2014年12月11日木曜日

俺さまの能力は50%ダウン?

今年の5月15日正午。
私は新しく買い込んだ中古住宅の庭に大きく立ち上がった樹木の先端部分をチェーンソーで切ろうと思って、梯子に身を置いて作業していた。
ところが、何事にも腕自慢なのに、今回は、下手の下手の極(ごく)下手を見せてしまった。

何かの不調子で、5、6メートルを落下した。
落ちた場所はアスフアルトの道路。見事に頭からズド~ン。
何が原因で、どのように落ちたのか、詳しく分かったのは、退院後、社長から写真と、コメントを受けてからだ。

退院したのは9月の中ごろ、それから担当医師の3回目の診断を12月6日に受けた。
この医師は入院後の私の不作法に関わらず、丁寧に説明をしてくれた。
1回目は、診断室に入るなり、早稲田のサッカー部のヤマオカさんだ! どうかねえ!!。聞かれた内容は優しかった。

2回目の医師は、厳しい口調で、いつになったら治りますか?と聞いたことが、頭に来たのかどうかは解らないが、アンタ、ちょっと勘違いしてませんか、この傷は治るか?治らないか?ではなく、死ぬか生きるかということなんですよ。
気を長くして堪えることですと、強(こわ)い診断だった。

そして3回目の6日の先生は、私のことを非常に優しく付き合ってくれた1回目の先生だ。
先生,いつごろ治るでしょうか?の質問に、1年後の5月には何とか?決着はつくでしょう。
それでは、100%、元のままになるのですか?

このことについての返答は、それは絶対あり得ません。
上手く言って、70~80%の復元。最悪の場合は50%だなあ、、、、だった。
私は、子供の頃から、見栄を張る癖があって、実力が50しかないものを100に見せびらかして、常々優位の状態にいることで、何とか頑張ってきた。
今回の件でも、元々は見栄を張っていたものだから、75%から80%のダウンになろうが、50%のダウンになろうが、そんなことは知っちゃいない!! 俺には俺だけの力がある、、、、、、だった。

全身の筋肉や骨の問題は、何とかジュワジュワによくなりかけている。
ところが頭の痛さは許してくれない。

2014年12月6日土曜日

おんな達で、ゲェーラァ♡ゲェーラァ

東戸塚駅から保土ヶ谷駅に向かって2キロの範囲内に、山岡系4家族が3年前から別々に住むことになった。
ジジイの私にとっては、思いも寄らぬ楽しいことだ。
この喜びは、私以外の者たちも同じだ。
今年の5月16日に滑落事故を起こし1週間の気絶状態、それからの1週間はナース裏での緊迫。

それからは4か月近い入院生活。
諦めることなく、立派に元のままになりかけている。
こんな不埒な事故のおかげで、頭は少し狂いだしたような気分がしないでもない。
私が権太坂1丁目に引っ越してたのは昭和50年を過ぎてチョボチョボ、東戸塚の駅は営業していなかった。開業したのは55年からだ。

信濃一里塚



東戸塚駅に2、3分で着ける絶好の地に、長男が妻と二人の孫で暮らしている。
今年の夏からだ。
駅のホームからも見られるほどの近さで、万一、驟雨にやられても、そんなことはへっちゃらで、エエ!!、そんな具合だ。
新築の一戸建を大いに探したようだが、海外に派遣されることが多いので、マンションの方がいいと決めた。
豪華過ぎるマンションで、私にとっては恥ずかしい想いだ。某大手会社の新築マンション。駅前なのに、低層だ。





 保土ヶ谷から戸塚に向かう途中に有名な「権太坂」がある。
だらだらとした坂道を登って行くがそれほど苦しい坂ではない。

 「権太坂」では、少し街道をそれた所に「投込塚」があり、この辺りで行き倒れた東海道の旅人を葬ってある。
そには花が飾ってあり、行き倒れた人を今でも丁寧に祀ってある。
しかし、「投込塚」とは極めてストレートなネーミングだ。

 「権太坂」の名前の由来は、坂の名前を聞かれた耳の遠い地元の老人が、自分の名前を聞かれたものと勘違いし「俺の名か? 俺は権太だ」と答えた。
そこからこの名がついたという、うそ臭い説がある。
しかし妙に真実味も感じる。名前の由来には別の説もある。

 「権太坂」から「信濃坂」に抜ける。途中には立場のあった境木地蔵尊前や信濃一里塚がある。

 
権太坂、境木地蔵
境木地蔵尊


権太坂改修記念像
  


二女夫婦と孫、それに私たち夫婦の家  三女夫婦宅
 003 005


そこから、旧東海道を江戸に向かって歩いて、10分から15分のところに、私たち夫婦と二女夫婦、それに小4年の男の子が住む本陣? 本家本丸がある。
此奴は孫のなかで唯一の男の子。

戸塚宿~信濃坂~信濃一里塚~境木地蔵~権太坂。と続く。
此の家の道路の筋向かいに、三女夫婦の家。外壁が痛んできたので、現在外壁を塗り替えている。
201412中に完成だ。

私が工事費の一部を叩(はた)いたのはジジイの攻めの、奥の手だ。

それから200メートル上部には、長女夫婦と二人の孫が住んでいる。
この家は、弊社が知恵を振り絞り、住空間にしても建材にしても、この地区では負けることはない。
土地の面積は140坪。設計士は30年来の友人でもあるS氏だ。
2階の屋根部分を支える梁はW字型の奇抜なものだ。
朝陽、昼間の天空からの明かりが否応なしに入ってくる。

土地代金に建築代金、それに諸経費をたすと結構な金額になるが、それは土地の購入者で建築の発注者なら、しかたがないことだ。
南面には、広大な芝生が、この時期に関わらず勢いよく茂っている。
その庭には、京都に住む長女の祖母が、孫の名前の由来にもなった楓(かえで)を植えてくれた。





2014年12月1日月曜日

今年の「銀河鉄道の夜」は、7人で向かった



2014 12 23(天皇誕生日)

15:30からの「銀河鉄道の夜」を観に、東京都練馬区関町の東京演劇アンサンブルの芝居小舎に行ってきた。
此の季節、どうしても抜けない宮沢賢治の精神。
毎年、劇団員が私に知らせをくれるのだ。
私は招待客として、もう30年も経つことになる。

銀河鉄道の夜』(ぎんがてつどうのよる)は、宮沢賢治の童話作品。孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語で、宮沢賢治童話の代表作のひとつとされている。
作者逝去のため未定稿のまま遺されたこと、多くの造語が使われていることなどもあって、研究家の間でも様々な解釈が行われている。

今年の横浜市保土ヶ谷区権太坂地区のメンバーは、私たち夫婦と孫の3人、長女夫婦に孫が2人の4人組、合計7人組だ。
私にとっては、懐かしい物語を観る思いなのだが、私以外の人々は際(きわ)立った掘っ立て物語を観る気持ちでいるようだ。

劇場で貰った銀河鉄道の夜のパンフレットに、一度だけ葉山のソニーの健康保養施設でお会いしたことのある広渡常敏さんの文章があった。
広渡さんの知り合いが私の知り合いだった。
今回で15回の観劇になるのだが、広渡さんの話は聞くものの、現人物を理解していなかった。ここにその文章を転記して、彼の人並を知ってみたい。



稽古場の手帳(1994年公演より)
なにかいいことありそうな そんな夜  広渡常敏

クリスマス公演の『銀河鉄道の夜』は今年で13回となる。
1982年の2月に都民芸術フェスティバルの公演として、この芝居の初日をあけた。
この年の暮、こどもたちへのクリスマスの贈りものにと、ブレヒトの芝居小屋の『銀河鉄道の夜』がはじまった。
来年は1995年、戦後50年を迎える。
戦後は終わったなどといったバカな政治家もいたが、それが終わっていないことを近年ますます痛感させられる。
---この50年をどのようにぼくが生きたか、たぶんルーズチェンジのバラ銭のようなものにすぎないだろうが、ぼくなりにこの50年を回想する。
明日からの仕事にとりかかるために。
なにかいいことありそうなーーーーそんな気がする。

赤くやけたニクロム線をみつめていた。
聖降誕祭前夜ーー今宵世界じゅうは踊っている。
だが俺たちはイモを焼いてインターナショナルの気分をぼくが初めて感じた夜。
さつま芋の輪切りをコンロの上に並べていた。
敗戦三年目の1947年のイブ。ぼくは20才か。

博多湾からの風が吹き通る城跡に建ったバラックの電気店の宿直のアルバイトをしている友人とぼくの二人。
冷たい風が吹き込んで、芝居仲間の女子学生がやってくる。
安吾の堕落論どう?というようなことをいう。
安吾をやろう。
でも賢治は?『銀河鉄道の夜』をやろうよ。
難解だよあれは。映画ならぬ、舞台はムリよ。
ーー遠い昔を思い出すが、いま、ぼくらは『銀河鉄道の夜』を上演しているのだ。

『銀河鉄道の夜』のお前の舞台なんか見たくもないよ、賢治の文学からのイメージを壊されたくないから。
古い友人の一人がズケズケぼくにいう。
見てもらわなくっていいよ、でもちょっときくけど ”おかあさんのおかあさん”ってどういうこと? イメージ、イメージなんていう奴にかぎって、”おばあさん”だろうなんていうにきまっている。

賢治文学のイメージを舞台に表現するなんて不可能だし、演劇の仕事でもない。
芝居は芝居でしかできないことをやるんだ。
『銀河鉄道の夜』を書くことを通して、賢治がたどった”作品行為”に相対(あいたい)の、演劇としての”作品行為”をつくりだすことなんだとおもう。

四国の山の中に『銀河鉄道の夜』という酒がある。うまい! まさに”玉壷の泳”といいたい酒だ。これはほとんど賢治狂の親方が創った酒で、流石!といいたい。
それがどのくらいうまいか、飲まなければわからない。
飲めばわかる。大江健三郎さんのふるさとに近い町に行けば飲める。

(1994年12月14日)