2010年4月25日日曜日

先生のお体のことが気になっています

拝啓吉岡(森田)先生、いかがお過ごしですか。大変ご無沙汰しております。

桜の花は散って、若葉の緑が瑞々(みずみず)しく感じます。ツツジの花が満開です。今は、新緑真っ盛りの季節ですが、来月5月には木々の葉の緑はひときわ濃くなり、植物も生命力を爆発させるのでしょう。風で、葉陰と木漏れ陽がゆらゆら揺れる、その下で、先生と静かに話をしたいものです。季節ごとに、表情を変えられる植物を羨ましく思うこともあります。街には、新しくスタートをきったニューフェイス、学生や社会人が顔を輝かせ、胸を膨らませています。先生だって、教員生活が長かった。毎年、新しい学生服やセーラー服の生徒を見れば、心踊る思いだったでしょう。気温は三寒四温、冬着を出して着る日もあれば、薄着でも平気な日がある。少しづつですが、暖かくなってきました。今月の中頃の春の嵐はすごかったですね。横浜や東京の奴等は軟弱で、ちょっとばかりの雨や風で怯えきっていました。電車がいとも簡単に止まりました。私が誇る宇治田原の老若男女は頑健です、ちょっとの気象の変化ぐらいでは、平気よ、それぐらいのことでどうするのよ、と言わんばかりですよね。宇治田原は、私をいろんなことで育(はぐく)み鍛えてくれた田舎だった、その要素の一つは先生だったのです。

会社の窓から見下ろす公園では、親子が春の日差しを受けて、気持ちよさそうにボール遊びをしています。

ゴールデンウイークに帰省することに決めてから、先生のことが、急に気になりだして、度々お宅に電話をかけているのですが、電話の呼ぶ音だけは鳴るのですが、先生も奥さんも出られない。昨日も今日も留守でした。先生が、長期で留守をする筈はない。私は余計なことまで考えてしまって、心配しています。きっと病気が悪化したのだろう、と思ったのです。早く行かなくっちゃ、と焦っています。

2年前に兄と甥で実家を建て替えたのですが、未だにその新居を見ていないので、新築をウーンと拝見させて貰って、目出度いその新築に泊めて貰おうと思っているのです。兄夫婦、甥夫婦に会うのも楽しみです。父と母の墓参りにも行く心算です。アッコチャンにも垣内清市さん、サッチャンにも会います。桝村秀にも会います。

私の会社は、規模の拡大を図っていた矢先のこの不景気で、ダメージは大きく強烈に受けました。最悪の状態でした。そんな状態だったので、先生には手紙も葉書も何のお便りを出すこともできなかったのです。資金繰りに没頭していたのです。先生のことは、ついつい二の次三の次でした。大変失礼しました。

ところが、会社の方はここへきて、少しは落ち着いてきたので、先生のご自宅に電話などをする余裕も生まれたのです。

先生、宇治田原にはほんの一瞬ですが、帰りますので待っていてください。

中学校時代の懐かしい思い出話で華を咲かせましょうよ。維孝館中学校のグラウンド、体育館、教室、廊下、職員室、そこに先生が居て、私たちが居た。変な奴やおかしな奴、頑張った奴、真面目だった奴、いたずらしかできなかった奴、ふざけた奴、そんな奴等の話をしましょうよ。先生、僕の苦労話でもちょっとぐらいは、聞いてみてくださいな。

先生、楽しみにしていますから、待っていてください。ご自愛ください。    敬具                                                                

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2010 4 23

維孝館中学校卒
バスケットボール部
山岡 保より。

普天間移設、首相の勝負どころは?

国会での党首討論のなかで、鳩山首相は谷垣自民党総裁から普天間移設問題を追及され、挙句の果てに、私には腹案があるのです、なんて言ってしまった。おいおい、こんなところで、よくもそんな大胆な発言をしてくれたわい、無理しちゃってと思った。本当に腹案なんてあるのなら、5月末決着に職を賭して取り組むなんて言っているんだから、さっさっと閣僚や政府高官らを動かせばいいのに、全くその動きは見えない。5月決着を本気で考えているのなら、今頃は地元の首長、米軍、政府や防衛省、外務省、国交省の関係者が、ヤイノヤイノの打ち合わせが頻繁に行なわれていて、茨の道、針千本、気が遠くなるほど問題点が待ち受けていて、それを乗り越えていかなければならない。だが、そんな雰囲気は、どこにもない。

15日の夜のCS放送番組で、社民党の阿部知子政審会長は「総理の腹案なら総理自ら(調整に)乗り出すべきだ。私どもは(腹案を)聞いていない」と指摘した。

それから気になる発言もしているのです。移転先問題では、「地元よりもまず、米国に理解されるかどうか、水面下でやり取りしなければならない」など、迷走の責任を米側に押し付けるかのような発言もあり覚悟の軽さばかりが目立った、とこれは日経新聞の記事だ。

一事が万事。この首相はこんなちゃらんぽらんなことしか、言えないし、指導力も決断力も乏しいのだ。

22日、東京地裁は首相の実母からの資金を、パーティーの収入などに水増しをして隠蔽した、そのような虚偽記載で公設秘書は政治資金規正法違反で有罪判決が言い渡された。母親から自分が代表を務める資金管理団体に、月に1500万円もの「子ども手当て」?を5、6年も貰っていたのに、そのようなことは知らなかったと断言した。そして、その資金がどのように使われたのかも知らない、とヌかす。国民は、今、特に政治とカネの問題には繊細に微妙に、執拗に強く反応し続ける。当初、逮捕された秘書の裁判が結審すれば、皆様に説明しますと言っていたけれど、その意志も希薄になってきたようだ。裁判が終了すれば、裁判に使われた資料は全て戻ってくるので、その資料での説明はいとも簡単なことだ。

どこまでこの首相は能天気なのだろう。周りに居たのは支持者だったから、気を許したのか、この政治とカネの問題について、「来週あたりにようやくすべてが決着する」なんて述べてる。この認識は、どういうことだ。この問題を深くも重くも考えていない証左だ。

こんなちゃらんぽらんな首相に、国家の舵取りを任せるわけにはいきません。フラフラ、ブレっ放し、場当たり的、夢遊病者のようだ。

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政策決定の内閣への一元化と決めているが、高速新料金問題でもブレ過ぎや。このブレを新聞記事で時系列に追ってみた。

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21日、来る参院選挙対策用に小沢幹事長が、政府・民主党首脳会議で、9日に前原国交相が発表した高速道路の新料金の見直しを求めた。

前日の19日の夜には、首相は記者団に「前原大臣の考え方をベースに当然議論されると思っている」なんて言っていた。

先の衆院選挙では、マヌフエストの最重要項目に、この高速道路の無料化と子ども手当てだった。

この9日に国交省が発表した新料金案は、元々は小沢幹事長ら民主党の強い要望で実現したものだった。党が高速道路整備のための財源を確保して道路を作ること、選挙対策の一環だ。ところが、ここにきて急転、小沢幹事長が高速道路の無料化をマニフェストに掲げて衆院選を勝ってきたのだから、その新料金は無料ではなくて、値上げになってしまうので国民の理解が得られない、と主張し出した。選挙対策だ。

前原国交相が出席していないこの政府・民主党首脳会議で、小沢幹事長の申し入れを政府は受け入れ、見直しが決められた。

前原国交相は即反応した、この案は首相も平野官房長官も了承済みなので、見直す気はありませんと明言。

22日、朝、首相は記者団に「政府が引き取って、この問題を見直す」と、ここで軌道修正しだした。

22日、昼、首相と平野官房長官と前原国交相は会談のうえ、①新料金案は現時点では見直さない②料金割引財源を高速道路建設に回す法案は速やかに成立を目指す③新料金のあり方は国会審議を踏まえ、国交省で総合的に検討する。

政策は内閣で一元化することになっている、のに。政府は、党の小沢幹事長にきりきり舞いをさせられている感はゆがめない。

ーーーと言う具合に、何をやっちょるんジャと歯軋りする思いだ。

すべて、こんな調子だ。困ったもんだ。

(★朝日新聞の記事を参考にして文章にしました)

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20100421

朝日・朝刊

ザ・コラム/普天移設

四面楚歌、首相の勝負どころ

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風が吹く、死界がひらけ、眼下に一面の海が広がる。透明な水をたたえる遠浅の向こうには、エメラルドグリーンの内海。その先に群青の沖が続く。石灰岩の石積みで知られる沖縄本島中部の勝連城跡。小高い丘から見下ろす海は、先月。普天間基地の移転先の一つとして報じられた水域だ。

東海岸の勝連沖に浮かぶ浜比嘉島の東を埋め立て、巨大な人工島を造る。普天間のヘリ部隊を鹿児島県の徳之島や、沖縄県名護市のキャンプ・シュワブ陸上部に暫定的に移し、将来はその人工島に多くの基地を集約するという案だ、

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その「勝連案」が報じられてから、地元では、さざなみのように不安や疑念が広がる。

「土木業者の利益誘導に乗せられ、地元の意向も問わずに図面をかく。あんまりだ」

予定水域のすぐ目の前で民宿を営む浜比嘉島の区長、平識勇氏(63)は憤る。沖合いは県内有数のモズクの産地。水が澄んで栄養価も高く、タコやウニがよく取れる。しかもこの島は、沖縄の創世神が住んだと伝えられる聖地の一つだ。

先月、基地計画に反対する市民協議会をつくった崎原盛秀事務局長(76)はこういう。

「沖縄は海の恵みで生きている。沖縄戦で本島中部の県民は、日本軍が駐留していないこの島に逃れ、漁民が取ってきた魚を分かち合って生き延びた。今も、多くの人々が副業で、海草やタコをとって生活の糧にしている。いつも弱い方、弱い方へと基地を押し付けるこんなやり方が、許されるだろうか」

いま沖縄では、今月25日に開かれる県民大会に関心が高まっている。超党派で「県外・国外移設」を訴える大会では、多くの自治体の首長が実行委員長を務める。

「勝連案」の地元・うるま市の島袋俊夫市長もその一人だ。

「政府からの感触、打診、説明は一切ない。勝連案を断念したとの報道もあるが、出どころが定かでなく、気が抜けない」

自公政権が進めた辺野古への移設に反対し、今年1月に当選した稲嶺進名護市長も、15日、実行委員会を作った。地元への打診はまったくないという。

「名護市は海も陸も、基地を受け入れない。与党は、県民の総意が『最低でも県外』にあると知っているはず。しっかりその根拠に立てば、名護に戻るなどという話にはならない」

昨年の政権交代で、沖縄では「県外移設」への期待が急速に高まった。閣僚がばらばらに「県内移設」や「現行案」に言及したが、鳩山由紀夫首相は「沖縄の負担軽減」を唱え、先月末の党首討論では「腹案」があると言い、「5月末決着」を約束した。しかし、断片的に報じられる県内移設案がその「腹案」だとしたら、沖縄ではとうてい受け入れられないだろう。

「鳩山首相は『最低でも県外』といってきた。沖縄の基地を縮小する。今ある施設を使う。金を出してでも国外に出す。その組み合わせしかない。もし県内施設だったら、内閣打倒の声があがる」と民主党沖縄県連代表の嘉納昌吉参院議員はいう。

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鳩山首相は、どこでボタンをかけ違えたのだろうか。

1997年末に名護市長が移設受け入れを表明した際、橋本龍太郎首相の補佐官として地元を説得した岡本行夫氏はいう。

「当時は数ヶ月、地元に入って酒を酌み交わし、人々と語り合った。当時の防衛施設庁の人々も、一升瓶を下げて地べたをはって説得した。基地問題は、地元・米側と対話し、双方のすり合わせをするのが基本だ。『政治主導』をいうのはいいが、役人を使って必死に動く努力を怠っているのではないか」

橋本首相と17回会談し、個人的な信頼関係を築いた大田昌秀元知事はこういう。

「勝連案は過去に検討し、実現不能とわかった。シュワブ陸上案も過去に米軍が拒否した。本当にこの13年から学んだろうか。もし政府と沖縄が信頼しあえなければ、沖縄人と米軍が直接対決してしまう。それはどうしても避けるべきだ」

徳之島でも18日、移設反対の大集会が開かれ、鳩山首相は「四面楚歌」の状態だ。だが日増しに辞任要求の圧力が強まるなか、意外にも沖縄では「5月末決着」が実現しない場合、「即辞任」を求める声は少ない。

「戦後65年、普天間返還が決まって13年。沖縄は待ち続けた。もし首相が沖縄に本気で寄り添い、負担軽減でとことんがんばると分れば、沖縄は待つ。それが今の沖縄の民意だろう」と、上里賢一琉球大名誉教授は指摘する。

日本総研の寺島実郎会長は今月、訪米直前の鳩山首相から電話を受けた。30分の会話で、寺島氏は「腹をくくって対米交渉に向き合う」よう助言した。

「ジグソーパズルの小片を震える指先で握り、はめ込み先を探すようなやり方では、基地問題は解決しない。米軍基地の管理権を日本に移し、東アジアに空白を生まずに基地縮小に踏み出すなど、10年単位の取り組みが必要だ。本気で対米交渉をし、日本に真の信頼関係を築く。その決意を示せるかどうかが本当の勝負どころではないか」

2010年4月19日月曜日

キムタクを初めて知った

巨人軍の木村拓也内野守備コーチは、4月2日の対広島1回戦の試合前の練習中に倒れた。くも膜下出血だった。7日、広島市内の病院で亡くなったのです。

今季から巨人のコーチに就任した木村拓也(37)の急死の新聞記事を読んで、この木村拓也の今までのキャリアと人柄に興味をもった。やはり、彼を紹介した記事を、マイファイルしておかなければと思って新聞記事をそのまま転載させていただいた。私は、この木村拓也の名前もキャリアも今回のことで初めて知った。多くのファンに愛された理由がよく解った。惜しい野球人を亡くしたものだ。 

これからは、私の野球四方山(よもやま)話です。

 スポーツ好きな私でも、プロ野球に関してはいまいち冷めていて、心底から熱狂できない。不幸なことに気分が乗らなくなってしまったのです。気分が乗らないのは、特に巨人に関してね、と注釈が必要かも知れない。巨人に対しては、氷の心なのです。

私自身はサッカーにプレーヤーとして入れ込み過ぎた。だからといって、サッカー以外のスポーツ全てに興醒めした訳ではないのですが、思春期?に、プロ野球を運営する事業法人の幹部らの嫌らしい言動を報道などで垣間見たのが、いけなかったのかもしれない。元凶は巨人だ。私が精神的に成長していく過程、60年安保から70年安保、それからシラケ時代に歩調を合わせるように、読売ジャイアンツの我が儘、独り善がりの身勝手、厚顔さが目立つようになり、心はプロ野球から遠のいた。最終的には江川問題だ、これが致命的だった。その後、私が分別を多少なりとも持ち合わせる年齢に達してからでも、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)だけは好きになれない。修復が不可能なままだ。お互いに不幸な運命になってしまった。

小学生の多分5,6年生の頃から、それからの中学、高校時代は、南海ホークスの試合結果だけは新聞を食い入るように読んだ。南海がやる試合のテレビ中継などなかったのです。私にだって、プロ野球に夢中になっていた時期もあったのだ。蔭山監督から鶴岡監督、飯田監督、野村のプレーイングマネージャーから監督時代、捕手としての野村、広瀬、穴吹、小池、杉浦、スタンカ、皆川、岡本等が活躍していた1955年から1965年辺りまでは熱烈な野球少年だったのです。それからも、南海熱は冷めなかった。南海以外には、阪神が好きだった。近鉄、阪急も好きだった。全て在阪球団だ。否、広島や中日も好きだった。既に此の頃から、在京球団、特に巨人嫌いになる素地は整っていたのかもしれない。

この文章の意図するところとは、少し外れるが、その頃の巨人には、その後の野球界において指導的な役を担うことになる数々の好選手が次々に現われた。藤田、広岡、長島、森、国松、王、柴田、城の内、土井、須藤、宮田らだ。素晴らしい選手のオンパレードだった。

 きむら・たくや        Img_20100407092900783_2403760428928

(昨年9月、対ヤクルト戦で捕手を務めた)

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20100413

朝日・朝刊/スポーツ

EYE/プロ野球を変えたあなたへ

編集委員・西村欣也

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あなたはプロ野球の概念を変えた人かもしれません。木村欣也さん。

きらびやかなスターを見ようと人々は、スタジアムに足を運び、テレビの前に座る。あなたはスターを輝かせることを自分の役割とした。そのことでファンの共感を得ていったプレーヤーでした。

日本ハムへの入団はドラフト外。支配下選手登録枠からもれ、任意引退選手扱いになったこともありました。「ちょっとでも、すきがあったら自分はそこへ行く。それしか自分の生きる道はない」。あなたの口癖でしたね。

広島へトレードされて、スイッチヒッターに転向する。捕手から外野手にコンバートされたが、投手以外のあらゆるポジションをこなしましたね。ユーティリティー・プレーヤーという言葉はあなたのためにありました。

巨人へのトレードは意外だったでしょう。「よりによって、一番戦力の厚い所へ行って、出番があるんだろうか」。あなたはそう話していました。

が、原辰徳監督は木村拓也という」プレーヤーを必要としていました。2008年5月の日本ハム戦で故障欠場した小笠原道大に代わって3番で出場して、先制本塁打を放ちました。めったに立つことがないお立ち台でした。

「巨人は主力がいなければ勝てないのか、と思われたくなかった。だから絶対に勝ちたかった」。インタービューを覚えているファンも多いでしょう。

昨年9月のヤクルト戦で捕手が負傷でいなくなり、1999年以来のマスクをかぶったシーンも、あなたの人生を象徴していましたね。「困った時の木村拓也」でした。「巨人が弱いときに来て、強くしてくれた選手」。あなたがいなくなった今、原監督の言葉をかみしめる日々です。、

2010年4月17日土曜日

久しぶりに、バスケで興奮した

夜、仕事を終えての帰途、自宅の玄関に入る前に、先ずは自宅の道路向かいの二女の家に寄って、孫を「ただ今」と言いながらぎゅっと抱きしめ、娘婿から焼酎2,3杯ご馳走になって、いい気分になって拙宅に辿り着くのが私の習慣です。

我が家でも気分次第で、焼酎だったり、日本酒やウイスキーを飲んで、頃合を見計らって風呂に入って、二階に上がるのです。それからは、酩酊度にもよるのですが布団に入る前に、テレビのスウィッチを点ける。テレビのスウィッチを点けても、居眠りをしたり、ぼやっと見て終わりにするのですが、この夜は違った。

写真:第1クオーター、リンク栃木・田臥がシュートを決める=河合博司撮影写真:第4クオーター終了直前、リンク栃木・川村が同点となる3点シュートを決める=河合博司撮影

この2枚の写真は、河合博司氏が撮影したものです。田臥と川村の両選手(朝日新聞)

リアルタイムなのか、再録で放映されているのか解らなかったのですが、テレビに映っているのは激しく攻守を繰り返しているバスケットボールの試合中継だった。

この実況、この試合、直感で、何かがおかしいと思った。酔眼にも、アルコールで柔らかくなった脳にも、観客席が異常に盛り上がっていて、こりゃ尋常じゃないぞ、と腰を据えた。実況を伝えるアナウンサーが、非常に興奮している。アメリカの学園モノの映画で、学校対抗の試合の応援で両校が盛り上がっている、そんな雰囲気が感じられ、酔いで鈍る神経をなんとか奮い立たせて、テレビの画面に釘付けになった。真剣勝負だった。

この試合は、バスケットボール日本リーグのプレーオフ(3戦先勝制)の決勝第3戦が東京・代々木第2体育館で行なわれていて、その最終戦だったのです。チーム創設から3季目、リーグ参入2季目のリンク栃木(レギュラーシーズン2位)が延長の末、71-63で3連覇を目指したアイシン(レギュラーシーズン1位)に3連勝し、初優勝した試合だったのです。このチームの正式なフルネームは「リンク栃木ブレックス」だ。

私が見出したのは、第4クオーターの中ごろからだったようです。

第4クオーターの丁度タイムアウトのブザーとともに放った、リンク栃木の川村の3点シュートが、ゴールに吸い込まれ、58-58の同点に追いついたのです。この同点に追いつくまでの13秒前までは、52-57、5点差があった。ここから川村の3点シュートが決まる。ここで、55-57.その後すぐに、リンク栃木から反則を奪ったアイシンのフリースローは1本外したので、55-58。会場は興奮状態。そこへ千両役者の登場になる。アイシンの防御を瞬間的にずらし、少しできた隙間から川村の3点シュートが生まれて、58-58の同点に追いついたのでした。上の右の写真がその瞬間です。そして延長、最終的には、71-63でアイシンを制した。

日本人初のNBAプレーヤー、田臥勇太がプレーオフ最優秀選手〈MVP〉に選ばれた。彼は、誕生間もないチームに加入して、チームを引っ張ってきた。横浜で中学まで過ごし、高校は名門、秋田県立能代工業高等学校だ、そしてリンク栃木の前の所属はアナハイム・アーセナルだ。別の朝日新聞の記事で、NBAでは17分間のプレーで解雇されたことを知った。練習に行く寸前でエージェントから「解雇された」という電話があって、これで一巻の終わり。これがNBAの世界なんだと痛感させられたと書いてあった。

新聞〈20100413、朝日〉によると、田臥は「栃木では、毎試合、ああいう雰囲気になる。モチベーションとなって、(アイシン)を絶対倒すという気持ちが増していった」。また来季は日本代表を指揮するウィスマン・ヘッドコーチは「日本のバスケ界がよりエキサイティングになる。プロチームが育ち、もっとバスケが認知され、文化として根付いていけばいいと思う。素晴らしい瞬間だった」と総括した。市もチームが本拠とする市体育館の愛称を「ブレックスアリーナ宇都宮」にして応援してきた。

ところで、実は私は中学校の3年間はバスケットボール部に所属していた。きっと不器用が原因だったのだろうが、ファールばかりとられて嫌になって3年間でバスケはやめた。接触プレーをする度に、笛を吹かれた。

高校に入ってからは、ボールをアタックさえすれば、多少の相手との接触があってもファールをとられにくいサッカーを選んだのでした。だが、もっと私の性格や体質、運動神経を総合的に突き詰めれば、サッカーよりもラグビー、ラグビーよりもアメリカンラグビー、アイスホッケーの方がよかったのかもしれない。当時、アメラグやアイスホッケーは、身近ではなかった。全ては、後の祭りだ。

今夜のバスケットの実況放送は、久しぶりに私のスポーツ心を騒がせてくれた。この半年はサッカーにも失望していて、本来の熱いスポーツ心が冷めていたところだったのです。

2010年4月16日金曜日

草や土の臭いは、懐かしい

水曜日は弊社の営業が休みなので、私はこの水曜日を、日常とは趣を変えて有効に使いたいと思っている。出勤日とか休日とか言ったって、余り代わり映えしない、考えることは会社のことばかり、自宅に居るよりは、会社の近辺に居る方が、何かと便利。会社では先週の出来事を振り返ったり、休み明けからの仕事の準備をしたり、後は本を読んだり、経済誌を読んだり、そんなことで時間を過ごしている。折角の休みなんだからと言われても、ちょっと冒険して映画を観るぐらいなんだ。でも、これでいつもは充分リラックスしているのです。

今日(20100414)は、弊社で運営している相模原にあるホテルの生垣やその周りの雑草を取ることにした。生垣はツツジなのですが、まだ若木を植えつけてから2年しか経っていない。きちんと枝や葉が詰まってなくて型が定まらず隙間だらけだ。枯れたのを植え替えた。雑草が生えていたのが、気になってしょうがなかったのです。なんてたって、ホテルの敷地内のことですから、目障りはよくない。緊張感は保ちたい。生えている草は、今も変わらぬシッカリモノの草、ドクダミ、スギナとハコベの3種だ。懐かしい奴らだ。

湿った土に顔を近づけると、昔懐かしい土の臭いがする。草を引き抜くと、根が張っていた部分の土が掘り起こされ、そこからは、土の本当の臭いがする。私の故郷の懐かしい臭いだ。今日は気温が15度、春らしい日差しが射していて、私の気分はいい.

萌え出る小さな草の芽からは息吹が感じられ、可愛らしい。パワーが感じられてたのもしい。きっと、春が来るのを心待ちにしていたのでしょう。

私は鬼になって、それらを容赦なく、三日月形の鉄製の刃のついた鍬で、地表を掻いて草の茎をなで切る。大きくなった草は、根こそぎ抜いた。

茎をなで切ってもどうにもならないのがドクダミとスギナです。両方とも、地下で根や茎を張り巡らしているのです。ドクダミは宿根草。地中に根を網の目のように広げて、あっちこっちから芽を出す。スギナは地下茎だ。雑草のなかでは、この両者の防除難易度は高い。この両者の根や茎は地中深くても、地表面が層の厚い砂利であろうと、地表の光を求めて芽を出す。植物のもつ向日性だ。その根や茎を用心深く追っていっても、その元まではたどり着けないものです。途中で切れてしまうのです。

大きなタンポポを根こそぎ取った。長く太い中が空洞の茎を、3センチぐらいに輪切りにして、笛にして鳴らした。これは、今でも私の得意技なのです。笛にして、歌を奏でることができるのです。音階、音程は、大いに狂っているのでしょうが、大きな音から小さな音、高い音から低い音、自由自在ですぞ。このタンポポの笛の鳴らし方を、文字にして皆さんに理解してもらえるほど、私の筆力は豊かではない。でも、実技では見本を見せることができるので、希望者は手にタンポポをぶら下げて、声をかけてください。喜んで、秘中の秘伝をご披露しましよう。

ドクダミは特別の臭気がある。

Houttynia cordata Leaf.jpg

ドクダミには解毒作用があって、虫下しとして、私が子供の頃は祖母がこの葉を煎じて飲ましてくれた。学校でも虫下しの薬を定期的に飲んだ。そんな時代だった。味は苦かった。どこの家でも、その敷地の陽の射さない所には、必ず見かける、毎度御馴染みの草だ。雑草のことが気になる家主にとっては、さぞかし悩みのタネだろう。が、私にとっては、かって薬草としてお世話になったお守りの草だ。

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スギナ。

スギナ.JPG

スギナはシダ類だ。春にツクシとして、現われる。ツクシは漢字では土筆という文字があてられることは、飲み屋にそんな名前の店があったので、30年前に知った。このツクシは春の山菜として、親しまれていることは知っていたが、食べたのは、結婚して家人に料理してもらったのが最初だ。彼女にとっても、ツクシを料理したのは初めてだった。料理は灰汁抜きをしたものを煮たのです。独身時代、こん炉で焼いて食ったが、あまり美味いとは思わなかった。

ツクシと呼ばれる胞子茎を出し、胞子を放出する。シダ類なので胞子だ、だから花は咲かない。「袴」と呼ばれる茶色で輪状になっているのが葉で、茎を取り巻いている。到底その輪状のものが、葉とは見えない。ツクシは成長後に、それとは全く外見の異なる栄養茎を伸ばす。これが、日頃目にするスギナです。この栄養茎は茎と葉からなり、光合成を行なう。鮮やかな緑色。主軸の節ごとに間接のある緑色の棒状の葉を輪生させる。全体を見ると、スギの樹に似ている。

栄養茎と併せて、浅い地下に地下茎を伸ばして繁茂する。冬になると、地上の栄養茎は枯れるけれど、この地下茎は生き延びるのです。

このスギナの項では、ネット(Wikipedia)を参考にした。

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最後はハコベだ。

ファイル:Chickweed (aka).jpg

春の七草の一種だ。このハコベも、地表の何処にでも、さりげなく、必ずちゃんと生えている。何故か、七草での呼称はハコベラだ。このハコベにも懐かしさが込上げてくるのです。子供の頃、よく祖母から頼まれてこのハコベを小さな籠にいっぱい摘み取ってきた。このハコベは自宅で飼っていた鶏の餌だったのです。ひよこ用には、祖母はそのハコベをすり鉢ですりつぶしていました。子どもの私は、そのすりつぶしたハコベを手のひらに載せて、ひよこが小さな嘴(くちばし)で突っつくのを面白がって、いつまでも鳥かごから離れなかった。傍に、祖母がずうっと付き合ってくれたのです。私が生まれた当初、私は祖母が望まぬ男ばかりの三番目の孫だったので、祖母は何かにつけて母に辛くあたったそうだ。でも、小学校に行き出した頃から、祖母は私のことを一番可愛がってくれていた。ハコベは、昔は人間さまの食用でもあったそうだ。

私は紛(まぎ)れもない歴(れっき)とした貧乏農家の子せがれだったので、百姓が困ることは身をもって理解していた。このドクダミやスギナは厄介な雑草の代表だが、他にもヨモギ(蓬)とツユクサが難物でした。ヨモギは宿根草でお馴染みの嫌な奴、ツユクサは茎を切ったぐらいでは枯れないのです。茎を切られても、葉や茎はいつまでも枯れないで耐えられる。そして少しの水気でも感知すれば、その水気を目指して茎から根が生え出すのです。水気を遠ざけるというよりも、腐らせる方法を選んだ方がよかったようだ。何かで工夫して光をあてないようにするか、ビニール袋などに入れて太陽熱で蒸すとかでしょうか。

作業を終えて、ホテルの洗面所で手を洗った。爪に黒い土が挟まって、その土がなかなか取れない。スポンジでこすってみた。爪を洗いながら、田舎での子どもの頃を楽しく思い出していた。毎日、泥んこ遊びや、田畑や山で遊んでいたから、爪はいつも真っ黒だった。こんなことを思い出すだけで、嬉しくなるのです。61歳、この歳のせいだろうか。食事中に、爪の黒いのを祖母に見つかっては叱られた。父のは私以上に黒かったので、自分のバツの悪さもあってか、怒る祖母を父がなだめてくれた。おばあちゃん、子どもにそんなに怒らんでもええやろう、と。

子供の頃の追憶はさらに続く。爪の間に挟まった黒い土を風呂に入って石鹸で洗っても、なかなか取れない。逆の手の爪で穿(ほじく)り出すのですが、それでもなかなか取れない。でも、風呂を出た時には、爪の土はきれいに取れていて、どうしてこんなにすっかり取れたのか、長いこと、それが謎だったのです。ところが、その後解ったのです。シャンプーをつけて、両の手で頭の髪をごしごし擦(こす)るときに、髪の毛の一本一本が爪の隙間を洗ってくれていたのだということが。

今日は、五時に孫を保育園に迎えに行った。初めての経験だ。孫から、ジジイに迎えに来て欲しいとせがまれていたのです。自宅に戻ってからは、一緒にサッカーして、一緒に長女の自宅の建築現場を見て、一緒に晩飯を食って、一緒に風呂に入った。

そんな休日でした。

みなさん、有難うございます

謝意

パラディス イン 相模原のスタッフの皆さんへ

日々、当ホテルの業務に精励していただき、私は当然のことですが、横浜の保土ヶ谷で本業(不動産業)に携わっている者たちの誰もが感謝しています。ホテルの運営が、本業の足を引っ張るようでは困るのです。又、逆なことも言えるのです、本業がホテル運営に支障をきたすようなことがあったら、それは深刻に危険です。お互いにそんなことのないように頑張りたい。

今月は、岩さん、方さんが退社されました。ご両名には、在職中大層踏ん張っていただきました。アーバンビルドとしての自主運営の立ち上げに、大変努力してくれたことに感謝している。吉さんは、去年に入籍は済ませてこの4月に結婚式を軽井沢で挙げられた。目出度い話だ。スタッフの皆さんの私生活においても実り豊かなものであることを願ってやまない。

ホテルの自主運営の立ち上げの過程において、私を含め全てのスタッフが学んだことは多岐にわたっていた。不慣れなことも多かった。とりわけ、自身の知識不足を、恐怖のように感じた。監督官庁からご指導を受けたことも多く、スタッフの皆にはさぞかし心配をかけただろうが、それらは今後の発展の糧にしたいと思っています。倒れても土を掴(つか)む、発展途上の我らには何もかも学習だ。

2010年4月の半ば、おかげさまで当ホテルの運営は、とりあえず第一段階としては、何とか軌道に乗りかけたようにように思われます。利用していていただいたお客さんからは、スタッフの応接態度や、朝食、施設については、満足していただいているという声を多く聞いた。金融機関の紹介で、ホテル運営を専門的に行なっている会社に、営業受託しないかとの誘いはあったのですが、私は迷うことなくスタッフの力を信じて断った。今後も、皆の力を信じ続けたい。

金融機関の協力も得ています。

前任の取締役の奮闘やコンサルタントからのアドバイスは、それなりに貴重でしたが、やはりやるべき人たち、私も森マネージャーも、今いる全てのスタッフが本気で取り組みだしてから、働いている職場の環境は凄くよくなったように感じられます。そこにきて、先月は期末というか年度末の月間でもあったからでしょうが、多くのお客さんにお泊りいただいた。売り上げも、調剤薬局の賃貸料も加算され、かってない売り上げを記録したのです。今後、宿泊企画の立案や誘客のための営業活動、地元対策などをどのようにすればいいか、課題は満載状態です。

3月の好成績を機に、今まで頑張って仕事に勤しんでいただいている皆さんに、会社から心ばかりの品を用意させていただいた。日常の業務に対する会社からのささやかなお礼の品です。お受け取りください。

昨年の年末には、全社あげての忘年会で、保土ヶ谷にいるスタッフとも交流を深めることができた。いい機会ができたと自負している。今後とも、皆さんの絶大な協力の下、いいホテル、いい会社にしていきたいと思っていますのでよろしくお願いします。

これからも、このホテルのことをよろしくお願いします。

 

                                          20100413   山岡 保

2010年4月11日日曜日

世界初 ウナギ完全養殖

横浜にある水産総合センターが、ウナギ(鰻)の完全養殖に世界で初めて成功したという朝日新聞の記事を読んだ。研究者の努力に敬意を表したい、またその成果を共に喜びたいと思うのだけれども、私の頭の隅っこには、そんなにしてまでと思う虫が棲んでいる。ウナギ君のことは、食材としてよりも不思議な魚としての方に私は魅了される。

そうは言っても、土用の丑どきには、みんなと同じように「土用のウナギ」を食えるものなら食いたい。それ以上は欲張らないが、一年に二度、三度位食べることができれば、もうそれはツー、ハピーだ。

マグロの上トロも、一年に一度も食えなくても、そんなに悲観しない。でも、赤身のマグロ位なら少しは頂きたい。その程度で、私の食生活は充分幸せなのだ。イワシだって、サバだって、サンマもある。美味しい魚はいっぱいある。さまざまな食材に趣向凝らして出された料理にも、関心が一向に深まらない。ただ料理人に感謝するだけで、美味いと言ってぱくぱく食する私は、無粋で無風流で面白くない奴だと言われる所以だ。でも、食材としてのモノにも、私は感謝を劣らない。

食材としてのウナギより、謎だらけで超不思議な=魚としてのウナギの方に、ウナギとしての、魚としての、生物としての大ロマンを感じるのです。わざわざ、何千キロメートルも離れた太平洋のマリアナ諸島沖で産卵し、その数cmの幼生が海流に乗って、日本の川にやってくるなんて、なんちゅう不思議なことだろう。

名古屋大学の地球環境科学専攻助教授の渡辺誠一郎さんが「うなぎと地球科学」と題して講演されたその内容をインターネットで見つけた。《注。私の方で、渡辺教授の講演の内容のうち私の関心事だけを抜き取りました。また、朝日新聞から得た名称も差し挟みました》

1991年、東大海洋研究所の白鳳丸がマリアナ諸島の西方海上で非常に小さい幼生(稚魚)を捕獲した。グアム島の近海から、北太平洋海流と黒潮を乗り継いではるばる日本までやってくることがわかった。この幼生は透明な柳の葉のかたちをしており、大きさは数センチメートル。身体のなかはほとんど海水で、海流に乗りやすいかたちといえる。このタイプの幼生には、ウミヘビやアナゴに見られる。この幼生が、海流に乗って移動してきて、生後百数十日で、細長く透明なシラスウナギ(グラスイール)に変態する。これがさらに色素が増して不透明になると初めて川を上ります。皆さんが蒲焼で食べるのは成魚(イエローイール)と呼ばれる若いウナギで、身体の側面が浅黄色をしています。親魚といわれる通常のウナギは、5年から10年かけて川で成長します。ウナギが成熟すると、目が巨大化し、頭の形も変わり、体も銀白色になります。体内でも、消化器が衰えて、生殖器が発達します。そして、故郷の海へと下ります。

 

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20100409

朝日・朝刊

社会

水産総合研究センターが成功

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水産総合研究センター(横浜市)は8日、人工授精で生まれたニホンウナギに卵を産ませ、孵化した幼生を育てる「完全養殖」に世界で初めて成功したと発表した。これまでは天然の稚魚(シラスウナギ)からの養殖に頼っており稚魚の資源は激減していた。安定供給の第一歩という。

センターは2002年に、養殖研究所(三重県南伊勢町)で、人工授精の卵から稚魚まで育てることに成功。今回、稚魚を全長45~70センチ程度まで成長させ、約50匹にホルモンを繰り返し投与して成熟させて人工授精し、1匹が3月26日に約25万粒の受精卵を産んだ。そのうち7割以上が孵化。4月2日からエサを食べだし、8日現在で約10万匹が生存しているという。

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養殖では成魚のほとんどがオスになってしまうが、稚魚の段階で個体にホルモンを投与し、メス化することにも成功。孵化直後の幼生の死亡率が高かったが、エサを工夫するなどして成長させたという。

ニホンウナギは「かば焼き」などで人気だ。しかし、生態は謎に包まれており、養殖は河口付近で稚魚を取り、育てるしかなかった。稚魚の採取量は50年前の20分の1程度になっており、乱獲が懸念されていた。

センターは08年、太平洋マリアナ諸島沖で天然の親魚や幼生の採取に成功。現在幼生に最適なエサが分っておらず、成魚まで成長させるのに天然の倍以上の年月がかかるとされ、センターの井上潔理事は、「採取した幼生の個体に残っていたエサを分析し、量産化につなげたい」と話している。また、ホルモン投与による安全性の詳細な確認は今後行なうという。(大谷聡)

2010年4月10日土曜日

今日の桜は、心に重た過ぎる

Aという所で弊社がアパートを保有している。

そのアパートの6室あるワンルームのうち3室が空いたのです。残り3室のうち1室は倉庫代わりに使われていて、人が住んでいるのがたった2室になったのを好機ととらえ、建物の老朽化が著しいこともあって、解体を思いついた。更地にした方が流通性が高まるのです。平たく言えば、売りやすいのです。

会社のスタッフと熟考の末、2室の明け渡しを求めることにした。住民はKさんとWさんだ。二人とも長く住んでくれている、弊社にとっては大事なお客さんだ。家賃もきちんと払ってくれている。面談した。そんな善良な住民に、突然の弊社の勝手な言い分は、大変失礼なこととは充分認識していたが、この物件を処分していくばくかの流動資金を得たかったので、お願いをした。背に腹は変えられない。

Kさんは、仕事の関係で横浜にはちょこちょこ出るので、御社に伺います、と来社していただいた。弊社の事情を説明した後、Kさんから聞く話は、強烈だった。Kさんは8年程前に、不動産屋の紹介でこのアパートを知り、いいとも悪いとも言えないうちに、誰かに荷物を運び込まれたようなのです。何が、何で、どうして、こうなったのか、記憶がない。家賃も引越し代も、不動産屋さんとの折衝の記憶もない、と言う。当時、水のろ過装置を製造販売している会社の社長だったのですが、会社は倒産して、自宅と工場は競売に付され、追い払われるように引っ越してきた。当時のKさんは、極度のウツ病状態だったようです。会社の倒産、自分の母、女房、弟が3ヶ月の間に前後して自死したそうなのです。よくぞ、持ちこたえられましたね、と感心させられた。私には、到底真似はできないだろう。その三人の骨壷もこのアパートのどこかにあるのでしょうけれども、まだ確認していないとのことでした。きっとロフトの辺りなんでしょう。ワンルームに荷物ががっちり入っているので、探そうにも探せない、そこで隣室が空いたようなので、どうせ解体まで誰も使わないようなら、要らないものをその室に移させてもらえないか、そうさせてもらえば、要るものと不要なものが区別できて、引越しの準備はできますから。私は恐縮しながら、不要なものは置いていけばいいですから、そのようにしてください、と承諾した。

それから、2週間後、今度はWさんと面談した。一階に住んでいるWさんは、精神障がいがあって、生活保護を受けながら地元の作業所で働いていると仰っていた。そこで判明したのですが、Wさんが支払っている家賃の額と私どもが受け取っている金額が違ったのです。それは私の確認ミスで弊社と契約していたのは不動産屋で、その不動産屋がWさんに転貸借していたのです。何も、その契約自体が悪いわけではないのですが、ここで、私が迂闊だったのは、この不動産屋が自分の会社の社員用にこのような契約の形態をとっていたのだと思い込んでいたのです。実は、この不動産屋は精神に障害をもち生活保護を受けている人に、又貸しをして差額を得ていたのです。転貸借していた不動産屋からは、二度とWさんとは接触しないでくれと言われた。差益を抜いていることで不動産屋を非難はしなかったが、民生委員か市の福祉課にでも相談するようにとWさんには言っておいたから、と半ば脅迫じみたことを言っておいた。私は、怒っていた。

そんなことを知ってからの会社への帰途、暗い気持ちになった。なんじゃ、あのオヤジは。その不動産屋は、お世話をしているとか、面倒みているとか言っていたけれど、その性根は弱い者いじめそのものだ。お前は弱い者にたかる銭ゲバか。

前日にも、別件、気分の悪くなる一件があって、私の神経はささくれだっていた。その上この件で、尚一層、頭の中に鉛でも入れられたかのように、頭が重たく憂鬱だった。体もだるく、重く、疲れていた。怒りだけは醒めていた。アイツは「囲い屋」だったのかもしれない。

国道から逸れて会社に近くなると、やけに桜が多く目に付いてくる。県立保土ヶ谷公園、花見台、桜ヶ丘、学園通り、ビール坂、神明社、帷子川の岸辺。もう、桜、さくら、サクラのオンパレードだ。桜の群れが、小さな山のようにも見えた。花のついた枝が放縦に伸び、花びらは幾枚も重なって、私を、私の頭を何重にも覆いかぶさる。そんな花を振り払い、除(よ)けたい衝動が走る。避けたい。今日の桜は、厚ぼったい。五月蝿(うるさ)い。桜をこんな気分で感じるのは初めてだ。昨日まで、あんなに桜を愛でていたというのに、今日のこの桜は鬱陶し過ぎる。

20100407の朝日新聞・朝刊で、「生活保護費を銀行内で集金」、「貧困ビジネス業者」のタイトルで記事になっていたのと同じことのようだ。

この記事をダイジェストした。---ーー6日は、大阪府の東大阪市の生活保護費の支給日だった。大手行支店の前には、十数人が列を作った。50代、60代の男性が目立つ。午前8時、業者2人が、支店に備え付けれている机に陣取った。現金自動支払機で引き出した保護費を、その場で業者に手渡した。大阪市西成区で、若い男に声掛けられた。誘いに応じ、業者が拠点を置く東大阪市で生活保護を申請。アパートの家賃4万円のほか、数万円を業者に手渡してきたという。この手の業者を「囲い屋」と呼ばれ、100人と契約を結んでいるとみられる。

Wさんも囲まれているのだろうか。心配だ。

2010年4月7日水曜日

普天間を、沖・日・米で知る

宜野湾市の市街地のど真ん中にあるアメリカ海兵隊普天間基地を、その危険な状態をなんとか回避したいという沖縄県と日本政府は、長年、米国とその移転先について協議してきた。かって自民党政権は、名護市の辺野古地区に移設することで、最終調整に入っていた。その矢先に、昨年の衆院選挙で民主党は辺野古移設計画の見直しと、普天間基地を国外、最低でも県外に移設することを選挙公約にして大勝、自公連立から民主党ら三党連立に政権が交代した。その結果、移設問題は振り出しに戻った。だが、私には自公が推し進めようとしていた辺野古地区への移設だって、その通りにスムーズに進められるとは思っていなかった。もうこれ以上に、沖縄県民には基地はこりごりなのだ。政府や首長が合意したって、あっさり納得できない住民は、幾万人もいるんだ。

それからの、この普天間移設問題は、民主党を中心とした連立政権内において、いまだに窓口になる担当者は決まっていない。県内に移設するというのならば平野官房長官あたりがきちんと今後の方針の話し合いを沖縄県知事ともたなければならない筈なのに、見受けられない。国外や県外なら、これも当然その国や地方公共団体の首長と話し合いを持たなければならない。が、今のところそれらしき動きは、政府の方にも迎える県にも国にもない。

3月31日の国会での党首討論にて、鳩山首相は、普天間問題について「5月末までに政権としての考えを米国や新しい移転先に指示し、理解を求めることが私の役割だ」。5月末までの決着を目指す考えを重ねて強調した。「命懸けで体当たりで行動し、必ず成果を上げる。政府を信頼していただきたい」

それからの首相の答弁が危なくなってきた。腹案を既に用意してある、なんて言い出したのです。さすがにこの時期のこの場において、首相としてなんとか格好だけでもつけなくてはイカンとでも思ったのだろうか。腹案に関しては「(沖縄県名護市のキャンプ・シュワブ沿岸部に移設する)現行案と同等か、それ以上に効果のある案」としたものの、交渉に影響が出るなどとして現時点での公表は拒否した。関係閣僚とは調整済みであることを強調した。本当かよ?本当は、これからなんでしょ。その腹案って、地元住民に納得を得られるのか。得られないないようでは、米国だってその代替案にのってこないだろう。

さて、鳩山由紀夫首相の腹案はいかがな結果になるのでしょうか。お手並み拝見というところだろう。私には、昨年の総選挙で、選挙カーの上から「普天間基地を、国外、最低でも県外に移設する」と高らかに、何度も何度もマイクで叫んでいた姿が頭から抜けない。沖縄県民は、すがる思いでこの党に委ねようとしたのではないのか。沖縄県民を裏切るな、鳩山首相。

あれだけ、声高に叫んだ「普天間基地を国外、最低でも県外に移設する」が、未だに何の進展も見られない。

ここに、沖縄大学の新崎名誉教授が、何故普天間移設なのか、普天間基地がどのように作られたのか、その過去と現状、占領地だった沖縄と日本本土、日米安保について要約した文章を寄稿されている。この短い文章だけで、私はいっぱい学習できました。教授に、朝日新聞に感謝。

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20100325

朝日・夕刊

普天間問題で思い起こすべきは

安保の裏に沖縄差別

新崎盛逹エ(あらさき・もりてる)/沖縄大名誉教授

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*写真の説明=戦後初期の沖縄の米軍基地にはフェンスもなく、米軍爆撃機のそばで住民が草刈をする光景も見られた。

米軍普天間飛行場の移転先をめぐる論議が熱を帯びている。しかし、この問題の本質は、単なる移転先探しにあるのではなく、戦後65年にわたって続いてきた日・米・沖の関係をどうとらえなおすか、というところにある。

よりストレートにいえば、構造的な沖縄差別の上に成り立ってきた戦後の日米関係を今後どのようなものにしていくのかを考える糸口として、この問題はある。

普天間飛行場のある場所は、戦前、村役場や二つの国民学校(小学校)、五つの集落があり、田畑が広がる宜野湾村(現・宜野湾市)の中心部だった。沖縄島南部でまだ日米両軍の戦闘が続いていた1945年6月、米軍はここに、日本を攻撃するための基地として、普天間飛行場を造った。

返還されぬ土地

戦場を命からがら逃げ回っていた村人たちは、戦争が終わっても、元住んでいた場所に戻ることはできなかった。やむなく人々は、米軍基地にへばりつくようにして戦後の生活を始めた。当時の基地にはフェンスもなく軍用機のそばで草刈をする人々の写真が今も残っている。

国際条約(ハーグ陸戦法規など)によれば、戦争中でも敵国民の私有財産は尊重されなければならない。まして戦争が終結すれば、奪った土地は生活者に返還するのが道理だろう。ところが、日本が占領下を脱して独立した後も、沖縄は、米軍政下に置かれ続けることになった。

一方日本でも、占領軍は、安保条約に基づく米軍として、国内に居座ることになった。このため、砂川闘争をはじめとする反米反基地闘争が続発した。そこで日米両政府は57年、海兵隊など一切の地上戦闘部隊を日本から撤退させることに合意し、安保改定を準備した。山梨、岐阜などから撤退した海兵隊は、日本ではなかった沖縄へ移駐した。

米海兵隊は、地政学的必要性から沖縄に配備されていたのではなく、政治的配慮で沖縄へ移駐してきたことを思い起こしておきたい。

矛盾をしわ寄せ

52年の旧安保発効から60年の安保改定までに、日本の米軍基地は4分の1に減少し、沖縄の基地は2倍に増えた。基地のしわ寄せ、すなわち安保の矛盾のしわ寄せである。

72年の沖縄返還に際しても、在日米軍の再編が行なわれ、日本本土の基地は3分の1に減少したが、沖縄の基地はほとんど減らなかった。普天間基地が、市街地の真ん中にある世界一危険な基地といわれるようになるのも、沖縄への基地の集約・強化、フル稼働の結果である。

95年の米兵による少女暴行事件をきっかけとする民衆の怒りの爆発に直面して、日米両政府は、普天間基地の全面返還を約束した。ただし米側がその代替施設を要求したため、膠着状態が十数年も続いている。

政権交代を前にした民主党の国外・県外施設の公約は、少なくとも沖縄では、安保の矛盾、構造的沖縄差別の是正への第一歩と受け止められた。沖縄における総選挙や名護市長選挙の結果は、そうした期待の表明である。

在韓米軍の大幅削減が計画され、米中、日中の経済的相互依存関係が深まる現在でも、海兵隊の抑止力が日本にとって必要なのか。必要だとすれば、基地負担も全国民が均等に負担すべきである。だが、本当にそうなのか。

普天間問題は、安保を我が身に引き寄せて考える契機とすべきなのである。

2010年4月4日日曜日

就職留年組に、私からの提案

テレビでは、大手企業の入社式の様子が映しだされていた。新入社員は、紺や黒のスーツに身に纏い、恭(うやうや)しく、企業の代表者の祝辞を聞いていた。会社から貸与されたユニフォームを着衣している会社もあった。どの会社の代表者からも、経済環境を反映してか、厳しい言葉の連発だ。祝いの席の祝辞なのに、内容はもう全く訓示を飛び越えて何かの決起集会のようにも思えた。

新入社員は、テレビのインタービューに答えて、満面笑みを浮かべ、「頑張ります」とか「社長になります」とか、なかなか威勢がいい。

そして、テレビの画面が変わって、就職が叶わなくて留年することに決めた某私大の男子学生が、アパートでパソコンの画面を眺めながら、就職できなかった悔しさを語っていた。悲しい思いに沈む若者が多いのだろう。この学生は新卒で就職するために、留年を選んだらしい。

政府は景気回復を促す政策をうつこと、企業に対して雇用を増やすように指導すること。大企業が実施してきた新卒一括採用という方式を見直し、通年採用に切り替えることなど、今後経済界に取り組んでもらいたい。学校においては、学生の個性を見抜き、広範な業種から適切な就職指導を徹底しておこなう。実行しなければならない対策は幾らもある。

そこで、先述の就職のために留年した学生等に対して、私からの提案があります。各人各様の状況下にあって、志向や条件、経済状況も違うわけで、一律にこの提案を鵜呑みにすることはないのですが、まあ、聞いてみてくれませんか。

この1年間苦学生をやってみませんか。

1日24時間を無理して無理して、過ごしてみませんか。かって、受験勉強では睡眠4時間とか5時間とかで、頑張ったことを思い出して、ここでもう一度、無理をしようよ。そうしないと、若者たち、君の明日は見えてこない。政府や経済界が取り組まなければならないことは、多々あるとは言ったが、一番肝心要なのは、仕事に就きたいと思う本人の心がけも鍛錬しなくてはならない。

親からの仕送りをストップする。アルバイトに精を出す。本気で生活費を稼いだことがありますか。親からの仕送りがあれば、遊ぶお金や足りない分だけを稼げばよかったのですが、この1年間は自分が生活するための全費用を自分で稼ぐのです。親の立場になって言わせてもらえば、4年間の仕送りで済むものを、ええ大人が、卒業する気さえあれば卒業できるのに留年して、もう1年も?こんなことは堪らない。 一端(いっぱし)の大人が、それでもまだ仕送りを親に求める心算ですか。馬鹿と違うか。

かって「金の卵」と呼ばれて首都圏に働きにやってきた中卒の人たちは、月給は60年程前ならば1万円とか2万円位だったのではないでしょうか、そのなかから、弟や妹、老いた父母に仕送りをしていたのです。私はといえば、45年前のことです、高校を卒業して、大学に入るために勉強するよりもお金を貯めることを優先した。2年間のドカタで270万円位貯めた。入学してからは、農協に預けてあるその資金をちびりちびり送金してもらった。寮に入っていたので、みんなは5~6万円送ってもらっていたが、私は月3万円で凌いだ。多く送金されると、早く資金が枯渇する、当たり前のことだ。結果、友人達には随分迷惑をかけた。でも、不思議なことに、迷惑をかけた奴とは殊更(ことさら)仲良く、終生の友になった。貯めたお金で3年半の生活費と3年間の授業費はまかなえた。汗を流して労働することの快感は、今後生きてゆくには不可欠な感性だ。

学校のカリキュラム以外に、もう一つ学びたいことを作り出すのです。私が手っ取り早く思いつくのは語学です。語学でなくてもいい、これっと思いついた分野を、今までの大学の授業では得られなくて、これだけはもっとマスターしたいと思うものを見つけるか、自ら作り出すのです。もっと知りたいこと、究めてみたいこと、足を踏み入れたいと思うこと。もう少ししか残されていない大学生活だ、もの足りなさは実感している筈だ。このもの足りなさを感じること、そしてこのもの足りなさを起爆に、何かを探すのだ。この作業は結果的には宝物になるような気がするのです。

私の息子は、理系私大の土木学部に4年間、それからオーストラリア、ウーロンゴン大学の大学院に2年間就学した。結果的に親の目からも賢明な方法を選んだもんだと感心したのです。お世話になった理系私大は、1年の時から、2,3,4年と就職指導が熱心で、私の息子はその「就職、しゅうしょく、シュウショク」としつこく言われるのを嫌ったのです。就職は重要なこととは理解していても、余りにもその就職指導に熱心なあまり、息子はシラケたのでした。勉強の方も中途半端な状態だったこともあって、教授の勧める学校に留学したのでした。外国だから語学は自然と身に付く、視野も自ずから拡がる、様々な国の人間と知り合いになり得たものは多かったようだ。そして、就職は外国で培ってきたことを評価してくれて、希望する会社に入社することができた。

このように留年の1年間を、今までのようにホドホドでなく、無理して無理して過ごしてみようよ。今までやりたくてもできなかったことや、未習熟のままで気になってしょうがないことを、今、ここで狂ったように、無理無理のスケジュールの中に、無理して突っ込んでみよう。

そうすれば、結果、就職活動にも明るさが見えてくる。社会は捨てたもんじゃない、楽しいことや面白いことをいっぱい包含しているのです。

楽しく、無理して、金を稼いで、学習する。

フランシーヌの場合は

20100330。

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自動車のラジオから、昼の番組で、某放送作家が女性アナ相手にがちゃがちゃ喋っていて、本人が勝手に自分で面白いと思い込んでいるのでしょう、しつこく、「今日はですね、『フランシーヌの場合はあまりにお馬鹿さん。3月30日の日曜日』、とつい口ずさんで、今日の30日を日曜日と思い込んでしまって、会社を休んだ人がいるらしいよ」なんてことを言って、笑いをとろうとしていた。

そう言えば、私もよくこの歌をかって口ずさんだものだ。1969年のことらしい。私が大学2年生の6月、新谷のり子さんが歌って随分ヒットしたのでした。私は、フランシーヌさんは、きっと名前のイメージからフランスの女学生で、学生運動のデモか何かの闘争で、警察権力との衝突の中で亡くなったのだろう、と勝手に漠と理解していた。樺美智子さんのフランス版ぐらいにしか認識していなかった。

当時の私の自前のエネルギーは、70%がサッカーに、10%が学校の勉強に、10%は読書で、残り10%で寝食、脱糞、排尿、その他?(その他と言っても何もない)に遣っていたのです。そんな日常だったので、この歌に不思議に惹かれながらも、それ以上の関心はどうしても涌かなかった。体育局のサッカー部に所属しながら、人前ではノンポリを装い、心情は全共闘シンパだった。

そして、この1ヶ月程前(20103月の初め)に、新谷のり子さんが大阪の釜ケ崎に定期的に出かけ、ボランティアで活躍されていることを朝日新聞の特集記事で知った。新谷のり子さんは元々、反戦や学生運動に関心があって、あのような歌に恵まれたのか、あの歌を歌い出だしてから反戦や学生運動に関心を寄せるようになったのか、それを知りたかった。

テレビに映る新谷のり子さんは、あまりにもあどけなく、危なかしい程か弱く、可憐で、反戦や学生運動なんかとは縁遠い人のように思えたのです。

そして今回のラジオ番組を聴いて、今度こそは、フランシーヌさんのことを聞き捨てられない。知らないままで死ぬわけにはいくまい、と思った。

有り難いことに、ネットで識者が書き込んでいるのを摘(つま)み食いさせていただいて、マイファイルしておこう。

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月刊「記録」さんのブログから抜書きさせていただきました。

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フランシーヌ・ルコントという30歳の学生(女性)が1969年3月30日にパリで焼身自殺をした。自殺の際にナイジェリアのビアフラ飢餓に関する記事の切抜きを持っており、また死んだ場所がベトナム戦争当事者が話し合っていた拡大パリ会談の付近であったことからベトナム戦争およびナイジェリアのビアフラ内戦に抗議しての自殺とみられる。

ベトナムはフランスが旧宗主国だからフランシーヌが心を痛めていたのはわかる。ビアフラ飢餓《難民》はイボ族を中心としたビアフラ共和国設立という分離独立運動を認めないナイジェリア政府軍などとの戦いの結果として大量に発生した総数約200万人ともいわれる。フランスのドゴール大統領はビアフラ側に好意的で武器の供給などで支えた。

フランシーヌは精神的に障害を負っていたとも推測され真意は今ひとつハッキリしないが焼身自殺までして政府の対応を指弾する雰囲気がフランスに充満していたと想像するにかたくない。前年の68年はフランス5月革命が発生している。労働差別や反戦、大学の自治などを要求した学生と労働者が1千万人規模でストライキとデモを打ち、ドゴールは軍を治安出動させる一方で要求をかなり受け入れた。似た動きは日本でも70年安保闘争で見られ、アメリカのウッドストックの原動力にもなった。

ビアフラ戦争は結局フランシーヌの死の翌年にビアフラの無条件降伏で終わった。その処理にあたった一人がイボ族に比較的近いキリスト教系のヨルバ族出身のオルシェグン・オバサンジョ。現在の大統領である。

私は25年程前に、アパートを探していたあるナイジェリア人と親しくなり、その友人から友人へと、私とナイジェリア人との交際の輪は広がったのです。日本に来ているナイジェリア人の間で、特に横浜地区においては、アパート探しは先ずは私に相談するように、ということになっているようです。ナイスボーイもいれば、バッドボーイも多いのですが。

25年前に最初に知り合った彼とは、真剣に付き合った。ナイジェリアの国情について、政治、産業、資源、民族、言語、気候、食事から住居まで話してくれたのですが、政情のことについて話す時は必ずといっていいほど顔を渋面にした。長く軍政だったこと、民政になっても少しも政治が良くならないこと。政治家や高級官僚たちは、多国からの援助金を自分たちのためだけに使い、もしくは横領したり、石油や金などの地下資源も豊かなのにその権利は彼らが占める、そんな具合なので、国はいつになっても良くならないのです、と嘆いていた。

高校の卒業式の記念写真のようなものを見せられて、彼が写真に写っている顔に指差して、次ぎ次ぎに、ダイ(死んだ)、ダイ、ダイ、ダイ、ダイと言った。全員で50人位なのに、死んだのは7~8人もいた。ビアフラの内戦に兵として狩りだされ、死んでいった仲間のことだった。

2010年4月2日金曜日

指導者の言動は、影響が大きい

野球ファンならずとも、この季節のスポーツといえばやはり選抜高校野球だろう。

郷里を離れてから四十余年も経っているのに、自分の出身地の出場校の勝ち負けがどうしても気になって、できたら最後の決勝戦まで身贔屓に応援したいと思う。未だにお上(のぼ)り意識が抜けなくて、東京都や神奈川県なんて、糞喰らえだと思ってしまう。今回は京都からは立命館宇治高だ。この学校は、源氏物語の舞台にあるのです。今はもうなくなってしまったが、私の卒業した学校の隣、近所だ。今回は、残念ながら1回戦で広島の古豪広陵に惜敗した。無念だ、夏の大会の捲土重来を期待しよう。

広陵ー立命館宇治戦の記事を読み終わって、悔しい想いにふけっていた。紙面への視線を横にずらすと《アルプス席》とタイトルがつけられた囲い記事が目に入った。「熱戦の価値に水さす言葉」だ。

この記事を読んだ後、私の胸の深奥部に苔付いていた思い=「子どものスポーツの世界において、いかにバカなコーチや監督が多いか」ということを言い出さずにはいられなくなった。その前に記事そのものを転載する。

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20100323

朝日・朝刊

スポーツ

山田佳毅

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残念な言葉を聞いた。「全国で恥をかいた。末代までの恥。〈悔しいのは〉21世紀枠に負けたことです」開星高校の野々村の監督のコメントだ。21世紀枠で選ばれるのは、必ずしも秋の地区大会で好成績を収めたチームではない。一方、開星は昨秋の中国王者。とはいえ、相手の実績によって自らの勝敗に価値をつけるような姿勢は間違いだ。

そもそも、21世紀枠の出場校は「常勝チーム」ではない。2001年の宜野座〈沖縄)、09年の利府(宮城)は4強まで勝ち進んだ。08年は出場した3校が、いずれも初戦を突破している。

日本学生野球憲章は、野球を通じてフェアプレー精神を身につけることを理念に掲げる。そこには互いに健闘をたたえ合う潔さも含まれる。

敗退直後、冷静さを欠く気持ちは分る。ただ、心ない言葉は、必死に練習を積んだ両校の選手、応援した人々、すべての気持ちを踏みにじってしまうのを忘れないでほしい。

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この事件をしたためて記事にした記者に、朝日新聞に敬服する。一般紙においては、監督のコメントをここまで詳細に報道していないものもあった。この記事を朝、読んだ時は瞬時にカッチ-ンと頭にきた。私得意の瞬間湯沸かし器だ。夜のテレビでは、この監督の発言と彼が学校で受け持っている美術の授業風景や、野球部の毎年の卒業生の似顔絵を自分で描いて贈っている光景が映し出されていた。学校内での監督は、真面目で個性豊かで、人間味の溢れた教員であることを知って、ひとまずは、ホッとした。猛烈に、真剣に野球を指導されていた。

その後の報道で、この監督さんが野球部の監督を辞任されたことを知った。自分でけじめをつけられたのでしょう。これで、良かったと思う。この事件でことの重要性を、監督の教え子も相手校の生徒も充分勉強したことだろう。

私は、20年ほど前に、地元の自治会が作ったサッカーチームの指導を依頼され、3年間、毎週日曜日に練習や試合にと子ども達と接した。幼稚園児から中学生までの子どもを各年代に分けて指導を行なったのです。幼少年期の子どもを、スポーツ好きな子どもになって欲しい、指導を間違って、スポーツが嫌いになったり心身に傷つくようなことのないように、そんなことを必死で考えて指導していた。

ここで、私が指導者として心がけたことのその一は、練習や試合において参加者全員が絶対、機会均等であるべきだと考えたことです。すべからく、練習も試合もその考えに則って運営すべし。ちょっとばかり巧い子どもの親は、できるだけ試合に出ている時間が長いことを望み、足が遅い子や臆病な子どもの親は、とかく遠慮がちになる。どの子も、試合に出てボールを蹴りたがっているのは、同じなのに。

その二は、負けても勝っても、自分たちのチームと相手チームの何が良かったのか、何がまずかったのかを必ず話す機会を作ったこと。その際、自分たちのチームメイトの悪口を言うことが、否応なしに発生するのですが、その時こそ、気分の好いコミュニケーションがとれるように、その役を担った。チームの仲間を、同じチームの仲間同士として、お互いにどう作用し合えば、いい効果が生まれるのか。相手チームの自分たちより秀でたところは、相手を堂々と褒める。良かったこと、良くなかったことを、子どもの視点レベルで理解させることでした。

その三は、観戦する親たちに、子どものプレーに対して非難めいたことを絶対言わせなかったことでした。ただの観戦だけの関係者にも、子どものプレーを褒めることは大いに結構だけれど、批判めいたことを言った人には、噛み突いて叱った。その時こそ、私は鬼になった。強い子は大人に叱らても平気の平左衛門でいられるが、子どもによってはダメージを受け、そのダメージが健康な精神を損ねることだってあるのだ。自分の子どもが人並み以上に巧いと思い込んでいる親は、ことあるごとに、私には理解できない言葉を発したり、変則的な行動をして、私を苛立たせた。

長く指導をしていて、練習や試合を重ねるうちに、親たちの目が変わってくるのに気付いて怖くなったことがある。自信満々の親が一人、二人と発生するのです。自分の子どもは他の子どもより巧いんだ、と本気で思い込んでしまう人が出てくるのです。本質的に何も違いがないのに。その人等の顔には、自分の子ども以外の子はうちの子より下手なんだ、と描いてある。

知らず知らずに出る言葉で、誰もが絶対子どもの前では慎まなくてはならない禁句がある。それは「何をやってるんだ」の一言です。この言葉こそ、何の意味もなく、選手を戸惑わせ、傷つけるのです。「何をやってるんだ」ではなく、早く走れとか、早くスタートしろとか、前に強くボールを蹴れとか、具体的なことを指示することこそ大事なのだ。高校生以上ならば、プレー中は以心伝心もある、ビデオやテレビで高度な試合を観ているし、本も読んでいるので知識が豊富なのだ、「何をやっているんだ」と言われても理解できるのです。

子どもに向かって、「お前は、何をやっているんだ」、こんなバカな繰言を言っている指導者は最低だ。でも、この手の指導者が、特に子どもを指導する世界において、実に多いのです。この素人アホ監督が害にも毒にもなるのです。

ここまでは、私が指導をしていた時に留意していたポイントだ。

監督らしい指導者が、聞くに堪えられない発言を、憚(はばか)ることなく得意満面で、子ども達に間違ったことを、言わなくてもいいことをつらつら話していることを、聞きたくもないのに聞かされる機会が多かった。これは、なにもサッカーだけのことではない。内容については、指導者ごとに千差万別だが、スポーツの本分からは随分遠い内容のものが多いのだ。監督と言われて、何か特別な存在にでもなったのか、と誤解しているのでしょう。

私は、この類のことで、一つでも非難を受けようものなら、潔く、その役を降りようと思っていた。子どもに良くないことは、絶対行なってはいけないのだ、と腹が据わっていた。