2019年7月26日金曜日

イギリスに憲法はない!

昨日、丸谷才一氏の『女ざかり』(文芸春秋)を読み終えた。
この本の内容については、後日あらためて文章にしたいと思っている。
書籍としてそれなりに感動させてもらったが、映画化されても大変な反響を得たことをネットで知った。
ところで今回は、その本のなかで「イギリスには成文憲法はないんだ」という部分があって、憲法についてはどこの国にあっても、日本と同じなんだろうと決め込んでいた私には大きな衝撃だった。
それで、ネットの記事を読み漁って下にあるような記事を見つけ、恥ずかしながら且つ自戒しながら、この記事を読んだ。

そして、その記事をそのまま転載させていただいた。



記事

成文憲法がないイギリスでは、国民主権主義ではなく議会主権主義だそうだ


ところ変われば、品変わる。

私は民主主義国家はどこでも国民主権主義なんだろうと思っていたが、不文憲法のイギリスでは国民主権という概念はどうも当て嵌まらないようだ。

日本の場合は憲法の明文で国民主権が謳われているが、成文の憲法がないイギリスの場合は 民主主義国家ではあるが、国民主権とは言わず、もっと端的に議会主権と言うそうだ。

成文の憲法がないから、議会が制定する法律がすべてである、と言ってもいいのだろう。。
もっとも、不文憲法の国と言われるとおり、イギリスにも憲法的な規範はある。

成文の憲法がないから、日本のように裁判所に違憲立法審査権がある、とは言えないだろうが、議会主権の国と言われるイギリスが議会の審議を経て制定した法律であっても、確立した憲法規範に抵触するような法律については、裁判所がその無効を宣言する権能はあるはずだと思っている。

EU離脱を決めたイギリスの国民投票は、イギリスの国民投票法に基づいてなされている。
イギリス国民投票法の詳細は知らないが、イギリス国民投票法の規定が周到であれば370万人以上の国民が国民投票のやり直しを求めるような事態にはならなかったと思う。

成文の憲法がないのだから、過日の国民投票が違憲だとか無効だとは言えないだろうが、しかし瑕疵がある、くらいのことは言っていいはずである。

実際に行われた国民投票の瑕疵を是正するための方法は用意されているか、という問題がある。
裁判所は、国民投票の手続きに瑕疵があれば、瑕疵があると宣言するくらいの権能があって然るべきだ、というのが私の感想なのだが、瑕疵がある国民投票の効力を無効にするためには、前の国民投票法を廃止して新たに新しい国民投票法を制定する、というのがどうやらオーソドックスな手続きのようである。

後法で前法の過ちを是正する、という手法のようである。

一旦行った国民投票の効力を無効にすることなど出来ない、という考えの方が多いと思うが、私はあらゆる場合に事情変更の原則は妥当するのではないかと思っている。

国民投票を実施した前提事実に重大な変更があれば、新たに制定した国民投票法で欠陥を是正すればいい。
民主主義国家では一旦なされた国民投票の結果を無視することは許されないというのは大原則で、議会はこれに拘束される、という物言いは至極当然だが、しかし事情変更の原則が当て嵌まる場合は別に扱っていいのではないか。

私の考えは、こんなところである。
イギリス法の専門家の方々は、変なことを言っているな、と呆れてしまわれるかも知れないが、私は法の解釈はこのくらい柔軟で、融通無碍で、流動的でもあってもいいのではないか、と考えている。

私は身体の体操も得意だが、こういう頭の体操も得意である。




憲法のない国はあるのか


今日は5月3日、「憲法記念日」で祝日ですね。東京の天気は「晴れ」です。気温は25度。
改憲論議は最近はあまり騒がれなくなりましたね。天皇陛下の譲位、改元東京オリンピックの開催といった大きなイベントが3年ぐらい続くので、落ち着いて改憲論議ができないと情勢のためですね。今日の新聞によると「改憲論議」が始まるのはオリンピック以降になるといってます。国の行動は「憲法によって規定されている。このような重要な法がない国ってあるのでしょうか。調べてみました。
憲法を持たない国(非成典化憲法国)」は9か国ありました。
〇イギリス
ニュージーランド
サウジアラビア
オマーン
イスラエル
リビア
サンマリノ
バチカン
また、憲法が停止状態にある国もあります。
ミャンマー
アルジェリア
シエラレオネ
スーダン
ソマリア
ガンビア
リベリア
アフガニスタン
また、中国は「憲法」はありますが、憲法が頂点ではなく、党の決め事が憲法を超える存在です。
かなり著名な国で、「憲法」がないのですね。「憲法」に対するイメージは国によってだいぶ違うことになりますね。
イスラエル


2019年7月22日月曜日

細(こま)やかな闘い?が始まった

これから書くことに、ちいっと(関西風の言い方)でも笑わないでください。

心に不安な趣(おもむき)がムラムラ仕出したのだ。
趣きとは、心の動きやその方向性のことだろう。
この趣に、苦しんでいると言えば、それこそ、大(物)笑いの種になって、結果、哄笑が悲しい笑止千万になり、呆(あき)れ果てられることになるのか。

誰もが腹を抱えることになり、顎(あご)が落ちることになるのだろうか!!
Lazyloading
(保土ヶ谷プール)

来月で71歳になろうとしているこの頼りない前期高齢者が、孫、今年の春に中学生になったばかりの女の子と、今秋、自由形(クロール)と平泳ぎの競争をすることを、ゴールデンウイークが終わった頃に約束してしまった。
この決意?に、息も絶え絶(だ)え、息苦しくなったわけではない、この趣は私の悪戯(ふざけ)た踏ん張りのせいかもしれない?
日時が過ぎ去る度に、私の胸は必死の間際まで追い込まれていた。
平泳ぎよりも、犬掻き(イヌカキ)にしてくれないかと、話の合間に話したら、私はイヌカキなんて知らんワと馬鹿にされてしまった。
馬脚を現したって、こういうことか?

約束が少し早急過ぎとか、軽い気持ちで勇み過ぎたのでは、と反省もしている。
昨日(20190721)、長女の家に友人から戴いた農林水産大臣賞を受賞した「永光卵(えいこうらん)」のお裾(すそ)分けに行ったら、その卵を受け取った私の競争相手に、今、必死で平泳ぎの練習をしているよと告げると、ジジイも一旦決めたことには、徹底的にやるのね、と笑われた。
「当たり前田(マエダ)のクラッカー」? 私が言い出したことだ。
幾ら苦手の平泳ぎと言えども、簡単には負けたくないんだよ、と決意を述べた。
クロールをする女性
(ネットより拝借しました)

実は、去年の春から泳ぎだした。
30年ぶり!! 久しぶりだったこと以上に、泳ぐことそのものが嬉しかった。
5年半前に5,6メートルの樹木の上から落ちて、後頭部を前面道路に直撃した。
半年ほど入院して復帰に励んだが、後頭部の落下によるショックは流石に強烈で、高次脳機能障害から、そう簡単には逃げ切れない。
七人にわたる担当医から、この障害からは完全には逃げ切れないものですよ、ヤマオカさん慎重に気長に取り組みましょう、と言われていた。

事故後今まで、3ヶ月ごとに新百合ヶ丘の最初に入院した病院の脳外科に通院している。
お医者さんと少しの会話をすることと1日3度飲む薬を貰いに行って、それを異変なく飲む続けることが、せめての治療方法と決め込んでいる。
その後、新百合ヶ丘病院までは自宅から余りにも遠距離なので、先月から我家に近い戸塚区狩場にある病院に転移させていただいた。
やらなくてはいけないことは、毎日、薬を飲み続けることが条件だと決め込んでいる。
これは治療の、回復するための必須条件だ。
記憶障害とか思い違い勘違い、能動的な脳機能の障害だけではなく、運動する体のバランスの変調が著しくなってしまった。
夕刻になると必ず頭痛に悩み、ストレス回復のためのことは、私流にも色々考えた。

その障害を少しでも回復させようと必死だ。
そのために、歩行を進めること、
泳ぐこと、
本を読むこと、
体をアンバランスにさせないように、特に階段など、左右上下、何から何まで気を使うようにした。
階段の段差にちょっとでも、狂いを発生させてはならないのだ。
心底激しく苦しんだのは、日暮れ時、遠くに見える看板の絵柄が妖怪のように恐ろしく見えて怖(おそれ)れ怖れ近づくこと、電柱の陰に潜めた物が何か不思議な怪物のように見えて、電柱に近づくのが恐ろしい。
それに、事故の障害で一番恐れられているのがテンカンの発症だと聞かされているので、ちょっとした頭痛でさえ、頭の中は心配の種があっちこっちに、不安の花が満開になってしまう。


我ながら、クロールに関しては自画自賛、一人自慢と笑われたくないが、私のクロールは早く、泳げば泳ぐだけ体が愉快なのだ。

体が自然に動くのだ
昨年の春から、夏休み期間は子供たちが大勢やってきて、私のような鳥渡(ちょっと)本気な奴には、足が遠のいた。
秋になって寒い冬がやってくるまでは、週1回多いときで2回はプールに出かけた。

長方形のプール












(水泳教室を行ったプール)



かって、45年ほど前のことだが、湘南のあるエリアで水泳教室の先生をさせられたことがある。
夏にはこれ以上来なくてもエエヨと思われるほどお客さんは来てくれるが、夏が終わればプールの営業は終わり、当然のように人は来なくなる。
そんなオフシーズンに水泳教室をすることを本社の部長さんが自分勝手に決めた。
この部長さんは、湘南のプールの支配人の大学の先輩。
偶然、この部長と支配人、私も同じ都の西北の大学の卒業だった。
そんなことを指示された支配人は、やるしかないと腹を決めたのだろう、支配人は矢のように現場の現場の担当者に私が指名された、当然のようだった。

人前で子どもたちに泳ぎを教えるとなると、私のやらなくてはならないことは、自分の泳法が醜くならないこと、恥じらいなく人さまに見せられるように泳げること、そんなことを魂胆に、朝から晩まで泳ーいーだ、、、泳ーいーだ。
水泳教室が本決まりになってから、1日に5時間も6時間も泳いだ。

子どもたちに対する水泳教室の初歩的な段階では、水に慣れること、水中に体ごと特に頭を丸丸浸(つ)かることから始まる。
だから、平泳ぎは他のコーチに任せることにして、私はダイナミックなクロールに拘った。
早く泳ぐために、腕の使いから大量の水を掻く方法に専念した。
子どもや父兄の人たちには、あの人立派なスイマーねと言われなくては、どうにもナラン。

孫との約束のことだ。
約束通りに行って、勝っても負けても、71歳と中1の戦いはきっちり付けたいものだ。
でも、心模様は微妙に振れている。
そんな鳥渡(ちょっと)真面目で、鳥渡好い加減な私には、このままでは納得できないものが、心の隅っこに生まれ出した。
この隅っこを偽りなく告げよう。
クロールは兎も角、勝っても負けても納得いく。
が、平泳ぎに苦労しているのが性根(しょうね)なのだ。
性根とは、私の根本の心構えのこと、心の持ち方だ。
平泳ぎについては、泳げるかと問われると泳げるとは応えるだろうが、レースに出て、文句あるかとまでは言えない。
それほど余裕がないのが本音だ。

よって、この頃の横浜プールではクロール750メートル、平泳ぎに100メートルを何とか熟(こな)している。
驚くことなかれ、平泳ぎをすると太腿から膝にかけての筋肉が異常に疲れて、プールから帰り道のなんと苦しいことか。
先日、プールからの帰り道は、下り坂になっていて、その傾きに身を由(ゆ)ざれながらトボトボと歩いていたら、登り坂を上ってきた年老いたオバアチャンから、もう終わったのですかと問われた。
ええ、今日の部分は何とか終わりましたと応えたものの、老人の目にも、私のくたばりようが顕著に見えたようだ。



(箱根の山歩き)

★そして、徒歩を休みなく、1日どんなことがあっても2万歩を崩さないことにした。
運転免許書を担当医の前で、ものの見事に破棄した。
それほどダメージを受けた悲しさよりも、出社する時も退社する時も、私の移動手段は歩くのみに決まったことの方を利益と思い込んだ。

雨の日は止むを得ないとしても、自宅から会社まで、帰社は私に夢と希望を与えてくれるイーハトーブの農耕地を巡って帰る。
そうすれば、2万歩近くは確保できる。
休日は特別コースを用意している、それは3万完歩だ。
月間70万歩を踏破する。
会社での内外の仕事の移動を何もかも合算すれば、なかなか好い距離になる。

余り徒歩のことに興味のない人からは、何是、そんなにしてまで歩くの?と聞かれることはあるが、私にとっては、歩き続けられることが何よりも嬉しいのです、と応えるのですが、話し相手は、よ~く分らん、という顔をなさる。
高次脳機能障害の影響から、何とか逃げ切りたい、そのための本能的で自発的な反応なのだ。
毎日、毎日、気持ちよく2万歩は避けがたく歩き続けたい。


「食事 イラスト」の画像検索結果
(ネットからいただいた)

★食事を楽しくいただくことだ。
恥ずかしながらこの何十年間か? 酒に溺れ、友人との付き合いに溢れ、仕事上の関係者に気を使い、それよりも何よりも私のデタラメが目立った日続きだった。

深酒をしたくても欲張って飲めない、好い物を鱈腹食べたくなったことはない。
朝起きて腹具合は当然調子よく、胸糞悪くなったこともない。
女房に、気の効いたことは言えないが、晩飯が待ち遠しいのだ。
朝起きて、新聞読んでそれなりの出社のための準備ができたころ、出される朝飯の美味いこと。
そんなに、他人(ひとさま)の膳とは違うものが出されている訳ではない。
ご飯に添えられているものは、納豆に味噌汁、昨晩の夕食の残ったおかず、お茶だけだ。
その朝飯がこんなにおいしく頂けるのは、私の体の各位が神妙に立ち戻ったお陰だ。

朝飯、昼飯、夕飯後、その度に与えられた3錠の薬を飲む。






2019年7月7日日曜日

雪盲(せつもう)


      城山三郎

城山三郎さんの『湘南ー海光る窓』(文春文庫)を読んでいて、初めてこの漢字を見た。
それは「雪盲(せつもう)」である。

城山さんは「海の見える家に住みたい」という長年の夢をかなえて、湘南海岸の茅ヶ崎に住むことにした。
その自宅が余りにも海に近くて、別途「月洋亭」と名づけた仕事部屋を茅ヶ崎駅に近いところのマンションにした。
マンションからは、左手に三浦海岸、右手に伊豆半島、その間の帯状の空間に雄大な太平洋が広がっている。
海をこよなく愛する城山さんが日々感じたことを、四季折々の湘南と日ごとに変わる「光る海」を愛情を込めて爽やかに描いた珠玉の随筆集だ。
この随筆集には48の、さまざまな内容の小文があって、そのそれぞれが余りにも城山さんらしく、アット言う間に読んでしまった。


今回話題にしたのは、随筆集の「プライベイト人間の生活」のなかの一文だった。

《最近、本田勝一の『五〇歳から再開した山歩き』を読んで、愕然(がくぜん)とした。
さまざまな人間模様も織り込んだたのしい本だが、その中に、強い西日のため「雪盲」になる話がでてきたからである。失明さえしかねない、という。》

本田勝一さんの探検や冒険もの、辺境編もの。
はたまた世情に対する彼なりの意見集に凝り固まった時代はあったが、この「雪盲」は知らなかった。
探検、冒険,偏境もの、「貧困なる精神」は、全てを手に入れて読んだ。
漢字そのものは、それほど難しくないので、何となく字から受ける印象で何となく解かっていた。


★ネットで雪盲の記事があったので転載させてもらった。
雪盲とは、雪山において、サングラスやゴーグルを着用せず、目が直接強い日差しを浴びていると、目が痛くなったり、涙が出たりして、目が開けていられない炎症が起きること。
雪目(ゆきめ)ともいう。

高所になるほど紫外線量が増大することに加え、雪上では、日差しが雪面に反射するため、更に強い日差しを目は浴びているので、何も防御していない目は網膜や角膜が紫外線&日射によって傷つけられてしまう。

また、涙が出るなどといった前兆を無視して、目を酷使していると、さらにダメージが大きくなり、目が見えなくなる可能性もある。

登山中にこの状態に陥ると、周りの情況判断もできなくなるので、雪庇を踏み外したりして滑落の危険性がある。
註・雪庇(せっぴ)。
帽子の庇と同じく、日光や雨、雪を防ぐためのもの。
応急処置としては、雪や冷たいタオルなどを目に当てて冷やしてしばらく目を休ませる方法がある。
またその場に留まって、暗くなってから活動開始する羽目になる。
まず登山開始前からサングラスを着用して、目を保護することが何よりも大切である。







2019年7月5日金曜日

梅雨闇

雨が降ると、心身が重い。
画像
九州や中国、四国では、先週と先々週、今週もまさしく梅雨(つゆ、ばいう)の大雨に困っている。
特に困っている地域というのは、九州南部の鹿児島、熊本、長崎、宮崎、中国では岡山と山口、四国では全域が極端な大雨被害だ。
この時節に、沢山(たくさん)何度(なんど)も大雨が降るのは、よくよく理解しているものの、やっぱり、心が重い。
高温多湿の環境を好むウィルスの感染症、夏風邪にやられてしまった私には、惨(むご)いほど体に応える。
心身ともに重たく、鼻糞?が絶えない。

今節、私が住んでいる横浜では大被害を受けるようなことはない。
だが、東京、横須賀、千葉から茨城まで大きな洪水被害に遭っている。

梅雨(つゆ、ばいう)は、北海道と小笠原諸島を除く日本、朝鮮半島南部、中国の南部から長江流域にかけての沿海部、及び台湾など、東アジアの広範囲においてみられる特有の気象現象である。
5月から7月にかけて来る曇りや雨の多い期間のこと。
梅雨前線が、日本列島に並行するか、日本列島が前線の真っただ中にどっぷり停滞され、結果、大雨、土砂災害(山、崖崩れ)、川の流れが増水し低い土地に浸水被害が発生する。
交通災害は当然のように、建物だって床下床上に水が這い上がり、最悪の場合は崩壊、危険にさらされてきた。
目に見えない所では、カビ、ダニ、ウイルスが大増殖する。


梅雨闇 Weblio辞書より

読み方:ツユヤミ(tsuyuyami)
厚いにおおわれた梅雨のころの天候
季節 夏
分類 天文



そんな梅雨のことをネタに、20190705の朝日新聞の天声人語の中に「梅雨闇(つゆやみ)」という語を見つけ、会社に着くやいなや、ネットで調べてみた。
そしたら、毎日新聞の記事が出ていて、いつもの様に、これをパクらせてもらった。


梅雨闇
ツユヤミ。
五月雨(さみだれ)の降る時期の闇、すなわち五月闇(さつきやみ)のこと。
五月雨は梅雨であり、五月雨の晴れ間が五月(さつき)晴れだったが、今では語感が変化し、五月晴れは黄金週間のころの快晴をさすようになっている。
五月雨から梅雨を、五月闇から梅雨の闇を思い浮かべる人も次第に少なくなっているようだ。
そこで、五月闇に代えて梅雨闇という季語を用いるのがよいかもしれない。
五月晴れの場合は、それに代わって梅雨晴れという季語がすでに定着している。

もっともサツキのサは稲の霊をさすという説があり、サツキは田植えをする稲の月であった。
五月闇は稲の育つ深い闇であったのだが、そんな伝統にこだわることももはやないだろう。
むしろ、明に対する暗として、梅雨闇を生活空間に取り込んでみたい。
暗(闇)が一方にあるとき生活空間は深みを増す。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年6月28日)

2019年7月4日木曜日

吉展ちゃん誘拐事件

本田靖春(やすはる)氏の「誘拐」(ちくま文庫)を読んだ。
  
この本は、第39回文芸春秋読者賞、第9回講談社出版文化賞を受賞した。
1965年7月5日朝、NHKが放送した「ついに帰らなかった吉展ちゃん」は、ビデオリサーチ・関東地区調べで、59.0%の視聴率を記録した。
これは、今日に至るまでワイドニュースの視聴率日本記録となった。
この事件は、数々の映画化、テレビビデオ化、出版その他にされ、戦後日本の悲しい歴史を作り上げた。

この本は吉展ちゃんが誘拐された事件の始終を、詳細に書かれたものであるというだけで、大きな関心をもった。
その事件の詳細を手にとるようにして読んでいた。

東京オリンピックを翌年にひかえた1963年3月31日、東京都台東区入谷町で起きた幼児誘拐「吉展ちゃん事件」と言われた。
1963年と言えば、私がこの事件が起こった時はまだ14歳、中学生だったか高校1年生だったと思う。
警察の度々の失態、不用意によって犯人を取逃がし、被害者の死亡によって世間の注目を集めた。
初めて勃発した幼児の誘拐事件であったこと、警察には虎の巻になるほどの知恵がなかったせいだろうか。
捜査の一幕一幕において、犯人と思(おぼ)しき人材にキューと言わせるだけの捜査が進んで行かなかったことに、本を読みながら歯軋(はぎし)りした。

それでも、捜査陣は何回も変更したが、結局、迷宮入りと思われたが刑事たちの執念により結着を見た。
どんなにしても、捜査を完結させると意気込むスタッフもいたのだ。
本田靖春氏は、犯人を凶行に走らせた背景とは何か?
その時代の数々の領域での人の生き方、世の奇怪に動いている実態を文字にした。

貧困と高度成長が交錯する都会の片隅に生きた人間の姿を描いたノンフィクションの最高傑作だ。
小説の細かいことについては、ここで色々と私なりの判断を踏まえてあ~あ~だとか、こ~だとか述べることはない。
小説のあらましについては、是非とも本そのものを読んでいただくことが一番かとは思うが、この本の終わりに書かれている、佐野眞一氏の「解説 東北人の悲しき血」の全文を転載させてもらうことにした。
その小文だけで大体全てを理解してもらえる。

この佐野眞一氏の文章でこの本の中身を理解してもらうこととして、事件について語りたい。

それは、難航する捜査状況に市民は、犯罪はつねに反社会的行為であるのだが、幼児誘拐というもっとも卑劣な犯罪の行為者に対して、社会の側が自衛意識をめざめさせた。
最初に立ち上がった全国組織は、三万人の会員を擁する全国クリーニング環境衛生同業会。
これらのことを、順次揚げてみる。
全国小売酒販組合中央会(会員12万八千人)、全国食糧事業協同組合連合会(会員四万五千人)。
クリーニング屋、酒屋、米屋の三業種は、御用聞き、配達と、各家庭に出入りする頻度がもっとも高い商売である。
こうした動きに呼応して、東京ガス、東京電力の両社が、検針員、集金員など外勤職員八千人を中心とする協力体制を敷き、東京都水道局もこれにならった。
東京都民生局は家庭を回る機会の都内四千四百人の民生・児童委員に捜査協力を依頼した。
台東区役所は吉展の写真を入れたチラシを二十五万枚印刷して、区内に全戸配布した。
神田市場内の東光青果事業協同組合は、加盟各店の店頭に吉展ちゃんの写真を掲げた。
東京母の会連合会は「吉展ちゃんを探して下さい」のプラカードを持ち、入谷、坂本、上野、浅草など下町一帯を練り歩いて、一万枚のチラシを配った。

このように民間から盛り上がった動きは、このようにして、自治体、中央官庁をも巻き込んで行き、犯人の声と人質の顔は、成人はいうまでもなく、小、中学校の児童、生徒にまで浸透して行った。

この小説の一から十までを、とやかく説明することはないと思っている。
ノンフイクションの事件の全てを、作家の本田靖春氏は、いささかのゆるみもなく著述されている。
緊張感が最後の最後まで漲っている。
遅読の私なのに、読み切るまで頭の中は捜査の進み具合のことばかり。
私も犯人(小原保)と同じ「保」という名で異常に興味を持った。
この事件の発生から捜査、犯人・小原保逮捕までは、私の高校生から大学を卒業するまでの傷つき易い年代だったせいかもしれない。
この本の終末に書かれた佐野眞一氏の文章がこの小説の全てを著しているのでその文章をそのまま転載させてもらった。



★解説 東北人の悲しき血
 佐野眞一

時代というものをどうしょうもなく烙印された名前がある。

私にとって小原保という名前は、東京オリンピックの開催を翌年に控え、あの何もかもが泡立つような時代の裏側にぴったり張りついて忘れようにも忘れられない名前となっている。

やはりに脳裏にこびりついて離れない名前となった。
村越吉展という四歳の幼児を営利目的で誘拐し、殺害した「吉展ちゃん事件」が起きたとき、私は事件現場から隅田川を一本隔てただけの”川向こう”の学校に通う高校生だった。

大きな鉄の橋を渡ると、くすんだ山谷のドヤ街が広がっていた。
うずくまるような街区には、仕事にあぶれ昼間から酒を飲んで赤ら顔をした労務者たちが、いつもたむろしていた。

そこの隣接する南千住、三ノ輪界隈は、もう、東北の貧しい村から吹き寄せられ、その日暮らしの下積み生活を送る小原保が棲息する世界だった。

下町の商店街には、当時人気双子歌手だったザ・ピーナツが、誘拐犯人に訴えて歌う「返しておくれ」という社会派ソングが、ひっきりなしに流れていた。

ふつうなら聞き流してしまうはずのそんな歌が、いまでも耳に残っているのは、この事件が私が住む世界といわば地つづきのところで起こったことを、どこかで強く意識していたからに違いない。

公開捜査のため、ラジオから繰り返し流される福島訛りの犯人の声も、恐怖とともに、よく覚えている。
犯人が身代金を受け取る場所として、村越家に指定した品川自動車を「すながわ自動車」と発音したことも、この本を読んで鮮やかによみがえってきた。

そのねっとりとからみつくような声を聞く度、かすかな旋律を感じた。
私の父親も福島の寒村に生まれ、下町の商店に”労働力”として漂着した人間だった。

小原保は、隅田川をはさんだ東京下町の”隣人”という以上に、どこか血をわけあった近親者にも似た、どこまでもまとわりついてくるような不気味な存在感があった。

いまさら「誘拐」は戦後ノンフィクションを代表する傑作であると、客観的な評価だけでそういうわけではない。
「誘拐」は私のなかに流れる東北人の血を人々に覚醒させ、身内の奥底から痺れがやってくるように揺さぶられた。

かわいいさかりの幼児を誘拐して絞殺し、借金返済と遊興費捻出のため、たった五十万円の身代金を奪う。
鬼畜にも劣る所業である。
だが、本田氏はそれを残忍な事件として描く安易な方法は選ばない。

事件発生から約二年後に逮捕され、死刑となった小原保に注がれる本田氏のまなざしは、限りなくやさしい。

小原は福島の片田舎の開拓部落に生まれ、赤貧洗うがごとき環境で育った。
子どもの頃のあかぎれが元で骨髄炎を患い、その後遺症から片足をひきずるハンディも負っている。

近親者には、癲癇(てんかん)持ちや聾唖(ろうあ)者など先天的障害者ばかりが生まれた。
幼い保の耳に入ってくるのは、「あの家には悪い血が流れている」という、閉鎖性と排他性をむきだしにした口さがない評判ばかりだった。

小原は「悪い血」が淀んだその故郷から、耳と口をふさぐようにして逃げ出し、東北線の終着駅の上野駅に降り立つ。

時あたかも東京オリンピックの直前である。
高速道路や地下鉄の建設が急ピッチで進められ、東北の貧農たちが大挙して東京に出稼ぎにやってくる高度経済成長のまっただなかだった。

しかし、小卒の学歴しかなく、肉体的ハンディがある小原には、短期間で大金が稼げる工事現場は無縁だった。
本田氏と同じ昭和八(1933)年生まれのこの男は、上野駅に近いアメ横の時計屋のしがない修理工として賃稼ぎする都市最底辺労働者の道を選ぶしかなかった。

「誘拐」で読むべきは、高度経済状態が謳いあげたバラ色の夢の裏側に付着したディテール世界の物悲しさである。
中古の腕時計、質流れの時計バンド、社金返済の形にとられる高級腕時計ノラドーーーー。

誘拐現場となった公園には、夜泣きそばの売り子が所在なくベンチに腰掛け、故郷に戻った小原は、生家になぜか足が向けられず藁ぼっちのなかで夜を明かす。

それらはすべて、高度成長の光がまったく差さない陰画世界の、さらに暗い彩となっている。
これまで、世間から完全においてけ堀にされたそうした影の部分に目をこらした作家がいただろうか。

それらの小道具を効果的に使った点描が、高度成長の恩恵に浴することなく、故郷を追い立てられ、都会の片隅に吹き溜まって生きてきた小原の内面をあざやかにあぶりだしている。

小原を自白に追い込んだベテラン刑事の平塚八兵衛に仮託して述べた次の述懐に、本田氏がこの作品にこめた自信のほどが垣間見える。

〈彼の「落とし」が美事に決まるのは、たしかに裏付けられた事実を、容疑者へ次々にぶつけて行くからなのであって、声を荒げることでも、猫撫で声で囁きかけることでもないのである〉

取材によってあがってきた事実をもって、すべてを語らしめる。
小原の足跡をひたむきに追う本田氏の筆は、ノンフィクションの王道を行って、ベテラン刑事の足取りに似ている。

この作品を読む者は、小原の犯行の無慈悲さに戦慄する前に、小原のような誰からも忘れられた人間に何ひとつ手を差し伸べてこなかったこの国の政治の無策さに、あらためて激しい怒りを覚えることだろう。

「誘拐」は、わが国の事件ノンフィクションの金字塔という評価にとどまらない。
これは、高度経済成長という未曽有の時代状況に遭遇し、自らクラッシュして果てた東北人の悲しい血の物語である。


註、※・※
この本の中で初めて見たという字とは、この二つの言葉だった。

その一つは、「沛然(はいぜん)だった」。
・『帰るころ、ひどい雨になっていた。
それは「沛然たる」という形容詞がふさわしい、すさまじい降りであった。
伊藤は車の中で部下と討議した。』だった。
ところで沛然とは?
下の「沛然」という字のことは、ネットで知った。
 盛んに降るさま。 「 -たる豪雨」 「驟雨しゆうう)-として至る/欺かざるの記
 盛大なさま。 「国家大計論ずるや、-として禦(ふせ)ぐ可からず/佳人之奇遇 」

もう一つは「畢竟」だった。
・『畢竟(ひっきょう)、人間というやつは、他のだれかを圧迫しないことには生きられない存在なのであって、犯罪者というのは、社会的に追いつめられてしまった弱者の代名詞ではないか。』
畢竟とは?その意味するところをネットで調べて添付させてもらった。

「畢竟」の意味1結局

「畢竟」の意味は、「結局・つまるところ・とどのつまり・最終的に」などになります。

「畢竟」という言葉は、「色々な経過を経たとしても最終的に行き着くところ」といった意味合いのニュアンスがあります。

そのため、「畢竟」の意味は「結局・つまり」「要するに・結論づけると(最終的に)」といった感じで副詞的な意味合いになってきます。

「畢竟」の意味2=仏教用語の究極

「畢竟」の意味は、原始仏教のサンスクリット語である「atyantaの漢訳」に由来して、「究極・最終・至極(しごく)」になります。

「畢竟」という言葉は、「畢」の漢字にも「竟」の漢字にも「終わること・行き着くこと・尽きること」の意味合いがあり、仏教用語としての「畢竟」「究極的には・最終的には」というニュアンスを持っているのです。