2008年12月28日日曜日

中国国内で、横暴警察に怒り発火

081220 朝日新聞朝刊・国際で、中国各地で相次ぐ警察に対する抗議行動が頻繁に起こっていることを報道した。内容を読んで、今回の北京五輪の際のチベット人による抗議や、報道関係者に対する取り扱い、国事最優先市民生活二の次、などの報道から中国国内での人権(民主化)の未成熟さを露呈した。人権以外にも、食と環境の問題も取り上げられた。

今後の中国政府の抱える大きな課題だな、と納得していた。私の頭の中ではその程度の認識だったが、中国国内での実態は、もっと凄まじいもののようだ。何故なら、今月の21日、友人にウドンを食おうと誘い出したら、その友人は横浜は中華街からの帰りで、街頭でこんな新聞が差し出されたので、受け取って電車の中で読んでいたら、是非君にも読ませたくなったので捨てないで持ってきた、と手渡しされた。

彼から受け取った新聞は、「大紀元時報」という。日本語版は月に2回発行されているようだ。定期購読の余ったものを宣伝用として街頭で配っていたのだろう。ちょこっと読んで、興味を惹いた。

内容について、多少偏向しているのかな、と当初は疑ってみた。ここで、朝日新聞の記事を紹介してから、この「大紀元時報」とその記事の内容も紹介して、どういうこっちゃ?事実はいかなるものか、学習したい。

あなたは、この大紀元時報なる新聞をどう読み解きますか。議論が戦わせることができたら幸せに存じます。

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朝日新聞に戻ります。この稿の頭書で指摘した内容の記事だ。以下は、(瀋陽・古谷浩一)氏の記事をダイジェストにして転載させていただいた。

警察に対する不満が高まっている。強権を背景にした横暴な取締りがあるとされ、市民を巻き込み、警官隊との衝突や警察の車への放火など暴動寸前の騒ぎも起きている。

当局側は「信頼回復」に躍起だが、長年の不信の払拭は容易ではない。中国は共産党一党支配下で警察が絶大な力を持つ「警察大国」。公安機関に所属する「警察官190万人」(公安省スポークスマン)のほか武装警察部隊や国家安全省もあり、市民に恐れられてきた。

中国では逮捕権は警察当局にある。しかし、警察当局は独自に容疑者を拘束し、取り調べる権限を持ち、警察に拘束されたまま何年間も勾留された容疑者もいる。また、労働改造所送りといった行政処分を決める権限も持つ。

非合法とされた気功集団・法輪功のメンバーの多くはこうした処分を受けたといわれる。一連の動きは、この強大で不透明な権力への市民の不満を示している。

ある当局者は「市民の権利意識は想像以上に高まっており、警察なら何でもできるといった状況でなくなってきている」と話す。当局は7月、警察権力の乱用を禁じる異例の規定を打ち出すなど、信頼を取り戻そうとしている。しかし、その徹底が容易でないことは、各地で警察への抗議騒ぎが続いていることを見れば明らかだ。

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ネットの「ウィキペディア」より大紀元の情報を得たので、そのまま書き写した。

先ずは「大紀元」とは、英語では=The Epoch Times、はニューヨークに本部を置き、ニューヨークで法輪功を支持する華僑たちによって設立された。主に中国語で新聞を発行しているメディア。大紀元は「気功」などで知られる新興宗教「法輪功」と関連した報道機関であり、同社が発行する大紀元時報では中国共産党の言論統制に従うことなく、同党に批判的、反体制的な記事を多く掲載し、中国共産党に肯定的な報道は全くない。同紙は中国政府のいかなる検閲も受けていないことを強みとしており、中国共産党政府による中国国民や気功集団「法輪功」やチベット、ウイグル等の少数民族の人権弾圧に関する問題、中国国民の中国共産党からの脱党支援活動、中国共産党のスパイ活動、中国の民主化について盛んに報じるなど、反中国共産党政府の報道姿勢に立っている。

アメリカ国内に11の支社を持ち、日本やカナダ、イギリス、ドイツなど、世界30カ国にグループ社がある。全世界で発行部数は120万部。

2005年、アジア・アメリカ・ジャーナリスト協会の全国報道賞、アジア・アメリカ問題ネット報道部門トップ賞を受賞。同年、カナダ全国マイノリティーメディア協会のメディア賞を受賞。

新聞以外にも、希望の声(ラジオ局)、新唐人電視台(テレビ局)といったメディアを持ち、この三社でエポック・メディア・グループを形成している。

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この手の新聞のことだから、私には先入観があって、眉に唾をべったりつけた。某党の支持宗教母体が発行している新聞に、お付き合いをさせられて1年間購読したことがあった。その新聞は、初めから終わりまでその団体の名誉会長なる人物が、あっちこっちから感謝状やら名誉を授与されたとか、世界各地で大祭が行われ、その来賓客として有名な政治家や学者や有力者が出席したとか、そんな記事ばっかりだった。ウンザリさせられた。だが、この大紀元時報は全ページ中国共産党政府に都合の悪い記事がてんこ盛りなので、見た瞬間、ギャオ~と驚いた。

でも、どの記事にしても、本当のことのような気がした。否、多分、事実だろう。ますますのめり込んで読んだ。この稿の前半は、朝日新聞が中国における警察の市民に対する横暴が目立って多く起こっていることの取材した記事を紹介したのですが、これでは、言い足りていませんよ、とばかりに大紀元時報はこれでもかこれでもか、ビンビンと伝える。警察の市民に対する横暴だけではなく、警察関係者らが市政府当局に頻繁に抗議している内容も書かれていた。これらの事件で、所轄の警察は制止を発動していなかった。

このご時勢、言論統制なんかしているようでは、世界の仲間入りなんか到底覚束無い。経済大国になろうとするならば、中国共産党は、先ずは人権《民主化》問題に正面から取り組むことだろう。

世界からの監視は、鋭い。欧州連合(EU)の欧州議会は、人権擁護活動で貢献があった個人や団体に贈られる2008年度のサハロフ賞を、中国の市民活動家・胡佳氏(35)に決めた。中国政府は無視、馬耳東風然。胡佳氏は今年のノーベル賞の平和賞の有力候補者でもあった。彼はブタ箱に入れられたままだ。

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それでは、私が手に入れた大紀元時報の一部をここに転載させていただく。日本で発行されている新聞とは随分違うことに気がつくだろう。私が勝手にダイジェストした。

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大紀元時報   20081211 第84号

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*神韻(しんいん)世界ツアー、19日米国でスタート

中国古来の伝統芸能の最高峰、「神韻芸術団」の世界ツアーがいよいよ今月19日、米国でスタートする。同ツアーはその後三つのグループに別れ、来年四月にかけて世界100都市を回り、300回の公演を行う予定。日本公演は、来年2月11日の東京を皮切りに、同月13日に名古屋、15日に広島、18日に大阪で開催される。海外の華人アーティストで構成された「神韻芸術団」はニューヨークを拠点とし、今や失われつつある中国伝統文化の真髄を「純善・純美」をテーマに再現することを目指している。中国の最盛期とされる唐王朝の時代から脈々と受け継がれてきた伝統文化を。歌、踊り、音楽で余すことなく現代に蘇らせる。

*警察官ら、市政府を攻撃

中国各地で最近頻発している集団抗議事件が、それを取り締まる公安警察でも広がっている。12月2日、湖南省菜陽市で、公安警察官100人以上が市政府の所在地を囲み、収入の増加を要求する抗議事件が発生した。同事件は、60年代から70年代期間の文化大革命以来、初めて警察官が当局に抗議する事件であったようだ。抗議に参加した公安警察官は正式な公安警察官にほか、市パトロール課の保安警察官もいた。

*深刻な就職難、退役軍人千人が抗議

香港中国人権民主運動情報センターによると、11月21日夜、千人を超える退役軍人が山東省泰安市政府の前で抗議デモを行い、当局と衝突し、少なくとも10人が負傷したという。退役軍人たちは就職できない厳しい状況の下で今回の抗議デモを引き起こしたという。抗議活動の中心になったのは今年退役した軍人たちである。

*庁舎前で再び千人が集団抗議

12月3日午前、北京市政府前で約千人の大規模集団抗議があ発生し、当局は警察官100人以上を出動させ厳重な警備をしいた。抗議者たちは住居を強制的に移転させられて、補償されるべきものが得られなかったため、長期にわたり北京市政府に訴え続けたが取り合ってもらえなかった末に、抗議を行った。

*有害粉ミルク事件/被害乳幼児、29万人

中国国内で発生したミルク有毒物質混入について、「三鹿グループ」などのメーカーが製造したメラミン添加の粉ミルクを摂取したため、29万人以上の乳幼児が腎・泌尿系臓器に異常をきたしたことがわかった。この数値は、以前公表した人数の5倍になる。

*黄河3分の1、使用不可

中国政府機構「黄河・水利委員会」はこのほど、最新の報告書で、この中国国内2番目の内陸河の水質汚染状況をまとめた。それによると、その3分の1の流域は中国国内の水質基準では、このレベルの水は、工業用水としても使用できない水であり、中国語で泉水溝(どぶ水)と呼ばれている。

*ベルギーテレビ局記者/エイズ取材で妨害受ける

11月27日、ベルギーのテレビ局(VTR社)の駐中国通信記者トム・バンデウェハ氏及び撮影隊は、中国河南省で取材した際、地方行政府中国共産党(中京)関係者の妨害を受けた。記者たちは脅迫、暴力を受けたうえ略奪された。「世界エイズ・デー」 (12月1日)に因み、エイズ問題についての報道を行うためにバンデウェハ氏及び撮影隊は河南省商丘市を訪ねた。この地区では売血によって感染したエイズ患者は約100万人がいるとされる。

*「弁護士人権賞」・李平和氏/北京当局により出国禁止

中国著名人権弁護士・李平和氏はこのほど、欧州弁護士及び法律協会の「欧州弁護士人権賞」を受賞し、11月27日にブリュッセルへ出発しようとした際に北京空港で当局に止められた。出国禁止になった理由について、李氏は自分がこれまで法輪功学習者など敏感な案件に携わったからだとみている。

*EUに新変化/中国の人権擁護への支持を強化

12月2日、ブリュッセルのEU本部で行われた「中国の人権シンポジウム」で、法輪功の議題はEU議員とNGO国際組織かあら広く関心をもたれた。会議の参加者は中国の人権問題について、環境に対する権益、一人っ子政策、拷問の濫用及び法輪功、チベット人、ウイグル人への迫害など、全面的な検討が行われた。中国での拷問者被害者の66%が法輪功学習者であり、生体からの臓器摘出の対象も法輪功学習者で、法輪功問題はすでに中国における人権問題の最重要課題となっている。

12月3日、ダライラマがEU議会を公式訪問する前日、チベットと中国の人権問題に対し支持を表すため、5人のEU議会の議員により一日断食の活動を発起した。延べ35人の議員と400人以上のEU職員が参加した。

*中国生物学者 スパイ罪で死刑執行

台湾のためにスパイ活動をしたとして起訴されていた中国生物学者の呉維漢氏に11月28日朝、死刑が執行された。呉氏の遺族と国際特赦組織及びオーストリア、米国政府などが呉氏の死刑執行は透明性のある公正な司法審理を経ていないことを糾弾している。ラジオ自由アジアが伝えた。呉氏が弁護士もつけてもらえず有罪となったこと、呉氏の量刑が公平な審判を経ていないと伝えられている。

2008年12月27日土曜日

コーチ、指導者に感謝

サッカー、ラグビー、野球とソフト、アメフット、ハンド、バスケット、ホッケー、バレー、柔道にレスリングとボクシング、スピードとフィギュアスケート、スキー、卓球、弓道、トラックにフィールドの陸上競技、その他にもスポーツは各種あって、競技者はそれぞれ技術を磨き、体を鍛えて、覇を争う。春夏秋冬、毎日配られてくる新聞のスポーツ欄の記事は、スポーツ好きな私にはもう堪らない。スポーツ欄の記事を穴のあくほど真剣に読んでいる。

仕事や私事で、会場で観戦する機会は少ないけれど、テレビで観たり、写真を眺めたり、記事を読むだけでも、私の体にエネルギーが湧いてくる。悲喜こもごもの筋書きのないドラマに、大いに刺激を受けている。大げさではなく、そして、私は元気をもらって生きている。

私も、中学から大学まで勉強は程ほどに、でも真面目なサッカー競技者の一人であった。高校では、試合を前に選手11人を集めるのに四苦八苦した。そんなチームだったけれど部友はいつも仲良く結束していて、負け続けても負け続けても、又今度頑張ろうや、なんて言い合って翌日の練習の打ち合わせをしたものでした。監督は、釜本邦茂もメンバーの一人だった全京都選抜のキーパーを務めた岡本監督だった。この岡本先生の適度のいいかげんさが、私達を奮起させた。こういう指導方法もあるのだ。

大学では立派なチームに所属させていただいた。幸福者であったが、優秀なアスリートにはなれなかった。下手糞のままだった。生徒から学生になるまでの間、スポーツ競技の世界に身を置き続けたことで、学んだことは計り知れない。私を取り囲み、あれやこれや助言をしていただいた方々に、大いに感謝したい。先輩、全日本代表やそのクラスの人から簡単なことでも、極めて懇切丁寧に教えていただいた。同輩、よく付き合ってくれたものだ。後輩、常々叱咤激励してくれた。堀江監督からは競技の本質を教わった。受講していた科目を甘く採点していただいた。(ご迷惑をおかけしてしまった。ヤマオカ、あのレポートではどうしても優は点けられないヨ。可にしておいたゾ。恐縮、脱帽)。キングと言われていた工藤元監督からは、勝負に賭ける真髄、人間としての生き方を教えて貰った。(ヤマオカ、その走り方はなあんじゃ。ケツに糞でも挟んでいるのか)。個人だけではなく、意思を備えた「団体=チーム」からも、学び取ることは多かった。このように、私はいろんな人とかかわりながら、教わり成長させていただいた。人の縁に恵まれたのです。

スポーツを始めたきっかけはいろいろあるだろう。お父さんや、お母さんの手ほどきで始めた、お兄さんや、お姉さんがやっているのを見よう見真似で始めた、友人に誘われた、スター選手に憧れた、先生に声を掛けられた。松井秀喜やイチローはお父さんに教えられ、高校の恩師に、プロ球団の指導者等に薫陶を受け、もう一段、レベルの高い米国のメジャー球団に入った。そこでは指導をする、指導を受けると言った簡単な言葉で済まされない高度な交流なのだろう。競技者にとって指導者は、その重要性において不可欠な存在だろうが、競技以外の世界の人からもアドバイスを受けてそれをヒントにして新しい領域や技に足を踏み出した競技者もいただろう。大成した競技者にはその陰に必ず優秀な指導者がいる。子供をコーチする指導者に、指導者とは到底似つかわしくない呆れたコーチがいることも事実だ。傍から見ていて、そんなコーチなら居ないほうがいい、と思った経験もある。

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ここで、競技者とその周囲の人との縁を考えてみたいと思い起す新聞記事があった。それは、ソフトバンク前監督王貞治氏と、元全日本ラグビー日本代表大八木淳史氏に関する記事のことだ

ソフトバンクの王貞治前監督のお兄さんが、20日に亡くなったことの訃報の記事のなかで、この「縁」を考えさせられた。兄・鉄城さん(享年78歳)の通夜終了後、王前監督は「早稲田実業に入るときも巨人に入るときも、兄が私の意思を尊重してくれた。私の強い味方でした」と語った。野球で大げさに喜ぶと、いつも「相手の身になれ」と言われたという。お父さんも立派な人だった。兄が慶応大学の医学部の野球部に所属していて、大学の合宿に当時小学生だった王少年を連れて行ったとも聞く。王前監督には、偉大な選手になるのに必要な素地、下地が、選手になる前からあったのだ。荒川コーチとの共同作業による一本足打法の考案、川上監督や並みいるコーチ、指導者、ライバルで人気者の長嶋の存在も影響があっただろう。

大八木淳史氏が下の新聞記事によると、四国は高知の高校のラグビーチームのゼネラル・マネージャーとして、熱い指導に燃えている。このチームは彼が参加してから、成長猛々(たけだけ)しく、この冬に行われる高校ラグビーの全国大会に出場することになった。そのゼネラル・マネージャーになってからの経緯を著している。多分、彼がこの仕事を請われた時、きっと彼の頭の中には、高校時代の自分の姿を思い起こしたことだろう。彼が入学した伏見工業高校には、あの山口良治監督がいたのだ。彼は、この名物監督に学んだことを、自分を育ててくれた恩師への感謝の気持ちを、是非高知の高校で実践の形で表現したいと考えたのだろう。高校生にとって、さぞかし嬉しかったことだろう。この企画を思いついた人も、それに応えた選手、当の大八木氏に天晴(あっぱ)れのエールを送りたい。高知中央高校の本番での健闘を祈る。このようにして、この高校の生徒は立派なコーチに巡り会ったことに、この縁に感謝しなくてはイカンゾ。今も伏見工の総監督を務める山口良治先生にとって、教え子の活躍は至福の思いだろう。かっての神戸製鋼時代の大八木選手は迫力満点だった。そのいかつい体躯に愛嬌のある表情は、日本代表でも破格の人気者だった。

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20081223 朝日朝刊・スポーツ

楕円球が僕らを変えた/高知中央高校

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熱血教師がラグビーを通じて不良高校生を更正させ、人気を博した80年代のテレビドラマ「スクール・ウォーズ」。創部2年目で全国大会初出場を決めた高知中央は、そんなドラマを地で行くチームといえる。率いるのは、神戸製鋼の全盛期を支えた元日本代表のFWの大八木淳史。主演は「落ちこぼれ集団」といわれる21人の部員たちだ。

ラグビー経験者は数えるほどしかいない。大半は他の部活や他校をやめて入ってきた生徒たちだ。テニスやバスケットで挫折した選手や、高校受験の失敗などでぐれていた選手、親子関係で苦しんで越境入学した選手もいる。学校からの就任要請に、大八木GMは「そんな不遇な境遇にいたヤツ、楕円球に触れたこともないヤツらを、ラグビーで変えたい」と引き受けた。

1年目の昨年は、部員のモラルの低さに驚いた。練習の無断欠席は当たり前。ラグビーのルール以前に、学校や社会の規則を守れなかった。大八木GMは講演活動などで多忙の中、年間120日を高知で過ごし、高校生と向き合ってきた。携帯電話の番号を教え、「困ったことがあったらかけてこい」と対話の機会を増やしたという。夏合宿では大部屋で寝食をともにして、自らをさらけ出した。

CTBの浅利(2年)は言う。「大八木さんに会って、僕らは変わった」。口酸っぱく言われたのは「約束は絶対守れ」。ミスをチームメイトに押し付けていた選手たちが、自らの責任を追及するようになり、まとまった」。出場4校の予選を突破した。

「スクール・ウォーズ」の熱血教師のモデルは 、伏見工の山口良治総監督。大八木GMの恩師でもある。ラグビーを通じて人間育成したいという思いが、師弟の間を貫いている。

初戦は27日の平工(福島)。寄せ集めチームが勝てるほど花園は甘くない。それを知る大八木GMは「周りへの感謝の気持ちを忘れずにプレーしてほしい」と話している。(野村周平)

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12月27日、第88回全国高校ラグビー大会が大阪・近鉄花園ラグビー場で開幕した。大八木GM率いる、初出場の高知中央高校は、初陣を飾ることはできなかった。平工(福島)に12トライを奪われて、大量63点差で敗れた。防戦一方の試合でもなかったらしい、2トライを取ったのだ。大八木GMは「きれいなトライじゃないけれど、意義のあるトライだった」と選手達の頑張りを讃えた。

また、大八木GMは、「技術的にはまだまだだけど、精神面では向上した。これをチームの新しいスタートにしたい」と、今後に賭ける。また「もうドロップアウトの集まりと違う。花園の聖地を踏んだラガーとして育ってほしい」と、表情は誇らしげだった、と報道された。

2008年12月22日月曜日

フェルメール展に行ってきた

 

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(手紙を書く婦人と召使い)

東京・上野の東京美術館で開かれていた「フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」が14日、閉幕した。私は絵の好きな友人に、前日になって電話で強引に誘われ、最終日の14日の午後に連れて行かれた。

フェルメールなる画家など、今の今まで知らなかった。友人に言わせれば、今回公開される絵画は、ヤマオカ、あなたが生きている間には、二度と日本には来ないだろう。作品の少ない画家なので、日本で過去最多の作品7点が同時に公開されるなんて重大なことなんだよ、と説得された。

商売上、今月は最重要な年末月で、世界同時不況風をモロに受けて、そんな悠長なことをしている場合ではないのだと思いながらも、午後休みにしてもらった。スタッフに頭を下げた。午後3時頃上野駅に下りた。駅から徒歩10分のところに東京美術館があるのですが、どうも同じ目的に向かっているような人が異常に多いように思われた。小雨が降っていた。友人は、早足のスピードをもう一段早く歩きだした。彼の表情の一部に、緊張が走った。私には、そんなに急いでどうするのよ、有名な画家のようだが、たかが絵画展だろう、とブツブツ。ところが、入り口付近に近づいて驚かされた。長蛇の列だ。蛇ではないですぞ。入館を待つ人間の列が長々と続いて、入り口のホールに所狭しと、とぐろを巻いたように並んでいたのです。牛歩、入り口に到達するまで1時間半待った。

館内に入るや、入り口付近に展示されている絵画には見向きもしないで、友人は脱兎の如く私を置き去りにして薄暗闇の混雑した人の渦の中に消え入った。後で、その絵画を観たら、フェルメールの作品ではなかった。彼にとってはイの一番にフェルメールだったようだ。取り残された私は、とりあえず、観るしかないと決心して、人の頭越しに作品を観て回った。素晴らしい絵画だということは、なんとなく解る。私は絵画を観るよりも、説明書きを読むことの方に注力し、我ながら情けない鑑賞家だと自嘲した。一通り観終わって、空いたシートに座って、館内で販売されている絵画紹介本のサンプルを弱い照明の下で読んだ。俺は、何をしに来たのだろう。絵画、それも飛びっきりの名画の鑑賞だった筈だよな。貧しい鑑賞家だ、ここでも自嘲。でもその読書で、オランダのこと、初めて知ったフェルメールのこと、デルフトという小都市のことを学んだ。2時間程経っても、友人とは会えない。館内の照明は薄暗いので、人の顔は近づかないと分からない。携帯電話は禁止されている。しょうがないなあ、ともう一度見直していたら「マルタとマリアの家のキリスト」の前で偶然友人に出くわし、今度は会う場所を指定して、又バラバラに散った。

それから30分、指定し合った場所で待った。暫くしてから友人はやってきて私に声を殺して叱った。「ヤマオカ、お前なあ、腰をすえてゆっくり観ろ。そろそろ入り口は閉ざされる。混雑はおさまる。これからもう一度最初から、ゆっくり、ゆっくり、じっと絵を見つめてごらん、そしたら、何かが見えてくる。名画ならではの良さを感じてくるものだよ。ええか、ゆっくり睨み付けるんだぞ」。「俺も偉そうに言っているが、画法も技法も解らないが、じっと見つめているだけなんだ」。事実、館内は空いてきた。

そして、三度目の鑑賞という「仕事」にとりかかった。もう簡単には済まされメエ。必ず何かを掴んで帰るぞ。光の天才画家って書いてあったな。なるほど、どの絵にも光が窓から射している。窓辺では明るく、部屋の奥の方の明度は弱い。影は濃いところから薄いところへ、その濃淡の中にそれぞれに変化をもたせて描かれている。光と影の濃淡の世界のなかに、自分が描きたい主体を炙(あぶ)り出している。その主体を際立たせるために、白、黄、赤だったり、青色だったりする。私には、これ以上作品を論じることは不可能なので、ここからは、専門家が書いたと思われるネットで仕入れた文章を転用させていただく。「静謐(せいひつ)で写実的な迫真性のある画面は、綿密な空間構成と巧みな光と質感のある表現に支えられている」。その通りでした。

館内は人込みも疎らになり、顔を絵画にくっつけて観ることができた。グラビアや雑誌で観るのとは、立体感においても全然違うことに、恥ずかしながら、その場で実感した。館内での滞在時間はゆうに4時間は過ぎていた。

今回の展示会の会期中の総入場者数は、93万4222人だそうだ。日本で開かれた美術の展覧会の中で歴代4位になるという新聞報道もあった。私のような無粋な人間にも、今回はいい勉強になった。60歳にして、初めての経験でした。

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江戸幕府の鎖国政策時にも、オランダはヨーロッパの国のなかでも長崎出島で貿易が許された唯一の国だった。フェルメールが生まれた都市がデルフトだということはパンフレットで知った。その都市を調べていたら、この都市から遠く日本にやってきて、徳川家康に信任されたヤン・ヨーステンがいたことも初めて知った。

ヤン・ヨーステンのことを親しみを込めて呼べるのは、はるか40年ほど前の受験勉強で完全マスターしていたからだ。今もあるのかないのか定かではないが、培風館発行の「日本史精義」だけは、完全に制覇していた。受験勉強用の参考書だったのですが、教科書には載ってないことも書かれていて、相当難しい試験にでも対応できるシロものでした。この本の一語一句を丸暗記していた。

(東京都中央区八重洲にあるヤン・ヨーステンとリーフデ号の彫像)

ヤン・ヨーステンは、オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアムス・アダムスとともに、1600年豊後に漂着した。徳川家康に重宝され、江戸丸の内に邸を貰い、日本人と結婚した。彼の屋敷が東京・八重洲の語源である。東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィアに渡ったが帰国交渉ができず、再び日本へ帰還中、乗船していた船がインドネシアで座礁して溺死した。

航海長のウィリアムス・アダムスも西洋の科学的知識を家康に見込まれ、幕府の外交顧問として活躍した。家康から日本橋の屋敷と相州三浦郡逸見村(現・横須賀市逸見)に領地を与えられ、三浦安(按)針という日本名を名乗った。夫婦の墓は「安針塚」と呼ばれ、京浜急行の駅名にもなった。(ここの文章はネットから得たものです)

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フェルメール展

光の天才画家とデルフトの巨匠たち

(館内で無料で頂いたパンフレットの案内文を転記させていただいた)

上野・東京美術館

8月2日~12月14日

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ヨハネス・フェルメール(1632~1675)は、オランダのハーグ近くのデルフトという小都市に生まれました。彼がその生涯で残した作品は、わずか三十数点。この作品の少なさと、光を紡ぐ独特の技法の美しさから、彼は光の天才画家といえるでしょう。フェルメールの作品が展覧会へ出品されることは、ほとんどありません。しかし2008年、日本との修交15周年を記念する欧米各国の多大なるご尽力により、フェルメ-ルの作品を中心に、オランダ絵画の黄金期を代表するデルフトの巨匠たちの絵画を一堂に集めた奇跡の展覧会が実現することになりました。出品されるフェルメールの作品は、晩年の優れた様式で描かれた《手紙を書く婦人と召使い》、光に満ちた美しい空間を描いた風俗画の傑作《ワイングラスを持つ娘》、現存する2点の風景画のうちの1点《小路》、近年フェルメール作と認定され大きな話題となった《ヴャージナルの前に座る若い女》、《マルタとマリアの家のキリスト》、《ディアナとニンフたち》そして《リュートを調弦する女》の日本初公開5点を含む今世紀最多の7点の来日です。このほかレンブラントに天才と称され、フエルメールの師であるとの説もあるカレル・ファブリティウス《1622~1654)や、デルフトに特有の技法を確立させたピーテル・デ・ホーホ《1629~1684》など、世界的にもごく稀少で非常に評価の高いデルフトの巨匠の作品、約40点が展示されます。デルフトの芸術家による名作がこれほど一堂に集うことは、本国オランダでこ稀有であり、この奇跡の展覧会は、私たちにとってまさに一生に一度しかめぐり合えることのない機会といえるでしょう。

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(ディアナとニンフた
ち)
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(マルタとマリアの家のキリスト)
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(小路)
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(リュートを調弦する女)
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(ワイングラスを持つ娘)
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ヴァージナルの前に座る女)’
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(楽器商のいるデルフトの眺望)

2008年12月15日月曜日

お嬢さんは、そこまでやるか!!

私は無類のスポーツ好きだ。年間通じて彼方此方(あっちこっち)で、いろんな競技が行われ、その競技のたびに、選手や試合の内容、競技が巻き起こした出来事について、マスコミがあれこれ騒いでは話題が舞い上がる。その興奮が、又私を興奮させるのです。この楽しみが私の人生にささやかな潤いを添えてくれている。そのようにして、私は今まで生きてきたのです。

でも、こんな私なのに全てのスポーツに対して、オッケーではないのです。偏見があるのです。恥ずかしながら、述懐します。私には受け付けない分野のスポーツがあるのです。それは、格闘技です。特にボクシングです。他にもいろんな種類の格闘技があって、総合格闘技とか、K1とか、競技団体ごとに試合が催行されているが、この種の競技は絶対見ません。

今からほぼ35年前、学校を卒業して入った会社の創業者が近江の出身の関係で、その会社の専務が、当時の滋賀県出身のボクサーの階級は忘れたのですが東洋チャンピオンの後援会長だったのです。ときどき所属していた部に招待券が配られてきたのです。それまで、私はボクシングをリングの上で本気になって戦う試合を、目の前で見たことがなかったのです。一度は見ないわけにはいかない、と小躍りしながら同僚と東京・後楽園ホールに行った。

観た試合は、滋賀県出身の東洋チャンピオンが、挑戦を受けてのタイトルマッチだった。両者、気合の入った緊張した拳闘だったが、私は試合が始まって間もなく、見に来たことを悔いた。グローブに包んだ拳で殴りあうことぐらい、当然のように知っていたが、その殴り合いの激しさが私の想定外であった。グローブで相手の肉体を殴る際に発生する、ズド~ン、ドドン、グァン、バぁ~ンが、観客の私の肉体を同じ強さで打ってくるのです。私は、打たれ殴られ、回が進むにつれて、もうグロッキー寸前まで追い込まれてしまった。リングサイドのいい席を頂いたものだから、その激しさがもろに私の体を痛めつける。血が飛んでくる。汗が、唾が飛んでくる。アっとか、ウっとか、うめき声が、悲鳴のようにも聞こえる。痛みの生の実感が、私の神経系統のコントローラを乱した。心的外傷という奴だ。もう二度と、目の前で本物の殴り合いを見るものかと腹にきめた。

この試合を観戦するまでは、テレビで世界タイトルマッチの試合が放映されるときは、必ず視聴して、興奮したものでした。そして画面に向かって、もっといけ、もっといけと贔屓の選手に、殴りかかることを激励した。その時は、選手が負った傷のことや、受けたダメージの深浅については、私の思慮外のことだった。私が小学生から中学生になった頃、力道山が華々しく活躍していた。プロレスのテレビ中継を画面にかぶり付きで観ていた。グレート東郷が、椅子で殴られ、額からは血を流しながら、受けたダメージにもかかわらず相手にニタニタ笑って両肩を上げたり下げたりして、向かって行く。相手はその不気味さにたじろぎ、後ず去りしては、観客を喜ばせてくれた。又、ブラッシーがヤスリで研いた歯で、力道山の額に噛み付き肉を引き裂いた。リングの上には鮮血が飛び散り、ブラッシーの口は吸血鬼のように血だらけで、テレビを観ていて卒倒した人が日本の津々浦々で多く出た。そんな時にも、私は平気の平左衛門だったのに。

そんな私だったのに、どうしたのだろう。観戦して、自宅に帰っても、体の変調は戻らない。怖かった。無性に悲しくなった。心臓がビクビク体はブルブル、悪寒が走った。体が重い。ビールを飲んで、焼酎飲んで、ウイスキー飲んで、日本酒に手を伸ばしたあたりから私の体はやっと平穏になった。そして、配偶者に言ったのです。できるものならば、子供にはボクシングに興味を持たせないように仕向けてくれとたのんだ。配偶者は黙って肯いてた。私の意見には必ず反抗する人なのに、私のショックが大きかったことを理解してくれたようだった。

テレビゲームなどの仮想劇や絵空事で神経をボケさせてはいかんぞ。生の実感を味わえ、そしてその実感を忘れるな。

そんな恐っそろしいボクシングの世界にも、女子が登場してきて、激烈な試合が行われたのです。12月8日、東京・後楽園ホールで、世界ボクシング評議会(WBC)の女子世界戦2試合が行われた。ライトフライ級は暫定チャンピオン富樫直美(33)=ワタナベ=が、挑戦者の元WBCミニフライ級チャンピオン菊地奈々子(33)=白井・具志堅=を10回21秒TKOで破り、初防衛に成功した。アトム級はチャンピオン小関桃(26)=青木=が挑戦者の金慧珉(25)=韓国=を3-0の判定で下し、初防衛に成功した。

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スポーツの世界にも女性進出が華々しい。今まで男の得意としている競技にも、女性が頑張っている。女子柔道、女子のプロ・アマレスリング、空手、重量上げ、サッカーはもうお馴染みだ。今日、新聞で知ったのは女子のプロボクシングだった。殴りあう二人の女性ボクサーの報道写真を見て、私の30年前の嫌な記憶が蘇ってきたのです。嗚呼、やっぱり、女性がこの世界にも現れたのかと納得したが、本当は諦めたのですが、落ち着いて、落ち着いて、現実を凝視しなきぇあ、アカンなあと思った。

拳闘現場はさぞかし、凄まじいことだっただろうな。クワバラくわばら。私は人並み以上に臆病なのだろうか。それって、格闘技に対してか?、それとも女性に対してか?。

かって、私の親しかった女性は、相手に手加減はしませんでしたから。

*上の写真は、9回富樫直美(右)は菊地奈々子に右アッパーを浴びせているところ=筋野健太撮影

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上の文章を綴った後すかさず、女子が参加する新種目にジャンプが加わったことの報道があったので、これも又すかさず、加筆した。スポーツは勿論、なんでもかんでも、スピードが一番。20081217、朝日朝刊・スポーツより。(ダイジェスト)

来年2月にチェコのリベレツで開催されるノルディックスキー世界選手権で、新種目の女子ジャンプが行われる。国内からは4人程度となりそうな代表枠を目指し、熱い戦いが続いている。代表争いを引っ張るのは、ともに神戸クリニックに所属する山田いずみ(30)と渡瀬あゆみ(24)と、14歳の伊藤有希だ。代表は21日までの全日本合宿の内容や1月上旬の大会の成績で決まる。全日本スキー連盟によると、世界基準に達していることが最低の条件という。

映画「私は貝になりたい」を観てきた

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弊社は、東京テアトル株式会社の大株主だ。株主優待券を、大いに振り回して観に行ってきた。勿論、仕事を終えてからの、私の特別時間だ。

終戦から13年後、戦争の悲惨な記憶が薄れ、日本が高度成長に入りかけた昭和33年(1958年)に、フランキー堺主演でこのテレビドラマが放映されたそうだ。その時分から、技術革新によって様々な家電製品が新発売され、好景気のあおりを受けて、一大家庭電化ブームがつづいた。テレビは家庭の娯楽の王座におさまった。私は10歳、小学4年生か5年生の頃だった。世の中の動きになど何も判らないまま、立派な洟垂れ小僧として元気に成長中でした。

ドラマのタイトルに、子供の心は強烈な刺激を受けたようで、「私は貝になりたい」、この名セリフを、遊びの最中にも言ってはふざけたものでした。だが、そのテレビドラマをライブというかリアルタイムで観たことの記憶はないのです。我が家には、まだテレビが無かった時期だからです。お隣の家のテレビを見せて貰った記憶もない。

テレビのドラマが放映されてから1年後(1959年)に、同じフランキー堺さん主役で映画化された。きっとこの映画をその後、学校の講堂で映画鑑賞会として観たのだと思う。5年生か6年生の頃だった。ストーリーや場面の端々をはっきり記憶しているのですから。小学生の頃、一年に一度か二度、映画とかバレエー、人形芝居とかの鑑賞会が学校の年間行事として行われた。私の極上の楽しみの一つでした。松山バレエー舞踊団だったり、宮沢賢治の物語「風の又三郎」の映画だったりした。昨夜、付き合いの長い関君と、仕事の打ち合わせ後酒盃を何度も交わした。子供の頃の学校での映画鑑賞会の話を切り出した時、彼が言うには、「小学生の頃、学校に映画がよく巡回してきたんだよね。例えば『風の又三郎』だとかさ」。当時、田舎の学校廻りの映画会で持ち回られた定番は、この映画だったらしい。私が唯一、映画鑑賞会で観た映画で憶えているのは、「風の又三郎」だけだったのです。関の出身は新潟県は南魚沼郡湯沢町だったし、私は京都府綴喜郡宇治田原町だった。どちらも、都会から遠い寒村だった。

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ここで、観てきた「私は貝になりたい」の映画の内容をまとめておこう。

遺書・原作/加藤哲太郎、「狂える戦犯死刑囚」

監督/福澤克雄

出演/中居正広、仲間由紀恵、西村雅彦、平田満、武田鉄矢、泉ピン子、草なぎ剛、笑福亭鶴瓶、石坂浩二(失礼を省みず、知っている俳優さんだけを列挙した)

物語(パンフレットより)

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「戦犯容疑で逮捕します」。豊松にとってその言葉は、まさに晴天の霹靂だった。

清水豊松は高地の漁港町で、理髪店を開業していた。家族は女房の房江と一人息子の健一。決して豊かではないが、家族三人理髪店で何とか暮らしてゆく目鼻がついた矢先、戦争が厳しさを増し豊松にも赤紙=召集令状が届く。豊松が配属されたのは、外地ではなく、本土防衛のために編成された中部軍の部隊だったが、そこで彼は、思いも寄らない過酷な命令を受ける。

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終戦。---豊松は、やっとの思いで家族のもとに戻り、やがて二人目の子供を授かったことを知る。平和な生活が戻ってきたかに思えた。しかし、それもつかの間、突然やってきたMP(ミリタリーポリス)に、従軍中の事件の戦犯として逮捕されてしまう。そして待っていたのは、裁判の日々だった。「自分は無実だ!」と主張する豊松。だが、占領軍による裁判では、旧日本軍で上官の命令がいかに絶対であったか判事には理解されず、極めて重い判決が下りる。

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豊松は収監された巣鴨プリズムで、聖書を熱心に読む死刑囚の大西や、事件の司令官だった矢野中将と交流を持つが、無情にも彼等に刑が執行されていく。

妻の房江は船と列車を乗り継ぎ、遠く離れた豊松のもとを訪れる。逮捕後に生まれた初めて見る娘の直子、妻・房江の泣きそうな顔。そして気丈にふるまう健一。豊松は「帰りたいなあーーーみんなと一緒に土佐へ」と涙を流し語りかける。

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無実を主張する豊松は、同房の囚人西沢の協力でアメリカの大統領に宛てて減刑の嘆願書を書き始めていた。やがて結ばれる講和条約で釈放される。誰もがそのことに希望をつないでいた。

一方、故郷の高地に戻った房江は、来る日も来る日も必死の思いで嘆願書の署名を集めるのだった。豊松の帰ってくる日を信じてーーー

*つぎに、私の映画についての感想だ。

いい映画だった。名人とも言われている橋本忍氏の脚本も、回を重ねるごとに、ますます円熟味は増しているのだろう。過去の作品をこの場で、見比べているわけではないので、詳しくはコメントできない。名人・橋本忍は、能力の高い人だと思った。最初から最後まで、観る者を飽きさせなかった。監督・福澤克雄の、映画作りに賭ける真面目さは痛いほど実感できた。豊松役の中居正広の、ひたすらな演技には好感がもてた。演技については、いろいろ指導はされたのだろうが、スタッフの熱意に応えようと一所懸命に演じていた。そして、要所要所に、存在感ある俳優さんが配されていて、全体に緊張したまま見終えることができた。笑福亭鶴瓶さんだったり、石坂浩二だったり、ピン子さんだったり、武田鉄矢だった。美しい日本の風景が彩られている。絞首刑を控えた豊松の苦しみ、獄から放たれて一緒に暮らす生活を取り戻したい、そんな思いに海が共感するように、青く大きくうねる。土佐の高知にもこんな雪深い山々があるのかと場違いに思えたけれども、女房・房江の夫を救うためのひたすらさを、その冷たく白い雪が際立たせていた。

そこから私の思いは、どうしても極東国際軍事裁判に向かう。当時、この裁判はどのように行われ、その内容はどうだったのだろうか。それから、60年経った今、この裁判が何を教えてくれているのか、学習するにいい機会を得たと思った。

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今日は2008年12月3日だ。このテレビドラマを再映画化されたのは50周年を記念しての企画だとは聞かされた。東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決がくだり、A級戦犯が処刑されてから60年目にもなるのです。米英中が日本に降伏を勧告したポツダム宣言に「吾等の俘虜(ふりょ)を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰をくわえるべし」とあるのが、この裁判が行われた根拠。

裁判では、5人の判事は個別的に意見書を提出した。ウェップ判事は、「戦争を開始するには天皇の権限が必要だった」と言及。反西洋帝国主義の人と言われ、インド代表の判事パルは、東京裁判は後で作った法規で指導者を裁くのは問題があるとし、多数判決を全面的に批判し、被告全員の無罪を主張した。オランダのレーリング判事は、公正さを貫いた人だった。

広島、長崎への原爆投下や都市への無差別爆撃のような連合国側の戦争犯罪は、何故審議されなかったのだろうか。

081210の朝日夕刊の記事によると、国立公文書館が所蔵する資料で、日本の弁護団は当初、終戦時の鈴木貫太郎首相を証人に呼ぼうとしたが、天皇への波及を恐れる声が内部にあり、結局は断念した事実が分かってきた。いかなる形でも、天皇を法廷に立たせないという絶対方針だったようだ。

私達はA級戦犯の判決が出て、7人が絞首刑に処されたことは、よく知っていたのですが、BC級戦犯でも死刑に処された者がいたとは、私は知らなかった。それに、これは私一人の勉強不足か、どこかで誤解したのか、A級戦犯と聞くと、犯罪としての悪質度が一番高くて、BC級は悪質度では二級品であったり三級品だったのだ、と思い込んでいた。このA,B,Cは裁かれた罪の種類だったことを、今回学び取った。この裁判で、裁かれた罪は次の三つである。A、侵略戦争を計画・開始・共同謀議したとする「平和に対する罪」 B、通常の戦争犯罪 C、政治的人種的迫害などの人道に対する罪、だったのです。

学校では、A級戦犯のことしか教えなかったのではないか。A級だけがシンボリックに扱われていたように思う。A級戦犯の起訴人数は28人、死刑判決7人、終身・有期刑は18人、死亡・棄却は3人でした。が、BC級戦犯起訴人数は5644人、死刑判決934人(執行920人)、終身・有期刑は3413人、無罪は1018人、死亡・棄却は279人だった。この数字を見ても、いかにBC級戦犯が多く、又極刑に処された者の多かったことに驚かされた。

この東京裁判60年を機して朝日新聞が社説でとりあげた。

この記事の内容は、この裁判は十全ではなかった。裁判の経緯や結果において、複雑な問題を抱えていながらも、今、世界で起こっている問題や今後起こり得る事件の処理にあたって、教材としての役割りを担わせられている、と。

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081113)

朝日朝刊・社説

東京裁判60年

歴史から目をそらすまい

極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判の判決から60年がたった。第2次世界大戦後に日本の戦争指導者を裁いたこの国際裁判は、東條英機元首相ら7人を絞首刑にするなど、日本の政治家や軍の幹部25人を厳しく断罪した。

はるか昔の裁判だが、今も厳しい論争の的だ。日本の過去の植民地支配や侵略を正当化した田母神俊雄・前航空幕僚長の論文でも、東京裁判で認定された日本の戦争犯罪が、今もいわばマインドコントロールのように日本人を惑わしていると批判した。

東京裁判をどう見るかは、有罪となったA級戦犯を合祀した靖国神社に首相が参拝することの是非と結びついている。政治と不可分の問題なのだ。

東京裁判となると、とかく議論が熱くなりがちだ。だが、私たちがまず確認すべきことは、東京裁判が極めて複雑な問題だという冷厳な事実である。「勝者の裁き」か「文明の裁き」かという二元論で、万人の納得いく解釈はできない。それを単純化して白黒はっきりさせようとするところに、実は大きな落とし穴がある。

論点を整理しよう。東京裁判に問題があるのは事実である。戦争が行われた時点では存在しなかった「平和に対する罪」や「人道に対する罪」で裁くことは、法律学でいう事後法にあたりおかしいという批判がある。日本の戦争犯罪は裁かれたが、米軍の原爆投下は審理されなかった。連合国側だけで判事団を構成した。被告の選び方も恣意的だった。

その一方で、この裁判の意義も忘れてはならない。裁判を通じて戦争に至る道が検証され、指導者の責任を問うた。そのことで、戦後日本社会は過去を清算し、次に進むことができた。

また、独立回復に際してこの裁判を受け入れたことで、国際社会への復帰を果たした。東京裁判はナチスドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判と並んで、戦争を裁く為のその後の国際法の発展に寄与した。

こうした両面をそのまま受け入れる必要がある。欠陥に目を向けつつ、この裁判が果たした役割を積極的に生かすのが賢明な態度ではなかろうか。

なぜならば、裁判が十全でなかったからといって、日本がアジア諸国に対する侵略を重ね、最後は米国との無謀な戦争に突入し、膨大な人命を失わせた事実が消えるものではないからだ。日本に罪や責任がなかったということにはならない。都合の良い歴史だけをつなげて愛国心をあおるのは、もう終わりにしたい。グローバル化は進み、狭い日本の仲間うちだけで身勝手な物語に酔いしれていられる世界では、もはやない。

悪いのは全部外国だ。そう言いつのるだけでは、国際社会で尊敬される日本がどうして築けるだろうか

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そして、来年5月から始まる司法改革の一端、裁判員制度の導入だ。候補者29万5千人に候補者通知が、昨日から今日にかけて各家庭に届けられている。有権者352人に1人の勘定になる。選(よ)りによって親子とか上司と部下に届いたり、81歳の高齢者にも届いているとの新聞報道があった。裁判員に求められるのは、法の専門家が忘れがちな生活実感と、上級審や判例の意向にとらわれない目である。もともとプロに足りない部分を期待されているのだから、素人丸出しで、遠慮せずに物を言えばいい、と朝日組系天声人語親方は言ってくれているので、選ばれたときには精一杯努力しようではないか。

この裁判員制度の詳しい説明の新聞や雑誌の記事、パンフレットを昨今見る機会が多い。関連して、死刑についての是非論も喧(かまびす)しい。

この死刑存廃問題は、大きいなあ。

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この稿を綴っている過程で、学び取ったBC級戦犯の裁判の内容が、映画「私は貝になりたい」のプログラムのなかで、田中宏巳氏(元防衛大学教授)がタイトル「BC級戦犯裁判の全容」で寄稿されているので、この文章を読んで認識を深めたい。特に若者達に、真実をを学んで欲しいのです。

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BC級戦犯裁判の全容

田中宏巳(元防衛大学教授)

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戦犯裁判が行われたのは,第二次大戦が最初である。日本は世界初の核兵器の洗礼を受けたが、世界初の戦犯裁判もドイツと並んで受けた。

戦争裁判の動きが表面化したのは第一次大戦のことで、英仏両国が独皇帝カイザーとオーストリヤ皇帝カールを裁判にかけようとした。しかし亡命先のオランダ及びスイスが身柄の引渡しを拒否し、裁判は不成立に終わった。大国とは言えないオランダとスイスがノーと言えば、道義的に自信がなかった英仏両国も引き下がる他なかったのである。

裁判には法の存在と刑を執行する権力が必要である。第一次大戦後、戦犯裁判になる国際法や国際的合意事項が成立し、第二次大戦になると、強大な軍事力を背景にアメリカという独善的理想を掲げるスーパーパワーが登場し、違反を取り締まり、刑罰を科す強制力の役割を買って出るようになった。大戦後のアメリカは「世界の警察官」と呼ばれるようになったが、その最初の仕事が戦犯裁判の実施であり、各国裁判への指導であり、刑の執行であったといってよい。

戦争裁判で判決基準にされたのは、1899年何度も改定された「ハーグ条約」、1929年に俘虜取り扱いを定めた「ジュネーブ赤十字条約」、1919年のパリ平和予備会談で示された15人委員会が定める「戦争犯罪項目」等であり、国際法を批准するか、委員を出した国家には法を遵守する義務、あるいは合意を尊重する道義的責任があり、日本はいずれにも関係していた。

戦犯裁判の根拠になった国際法は、強制力をともなわないために、法の前の平等をうたった万民法ではなく、国家の都合により解釈が変えられた。そのため同じ罪を犯しても、勝者は裁かれず敗者のみが裁かれることになった。戦犯裁判は、誰彼に関係なく犯した罪を公正公平に裁く理想とは大きくかけ離れ、、そのため裁かれた日本兵から、裁判を日本に対する報復、復讐であると非難する声が上がった。ジャワの日本軍が、勝者の軍人だけで審理される裁判を「軍法会議」と呼んだが、的を射た表現である。「軍法会議」と考えれば、不条理な裁判になっても納得できる。

裁判では、勝者の法解釈、国内政治、戦争の進め方、文化及び伝統といった諸要素が影響を与えた。第一次大戦の独ツェッペリン飛行船による都市爆撃を受け、「戦争犯罪項目」の第十九項に「無防備地域を故意に砲爆撃すること」が挿入され、都市爆撃は犯罪になった。戦後、都市爆撃を犯罪と考えた日本の重爆撃機搭乗員は経歴を隠し続けたが、原爆を投下したアメリカが一言も触れずに裁判を進めたのは典型的な事例である。

ドイツに勝利した連合国は、アメリカ主導の下に戦犯をA、B、C級の3つのカテゴリーに分けた。A級は平和を破り戦争を始めた罪、B級は国際法違反及び「戦争犯罪項目」該当の罪、C級は人道にもとる罪である。A級は国家指導者が主たる対象で、ドイツではニュルンベルク裁判、日本では極東国際軍事裁判(東京市ヶ谷で行われたため東京裁判とも呼ばれた)において審理された。C級はいわばドイツのユダヤ人虐殺関係者が対象で、日本には該当しなかったが、BC級という呼称で残った。東京裁判(A級)の起訴28人に対してBC級5644人、死刑判決では7人に対し934人にのぼるが、日本ではA級ばかりに関心が集まり、BC級は看過されてきたきらいがある。A級裁判がショー的雰囲気の中で、昭和とともに日本が歩んだ歴史そのものが裁かれたために日本人の注視を集めたが、それこそが連合軍側の狙いであった。この間に、大量死刑、大量長期禁固刑のBC級裁判が大車輪で行われていたのである。

BC級は、戦争中、戦場で発生した犯罪行為を裁くのが主な目的であり、そのため戦場になった国内と海外に法廷が設けられた。日本が「大東亜共栄圏」と豪語した広大な占領地に、米英などの7ヶ国が合わせて49ヶ所の法廷を設置し、その一つが横浜にも設置された。日本を遥かに離れた戦場で開かれた法廷は、主催国の言語、法律、倫理観で審理が進められ、弁護人も通訳もない被告が、孤立無援の中で判決を言い渡された例は枚挙にいとまがない。アメリカのような豊かな国の裁判では、被告は生活の心配をしなくてもよかったが、戦災にあった国は被告の面倒をみるどころでなく、近辺の日本軍の差し入れで食いつなぎながら、出廷する被告が多かった。

横浜裁判はアメリカの担当で、横浜球場の近くに開廷された。日本国内や沖縄諸島、小笠原における戦争犯罪行為を取り扱い、49ヶ所のなかで最も多くの事件を扱った。被告は生活面の不安も無く、通訳及び被告の心の拠りどころ役を務める仏教やキリスト教の教誨氏師もつけられ、僻地の裁判に比べれば恵まれていた。勝者と言う圧倒的優位の下では、敗者の主張も制度や文化の違いが災いして無視され、日本人に裁判を災害と思わせる一因になった。戦争犯罪の特徴の一つは、軍隊と言う組織の犯罪を個々の兵士の犯罪に替え、審理の効率化、時間の節約につとめたことである。そのため命令者だけでなく、実行する部下の責任が追及された例が少なくない。指揮官・上官が責任をのがれ、下士官・兵卒に責任を押し付けられたことは、日本人社会の信頼関係に亀裂を入れ、戦後社会に暗い影を落とした

判決が下りると刑の執行に移る。助命嘆願書や再審請求による刑の執行延期、再審による減刑も少なくなかった。だがいかなる条件が揃えば行われるのか曖昧であった。死刑執行は戦地でも可能だが、有期禁固刑になると、牢獄の用意、食事・生活用品の支給、警備等の負担が増える。各国は判決後に有期刑囚を巣鴨に送り、アメリカ及び日本の手で刑期を過ごさせることにした。巣鴨には東京裁判や横浜裁判で係争中の被告、海外法廷で有罪になった者を収容し、「スガモ」は戦犯の象徴的地名になった。

1952年4月、サンフランシスコ講和条約の発効とともに、戦犯追及をうたったポツダム宣言が失効した。講和条約発効前に駆け込み死刑があり、発効後に死刑を失効した国はない。有期刑囚の服役は巣鴨で続いたが、看守する日本人に代わり、食事も日本食に変わった。それまで遺族に支払われなかった遺族年金も支給が開始された。日本政府はアメリカ政府と交渉を続け、仮釈放の手法で実質的釈放に務め、1958年末までに全員の仮釈放を勝ち取った。最も熱心に交渉したのは、かって巣鴨にA級戦犯容疑で収容されていた岸信介元首相であった。戦犯は一般の刑事犯ではなく、命令した軍(国)に代わって刑罰を受けた犠牲者である。しかし講和条約発効後まで、極貧にあえぐ遺族に国は遺族年金も支払わず、一般日本人も犯罪者扱いをして、遺族を苦しめた。この点については、われわれ日本人も深く反省しなければならない。

2008年12月7日日曜日

凄(スッゲ)え!! 日本の登山家たち

下の太字の文章は朝日新聞の記事を、いつものように無断で勝手に転載させていただいた。

以前に「冒険と探検はどう違うのか?論争」に興味を惹かれたことがあった。また、政府の後援を受けたスコット隊長が率いるイギリス南極探検隊の極点をめざしての行進を記録したチェリー・ガラードの「世界最悪の旅」を加納一郎訳で読んで、これこそ冒険であり探検なのだと思い知った。スコット隊と、生まれながらにして探検家のアムンゼン率いる南極探検隊との極点初到着を争っての行進の状況を、各々の隊を比較した記録本も読んだ。加納一郎さんの著作集全5巻も手に入れた。過去にこれだけたくさんの探検モノを著作に残した人はいないのではないだろうか。白瀬のぶ中尉の失敗に終わった南極探検のことを小説にした綱淵謙錠の「白瀬中尉南極探検記・極」も楽しく読んだ。明治時代、日清戦争前後に、千島列島を探検し占守島に到着、その後は資金難にもめげず南極探検を企て、貧弱な船や装備で南極大陸になんとか近づくことはできたが、大陸に足を一歩踏み出すまでには至らなかったが、日本にもそんな稀有な探検家・白瀬のぶ中尉がいたことが、日本探検界の誇りだ。朝日新聞の編集委員だった本多勝一の極地探検に関する著作も、面白く読んだ。京大探検部の生みの親の今西錦司や兄貴格の梅棹忠夫の探険に関する数々の著作も楽しく読んだ。

世界最悪の旅

写真は、南極点到達の5人(イギリス南極探検隊)

左からオーツ、ボワーズ、スコット、ウィルソン、エバンズ。1912年1月17日、ボワーズがレリーズボタンを押して撮影

そして、今、石原慎太郎の「弟」を読んでいたら、弟の裕次郎が独立プロを設立して、堀江謙一の「太平洋ひとりぼっち」の映画化に至るまでのてん末の部分が書かれていた。堀江青年は、1962年、ヨット・マーメイド号で、太平洋を単独無寄港で航海に成功した。映画化のことについては、この際のテーマではないので、脇に置いておこう。その一文の中で、堀江青年の「太平洋ひとりぼっち」の快挙を、石原慎太郎はなんとも私には耐えられない表現で矮小化していた。その箇所でカチーンと釘付け状態、私は読み留まったのです。発行所・幻冬舎、『弟』の181ページ の終わり3行から182ページの文章のことです。この本は、石原裕次郎とその兄の慎太郎の子供の頃から弟が死ぬまでの、生い立ちから俳優や作家や政治家になる過程での、その関係者を含めての生活史だ。病魔に苦しむ弟、彼を看取る親族や関係者。そして死亡。弟の鎮魂歌だ。そんな本なのに、わざわざ、堀江青年の偉業を、字を連ね行を替え、そこまで書き綴ることもないではないかと思われる、石原慎太郎の真意は何だ。私には、堀江元青年に対する悪意にも感じられた。正直、「石原さん、あんたなんかに、堀江謙一の冒険を批判できる資格なんて、ありっこないよ」、だ。

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20090103。正月の3日の朝日新聞に堀江謙一の日本人初の単独無寄港太平洋横断のことが載っていたので転載させていただいた。(伊藤千尋)

五月雨があがった真っ暗な海に、5,8メートルの小さなヨットが滑り出した。62年6月12日夜、兵庫県西宮市のヨットハーバー。目指すは太平洋の向こうだ。

荷を減らそうと、積んだ飲料水は標準量の3分の1。出航から3日目に強風が吹き、船酔いで血まで吐いた。疲労で、もう一人の自分がいる幻覚を見た。台風に遭い、巨大な波がガラスを割って海水がなだれ込んだ。9ミリしかない底板を、フカの群れが突いた。

目標の米サンフランシスコの金門橋をくぐったのは、出航から94日目である。単独で太平洋を渡った初の日本人となった。

無事に到着したのは嬉しいが、一方で堀江自身は逮捕、強制送還を覚悟していた。パスポートを持っていなかったからだ。当時の日本では、小型ヨットでの出国は許されなかった。

実際、堀江の航海を報道した日本の新聞は「太平洋を単独横断」という大きな見出しとともに、「人命軽視の冒険」と批判する記事も載せた。勇敢な冒険か、無謀で法を犯す密航かをめぐって世の評価は割れた。

判定はアメリカからもたらされた。サンフランシスコ市長が堀江を名誉市民とたたえて「市のカギ」を贈ったのだ。これを機に、日本のメディアは一斉に堀江の行動を「壮挙」と報道するようになった。64年にはイタリアで創立された「海の勇者」賞の第一回受賞者となった。

「評価はすべて外国からやってきた」と堀江は苦笑する。

堀江のヨットの設計をした横浜市の横山晃(故人)は、堀江を「日本の海洋スポーツ界に100年に一度と言うほどの功績を残した。1600年代の以来の日本政府の鎖国に明確な終止符を打った」とたたえた。

マスコミの批判の波は10年後の2回目の航海のときも押し寄せた。世界一周を目指したが、マストが破損して8日目で挫折した。だが、堀江はめげなかった。「8ヵ月後には次の航海をする予定だったから」だ。航海をしながら常に次の航海を頭に描き、新たな夢を追う姿勢はその後も続く。

74年には世界一周を成し遂げた。

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冒険とは未知の領域への限りない挑戦だと理解しているのです。堀江謙一氏が24、5歳で成し遂げた冒険は、私が勝手に尊敬している人が言う冒険のイメージ通りなのです。

『無謀な冒険を決行することによって、日本的社会での体制から指弾された、全ての分野での青年たち』よ、臆病者(イシハラ・シンタロウ)の言うことに惑わされるな、ということだろう。

このようなことに、異常に敏感に反応する私だから、下記の内容の記事には、格段、心がときめくのです。

冒険/探検/探険

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(081203)

朝日朝刊・スポーツ面・自由自在

速攻登山、日本隊が快挙

(近藤幸夫)

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この秋、日本人クライマーが相次いで世界的な登攀(とうはん)に成功した。ヒマラヤの6千、7千メートル級の未踏ルートを「速攻登山」で制覇した。

9月22日、隊長の一村文隆さん、天野和明さん、佐藤裕介さんのパーティーが、インド北部カランカ(6931メートル)北壁を攻略。10月5日には平出和也さん、谷口けいさんの男女ペアがインド北部のカメット(7756メートル)南東壁を世界で初めて登った。この二つが世界的評価を受けるのは、超高所のヒマラヤ難ルートを短期間で制覇したからだ。

かってのヒマラヤ登山は安全のため、物量、人材を投入。大人数で固定ロープを張り巡らす極地法主流だった。速攻登山は少人数でテントを担ぎ、互いにロープを結び一気に山頂へ突き進む。カランカ隊は吹雪で3日閉じ込められながら8日間で登り、男女ペアも1週間で成功した。

しかも挑んだのは、どちらも標高差約1800メートルの垂直に近い氷と岩の壁。欧州アルプスの岩壁登りでは標高の最高点が4千メートル台だが、彼らは5千メートルを超えた地点から登り始める。岩場の難しさに加え、高山病など危険も。メンバー全員にかなりの力量が必要で、世界でも限られた登山家のみに許される世界だ。

カランカ隊はアジアでその年に最も優れた登山隊を選ぶ「金のピッケル賞アジア版」を日本から初受賞した。授賞式に出た天野さんは明大山岳部OBで8千峰6座登頂の実力者。早くも「来年は7千メートル峰の難ルートを狙いたい」という。平出さんは「誰も登っていないのでルート図がない。未知の世界を克服する喜びがある」と振り返る。

この二つの新ルートは過去、各国登山隊の挑戦を拒んできた。レベルの高さを実証した日本は今後、世界をリードしてほしい。