2013年4月28日日曜日

ミーにお友だちができた

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昼間、私が仕事に出かけている間は、1人(頭?か匹?)で留守番をしているミーに、人間のお友だちが遊びに来てくれるようになった。18年間一緒に過ごした猫が亡くなって、介護していた母親が先日特養老人ホームに入所して、誰もいない家での手すきの時に、死んだ猫を思い出す。猫と暮らした日々が懐かしい、と。その人が、縁あって、我が家のミーに遊びに来てくれるようになったのだ。

野良猫現役当時、ミーはおしどり寿司という全国チェーンの営業部長だった。駐車場付近で、来店する客をもてなしていた。頭を撫ぜられ尻尾(シッポ)を振って応接に繁忙の日々を過ごしていたが、いつの日か、心ない不良客に下半身を蹴飛ばされたのか殴打されたのか、車にはねられたのか、下半身が心もとない状態になって、結果、排泄機能不全になった。

それからのミーの体は、見るに忍び難い状態になってしまった。お尻の周りは、ウンコとオシッコまみれ、肛門は開きっ放しで、ウンコがいつも見えていた。お腹にウンコとオシックが満タン、人の手が必要に思われた。

こんな状態のミーを見るに見かねた友人が、2011初秋、保護した。そして、一時的に預かって欲しいと頼まれた。預かるかそれとも断るか、その応否の判断に猶予はもらえないまま、ミーは私の部屋にやってきた。それほど、ミーに生命の危険が切迫していたようだ。

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それからの数日間は、非常事態宣言、てんやわんやの大騒ぎ。2DKの安アパートの1部屋をミーに明け渡した。ミーは連日の動物病院通いで、1週間経ち1ヶ月経ち、元気を取り戻した。今では、排便の際には介助が必要だが、排尿は砂場と所々に敷いてある吸水性のシートにするようになったが、週に2度は動物病院で残尿を処理してもらっている。医師から排尿を促す術を授かったが、膀胱の在り場所の把握が難しい。それでも、よくもここまで良くなったものだと喜んでいる。野にいた頃に比べれば、今の状況をミーは喜んでいるのではないかと、自惚(うぬぼ)れているが、実のことは解らない。

そのようにして、ミーの一人っきりの留守番が始まったのだが、やはり一人ではつまらない。私のアパートの2階のベランダから遠くに見え隠れする猫を大きな声で必死に呼ぶのを見ると、ちょっと気が引ける。我が部屋に保護され連れてこられるまでは、広い野を自由に駆け回る特権を謳歌していたのだ。狭い部屋で、私と時には保護者とだけの限られた生活では、十分面白いわけではないのだから。

このような日常生活に遊び相手の出現は、ミーには特別、私にも嬉しい出来事だ。

2013年4月25日木曜日

冷やすの?、温めるの?

ギックリ腰で、駆けつける所は病院ではなく接骨院だと経験上解っていたが、こんな激痛の最中でもいいのだろうかと考えながら、それでも、勃発?の翌日20130423、やっぱり馴染みの整骨院に行った。なかなかできた施療士さんで、労(いた)わってくれる言葉に癒(いや)された。

私が使い捨てカイロ(懐炉)を肌着に張っているのを見つけて、「ヤマオカさん、腰が炎症を起こしているので、冷やさなくてはいけないんですよ」と言われたが、「そのように、誰からも言われていますが、私は何十年前もから度々腰痛に襲われていまして、その度に、冷やしたことはなく、温めて直してきました。だから、これだけは、私のやり方を認めてください」と開き直った。

施療士さんは戸惑ったようだが、しょうがないと思ったのだろう、その後言及はなかった。そのように言い切る私は、懇意にしている港南区にある診療所のお医者さんと、かって話したことを私なりに理解していることが原因だと思う。

サッカーのクラブ活動で、体のあらゆる部位を捻挫、脱臼、骨折、打撲を経験してきた。その際には確かに冷やした方が、痛みを抑えることはできた。腫れることも抑えられた。

そのお医者さんは、実は医者もよく解ってないんですよ、と話し始めた。医者仲間でテニス大会を年に何回かやるのですが、毎回、捻挫やら何やらと怪我をする奴が出るんですよ、そうしたら、面白いんですね、ある医者は冷やせと言うし、ある医者は温めろと言うんですよ。私は内科だから、そんな言い争いを外で聞いているだけなんですがね、と。なあ~んだ、そうだったのか、と納得した。

学校を卒業してからは、自宅の2階から滑落して鎖骨を骨折したこと以外は、ギックリ腰の腰痛のみで、一時的な過労を除いて、関節や筋肉を傷めたことはない。鎖骨骨折の時は痛み止めの薬を飲んだ。だから、冷やしたらいいのか、温めたらいいのか、それを自分の体で試したのは腰痛だけだった。結果、腰痛は温めた方が痛みを和らげ、早く治癒できることを知ったのだ。

賢者の皆さん、果たして、この私の独断で間違いはないのでしょうか、科学的な説明を求めています。

2013年4月24日水曜日

またもや、腰痛だ

20130422の朝、月曜日。毎週月曜日08:30からは、前の週にあった業務上の全ての洗い出しをスタッフ全員で行う定例会だ。

朝飯を終え新聞を読み終え、テーブルを離れようと椅子から立ち上がった時に、腰に電流が走った。懐かしいが、恐れていた電流だ。同時に愕然として跪(ひざまず)き、両手を床についた。この電流が、何を意味し、これから何をもたらせるかを十分解っているだけに、暗然とした。それでも、大事な月曜日、歯を食いしばり腰を折り曲げて出社した。

さかのぼること30年前、35歳の頃、デスクワークの最中に腰に痛みの前兆が遠くからトカトントン(これ、太宰治氏より拝借)、激震に襲われた時には床に屈していた。額に脂汗たらたら。これが、我が生涯、最初の腰痛との遭遇だった。腰をくの字に曲げたままタクシーに乗せられて病院直行。付き添ってくれた先輩は笑っていた。その後、勤めていた会社を辞めることになるが、その辞める遠い、遠い原因がひょっとしてこの腰痛のせいだったのではないか、と今は思う。気力が一時的に萎えたのだろう。

その後10年、45歳の頃に再び強烈な腰痛に襲われた。私は独立していた。この時は、左の足の股の付け根から指先まで完全にマヒした。棒で叩いても痛さを感じなかった。大きな総合病院に入院した。その病院の治療方法はボックス注射と腰痛体操の繰り返しだった。同病の友人が手術で完治した例を医者に告げて同じ処方を訴えたが、病院の方針で受け入れられなかった。

それならば、腰痛は自分で治すしかないと覚悟して、自ら申し出て退院し、それからの私は気合が入っていた。早朝、犬の散歩のついでにベンチや鉄棒のある公園で腹筋、背筋の体操を繰り返した。お陰で、その後は全く腰痛知らず、腰痛を患う知人に偉そうにアドバイスを垂れていた。

そして、2008年のリーマンショック、今から5年前のことだ。規則正しく健康管理をしていた日常が、営業不振、資金繰りに追われて、一気に反転した。弊社にとっても驚天動地の大事件。何度もこの類のショックには果敢に闘い、何とか難を逃れてきたが、このショックは、会社の規模が拡大基調にある最中だっただけに、受けたダメージは深かった。

日常の生活は激変、精神的ストレスが重く、自由に意図的な行動が少なくなった。犬の散歩も余裕なく短時間で引き上げ、考え込むことが多くなった。それだけに運動量が減った。怠惰の始まりだった。

20110310、東日本大震災の前日、スタッフの短君と相模原の物件の内見の帰り、車中で腰に激痛を感じ、仕事を断念して自宅まで送ってもらった。その翌日11日は会社を休んだ。そして地震だ。腰を伸ばすことも、起き上がることもできなかったのに、本棚が今にも倒れそうに揺れているのを、起き上がって押さえた。火事場のバカ(糞)力だ。オシッコは、風呂場まで四つ足で這いつくばって行き、犬のように後ろ足を上げて済ませて、水で流した。かって貯め込んでいた腰周りの腹筋背筋力はこの日までに全てを使い果たしたようだ。

 

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今回の腰痛が発生した22日の前日、4月21日は日曜日で昼から、長女の家でバーベキュをした。私は午前中で仕事を終え、スタッフに、頼むわ悪いなあと言って会社を出た。

朝から、強い寒風が吹き冷たい雨が降っていたので、どうするんだと電話で尋ねたら、予定通り、と強く言い返され、罰悪く感じて尋ねたことを後悔した。

長男は海外に出張中なので、4人の子どものうちの3人の子どもとその相方、それらのカップルの間に生まれた5人の孫が集まっていて大層賑やか。孫たちは従兄妹同士、いつまでも仲良くして欲しいと思う。

男衆は長女の夫の主導で、屋外の屋根のかかった広場で、肉や野菜を焼いた。焼けるたびに室内の子どもや女衆に運んだ。私は焼く手伝いもせず、ただ、ワインや焼酎を飲みながら孫たちと遊んだ。

この時の冷たい風に体はすっかり冷えたのだろう。これが、翌日に腰に火を点けたのだ。それに加えてこの5年間の運動不足だ。東日本大震災の後、腰痛予防の体操や腹筋、背筋のトレーニングにも努力しなかったばかりか、意識もしなかった。自覚が薄れていたのだろう、歩数計が小さい数字を示しても何とも思わなくなっていたのだ。

腰痛の最大の原因は怠惰だ。

2013年4月19日金曜日

三国連太郎を悼む

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映画「三たびの海峡」で主人公を演じた当時=1995年

 

万年ヒラのサラリーマンであるハマちゃんは、上司の佐々木課長に教わった釣りにすっかりハマ?ってしまう。その入れ込み方がまさに釣りバカ状態。ある日ハマちゃんが釣りに誘った初老の男性が「スーさん」だった。ところが、このスーさんの正体は、ハマちゃんが勤める会社『鈴木建設』の社長・鈴木一之助だったのである。味わい深い社長サンだ。このシリーズの何本かを正月映画として観た。この社長とハマちゃんを中心に、それぞれの家族や社員が繰りなすドタバタ劇が、「釣りバカ日誌」として人気シリーズになった。

その社長さんに扮していた三国連太郎が、14日に亡くなった。この三国連太郎という男の翳(かげ)に魅(ひ)かれ、不思議な人間だと、ずうっと思っていた。人に歴史あり、その歴史が顔を作る。被差別部落で育った。この俳優の原風景はどのようなものなのだろうか、と思い続けていた。大学時代に観た「飢餓海峡」が頭から離れない。戦後の暗いどさくさの世を生き延びるために殺人を犯し、果てには会社の経営者になる冷徹な人間を演じた。

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釣りバカ日誌11

 

20130417の朝日朝刊・文化に石飛徳樹氏の「三国連太郎さんを悼む」の文章が載っていた。それをそのまま転載させてもらった。この文章の中に、私が気にかけていた三国連太郎の心象の一部を垣間(かいま)見えた。

14日に亡くなった俳優の三国連太郎さんは90年の人生を、差別や不条理が存在する社会への怒りをもって生き抜いた。その怒りが、俳優としての破格の大きさになって結実していた。

「三国さんは自分たち俳優を遊芸民と称していた」。民俗学者の沖浦和光さん(86)は振り返る。中世以降、芸能に携わる人々は、何も生産しない民としてしばしば差別を受けていた。

長年親しかった三国さんとは「『芸能と差別』の深層」(ちくま文庫)という対談集を出している。「観客を魅了したあの名演技は、闇の部分が多い複雑な実人生の投影であることが分かります」この本の中で三国さんは、「親父の田舎」の由緒について触れている。

「中学の頃からなぜ自分がのけ者にされるのか理不尽に感じていたと話していた。役者になってから、柳田国男や折口信夫をはじめ観阿弥・世阿弥など芸能史について幅広く勉強されていました」

三国さんの思い入れが特に強かった映画は、今村昌平監督の「神々の深き欲望」(1968年)だったという。「沖縄の土着的な文化と近代化の間に起こる差別を、初めてまともに描いた作品だと思う。三国さんは、監督が完璧主義で納得いくまでOKを出さず、撮影に1年半かかった、と話していた」

戦時下に日本へ強制連行された朝鮮人に扮した95年の「三たびの海峡」も三国さんらしい映画の一本だ。神山征二郎監督(71)は言う。「皇民化教育の時代に育ち、青春を送った人だから、戦争に対する憎悪はすさまじいものがあった。抑圧されている者の怒りが、単に役柄を演じている以上の迫力でひしひしと感じられた」

脚本の読み込みも尋常ではなかった。「撮影のある日は毎朝、赤鉛筆で直した台本を見せられた。そこまでこだわる俳優は、ほかに会ったことがない。若い頃の苦労が俳優としての生き方の強いバネになっていたのでは」

神山監督は、日本にはいないタイプの器の大きな俳優だったとも話す。「なぜ戦争が駄目なのか、という大きな思想をきちんと語れる方だった。マーロン・ブランドをほうふつさせる」

ブランドの持つ存在感や威厳は、確かに三国さんに近いものがある。アカデミー賞主演男優賞に決まりながら受賞を拒否したが、その理由は「ハリウッドの少数民族への差別」だった。

「三国さんがもっと活躍できる幅の広さを今の日本映画が持てていなかった」と神山さんは残念がった。

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「神々の深き欲望」の三国連太郎(左)=日活提供

指導者の責任は重い

今度はサッカーでの体罰問題だ。

新聞記事で、岐阜県大垣市のサッカークラブのコーチが中学2年の男子生徒(13)を蹴って両腕を骨折させた事件のことを知った。岐阜県サッカー協会は14日に理事会を開き、コーチで元Jリーグ選手の西脇良平容疑者(33)の処分を決める。協会幹部によると「永久追放」になる見通しで、日本サッカー協会に承認されれば正式に処分が決まる。

学生時代、相撲や柔道で、現実に体罰の現場に立ち会ったこともある。ところが、私が大好きなサッカーにも不祥事が起きてしまった。このようなことは、サッカーの選手として大学まで過ごした期間、それに自治会の子どもチームの指導者として参加していた期間、起こらなかったし、絶対起こしてはいけないと考えていた。私が一番嫌うことだった。

ある日、友人から相談を持ちかけられた。

チームの監督が自ら率いるチームの子どものプライベートな部分を、酒の席で面白可笑しく語ったとのことだった。その子どもの両親のプライバシーに関することも話題にのぼった。友人は、監督の言辞を決して許されるものではない、と訴えていた。現場に居合わせた友人は、面白可笑しく話している内容が、本人の耳に届いた時に、言われた本人らはどのように傷つくかを想像して、肝が冷えたと言っていた。

これは言葉の暴力だ。体罰と何ら変わりはない。私が指導者だったとき、隣のグラウンドから野球のリトルリーグの子どもを整列させて、監督が喋る長々とした指導(教訓)が度を過ぎ、決して指導というようなものではなく、聞くに耐えられなかった。

そんな監督は指導者として最低の人物だ。私もかって、地元の自治会が作ったサッカーチームの指導をしたことがある。この時に、一番気を使ったことを此処に書いてみたい。

子どもたちの「心」を傷つける言動を避けることを、見守る父兄やコーチとして参加する父親たちに徹底した。余計なことを安易に口出さないでくれとお願いした。自分の子どもが、ちょっとばかり上手だからといって、他の子どもたちとは違うと勘違いする親が実に多いのだ。「どうして、うちの子どもを試合に出さないのですか」。私の子どもたちに処する原理原則は機会均等、ポジションを固定せずに、どのポジションも交代でやらせた。

試合中に親が、子どもたちに向かって、「何をやっているんだ」と声をかける父兄を怒鳴った。真剣に怒った。二度とグラウンドに来ないでくれとまで言った。声をかけるあなたは、何を考えて声をかけているんだ?励ましたり、賛辞を浴びせるなら腹を立てることはないが、「何をやっているんだ」の言葉ほど、子どもを侮辱した言葉はない。

器用に言われたことをすんなりこなせる子どもはいる。ボール扱いがなかなか思うようにいかない子どももいる。難聴の子、病気の後遺症なのだろう、びっこの子どももいた。

子どもたちは、サッカーを純粋にやりたくて、ボールを蹴りたくて集まってきているだけなのに、クダラン大人の一言で嫌な気分にさせられる。素(す)の子どもと対峙するスタッフは、真剣でなければならない。怒った子どもの頭には鶏冠(とさか)が屹立(きつりつ)。楽しい気分は失せ、やる気は挫け、上手になろうという意欲は薄れ、投げやりになる。子どもの怒りの矛先は発言者に向かい、その矛先が親なら、怒りは度を増して変質する。この恐ろしさを、親は当然、監督やコーチは最大に注意しなければならない。不心得な親は、やる気をなくした子どもから攻撃され、普段の生活にも支障をきたすことにもなるだろう。

友人から相談を持ちかけられた、この監督の振る舞いは、謝るとか、改善するとかではなく本質的な問題だ。このような立場からはできるだけ早い目に去るように助言すべきだろう。

この監督が、そのチームの代表をしているのならば、先ずは日本サッカー協会の地方の下部組織に訴えることだ。当事者間で話し合う問題ではない。

2013年4月17日水曜日

支えたいアスリート

アスリートたちに、こんなに熱い視線を注ぐ経営者もいるんだと、うらやましかった。

最近では高校のバスケットボール部の指導者による体罰が原因でキャップテンだった高校生が自殺したり、その前には、柔道の日本女子代表選手たちの監督、コーチによる体罰、ハラスメントの告発問題だ。何れも、現場を管理監督する組織の思考能力の低下、見事に機能不全状態を露呈、アスリートたちは被害者だ

アンチスポーツ派からは、スポーツ馬鹿どもが!?、と大いに批判される絶好の材料を提供してしまった。でも、そんな嫌なことはあったとしても、日々のアスリートたちは、真剣に、真面目で、その活動は常に我々に感動を与えてくれる。そんな折、20130402の日経新聞・スポーツ面におけるミズノ副社長、上治丈太郎氏の「支えたいアスリート」の文章が掲載された。企業人である上治氏から見た、アスリートたちの姿だ。こんなアスリートの生き方を知ると、私は無性に気分がよくなるのだ。

 

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上治丈太郎/支えたいアスリート

 

日本が史上最多38個のメダルを獲得した昨年のロンドン五輪。初めて、もしくは何十年かぶりにメダルを取った競技も多かった。17の国内競技団体のスポンサーを務めてきたミズノにとっても、長年の努力が形になったうれしさは格別だった。

大会中もさることながあら、今回は終わってからも選手たちに感謝させられた。福原愛選手、石川佳純選手、平野早矢選手の卓球3人娘をはじめ、多くのメダリストが会社までわざわざお礼のあいさつにきてくれたのだ。競技団体の役員に連れてこられたのではなく、大半の選手が個人としての来社だった。

柔道で虎の子の金メダルを獲得した松本薫選手は、付き添いもなく1人でやってきた。単なるあいさつにとどまらず、「これからファンや子どもたちにどう接したらいいでしょうか」など色々聞いてきた。立場が人をつくるというが、金メダリストとしての自覚がにじみ出ていて頼もしく感じた。

最近の選手は、周囲への感謝や気配りをしっかりできる。時代もあるのだろう。デフレの中で育ち、企業のスポーツ撤退など厳しい環境を生き抜いてきた彼らだ。一方で、1年中合宿できるナショナルトレーニングセンターの開設など国の充実した支援の恩恵も授かっている。競技に打ち込めるありがたみを身に染めて知っている世代といえる。インタービューで周囲への感謝を口にする選手もとても増えた。

メーカーとアスリートの関係はもちろん、ビジネスでもある。商品開発やブランド戦略での大事なパートナーとして、有名な選手ほど成績に応じたインセンティブなど付帯条項も多くなる。契約社会の欧米選手だと契約書類は30ページにもなる。30年前は2、3ページだった。

ジュニア時代からサポートしてきた選手が五輪を目指すレベルまで来た途端、高い契約金で他のメーカーに引き抜かれたりもする。将来性のある選手は関わっている人たちも多いし、最近は青田買いも進んでいる。

ビジネスにドライな部分があるのは当然。だが、メーカーとして思い入れのある選手はビッグネームよりも、無名時代から製品を愛用してくれている選手だったりするものだ。正直言って、4年に1度しか注目されない五輪競技のサポートは損得だけを考えたら成立しない。結局は人と人との世界で、「この選手にメダルを取らせてあげたい」とほれ込むかどうかで、我々のサポートも変わっていく。

ソチ五輪の星、スキージャンプ女子の高梨沙羅選手からはシーズンが終わると手書きの礼状が届く。まだ16歳、なかなかできることじゃない。幼少期から応援してきた縁があるとはいえ、ミズノと契約を結んでいるわけではない。分厚い契約書よりも、そんな1枚の手紙に我々もその気にさせられる。  (ミズノ副社長)

2013年4月15日月曜日

痛車、断捨離、デスゴール

初めて目にする言葉が、20180407の日経新聞の記事中にあった。新しい言葉は世相を敏感に、巧く表すものだ。

先ずは、1面の「春秋」のなかにあった「痛車(いたしゃ)」だ。

春秋の記事そのもので、この痛車を説明させてもらう。アニメやゲームのフアンが、美少女キャラクターのイラストが自分たちの手で大きくあしらったマイカーを指すーー。トヨタグループが今月、ある人気作品の「公式痛車」を発売した。アニメ「ガールズ&パンツァー」は、茨城県大洗町を舞台に架空の女子高校の日々を描く。ここに登場する生徒の姿がドアやボンネットにずらりと並ぶ。カーナビには主人公の声を採用。マニアのひそかな遊びが各地での集会を通じて広がり、大手企業を動かした。発売初日、予約サイトは希望者殺到でダウンしたそうだ。

 

次は、文化面にあった阿木耀子(あきようこ)さんの「断捨離ベタ」の中の「断捨離(だんしゃり)」だ。

思い切りよく物を捨てられる人を尊敬する、で始まる小論のなかで、断捨離の大切さやもたらす効果、断捨離できない自分の性格や生き方、実生活を、苦笑気味に著していた。断つ、捨てる、離れるの合成語だ。

 

後は、私にとっては初めてでも、世間では普通に使われている言葉だ。つくづく世間知らずだと実感する。アットランダムに。

「デスゴール」

これは、どの新聞だったか憶えていないが、目に留まった瞬間、インパクトのある言葉だ。ネットで調べてそんなことがあるのか、と面白かった。サッカーに関しては、それなりの知識人を自認しているが、知らなかったことが残念だった。ジュビロ磐田の前田遼一選手がシーズンの初ゴールを決めた相手チームが、翌年J2に降格するというジンクスが生まれた。その初ゴールのことをデスゴールという。07年甲府、08年東京ヴェルディ、09年千葉、10年京都、11年山形、12年ガンバ大阪だった。そして先日の6日、浦和がこのゴールを食らってしまった。だが、今年の浦和はそう簡単には崩れそうもない。

 

聞き慣れてきた「リフレ」は、「リフレーション」の略。

最近では、毎日のように新聞でもテレビでも頻繁に使われている。デジタタル大辞典にお世話になった。不況時に生産活動が停滞するとき、インフレの発生を避けながら金利の引き下げや財政支出の拡大などにより景気を刺激し、景気回復を図ること。代表的なものは1933年以降、米国で採用されたニューディール政策である。安倍晋三首相による「アベノミクス」の三本の矢の一本目の矢は大胆な金融政策。第二の矢は機動的な財政政策、第三の矢は民間の投資を引き出す成長戦略。これらの三本の矢が、リフレにつながるかどうかだ。

 

子どもでも知っている「サイバー攻撃」。

インターネットやコンピューターシステムなどの「サイバー空間」を通じて、政府や企業、個人を標的に攻撃を仕掛けること。対象先のシステムに不正に侵入し、機能を損ねたり、機密情報を盗んだりして混乱に陥れる。エストニアが2007年に大規模な攻撃を受け、脅威が知られるようになった。今年に入って、米メディアを狙った攻撃が続出。中国要人のスキャンダルを報じたニューヨーク・タイムズなどが被害を受けた。米セキュリティー会社のマンディアントは2月に公表した報告書で「中国政府や人民解放軍の関与はほぼ間違いない」と結論づけた。(20130109の日経新聞より)

このようなサイバー空間の攻防を米メディアは、「クール・ウォー」と読んでいる。米国と旧ソ連による、かっての東西冷戦「コールド・ウォー」を意識した言葉だ。

 

「クール・ジャパン」

知恵蔵2013にお世話になった。日本独自の文化が海外で評価を受けている現象、またはその日本文化を指す言葉。当初は主に秋葉原に代表されるようなマンガやアニメ、渋谷や原宿のファッションなど、ポップカルチャーを指していたが、食材や伝統工芸、家電など広範囲にわたった文化を指すようになってきた。米が外交政策誌にアメリカのジャーナリストが「日本は文化のスーパーパワー」と書いたのが「クール・ジャパン」の発端と言われており、クールは冷たいという意味ではなく、洗練された、感じがいい、かっこいい等の意味で使われている。

 

「必死のパッチ」

関西地方で使われている言葉。「一所懸命」を表す最上級的表現。パッチをはく時間もない程の必死さや、パッチ姿であることを忘れる程の必死さを表す。阪神球団の選手でよく使う選手がいるそうだ。私は、今日20130415の朝、阪神球団のルーキー藤波投手が初勝利のインタービューで応えているのをテレビで観て初めて知った。

 

「サジェスト機能」

「サジェスト機能」というのは、インターネットの検索サイトで調べたい言葉を入力すると、補足の情報が自動的に表示される機能。
補足の情報の表示は、過去の膨大な検索結果を機械的に処理し、検索する人が何を調べたいか推測する形で行われ、入力の手間を省いたり、関連情報を探しやすくしたりするためなどに利用されている。 このことについて、20130417の天声人語の一部を以下に転載させてもらう。ある男性の場合、その名前をを入れると犯罪がらみの言葉が併せて表示される事態になった。あたかも男性がその犯罪にかかわったかのような中傷記事が検索に引っかかり、容易に読まれてしまう。これは男性への名誉毀損である。東京地裁は一昨日の判決でそう認め、グーグルに表示の指し止めを命じた。男性の代理人の富田寛之弁護士は「表示は自動的、機械的にされるものだが、グーグルにも責任があると認めた点で画期的」と評価する。

 

その後も、続々と知らない言葉が目に入ってきた。

 

「マンセッション」と「ウーマノミクス」

20130419の天声人語よりその一部を転載させてもらった。「マンセッション」という言葉があるのを最近知った。英語で男性と不況(リセッション)をかけ合わせた造語である。男性の失業率が女性のそれより高い状態をいう。日本はいま「男性不況」にある。「ウーマノミクス」という言葉もある。女性と経済(エコノミクス)を組み合わせている。女性の就業率をもっと高めていけば、GDP(国内総生産)も増えていくはずだという発想である。

2013年4月11日木曜日

ハコベと鶏と祖母

私と経営責任者の中さんとは、此の頃、異常?!に力を入れているのが、商品化する戸建の中古住宅の外周りの整理整頓と美装だ。内部においては、関連のリフォーム会社が担当しているが、私と中さんとでできることはないかと考えた結果だ。

ある現場のリフォームの出き上がりをチェックをした際に、二人は雑草を取って汚れた塀に水を掛けて拭き掃除をした。その時に中さんがコンクリートの擁壁を高圧洗浄をやってみたらどうでしょう、と提案してきた。

早速、高圧洗浄機を購入してからは、全ての物件の建物の内部以外のコンクリート擁壁や駐車場、建物の外壁の高圧洗浄を主に中さんが担当して、私の方は生垣や庭木の剪定、混みいった樹木の間引き伐採、庭の除草を行うように、自然にそのような役割分担になった。好み通りに仕事を選べば、それこそ、効率の良い成果が得られるもんだ。

今はすっかり春だが、冬でも暖かい日が数日続くと、庭や空き地の地表に急に小さな草の芽が現れる。最初に目に入るのがハコベだ。春の七草の一種、馴染みの草だ。可愛い、小さな芽は何処にでも点々と生えてくる。大きくなっても、背は30センチまで、群れを作って小さな白い花をつける。生家の畑にも沢山生えて、除草したものを畦道(あぜみち)などに積んでおくと、いつの間にやら元気に根を張っていることがある。農家にとっては厄介な雑草である。

今、私は仕事として、その小さなハコベの茎を鍬で切る。大きなものは両手で引き抜く。ビニール袋に入れて、産業廃棄物として処分している。一本も残らず除草することに、草の神様に叱られそうな気がしないでもないが、新しく購入したお客さんとは、調和のとれた草と人間の関係を築いてもらいたい。私のイーハトーブの果樹園では、引き抜いた草や刈った草は、果樹の肥料になっている。決して、捨てることはない。

このハコベを見ると、必ず祖母のことを思い出す。子供の頃、このハコベを鶏の餌にするために、タモツ、ハコベを見つけたら採ってきてヤ、と常に言われていた。ハコベは只で容易に手に入る飼料だった。鶏の管理は祖母の担当。古米や麦、稗(ひえ)、豆類、貝殻、トウモロコシなどと混ぜて餌にしていた。卵の殻を丈夫にするために、シジミの殻を石の上で金槌で細かく砕いた。卵は貴重な栄養食材だったので、鶏は大事にされていた。ひよこの時には、ハコベをすり鉢で擦って練り状態にしてあげていた。

飼っていた鶏が、自分が産んだ卵を嘴(くちばし)で突っついて食べることがある。その場合、電球を厩舎に入れておくと、電球を卵と間違って突っつき、その硬さに懲りて、本物の卵には手を出さなくなる。祖母の知恵に私は感心した。

思い出は思い出を追いかける。

ひよこを孵化させることも、祖母の仕事だった。雄と雌を同居させておくと、ある時期になると交尾して有精卵を生む。この卵はひよこになるよと教えられたけれど、よく解らなかった。一度に4、5個の卵を抱いていた。抱卵から1ヶ月ぐらいだと思っていたが、この稿を綴るにあたって調べたら、21日目ぐらいに孵化するとあった。

縦横50センチ、高さ30センチぐらいの、上部に開け閉めができる扉と前面には顔を出せるぐらいの隙間を設けた箱に、親鳥を入れて抱卵させる。鶏舎の中でも抱卵することが可能だが、踏み潰すこともあるので、箱に入れて親鳥の姿勢を強制した。箱は父が作った。

2013年4月10日水曜日

野性が、吼(ほ)える

20130407、日曜日。

横浜市西区で仕入れた物件を商品化するには住宅の本体にくっついている倉庫を取り壊した方がいいと思った。この解体を私が独りでやると決めた。私には自信があった。一人では大変でしょうからと、いつもは営業の管理業務をしている藤さんが協力を申し出てくれた。工事を専門に担当している登坂さんは、本気で心配してくれた。

解体する部分は6畳ほどの倉庫だ。社外に発注するのは簡単だ、それに廉く早くやってくれる優秀な解体業者にも恵まれている。でも、この程度の仕事なら、私がやればいいのではないか、と前々から考えていた。他のスタッフには手が届かない仕事かも知れないが、私には別に大した仕事ではないように思えた。こういうことになろうかと想像していたのだろう、5年程前から、手元に大型のハンマーとバールを用意していた。

藤さんには、樹木の伐採、雑草の除草をしてもらった。

この倉庫の外壁はALCパネルだ。Autoclaved Lightweight aerated Concrete(高温高圧蒸気養生された軽量 気泡コンクリート)の頭文字をとってALC板とか、ALCパネルと呼ばれている物で、見た目には頑丈そうだ。メーカーは旭化成。

この仕事に取り掛かる前から、この外壁の処理方法だけは未解決の課題だった。最悪の場合は、材質そのものはそれほど硬いものでないので、ハンマーで細かく壊すしかないと考えていたが、もう少し効率的な方法はないものか、と思案していた。でも所詮、木造の小屋だ、大した量ではない、何とかなるわい、と腹を据えていた。

倉庫の内のALC板を支える木造の軸組みは、当初建てた大工さんが相当慎重な人だったのだろう、丁寧な仕口による組み立てを施してあった。当然、作るときには壊されるとは思わずに手がけたはずだから。作る作業の手順と壊す作業の手順は逆なので、主要な柱は後回しにして、力のかかり具合が小さい間柱や垂木や筋交いを壊していくしかない。

しっかり組み込まれている軸組みを、ハンマーやバールで破壊していった。叩かれたショックでできた隙間にバールの先を差し込み梃子(てこ)のようにして隙間を広げ、組み合わされている材木を外していく。その、ハンマーやバールを思いっきり打ち振るときに、私の体に眠っていた野性がムラムラと湧き起こるのだ。全身をしなやかに作動、ハンマーやバールの作用点に無駄なく合理的に打ち振るう。私の野性は吼える。秘めていた私の野性もなかなかのもんだ。顔から背中から、汗がびっしょり。

ALC板と屋根の小屋組みを支えている主要な柱だけを残して、初日の解体仕事は終了して、藤さんが樹木を伐採しているのを手伝った。彼はフウフウ言いながら奮闘していた。煙草なんか止めて、酒だけにしておれば、そんなにバテルこともないよ、と忠告した。煙草は、肺から肝臓、心臓、何もかも煙にしてしまう。酒は百薬の長だ。心にも潤いを与えてくれる。

翌日、登坂さんに現場まで車で送ってもらって作業に入った。登坂さんはくれぐれも気をつけてくださいね、と去って行った。道路の向かい側でも住宅の解体作業が始まっていた。今日の私の仕事のノルマは屋根のカラーベストをはがして、ルーフイング、コンパネを取り除く、そして、ALC板を細かく壊さないで、撤去する方法を決定して、明日の最終解体に備えることだった。一方のみに倒せるように準備を整えて、セイ~ノで押し倒せばいいかと試案していた。幸いに、道路の反対側は、解体中で、迷惑をかけることはない、絶好のチャンスだ。

壊す作業は雑念を削(そ)ぎ落としてくれる。

天井を取り壊して、屋根も全部取り外した頃に、経営責任者の中さんが、鴨居で行う打ち合わせのために私を現場に迎えに来てくれた。ヤマオカさん、お疲れさんですと言いながら、目は向かいの解体現場を凝視していた。中さんは、満面に笑みを浮かべて、重機を操作するオヤジさんに、私の解体現場を指して、このALC板をちょっとつまんでもらえないかなあ、と言いだした。そんなこと頼んでいいのかと戸惑い、悪いなあとも思い、私は俯(うつむ)いたままだった。

オペレーターのオジサンはいいですよと、寸分(すんふん)待たずに、重機のツマミの先をぐう~んと私の現場まで伸ばして、捕まえて引っ張った。ものの1分で壊れて崩れ落ちた。柱とALC板を重機でばらばらにしてくれた。隣地との境のものは、養生も防護柵もないので、そこはあなたたちでやってくれ、と言って自分たちの仕事に戻った。あっという間の出来事に私の心は不意打ちを食らって、乱れ、意気消沈。野性は萎(な)えた。頼んでから終了までがたったの10分ぐらい。中さんと腕のいいオジサンに感謝、重機の迫力に感服。複雑な心境を味わいつつも、ホッと安堵したのも事実だ。

私は心を鎮めるように後片づけをした。中さんが解体屋さんに何やらお礼の品物を渡していた。

2013年4月8日月曜日

象徴的な一日だった!!

20130406 土曜日。朝早くから雨が降って、その後は曇り空。午後は気象庁の予報通り、春の嵐で、強風をともなう強い雨となった。昨日から、今日の行動を、雨が降ろうが槍が降ろうが、経営責任者の中さんと私は、強い意志を持って決めていた。

10時半までは私用で休みを頂いた。

野良猫を保護して、健康チェック、避妊、去勢して人間との共同生活にある程度までは慣らしてから、インターネットや人伝(ひとづて)で里親募集を行う。そして、希望してくれた里親さんに預けるというボランティア活動をしている友人がいて、綱島の里親希望者宅まで、兄妹猫らの搬送の手伝いをした。私は搬送だけを協力している。活動そのものに理解はしているし、また活動している人を尊敬もするが、私は、まだまだ世間はこの活動に対して認識が低い。

猫らを届けた先のお家(うち)では、おばあさん、娘さんといってももう娘さんでは? それに小学2年生か3年生の男の子が、温かく迎えてくれた。祖母、娘、孫のようにうかがえた。小さな家ですからね、と言われていたけれど、なんのなんの、建物は古かったけれど、家の外回りや家の中は、綺麗に整理されていて、里親希望者は几帳面な方だ。職業柄、物件の内外を観察する癖がついている。猫慣れした一家で、ボランティアの友人は安心していた。

10:40出社。

それから中さんと私は、スタッフが仕入れを検討している中古住宅の下見に出かけた。現場は、栄区長沼、藤沢市湘南台、藤沢市藤沢本町、茅ヶ崎市松風台、茅ヶ崎市中海岸。弊社が商品化するのに、ふさわしい物件かどうかの選定、と商品化する場合の条件を検討する。今日は5件だけれども、平均すると二人は月に100件近くを見て回っている。車の走行距離は月に3000キロから4000キロ。

先月は華々しく商談がまとまって充実した月だったが、今月はまだまとまった契約が通常の月よりも少なく、1週間が過ぎて、気をもみ始めた。そんな時には、どうするかって?、学生時代、サッカーの試合で負け戦(いくさ)が続いたときに必ずやることは、走りこみを徹底的にやって基本的な技術の反復練習に精を出す、そして基本的な戦術、戦法をメンバーが互いに確認し合う、そして勝ち試合のイメージを取り戻すことだった。

中古住宅の下見を終えて、中さんは、やっと商品化になった茅ヶ崎の物件の家の周りの洗浄に出かけた。私は茅ヶ崎のもう一つの現場の生垣や庭木の剪定、庭の雑草の除草を行った。雨が強烈に降りだした。雨合羽を着ているので肌着まで濡れないはずだが、どこからか肌に沁みて来る。時間の経過とともに、気が重苦しい。それでも、中さんが自分の仕事を終えて、私を迎えに来てくれるまでは、できるだけ沢山やり遂げようと、一所懸命に働いた。

験(げん)を担ぐわけではないが、困ったとき、悩んだときに、私がとる行動は、意味もなく無我夢中に何かに耽(ふけ)ることだった。何かに夢中で耽った暁には、何かが見え出す。今は、特別に困った状態ではないが、不安を抱えた私を追い込もうとする影法師を払って気を落ち着かせたい。雨がどんどん強く降る。安全靴の中にも雨が入ってぐじゅぐじゅだ。夢中で、雑草を引き抜いた。

迎えに来てくれた中さんも、気分は高揚していた。帰途、善行までの車中、中さんが弊社の事業の商談が、昼過ぎからいくつも始まりましたと報告をくれた。「ほんま」か? と聞き質(ただ)したが、どうやら、本当らしい。先程までの、雨の中での頑張りが蘇(よみがえ)る。

駅の傍のコンビニでビールを買おうか、日本酒を買おうか商品棚の前でしばらく悩んだ。アルコール37度700ミリリットルのブッラクニッカが費用対効果が一番、レジを済ませて店を出る前に栓を開けてしまった。駐車場の片隅、人目を忍んで空腹にラッパ飲みで一口、胃袋がウイスキーで温かく包まれた。ホロ酔いだ。余り格好の好(い)い様ではないことは、解りきっています。そして、もう一口ラッパ飲みして壜をバッグにしまった。

プラットホームでは、女子高校生の同じ運動クラブの仲間と思われるグループが、線路を挟んで大きな声で話していた。内容はよく解らなかったが、若くて元気な女子高校生がまぶしく見えた。その様子を見ていて、初老のオジサンも頑張っているサカイに、お前らも頑張れよと心の中でエールを送った。私も楽しくなった。

2013年4月7日日曜日

日銀、新たな量的緩和

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パネルを使って説明する日銀の黒田東彦総裁=4日午後、東京都中央区、遠藤啓生撮影

 

日銀の新たな量的緩和が始まった。

アベノミクス3本の矢のうち、第一の矢と言われている「大胆な金融緩和」を狙い、日本銀行に乗り込んだ黒田東彦(はるひこ)総裁が、いきなり新たな量的緩和策を打ち出した。安倍晋三首相にとって、待ちに待ったこの時だ。早速、「見事に期待に応えていただいた」と高い評価をした。黒田氏から思い通りの金融緩和策を引き出したことになる。

さてこの先はどうなるんじゃ?

世の金融の仕組みについての知識が全く乏しい私だけれど、少なくとも、新聞の記事の範囲内程度までは、理解度を深めておく必要がありそうだ。

20130405の朝日新聞・朝刊の1面と2面の記事から関係する部分をそのまま転載させてもらった。一番関心があるのは、この新たな緩和策が、デフレ脱却の期待が高まる円安と株高を招き、結果、成功のシナリオを描かれるか、失敗のシナリオに終わってしまうか、だ。

以下は新聞記事のまま。

☆新たな量的緩和策の骨子

・金融市場調整のために操作する目標を従来の無担保コールレート(短期金利)からマネタリーベース(日銀が流すお金の量)に変え、年間約60兆円~70兆円増やす。

・買い入れる長期国債の満期までの期限を3年から40年にのばし、残存期間の平均を3年弱から7年程度までのばす。

・株価指数に連動する投資信託(ETF)を年1兆円、上場不動産投資信託(REIT)を年300億円に買い入れ額を増やす。

・2%の物価安定の目標の実現を目指し、安定的に持続するために必要な時点まで金融緩和を継続する。

・金融緩和のために国債を買う資金枠の「基金」を廃止し、通常の金融市場調整で国債を買う「輪番オペ」と統合する。

・長期国債の買い入れ額の上限を銀行券発行残高以下にする「銀行券ルール」を一時的にやめる。

 

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先ずは1面の見出しだ。

資金供給2年で2倍/日銀、新たな量的緩和/過去最大130兆円投入/必要な策全て講じた/長期金利は最低更新

日本銀行は4日、黒田東彦総裁の就任後初となる金融政策決定会合で、新たな量的緩和策の導入を全員一致で決めた。日銀が金融機関に流すお金の量(マネタリーベース)を2年で過去最大となる130兆円分増やし、規模を2倍にする。2001年から08年まで続けた量的緩和の4倍近い量を投入し、歴史的な金融緩和に踏み出す。

日銀が、金融政策の主眼を、政策金利を動かすやり方から、市場に流すお金の量を調節するやり方に変更するのは06年3月以来だ。

日銀が重視する(マネタリーベース)は紙幣など現金と当座預金の合計で、昨年の12月末時点で138兆円。日銀はこれを13年末に200兆円。14年末に270兆円まで増やす。過去13年でようやく2倍になったが、今後は2年で一気に2倍にし、過去最大を更新する。

長期国債は現在の2倍の月7兆円のペースで買い、長期国債の保有額は12年末の89兆円から、14年末には2倍の190兆円に増やす。

日銀は今回、国債の買いすぎを防ぐ自主ルールの「銀行券ルール」は一時凍結した。事前に予想された「廃止」ではなく凍結にとどめたことで、過剰な買い入れをしないよう一定の配慮をみせたものとみられる。

 

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そして2面の見出しは、決意の緩和 大胆船出/暮らし好転?両刃(もろは)の剣/政権味方、素早い転換

黒田総裁は国際や投資信託をどんどん買って、日銀が市場に流すお金(マネタリーベース)を2012年末時点の138兆円から、14年末に270兆円まで増やすという。日銀が流すお金が2倍になると、一体何がおこるのだろうか。

マネタリーベースとは、日銀が金融機関に流すお金のことだ。金融機関はそれを元手に、企業や個人に貸すので、お金はぐるぐる循環し(信用創造)、金融機関以外の民間部門が持つお金の総額(マネーストック)は約1100兆円に達している。

日銀は、この金融機関の元手となるお金を2倍にし、民間に出回るお金の量を1100兆円から、さらに大きくするのが狙いだ。

それは私たちの生活にどのような影響をもたらすのだろうか。黒田総裁が期待しているのは、3種の効用だ。

まず、国債を大量に買えば、全ての金利の指標になる国債の金利が下がる。住宅ローンや企業の借り入れ金利の低下につながる。長期固定住宅ロ-ン「フラット35」の金利は、「21年以上35年以下」が年1.80~2.75と、すでに過去最低水準だ。新たな緩和策の発表後、4日の東京市場では国債金利が過去最低になった。住宅ローン金利はさらに下がりそうだ。お金を借りて設備投資する企業が増える可能性もある。

2番目は、大量のお金を流し込まれた金融機関が貸し出しを増やすことだ。多くの金融機関はこれまで、企業にお金を貸しても返済してもらえずに損をするリスクがあると考え、安定してもうかる国債の保有を増やしていた。しかしさらなる緩和で国債の金利は下がり、もうけは減る。むしろ緩和による経済活性化に期待して貸し出しを増やす可能性がある。

三つ目は、消費者や企業の間で、物価が上がるのではないかという「期待」を高めることだ。物価や地価が上がると信じる人が増えれば、値上がりする前にモノを買ったり工場や家を建てたりする人が増える。

でも、心配な点もある。円安による輸入品の物価上昇だ。日銀がお金をたくさん供給して、モノの量よりお金の量ばかりが増えれば、お金の価値が下がり、円安になる。

そうなると、日本では、さまざまな輸入品の値段が上がる。燃料を輸入に頼る電気料金は5月から家庭向けが月最大221円上がる。パンや菓子の原料の小麦粉は6月末から値上がりする。モノの値段が上がれば、消費が減る。そうすると企業の売り上げも減り、従業員の給料が減るという悪循環に陥りかねない。黒田総裁は「経済情勢を見ながら政策を調整していく」と話す。

デフレから脱却して物価が上がったが、生活が苦しくなったという不満が出始めれば、景気回復への期待が失望に変わる可能性もある(橋本幸雄)

2013年4月4日木曜日

国民栄誉賞って?

政府は20130401、元巨人監督の長嶋茂雄(77)と巨人や米大リーグのヤンキースで活躍した松井秀喜(38)の師弟のコンビを、プロ野球の発展に貢献したとして二人に国民栄誉賞を授与することを決めた。

長嶋は、国民的スーパースターとして「ミスタープロ野球」と呼ばれ、今でもその存在は燦然(さんぜん)。プロ野球が好きになれない、特に巨人嫌いの私だけれど、王貞治、長嶋のことだけは関心を持ち続けた。長嶋には後光が射している、オーラを感じる、華があると表現されてきた。その通りだと思う。頭をひねってもひねりきれない数々の長嶋語録も、彼でなければただのアホの迷言として済まされるところが、敬意を持って扱われる。特別な人なのだ。偶然観ていたテレビの特番だったと思うが、魚の鯖(さば)のことを、う~ん、魚(うお)偏(へん)にブルーだっけ? とのコメントには腰を抜かした。

多くの国民が、王に国民栄誉賞が授与されてから、今度は長嶋だと思案しながら、何故長嶋がもらえないのかと批判を強め、いつもらえるのかと期待した。今回のやっとの受賞で溜飲を下げた長嶋ファンは多かっただろう。私もその一人、素直に祝福したい。

だが、松井の受賞についてはどうだろう。選手としての実績だけでは、米大リーグでのワールドシリーズでのMVPを獲得したことの評価が高いのは理解できるけれど、たかだかワールドシリーズだけのことではないか。シーズンを通してはさほど目立った活躍ではない。野茂英雄やイチロー(かって、受賞の打診があったが拒否した)に比べれは、そのインパクトは弱い。日本での活躍にしても、名球会入りさえ拒んでいる落合博満には遠くに及ばない。まあ、こんなことを言い出せば切りがないが。

最近の2011なでしこジャパンや2012吉田沙保里、2013大鵬の受賞にも、色々賛否はあったけれど、私は納得している。今までのスポーツ関係の受賞は、1977王、1984山下泰裕、1987衣笠祥雄、1989千代の富士、2000高橋尚子。くどく言うことを許してもらえるならば、先の受賞者と比べると、今回の松井の受賞は見劣りすることは否めない。だが、そのような判断は私の個人的なものだ。

国民栄誉賞の受賞者の選定も、受賞者を諸賢各氏が自分勝手に批判するのも、要は時の政権や個人の好き好きの問題だ。元々、そういう性格の賞なのだ。人気取りの安倍政権の仕掛けか、腹黒い超自分勝手なナベツネの策略か、なんて思惑してもしょうがない。

こんなことを考えて、当の本人、松井自身は今回の受賞をどのように考えているのだろうかと思っていた。同時に受賞する師と仰ぐ長嶋の残した個人記録と自分を比較して、余りにも差があり過ぎだ。

スポーツ報知に松井の賢明なコメントを読んで安心した。彼の人柄が愛される所以(ゆえん)だ。偉大とは言えないまでも、尊敬される優秀なプレーヤーだったことは間違いない。

「ただただ恐縮しております。長嶋監督の受賞は日本中の方々が納得されると思いますが、私は監督に愛情を注いでいただき、20年間プレーすることができました。ですから、この賞もひとえに監督のおかげです。正直、現時点で自分が頂いてもいいのか、という迷いもありますが、今後、数十年の時間をかけて、この賞を頂いても失礼ではなかったと証明できるよう、これからも努力していきたいと思います」

 

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◆長嶋 茂雄=千葉・現佐倉高から立教大を経て1958年に巨人入り。天覧試合での劇的なサヨナラ本塁打などで勝負強さを発揮し「燃える男」の異名を取った。ソフトバンク球団会長の王貞治氏との「ONコンビ」で巨人の9年連続日本シリーズ制覇に貢献し「ミスタープロ野球」と呼ばれた。17年間で首位打者6度、本塁打王2度、打点王5度。セ・リーグ最優秀選手(MVP)にも5度選ばれた。巨人の監督も通算15シーズン務めリーグ優勝5度、日本一2度。77歳。

 

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◆松井 秀喜=石川・星稜高から93年にドラフト1位で巨人に入団。右投左打の外野手として活躍し、10年間で首位打者1度、本塁打王3度、打点王3度を獲得。セ・リーグ最優秀選手(MVP)に3度選ばれた。「ゴジラ」の愛称で幅広いファン層に支持された。03年に米大リーグ、ヤンキースに移籍し、09年のワールドシリーズでは3本塁打を放って日本選手初のMVPに輝いた。10年はエンゼルス、11年はアスレチックスでプレー。12年はレイズでプレーし、12月に現役引退を表明した。38歳。

2013年4月1日月曜日

一票の格差って?

 

20130327の朝日新聞・1面で、昨年12月の衆院選をめぐる「一票の格差」訴訟は、全国で、20120326までに全16件のうち15件の高裁判決が言い渡されたことが記事になっていた。

戦後一度もなかった国政選挙の無効判決が2件出たほか、一歩手前の「選挙は友好だが、違憲」との判決も11件と多数を占めた。 こうした結果になった最大の要因は、最高裁が2011年3月の判決で強く不平等状態の改善を迫ったのに、国会がこれに応えなかったことらしい。ここで、裁判所がレベルを上げて国会に文句をつけた。

最高裁は、地方に手厚く議席を配分する「1人別枠方式」が格差を生む要因だとして廃止を求め、最大格差が2,30倍だった09年選挙を「違憲状態」と指摘していた。 国会は、昨年11月の解散当日に「0増5減」の定数是正は成立させたものの、区割り作業が間に合わず、選挙は前回と同じ区割りで実施。格差も2、43倍まで広がった。

ここまで厳しい判決に対して、人気絶好調の安倍連立内閣といえども、さすがに見過ごすわけにもいかず、4月前半にも、判決を反映させた公職選挙法改正案を国会に提出方針のようだ。今までなら、今更かよ!と皮肉を込めるのだが、ここは世論に敏感に動く今の官邸の様子をうかがおう。

ここまで、記事の内容を理解できたが、ところで、私にはこの一票の格差と言われる、その基準が何なのか解らないまま、何となく新聞を読んでいたのだ。

そんな折、「一票の格差」のことがが20130329の朝日朝刊・1面記事に見つけたので、それを以下に転記させてもらって確認しておきたい。

小選挙区定数を「0増5減」する制度改革に伴う区割り見直し案を、衆院選挙区画定審議会がまとめた。その中に、一票の格差を知る内容があった。

見直し案では、「2010年の国勢調査で人口が全国最少の鳥取県を定数2に設定。新しい鳥取2区(人口29万1103人)を全国最少区と位置づけた」(「 」は山岡が加筆した)うえで、同区の人口を下回る選挙区や一票の格差が2倍以上となる選挙区の線引きを見直した。

それにしても、人口の最も多い東京16区(58万1877人)との格差は、1、998倍だ。やっと2倍以下にはなるものの、まだまだ一人一票にはほど遠いことになる。

ところで、参院選のことは話題になっていないが、どうなんだ?