2011年4月27日水曜日

石巻日々新聞の手書き壁新聞

石巻日日(ひび)新聞は、東日本大震災で、自らの社屋も大被害を受けたにもかかわらず、手書きした新聞を避難所など6箇所に張り出した。

20110426の朝日新聞・朝刊では、そのことを知った米ニュージアムが、これらの壁新聞を展示して、その後永久保存すると報じた。

写真:3月12日付の手書きの石巻日日新聞=ニュージアム提供

凄いなあ、と感心させられた。プロ魂か、メデイアに携わる人間としての使命感か。情報を社会にもたらす重要さを、もう骨の髄まで染み込んだ人たちなのだろう。

その記事をここに転載させてもらう。

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手書きの壁新聞

歴史の一ページに

東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県の夕刊紙・石巻日日新聞が発行した壁新聞が、5月2日から米ワシントンのニュース総合博物館ニュージアムで展示される。輪転機が使えず、印刷用ロール紙に油性ペンで手書きした新聞が、ハリケーンで被災しながら発行をつづけ、「地域紙と社会の絆を示した」米紙とともに、報道の歴史に新たな一ペ0ジを開いた。

米ニュージアム収蔵 石巻日日新聞

3月11日午後。その日の編集作業が終わったあとだった。日日新聞の本社は経験したことがない揺れと津波に襲われた。武内宏之・報道部長(53)は、「津波で流されている車の中の人が窓をたたいていた。これが本当に現実なのか--------」と振り返る。

その夜、武内さんと近江弘一社長ら幹部が集まった。停電と断水。輪転機が浸水し、印刷ができない。6人の記者のうち連絡が取れない者もいる。明日、新聞は出せるのか。だが、近江社長の判断は明快だった。「紙とペンがあればいいんだべ。できるべ」。こうして、ロール紙をカッターで切った壁新聞の発行が決まった。

日日新聞は来年、創刊100年を迎える。戦前・戦中の政府の新聞統制で紙の配給が絶たれ、発行停止に追い込まれた時期があったが、武内さんは「先輩記者たちは、自分たちの思いを紙に書いて配ったと聞いた」。100周年を目前に自分たちで発行を止めたくはない---------そんな思いも彼らを駆り立てた。

だが取材用の車が流され、携帯電話も通じない。胸のあたりまで水につかり、災害対策本部で集めた情報のメモを、記者がポリ袋に入れて頭に載せて持ち帰り、それを元に本社で原稿を作るしかなかった。

「情報量は少ない。現場を自分の目で見られず、悔しかった」という壁新聞だが、避難所など6箇所に張り出すと、「なんだなんだ」と被災者がスタッフを囲んだ。「皆、情報に飢えていた。食料、水の次は情報だったかもしれない」と武内さんはいう。

電気が通じた会長宅にパソコンを持ち込み、A4判の「コピー新聞」が出せるようになるまでの6日間、壁新聞発行は続いた。最初の12日付の大見出しは「日本最大級の地震・大津波 正確な情報で行動を!」。最後の17日付は「街に灯り広がる 電気復旧1万戸超す」だった。

彼らの活動を22日付の米紙ワシントン・ポストが取り上げ、ニュージアムのオンラインエディター、シャロン・サヒードさんの目に留まった。サヒードさんは、約300人のニュージアム職員でただ一人、日本語の読み書きができるブライアン・西村・リーさん(49)に知らせた。

韓国系の父を持ち、博多に生まれたリーさんは「電気も水道もガスもない極限的な状況で情報伝達を続けた彼らは、ジャーナリストのかがみだ」と思った。「ここで保管すれば世界中の人に、ジャーナリストとしての彼らの姿勢を見てもらえる」と、壁新聞の寄贈を電子メールで日日新聞に要請。近江社長は「交通が途絶えていてすぐには送れないが、かけているものも探して送る」と快諾した。

4月11日、6日分の壁新聞7枚が郵便でワシントンに届いた。「大きくて、ずっしりだった」とリーさん。ニュージアムの役員らが集まる会議で見せたら、「とても重要な収蔵品になる」と展示が即決された。

ニュージアムでは、2005年にハリケーン・カトリーナの直撃を受け、一時、電子版だけの発行に追い込まれたが3日後に印刷を再開したルイジアナ州ニューオリンズのタイムズ・ピカユーン紙の報道ぶりを紹介する特別展も開かれている。展示の言葉は、日日新聞の報道姿勢に重なる。「新聞の重要さを読者に思い起こさせ、地域紙が社会との間に強い絆を持つことを示した」(ワシントン=勝田敏彦)

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ニュージアム

ニュースとミュージアムをかけた言葉で、ニュース報道に関する資料や映像を収集・紹介する博物館。米ワシントンにあり、米大手メディア関連の非営利団体が中心となって運営する。過去500年間に発行された3万5千点に及ぶ歴史的な新聞の1面記事を収蔵する。1970年にベトナム戦争中に亡くなったカメラマンの沢田教一さんや87年に朝日新聞阪神支局で銃撃された小尻知博記者ら取材で命を落としたジャーナリストを追悼する展示室もある。

2011年4月26日火曜日

蓬(よもぎ)を食べる

先日は、春を代表する料理の品、伽羅蕗(きゃらぶき)を作り、それから2,3日して筍ご飯を作った。両方とも、灰汁(あく)抜きに課題を残したものの、まあまあの出来だった。それぁ、美?味!かっ?た!

料理は、どうしても旬のものを扱ってこそ、その醍醐味が増すものです。

今回は、蓬(よもぎ)がテーマです。

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生まれ故郷(京都府綴喜郡宇治田原町)での子供の頃は、この時期になると祖母が蓬団子(よもぎだんご)を作ってくれた。祖母と連れだって、よもぎを摘みに野原に出かけた。同じ時期に土筆(つくし)や蕗(ふき)もあっちこっちで背伸びをしていた。子供の私は、少しは手伝ったが、原っぱで腹這いになったり、斜面をうつ伏せのまま滑り下りたり、横回転しながら転げ下りた、飽きたら、両手を頭の後ろに組んで仰向けに寝転んだ。青い空に白い雲。俺は一体、どんな大人になるのだろう、と、そんなことは考えもしなかっただろう。祖母は、背を丸めた格好で、摘む手を休めては、遊ぶ私を確認するかのように優しい眼差しで見つめた。優しいおばあちゃんだった。タモツ、よもぎは薬草と言うてなあ、体にいいんだよ、祖母は毎年のようにそんなことを言っていた。

できるだけ若い葉を、先から4、5枚までを摘むのです。摘んだ葉を整理して洗って茹でて、ゴマすり鉢に入れてすりこぎ棒で細かくすりつぶした。それらに、上新粉ともち米粉と砂糖を混ぜたものに熱い湯を加えて、今度は練った。この練ったものを適度に千切って、手のひらで広げ、そこにあんこを詰めて蒸し器に、蒸しあがれば出来上がり。今回、ネットで調べた作り方と我が家の家伝の作り方とは違うようです。私の祖母の場合は簡略風だったのだ。このように祖母が作るのを、側で見ていたので、このように今でも間違いなく説明できるのです。

でも、今の私の環境では、このよもぎだんご作成はどうしても無理だ。

この時期、子どもの頃、いっつもそうだったように、よもぎを摘み取って手に取らないと気がすまない。そして、小学校用地予定地の草むら、やっぱり、知らず知らずのうちに、もう摘みだしていたのだ。両の手のひらで持てるだけ摘んで、兎に角、持って帰ることにした。テーブルの上に広げて、暫らく眺めた後、意味もなく、あてもなく、蕗を茹でたときと筍を茹でたときと同じように茹でてみた。茹でておけば、時間の猶予がもらえて、その間に何か料理のヒントが見つかるかもしれない。茹で上がったよもぎを皿に盛って、それから、、、、、、冷蔵庫に仕舞った。

そして翌々日、朝飯に夕べの残りご飯をチャーハンにしようと思いついて、準備に入った。卵と、葱(ねぎ)か玉葱のどちらを入れるか、魚肉ソーセージも、それに、そうだこの茹でたよもぎを入れてみようと思いついた。こまかく刻んだ。大胆かつ不敵に料理は楽しみましょ、これが昨今の私のスローガンだ。

その結果は、如何にあいなりましたか、というと、、、、、、、

心配はいらなかった。美味かったのです。よもぎだんご並みに、十分、昔、懐かしいよもぎの香りと味は楽しめた。チャーハンの具に、よもぎとは、余人は思いつかないだろう。

沖縄でも田舎の方に行くと、ラーメン屋さんではテーブルの端(はし)っこに笊(ざる)によもぎが山のように盛られていて、お客さんはそれを自由に取って、ラーメンの上にふりかけて食っていた。食材として、よもぎが豚肉と同じように大切にされている。そんな風な食べ方も、最初のうちは、私には奇天烈、珍妙、奔放過ぎる食べ方だと驚いたが、その後、そんなに驚くこともなく、沖縄に行ったときは、麺は普通盛りでもよもぎを大盛りにして食うようになった、このような有様です。

解ったか!! 決して、よもぎチャーハンが常軌を逸した、変チョコリンな食い方ではなかったことを実証して見せたから、皆さんも安心してお試しください、最高の取り合わせだとは思わないが、よもぎの香りや味を、この時期に楽しみたいと思う人には、特ダネ情報ですぞ。

ここまで読んで、よもぎ摘みを本気でやろうとする紳士淑女に注意を促したい。よもぎによく似た危険な植物があることを知らせないと、私が恨まれる羽目になりかねない。葉や茎はそっくりなのですが、葉の裏に産毛のようなものがないのがあって、それは名前を知らないのですが、毒を持っているのです。死にたくない人も、死にたい人も、産毛を探すことですよ。春のうららかな陽気のなかで、産毛を確かめるのってちょっとエロい気分? それは私特有の感性のようだ。

都会暮らしをして、菖蒲湯を知ったのですが、私の実家ではそんなヤワなものではなく、菖蒲の代わりによもぎを使った。浴用に関して、野趣に強弱があるとすれば、菖蒲よりもよもぎの方に軍配だ。菖蒲は上品過ぎる。祖母のお灸の後が残っている老いた背中をよもぎでこすって、喜ばれたことを思い出した。よもぎは布の袋に詰めて浴槽の湯に浸した。よもぎの香が浴室を満たし、神経を鎮めてくれた。よもぎを少し乾燥させてから使ったようだ。もう少し、よもぎが大きくなったら、これも試してみたいと思っている。50年前の記憶が蘇るだろうか。

ワンポイントレッスン=よもぎの乾燥させた葉の裏の綿毛はお灸のモグサになる。

突然、我が家に訪れた友人に、よもぎチャーハンをどうやと進めたのですが、逆に、どこで採ってきたんだと強い口調で問い詰められた。犬のおしっこぐらいはかかっているかもしれませんが、放射線よりも安全だよ、と再三進めても、相手に見向きもされなかった。

2011年4月22日金曜日

友人とパン屋さん

先日、友人と街を歩いていたら、駅前の路上で軽自動車の移動式パン屋さんが、客が途絶えて所在なげな様子で客を待っていた。

オオムギとエンバク、パン(Wikipedia)

ご飯系の私は、パン屋さんなど気にもしなかったのですが、友人は明日の朝食用のパンでも買おうかな~とか何とか言いながら店に近づいて行った。

パン屋さんは、今までの浮かぬ顔つきながら、俄然、商売人の顔に早や変わりして、二人に向かって、愛想よく零(こぼ)れんばかりの笑顔を差し向けてきた。この件に関してあくまでも部外者の私は、側で、商売人はこうでなくっちゃアカン、と感激しながら眺めていた。

友人は売れ残って少なくなった、棚に並べられたパンを、それでも真剣に見比べていた。

幾つかを手にとって、これをくださいと、店主に袋に入れてもらうように手渡した。そこで、パン屋さんがその品を受け取ると同時、間髪入れずに、この焼きそばパンはいかがですか?

店主の言ったことは、これも買ってください、と言うことではなくて、サービスの品として貰ってください、と言う意味だったのです。店主の表情もその通りで間違いなかった。側に居た私の顔が、自然にニンマリ綻びた。私、この手の話、モライモノには弱いんです。

このオヤジ、どこかで自分の店舗をもっていて、その店で売れ残ったパンを、駅前ならばお客さんの足は遅くなっても絶えないだろうと考えて、路上で店を開いて売りさばく、また、焼きそばなどを挟んで加工したパンは頃合を見計らって、サービス品として使う、うまいことやってるなあ、と自分勝手に想像した。

ところが、どっこい、どうしたことか、友人は店主の意向を拒否して、どうぞお客さんに売ってください、と言ったではないか。友人の話す言外には、俺に只で呉れるよりも、売ってもうけてください、とそんな気持ちが込められていた。

そのド正面に居合わせた私は、何と、居心地の悪いこと!!! ニンマリした顔はすぐには元に戻らず 友人の背中の後ろに顔を隠した。帰り道、友人の後姿を感慨をもって見つめた。

たかだか3分ぐらいの物語でした。

2011年4月21日木曜日

最初のルールでは、下手投げだけだった

Q  三つの投げ方なぜ?  

A  下手投げから種類広がる

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私にもプライベートなルールがあるんです。あの新聞は読まない買わない、と決め込んでいたのが読売新聞でした。

朝の散歩の途中で新聞を買いたくなった。でも、ポケットの中には小銭140円しかない。朝日新聞は150円、東京新聞は100円は知っていた。入ったコンビニには東京新聞は置いていなかった、そこで、買えるのはスポーツ新聞以外では、130円の読売新聞だけだった。

糞(くそ)!!、悔しいけれど、読売新聞を買ってしまった。読売新聞=読売ジャイアンツ、ナベツネときて、ナベツネの腰巾着・滝鼻とどうしても連想する、そして嫌な気分になった。

買ってしまった以上は、ケロット忘れたように、なりふり構わず真剣に読むのが私の長所? 私の本性は、どうも純真ではないらしいです。

20110419の読売新聞スポーツ面に小・中学生からの質問に答えるコーナー「なるほど 野球探検」があって、今回はピッチャーの投げ方には三種類があるのですが、そのことについてのQ&Aが載っていた。

さすがに自前の広告用の野球球団を抱えている新聞社だけあって、とりわけ野球の記事には力が入っている。やはりと言うか、やっぱりと言うか、読売ジャイアンツに対しては、大層な肝の入れようだ。

サッカーの球団・読売ベルディの運営には、努力もしないうちに商売にはならないと判断、早々に撤退した。スポーツは文化なんだ。文化が解せない会社では、当然、経営もうまくいかないのは明々白々だ。運営の発足時には多少やる気らしきものを感じたが、その後手放すまでは、経営陣の一糸の熱意も感じられなかった。

繰り返す。読売新聞はスポーツが文化だと理解できないボスがのさばっている。だから、私は読売新聞を読まない。素晴らしいスポーツである野球が危ない。野球が、読売ジャイアンツから始まって、首都圏の球団、セリーグの球団へと病みが広がっている、と感じているのは私だけでしょうか。

本題の Q&A 記事を転載させていただいた。

Q  なぜオーバースロー、サイドスロー、アンダースローの三つの投げ方があるのですか。大坪丈人(東京都大田区 小4))  

A  投手の色々な投げ方について、日本を代表する下手投げの渡辺俊介投手(ロッテ)=上の写真 は「自分の投げやすいフォーム、打者の打ちにくいフォーム、自分の特徴や能力を生かせているかが重要です」と話してくれました。

渡辺投手は中学生まではオーバースローでしたが、チームでは3番手投手でした。この先、高校などで通用するのかどうかと思っていた時、柔らかい体と長い手を生かすには下から投げるのがいいという父のアドバイスで投げ方を変えたそうです。

作家の佐山和夫さんなどによると、150年前の世界最初の野球ルールでは、投手は打者が打ちやすいようにボールを下から放る(ピッチ)と決められていました。皆がボールを打って楽しむことが一番の目的だったからです。

その後、競技性が高まるに連れて下手投げでも手首をひねるスナップスローが許され、次は横から、そして上からも投げられるようにルールが変わりました。最初は下手投げが主流で、そこから色々な投げ方が生まれたのです。

アンダースローは日本式の言い方です。ボールが浮き上がってくるように見えるので米国では潜水艦の意味の「サブマリン」といいます。(赤井真平)

2011年4月20日水曜日

三途の川っ淵でとどまったぜ

三途の川=(仏教語) 死後、冥土に行く亡者(もうじゃ)の渡るという川。生前の罪業によって、流れの速さの異なる三つの瀬があるという。三瀬川(みつせがわ)『日本語大辞典』(講談社)

昨夜、社内で難儀な問題が発生する度に、法律相談に乗ってもらっている司法書士・金さんと酒を少し飲んだ。居酒屋「いっすんぼうし」だ。

彼は知り合いの通夜の帰り、今、天王町駅の近くに居るんで、折角だから少し飲みませんかと電話をもらった。彼からの電話は嬉しかった。会社のスタッフは6時半が過ぎているというのに、まだまだ仕事の真っ最中。司法書士・金さんが、酒を飲みたがって、喉をゴロゴロいわしているので、悪いけど先に上がるぞと事務所を後にした。彼よりも、私の方こそ酒を飲みたい状態が臨界に達しかけていたのだ。電話のかかってくる少し前から、イライラが始まっていた。

酒など飲む人ではなかったのですが、10年ほど前から、何を思ったのか、ビールを口にし出した。それから酒も。年は私よりもたった1歳年上だけれども、酒に関しては晩熟(おくて)だ。

飲みだしてからは、何是(なんぜ)こんなに美味いものを今まで口にしなかったのかと、悔しさを晴らすかのように飲むようになった。

遅れてきた呑ん兵衛ジジイだ、とはいえ、狂ったように飲むわけではなく、行儀よく品よく嗜(たしな)むその姿は、仕事をしている時の司法書士のままだ。

盃を重ねるにつれて、舌が滑らかになってきた。話題は食道ガン。手術をしたのは、2年前の桜が咲く前のことだった。今日ごろから桜の花が散り始めたけれど、手術直後、病室から桜の花を眺めながら、これから何度見られることやら、としみじみ考えたもんだ、と言った。

3年前ごろから、彼と会社の仲間らで、保土ヶ谷駅前にできた立ち飲み屋で、ちょこちょこ飲んでいた。どちらからともなく、連絡をとり合った。そんな或る夜、60歳を越えたので仕事を減らそうと思うんだ、長い付き合いのどうしても断れない件だけは、仕事を受けようと思っていると話す彼に向かって、私はそういうわけにはいきませんよ、そんな齢(よわい)でもないでしょう、と彼にくってかかった。ヤマオカさんのところの仕事は、当然今まで通り最優先は変わらないよ。

それから間もなくして、彼は毎年行なっている定期検査で要再検査と診断された。もう一度来てくださいと病院から呼び出しを受けた。再検査の結果の再々検査で、何やら食道に異物ができていると診断され、それが食道ガンだったのです。

駅前の立ち飲み屋で、そのことを告白された時は、さすがに不健康極まりない生活を自慢のように吹聴していた連中も、シーンとしたもんでした。食道を全部摘出して、胃袋の一部を引っ張り上げて食道に変える大手術だ。手術の予定も聞かされた。私の周りの彼を愛する仲間は、手術日も手術が終わってからも、思い思いに心配しながら術後の容体を慮(おもんばか)っていた。私は面会に行こうともせず、彼から元気になったよ、と連絡がくるのを静かに待つようにした。手術直後の彼に話しかける言葉が思いつかなかったからだ。

手術2年後の今、彼とこうして居酒屋で酒を飲めることを幸せに思う。そこで、彼は三途の川の話をしてくれた。親父やお袋に、マ・s・m「彼の名前」、こっちへ来いと手招きをされた、真っ赤なジュータンが敷かれたような、花園のようなところで、懐かしい声で呼びかけられた、と言っていた。

死の淵を覗き込んできたからなのだろうか?それから彼が話し出した何もかもが、私の心を打った。元々、彼の視線は穏やかで顔は柔和な人だった、が、もっと穏やかで柔和になってシマワレタ。彼は死に近づいたことで、命の尊さや儚(はかな)さ、たった一つの命の掛け替えのない大切さを痛感、再認識したのだろう。横に居る金さんがかっての彼ではなく、違う金さんに思えた。

友人、職場の仲間へのきめ細かい心遣い、親や子ども、孫とのこと、同じガンで精神的に苦しむ友人への思いやり。命あるもの全て、動物にも寄せる溢れんばかりの愛情。私の家族のみんなへの気遣い、温かく見守ってくれている。私には、ことさら仕事上の事を心配をしながら、優しく励ましてくれた。弊社の経営責任者・中さんの健康、中さんの家族への心配り。彼と私の共通の友人達の昨今の情報を交換し合った。誰に対しても、温かい気持ちで話していた。私は幸せな気分に包まれていた。

そんなことを話す彼の目は、少し潤っていた。先日,NHKで放送していた東日本大震災の現地ルポの一シーンなんだけど、車で被災地に近づいていくと、何か食べ物でも貰いたくて犬や猫が近づいて来るんだぜ、その純真であどけない目をした犬や猫を見て堪らなかった、と話す彼の目には、その時間違いなく涙を浮かべていた。

与えられた命を大事にしなくてはイカン、と強く悟らされた夜の居酒屋談義でした。今後の金さんの健康を祈ってやまない。そう言う小生も、健康に気をつけることを誓う。

私が小用に行っている間に、お勘定は終わっていた。病み上がりの司法書士・金さん、スマン。

2011年4月15日金曜日

相談役を拝命した

私は、1週間前に有限会社パラディスハウスの相談役に就任した。

会社の経営責任者の中さんとは、もう20年以上の付き合いで、今まで各々の会社の経営を一緒にやってきた。私が社長だった会社は不幸にも、経済の荒波に揉まれた。その会社も中さんは全面的に、強烈なサポーターだった。彼とは同じ釜の飯を、コゲも一緒にう~んと食ってきたことになる。経済戦争の謂わば戦友同士ということだろう、か。

先日、ヤマオカさんに弁護士さんも仰っていたけれど、そろそろ対外的に活躍してもいいんじゃないんですかね。それで、活動してもらうためには名刺が必要になりますよね、肩書きをどうしましょうか。前文は、中さんの発言なり。そんなことに、考えも思いもつかなかった。将来の野心は密かに温めつつも、当分は、裏舞台で会社を支えることに専念すると決め込んでいたからです。

そこで、中さんから提案があったのは、ヤマオカさんの会社内における役職を顧問か相談役でどうでしょうか、というものだった。驚いた、私に顧問、相談役? それって、一体何だよ、と頭の中がくるくる二つの言葉が駆け巡った。どちらも不似合いだ。

今までに、初めて会った人から、そのような肩書きの銘記された名刺を頂いたことは何度もあるのですが、この私が、この私の名刺に、同じ様に肩書きされたものを、持ち歩くことになろうかとは、夢にも思わなかった。

ヤマオカさんの呼び方はどうしましょうか? 私が社長でなくなった段階で、スタッフには肩書きなしで、ただ「ヤマオカさん」と呼ぶようにお願いした。会社というものは、けじめが大事なのだ。事実のあるがままでないといけない。今まで、私に、社長と呼び慣れている人たちは、当初戸惑っていたが慣れてもらうしかないのだ。

そんなこんなで、晴れて?肩書きは「相談役」ということになった。私には変な偏見があって、顧問という肩書きは右翼やヤクザ、それに類する団体の役員をイメージしてしまい、嫌だった。世間には多くの立派な顧問さんがいらっしゃることは、よくよく承知していることですが、どうしても肌に合わないものは、合わないのだ。参与というのもあるよ、と長く友人関係の司法書士・金さんは口を挟んできたが、これも嫌だと却下した。

役職を与えられたことを機に、相談役としての役務をきちんと全うすることを誓っている。企業人としての私には、残された時間は少ない。中さんを支え、良い会社に育てたい。私が果たせなかった野望を、中さんと共にこの会社で実現してみせる。

社名であるパラディスハウスは、私が、世界に二つとない、創業の精神、掲げる企業理念を表す社名にと考えたものだ。まだまだ、健気(けなげ)な精神と体は衰えてはいない。自負もある。

この25年間、休暇をとったのは、1年365日のうち10日もない、それほど会社に入れ込んできた。熱い思いはどうしても冷めず、苦労を共にしたスタッフとの友情は、深い絆になっている。業務に必要な叡智はますます高度化、蓄積されている。ここに来て、もう、爆発的に成長するしかない。

今では、神奈川県内において、質的にも量的にも、これだけの中古住宅リノベーション事業を手がけているのは弊社ぐらいだ。

かくして、ヤマオカ相談役は、奮い立って、駆け出した。

2011年4月12日火曜日

シベリア抑留、日ロの外交カードに

20110407の朝日新聞、オピニオン「私の視点」に、シベリア立法推進会議世話人の池田幸一氏が、シベリア抑留を日ロの外交カードにして北方領土返還交渉することを提言されていた。尤(もっと)もな意見だと感心しながら拝読させていただいた。貴重な提言だと思ったので、ここに無断転載、マイファイルした。

この新聞記事は、先輩達が、若い世代の人々に、このシベリア抑留が、何故、どうして、どのように行なわれ、その実態はどうだったのか、国際法的な問題は、最終処理はどうしたかと問いかけ、かつ皆で考える好い機会を作ってくれた。

私が大学生だったとき、横浜の友人宅に食事に招かれた。友人のお父さんはいい話し相手が来てくれたと思ったのだろう、自分が過ごす羽目になった6年間のシベリア抑留生活での過酷な環境下での強制労働や共産主義の教育を、酒を片手に夕方から夜半まで、詳細に話してくれたことを思い出したのです。どんな戦争にも、理不尽なことはつきものだが、友人のお父さんは、決して許されるものではないと怒っていた。

日本のほんの一部の人々が、北方四島一括返還といくらピーチクパーチク騒いでいても、当地ではどんどんロシアの実効支配は進んでいる。今更、日本なんかに返せません、そんなロシアの姿勢に、日本は「風呂で屁をこいている」状態(私の田舎では、何の役にも立たない場合のことや無策のときに使う言い方)、その程度の世論だ。国民的気運は少しも高まっていない。交渉を希求もしない。日本はどこの国とも、国境問題に絡む領土問題には、何故かくも臆病なのだろう。

右翼は、街宣車のドテッ腹に威勢よくスローガンを書いて、意味なく拡声器で大声を張り上げているだけで、具体的な行動は何もできない腰抜けだ。真なる愛国者が増え、その中から勇気ある使者が現われて、緊褌一番、北方領土返還交渉の口火を切って欲しいのです。

日本が諸外国に戦争で迷惑をかけたことには、きちんとした戦後処理をしなければならないし、逆に迷惑をかけられたことには、毅然とした態度で求めるべきことは求めなければならない。それが、国家の誇りだ。

私にとっても、この新聞記事を読んだことを機会に、シベリア抑留、ソ連軍の侵攻と我が国の北方領土を、もう一度、勉強して、そして子ども達に話そうと思う。

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シベリア立法推進会議世話人  池田幸一

シベリア抑留 日ロ外交のカードにせよ

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戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)が昨年6月に施行され、特別給付金の支給が始まった。90歳になる元抑留者の私は年末に菅直人首相に面会する機会を得た。首相は「歴史は消せない。これまでの不十分な対応を申し訳なく思う」と述べた。私は「慰藉」でなく「謝罪」をしてほしいこと、外国籍の元抑留者への措置、遺族への配慮を要望した。

今年2月の前原誠司外相(当時)のモスクワ初訪問にも期待したが、日ロ外相会談で「シベリア抑留」は議論にはならなかったようだ。領土交渉を有利に進めたいのであれば、なぜシベリア抑留に言及しなかったのか、私には不思議でならない。

戦後、約60万人の日本人捕虜らがシベリアなどで餓えと寒さと強制労働の三重苦に苦しんだ。約6万人が亡くなったとみられる悲劇の加害者は旧ソ連である。1993年に来日したエルツィン大統領は繰り返し謝罪を表明した。補償の議論がすぐにあってしかるべきだったが、残念ながらそのような問題提起はなかった。17年後、ようやく不十分ながら生存する日本国籍所有者約7万人に限定して日本が補償することとなった。

日ソ中立条約の一方的放棄、捕虜の取り扱いを定めたジュネーブ条約違反という二つの重大な条約違反を犯したままのソ連をロシアは法的に継承する。日本は、外相会談でロシアに対して、当事者が高齢という現状を踏まえての人道的措置だと説明し、「しかしながらロシアは歴史的な拉致犯罪の責任から解除されていない」と強調すべきではなかったか。

日本人捕虜は尊い命と汗と時間を失っただけではなく、帰国後も「シベリア帰り」と警戒された。人によっては自殺に追い込まれるほどの不条理な目にあった。それらの原因と責任は両国にある。いまのロシア人の多くは加害の事実をよく知らないのだから、被害国にはそれを伝える責務があると考える。日独の首脳が繰り返し加害の歴史に言及し、反省を述べているように、ロシアも負の歴史について認識を示すべきだ。

失われた領土の交渉では、戦略的でしたたかな外交を求めたい。シベリア捕虜は最も強い対ロカードになり得るのである。

死亡者名簿の提供や遺骨収集を容易にするための協定が日ソ間で結ばれたのは91年だった。今年で20周年を迎えるが、旧ソ連に眠る遺骨の3分の2が戻っていない。

亡くなった約6万人のうち、約2万人の情報がまだ確認されていないという。同協定による両国の協議は4回しか開催されていない。真剣に取り組むべきである。

2011年4月11日月曜日

この震災記事は捨てられない

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(その後、M9,0に変更された)

弊社の営業部の定休日は水曜日。20110406の今日、私は東北地方太平洋沖大地震(正式には東日本大震災)の新聞記事を保存用にファイルしているんです。

私には、毎日、新聞をきちんと読むことを自分の一日の務めと思っているところがあって、一日でも目を通さない日があると、その日は物足りない気分を一日中引きずることになる。テレビを見ない私にとって、新聞は頼りにしている情報収集の手段なのです。

そんな私が、毎朝、お茶を飲みながら読み、そのまま風呂で続きを読み、風呂の湯気や水飛沫(しぶき)でシワシワになった新聞を、夜、もう一度読んで古新聞の収納棚にしまうのです。そして、故紙回収日を待つのが、今までの習慣だったのですが、東日本大震災に襲われ、その惨事満載の新聞記事を面前に突きつけられてから、その一連のサイクルが狂ってしまった。

読み終えた新聞を、故紙回収に出すこともできず、ドンドンうず高く積まれていく一方だ。どうしても故紙回収に出すことや、包み紙として使うことなど思いもつかない。

この重っ苦しい?内容の新聞をどうして、手放すことができよう。

福島県いわき市から、福島第一原子力発電所の事故の避難民として我が家に身を寄せている西が、パチンコで勝った軍資金で、酒とおかずを買って、必ず持ち帰ってくるのが男性週刊雑誌の数々で、その雑誌にも震災の特集が満載、やっぱり、その雑誌も捨てることができないまま、本棚に積まれている。

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震災の記事満載の新聞が、駅のホームや街角のゴミ集積所、故紙回収所に無造作に置かれているのを見るだけで心が痛むのは、私が少し変なのでしょうか。

新聞や雑誌の文字が、只の文字に過ぎないのに、人間の精が息苦しく蠢(うごめ)いているように思えて、畏怖の念に苛(さいな)まれると表現しても決して大袈裟ではない。ページをめくってもめくっても、恐ろしい言葉が並ぶ題字が目に入って、体に戦慄が走る。寒っ気を感じて、肌にイボイボが立つのです。

気の毒なことが起こってしまった。天災は忘れたころに、必ずやってくるものだった。後々のためにも、新聞や雑誌をファイルして、記憶に留めたい。

被害を受けられた方々に衷心よりお見舞い申し上げます。それ以外、何の言葉も発することはできません。願っています、祈っています。

2011年4月8日金曜日

蕗を調理する

先日、弊社の販売物件である中古住宅(横浜市神奈川区三枚町)の敷地から採取してきたフキを調理することにした。一人暮らしの私には、単に貴重な食材ではあるのですが、「フキ」には特別な想いがあるのです。

ふきの栄養・選び方・保存方法

フキの生えていたのは、かっての住民が、たまには施肥したこともある庭ではなくて、家の裏手の日陰で、砂利混じりの所でした。3㎡ほどのところに群生していた。痩せて、ガリガリのフキだ。でも、只で頂戴するわけだから、良(い)いとか悪いとか、文句は言っていられない。

フキなどの山菜を見ると、自然に手が伸び、気が付いた時には、幾つかを手にしている、会社のスタッフは奇異な目で私を見るが、田舎育ちの私にとって、ありふれた自然な行動なのです。

子供の頃、フキ、ワラビ、ゼンマイを春の終わりにかけて、毎年のように山野に採りに行った。私より2歳、5歳上の兄たちは、戦力として野良仕事に参加していた。この季節、私の役目は、母と祖母との山菜採りだったのです。ワラビとゼンマイの時期から少し遅れて、フキが生えてくる。

生家は年々耕作面積を増やす意欲的な農家だった。父と母は真面目な百姓だった。

ゴールデンウイーク前の田植えとその後の茶摘みの時期には、家族総出で、朝早くから夕方暗くなるまで、田畑で働き、家では末っ子の私だけが、留守番をしていたのです。私にも、仕事の分担は与えられていた、風呂を沸かすことだった。当時、井戸からつるべで水を汲み上げ、バケツで運び、竈(かまど)で薪に火を点ける、なかなか子どもには難儀な仕事ではあったが、子供心に役に立ちたいと思っていたのだろう。父から、蟻が十匹であ・り・が・と・う、なんて駄洒落でお礼を言われた。

そんな農繁期の朝食といえば、食卓にはご飯と漬物はあっても、それ以外のおかずらしきものは、フキや、ワラビ、ゼンマイの塩漬けや昆布と塩辛く煮たものぐらいしかなかった。味噌汁は温めた。それほど、フキやワラビ、ゼンマイは掛け替えのない食材だった。私たち子どもが起きだしたときには、家族は皆、田や畑に出かけているのです。そのような日々が4月半ばから6月の初め頃まで続くのです。

だから山菜採りは、レクレーション感覚ではなく、食料の確保、仕事の一環として真剣そのものでした。

フキは少し湿り気の多い土壌を好む。日当たりの良い場所でも見つけることはできるのですが、少し陰がある所に多く生えていた。一つの群れを見つけて、その群れを追っかけていくと、またそこに新しいフキの群生に出くわすのです。

料理前の予備的知識を集めた。

問題は、灰汁(あく)抜きの方法を知ることだった。女性スタッフの和さんに聞いてみた。和さんはベテランの主婦?だ。料理については何でもかんでも質問に答えてくれるのですが、今回は、少し考えてから、、、、キュウリの塩モミのようにしてから茹(ゆ)でるといいそうですよ、と誰かの知恵を借りてきたのか、そのように教えてくれた。

家人にも電話で教えを乞うた。茹でればいいんですが、筋(すじ)をちゃんと取らないとアカンよ、灰などがあればいいんですが、手に入らないですよね、だった。

決意を固めて台所に立った。

缶ビールを一口、二口飲んで心の準備をしてから流し台のボールにフキを入れ、そして洗った。いかにも貧相なフキだ。フキを知らない人には、食材には見えなかっただろう。水洗いだけでも、灰汁が出て、ボールの水は黒くなった。葉柄の表皮全面の筋を根元から先に向かって取った。爪が真っ黒になった。実は、筋を取るのは、茹でてから取った方が取りやすかったんですよ、と後日家人から指摘された。

5センチぐらいに切りそろえてから茹でた。充分茹でた後も、冷めるまで、そのまま鍋に入れたままにしておいた。冷めて、一口噛んで柔らかくなっていることに、ただそれだけなのに、嬉しかった。味は苦味があっても、間違いなくあの懐かしい田舎のフキの味と香がした。内心、やった!と顔に喜び線が放射状に走ったのを自覚した。

水気(みずけ)を絞って、皿に盛った。又、1本つまんでみたら、灰汁もなく舌に穏やかだ。これでいい、これ以上何も加工するまい、このまま食うのが一番いい。じっくり眺めてから、醤油をかけて食った。言うまでもないが、ビールでもウイスキーでもない、日本酒をお燗して用意しておいた。

美味かった。この夜の、私の夕食小景でした。

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追記=大学時代、秋田出身のサッカー部の後輩の自宅に招かれたときのことです。フキのシーズンは春なのですが、東北の秋田だから少しシーズンがずれるのだろうか、その時は夏休みだったように思う。現在、彼は秋田市役所に務めている。

後輩の父親に、秋田蕗の栽培地に連れて行ってもらった。40年以上も前のことです。此の頃、年のせいか、懐旧の念が深くなったようです。

フキは、子供の頃から馴染みの植物だったのですが、2メートルもある茎(葉柄)のフキを目(ま)の当たりにして、吃驚した。フキのお化けのようだった。案内パンフレットには、フキを傘のようにして子どもがふざけていたり、フキの下で娘さんがかくれんぼしている写真もあった。

 

★ワンポイントレッスン

何故、「きゃらぶき」なんて呼ぶのか、日本語大辞典〈講談社)で調べた。きゃらぶき=フキ、またはツワブキの若い茎を灰汁抜きし、醤油で伽羅色に煮付けたもの。保存食でもある。

伽羅色とは、濃い茶色のことだ。

2011年4月5日火曜日

蕗と、蕗の薹(とう)は違うんですか

川崎市宮前区有馬にある弊社が販売中の中古戸建をチェックに行ったとき、物件の傍の草むらに生えているフキノトウ(蕗の薹)を見つめる私に、経営責任者の中さんが、それはなんですか?と問われたので、これはフキノトウですよ、と答えた。

Fuki.jpg

蕗(ふき)

中さんはその答えを聞くや否や、私に思わぬ質問を返してきた。「フキノトウとフキとは違うんですね」。瞬間、私は戸惑った。う~ん、そりゃ、ありゃ、どうしよう。フキとフキノトウは違うことは解っていても、常々、両者は同じ所で寄り添って生えていることから、親戚同士かも? 違うことは違ってもその違いを説明できない。全く別物とも思えない。やっぱり調べておく必要があるなあ、と感じた。

そして、2日後の20110404、今度は横浜市神奈川区三枚町で仕入れて、これからリフォーム工事に入る中古戸建に工事の内容を確認するために行った。空き家になった庭には、痩せていかにも貧相だけれども、フキとフキノトウが密生していた。

蕗の薹(フキノトウ)

本業の仕事に入る前に、先ず、私がとった行動は背が高く伸びきったフキノトウは諦めて、比較的太っているフキを摘むことでした。フキノトウはテンプラにして食べると美味いんだが、食べごろをはるかに過ぎてしまっていた。私の郷里は京都府綴喜郡宇治田原町で、最たる農繁期である茶摘みシーズン中の簡便な食事のおかず用として、春にフキを摘んで、塩漬けにして保存しておくのです。生家は、今でも宇治茶の生産農家です。子供の頃、毎年、母と祖母にフキ摘みにかりだされていたのです。

フキを摘んでみたものの、どのように調理したらいいのか、食ったことは大いに経験あるのですが、よく言われる灰汁(あく)抜きの方法は見当もつかない。それは、人に聞きまくればいいや、と思っていた。

本業の仕事が手につかないまま、フキとフキノトウの根を掘り起こしてみた。これからが、中さんが疑問に持ち、私がきちんと答えられなかったことの本格的学術調査に入ったのです。

同じ根から、フキとして葉を出し、フキノトウとして花を咲かせているのだろうか。それとも種を異にして、別々の個体なのか、この確認をしたかった。

本業の仕事は、ますます遠ざかっていく。寄り添っているフキとフキノトウのそれぞれの茎を左手で握り締め、右手で根を気遣いながらスコップを根の側にさした。スコップもろともゆっくり一緒に引っ張り上げて、奔放に絡んだ根についている土をほぐした。土を慎重に払い落としてみると、フキとフキノトウが同じ根っこから茎を伸ばしていることが判明した。

これで、何もかもがハッキリしたのです。

画像 057

上の写真で、一つの根からフキとフキノトウが茎を伸ばしいる状態が確認できる。フキは葉っぱを広げて炭酸同化作用を行い、成長に必要な栄養分を作る。

ここまで、進めてきて気づいたのです。今まで地下に潜っている部分が根だと思っていたのですが、そうではないらしいのです。根ではなく地下茎なのです。根は地下茎の先に細くひげのように伸びているのが、根だ。

上の写真の一番、二番に背の高いのがフキノトウが大きくなったものです。それ以外はフキ。

フキノトウは花茎と言って花と茎がでてくる。葉のように見えるのは、葉が変わったもので苞〈ほう〉と言う。たくさんの苞で花を守っている。まだ花が奥深く見えない状態のときが、テンプラにして頂くのがベスト。フキノトウは大きくなって、花が咲いて、種ができて仲間を増やす役目のようだ。地下茎を伸ばして、仲間を増やすこともできる。

時期的には、フキノトウが先に芽が出て、その後にフキが出るのです。

(下の写真は、上の写真の地下茎、根の部分を接写したものです)

画像 058

私がこんな学術調査をして、本業を疎(おろそ)かにしている間にも、同僚の長さんは、物件の床下を潜って構造的に何か怪しげな箇所はないかと、額に汗流して働いていた。一仕事を終えた長さんに、学術調査の結果を詳しく話して、わが身のサボタージュの後ろめたさを誤魔化した。

長さんは、興味をもって聞いてくれた。中さんにも、調査の結果を話さなくてはイカン。勤務時間中でありながら、貴重な時間ををいただいたのだから。

2011年4月2日土曜日

この恐(おっそ)ろしい放射線

東日本大地震による津波で制御不能に陥っている福島第一原子力発電所から発生している放射線濃度の報道で、放射線に関する特別な用語が頻繁に使われていて、そのどれもが難しい。

そんなことを気遣ってか、20110315の朝日新聞に、放射線に関する用語(放射線物質、被爆、シーベルト、除染、安定ヨウ素剤)の説明がなされていたので、その記事を転載させていただいた。個人的な備忘録ってとこか。こんな用語を備忘のために尽力するなんてことは、あんまりいい話ではない。

放射能とは、物理学的な定義では放射線を出す活性力(放射性、放射活性、放射線を放射する程度)を言う。また日本の媒体等では「放射能を浴びる(飛散する)」などと誤用されていることが多い。そして、放射線とは一般的には電離性を有する高いエネルギーを持った電磁波や粒子線のことを指す。---Wikipediaより

下の用語の説明は、解りやすく書かれているものの、体育会系の私にはもっともっと説明してもらい、自ら学習しないと、理解というにはまだまだほど遠い。

 

放射線物質

放射線を出す物質。原子力発電所の事故で、住民の健康への影響が問題になることが多いのは、放射性のヨウ素131やセシウム137、ストロンチウム90など。ヨウ素131は、体内に入ると甲状腺に長くとどまり、甲状腺がんの原因になることもあるが、薬で一定の予防や治療ができる。セシウム137やストロンチウム90は放射線を出して壊れ、半分になるまでの期間である「半減期」が約30年間と長い。食べ物などから体内に取り込まないように予防が大切。これらは体内で骨や筋肉の成分などとして蓄積しやすい性質をもっている。

 

被爆

放射線が人体に当たること。体の外から被爆する「外部被爆」と、放射線物質を鼻や口などから吸い込んでしまって体内から被爆する「内部被爆」がある。内部被爆は、放射性物質を含んだ空気を吸い込むだけではなく、汚染した物や手を口にしたり皮膚や傷口から入ったりしても起こる。防ぐためには、まず外出を控え、窓を閉めるようにすること。屋外にいる時には、マスクやハンカチなどで鼻や口を覆い、呼吸で取り込まないようにする。大気中の放射性物質が皮膚に付着しないように、なるべく皮膚の露出を抑えるといった注意も心がける。

 

シーベルト

放射線を浴びた時の人体への影響を表す単位。放射線にはいくつもの種類があり、人に対する影響度は違う。それを共通の尺度で測るための単位だ。人は世界平均で、普段の生活でも年間2,4ミリシーベルトの放射線を浴びている。1時間あたりに直すと0,274マイクロシーベルトだ。胸部のCTスキャンの1回の放射線量は6,9ミリシーベルト。一度に大量の放射線を浴びた方が体へのダメージは大きい。業務に従事する人の年間上限は50ミリシーベルト。約500ミリシーベルトでリンパ球減り、1000ミリシーベルトで吐き気や嘔吐の症状が出てくる。

 

除染

体についた放射性物質を取り除いたり、減らしたりすること。放射性物質を周囲に広げたり、体内に吸い込んだりしないために行なう。全身に放射性物質が付着していないかを測定したうえで、汚染が確認された場合に実施する。服を脱ぎ、ポリ袋などに密封する。体の表面に放射性物質が付着していた場合は、タオルを使ってぬるま湯で洗い流す。せっけんと水でよく洗えば、皮膚表面の汚染は除ける。皮膚が赤くなるほどこすったり、つめを立てたりはしないようにする。除染したら、再び全身を測定して、放射性物質が取り除かれたか確認する。

 

安定ヨウ素剤

放射性物質の一種であるヨウ素131が体内の甲状腺に取り込まれるのを防ぐ薬。体内被曝による甲状腺がんを防ぐ効果がある。あらかじめ吸い込むことが予想される場合に予防的にのんだり、吸入後に治療的にのんだりすることがある。ただし、一時的に副作用で甲状腺機能が低下する可能性もある。成人は甲状腺がんになる恐れがほとんどないことなどから、原子力委員会によるヨウ素剤予防投与の方針は、40歳未満の人を対象として、1回のみの服用としている。また、ヨウ素過敏症の人などは服用してはいけないとしている。

 

追記

被爆と被曝の言葉の違いも確認しておきたい。原爆の被害を受けるのが被爆。放射線にさらされることは被曝と書く。

何故、塩は体に悪いのか

福島県在住の大学時代の友人・西が、福島原発避難民として、我が家で一緒に暮らしている。

この私が、彼を元気付けるために、毎夜、酒のつまみを手作りしている。煮物、炒め物、焼き物とチャレンジしているのですが、味付けに苦慮している。難しい。御菜(おかず)はどれもつまみ用だから、慎重に加減していても、つい塩を多い目に使ってしまう。塩が少ないと、味がバシィッとこないのだ。薄い味付けの時には、西は不満な顔をする。砂糖を使うことはほとんどないのですが、塩はどうしても避けられない。

塩を摂り過ぎてはいけないとは、巷間(こうかん)、常識らしいが、今までそんなことには、ちっとも耳を傾けたことがないのに、ここに来て、急に気になりだした。やはり、年齢が年齢、老いの果てに悲惨な病に倒れたくない。避けられるものなら避けたいもんだ。寝たっきり!! 嗚呼、厭だ、そんなの嫌だ、と思う気持ちが強くなってきているようだ。

何故、塩は体に悪いのか? 私の真剣な質問にも友人達は、高血圧になるからいけないらしい、という程度の説明しかしてくれない。

すっきりしないまま、週刊誌を片手に?料理に精を出していた?

原発避難民の西が、買ってきたこの週刊誌=週刊現代(4/2号)〈講談社〉のカラー見開きのページに、私の悩み事を解決してくれる記事が出ていたので、早速パクッた。

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( 塩を減らそうプロジェクト発足1周年記念イベントに参加した、日本高血圧協会理事長の荒川規矩男氏、タレントの石田純一氏、料理研究家の浜内千波氏。手にしているのは「減塩マーク」)

 

塩分を摂りすぎると血液中の塩分濃度が高くなる。すると、細胞組織の活動が低下するため、血液中の塩分を薄めようと腎臓が血液中に水分を送り出す。その結果、血液量が増え、血圧が上がるのだ。この状態が続くと、血管はもろくなり高血圧を引き起こす。

「高血圧は心臓病や心血管疾患など、命に関わる重篤な病気の原因になります。また、塩分の過剰摂取が胃がんや骨粗鬆症(こつそしょうしょう)などの引き金になることもわかっています」(荒川氏)

日本高血圧学会では、欧米諸国と同じ一日6g未満の塩分摂取を目標値としている。2010年に厚生労働省が発表した「国民健康・栄養調査」によると、成人の一日あたりの塩分平均摂取量は男性11,6g、女性9,9g。目標値とはほど遠い。

では、体内の塩分を減らすにはどうすればいいか。まず単純に摂取量を減らすことである。とくに外食がちな人にとって、塩分量を調整するのは難しいが、ラーメンのスープを飲まない、かける調味料を減らすなどの心がけはできる。また、食品に表示された塩分の量をチェックするだけでも意識が変わる。ちなみに、ナトリウム(Na)量が塩分量ではないので注意したい。

次に、体内の塩を減らすためには、バナナなどのカリウムを多く含む食材を摂ること。塩分を体外に排出し、血圧を下げる働きがある。そら豆、春キャベツ、たけのこなど、春野菜にはカリウムが多く含まれるので積極的に食べるよう心がけたい。(腎臓に持病がある場合は、医師に要相談)

*減塩のコツ

ラーメンなどのスープは残す/調味料を直接かけない

*塩排出のコツ

カリウムを多く含む食材を摂る/ウオーキングなど有酸素運動を心がける

*ナトリウム=塩分量ではない。Na量に2,54をかけた数値が食塩の量になる。