規範的で、私の成長の過程において非常に刺激を与えた。私は刺激を受けた。山深い、谷間山間の寒村に育った少年には、世間を覗く窓口でもあったのです。



 

 

そんなことを、何故ここでこんな文章を綴っているのかというと、今日も又、天声人語に素晴らしい文章を読ませて頂いたものだから。



 

 

9・11同時多発テロ以来二つの戦争に踏み切り、イラクではいまだに出口が見えない。そんな状況下、ブッシュ大統領の不人気の影響で、中間選挙で,共和党が減り上・下院とも過半を割った。そのような内容が書いてあって、最後にワシントン初代大統領の演説内容にふれてある。その文章に魅入られたのです。その記事をここに転載させていただいた。



 

 

2006年11月9日の天声人語より


230年前に独立した時、アメリカは北米大陸の中の、新しい一つの国でしかなかった。初代大統領となったワシントンは、3期目には立候補しないことを表明した後、議会で決別の演説をした。「ある特定の国々に対して永続的で根深い反感をもったり、他の特定の国々に対して深い愛着をもったりせず、かわりに、すべての国に対して正当で友好的な感情を育むことが何よりも重要である」(井上一馬・編著『後世に伝える言葉』小学館) 生まれたての国の未来を案ずる切実な思いが伝わってくる。超大国としてではなく、世界の中の一つの国として、建国の父の精神を思い起こす好機だ。

2006年11月7日火曜日

お前ら、よく読め。腹の脂肪は死亡に通じるってヨ

この記事を紙面に見つけた時、私は、これは頂きと思った。こんな、いいニュースを、もっと多くの人に知ってもらいたい。特に、私の身近の、n君,o君,t君,s君,s2君,a君,k君には、この記事を面前に叩きつけてやらねば、と思ったのです。「よく、読めよ」と、言葉を添えて。 

朝日新聞 2006年10月28日の記事を拝借。


毎日1万歩、脱メタボリック 

 毎日1万歩以上歩くとメタポリックシンドローム(内臓脂肪症候群)の予防につながりそうー。名古屋大の押田芳治教授(スポーツ医学)らがこんな研究まとめ,神戸市で開かれている日本肥満学界で27日、発表した。メタボリックシンドロームは、食べ過ぎなどで内臓脂肪がたまり、糖尿病や高血圧などになりやすくなった状態。アディポネクチンという物質の分泌が減り、動脈硬化になる危険性があるとされる。女性27人に協力してもらい、毎日の歩数を3ヶ月間記録し、血液中のアデイポネクチン濃度を調べた。毎日1万歩以上か、2千歩以上早足で歩いていた人たちは、運動前より2割以上高くなった。

2006年11月6日月曜日

つたない経営者よ、荒野をめざせ

つたない経営者、私の大きな悩み    

 

(注)この文章は社内用に作成したものだが、弊社の求人募集に応じてくれる方々が多くいることも念頭において、社外の人にも弊社の経営方針の一部でも知ってもらったほうがいいと判断して公開した。



 

 

27期(平成17 9/1~ 18 8/31)が終わって、申告を先日の10月31日に行った。同日に納税も済ませた。急成長期突入の故、決算内容はよかったけれど、まだまだ流動資金が足りなくて、納税資金を調達するのに、大変だった。経理事務所からは、後2~3期は大変な思いをしなくちゃならないでしょう、とのこと。


決算内容を詳細にチェックしたが、細かい数字についてはよく解らないのが実感だけれども、なんだか、私は、不思議な精神状態に陥ってしまった。


この不思議な感覚は、何んや? 何故? どういうことなのだろうか?


このことが、この文章を綴る動機になった。



 

 

この不思議な感覚は、「会社は誰のもの?」について考えると、はっきりしてくるのではないかと思いついた。


「会社は誰のもの?」について、経営者(役員)、社員、株主、関係者等は同一の認識を共有しなければならない、と考えている。


私以外の者がどのように考えようが、金輪際、お構いなしに、私流に考証を巡らしてみる。



 

 

決算が真っ赤、火達磨状態の時に、社員に対して「会社は誰のもの?」と聞いたら皆はどのように応えるだろうか。


「私は会社のスタッフの一人です。会社あっての私ですから、会社が存在するかぎり、死にもの狂いで頑張ります」と応える者は、まあ、余程、達観している奴でないかぎり、言いきれないだろう。


でも、普通の経営者だった私、の会社には、地獄のどん底をさ迷っていたとき、会社と運命を共にと、艱難辛苦、無我夢中で頑張ってくれた社員がいた。今のN村専務だ。稀有な、奇特な人物だ。彼の良さは、苦しいことも、あたかも楽しい事を行うが如くこなしてみせた。


こんな社員ばかりなら、何も、この課題の考証を進めることもない。



 

 

*社員は、働き手としての権利・義務、そして所属する会社との取り組み、関わり方を、経営者に対して明確に意思表示すべきだ。


*経営者は、社員に対して、労働の対価を、何を、どれだけ、どのようにして、用意してあげられるかを精一杯、考えることだ。



 

 

そこで、今回の決算〆で、私が感じたことを露骨に話す。「会社は誰のもの?」。こんなことは、つたない経営者と言えども、私は、基礎素養として、既に当たり前のように身につけている。


が、しかし、会社は社員のものでもあるんだ、ということに、なかなか気が行き届かなかったのが正直なところだ。今回の決算に記載されている数字は、全てのスタッフの日常活動の、よかれ悪かれの成果なのだ。多くの社員は当然社員として、社長、専務も役員として、社員として働いた。その社員等が一年間頑張った成果が年次の決算書で、その一年一年の積み重ねが、直近の決算書の累計(資産の部)であり、(負債・純資産の部)である。



 

 

私は、我が社は、『(会社は社員のものでもあるんだ)改革』の手始めに、先ず,後記の事をトライしてみたい。



 

 

早速、取り込んでみたいと思っているのが、社員に株を持ってもらうことです。社長や専務が、独占していてもしょうがないのではないか。社員に褒賞として、分け与えていくべきではないか。


そうすることで、会社は社員のものでもあるんだ、ということになるのではないか。会社が良くなれば、良くなるだけ、社員も経営者も、もっと良くしたいと思うのではないだろうか。社員も株主として、業務の励みになれば、こんなにいいことはない。


役員の両名とよく相談して、できるだけ早い時期に、この案を実行したい。



 

 

前の方で書いた、不思議な感覚とは、実は我が社の将来に対する恐怖や不安が入り混じった感覚だったのだ。会社がよくなれば、よくなるだけ、会社の存在の重要性が増してくる。内外に対しての責任が重くなる。


もっと正直に言えば、決算書を見ていて怖くなってきたのです。二人っきりの株主で、役員が三人だけで、経理・経営に不慣れな監査役では心配三昧だ。


こんな状態で、今後の我が社の飛躍的な発展はあるのか?


もう、停まる(留まる、止まる)わけにはいかないのです。縮小するわけにもいかないのです。


今こそ、社内の体制、組織、を見直して、自由で闊達で、生き生きした組織に、あらためて脱皮したいものです。労使?がお互いの壁を破った組織をイメージしている。


親・女房・子供に、我が社を取り巻く誰に対しても、誇れる会社にしたい。


お客さんには、いい商品を提供して喜ばれたい。




そして、不思議な感覚に陥らないようになりたいものです。

2006年11月1日水曜日

田口 苦闘5年。みんな そう(壮)に学べ!!

カージナルス ワールドシリーズ優勝 田口 世界一 苦闘5年         (朝日新聞 2006年10月28日 夕刊)         


 


2006年10月27日 「日本時間28日」のワールドシリーズ第5戦。ナ・リーグ覇者のタイガースに4-3で勝利。1勝1敗から本拠で3連勝し、24年ぶりの栄冠をつかみとった。


いつも通りの献身的なプレーを貫いた。2回無死1塁で3前にセフチイーバンド。


「自分の仕事は記録を追うことじゃない。いかにチームを勝ちに近づけるか」


4回には中前安打を放ち、逆転のホームを踏んだ。


 


 


入団当初のキャンプで「打力が弱い」と判断され、3Aへ落とされた。メジャーに上がってもすぐにすぐにマイナーに逆戻り。ひび割れたヘルメットをかぶり、長時間のバス移動を経験した。2年目には、開幕当日に3A行き。苦闘の中で、生き残るすべてを探した。ラルーサ監督の掲げる緻密な野球に適応しようと守備を磨き、相手投手を研究して打力をつけ、はい上がった。指揮官は言う。「ハードにプレーし、ミスをしない。これがうちの野球だ」。その象徴が背番号99だった。


第1戦でバットを投げ出して進塁打を打ち、第3戦は右翼で好守を連発。4,5戦ではきっちり犠打を決めた。


第5戦では、8番左翼で今シーズン3度目の先発だ。






田口の今までの行動に学ぼう  職人、メジャーに「証し」  


   以下  私                                                


5年前、オリックスからメジャーのカージナルスに入団した。その記者会見で、英語だけで受け応えしていたことが、すごく印象に残っていた。それも、冗句をまじえながら。


当時、田口のことには、正直、関心が無かった。私は、特別、何かに秀でている選手ではないと、思っていたのだろうか?


メジャーで活躍する他の選手のことは、ことあるごとに、マスコミで騒がれ、いや応なしに報道される。表舞台はいつも、賑やかで、華々しい。


かたや田口のことは、苦労していることばかりがテレビのちょっとした特集で報道されていたぐらい。マイナーで健気に頑張っている練習風景など。守備では高い評価を受けながら、どうしても打力が貧弱だと評価されていたのだろう。


でも、メジャーに戻ってきたこともしばしば、あった。ところが、メジャーに復帰しても数すくないチャンスに、守備ではそつが無いが、どうしても打力では目立った貢献はできなかった。


でも、時には打力でも頑張っていたんだけどなあ、と、私は思っていたんだ。


そんな数年のうちにも、田口は精進を重ね、メジャーでの活躍のための準備を着々と積み上げて来ていたのだ。


監督を含め、取り巻くコーチ陣は田口の成長をきっちり認めていたのだろう。田口、監督等は、相互に、求めているもの、求められているもの、の共通認識がなされていたのだろう。言葉を交わすまでもなく、よく理解し合っていたのだろう。


今シーズンは先発3回のみ。


ベンチで待機していて、監督からの指示を待つ。


だから。打数、打率、塁打数、では決していい数字ではない筈だ。


が、田口は、田口を必要がられたときの貢献度が高いのだろう。だって、ベンチ入りができる人数は決められている。そのなかに入れるだけの価値を認められているのだから。


塁にいる走者を次の塁に進めるために犠打の指示を受ける。流れを変えたいときに呼ばれては代打を命じられる、ここ一番の守りに、左翼に右翼に、ワンポイント守備だ。


試合を進めていく過程で、要所要所に、ピンチがありチャンスがある。指揮官は、その場から、最大の収穫を得ること、最少の損出に抑えること、に苦心する。


指揮官の指示に従って、確実に仕事をこなす。


田口は、立派に与えられた仕事をこなせられる優秀なスタッフの一員に成長した。今回、その評価を十二分に受けた。


田口は、職人として?傭兵になって?


ラルーサ監督は、ワールドシリーズの優勝を決めた最初のインタービューで、イの一番にソウ(田口のこと)のことを褒めた。




田口から、彼の生き方から学ばせてもらうことは、いっぱいあるぞ。




田口は語る=物事は飛躍的には進まない。少しずつ積み重ねがあって、ここまでこられた。2Aも含めていろいろな経験をさせてもらい、ファンの辛い時に励まされた。すごく幸せだと思う。



フロリダの青空の下、大きな瞳を潤ませた。腕にカージナルスのユニホームを着た息子を抱き上げて、観衆に応えた。


翌日のパレードでは、オープンカーに奥さんと息子も一緒だったと、聞いた。


      リックス 仰木監督は、トルネード投法の野茂、振り子打法のイチローに次いで、「世界一」の田口を、メジャーに送り込み、大きく花を咲かせたことになる。野茂は私から見れば、奇っ怪な投法でバタバタ三振をとり、イチローはあたかもピンポンのように、何ぼでもヒットを打った。又、イチローは今春のWBCで優勝のための大役を果たした。田口はいぶし銀の職人芸を磨いた。 田口は語る=トニー(ラルーサ監督)も仰木監督と似ている。突然使われるし、打順も何番でも打たされる 優勝を決めた日、田口のスタメン発表の放送に応えて、観衆は一際拍手がおお、、


仰木さん、天国での気分は、さぞかし満足じゃろう。                                        


        


 

2006年10月29日日曜日

やっぱり、今回も、ペンキ屋さんをやっちゃった

昨年9月14日に、今の此処 天王町のパラジス・ハウスに引っ越してきた。中古だけれども、私達にとっては、誇らしくも、輝かしい建物だ。3階建の堂々としたビルだ(私だけかな、このように感じるのは。贔屓過ぎるか!)。余計な話かも知れないが、地下室だってあるんだぜ。現在、地下室は卓球場だ。

会社の発展を期して、スタッフの大幅な増員計画をたてている。そのための、将来を見据えてのレイアウトの変更、事務机等の増設。そして社外、社内のスタッフの動線変更による、通路確保。それに関する造作製作。     そこでだ。新規で造作すると、造作した物には必ず何かをもって、化粧することを求められる。 

 そこでだ。ペンキ屋さんとしての私の登場に、必ず、相成り候だ。

事務所内の基調色は、緑、薄黄色、白、グレーだ。とりわけ枠周りは濃い緑色で統一している。その枠周りを塗装することが、伝統的に私の担当だ。

事務所が、関内にあったときも、東戸塚にあったときも、塗装に関しては、私のの専権行為だ。

何故、そんなことになってしまったのか?は解らないが、私自ら、自然に出っ張って、気が付いたときには、片手にブラシ、もう片手にはペンキの缶、状態。そんな風にして、塗装はヤ○オ△だ、になってしまったようだ。嬉しい、自然の成り行きです。ペンキを塗ることで室内の様相が一変する。室内が新たな雰囲気になって、スタッフがいい気分を味わってくれることが、私の快感をそそる。そのショッキング?が、私のショッキングなのだろう。

今回のリフォームは大改造・大変身ではないが、小さい工事でさえも、こんなに楽しい思いをさせてもれえるのは、オジサン(私)の役得かな。スタッフは通常業務でテンヤワンヤの大忙しの最中。私は、昨日も今日も、やっぱり、ペンキ屋で終わってしまった。

2006年10月27日金曜日

営業報告書(平成17年9月1日~平成18年8月31日)
 

1.営業の状況
(1)営業の経過及び成果
前期(第27期)の業績を反映し、28期施策として事業拡大強化の舵取りを選択。その3大施策(以下、1.2.3)として
1.                          不動産情報の量的拡大は、仕入営業マンによる情報チャンネルの構築次第であると考え積極的な「営業要員の採用」を志向。
結果、期首6名が期末13名。27期期首在庫が66件予定売上19億、28期期首在庫が127件予定売上50億と現れているように、27期売上にも大きく寄与した。
2.                          第26期、27期に育成事業と捉えていた「開発事業」「静岡地区事業」を本事業の柱の一つと転換し、事業の多様化による信用度UP、経営資源のリスク分散等を志向。結果、「静岡地区事業」では、三島沼津富士・静岡・浜松三地域展開により、激化する川崎・横浜地区での競売事業の売上利益の減少を上回る成果を得た。又、「開発事業」においては、共同事業の形態で出発した「宅地開発」が、国道16号線内外で自力展開(継続中も含め、6現場)。更に、他社ディべロッパーに転売した「淵野辺マンション」の経験の下、伊勢原市桜台にて32戸のマンション建設に着手した。また、相模原市「北里大学病院前」に900㎡の土地を取得し、ビジネスホテル建設をなし、「ホテル1-2-3」が賃借し、投資用物件として販売するスキームができ、今後の事業展開の一つの軸のプロトタイプができた。
3.                          平成17年6月に関連会社「㈱湘南ベストホーム」合併にともない、「個人力」から「組織力」への転換を図るべく、組織・規約・権限等の社内整備に着手。
  数値等目に見えない形ながら、仕入営業・商品化企画・販売・契約管理の事業の流れの道程ができ、効率性・スピード化が図れる成果がでた。
4.                          情報の中に商売の鍵をみる・・・・・・即ち、マーケティング力を活かす成果として、「投資用物件用地」を主としたディべロッパーの物件不足からくる「高買い」傾向に着目し、利益貢献に大きく寄与した。
 

(2)28期施策と展望
1.                         事業軸の明確化・高度化
  中古住宅(戸建・マンション)をリフォームし転売する「リノベーション」事業を主力とし、以下「分譲マンション事業」「宅地開発事業」「住宅建築事業」「収益物件建設事業」「新築戸建住宅建設事業」の6分類し、各事業の精度を高める。
2.                         効率的・機能的組織の本格稼動
仕入・商品化をになう「営業部(3部制)」、専門家のネットワークを組織化し、「営業部」の技術的な補佐および開発事業を担う「開発部」、増加かつ多様化する販売商品の流通化と同時に物件監査を担う「販売部」、育成部門ではあるが個人住宅を請け負う「建築部」また事業部門を支える「管理部」を当社組織とし
★    「UB業務マネージメント システム」(CPオンラインを活用した当社独自のシステム)による業務運営
★    「権限・責任」を明確にした「内部規約」・「稟議・伺い」制度による運営
 

これらをもって、28期はスタートします。
  3.今期の目標
当社事業は「人的要素の反映」である「情報力」に決定することから、仕入営業部員を期末には20名体制を構築しつつ、予算設定として
28期売上 87億35百万 PJ利益8億43百万 
28期仕入 264物件
    と設定、「横浜で一番元気な会社」として鋭意努力しております。
    なお、29期においては「伊勢原マンション」「相模原ビジネスホテル」の売上が見込まれ、28期の目標達成することにより売上100億の大台になることが予測されます。

2006年10月26日木曜日

やったぜ27期 チャレンジ28期

営業報告書

(平成17年9月1日~平成18年8月31日)


 1.営業の状況

営業の状況
(1)営業の経過及び成果
前期(第27期)の業績を反映し、28期施策として事業拡大強化の舵取りを選択。その3大施策(以下、1.2.3)とし


1.不動産情報の量的拡大は、仕入営業マンによる情報チャンネルの構築次第であると考え積極的な「営業要員の採用」を志向。
結果、期首6名が期末13名。27期期首在庫が66件予定売上19億、28期期首在庫が127件予定売上50億と現れているように、27期売上にも大きく寄与した。
2.第26期、27期に育成事業と捉えていた「開発事業」「静岡地区事業」を本事業の柱の一つと転換し、事業の多様化による信用度UP、経営資源のリスク分散等を志向。結果、「静岡地区事業」では、三島沼津富士・静岡・浜松三地域展開により、激化する川崎・横浜地区での競売事業の売上利益の減少を上回る成果を得た。又、「開発事業」においては、共同事業の形態で出発した「宅地開発」が、国道16号線内外で自力展開(継続中も含め、6現場)。更に、他社ディべロッパーに転売した「淵野辺マンション」の経験の下、伊勢原市桜台にて32戸のマンション建設に着手した。また、相模原市「北里大学病院前」に900㎡の土地を取得し、ビジネスホテル建設をなし、「ホテル1-2-3」が賃借し、投資用物件として販売するスキームができ、今後の事業展開の一つの軸のプロトタイプができた。
3. 平成17年6月に関連会社「㈱湘南ベストホーム」合併にともない、「個人力」から「組織力」への転換を図るべく、組織・規約・権限等の社内整備に着手。
 数値等目に見えない形ながら、仕入営業・商品化企画・販売・契約管理の事業の流れの道程ができ、効率性・スピード化が図れる成果がでた。
4. 情報の中に商売の鍵をみる・・・・・・即ち、マーケティング力を活かす成果として、「投資用物件用地」を主としたディべロッパーの物件不足からくる「高買い」傾向に着目し、利益貢献に大きく寄与した。
 

(2)28期施策と展望


1.事業軸の明確化・高度化
中古住宅(戸建・マンション)をリフォームし転売する「リノベーション」事業を主力とし、以下「分譲マンション事業」「宅地開発事業」「住宅建築事業」「収益物件建設事業」「新築戸建住宅建設事業」の6分類し、各事業の精度を高める。
2.効率的・機能的組織の本格稼動
仕入・商品化をになう「営業部(3部制)」、専門家のネットワークを組織化し、「営業部」の技術的な補佐および開発事業を担う「開発部」、増加かつ多様化する販売商品の流通化と同時に物件監査を担う「販売部」、育成部門ではあるが個人住宅を請け負う「建築部」また事業部門を支える「管理部」を当社組織とし
★ 「UB業務マネージメント システム」(CPオンラインを活用した当社独自のシステム)による業務運営
★ 「権限・責任」を明確にした「内部規約」・「稟議・伺い」制度による運営
 これらをもって、28期はスタートします。
3.今期の目標
当社事業は「人的要素の反映」である「情報力」に決定することから、仕入営業部員を期末には20名体制を構築しつつ、予算設定として
28期売上 87億35百万 PJ利益8億43百万 
28期仕入 264物件
と設定、「横浜で一番元気な会社」として鋭意努力しております。

 

(3)来期の目標

なお、29期においては「伊勢原マンション」「相模原ビジネスホテル」の売上が見込まれ、28期の目標達成することにより売上100億の大台になることが予測されます。

2006年10月21日土曜日

安吾さん、お久しぶり

坂口安吾さんが、昨日、天声人語に




18歳から24歳まで、私は、精神的に放浪生活状態だった。二十歳まで、素浪人月影兵庫(当時のテレビドラマのタイトルです。私は、当時、自分のことを、このように言いふらしていました)だった。


1日24時間のうち土方「どかた=肉体労働,若しくは肉体労働者のこと」3分の1、勉強24分の1、享楽3分1、あとは惰眠の生活だった。


経済的には貧乏だったが自立はしていた。


精神はさ迷いながらも、充実感はあった。生きている実感は強かった。


坂口安吾さんの本を初めて手にしたときは、彼の強烈な個性に驚かされた。


瞬間、密着したくなりました。天国の彼は、嫌な顔をしただろうが。


堕落論、日本文化私観、短編小説、探偵物は特に面白かった。でも自伝風小説に、付き合うには苦労した。どだい、面白くなかった。


お馴染みの、ロイド眼鏡をかけて卓袱台の原稿にむかう安吾さんの写真は、すっかり、私の脳裏に焼き付けられた。


裏日本の冬の海岸、荒波を背に、寒風に吹かれて歩く、マンとのオジサンがとっても好きになってしまった。


「法隆寺なんか、糞喰らえだ」なんて、安吾さん風に言っちゃっては、お蔭様で、いい酒を飲まして頂いた。


反骨精神、山盛り。


肝っ玉の小さい私に、勇気をいっぱい与えてくれました。


大学での4年間、私の精神の心棒だった。文庫本は少なかった。単行本は古本屋で買い漁った。





安吾さんとほぼ同時期の作家が、何故か、当時の私を虜にしてくれました



太宰 治さんの人間としての優しさ、弱さに泣かされた。


織田作之助の市井の人情戯作物に笑わされた。


田中英光には漕艇選手の純愛シリーズに心ときめかされ、後、労働争議からの脱落・失望に、同情させられた。


太宰 治さんからは、井伏鱒二さん、亀井勝一郎、奥野健夫、三島由紀夫、を紹介して頂きました?。




その安吾さんが、天声人語に登場したものだから、書き写しておこうと思った。



天声人語 2006年10月20日 朝刊


「走高跳 坂口 一米五七 一等」。後に作家となる坂口安吾は、1924年、大正13年の秋に東京で開かれた全国中等学校陸上競技大会で優勝した。それを伝える本紙からの抜粋だ。この日は大雨で、助走路の状態が悪かったという。他の選手たちが左足で踏み切るところは、水たまりになっていた。「私はそうでないところでふみきるから、楽々と勝った」。安吾は右足からの踏み切りだった。「「世界新記録病」『坂口安吾全集』筑摩書房9.運動に熱中していた17歳のころの、青春の記録だ。安吾は、ちょうど100年前の1906年10月20日に新潟市で生まれた。













新潟市は今年、生誕100周年を記念して「安吾賞」を創設した。安吾のように、反骨精神で社会に挑戦し、感動や勇気を与えた個人や団体が対象で、劇作家の野田秀樹さんが初の受賞者となった。戦後、「堕落論」などで注目された安吾の反骨ぶりは、並大抵ではない。「表現されねばならないことは、ただ一つ、自由の確立というだけ」と述べている。自由の確立とは、権威や組織に頼ることなく、自らの意思で生きることだろう。結果については、すべて自らが背負う覚悟が要る。安吾は、凡人ならたじろぐこの厳しい世界に、ずいっと入ってゆく。それは、まずまねのできないことだ。しかし、誰の人生にも、ひょっとしたらそんな瞬間はあったのではないか。そう感じさせるところが、安吾の生と文学にはあるようだ。なにものかに管理される社会が続く限り、安吾は読み継がれてゆくだろう。

                       以上


                                          


       


2006年10月20日金曜日

滝川市教委の調査報告前に、また福岡で中2自殺

滝川市教委の実態調査の報告がなされるのを、待っていたのだ。

イジメがあったという、決定的な 事実が認められなかったとか、亡くなって半年も事実の公表をしなかったり、遺書を手紙と言い換えたり、市教委のとった行動は、不愉快だった。日毎、怒髪天をも貫く怒りを感じていた。どんな報告が発表されるのか、待っていた。

自殺をした子供の周辺環境はどうだったのだろう。家庭、兄弟姉妹、近所の人達、級友、担任の先生、校長、教育委員会の人達は、どんな行動をとったのだろうか。胸襟広げて、何もかも話せる友人も居た筈だ。その友人は、今、何と思っているのだろう。苦しみを理解してあげられなかったことに、悔しい思いをしていることだろう。直接イジメ行為をした級友は、今、何を思って暮らしているのだろうか。見て見ぬふりをして過ごした級友は、今、どんな気持ちでいるのだろうか。担任の先生は、本当にイジメがあったことを知らなかったのだろうか。担任から密かに報告を受けた学年主任、教頭、校長は、とっさにどんな行動をとったのですか。その後、どう対処しょうとしたのか。イジメがなかったことのように、どのようにすれば、隠し通せるか、頭つき合わせて、色々な策に精をだしたのではないのですか。解らなかった、と言ってしまえば、もうそれでおしまいだ、と。私の詮索は、図星でしょう。

相談した結果の結論は、私には、解っています。イジメがあったということだけは、公の場では言ってはいけないのだよ。どんな追求の質問に対しても、だよ。いいか、イジメがあった、なんて言ってしまったら、おしまい だ。負けだ。 じゃ ないのか。

悲惨な事態が起こった時、校長等は教育委員会にどのように報告して、どのような指示を受けたのか。意識の戻らない状態だった子供のことを、半年間も、本当にイジメの決定的な事実はなかったと信じて、ほっぽらかしておいて、平気だったのか。何か、ちょっと、可笑しいぞとは、思わなかったのか。やっぱり、握りつぶしちゃえ、と。できれば、このまま終わって欲しいと。どうしてそんな結論をだしてしまったの。自分たちが、まずいことになるから。誰かに、えらくお叱りをうけるから、それが恐ろしかったから。

事件の全貌を明らかにされない、日々が続いた。

もやもやした精神状態のまま、実体調査の結果を待って居た。

矢先に、心配していた悲劇が、又、起こった。

 

 

朝日新聞の社説より     2006 10 18   子供の叫びを聴け

また、いじめが引き金になって子供の命が失われてしまった。福岡県筑前町の三輪中学校に通う2年の男子生徒が、いじめを受けたとの遺書を残して自殺した。あろうことか、いじめの発端は1年の時の担任教師だった。学校などによると、生徒がたびたび早退し、自宅でインターネットのサイトを見ていたため、母親がこの教師に相談した。教師はその内容を同級生に暴露した。それが発端となって嫌なあだ名をつけられ、いじめが広がった。友人が落とした文具を拾ってあげた生徒に、教師が「偽善者にもなれなかった偽善者」と言ったこともあった。教師は生徒の両親に「からかいやすかった」と釈明した。強い立場にある教師にとっては悪ふざけや冗談であっても、受けた側には暴力そのものだ。頼りにする先生からの仕打ちにどんなに傷ついたか。子を持つ親ならずとも、強い憤りを覚えることだろう。20年前、東京都中野区の中学2年生が、「このままじゃ、『生き地獄』になっちゃう」との遺書を残して命を絶った。「葬式ごっこ」という陰湿ないじめが横行しし、しかも4人の教師が加担していたことに社会は大きな衝撃を受けた。今回は担任がいじめを主導したといっても過言ではない。より悪質と言えよう。こんな教師は例外的な存在と思いたいが、教育の現場はどうなのか。文部科学省が集計する小・中・高校のいじめは昨年度で約2万件だ。一方、自殺は105件あったが、いじめが原因とされたのは99年度以降では皆無だという。一見、落ち着いたかに見える。だが、昨年9月、北海道滝川市の小学校でいじめに苦しんで自殺した小学6年の女児は遺書で訴えていたのに、学校も市教委も黙殺していた。三輪中学校でも、ここ数年、7,8件のいじめが起きていた。それなのに、校長は町教委に「0件」と報告していた。ことを荒立たせず、内密に済ませようとする学校、都合のいい報告を鵜呑みにして現実から目をそらす行政。両社のもたれあいが、弱いものいじめを許している。そのうえ、教師が加担したり、見逃したりしていれば、子供が救いを求める先がなくなってしまう。こうした事態にどう対処すればいいのか。参考になる例がある。兵庫県川西市は99年、第三者機関として「子供の人権オンブズパーソン」制度をもうけた。全国でも初の試みで、弁護士や医師らが電話相談をもとに独自に調査し、問題があれば学校や親に勧告する。昨年の相談件数は588件。うち4割が子供からの相談だった。最悪の事態を防ぐセーフネットの役割を果たしている。悲劇を根絶するには、子供達の叫びに周りの大人が真剣に耳を傾け、いじめを決して許さない姿勢を貫くことしかない。   以上

中2男子イジメ自殺事件で、学校の説明が二転三転した。自殺当日、この生徒は学校のトイレで、同級生に肩を押さえられ、ズボンを少し下ろされていた。その事実は14日、告別式後の記者会見で校長が認めた。だが、前日に報道陣の取材に「トイレにいた男子生徒7人から事情を聴いたとしながら「本人が言ったことに(周囲が)反応しないことが度重なっていたようだ」としか説明しなかった。

イジメとの因果関係が注目されている1年生当時の担任教諭の「偽善者」などという言動も、遺族が元担任らとのやりとりを公開したことで明るみに出て、学校側が認めた。

事件の背景解明をめぐっても迷走が続いた。自殺後に生徒らにとったアンケートで「いじめがある」と回答した生徒の割合を記者会見で質問され、校長はいったん「非常に少ない」と説明した。が、さらに聞かれると「1割とかそれくらいではないか」。

校長が生徒に事件の説明に、イジメという言葉を使わずに、プレッシャーという言葉を用いていた。記者会見で、何故、イジメという言葉を使わなかったのですか? との質問に、私の人間としての弱さが、そういう物言いになった。と、このような言い方で応じていた。笑止千万や。 アホか。

 

ヤンキー先生こと義家弘介氏=これだけイジメが起きても、教師達は「知らない」という。教師は忙しいとも言うが、人の命以上に大切なものはあるのか。子供が死ぬほど悩んだことに気がつかない現場なら、いらない。  市町村の教育委員会は機能していない。教育委員が組合推薦がなければ選ばれないとか、あて職や名誉職もある。自殺した子供が遺書を残していた事実を1年以上も非公開にしていた教委に何の権限も渡せない。国が教委評価をやるべきだ。

私の田舎の教育委員会は、地元の名士だった。入学式、卒業式には演台で、上手にお話をされていた。教育に燃えている人のようには、窺がえなかった。

教育委員会の功罪検証を、今後の課題にしたい。

 

次から次と、新情報が新聞各紙にて報道されている。

先生のイジメをみて、生徒がまねをしたとか、別の先生もイジメを行っていた事実がアンケートで判明した。

2006年10月19日木曜日

近代トルコ成立期の「負の歴史」と日本・南京大虐殺

東京裁判「極東軍事裁判」で、明らかにされた「南京大虐殺」。

戦中の厳しい言論統制化、国内では知る人はほとんど居なかった。 この事件のことを以前学習したことがあった。朝日新聞のトルコ アルメニア人大量殺害事件の記事を読んで、かっての「南京大虐殺」問題を日本はどう総括したのかと、再び考える機会になってしまった。ちなみに、ナチス追及もヨーロッパの各地で地道に続いている。

新聞記事は、「南京大虐殺はなかった、いやあることはあったが、某氏が主張するほど、大量虐殺ではではなかった論争」に類似した話題であったので、新聞から記事を転載させていただいた。私自身、ほぼ40年前の学生時代に、双方相対で主張しあう論争に関心を持った。が、その結論が出て、政府が公式なコメントでも発するのかな、と思っていたのだが、それはいまだに、なし状態だ。

以前に集めた資料を一部紹介でもしようかとも考えたのですが、誤解を招くとまずいと考え、やめました。でも私には、事件を一部でも立証するための資料(それは、私の無二の友人の父親の証言です)を持ち合わせていました。その父親の証言で全貌を明らかにするには、無理かもしれません。でも、十二分に理解できる内容でした。

満州事変以来の日本と中国との戦争は、まぎれもない日本の「侵略」戦争であった。こんなあたりまえのことでも、政府見解として、どうして?渋って渋ってコメントしなければ、ならないのか。侵略ではないと広言する国会議員が、まだまだ大勢居る現状だ。心配していた安倍首相は、所信演説でちゃんと中韓を含めた国々に対して、侵略して苦痛を与えて申し訳なかった述べた。溜飲。

さて、皆さんは、どういう感想をおもちになるのでしょうか?過去の忌まわしい事件をどう?総括すべきなのか。日本の戦後処理の(いまだに、すっきりしない)あやふやな、いいかげんな処理について、不満なのは私だけでしょうか。

 

 

以下は朝日新聞の記事より

フランスでは近年、第2次世界大戦中の対独協力政権によるユダヤ人迫害の責任や奴隷貿易の過去を問い直す動きが広がる。

「トルコはオスマン帝国時代の人道犯罪にも責任を負う」と、法案を「歴史見直し」の延長に位置づける見方がある。

だが、歴史解釈に踏み込む法律が自由な研究や言論を封じるとの批判は仏国内にも強く、論争に火がつきそうだ。

 

 

今、ヨーロッパでトルコ、フランスが熱い   2006 10 14 朝日(朝)

20世紀初頭オスマントルコが崩壊し、近代トルコが成立する時期に起きたアルメニア人大量殺害が、にわかに世界の注目を浴びている。

フランス議会が12日、これを「民族虐殺(ジェノサイド)」だと認めない者を処罰する法案を可決した。

同じ日に、虐殺に触れた発言を理由にトルコ国内で訴追された作家オルハン・ハムク氏(54)がノーベル文学賞に選ばれた。

トルコでの民族主義の高まりも懸念され、欧州連合加盟をめざすトルコ政府は苦慮している。

 

仏で否定処罰法案

仏下院が12日に可決した法案は、アルメニア人の民族虐殺を否定した者には1年以内の禁固刑と4万6千ユーロ(約670万円)以下の罰金、または、そのいずれかを科す内容。賛成106 反対19で可決した。法成立には、さらに上院での可決、大統領の署名が必要だ.

在仏のアルメニア系住民は40万人以上と西欧最大。

01年にアルメニア人虐殺を「民族虐殺」と認定する法律が成立後、ナチスによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)と同様に、否定した者を罰する法律の制定を求めて運動していた。

 

 

トルコ国内で訴追されたパムク氏に、ノーベル文学賞

虐殺発言で訴追=「100万人のアルマニア人が殺されたが、私以外に誰も語ろうとしない」。パムク氏は昨年2月にスイス紙とのインタービューで、そう発言した。イスタンプール市の検察官は、同年8月、「国家侮辱罪」でパムク氏を告発。有罪なら6ヶ月から3年の懲役刑となる。EU加盟を望むトルコに言論のじ自由などの人権状況の改善を強く要求していた。同年12月の初公判は手続きの確認だけで、イスタンプール地裁は今年1月、理由を明らかにせず訴訟打ち切りを決定。裁判は実質審理のないまま幕を閉じた。EUに配慮した政治的判断と見られる。

トルコ猛反発

トルコ外務省は12日、仏下院の法案可決を受けて、「仏政治家の無責任で間違った主張が両国関係に深刻な打撃を与えた」との声明を出した。

 

 

 

 

アルメニア人虐殺問題

アルメニア人はキリスト教徒で、オスマン帝国内に多数住んでいた。第1次大戦中の1915年、同帝国はアルメニア人が「敵国ロシアに内通している」として強制移住などの措置をとり、大量の犠牲者が出たとされる。アルメニア人は150万人が組織的に虐殺されたと主張。トルコ側は30万~50万人の死者が出たことは認めつつ、戦時下の悲劇だとして虐殺を否定している。大戦に敗れた同帝国は列強に分割され、23年の革命でトルコ共和国が生まれた。

2006年10月15日日曜日

再び、原価ってなんですか?

再び、原価ってなんですか?
 

当社は、個人の住宅建築を原価公開主義にて受注しています。

そのように言っているものの、社内では、何が《原価》なんじゃ、《本当の原価》ってなんじゃ、と常に話し合っています。

 

*     四つ井不動産は、あの大女優Yさんを使って、全国的にテレビコマーシャルを放映。

豪華なパンフレットを大量に制作。日本全国に住宅展示場を展開。

このように、これらの費用を、経費というに名に代えて、また材料費・施工費を上乗せして、見積書に算入される。

お客さんにとっては、真っ平御免なことだ。

*     水道工事会社、電気工事会社、屋根工事会社、左官工事会社、ガス工事会社、材木屋、建材会社、設備機器会社など、それぞれの会社が、事務所を設けている。免許業者になっている業種には、事務所はどうしても必要らしい。各下請け会社の、事務所経費の総量は莫大な金額になる筈です。

(規制緩和が必要ですわ)

事務職員を雇い、または奥さんを専従員にかかえ、片手間な作業にも一人前の給料を支払い、自家用車の維持費とガソリン代は車両費に、家族で外食した飲食代は会議費に、どれもその会社の経費に積み上げられる。

そして、これらの費用は、一般管理費とかの項目で見積書に盛られて、お客様に提出される。

 

 

お客さんにその経費分を負担させているのです。(そんなことで、いいのですかね)

お客さんに尻拭いをさせているのが現状です。(お客さんをバカにするなあ)

 

では、当社では?

原価の原価を徹底的に見直すことだ。一円に至るまで、きちんと説明ができるかどうかだ。

担当者殿、気合を入れて、頑張ってくれ。

偉大なガリレオさんが、アーバンビルドに

かくして、アーバンビルドにガリレオ測量会社ができました 

 


アーバンビルドの測量部門として、独立した法人を設立したい思いに、急に駆られた。測ることは、我々のどんな企画の仕事にとっても出発点だ。〇(ゼロ)を測る、を広告コピーに使っている会社もある。


確かに、〇を測ることを、実現できる会社にしたい。


測量会社を作るたって、どうすりゃいいんだ? 優秀な測量士がいなければ、どうにもならんのです、~社員の言葉より。


思いつくことを先ず実行することだ、と決意を固めて、ハローワークの求人募集の手続きをとるように、スタッフに指示した。


登録するや、もうその翌日に反響があった。


S君だ。


インターネットの凄いこと。登録されたら、夜昼かかわらず情報が流され、希望する者はいつでも、情報を入手することができる。今時に相応しいのだけれども、私には性急過ぎる。もっと、スローであってもいいのでは、とも思う。



 


スタッフ:「社長、会社名をどう?しましょうか?」


私;「Kさん、俺に腹案があるんです。是非、この名前にして欲しいのです。


その名は、ガリレオ・ガリレイです」


Kさん;「ううん、濃いな。ガリレオ・ガリレイをそのまま社名にするのは、無理や。せやけど、ガリレオ システムでどうや?」


私;「わかった。ええよ。それでいこう」ということで、平和的に社名は一分で決まった。


その場で、M・K司法書士に連絡。登記手続きに着手の依頼をした。M・K氏は、我が社の依頼をすべての業務から最優先にしてくれる、最良のサポーターです。



 


そこで、ガリレオ・ガリレイさんって、どんな人?



 


6世紀、当時の世界に権力をもって支配していた教会は、宇宙の中心に地球があり、月、太陽、惑星、および星がその周囲を回っているという天動説の立場にいた。ところが、コペルニクスが地動説を数学的に公式化して、今までの天動説を翻した。


その後、ケプラーが正確な天体観測のデーターを分析し、太陽を中心とするシステムを使い、惑星が楕円上に回っていることで、さまざまな動きを、説明することに成功した。


そこで、我がガリレオ・ガリレイさんの登場です。


彼は、望遠鏡でケプラーの説を裏づける証拠を集め、地動説を確固たるものにした。


彼は、宗教裁判に召喚され、自説を曲げることを教会から強要された。


有名なセリフで、「それでも、地球は回る」と抵抗。


ヨーロッパでは、この天動説から地動説への転換を機に、中世的な世界観から近代的な世界観へと、単に一学問的分野のパラダイム・シフトをはるかに超える大きな転換を達成した。 (パラダイム・ブック C+Fコミュニケーション編・著)より引用させていただきました。



 


そんなこんなで、そろそろ終章に入る。


アーバンビルドは、新しい未来に通じる世界観を築き続けるためにも、新時代のコンセプトを貪欲に求める。その求める作業のなかでこそ、我が社の発展するための核は生まれないものと思っている。


この象徴としての核こそ、天動説を地動説に転換させたエネルギーのようなものではないか?と、私は思いついた。 思考、認識、価値の根源的変革とでも言い換えればいいのだろうか。この根源的変革のことを、我が社では、アーバンビルドのパラダイム シフトと言っている。会社運営のための理念として、利用させていただいている。



 


そんな経緯で


アーバンビルドの分譲するマンションの総称を


Urban Build Paradigm Shift House にしている。


略して、 U.Paradi.s House (パラジス ハウス)



 


我が社には、いつもガリレオ・ガリレイさんがいてくれる。



 


よって、親しみ深く、敬愛やまないガリレオさんが測量会社の社名にもなっていただいたということです わ。コペルニクスさんでもよかったのですが、この会社がただの測量会社で終わらせるわけにはいかないので、やっぱあ、ガリレオさんでなきゃ、イカンのです。



 


長々と、お付き合い有難う御座いました。

2006年10月14日土曜日

06ノーベル平和賞 ユヌス氏

マイクロクレジット年」とした。2006年10月14日 朝日(朝)



06 ノーベル平和賞・ユヌス氏  グラミン(農村)銀行 草の根融資世界へ  

 

無担保で自助促す



 

 

13日発表されたノーベル平和賞を受賞した経済学者ムハマド・ユヌス氏の出発点は、バングラデシュで起きた74年の大飢饉だった。経済理論と現実の隔たりに失望し、農村に足を運んだ。そこから生まれた「マイクロクレジット」と呼ばれる貧困層のための融資制度は世界に発信され、現在アジア、アフリカなど多くの途上国で草の根からの開発の手法として実践されている。


ノーベル財団は受賞理由の中で、ユヌス氏と同氏が設立した「グラミン」銀行の功績について、「文化や文明を超えて最も貧しい人でも自らの手で発展をもたらすことができることを示した」とたたえた。


米国で経済学博士号を取得したユヌス氏は72年、前年独立したばかりの母国バングラデシュに。大飢饉を機に向った農村で出会ったのは、1ドルにも満たない資金に困ったり、高利貸しから借りざるを得なかったりする人々の現実だった。


回収率9割


人口約1億4千万人のバングラデシュは1人当たりの国民総生産が04年現在でも445ドル(約5万3千円)と貧困に苦しむ。貧しい人は返済ができないと信じられ、担保がなければ銀行は融資しなかった。貧しければ、貧しいほど貧困から抜け出す方法がないー。自らの手で、担保なしに村人が連帯責任をとることで融資が受けられる「グラミン」銀行を設立した。


農村(グラミン)を意味する言葉を冠した銀行は、それまでの常識を翻した。人々からの回収率は9割を超えた。銀行として採算がとれることも分かった。


「融資」という手法をとったことについてユヌス氏は、「返済が伴わない援助は人間の尊厳を傷つけて、人々は自助努力や自己責任を忘れがちになる」と強調した。


1億人恩恵


グラミン銀行の成功により、マイクロクレジット制度は90年代以降、草の根からの開発手法として注目され、97年には、マイクロクレジットの信奉者として知られるクリントン米大統領も出席して首脳会議(サミット)がワシントンで開かれた。


グラミン銀行は現在、バングラデシュの約7万の農村で660万人以上に貸し付けている。少額融資の仕組みも世界各地の貧困対策に導入され、対象者は1億人以上と見積もられている。同銀行は携帯電話などのビジネスにも取り組み、市場経済を先導する役割まで担い、「第2の政府」と呼ばれるまでになった。このため本来経済開発に取り組むべきで政府の動きが遅れているとの指摘もある。


00年の国連サミットでは、貧困や飢餓の撲滅、初頭教育の普及、妊産婦や乳幼児死亡率の低下を目指す国連ミレニアム開発目標が採択された。草の根から貧困撲滅の取り組みを始めたユヌス氏とグラミン銀行に改めて国際的な脚光があたる意義は大きい。



 

 

授賞式は12月10日、オスロで、賞金は1千万スウェーデン クローナ(約1億6戦万円)。AP通信によると、ユヌス氏は賞金の一部を貧困層のための食品会社設立に使うと述べた。



 

 

マイクロクレジット(少額融資)



信用力がなく、既存の銀行から借金できない途上国の貧困層に、少額の事業資金を貸し付ける支援制度。物資などを送る援助方式と異なり、人々が自主的な経済活動によって貧困から脱するのを側面支援することに力点を置く。グラミン銀行は少額融資専門銀行の先駆けとされ、そのノウハウが90年代に世界中に広がった。97年には「マイクロクレジット・サミット」が開かれ、国連は05年を「国際マイクロクレジット年」とした。

06ノーベル平和賞 ユヌス氏

2006年10月14日 朝日(朝)


06 ノーベル平和賞・ユヌス氏  グラミン(農村)銀行

 草の根融資世界へ   無担保で自助促す 


13日発表されたノーベル平和賞を受賞した経済学者ムハマド・ユヌス氏の出発点は、バングラデシュで起きた74年の大飢饉だった。


経済理論と現実の隔たりに失望し、農村に足を運んだ。


そこから生まれた「マイクロクレジット」と呼ばれる貧困層のための融資制度は世界に発信され、現在アジア、アフリカなど多くの途上国で草の根からの開発の手法として実践されている。


ノーベル財団は受賞理由の中で、ユヌス氏と同氏が設立した「グラミン」銀行の功績について、「文化や文明を超えて最も貧しい人でも自らの手で発展をもたらすことができることを示した」とたたえた。


米国で経済学博士号を取得したユヌス氏は72年、前年独立したばかりの母国バングラデシュに。


大飢饉を機に向った農村で出会ったのは、1ドルにも満たない資金に困ったり、高利貸しから借りざるを得なかったりする人々の現実だった。


回収率9割


人口約1億4千万人のバングラデシュは1人当たりの国民総生産が04年現在でも445ドル(約5万3千円)と貧困に苦しむ。貧しい人は返済ができないと信じられ、担保がなければ銀行は融資しなかった。


貧しければ、貧しいほど貧困から抜け出す方法がないー。


自らの手で、担保なしに村人が連帯責任をとることで融資が受けられる「グラミン」銀行を設立した。


農村(グラミン)を意味する言葉を冠した銀行は、それまでの常識を翻した。


人々からの回収率は9割を超えた。銀行として採算がとれることも分かった。


「融資」という手法をとったことについてユヌス氏は、「返済が伴わない援助は人間の尊厳を傷つけて、人々は自助努力や自己責任を忘れがちになる」と強調した


恩恵は1億人。



グラミン銀行の成功により、マイクロクレジット制度は90年代以降、草の根からの開発手法として注目され、97年には、マイクロクレジットの信奉者として知られるクリントン米大統領も出席して首脳会議(サミット)がワシントンで開かれた。


グラミン銀行は現在、バングラデシュの約7万の農村で660万人以上に貸し付けている。


少額融資の仕組みも世界各地の貧困対策に導入され、対象者は1億人以上と見積もられている。


同銀行は携帯電話などのビジネスにも取り組み、市場経済を先導する役割まで担い、「第2の政府」と呼ばれるまでになった。このため本来経済開発に取り組むべきで政府の動きが遅れているとの指摘もある。


00年の国連サミットでは、貧困や飢餓の撲滅、初頭教育の普及、妊産婦や乳幼児死亡率の低下を目指す国連ミレニアム開発目標が採択された。草の根から貧困撲滅の取り組みを始めたユヌス氏とグラミン銀行に改めて国際的な脚光があたる意義は大きい。



 

 

授賞式は12月10日、オスロで、賞金は1千万スウェーデン クローナ(約1億6戦万円)。AP通信によると、ユヌス氏は賞金の一部を貧困層のための食品会社設立に使うと述べた。



 

 

マイクロクレジット(少額融資)


信用力がなく、既存の銀行から借金できない途上国の貧困層に、少額の事業資金を貸し付ける支援制度。

物資などを送る援助方式と異なり、人々が自主的な経済活動によって貧困から脱するのを側面支援することに力点を置く。

グラミン銀行は少額融資専門銀行の先駆けとされ、そのノウハウが90年代に世界中に広がった。97年には「マイクロクレジット・サミット」が開かれ、国連は05年を「国際マイクロクレジット年」とした。

リスクを冒す オシム

2006年8月19日  朝日 夕



窓  論説委員室より     リスクを冒す 



                      (西山良太郎)



「リスクを冒さなければ、未来は開けない。それは人生と同じだ」
サッカーの日本代表を率いるオシム監督は、初の公式戦に臨んだイエメン戦のハーフタイムで、選手にそう叫んだそうだ。敵地での試合とあって守り一辺倒で身構えるイエメンに、前半の日本は後方の守備ラインで球を回す場面ばかりが目立った。

ミスを気にするあまり、失敗の危険を自ら背負って攻めようとする選手が少ないことに、新監督は業を煮やしたのだろう。


オシム監督はサラエボで生まれた。民族対立による内戦で母国ユーゴスラビアは消え、今は分裂国家の一つボスニア・ヘルツェゴビナに姿を変えている。


監督自身、そこでは命の危険や家族が離散する苦境も味わった。サッカーを楽しめる平和の重みは身にしみている。


だから日本の選手が歯がゆい、と書くのは短略に過ぎるが、戦略や戦術だけでは強くできないと考えているのは間違いない。


監督の軌跡をたどった、「オシムの言葉」(集英社インターナショナル)にはこんな分析がでてくる。


「日本人は平均的な地位、中間に甘んじるきらいがある。受身過ぎる。(精神的に)周囲に左右されることが多い。フットボールの世界ではもっと批判に強くならなければ」


65歳の新監督が立ち向かっている相手は、戦後の日本社会の風土そのものだ。挑んでいるものの大きさには、ちょっとたじろぐものがある。



 

アーミッシュには、驚かされた 米国学内銃撃事件


2006年10月7日 朝日新聞 



アーミッシュ流にメディア驚嘆 少女「私から撃って」 

容疑者家族に「許し」 


2日に、米ペンシルベニア州のアーミッシュの学校で女児5人が殺され、5人が重傷を負った銃撃事件が起こった。


容疑者は事件発生後自殺した。容疑者の女児に対する性的暴力願望があったとみられている。


撃たれて死亡した5人の女児の埋葬が6日、終わった。


暴力を排して生きるアーミッシュの人たちは、理由なき暴力に巻き込まれた直後から、許しをもって容疑者の家族に接した。


その対応ぶりは、米メディアは驚きの目をもって報道を続けている。


「私から撃ってください」。


亡くなった中で最年長だったマリアン・フィッシャ―さん(13)は、教室に残された10人の女児を容疑者が撃つつもりだとわかったとき、そう進み出した。


マリアンさんの妹で、病院で意識を回復したバービーさん(11)の話を聞いた人の話しとして、複数のメディアが伝えている。バービーさんも、「その次は私を」と続けたという。2人は、より小さな子供達を助けたい一心だったという。


容疑者の家族は、アーミッシュの一員ではないものの、地域に住んでいる。


アーミッシュの人たちはこの家族を事件の夜から訪ねて許しを表明し、手をさしのべたと伝えられる。


容疑者の家族は現地の主教を通じて被害者の家族への面会を求め、遺族の一部は容疑者の家族を子供の葬儀に招いたという。


アーミッシュの世界は現代的暮らしや暴力を排し、死後の世界への強い信仰をもっているとされる。


一般に「力」が信奉される米国で、悲嘆にくれる中にも暴力を許して包み込む生き方に、米メディアは


「慈悲の深さは理解を超える」


「女の子の驚くべき勇気」などとして報道している。



アーミッシュ キリスト教メノー派に属するスイス人 ヤコブ・アマンが17世紀に始めた宗派で、18世紀に米国に伝わったとされる。

聖書を厳格に解釈し、現代的な暮らしや暴力を否定する。

男性は幅広の帽子をかぶって、長いひげを生やし、女性は頭髪を隠して黒い靴を履くのが基本。

馬車に乗り、電気製品を使わない。

ペンシルベニア・ダッチと呼ばれる独自の言語を持ち、子供への教育も主に自分達で行う。

ペンシルベニア州やオハイオ州などに十数万が住んでいるとされる。 

再び、原価ってなんですか?

当社は、個人の住宅建築を原価公開主義にて受注しています。そのように言っているものの、社内では、何が《原価》なんじゃ、《本当の原価》ってなんじゃ、と常に話し合っています。

*     四つ井不動産は、あの大女優Yさんを使って、全国的にテレビコマーシャルを放映。豪華なパンフレットを大量に制作。日本全国に住宅展示場を展開。 このように、これらの費用を、経費というに名に代えて、また材料費・施工費を上乗せして、見積書に算入される。

お客さんにとっては、真っ平御免なことだ。

*     水道工事会社、電気工事会社、屋根工事会社、左官工事会社、ガス工事会社、材木屋、建材会社、設備機器会社など、それぞれの会社が、事務所を設けている。免許業者は、事務所はどうしても必要らしい。各下請け会社の、事務所経費の総量は莫大な金額になる筈です。

(規制緩和が必要ですわ)

事務職員を雇い、または奥さんを専従員にかかえ、片手間な作業にも一人前の給料を支払い、自家用車の維持費とガソリン代は車両費に、家族で外食した飲食代は会議費に、どれもその会社の経費に積み上げられる。

そして、これらの費用は、一般管理費とかの項目で見積書に盛られて、お客様に提出される。

お客さんにその経費分を負担させているのです。

(そんなことで、いいのですかね)

お客さんに尻拭いをさせているのが現状です。

 (お客さんをバカにするなあ)

 では、当社では?

原価の原価を徹底的に見直すことだ。一円に至るまで、きちんと説明ができるかどうかだ。担当者殿、気合を入れて、頑張ってくれ。  

 

2006年10月7日土曜日

恥を知れ、滝川市教委

自殺女児 遺書は叫ぶ       

夜の眠りは、仕事上のストレスや夫婦のくだらない諍いも、優しく静めてくれる。早朝は、一日のなかで、とても心穏やかな時間帯だ。 そこで、06:00 新聞を読みながら、朝食をとる。そこに飛び込んでくる、グッドニュースと、バッドニュース。本日はバッドニュースだ。

こんな悲しい遺書を読んだのは、初めてだ。

幼い12才の少女の悲痛な叫びを、誰もが気がつかなかったなんて、どうかしてるよ。

世の中、どうかしてる? 子供の問題?じゃないぞ。大人が狂っている。

教育の現場が狂っていても、なにもそんなに変なことではないの?監督する教育委員会が狂っているのだから、しょうがないんじゃないの。

そんな馬鹿な!!

じゃ、どうすりゃいいのだ。

まず、事実を調査・解明して、全ての事実を公開することだ。~と思っているんだ

朝日新聞(朝)記事より         2006  10  3


北海道滝川市の市立小学校で昨年9月、自分の教室で首を吊り、意識不明のまま今年1月に死亡した6年生の女子児童(当時12)が遺書を残していたことがわかった。同市教委は2日、遺書の内容が一部で報道されたことを受けて記者会見をした。
 

     

遺書は次のような内容でした。


学校のみんなへ


この手紙を読んでいるということは私が死んだと言うことでしょう。私は、この学校や生とのことがとてもいやになりました。それは、3年生のころからです。なぜか私の周りにだけ人がいないんです。5年生になって人から「キモイ」と言われてとてもつらくなりました。


6年生になって私がチクリだったのか差べつされるようになりました。それがだんだんエスカレートしました。一時はおさまったのですが、周りの人が私をさけているような冷たいような気がしました。何度か自殺も考えました。


でもこわくてできませんでした。


でも今私はけっしんしました。  (以下略)





記者会見にて、


「児童の心のサインをつかめなかったことはお詫び申し上げるが、現時点ではいじめの事実を確認できていない」


「ささいな言葉や行為であっても無視することはできないが、一方でその受け取り方は人によってさまざま。いじめを裏づける決定的な事実は出てきていない」


と話した。



今後、市教委として改めて経緯などについて調査するという。 

そして5日の同紙夕刊にて



いじめが原因だった 小6自殺 




滝川市教委、認める
        

2日の記者会見では、いじめの事実を確認していないとして、遺書の公表もしなかった、ことについて、全国から電話約850件、電子メール約千通が寄せられた。


「いじめが認めないのはおかしい」「原因究明が遅い」などと批判する内容がほとんどだったという。


新聞記事  以上




 

 


教員、学校関係者、教員を監督指導する(しなくちゃ、ならない)教育委員会のなんちゅうだらしのないことよ。なんで、もっと、突っ込んで原因究明をしなかったのだ。いや原因究明したけれど、その実体も既に何もかもわかっていて、隠蔽しょうとでも思ったのか?


なし崩し的に、火の気がおさまるの待っていたのだろうか。


自殺をしたのが、約一年前のことだ。今まで何を調査していたんだ。


今まで、いじめと思われる決定的な事実が判明しなかった、と。


なんだと!! あほ!!!



もっと早い段階で、なにもかも解っていたことを、関係各所に報告をして、公表すべきだったのではなかったのか。




少女の悲痛な魂が、今ここでおさまりようのない怒りをこめて、叫び出したのだろう。





恥を知れ、教育者面した者ども。


 

 

 

 

 

 

朝日 天声人語より。


2006年10月5日(木) 朝日新聞(朝刊)・天声人語




安倍首相の考えている、美しい国とは? 

アインシュタインは、ノーベル物理学賞の受賞の報を日本に向う途上に聞いた。


1922年、大正11年の晩秋に来日し、「相対性博士」として各地で大歓迎を受けた▼この訪日の時に博士が残したという言葉を先日、安倍首相が国会の演説に引用していた。「日本人が本来もっていた、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしい」▼これとは別に、帰国の直前に述べた言葉がある。「地球上にもまだ日本国民のごとく・・・謙譲にしてかつ実篤の国民が存在していることを自覚した」。そして山水草木は美しく、日本家屋も自然にかない、独特の価値があるので、日本国民が「欧州感染」をしないようにと希望した▼しかしその後の日本は、欧州の列強に感染したかのように外国を侵略し、敗戦に至った。戦後は、開発で多くの美しい山水草木が失われ、昔風の日本家屋も姿を消していった▼アインシュタインの希望した「美しさ」とは逆の方に進んでしまった。こうした歴史への反省をしっかりと示さないせいか、首相の繰り返す「美しい国」は、なかなか焦点を結ばないようだ。




2006年10月4日水曜日

誰か教えて

私は、毎朝5時に起きて、犬3匹との散歩を楽しんでいる。

いや、楽しんでいる犬を見て、私も楽しんでいる、というのが正確な表現だろう。

ミニチュア・ピーシャの(翼)は路上の干からびたミミズの死体に首筋をコスリツケルのです。何度も、何度も。

でも、生身のミミズには何の関心も示しません。

まるで娘さんが首筋に香水でもつけるように。

何故? どうして? 私、気になってしょうがないのです。誰か、私に教えて、早く。

明日も同じ事をしたら、又、同じように気を揉みたくないのです。

2006年10月1日日曜日

我が社に亀さんがやってきた

我が社に亀さんがやってきた     

 

当社は、素地を取得して、土地分譲や建売住宅を分譲することも重要な業務の一つです。その現場には、古い住宅とお地蔵さんと池があって、その池には亀が2匹、永く住み着いていたようです。住宅は解体。お地蔵さんは敷地内に場所を変えて鎮座していただく。池には土を入れて平らな地盤面にする。


そこでだ、置いてきぼりにされそうになった亀さんの処遇は如何に。担当者のo君は、ほっとくわけにはいきません、会社で飼いましょう。ほっとくと罰があたりますよ、と私に鞭を打ってくる。そんな会話をしているうちに、もう亀さんはやってきた。バケツに容れられ、会社の涼しい場所には安置された。が、そのままでは、いかん。バケツの中は余りにも窮屈だ。かわいそう、と女性スタッフの声。



 

 

そのお地蔵さんとは


弘法大師瓜ほり子育地蔵尊  旧不入斗村共有


由来


明治23年月日不詳 陸軍要所内に御出世爾来、西来寺境内に安置


昭和18年4月4日当所不入斗3丁目1番地に御遷座、今日に至る



 

 

飼育を0君に、全面委任。補佐人が私。緊急役員会で認諾。


飼うたって、どうすりゃいいんだ。それはですね、やはり、今までと同じ様な環境を作ってやるべきだ、ということです、と0君。会社の前の植栽の横に池を作って、日陰を確保してやることになった。私は早速工務店と打ち合わせをし、山紫水明、緑豊かな山あり谷あり?の豪邸を作った。



 

 

飼ってみて解ったこと。


鶴は千年、亀は万年と古来よりよく言われてきた。鶴の千年のことについては、今しばらくは少し脇に置かせて貰って、亀さんに注目しよう。成る程、亀さんなら万年は生きるような気がする。いつも、じっとしているのです。土の中にもぐっていることも多い。兎に角疲れるようなことはしない。省エネ生活の極意を身につけているようです。


私だけ、人知れず、龍宮城へ連れて行ってくれないかな、と思っているのですが。



 

 

出勤すると、亀の前には人盛り。


亀の顔を窺ってからの仕事開始の日々が続いています。

気楽に「死ね)」なんて、ほざくな、

気楽に「死ね」なんて、ほざくな。  

帰途、運転している車の窓越しに、後ろの方から怒鳴り声が聞こえてきた。


信号のある交差点で方向の違う向きから進入したと思われる自動車とバイクが、どうも交差点への入り方でもめているようだ。


自動車の運転手はおじいちゃん・助手席にはおばあちゃん、バイクの方は30歳ぐらいのおにいさん。


おにいさんが、おじいさんに向って、窓越しに、興奮島倉千代子風に怒鳴りまくっている。


罵詈雑言、ライフル銃のごとし。


なにをそこまで、大きな声で狂うことないんじゃないの、と思いながら、バックミラーで様子をうかがっていた。


それからだ、おにいさんが去りがけに「じじい、死ね」と大声で怒鳴るではないか。


なんちゅう恥さらしめ。アホ。大馬鹿者め。


私は、首っ玉つかまえて、殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られているうちに、アホはすっ飛んで行った。


胸糞悪い出来事だった。


お兄さんの年齢は、私の息子と同世代だ。



まだまだ親として、気を緩めるわけには、イカンなあ。




2006年9月30日土曜日

小(子)魚は、大型鯉にいじめられている?

小(子)魚は、大型鯉にいじめられている?  

 昨今、横浜市内に流れるどの川にも、鯉が、もうぎりぎりまで大きくなった鯉が、群れをなしているのをよく見かけます。

異常な光景だと思うのは私だけではないと思う。     

 

鯉は住む環境によって、広ければ広いだけ大きくなって、狭ければそれなりの大きさまで大きくなって、それ以上は大きくならないものなのですか? 


目黒の田中角栄邸の鯉は、今、川で泳いでいる鯉ほど大きくなかった。


よっしゃ、ヨッシャと幾らロッキードから貰ったお金で上等の餌を与えられても。




私が子供の頃、川辺の水際には草が茂っていて、そこはちょうど魚の棲家になっていて、人間どもからの隠れ家? だ。


その棲家をカゴやザルで漁ったものです。


シジミから、タニシ、ハヤ、ドンコ、ゲンゴロー、ドジョウ、ボケ(正式な名称ではないと思われる)、トンボのヤゴなど、たくさん捕れた。


夏には、水泳場になった。


潜った。


岩場でのウグイの手掴みは、もっとも得意とした。村じゅうの子供達の誰よりも上手だった。


素潜りだから、潜っていられる時間はせいぜい1分以内だ。両手を合わせて網のように広げ、獲物の身動きできる範囲を狭めていく、最後には魚を手で岩に押し当てるようにして捕まえるのです。


網(田舎では、カスミと言った)をかけた。


網を横切ろうとした魚は、網目に首を突っ込むと、もう逃げられない。


もう一つ漁獲法があった。ガラス製とポリ製のものがあって、その容器のなかの餌を食いに来た魚は一旦入ってしまうと出られないような仕組みになっている。


その容器のことを、田舎ではモンドリと言っていた。正式な名称は知らない。


川は、私の幼少時の成長過程において、欠くことのできないフィールドだった。




コンクリートの堤防の上から、眺めるだけになってしまった川。


私達の暮らしから遠ざかってしまった、風景の中のモノとしての川。そこに、大きな鯉の登場。


水質がよくなったのですよと言いたいのか、はたまた水質はまだまだだけれども、こんなに鯉が生きているのだから、もうセーフの段階にきているんですよ、のキャンペーンに利用されているのではないか。いや利用している奴がきっと居るのではないか、と詮索したくなる。




私は小《子》魚や、いろんな虫たちのことが気になるのです。


川上に向って大きな口を開けた大きな鯉に、みんな吸い込まれてしまいそう。間引きが必要なのではないか? と思う。


もともとの、かってそうだったような、自然な生態系をとり戻すべきではないのか。


たまに釣りをしている人を見つけては、その釣り人に声を掛けるのです。


「お願いですからそんな小さい魚を釣っていないで、あのデッカイ鯉を釣ってください」


何もかも飲み込んでしまいそうな鯉が腹立たしいのです。


大きい鯉だけが堂々と、でしゃばるんじゃねえ~よ


(おじさんは、怒っている!のだ)


大きい鯉だけが加護されていいわけない。スマンなあ!鯉さん、あなたに、罪はないんだが。




さあ みなさん!! 


竿に釣り糸を、糸に釣り針を、その針にミミヅかウドンを付ければ、高度なテクニックは必要ない。


飯粒だってオッケーだ。


難なく釣れますよ。


大漁、間違いなしだ。




これ、よくないこと? 法に触れること? 


読者のみなさん、私に、どうすればいいのかを教えてください。


以前、鎌倉で(鯉を捕ってはいけません)の看板を見たことはあるのです。


この看板の意図する、法的根拠は、如何に? 


今から38年前、田舎を出る際、今は亡き母が、ゼッタイ警察のお世話になることだけはしないでくれ、と言われた。


そのことが頭から抜けない。


学生運動ではうまく逃げ切った。私がお縄頂戴されないように、どうか、この私の挙げたコブシの収め方を教えてください。


社業においても、私生活においても、厳格に法令順守を行っています。




さすが、良識ある行政庁では、コンクリート一辺倒の護岸工事から、遠い昔の姿に戻そうとする気運が高まってきて、現実に、土と草に生い茂った岸辺が復活している所がある。


嬉しいことです。


川岸に人が近づきやすくなり、川も普段の我々の生活のなかに戻ってきようとしてきたのです。


で、そこでだ。


川の中、水の中はどうだろう? 小魚やいろんな虫たちはどうだ? 大きな鯉に脅えている。


冒頭の課題に再び戻る。


生物の連環は、理解できても、それにしても、大きい鯉が多過ぎるのではないでしょうか。


水中にも、普通の生活が蘇って欲しい。




志ある研究家殿、学術的な調査をお願いしたい。

2006年9月27日水曜日

子供につたえる井上ひさし版九条

2006年9月26日 


朝日新聞夕刊 の記事を抜粋しました。


文化

 子供につたえる井上ひさし版9条 

 

 

井上ひさしさんが、憲法の前文と九条をやわらかな言葉で訳した「子供につたえる日本国憲法」(絵・いわさきちひろ)講談社)を刊行した。文章には、井上さんがとらえた憲法の精神が込められている。「自分に言い聞かせるつもりで書いた」


例えば、交戦権を否認した九条の後半はこう書かれている。


どんな国も自分を守るために 

軍隊を持つことができる 

けれども私たちは 

人間としての勇気をふるいおこして

この国がつづくかぎり 

その立場を捨てることにした 

どんなもめごとも 

筋道をたどってよく考えて 

ことばの力をつくせば 

かならずしずまると信じるからである 

よく考えぬかれたことばこそ 

私たちのほんとうの力なのだ 

そのために、

私たちは戦(いくさ)をする力を 

持たないことにする 

また、国は戦うことができるという立場も 

みとめないことにした    

 

*井上さんのコメントより


私が憲法に出会ったのは、小学校6年生の時でした。敗戦の翌年に憲法が公布され、よく理解できないながらも、この憲法に基づいて生きていけばいいんだという希望と手がかりを与えられたという気がしました。


その時の感動を子供たちに伝えたいと思っています。立場の違う人には批判もあるでしょうが、いま読んでみても憲法は潔く、勇気にあふれ、文章と思想が一体化した名文です



 

 

日本国憲法は人類の歴史からの私たちへの贈り物



 

 

交戦権さえ否定するというのは、人間の究極の理想。世界的にも評価は高く、これ以上いい憲法は生まれないのではないでしょうか

2006年9月25日月曜日

メガハウスメーカーの横暴を許すな

メガハウスメーカーを野放しにするな

どの工務店も、経費は、当然、お客様が支払う請負金額の一部分になる、ということはお解かりですよね。

その経費の内訳の一部でも俎上にさらけ出して、衆人環視のもと検証を試みてみよう。

①     大女優Yさんが手持ち無沙汰に、居間をうろうろするテレビコマーシャル。幾等かかると思いますか? 制作費、放映料で年間?0億円はかかっているでしょう。

②日本全国にある住宅展示場の維持費と5年ごとに建て替える建築費で、年間に1展示場 ?000万円、全国で?00億円ぐらい? 大女優Yさん宅は、全国に少なくても?00棟はあるだろう、へえ、そんなにか!

③広告用印刷物の制作費、色とりどりの豪華なチラシ、パンフレット。年間?億円ぐらい?

④支店においては、下請け工事会社を管理するスタッフ、顧客を管理するスタッフ、総務的業務を担当するスタッフ、それらを総括する課長さん、次長さん、部長さん、支店長、もう人だらけ、人件費はもう大変や、状態。でも現場には、社員の監督さんの一人だけ。あとは、協力会社といわれる下請け会社、孫受け会社のスタッフばかり。

 ⑤本社は各支店の総元締めだ。もう大変だ!もう大変だ。人件費が大変だ、宣伝費が大変だ。経費の総量がもうどうにもならないところにきています、と経理部の悲鳴が聞こえてきます。こりゃ、無茶苦茶な利益が必要だ。そんな事情の中で、ハウスメーカーは事業を進めていく。

結果、お客様が何もかもかぶるように、なる。当たり前の、道理だ。

そんな経費漬けにされた会社運営の結果、実質的に、顧客が得る当然の利益が、かくの事情で得られていない。

そんな不合理を厳しく認識しよう。 そこでだ、問題は。当社のハウジング事業部の《原価公開主義》だ.

原価の原価を何回も見直しをして、お客様が本当に納得していただく原価の提示だ。

2006年9月24日日曜日

夏休みのある日

夏休みのある日のこと。


アンパンマンとボウレンジャーの戦いだ   

夏休みのある日、私の娘は、私の孫で娘の息子・ヨカ男(2歳と4ヶ月)を連れて、横須賀の花火大会に行った。



ジジバカと言われるのは、覚悟のうえです。



孫は真ん丸い顔をした、とても可愛い天使のような子です。ヨカ男は、天高く花火が炸裂、乱舞する模様に、あ~あっと歓声を上げていた。


そのうち、棒切れを見つけてきては、それを花火に向ってエイ エイと振り回し出した。


テレビのアニメの番組で科学戦士が戦う際に火花を発する、それをイメージしたようだ。


隣にいたお兄さんは、その様子をアンパンマンとボウレンジャーの戦いだ、と。


うまく言ってくれるじゃ、ねえか。


 孫のヨカ男は自分が、アンパンマンに変身したかのように、勘違いしていることが時々あるのです。


私には、マルコメ味噌にしか見えないのですが。


その話を聞いたジジイは、とても幸せな気分になりました。






自宅からの徒歩出勤中、この夏、そんなこともあったなあ、と思い出しました。

2006年9月22日金曜日

私だって、ペレーに負けたくない

私だって、ペレーに負けたくない   

 

いつの頃からか、私はサッカーに関わる人たちとの会合や飲み会の談笑のなかで、よく使用するフレーズがある。


「サッカーは素晴らしい、でも友情はもっと素晴らしい」と。今から30年ほど前に、思いつきで喋った、そのフレーズのことである。その後何度も同じことを喋った。


でも、そのフレーズが余りにも高貴?立派?過ぎて、そのフレーズが口から出る度に、気恥ずかしくて、私は、私の言葉にしておいてはいけない、と思うのです。何故なら、この(私)にとっては、恰好良過ぎるからです。


「この言葉は、黒い真珠と言われた、あのペレーさんがおっしゃったそうです」と付け加えたら、皆はそれぞれ安堵して、私もホットするのです。


でも、


本当にペレーさんが言ったのかも知れないんです!!が。

2006年9月19日火曜日

私は不動産業界の左派でいたい!

私は不動産業界の左派でいたい!   

 

今朝も二日酔いで頭が重い。でも、几帳面な私は、いつものように、真剣に新聞を読んでいた。酔眼が「私はね、~の(左派)を任じているんですよ」とかの文字をキャッチした。昨夜の酔いのせいで、体は濡れ雑巾状態なのに、脳のほんの一部が、この(左派)という文字に異常に反応するではないか。


30余年前、夜は角棒とヘルメット、昼間は体育会のサッカー部員として過ごした。


誰でも、人はそれぞれに(コダワリ言葉)をもっている。普段は心の奥深い所に潜んでいて、何かの拍子に飛び出してくる、そんなコダワリ言葉。


あの頃は、右翼よりも左翼側に、右派よりも左派側に、主流より反主流に、重心を置いて生きたいと思っていた。


大手鉄道系某不動産会社を辞めてから、なりふり構わず事業に専念してきた。あと数年で還暦を迎えようとしている。



そんなオヤジが、今朝、(左派)の文字を見つけて、すっかり興奮しちゃった。 自民党は、総裁選を前に各候補者が、自分の政見を主張し始めた。が、以前自民党内にはハト派が居た筈なのに、さっぱりその姿が見えなくなってしまった。タカ派ばかりが、憲法改正とか威勢がいい。願わくば、自民党内にももっと(左)がいてその主張を強めなくては、アカンのじゃないの? 

私は、(左)傾向のリベラルな経済人になりたいと思っている。


夜は、バリバリの本格的左党人なんですが。

2006年9月18日月曜日

本物の家をリーゾナブルな工事費で、作るための5つのチェック

本物の家をリーゾナブルな工事費で、作るための5つのチェック
*     水増し見積もりが行われていないか?
意図的に量を増やして、単価を下げる方法が旧来伝統的に行われてきた手法です。避けるためには、設計者に内訳明細書を作ってもらうことです。

悪質な場合は、契約を解除することができます。消費者契約法《平成13年4月1日から施行》の第1章 第1条を読んでいただけば、納得できるでしょう

第1章、        目的

第1条 この法律は消費者と事業者との間の情報の質及び量並びに交渉力の格差にかんがみ、事業者の一定の行為により消費者が誤認し、又は困惑した場合について契約の申込み又はその承諾の意思表示を取り消すことができることとするとともに、~

*     一般管理費とは? 何ですか?
工務店によって説明の仕方は随分違います。管理費としての項目はよく理解できても内容の詳細まで説明を受けるべきです。担当者は苦肉の説明で、汗バケツに一杯!!面白いですよ。「いや、お客さん、この一般管理費がうちの儲けなんですよ」と大見得切る工務店の社長さんも居るのです。*     設計費込みとかは、絶対ありえません。
設計費が不要だなんて、じゃ一体誰が設計をするのですか?工務店の社内の設計士なら、会社に都合よく振舞うであろう。施工しやすく、工事費がかからないように、手間のかからないように、工務店の都合よく図面を引くでしょう。管理も甘くなり勝ちになるのではないか、と推測される。メガ住宅メーカーのやりかたです。*設計費はかかるものです。標準設計料はあります、設計士会等で問い合わせるのもいいのではないでしょうか。きちっと支払ってこだわりの設計、工事監理をしてもらうべきです。

* 標準単価を知っておこう
構造材から、下地材、内装材各種、設備機器等は、メーカーが上代価額を提示しています。我々の会社ならば、その30%~50%で買えます。一般的に、構造材は?%、基礎工事は?%、大工さんの手間は?%、一般管理費は?%と工事費の内訳比率が標準化されています、あくまでも参考ですが。 

*     施主のあなたこそ、一番真剣な工事管理者の筈です。工事が予定にそって進んでいくのを、一つ一つを確認していく作業はすごく楽しいものです。大工さんに任せっぱなし、駄目。工務店、設計士に任せっぱなし、駄目。関係者の皆さんとは、和をもって尊しの精神で、よく打ち合わせすること。飽くまでもこだわって、こだわって、こだわりましょう。