2007年12月31日月曜日

復刻(朝日新聞)サッカー五輪決定

この年の瀬(12月30日)に,U22の五輪出場が確定したことを報じた新聞を読み返してみた。嬉しい気分を再び味わえたのは、言うまでもないことだけれども、星野ジャパンの五輪出場と比べて、なんと若さに溢れていて、さわやかで、気持ちのいいことよ。野球においても、サッカーのW杯(ワールド・カップ)のように、ワールド・クラシック・ベースボール(名称が間違っていたら、すまん)を世界における真の野球の覇を競うような大会に組みなおすとか。同じく、サッカーのように年齢枠をつくるとか。何らかの改革が必要な気がします。私は星野ジャパンがたとえ北京五輪で優勝したって、この白け気分は抜けないでしょう。私も大好きな星野さん、オリンピック出場ぐらいで泣いていてどうするんですか。もっと、厳しい状況に投じてこそ星野さんの真骨頂が発揮されるのではないでしょうか。野球ファンの方々、新しい仕組みができるように運動をおこしませんか。長嶋さんも、こんなことで喜んでいる場合ではないですよ、もっとレベルを上げたいとお思いだと、私は感じているのですが、如何かな。

2007 11 22朝日新聞 朝刊  1、18、39面。U-22の北京五輪の出場が確定した記念の記事を丸写し、した。

1面 サッカー五輪決定

「見返す」選手奮起

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(反町監督に炭酸飲料を浴びせて喜び合う)

22歳以下によるサッカー男子の北京五輪アジア最終予選C組最終日は21日 、東京・国立競技場であり、日本が4大会連続8回目の五輪出場を決めた。引き分けでも出場権を得る日本は、2位のサウジアラビアとの直接対決に0-0で引き分け勝ち点を11に伸ばして各組1位のみに与えられる出場権を手にした。

「若々しくない」「サッカーがつまらない」。これまで結果を出してきたが、特に攻撃面で内容が伴わず、反町監督の手腕に疑問が投げかけられた。称賛される入院中の日本代表のオシム監督とは対照的だった。

こうした批判に、選手たちは「やっているのはおれたちだ。見返してやる」との思いを強くしていた。おとなしすぎると言われ続ける中、自主的にミーティングを開くようになった。「選手にずいぶん助けられている」。反町監督がしみじみと話したことがあった。

17日のベトナム戦に快勝して緩んだ雰囲気を引き締めたのも、主将の水本選手(千葉)や伊野波選手(FC東京)だ。

ホーム・アンド・アウェーの最終予選で、ライバルと見られたサウジアラビアとは2分け、カタールとは1勝1敗の五分の結果だが、目的は遂げた。予選初戦から約10ヶ月。弱気になることもなく、積極的に攻撃を仕掛けて引き分けたこの日の戦いぶりが、チームの成長を物語る。

試合後のロッカー室。日本サッカー協会の川淵会長が「このチームはピチピチ感がないと言ったのは悪かった」と言葉をかけると、選手から大歓声があがった、という。

18面

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決戦 成長の証

立ち上がりはピンチを招いたが、主将の水本(千葉)ら守備陣がしのいで徐徐にリズムをつかんだ。相手GKの好守などで無得点に終わったものの、無失点に抑え引き分けに持ち込んだ。

立派な引き分けだ。

負けなければ五輪という条件をクリアーしたからではない。このチームに欠けるといわれていた躍動感と勝利への飢えを、最後の山場で体現したことに成長の跡が見えたからだ。

試合は強運から始まった。右から完全に崩された9分。ゴール至近距離から放たれたシュートを、Mf青山敏が体に当てて失点をのがれた。

それ以降、失点の臭いをほとんど漂わなかった。FW李、岡崎、Mf細貝~。再三の決定機に決められないもどかしさが本大会への課題として残る一方で、次々とスペースに飛び込む動きから好機を作り続けた。ゴールに直結するプレーをすればいいのだというシンプルさは、細かいパスを回すだけで一向に日本ゴールに迫れないサウジを圧倒した。

「最後はメンタル勝負。引き分け狙いではなく、勝ちにいったのがいいリズムを生んだ」と主将のDF水本。勝つしかないサウジが前掛りになった分、背後にはスペースが生じる。そのすきを突き、有利な立場をしっかり生かし切った。

2月の2次予選から始まった戦い。当初の煮え切らなさに、実力伯仲の相手とギリギリの勝負になった時に、ひたすら勝利を求める集団になれるかどうかが心配の種だった。「10月のカタール戦の負けで変わった」と反町監督。若いチームは吸収も早い。

病に倒れ、集中治療室で眠る日本代表のオシム監督は若手たちを気に掛けていた。水本は「回復したら、成長した姿をみせたい」と胸を張った。

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失点覚悟 青山敏クリア

ボランチの青山敏が決定的なピンチを救った。相手に攻め込まれていた前半9分、こぼれ球を押し込まれそうになったが、ゴール前で瞬時に反応し、シュートを体に当てて止めた。最終予選の先発は3試合連続。走り回って好守に奮闘した。「(シュートの場面は)体に当たってくれと思った。自分がチームを救ったMVPだと思っている」とニヤッと笑った。

厳しい条件、耐える

長丁場/ホーム・アンド・アウェー

前回のアテネ五輪予選は、1ヶ所に集めて集中的に試合を行うセントラル方式。今回のホーム・アンド・アウェー方式は「全く違う。試合間隔が空くから考えてしまう」。総合力が問われる厳しい予選だった。A代表と違い、U22代表は強化に十分に準備期間は与えられていない。反町監督が今年思い通りに選手を選べたのは、2次予選直前の熊本合宿と予選本番だけ。最終予選が始まる直前に中国・瀋陽で開かれた4カ国大会もオールスターなど国内日程との関係で呼べない選手も少なくなかった。

クラブ側には「U22代表でベンチ外になるようなら呼ばれないほうがいい」という声もある。所属先で中心を担い、出番をつかみかけている選手もいる。Jリーグで試合に出て経験を積むほうがいいという意見も多い。

「与えられた状況を生かす」。反町監督は我慢を重ねた。Jリーグだけでなく、大学の練習にまで足を運ビ、コーチと月に複数回の打ち合わせをして、チームの基盤を作った。

日本の力が突出しているわけではない。カタールとサウジの対戦成績は五分。反町監督も「今日のサウジを見れば、実力は同じか、相手が少し上だった」。五輪を世界に挑む貴重な強化の機会と考えるならば、予選に臨む態勢を充実させる覚悟と努力が必要だ。アジアのW杯出場枠4,5に対し、五輪は3という狭き門だ。

「もっとクラブと代表が緊密に連絡を取る必要がある」と柏の竹本GMは当たり前のことを指摘する。課題も残る予選だった。

アジアの出場枠は(3+1)

中国(開催国)、日本、豪州、韓国

39面

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北京だ 歓喜の青

2007年12月28日金曜日

初めてのテープカットだった

「ホテル1 2 3 相模原」の竣工レセプション



12月16日(日曜日、大安)、11:30。


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弊社が、相模原の北里大学病院前に進めていたバジェットホテルの竣工を祝って、関係諸氏をお招きしてレセプションを行ってきた。その祝宴に先だって行われたのが、テープカットでした。よく新聞やテレビ等で報道されているヤツです。テープにリボンが吊らされていて、そのリボンごとにカットする人間が配備されるのです。今回は、ホテルを直接運営する会社の取締役さん2人と、ホテルのオーナーである弊社の代表として私が行いました。ただ、それだけのことなんですけどね。カット役を任された人間にとって、なかなか気持ちのいいものでした。晴れ晴れとした気分でした。今までの私の人生、怒られたことはあっても、晴れ晴れしい状態に身を置かしてもらえるようなことはなかった。翌日、我社の定例会議で、なかなか気持ちがよかったです、よって、こんな気持ちのいいことはもっともっと味わいたいので、皆さんは頑張って企画をドンドン立てて欲しいと言いました。パイプカットじゃないよ、テープカットだよと念を押しました。



それから、祝宴が始まりました。ごちそうを鱈腹(たらふく)食べて、お酒をいっぱいいただきました。それから、ホテルを運営する会社の取締役さんが、祝辞と今後の事業展開、運営することに強いご決意を披露していただきました。私にもスピーチの機会をいただいたので、工事に関わっていただいた会社や現実に作業していただいた方々に感謝と慰労の挨拶をした。2番目のホテルとして、那覇でも準備中だということも披露させていただいた。そして、お酒とお料理でした。


嬉しい報告を当ホテルの現場の方々がしてくれました。予約状況がいいのです。年末年始の休暇を、患者さんと共に過ごすための予約ががっちり入っている。年明けには、大学受験のための宿泊予約がバッチリです。それ以外には、近隣の外食店舗やホームセンターへの商品の納入業者からの予約も思わぬ勢いで予約が入っている。開業前からこんなに予約が入れば、オーナーにとっても運営する会社にとっても、いいことだらけだ。


あの狭苦しい東横インに比べたら、我がホテルはエコノミーでゆったりしていて、敵なしだ。頑張って、3番目、4番目を早く企画したいと思っている。


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2007年12月27日木曜日

忘年会「銀河鉄道の夜」のご挨拶

12月27日。15:00から

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のお芝居鑑賞が、アーバンビルドの忘年会だ。参集してくださった方々にする挨拶の案文を作った。

挨拶文


本日は、アーバンビルドの忘年会によくぞお集まりくださいましてありがとうございました。横浜一元気な会社のアーバンビルドの山岡です。日ごろアーバンビルドの業務に、参加協力していただいて、社員一同感謝しています。皆さんのお力添えをいただいて、迷うことなく成長まっしぐらと行きたいものです、が、我々の業界は、今、すさまじく逆風が吹いています。ここにお集まりの皆さんは、厳しい状況にこそ本領を発揮される元気者ばかりだと思っています。日常業務のなかで、皆さんの表情から強い意志を感じ取っています。強い気魄も感じ取っております。

ところで、今年の忘年会は、全く私の独断で決めさていただきました。好き嫌いの問題じゃないんだね、と寛容にご理解ください。

40年前の学生時代、私と青島はこの場所の隣町の東伏見で4年間を過ごしました。当時の住居表示は、東京都北多摩郡保谷町東伏見でした。青島は、体力もあったし技術的にもなかなか優秀でしたが、この私ときたら、もうどうしょうもない状態だったのです。上手とか下手とかの問題ではなく、走れない、真っ直ぐ蹴れない、飛べない、木偶(でく)の坊でした。「山岡、お前、ケツに糞でもはさんでいるんか」とキングに言われました。どんな言葉で怒られても、絶対へこたれるヤワイ男ではありませんが、さすがにその時はへこたれました。そんな私でも何とかなりだした頃、知り合った牛島孝之さんというオジサンが、時々東京演劇アンサンブルの舞台稽古を見に連れて行ってくれたのが、この劇団との付き合いの始まりです。牛島さんは、誰が何と言おうが、立派な放送作家でした。が、当時牛島さんは苦しんでいました。非(避)社会人、嫌(倦)社会人、反(半)社会人と化していた。でも、私にとってはとっても重要な人だったのです。そんな牛島さんから、私はいろんなことを教えていただいたのです。大企業がもたらす公害、そんな会社にヘラヘラ追従する馬鹿ども。アメリカ帝国主義とそれにへつらう日本の為政者、大国の覇権主義、銭ゲバ、ベトナム戦争、沖縄返還、浅間山荘、成田闘争、税を無駄食う官僚の腐敗ぶり、スポーツのこと、二人のお喋りのネタにはこと欠かなかった。牛島さんは、話が途切れた時、ぽつ~んと話し出すのは、この劇団 東京演劇アンサンブルのことだったのです。とくに、代表者の一人である入江洋佑さんとの思い出話だった。

そして私は学校を卒業して、社会人になった。なぜか不動産屋の社長になった。

今から約15年程前のこと、バブルがはじけて日本は不況の嵐に荒れていた。アーバンビルドは大波に飲み込まれそうになりながらも、かろうじて生き残ったのですが、その長く続いた苦しい日々の、そんな日のひと時、YMCAの教会を借り切って、「銀河鉄道の夜」の朗読会を行ったことがあったのです。その時、本を読んでくれたのが、ツムなのです。今の名前は村野紡子さんです。ツムは、当時この劇団に所属していました。当劇団の代表者の入江洋祐さんの娘さんです。「皆が疲れているんだ、つかのま、なんとか皆を楽しませてくれ」、と私は彼女に懇願したのです。そして実現したのが、「銀河鉄道の夜」の朗読会だったのです。ツムに対しては、交通費しか払えなかったことを、今でも心苦しく思っている。会社は極貧の状態だったのです。その時に、アーバンビルドの軽便鉄道は、横浜の関内から銀河に向かって発車したのです。幻想四次元の空間へ旅立ったのです。軽便鉄道の車窓からは、狂乱地価に踊らされた者どもの阿鼻叫喚、倒産がドタバタ、自殺者が年に3万人、夜逃げ屋本舗大繁盛、大量の家族の崩壊と離散、高利貸しが跋扈しているのが見えるのですが、地上の現実とは裏腹に、銀河からは静かで平和で、楽園そのものに見えました。

そして今年の夏、ひょんなことでセゾン財団の高橋さんと東京演劇アンサンブルの志賀さんとお酒を飲む機会があって、「志賀さん、年末はどんなお芝居をやるのですか」とお尋ねすると、志賀さんは「銀河鉄道の夜」をやりますと仰った。即、その場で、私は忘年会はこれだ、と決意したのです。

走り出したときの軽便鉄道の運転手は私、機関士は中村専務、車掌は矢野女史だった。乗務員はこの3人だけだった。軽便鉄道は頼りなげに、でもしっかりと走り出すことができたのです。一番目の停車駅では、ジョバンニが、出川さんと桜庭と一緒に乗り込んできた。設計や建築が分かる会社になった。二番目の停車駅では、カムパネルラが、海老沢と和泉と一緒に乗り込んできた。販売強化、経理業務強化がなされた。三番目の停車駅では、ほろ酔いの小見が顔を真っ赤にして乗り込んできた。入社するやいなや、会社らしくするための大ナタを振った。高津も乗り込んできた。開口一番、業務拡大に寄与したい、だった。それから青島だ!!俺にも応援させろ、と威勢よく乗り込んできた。静岡地区の仕事は俺にまかせろ、ときかない。セロ弾きのゴーシュが、佐藤と浅見を連れて乗り込んできた。佐藤はキツネを抱いて、浅見はナメクジをポッケットに入れて。白い熊のような犬も、風の又三郎も乗り込んできた。ブドリも、豚も、熊も、オツベルも、象も、北守将軍までも乗り込んできた。注文の多い料理店で腕を磨いていた小澤も乗り込んできた。いきなり業績をあげた。伊藤梓郎が、ホテル事業を一緒にやろうよ~と叫びながら、烏の大群に囲まれて、走り出した軽便鉄道を追いかけてきた。小見が手を差し伸べて軽便鉄道に引っ張り込んだ。そして、ホテル事業を開始した。インディアンも乗り込んできた。

我々が乗り込んだ軽便鉄道は走り続けている。夜空に静かな汽笛を鳴らしながら。次の停車駅にも、次の停車駅にも、たくさんのスタッフが乗り込んできた。軽便鉄道は幻想四次元の世界を快調に走って行く。

三次元現実の、皆さんの会社や・アーバンビルドや・家族や・人間の愛や・歴史が、そんなものが、幻想四次元の世界においては、皆さんの会社の会社が・アーバンビルドのアーバンビルドが・家族の家族が・人間の愛の愛が・歴史の歴史が・そして生命の生命が燃えているのかもしれない、と。この表現は、長年ブレヒトの芝居小屋、東京演劇アンサンブルの屋台骨を支えてこられた演出家で脚本家の広渡常敏(タリさん)さんの表現を真似をさせていただきました。そして、もう少し真似させてもらえば、この幻想四次元の投影として、現実の世界があるらしいのだ、と。

どうか皆さん、宮沢賢治のファンタジーな世界を、幻想四次元の世界を楽しもうではありませんか。幻想四次元の投影として、現実があるらしい、のです。

2007年12月25日火曜日

浦和世界3位に祝福と?

浦和、世界第3位にお祝いと、報道に諫言一言



横浜総合競技場で16日開かれたサッカーのトヨタ・クラブワールドカップで、Jリーグの浦和レッズが「世界3位」の座を射止めた。3位決定戦でアフリカ代表のエトワール・サヘル(チュニジア)を下した。2-2で前後半終了、PK戦を制し3位をものにした。この試合を最後に浦和を離れ、母国ブラジルへ移籍するワシントンが2点を奪う活躍を見せた。ここまで、1回戦ではイランのセパハンに3-1で勝ち、2回戦(準決勝)では、イタリアのACミランに0-1で負けて、3位決定戦に駒を進めてきたのです。 ACミランは決勝戦において、ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)に4-2で優勝。欧州代表のクラブが優勝したのは初めてだ。 浦和レッズの対ACミラン戦の健闘振りについては、立派だと思う。また日本のサッカーがまだまだ上位に望みをつなげられることを見せてくれたことには感謝している。でも、じゃ。ここで、じゃ。私がここで言いたいのは、ACミランに負けたことを惜敗だと報道されていたことについてなのです。とんでもない力の差があることを、記者は表現しなければならないのに、たまたまスコアーが1点の差だからといって、目がくらんではいけない。浦和とACミランでは、まずは基本的なボールタッチが格段に違うのです。少し、サッカーをかじった者ならば、すぐに分かるものなんですが。それから、長身のプレーヤーが爆発的な加速で走る、球扱いも速く、正確。アイデアが多彩で、相手の能力を引き出す能力やゴールへの執念が格段に違うのです。鍛えられた体とボディバランスにはほれぼれとさせられた。何もかもが、こんなに違うのです。この違いの差はとてつもなく大きいのです。だから、その辺りを深く掘り下げた報道内容にして欲しかったのですが、残念ながらそのような記事はなかったが、浦和レッズの長谷部 誠が朝日新聞のスポーツ欄でいいこと言っているので、その記事を転載させていただいた。アスリートは謙虚だ。今後の活躍を期待したい。

私ごとだけれども、昭和47年、私が所属していた大学が4年生の時の大学選手権(インカレ)と関東大学選手権の2冠を制した。補欠ながら半分ぐらいは試合に出場させてもらった。いずれの祝勝会においても、私は先輩、同輩、後輩に必ず言い続けていたのです。「私のような者が試合に出て優勝するようでは、大学のレベルは低すぎる。だから、もっともっと、頑張っていい試合をできるように頑張ろう。お前ら、今後も命がけで頑張ろうや」っと。競技者は、いつも相手と自分等を分析、全体の理想のイメージをつかむことが大事なのだろう。



逆境から挑む〔朝日朝刊・スポーツ欄〕



浦和レッズ 長谷部 誠


ミラン戦 高いレベル、慣れてきた 16日に終わったクラブワールドカップの3位決定戦で、エトワール・サヘル(チュニジア)に勝ってシーズンを終われたのは大きかった。3位と4位とでは大きな違いだ。J1最終節で優勝を逃しただけに、大会にかける思いは強かった。悔しい思いをさせたサポーターにも、納得してもらいたかった。刺激になったのは、準決勝の欧州王者ACミラン(伊)との対戦だ。やはりすべてにおいてレベルが高かった。守備ではプレスのかけ方、位置取りが良く、こちらのパスのスピードが遅いと、すぐにカットされた。攻撃でも一人ひとりが強く、うまい。驚いたのはブラジル代表のMFカカだ。よくプレースタイルが似ていると言われるが、じかにピッチで見ると、これまで見た選手とレベルが違った。浦和で一番背が高いFWワシントンと並んでも変わらないくらい大きい(身長186センチ)のに、ものすごいスピードでDFがぶちぬかれた。ドリブルの際、球をとられないためのボールの置き方、体の使い方は参考になった。ただ、我々も守備はある程度通じていたと思う。球を持った相手に対しても、数人で組織的に守ればチャンスは与えなかった。攻撃でも、ゴール前の精度は欠いたものの、速攻から好機を作った。最初から飛ばしたので、最後の方は体力が残っていなかったが。改めて感じたのは、強いチームとでもやっていくうちに、そのレベルに慣れて順応していくということだ。力の差は大きいと思うが、何回か戦えば、ミランにだって勝てないことはない。試合後、ミランの選手とユニホームを交換しなかった。もともとそういうことにはあまり興味がない。相手をリスペクト(尊敬)しているが、同じピッチで戦っている同じ選手なんだ、という思いがあるからだ。

2007年12月23日日曜日

グエン・ベトさんが亡くなった。

私が子供から大人になりかけた頃、ベトナムでは猛烈な戦争が行われていた。1965年(私が高校2年生だった)頃に米軍は北爆を開始した。戦争は拡大の一途、私は多感な高校生でした。

グエン・ベトさんが、10月6日に26歳で亡くなったことを報じる新聞記事を見つけた。ベトさんとドクさんは、下半身がつながった結合双生児として生まれた。彼たちが生まれた状態の仔細な報道を聞いた時、世界はその異常さに度肝を脱がされた。日本では、ベトちゃんドクちゃんとして親しまれた。2人はベトナム戦争時にアメリカ軍が大量に散布した枯れ葉剤の影響が出たと言われている。

米軍は、抵抗するベトコンのゲリラ戦に手を焼き、方法手段を選ばず、人道上大いに問題あることを平気でやっていたことになる。

そして、べトナム戦争が始まって米軍が敗退するまで、私は何を考えながら青春を過ごしていたのかを、戦争の経過と合わせて回想してみた、が断念ながら、途中までで終わりました。

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朝日朝刊

枯れ葉剤被害のベトナム双生児の兄  耐え続け無言の伝言残す

グエン・ベトさんが亡くなった。  (山本大輔

今まで見たことがないくらい安らかで、きれいな顔だった。ベトナム戦争中に米軍がまいた枯れ葉剤の影響とみられる結合双生児だった双子の弟・ドクさんとの分離手術から19年、脳症の後遺症で一言も話すことなくホーチミン市内の病院のベッドで生き続けた。「最後の最後にやっと苦しみから解き放たれた安心感が表情に出たのだろう。よく頑張った」とグエン・フォ・タン主治医(48)は語った。 ベトナム中部高原の村でドクさんと下半身の一部がつながった状態で生まれた。母親のラム・ティ・フェさん(54)終戦直後に枯れ葉剤がまかれた地域で農業をしていた。枯葉剤は土壌を汚染し、人体を侵す。双子も犠牲となった。脳症になる前は言葉も会話も問題なかった。大胆で積極的なドクさんとは対照的に物静かでおとなしい性格だった。ドクさんが好んだ歌謡曲風のリズムよりクラシックのような音楽が好きだった。「口げんかばかりだった。『おれの方が強い』と言うドクに、いつも負かされ感情的になっていた」とフエさん。一つの体を共用する対極的な存在だった。5歳の夏の86年、急性脳症で意識不明の重体に陥る。2人を切り離した88年10月の分離手術でも意識は戻らなかった。みなが「数日の命」と言った。以来、肺炎や出血、腎臓障害などを併発しながらも苦しみに耐え続けてきた人生だった。それでも確かなメッセージを残して旅立った。「多くの人がベトを見て感じたことが、ベトからの無言の伝言」と支援者でホーチミン市在住の日本語教師・富山悦子さんは考える。「一番変わったのは弟だ。枯れ葉剤被害について多くの人たちに発信したい。人前で話すのが苦手なドクさんが富山さんに語った言葉だ。「ベトは自分を犠牲にして僕を生かしてくれた。これから僕は彼の人生も生きる」。一度は離ればなれになった双子が再び一つになった。

*こんな記事を読むうちに、青春時代のあの頃の自分のことが甦ってきたのです。

ベトちゃんドクちゃんが結合したままの二人の写真が、新聞に掲載された。私の長女が4歳、長男が2歳で、妻は次女を妊娠中だったように思います。子供を持つ親になりたての頃です。子の出生を何とか無事にと、一度でも祈ったことのある者には、非常にショッキングなできごとでした。二人の両親の心境に思いを馳せた。

私の記憶が風化しないように。

ベトナム戦争に対する、私の反戦への思いが高まっていった。

そんな経緯をたどってみた。

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私が中学1年生の頃、南ベトナム政府に対する反政府軍が、北ベトナムの支援を受けて、南ベトナム解放民族戦線が結成された。この部隊のことを通称ベトコンと言われていた。その頃、 私はベトコンを馬鹿にしていた。世間にそんな風潮があった。何もわからないままに、体に木の葉っぱをつけて動くさまが、子供心に可笑しかったのだろう。ベトコンの真似をして、皆を笑わせてもいた。ベトコンという呼称は蔑称のような取り扱いだった。きっと、たまたま見たテレビで、面白可笑しく取り扱ったものがあったのだろう、私は誤解したようです。ベトナムは、これから、長く、苦しい、悲しい本格的戦争に突入していくのです。アメリカの大統領はケネディ、南ベトナムの大統領はグエン・カオ・キ、北ベトナムの首相はホー・チ・ミン。

大学に行きたいと思っていたのに、どこにも入学の夢はかなわなかった。そして身分は素浪人。勉強だけで一日を過ごすことのできない私は、気分転換も兼ねて学費稼ぎのドカタ稼業に身を置いた。社会の底辺で働くことで、社会の矛盾や世の中の不合理なことに鋭敏に反応するようになっていた。大人の世界に飛び込んで、大人の会話を耳にした。労働の面白さと大変さと大切さ。請負という形式から得る労働の対価としての日当、発注者と請負者、下請け、孫請け、その下請け、そんな構造に興味が湧いた。

大会社の発注者がいて、下請けの下請けの下請けの親方がいて、末端の我々がいる社会の仕組みを知った。そうして、私こそ真の労働者だと、反ブルジョア的人間に傾きかけていったのです。正直者の私は、 常に原理主義者?でいたかった。私は、ますます過激な思念に傾いていったようです。

早く大学に入りたい。あんなベ平連なんかには、任せてなんかおけないやんけえ(関西弁です)。北爆が始まった。爆撃は、北の産業基地や中国やソ連からの供給物資を運ぶ通称〈ホー・チ・ミン・ルート〉と言われている軍事ルートだけでなく、人口の集中している地域までおよんだ。テレビの画面を両手で覆った。雨のように、ナパーム弾が降下された。ジュウタン爆撃というヤツだ。

当時、何故こんなことになってしまったのか、誰も教えてくれなかった。首相の佐藤栄作はアメリカに理解を示し、社会党と共産党は反対していた。自民党が何故アメリカに理解を示し、社会党等は何故反対しているのかを、友達の間でも話したこともなかった。戦争に正義なんてないことを、そんな年齢の私でさえ、解っていたのに。日本にある米軍基地は、戦場への補給基地として重要な位置を占めていた。沖縄の嘉手納基地からは、爆弾を積んだB52が直接ベトナムへバンバン飛んだ。

ずうっと後のことだけれど、アメリカが仕掛けた最悪のベトナム戦争を、世界のほとんどの国が反対するなか、支持し続けた元首相の佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した。どうなっちゃってるの? ノーベル賞の選考委員会はどうしたのだろう。佐藤栄作贔屓の人でさえ、ビックリこいたのではないでしょうか。

世界の各地で反体制運動が起こっていた。私もまた過激な反戦、反米に傾いていく。俺は素浪人のままで、こんな所で、こんな事をしていて、ええのか。どうなんじゃ。ドカタをしている場合ではないぞ。あせっていた。勉強にはもともと力は入ってはいなかったが、学校には早く入りたかった。

1967年、昭和42年、浪人1年目、東京都に革新の美濃部知事が誕生。京都は長年革新の蜷川知事だった。

南ベトナム全土で解放勢力が猛烈な攻撃をかけてきた。〈テト攻勢〉である。南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム政府軍はテト(旧正月)のお祭り騒ぎに乗じて一斉攻撃を開始した。 南ベトナム軍とアメリカ軍は、完全に理性を失いかけていた。なりふり構わぬ、あせりだ。ヤケクソになりかけているようにも思われた。

1968年、世界の各地で反体制運動がピークをむかえた。政治・経済・社会・文化の改革を求める市民が権力への対決姿勢をあらわにする。面白くなってきたぞ、と喜んでいた。各地の反体制運動には多種多様なイデオロギーを掲げていたが、いずれもブルジョア的価値観をことごとく拒絶した。私も、この世界のうねりにピタット共鳴していくのです。自ら、過激な行動の模索に入っていく。反戦の内容のフォークソング集会があっちこっちで開かれていた。歌なんか歌っても、しょうがないのではないか。

後に、1968年(昭和43年、浪人2年目)に起こったコロンビア大学の学園闘争を題材にした映画「いちご白書」が作られた。好奇心と彼女への恋心から学生運動に身を投じたボート部の学生と活動家の女子大学生の恋愛を描いた。最後は、当局の一斉検挙が実行されて、終幕を迎える。後に、この映画を観た。終幕の悔しい思いよりも、彼女との恋愛に悩む学生が羨ましかったことの方が、頭に残った。

1969年、アメリカの大統領は、リチャード・ニクソンが就任した。昭和44年のことです。私は念願の学校に入学することができた。何を、どうすればいいのか、漠然としていたけれども、野心に燃えていた。夜行列車を乗り継いで、キセルを繰り返しながら、東京に着いた。2年間のドカタ暮らしで、筋肉隆隆、精神力は十二分に鍛えられていた。学力以外は、何も恐い物なし、だ。私には、並みの学生とは違うのだぞと強い自負心があった。ドカタで稼いだ金がある。2年半の授業料と生活費は十分貯えてある。2年半後は、その時考えればいい、なんとかなる。

反戦フォークソングを歌っていても、しょうがいのではないか。ベ平連なんか、屁(へ)みたいなもんじゃないか。

各大学の学園紛争の影響で、日々私は刺激を受けっぱなしだった。ベトナム戦争の泥沼化のなかで、私はこれからの学生生活に向かって力んでいた。精神が昂揚していた。何か、やり遂げないと気がすまないぞ。一発、やってこましたるぞ。世の中の誰よりも平和で民主的な国家、国づくりを望む、過激な学生になってやる。いい男になってみせるぞ。お母さんからは、警察に捕まるようなことだけはしないでくれ、と言われて田舎から出てきた。警察に捕まって、田舎で頑張っているお兄さんの顔に泥を塗るようなことだけはしないでくれ。それ以外なら、なにをしてもいい。金持ちにならなくてもいい。エラクならなくてもいい。

東大安田講堂が陥落。

40万人が集まったウッドストック。

ベトナムで北爆が強化。

新宿駅地下西口広場で反戦フォーク集会で若者と機動隊が衝突。

私の入学した学校は、入学して3ヶ月もしないうちに、授業は開かれないままクラス討論会を繰り返した。そしてクラス討論会の後は、校庭をデモしてまわった。私に急接近してきた友人の影響もあって、クラス単位で参加するデモには必ず参加した。頭の中では、こんなことをしているだけでは、授業料も安くならないだろうし、学生会館の使用についても学生が自主的に使えるようにはならないだろうなあ、と疑いながらデモってた。

学生会館の自主的運営一つ獲得できないようでは、真の学生自治なんてありえないではないか。脳足りんの馬鹿学生集団になっちゃうよ。そして日本国の将来、独立独歩の行く末を論じる学生なんて生まれっこないぞ。やっぱりアメリカの属国っか。そのうちにストライキ突入、ロックアウトで学校敷地はバリケードで囲われ、誰も入れないように封鎖された。バリケードの外周りをデモった。

1970年(昭和45年)3月、大学1年生の時。よど号ハイジャック事件。日本航空ボーイング727型機が羽田空港から福岡空港にむけて飛び立った。富士山上空あたりでハイジャックされた。平壌空港に着陸した。

11月、作家の三島由紀夫が、自ら主宰する〈盾の会〉の会員4人とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自衛隊員にむかって決起を呼びかけた。その時、私は東伏見の隣駅の柳沢で、ダンボール箱をつくる会社でアルバイトをしていた。三島由紀夫は、憲法改正による自衛隊の国軍化、天皇を中心とする日本古来の伝統の擁護を訴えた。私には、滑稽にしか見えなかった。三島は割腹自殺した。三島の行動には、さすがにおったたまげた。三島の本をむさぼり読んだが、いまいちピ~ンとこなかった。でも、精神の空白化とか、政治の退廃について命がけで問題を提起したことには、感動した。三島の原理主義に嫉妬した。

新宿駅騒乱。大学1年だったか、2年だったか、新宿駅に学生デモが突入して、線路の敷石を機動隊に投石した。私は、その日昼間はサッカー部として練習して、学校でクラス会をすることになっていたので夕方学校の近くの喫茶店にいた。そこに集まった友人の一人は異常に興奮していた。彼はそのデモに参加することにしていたようだったのだ。そのデモで、逮捕されたことを2年後に友人から知らされた。クラス会を終えて高田馬場駅に着いた時には、新宿駅が大騒乱の状態だということを知った。高田馬場から歩いて新宿駅に向かった。そこで目にしたのは、恐怖だった。けが人が救急車で運ばれる。学生と機動隊のがなりたてるマイクの音。サーチライトが狂ったようにあっちこっちを照射する。何から発生しているのか不気味な鈍い音、突然に轟音が聞こえる。催涙弾の臭いがする、煙が見える。商店街はシャッターを下ろし、店主らしい人が心配そうに様子をうかがっていた。佐藤栄作の渡米反対、ベトナム戦争反対がスローガンだったと思う。

私は、ヤジウマのなかで一人、疎外感に苛(さいな)まれた。何にも参加できない弧独と焦燥。傍観者に過ぎないわが身を恥じた。

こんな筈じゃなかった。田舎にいる時は、俺こそ過激な反戦の騎士になってみせると張り切っていたではないか。、この怯(ひる)み様はどうしたのだ?お前は、ただのフヌケじゃないのか。

でも、これって本当に革命をめざしてのことなの?

深夜、西武線の終電のあと、一人で線路の上を東伏見まで歩いて帰った。空(むな)しかった。3時間ほどかかったのかな。東伏見に着いたときには、空がうっすら白みかけていた。明日も、サッカーの練習が待っている。寮には、こっそり入らなければ、大変なことになる。明日のために早く寝なければならない。翌日、同輩たちが「昨日は、新宿、大変やったな」、と話し合っているのが聞こえた。私は知らん振りをしておいた。

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1972年(昭和47年)2月、大学3年生の時。浅間山荘事件。武装して逃亡していた連合赤軍の5人がヤマハの保養所に逃げ込み、管理人の妻を人質にたてこもった。サッカー部の寮のテレビで釘づけになった。革命?を目指していた? 革命ってなんだったんだ。

文章は途中だけれども、公開することにしました。 07 12 22

2007年12月18日火曜日

ヒマラヤ・ムスタン 頑張る日本の老人

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記事を読んで、余りに驚かされてしまった。コンドーのじい様のことが頭から抜けない。頭がさがったまま上がらない。朝日朝刊の記事を転載させていただいた。 こういう記事は保存して置かなくてはイカンと思うのです。コンドーじい様の活躍とヒマラヤの彼方を想像しながら転載した。同じ日本人として、嬉しいですなんて言ったら、叱られるだろうか。このじい様は超えているわあ。

秘境 稲実る

荒地開墾16年 山村発展に貢献  ヒマラヤ・ムスタンの近藤亨さん(86)

標高3千~4千メートルのヒマラヤ奥地・ムスタンで86歳の日本人男性、近藤亨さんが稲作に成功、果樹や野菜、酪農など一大農場を作り上げた。寒冷と乾燥の荒地に、16年前に70歳単身で乗り込み、開墾から始めた。ニジマスの養殖、病院や学校の建設も手がけ、辺境の地の発展に貢献していた。

近藤さんは新潟県園芸試験場研究員を務めた後、国際協力機構の果樹専門家として76年にネパールへ赴き、ブドウ栽培など14年にわたり指導した。90年、退職の慰労金で「ヒマラヤ山村農民のために生命ある限り微力をささげたい」と切り出した。故郷・新潟の土地と家を売り、単身、91年にムスタンに渡った。

ムスタンは8千メートル峰に囲まれ、雨は極端に少なく乾燥し、真冬は零下35度にもなる。約300人のガミ村は砂利と岩のやせた土地。60~70人の働き手と、牛のふんやわらで作った肥料を与え、川から水をひいた。ソバや麦しか作れなかった村に200ヘクタールもの野菜畑やリンゴ園が広がった。

最も難しかったのは稲作。思いついたのは石垣ハウス。石を厚さ60センチに積み上げ、泥ですき間を埋めて風を防ぐ。縦1メートル、横2メートルの透明なパネルを敷き詰めて覆い、昼間の太陽の熱を蓄えた。穂ばらみ期に室温15度以上保つようにして4年目、初めて黄金の穂が実った。

シャン、テニ、ガミの三つの村の農場は約250ヘクタールになった。酪農、ニジマスやコイの養殖場のほか、病院と17の学校も造った。冬は仕事がなく、暖かい町へ出稼ぎに行かなければならなかった村人たちが今、春に向けてリンゴやブドウの枝切りに追われている。

「コンドーのじい様!」。すれ違う村人たちの声に、近藤さんは馬の背から真っ白な長いひげをたくわえた笑顔で返していた。

(ムスタン〈ネパール北部〉=中山由美)

2007年12月13日木曜日

丹沢大山から七沢温泉

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12月5日、丹沢大山を登ってきた。

朝8時、オジサン4人組は小田急線秦野駅に集合した。

今回のメンバーは私、平塚駅前の副田さん、成瀬駅前の佐藤さん、我社の社員の父親の小澤さんの4人でした。4人は、神奈川県不動産のれん会のメンバーです。小澤さんだけは、若くしてのれん会OBで、現役のビジネスマンではありません。それぞれ、偽名を使わせていただいた。佐藤さんの本名は、柔くて軟いイメージを膨らませていただければ、自ずから会社の名前は浮かんでくる。副田さんのことは、平塚駅界隈の商店街を仕事場にしているオジサンで、お話をキチンキチンと丁寧に話される、賢い人です。私は尊敬しています。

秦野駅からバスで蓑毛を過ぎて、ヤビツ峠で下車、所要時間25分。蓑毛から歩き出す人の方が多いのだが、我々は今回はゆっくりぶらぶらを優先させたので、ここで降りずにヤビツ峠まで乗った。常に無理をしないグループです。軟弱かも。

9:30 しばしの体操の後、ヤビツ峠を後に大山山頂を目指して歩き出す。

大山は、標高1252メートル。紅葉の見ごろ2週間か10日遅れの観賞ということになったが、それでもじゅうぶんオジサン4人組を楽しませてくれた。おぅオ~と立ち止まることしばしば。陽射しを真正面に受けたモミジの鮮やかな紅色、イチョウの黄色、雑木類の黄色から赤色、橙色が、杉林の濃緑色とコントラストをなす。絵画的だ。木漏れ日に照らされたモミジがあたかも照明を浴びたステージ上の女優さんのようだ。どきっとするほど、艶(あで)やかだ。山系は伊勢原、秦野、厚木の三市にまたがって裾野を広げている。一帯の丹沢山系をまとめて県立丹沢大山自然公園の指定を受けているのですが、その中心地域を丹沢大山国定公園に指定されているのです。かって江戸時代には、大山詣は江ノ島詣とセットで庶民の娯楽の一つだった。また山岳信仰のメッカとして、登山は「大山講」と呼ばれた。古くは、大山のことを雨降山といわれ、関八州の雨乞いの霊場でもあった。丹沢山系から流れる良質の水を利用しての豆腐作りと、民芸品の「独楽(こま)」作りが有名だ。山岳信仰と豆腐は、高野山も京都も同じだ。

霜柱があちこちにできていた。登って行くと、前日か前前日に雪が少し降ったようで、陽の射さない斜面などには、うっすらと白の薄化粧。初い初いしくて、なんだか恥ずかしく感じるのは、俺だけ?。今は初冬なのだと、実感した。振り返ると、富士山は裾野まで白装束だ。さすが、富士山は日本一美しい。ぎょっとするほどみずみずしい。富士山は、毎年冬を迎える度に、若さを取り戻すのだろうか。山容はゆったりとなだらかだ。

中年女性のハイカーが我がチームを追いつき追い越していく。逆からもやってくる。女性の元気なのは、日本がケッコウな状態だってことだろうか。女性は世の中のリトマス試験紙だ。男は、見栄をはったり、目先の金に目がくらんだりするが、女性はきっちり世の中の動向を見ている。まだ、女性が怒り出すほどまでには悪化していないってことなのだろう。振り返り、振り返り富士山を眺めながらの登り坂でした。太宰さんによると、井伏鱒二さんは、愛敬よく放屁をなされたらしいが、私も負けずに富士山に向かって小用と放屁をかまさせていただいた。

歩いてる最中は、以前に登った山と温泉の思い出話、気にしている健康問題、日々の食事のこと、旅行に行ってきたこと、これから行く旅行の話、家族のこと、仕事の悩み事、友人、仕事仲間のこと、出身学校の事情などを誰はばかることなく大きな声で話し合うのです。佐藤さんは、兄弟間の確執に熱がこもる。息が荒くなるときもある。山気のこもった空気を、肺胞奥深くまで吸い込む。山の「精」がいっぱい含まれていて、栄養満点のような気がする。この山の空気が、俺を蘇らせてくれたのだ、と常々こぼす副田さん。それに、俺は15年前は、もう死んだも同然の状態だったのですよ、と。昨日はテニスを5時間もプレーしたとおっしゃる小澤さん。

ゆっくり、ゆっくり歩いた。今回は、佐藤さんが隊長の山登りクラブの忘年会なのです。

大山山頂には11:00ころ到着した。

山頂は視界360度。体を一回転して眺望を楽しんだ。気温は5度ぐらい。空気は澄んでいる。北には筑波山、南は真鶴、東は東京から横浜、西は富士吉田。山頂にある全方位の案内盤は、ずいぶん前に設置された物なのだろう、富士吉田市、東京市になっていた。三浦半島、真鶴半島、東京新宿のビル群、横浜のランドマークタワーがはっきりと見えた。山頂には、阿夫利神社があった。

昼飯を摂った。佐藤さんが自宅の庭で採れた柿を広げてみんなに勧めてくれた。私は大の柿好きなんですよ、と言うか言わないうちにパクパク口にしてしまった。秦野駅売店で買ってきたバナナを3本食った。30分ほど休憩、談話してから下った。

下りは、下りの坂ばっかりでした。富士山が山で隠れて見えなくなった。道は単純な下り坂で、楽しみは紅葉だけ。でも、紅葉は見ごたえがあった。飽きたころにモミジがイチョウが、目を楽しませてくれる。学生時代に膝を痛めていて、下り坂が続くとダメージが増してきて歩き方もヘンチョコリンになるのです。これはどうしょうもないサッカーの後遺症です。退屈な杉林の間をお喋りしながら歩いた。お喋りには、いつも花が咲くのが我がチームの特徴です。

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15:00 広沢寺温泉の玉翠楼に着いた。宿泊するお宿だ。売り物は「元祖シシ鍋」。七沢温泉の一番奥の一軒宿だ。昭和の初期に建てられたそうです。宿の内外にはイノシシの剥製から、イノシシのおもちゃ、イノシシに関するものが展示されていて、何もかもイノシシづくしだ。70歳代と思われる老夫婦とその息子夫婦でやりくりしているようでした。露天風呂に入る。ここの湯は、強アルカリ性だそうです。宿のパンフレットには、美人の湯だとか子宝の湯だとか言われているが、それってどういう意味? そして、シシ鍋に舌鼓(したつづみ)を打った。酒は地酒、黄金井酒造の「盛升(もります)」。口当たりがよく、私にとっては珍しく冷でぐいぐい飲んだ。美味かった。温泉で癒された、疲れた体には快く沁み込んだ。

酒宴での主たるテーマは自分たちの子供のことだった。どの家庭にも、子育てにおいてはイロイロありそうだ。私は元気者だった娘のことを話した。今から振り返ってみると、手を煩わせられたことはすっかり忘却の果て、俺も若かったなあ、と寧ろなつかしい思いがする。不思議だ。今は子供を育てながら介護の仕事に精を出している娘だからこそ、こんなに暢気でいられるのだろう。幸せじゃ。

シシ鍋をたらふくいただいた。酒が頭の天辺から手足の指の先っちょまで行き渡ったところでお開きにして、私はバタンキュっと床についた。先輩たちは惜しげもなく、温泉に入り、湯を楽しまれたとのこと。

翌日(12月6日)は宿泊料の精算を済まし、9:00に宿を出て、日向薬師に向かった。戻ってきたらもう一度温泉に入りたいと言ったら、通常1000円の入湯料が500円になる割引券をいただいた。熊が出るので、何か音の出るのをお持ちですか?と女将から聞かれたのですが、本気なのか冗談なのかはかりきれずにとぼけていると、女将さん、ますます真剣に聞いてくる。この真剣さはなんだ。そんな面倒くさいことは嫌なので、とぼけ切るつもりだったのです、が女将はしつこかった。しばらくしてから、「持ってないなら、ラジオを貸すからこれを持って行きなさい」、命令口調だった。「はい、ラジオは私が担当します」と言って、腰にぶら下げた。15:00には戻ってきまあ~す。昨日よりも暖かかった。そのかわり遠方までは眺められなかった。やはりツキノワグマやシカの糞と思われるのが、あっちこっちで目にした。最近はヤマビルがシカに付着して、シカの広範囲な行動にともなって広がっている。地面に直接足や尻を着けないように注意された。

日向薬師に11:00到着。

日向薬師は、案内書によると日向山霊山寺と言われ元正天皇716年に行基が開創した。眼病には特に霊験あらたかといわれている。日本三薬師と言われているそうです。他の二薬師はどこなんだろう?後日の調査に委ねるとするか。昔、罪人の駆け込み寺といわれた浄発願寺、天武元年(672年)壬申の乱で破れ、近江で自刃したが、実はここに逃れ没したとも伝えられている(伝)大友皇子之稜、石雲寺をめぐって、日向薬師の下の梅林で、宿で作ってもらったおにぎり弁当を食った。学校でならった、あの有名な壬申の乱の主役の大友皇子さんだ。相手方は、確か大海人皇子さんだ。憶えていたことに感動した。石雲寺で漁鼓(ぎょく)を叩いた。そして大田道灌日向薬師ののみち(現在は、関東ふれあいの道)を通って、七沢温泉の玉翠楼に戻った。途中には、熊が出ますよ、気をつけてくださいの看板がやけに目立ちました。先日、ほんの1ヶ月ほど前に、自転車の子供を熊が追っかけたのですよ、と地元の人が言っていた。ロッククラミイングの練習をする崖もあった。

宿に戻って温泉に入って、ビールを飲んだ。

宿の息子さんに途中のバス停まで送ってもらい、そこから本厚木まで出た。そこで、ビールと日本酒の燗を3本ほどいただいて帰途につきました。

土産は五穀米でした。何故かって?お土産は、実用品優先です。

2007年12月12日水曜日

オシム流を生かしつつ

2007 12 11 朝日朝刊 社説

岡田新監督 オシム流を生かしつつ

サッカーの日本代表監督に岡田武史氏が復帰した。イビチャ・オシム前監督が病に倒れ、緊急の交代である。新監督を語る前に、前監督のことを振り返る必要があるだろう。

オシム氏が就任したのは昨年の7月。分裂前のユーゴスラビアの監督としてワールドカップ(W杯)で8強入りし、来日後は市原(現千葉)を率い、Jリーグの主要タイトルであるナビスコ杯に優勝した。立派な実績だが、何より新鮮だったのは、サッカーを題材に語る言葉の強さとテーマの多様性だった。

たとえば日本社会の分析。「今の日本人が勤勉かどうか疑問だ。非常に高い生活水準を保っているが、それは先代が作ってきた水準を今の人々が享受しているだけなのではないか」

日本人の特性はこうだ。「伝統的に責任を他人に投げてしまう。工場ならそれでも機能するかもしれない。サッカーではそれは通らない。上司も労働者も全員が一緒にいるのだから」(いずれも「日本人よ!」新潮社)

ボスニア紛争を体験し、指導者として欧州を渡り歩いた経験に加え、歴史や社会環境をふまえた視点には、どきっとするものが少なくなかった。

それを土台に掲げたのが「日本代表のサッカーを日本化する」という言葉だった。体格が違うのに、欧州や南米のサッカー大国で成功したスタイルを模倣してもだめだ。自らを見つめ直し、機動性や流動性といった特徴を生かしたサッカーを創造しよう。そこに道は開かれる。

その訴えはファンの心に響いた。志半ばで任を離れるのはさぞ無念だろう。

岡田監督はチームを途中から引き受ける。まずはW杯への出場権獲得が使命となる。重圧は容易に想像できる。

「やると決めたのは理屈ではない。横を見たら断崖絶壁で、これにチャレンジしなければいけないという気持ちになった」と就任の記者会見で話した。淡々とした表情のなかに、武者震いが出そうな思いが伝わってきた。

岡田氏が歩んできた道のりにも、山谷があった。10年前の就任は、W杯最終予選の遠征先で前任者が成績不振を理由に解任されたのを引き継いでだった。

監督経験はなかったものの、チームを立て直してW杯初出場を果たした。大会直前、スターだった三浦知良選手をチームから外した決断は大きな波紋を呼んだが、判断がぶれることはなかった。

W杯は1次リーグ3連敗で敗退。退任会見では「この10ヶ月で10年分ぐらい生きたような」と打ち明けた。その体験は本人だけでなく、日本サッカーの貴重な財産だ。それを生かしたい。

新監督はオシムが残したものを大事にしながらも、それにとらわれることはない。「日本人らしさを生かす」という考え方は同じでも、それを実現する方法論はたくさんあっていい。

危機は常に次の成長への好機である。

2007年12月11日火曜日

星野ジャパンに白(しら)ける!!

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野球の北京五輪予選を兼ねたアジア選手権は12月3日、台湾の州際棒球場で4チームによる決勝リーグの最終日があり、星野仙一監督率いる日本は台湾を10-で破り1位が確定して、来夏の北京五輪出場を決めた。

12月4日の新聞は賑やかに祝福の記事に溢れていた。テレビも、その後の週刊誌による報道も何故、そこまでやるの?どうして、そんなにすごいことなの?と、私は思っていたし、今も思っている。12月3日発売の週刊現代、12月9日発売の週刊アエラを読んだ。星野監督も立派な人だ。オーラを感じさせる監督だ。コーチの田淵さんも山本さんも立派な人だ。選手一人ひとり、どの選手も並はずれた実力のある選手だということも理解しています。そのなかでも、主将を務めた宮本慎也(37)のことは朝日新聞で4日朝刊2面「ひと」のコーナーでとりあげているので、最後のところで、転記して紹介したい。

そんな祝福? お褒め? 一辺倒! 過熱気味の報道を目にしたり、聞いたり、読んだりするたびに、私は一方的に白けていくのです。白け鳥が私の周りを飛び交うのです。星野ジャパンが北京五輪に出場できることになったのが、そんなにめでたいことなのだろうか。私は、お祝い気分にどうしてもなれない。一人そうっとフテ寝でもするしかないのか。

私はスポーツ狂、スポーツ耽溺派を自ら任じている。どんなスポーツにも関心があり、アスリートの日々の厳しい練習に思いを馳せるとき、わが身のダラシナサと比べて、えもいわれぬほど尊敬するのです。スポーツのなかでも、とりわけサッカーに関しては、プレヤーだったこともあって、日本サッカーリーグから、今のJリーグまでその隅々までチェックを怠りない、真面目なサッカーファンです。

この我が白け鳥心境は、何だろうか?何に起因しているのか? 女房に聞いてみたのです。私だけが偏見に満ちているのなら、即、この気分は訂正しなくちゃいかんわい。「星野ジャパンが北京五輪に出場できるようになって、みんなが騒いでいるんやけど、俺の気分は盛り上がるどころか、どんどん白けていくんだけど、お前はどう思う?」

女房曰く、「新鮮味がないから、そう思うんじゃないの」と、きた。新鮮味がないというのは、これはちょっと失礼な話やぞ、とは思ったのですが、それも一部にはあるなあ、と半ば納得した。が、それでは論評にはならないではないか。俺のこの勢いはどうすりゃいいんだ。

かってどのオリンピックだか忘れたのですが、バスケットにおいてアメリカがドリームチームとかいってプロで活躍しているスーパースターを集めて参加したことがあった。その時も、私は白けた。

「星野ジャパンが、新鮮ではないから白けるのよ」だけでは、無理があるのはよくよく理解しているのですが。白け気分はぬぐいきれない。

アジア予選決勝リーグにおける日本の成績は  

対韓国 〇4-3  対台湾〇10-2 対フィリピン〇10-0 の3勝0敗

今回は、無益な騒乱を避けて、私だけの「理由なき白け」、ということにしておきましょ。

追記=サッカーのようにU-22で編成したチームの大会にしたらどうだろう。検討してみて欲しい。長島さん、王さん、グレイト・ナベツネさん、野球を愛する全ての人に提言したい。オリンピックの醍醐味は若人に味わってもらって、年俸何億?というプレーヤーは、ワールド・クラシック・リーグで真の世界チャンピオンを競えばいいのではないのか。

宮本慎也さん(37)

仲間の手で3度、宙を舞った。「嫌なことも、だいぶ言ったのに。みんな素直だね」。五輪切符を手にし、前日まで見せなかった吹っ切れた笑顔が浮かんだ。アテネ五輪に続く2大会連続の主将。星野監督から、コーチ的役割も求められ「こんな難しいこと、監督がやってくれればいいのに」とこぼしたこともある。

最年少のダルビッシュ(日本ハム)らとは16歳差。若手に話しかけ、食事に誘う。ヤクルトでつける背番号「6」を譲ったのも「自分がそうすれば、みんながやりやすいはず」の思いから。今では自分が練習中にミスをすると、若手から「慎也さん、もう一丁」と声がかかる。攻撃時に一塁コーチに立ち、ベンチでは内野守備の指示を出す。打撃投手も務め、相手のデータは投手用の分まで頭にたたきこんだ。大会中、緩慢なプレーに「執着心が足りない」と雷も落とした。「体調?関係ないよ、コーチだから」と軽口を飛ばすが、早出をして選手としての準備も怠りない。星野監督は言う。「コーチ5人分くらいの仕事をやってくれる。あいつが今年打率2割2分とか3分だったとしても、おれは選んだよ」

次は金メダル、の声に「勘弁して、今はホッとしているのに」と返した。だが以前、漏らしたことがある。「来年は辞退したいって言っても偉そうなことを言ってるから~。許してくれないだろうなあ」。北京でも、この男が中心にいる。(文・松元 章)

2007年12月2日日曜日

ケネディが凶弾に倒れた日

ケネディ暗殺 きょう44年(11月22日)

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1963年11月22日。オープンカーに乗った米第35代大統領ジョン・フイッツジェラルド・ケネディが凶弾に倒れた。ケネディが命を落とした瞬間、自分がどこで何をしていたか、米国人の誰もが覚えているという。私もその一人だ。私もはっきり、その日のことを覚えているので書いてみた。

せっかくだから、その時分の前後1年間の私の生活の一部を振り返りながら。

私、15歳、京都府立城南高校1年生。学校ではサッカー部。美女は生まれるのですが、天才、秀才は絶対生まれない高校で有名だった。サッカー部といっても、毎日の練習には10人も集まらない人気のないクラブだったのです。試合の日にはなんとか11人は集まった。監督の岡本先生は、社会人のチームでは日本一のキーパーだと私は思っていた。岡本先生は、紫光クラブ(京都教員チーム)のキーパーで釜本、二村を含めた全京都チームの正キーパーでもあった。勉強の嫌いな?否、勉強を二の次と考えていた私と少数の部員は、ことサッカーに関しては真面目だった。弱くても、弱くても、練習は真面目だった。後に大学でサッカーをする幸運に恵まれた私は、いかに我が高校が稚拙なレベルだったのか、気づかされた。でも、当時は本当に本気だった。

昼飯は、早弁(昼前に弁当を食うこと)で済ましておいて、昼休みになると即、ボールを蹴ったり、ボールリフチィング、スローイン、フェントの練習を校庭の隅っこでやりました。午後一番目の5時間目の授業が始まってぎりぎりに教室に戻るのですが、火照った体はそう簡単には冷めません。頭からは湯気が、ずうっと高くまで、筋を作って立ち上るのです。全身、汗びっしょり、なかなかひかない。英語のイチダ先生が「山岡なあ、お前、廊下で頭を冷やしてこい。兄貴は頭よかったのに」と。私は、皆の哄笑を背に教室を出て、服をバタバタさせたり、下敷きで胸や腹、バンドを緩めて下半身に風を送った。一人、廊下でのさえない作業でした。

先生が、「山岡、どうじゃ?」と教室から顔を出した。先生の顔は私には笑顔に見えたのですが、本当は怒っていたのかもしれません。席に着くやいなや、「山岡、丁度お前に訳して欲しいところやったんや」とおっしゃる。「風とともに去りぬ」か、そんな英語のリーダーを日本語に訳する授業だったのです。文章の前後から、その物語がどういう状況にあることは、想像できるのですが、分からない単語があって、なかなか文章にならなくて困っていると、先生が、「そこは、特別ええとこやさかいに、山岡、来週まででええから、ちゃんと訳してみろ」と言って、授業はその部分を飛ばして進められた。

それから一週間、辞書を片手に頑張った。前後の文章も確認した。私に与えられた部分は、男女の愛の告白から、チュウをして、二人は合体して、野原に横たわる、そのような内容だったのです。先生は私のことを特別かわいがってくれていたのです。この物語のクライマックスの部分を、一番おいしい部分を私に訳させてやりたいと思ってくれた先生に感謝した。一週間後の英語の授業の時間に、私は、翻訳家を気取って、当時のエロ雑誌風(梶山季之さん風のことを言っているのです)に訳した文章を大きな声で読み上げました。ちょっと、卑猥っぽく。生徒は喜んでくれました。先生はもっと卑猥に訳するのを期待していたのだろうか、その訳文が物足りなかったのだろうか、私は真剣に悩みました。先生も喜んでくれていたように見えたのですが、本当は怒っていたのかもしれません。先生の顔は、いつも怒っているのか面白がっているのか、はかりしれないものだったのです。余裕をもってニタッとするその表情の意味が読み取りにくいのです。

中学も、高校も、勉強は二の次、三の次だった。勉強は大人になってからでもできるのだ、と思い込んでいました。頭の隅っこには、勉強なんて大したことはないんだと、馬鹿にしているところがあったのかもしれません。だから、小学生の時は徹底的に遊んだ、中学生の時は丸っきりバスケット、高校生の時はサッカー一途だった。勉強はいつでもできる。この仲間と、この時に遊んでおかないと、バスケットやサッカーを今やっておかないときっと後悔するのだと決め込んでいたようです。このことは、大学に入ってからも同じでした。お父さん、お母さん、私は卒業したら誰よりも誰よりも勉強しますから、今はサッカーのみの生活を許してください。遠く田舎の方を向いて、頭(こうべ)を垂れ手を合わせました。いや、大学の前に浪人時代があったのです。浪人時代は誰もが勉強を最優先するのだろうが、私には、やっぱり勉強は二の次だったのです。1浪のときも、2浪のときも前半の8月まではドカタで金を稼ぐことを優先させて、後半の9月から本番の試験日までは、さすがに勉強を優先させました。ぎりぎりまで勉強はできなかった。何故、そんな子供から成年になったかと、よくよく考えてみると、私の田舎では頭のいい奴よりも健康で丈夫で、野良仕事を一所懸命に働く者の方が、立派な人間扱いされていたからではないかと思うのです。

そして、ケネディの運命の日は。

突然余談ですが、最近では11月22日を「いい 夫婦(ふうふ)の日」と言われているんですね。

従兄弟の清市さん(27)が、同じ町内で隣の在所のサッチャンと結婚式を挙げて、新婚旅行から戻ってきて数日後のことだった。私の郷里では、新婚旅行から帰ってくると、夫婦は結婚式や披露宴でお世話をしてくれた人に対して感謝の気持ちを込めて、饅頭だったか?何だったか忘れたのですが、品物を配る習慣があったのです。その配る役を私が一手に引き受けていたのです。品物を届けると、受け取った人は、私にごくろうさんと言って、駄賃をくれるのです。2~30軒届けると、結構な小遣い稼ぎになるのです。清市さんの心くばりだったのだろう。

途中、清市さんの家に立ち寄ったとき、テレビでケネディが撃たれ、走り続ける車上で、抱きかかえられている映像が繰り返し放映されていた。私が見たのは、現実に撃たれてから、数時間後のことだと思うが、撃たれたのと饅頭?を配っていたのとは、ほぼ同時期だったはずだ。私には異常に気になったのに、故郷の大人たちは余り関心をしめさなかったことが不思議だった。ダラスという惨事が起こった地域のこと、ケネディの生い立ちから大統領にのぼりつめたまでのこと、ヴェトナムに戦火が噴出していること、アメリカの明と暗の実態を知りたくなったことを思い出します。

小学生の6年生の時だった。社会党委員長の浅沼稲次郎さんが壇上で演説中に、元大日本愛国党の山口二矢(おとや)に短刀で刺されてたニュースも当時の私を異常に興奮させたことを思い出す。この事件の後、学校で皆の前で、犯人の山口二矢の真似をして伊藤先生に怒られたことがあった。先生は私に、何をあなたは面白がっているんだ、と強く叱った。その強く叱る先生のゆがんだ表情が気になった。面白おかしく演じた私に先生は、我慢ならなかったようだった。この事件のニュースは、当時普及しだしたテレビでお茶の間に飛び込んできた。私は、人前で人が刺されるのを、初めて見たことになります。そして、今度はアメリカ大統領のケネディだった。

中学校は歴史のある町立維孝館中学校だった。バスケット部だった。当時京都では小学校区制になっていて、公立の普通高校を目指す者は城南高校しか受験できなかった。私の郷里は、山間谷間の山村だった。京都や宇治に比べて、情報が少なく、学力では随分差があった。低かったのです。中3の受験指導では、城南高校へはクラスで2~3人しか受けさせてくれなかった。私はと言えば、総合評価ではクラスで5番位の位置が定番でした。だから、本来なら受験させてもらえなかったのです。が、月に1度行われるキタオウジ(どんな、漢字を使われていたのか忘れてしまった)のテストでは、5クラス250人のうち10位には必ず入っていました。期末試験とか中間試験には、力が入らなかったのですが、全クラスで行う腕試し風の試験には俄然強かった。先生たちは、私のことを不思議がっていました。「先生!!ええやろう。受けさせてよ」。通信簿では、いつもいい評価はもらえていなかった。予習をしていって、先生に気に入られるようなことはしなかったからかな、と思ったこともありました。バスケットにうつつを抜かしている変な生徒としての評価は抜群だったのですが。

自宅から高校までは、ホンダのカブに乗って通っていました。部活を終えてバスを利用すると、帰宅が10時になってしまうのです。マフラーを半分に切っているのでアクセルをひねると、55ccと言えどもエンジン音はそれなりの迫力がありました。部活を終えての帰途、平等院の前を通って、宇治川沿いをホンダのカブと私の体は黒い弾丸になって、まるで、オートバイのレースのように疾駆する。夏のはじめ、宇治川の支流の田原川にさしかかった辺りから、無数の蛍が群遊しているその中を走り抜けるのです。蛍が飛び交う時間帯があって、早くても、遅くても蛍に出くわすことができないのです。8時ころから9時ごろの間だったように思う。夢のなかのできごとのようで,「ファンタジー」ってとこか。こんな体験をしてきたことを大学に入って部友に話したら、誰もがうらやましがった。

これからどんな事が私を待ち受けているのか、不安はつきまとった。でも、夢追い人に徹してみせるぞ、といつも考えていた。俺は能天気(脳タリン?)な男だったようです。

2007年12月1日土曜日

復刻(朝日新聞)浦和、アジア初制覇

浦和、アジア初制覇。

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サッカーのアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)決勝は14日、埼玉スタジアムで第2戦があり、浦和レッズがセパハン(イラン)を2-0で破り、アウェーの第1戦と合わせて3-1で初優勝を決め、アジア王者に輝いた。02年に現行方式のACLになってからは日本勢の優勝は初。前身のアジアクラブ選手権を含めると、99年のジュビロ磐田以来浦和はイランでの第1戦を1-1で引き分けていた。浦和は12月7日から日本で開かれるクラブワールドカップ(W杯)にアジア代表として出場する。

浦和 次は「世界」

アジアCL制覇   集中2発

真っ赤に染まった観客席から大声援を受けて、浦和が初めてアジアの頂点に立った。14日に埼玉スタジアムであったアジア・チャンピオンズリーグ決勝の第2戦で、浦和がセパハン(イラン)を2-0で退けた。前半22分に永井のゴールで先制し、後半20分には阿部が加点。相手の反撃を粘り強い守りでかわし、優勝賞金60万ドル(6660万円)を獲得した。大会の最優秀選手には永井が選ばれた。

浦和はアジア代表として出場するクラブワールドカップで、12月10日の準決勝に臨む。来年のACLには日本から浦和を含めて3チームが出場。06年度天皇杯準優勝のJ1上位につけるガ大阪の出場も決まった。

オーレ

何も変わらなかったそれがたとえ、アジア王者をかけた舞台でもだ。守備が身上の自らの姿を浦和は忘れない。第1戦で苦しんだカウンターには対策を十分練っていた。

抜け出してきた相手に対して、MF長谷部、鈴木が体を寄せ、まとわりついた。飛び込んでかわされるようなまねはしなかった。味方が自陣に戻る時間を与え、ゴール前を固めることができた。

第1戦の後半早々、気持ちが高まらないうちに、速攻から追いつかれた。この日は後半3分にCKを与えたが、ワシントン1人を前線に残し、10人がゴール前に戻った。

攻撃で圧倒できないのは覚悟の上だ。第1戦をより上回ったのがゴール前の集中力。守備に追われ、シュート2本に終わったFW永井は「とにかく入れと思った」と先制点の場面を振り返った。

オジェック監督は常に目前の試合に関する質問にしか答えない。ACL全試合に出場したMF鈴木もかねがね力を込めて口にする。「すべてが一つ一つの積み重ねだ」と。アジア王者のタイトルは、課題を見つけては改善し、次の試合に臨むという地道な作業を繰り返した結果だ。

試合直後は歓喜にむせんだ選手も、帰り際には落ち着いた表情に戻っていた。腰痛をこらえてフル出場した阿部はいつもの小さな声で「ACLに勝ったからといって、J1優勝を逃せば通用しない」とぽつり。今季の浦和の目標はJ1清水戦に向け、準備を整えるだけだ。

ウエーブ

厳しい国際試合、クラブに収穫

今年ほどJリーグがアジアと向き合った年はなかっただろう。これまで、ACLに出たクラブは「アジアをとりたい」と言いながら、本腰で取り組んでこなかった面がある。経費を減らそうと小さい競技場を使ったクラブもあり、ACLは国内リーグより格下だと自ら位置づけていたようなものだ、

送り出す側の日本協会やJリーグも配慮が不十分だった。04年にA3チャンピオンズカップとACLの日程が重なり、横浜マがチームを二つに分けて臨んでいる。

アジア王者の地位が高まり始めたのは、05年。欧州と南米の王者が対決してきたトヨタカップが、6大陸王者が世界一を争うクラブW杯に代わったためだ。ACLの先には世界が開けている。今年は浦和も川崎も、アジア王者への思いを押し出した。Jリーグも過密日程の中、中3日が空くよう配慮した。

それでも容易に勝てないアウェー戦を、浦和は1勝5分けでしのいだ。藤口社長が「引き分けがいかに重要か。ホーム・アンド・アウェーの戦い方が体でわかった」と話す軌跡はW杯予選の厳しさそのものだった。

これまで国際経験を積む場は日本代表が中心だった。それをクラブが共有すれば、世界の奥行きを知る場は広がる。

浦和の勇躍は、Jリーグクラブの役割と可能性を思わせた。(中小路徹)

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アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)=67年に始まったアジアクラブ選手権と90年からのアジア・カップウィナーズカップを統合、真のアジアクラブ王者を決める大会として02~03年シーズンから始まった。優勝チームはクラブワールドカップ出場権を獲得。日本からは前年度J1覇者と前々年度天皇杯全日本選手権優勝の2チームが出場。

復刻〈朝日新聞) 剛脚健在、野口みずき。

2007 11 19朝日新聞朝刊の記事をそのまま転載した。泣かせる記事を保存した。

野口V北京確実

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東京国際 大会記録を更新

来年8月の北京五輪代表選考会を兼ねた2007東京国際女子マラソンが18日あり、アテネ五輪メダリストで日本記録を持つ野口みずき(29)=シスメックス=が大会記録を8年ぶりに更新する2時間21分37秒で初優勝し、2大会連続の五輪代表入りを確実にした。

2位は終盤まで野口と競ったサリナ・コスゲイ(ケニア)で、尾崎朱美(セカンドウィンドAC)が日本選手2番目の4位。前日本記録保持者の渋井陽子(三井住友海上)は7位に終わった。五輪代表枠は3人で、今夏の世界選手権銅メダルの土佐礼子(三井住友海上)がすでに内定。代表選考会は来年1月の大阪国際、同3月の名古屋国際が残っている。

勝利の証し 突き上げた2本指

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「走った距離は裏切らない。マラソンは走れば走るほど味が出る」野口は常々そう口にする。ワコール時代から野口選手を指導する広瀬永和(ひさかず)コーチは野口の長所を「勝負への執着心」と語る。

アテネ五輪で金メダルを獲得し、ひとつの頂点を極めながら、野口の闘争心は変わらない。アテネ五輪のレースが終わってすぐに、藤田信之監督は言った。「これから先どうするか、自分で答えを出せ。プロになって金を稼ぐ方法もある」。そして続けた。「そうするんやったら、チームから離れてやってくれ」。野口が選んだのは競技を追求する道だった。

「とにかく誰にも負けたくない」。マラソン6戦で敗れたのは03年パリ世界選手権でキャサリン・ヌデレバ(ケニア)だけだ。そのヌデレバにも翌年のアテネ五輪でお返しした。それでも、野口は「タイムはヌデレバさんが上。その上には世界記録保持者ラドクリフさんがいる」と話す。

ゴール直後に突き出した3本指は、日本選手で初めて名古屋、大阪、東京の国内3大マラソンを制した証し。「ひとつの目標をクリアできた」。北京への道を開き「強い選手がいっぱいいるので今まで以上の練習をしていきます」。野口はさらに高い頂を目指す。(堀川貴弘)

仲間にVの恩返し  野口みずき選手

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失業保険・自炊生活・苦楽ともに

晩秋の青空の下、かってのチームメイトらも沿道から声援を送った。笑顔でゴールした野口選手は、支えてくれた指導者と真っ先に喜びを分かち合った。10年以上指導を受ける藤田信之監督と抱き合い、海外合宿でもマンツーマンで練習を見てくれる広瀬永和コーチとは握手を交わした。

勝者の証しである月桂冠をかぶると、「大会記録更新を狙っていた。北京の道を開くことができてうれしい」と勝利をたたえる観客席に応えた。その大歓声の中にいたのは、同じチームで苦楽を共にした徳島県鳴門市の尾池(旧姓・田村)育子さん(29)と、東京都葛飾区の黒田(同・加岳井)ひとみさん(29)。98年、解任された藤田監督を追う形で、実業団を飛び出した仲間だ。

トレーニングルームやプールが完備され、寮生活で食事の心配もいらなかった生活が一変。コーチが住んでいた京都市内の団地に部屋を借り、食事は交代で作った。失業保険をもらいながら、公営体育館でトレーニング。3人で自転車を買いに行き、「まとめて買うから」と値切ったこともある。「チーム・ハローワーク」。いつからかそんな名前で呼ばれるようになった。

食事や練習用具の差し入れのありがたさが身にしみた。「色んな人に支えられて、走れるんだと気づいた。ずっと恵まれた環境にいたら、分からなかった。恩返しするには結果をだそうって。再出発の原点だった」。今は陸上を離れた尾池さんはそう振り返る。

2人は電車を乗り継ぎ、コース沿いを回って応援。野口選手とほぼ同時に競技場に戻った。「前半は競り合いで、自分のレースより緊張した。本当に良かった。風もあって暑かったのに、このタイムはすごい」と喜んだ。

「みずきーっ」

表彰台の一番高いところに立った野口選手に声をかけると、笑顔とピースサインが返ってきた。

黒さんは銭湯で野口選手と話したことを思い出す。「30歳になったら、3人で温泉でも行こうねって。でも、来年は温泉に行っている場合ではないですね」。記念の温泉旅行は、五輪応援ツアーに変わりそうだ。

両親も感涙

夜行バスに乗って三重県伊勢市から応援に駆けつけた野口選手の両親も国立競技場の観客席で抱き合って喜んだ。「みずきー」声援も涙で声にならない。母春子さん(56)は「最初があまりよくなかったから、大会新記録なんて信じられない。よく頑張ったと思います。おめでとうと言ってあげたい」と話した。

ゴールの瞬間、ガッツポーズした父稔さん(55)は「みなさんのおかげです」と周りの応援団にあいさつ。「五輪代表に選ばれたら、2大会連続のメダルという夢をかなえてほしい」

2007年11月30日金曜日

いのちの食べかた。

映画「いのちの食べかた」(our daily bread)を観てきた。

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渋谷[シアター] イメージフォーラム   11月14日〈水) 

私のベジタリアンの友人が、肉を食えなくなった理由を話してくれたことがあった。友人は猫をこよなく愛している。猫を可愛がる延長線上で、動物を愛するあまり殺すことを嫌悪しだした。いくら食用だからといって、動物を殺すなんて、絶対許せないと言い出した。私は愛犬家の一人です。愛犬ゴンが死んだときは、悲しくて狂ったように泣いた。そのゴンに誰かいたずらでもしようものなら、私はその相手を、牙をむいて何の躊躇いなく噛み付いたことでしょう。「動物を殺すなんて絶対許せない」と言う友人の言葉を、私は自然にナルホドとうなづけるようになった。

今まで何の抵抗もなく肉を食ってきた私にとって、全く口にしないわけにはいかないが、食する量は極端に減った。また私の女房は肉が好きじゃないので、元々家庭での食卓には、肉料理は少なかった。子供が大きくなってからは、もっと少なくなった。

又、盲導犬や介助犬のことを、人間の犬に対する虐待だというのです。犬にも犬の独立した権利が認められているのではないのか。人間さまに都合がいいからといって、犬をそのように馴らして、酷使するのは許されることではない~と。私には、まだ納得できないところがあるのだが、友人の主張に迷いがない。

それから~                                               

最近、宮沢賢治の童話集に影響を受け続けている。年末の忘年会を「銀河鉄道の夜」の観劇会にしたので、再び「銀河鉄道の夜」を読み直した。その続きに童話集も読み直した。どの童話にも、雲、星、風、草や樹木が脇役に登場するのですが、そのどれもが、命をもっているように登場するのです。意思や感情をもっているのです。人間が、宇宙が、動物が、植物が、世の中に存在する全てのモノが、物語のなかで役が与えられていて、その役を演じているのです。繰り広げられるお話は、万物が静かに平和な世界を希求しながら進んでいく。今の私たちの暮らしに非常に勉強になることが多い。示唆されっ放しだ。世の中の何もかもが、悪い方向に進んでいる今こそ、宮沢賢治に習おう。以前に読んだときには感じなかったことが、今私にはみずみずしく、感得、理解できるのです。

昨今、環境問題についての議論は活発だが、ずうっと以前に宮沢賢治さんは自分の作品のなかで環境の問題を取り上げていたことになる。動植物についての食物連鎖については、学校で教えてもらった記憶があるが、環境を座視して、人間をも含めた動植物のより良い関係なんて、誰も指摘する人はいなかった。動物は、飼育されて殺されて、食材になる。生あるものが、そんなにバサバサ殺されていいのか?と私は疑問を持ち始め出した矢先に、今回の映画の広告を見付けたのです。

そして、この映画に~

映画の中身を紹介しようとしたのですが、ドキュメントなので、内容を紹介するには、全てを詳細に表さなくてはならないと思った瞬間、文字を書き続けることを断念してしまった。以下、簡単な紹介です。

食材の提供者は、食べる人にとって、美味しいと感じるように、味わい、舌触り、風味の精度をあげる。飼育は、管理しやすい方法を極める。そしてできるだけコストを下げて、安く大量に製品化して市場に出し、多額の利益を狙う。徹底的に機械化された生産現場の映像は、見る者を圧倒した。映像と、現場で発生する音を最大限ビートを効かして、私の五臓六腑を抉る。見終わった時、疲労がどっと寄せた。

鶏、牛、豚、魚をベルトコンベヤーで次から次へと解体されていくのです。オートメーション化されていて、作業員は決められた仕事を淡々とこなしていく。牛にとどめを刺すのは人間だった。バケツ10杯程の鮮血が滝のように流れ出したのには肝を冷やした。

とうもろこし、麦、ひまわり、オリーブ、ピーマン、トマトの消毒や殺虫の薬剤散布は飛行機を使って大規模に行われる。薬漬けだ。種まきから収穫まで全て機械化されていた。農耕というイメージは全然ない。ピーマンの根は、海綿状の土壌もどきに根付いていて、その海綿状のものに水や栄養分が補給されるのだろう。土を耕しているよりも効率がいいのだろう。花巻農学校の宮沢賢治先生がこの映画をご覧になられたら、きっとびっくりされることでしょう。嘆かれるかもしれない。いや、怒り出されるかも。

映画の広告文より。  

今、誰もが気になっている食品偽装問題。でも本当は、私たちも良く知らない。「食べ物がどうやって作られているのか?」を。

これは、私たちが普段食べている食べ物が、食卓に並ぶまでの、驚くべき旅。徹底的に機械化された生産現場に圧倒され、そこで誇りを持って働く人々を想像する。

劇場でしか体験できない食の真実。きっと、食べることがもっと愛おしくなる。「いただきます」と心から言えるようになる。

2007年11月29日木曜日

オシム監督の回復を祈る。

オシム監督が脳梗塞で倒れてから、10日ほど経つのかな。病状は依然、深刻な事態のままだ。是非、日本A代表の指揮をとってくれることを願っているのですが、病状を見ながら、サッカー協会では後任人事を進めているようだ。監督の仕事はハードで過酷だ。オシム監督の口から発せられるいくつかの名言は、なかなか含蓄があって、サッカーファンのみならず多数の人々を魅了させてきた。赤鬼のようで、仁王さんのようで、時には阿修羅のようなオシムおじさんを、私のサッカーの知らない友人は、「ただの、オッサンやんけ」とぬかしよる。「違うんだよ、あのおやじは。俺は尊敬しているし、期待しているんだよ。凄いオヤジさんなんだよ」。東京五輪での善戦、メキシコ五輪で銅メダルをとれるまでに指導してくれたデッドマール・クラマーさんと並び賞される外国人指導者だと私は思っている。サッカーを愛する者たちにとって、感謝しなきゃいかん貴重な御両仁なのだ。

クラマーさんは「日本サッカーの父」と呼ばれ、「サッカーは生活の鏡である」と生活面にも厳しい指導を課したコーチだったそうだ。

昨日(11月28日)、少し反応がでてきたと報道があったが、まだまだ気が抜けない状態のようだ。一刻も早い回復を願うばかりだ。

オシム監督が倒れたことを知った瞬間、私はオシム監督の後任には岡田武史氏になるだろうと確信した。サッカー協会の会長である川淵さんが最終の決裁者なんだから、「岡田で決まりや」と女房に断言した。「何でや?」と聞かれたが、ここは、岡田しかいないのです。ワールドカップのアジア地区の3次予選が近づいていることを考えると、後任者は急がなくてなならない。そんな状況下で、信頼できて、それなりのリーダーシップをとれるのは、岡田しかいない。岡田は、川淵さんにとって身内同然だ。今日の新聞なんかでは、岡田に決まりそうだという内容になっている。

こんなところで先輩風を吹かせてもしょうがないのですが、岡田は私の後輩、川淵さんは大先輩だ。岡田っ!、ここらで一発気合入れて頑張って欲しいのです。オシム監督が求めていたサッカーを君は一番近くにいて、一番理解していると思うのです。それに、君独特の戦法を加えて欲しい。

そんな日々のなか、3日前ぐらいだと思うのですが、天声人語にオシム監督のことが書いてあったので、早速切り抜いて転記させていただいた。

天声人語(朝日朝刊)

サッカー日本代表のオシム監督(66)は、祖国ユーゴスラビアの解体やボスニア内戦といった辛酸をなめてきた。それゆえだろうか。口をつく言葉は奥が深い。民衆の悲劇が、名将の人生に、深深とした陰影を刻んでいるように見える。動じない精神力と、異文化への広い心が持ち味である。それを戦争体験から学んだのかと聞かれ、「(影響は)受けていないと言った方がいい」と答えたそうだ。「そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が~」(木村元彦『オシムの言葉』)

内戦の死者は20万を数え、サラエボの街は破壊された。街の一角に、監督が生まれ育った地区がある。そこで起きた悲劇を描く映画「サラエボの花」が、近く東京の岩波ホールで上映される。内戦下の組織的レイプを見据えて、内容は重い。この映画に、脳梗塞で倒れる直前のオシム氏が文章を寄せている。愛してやまない故郷を、「すべての者が共存し、サッカーをし、音楽を奏で、愛を語らえる場所だった」と誇らしげに思い起こしている。

その故郷を、「人類のモラルと良心がかき消された、世界史上に類のない場所になってしまった」と言い切るのは、辛かっただろう。燃えるような郷愁と、戦争への憎悪が渦を巻く、切ない一文である。オシム氏の容体は予断を許さないと聞く。現役時代の氏は、ハンカチ一枚の隙間があれば、3人に囲まれても突破したそうだ。危機を突破して、新たな言葉を聞かせてくれるよう願う。

2007年11月13日火曜日

「イーハトーブの果樹園」柿3個、初めての収穫なり。

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3個収穫できたのですが、1個は試しに食いました。残りの2個です。立派なものです。美味かった!!

「イーハトーブの果樹園」 柿物語

私の果樹園の柿の木から、今年初めて柿3個が収穫できた。4年前に取得した土地に、柿3本、ミカン1本、スモモ1本、栗2本を植えたのです。その3本の柿の木のうち1本から、3個が生って、他の2本にはまだその気配がない。あと何年か必要なのだろう。栗もいくつか生りました。ミカンはまだ青い実の状態です。その土地は建築基準法上では、なかなか難しい土地で、家を建てるには手続き上難易度の高い宅地なのです。手続きさえちゃんとすればいいのですが、なかなかそうも行かず、昔から秘かに狙っていた、憧れの果樹園にしたのです。

その果樹園の名は、「イーハトーブの果樹園」です。私に今一番影響を与えている宮沢賢治さんの作品から拝借させていただいた。悪用はいたしません。賢人の名を汚すようなことは決していたしません。風や草や樹木にも、雲も、星も、意思や感情をもって、それらが物語の重要な脇役を果たすイーハトーブの世界に私も連れ込んでもらいたいのです。

かって家が建っていた部分は、樹木には相応しくない土壌なのですが、庭だった部分は、かっても花壇や木があったのでしょう、いい土なのです。果樹園を思いついて、真っ先に買ってきた果樹の苗木は、柿の木だった。桃、栗、3年、柿 8年とか、小さいときから聞かされていたものだから、イの一番に柿を植えなくてはと、思ったのです。その後、他の苗木を、思いつくまま植えたのです。

それに、私は無類の柿好きなのです。

生まれは、京都府と滋賀県の国境の山間谷間の小さな山村でした。京都府綴喜郡宇治田原町南切林が郵便物の届く住所です。主にお米とお茶(宇治茶)を作っている専業農家で生まれました。子供の頃、野原、田畑を駆け回り、山へ出かけては野イチゴ、アケビや茸類を採ったり、川では網やザルで魚をすくったり、潜ってはウグイなどの手つかみをして、過ごしました。ターザンごっこでは、ガキ仲間にいつも危険な技を見せ付けた。

そんなガキの頃のおやつはと言えば、田畑に植えられたキュウリ、スイカ、マッカ、トマト、柿、イチジクを盗んで喰うか、山に入ってアケビ、野イチゴを探して、喰うことでした。今のようにお金を持って、駄菓子屋さんやコンビニに行くなんて考えられませんでした。真夏のスイカやトマト、キュウリは喉の渇きを癒し、空腹を満たす絶好のおやつでした。家に帰れば、おにぎりかお餅だった。何もない時は、おにぎり。おにぎりは、自分で勝手に、手のひらに塩をつけてにぎるのです。餅は、だいたい一年中用意されていた。夕方、腹をすかして帰ると、祖母が餅を焼いてくれた。母は、夕暮れまで野良仕事をして、それから夕食の準備に入るので、子供の私等は待ちきれないのです。

農家の人が、汗水たらして世話をしている農作物を、内緒でいただくわけですから、盗人ということになるのですが、そこには毅然とした不文律があったのです。私は父から、そのローカルルールを伝授されていました。大人も子供も、守らなければならない、泥棒の掟(おきて)があったのです。

キュウリは変形していて、均質に育たないと思われるもの。スイカやトマトは小さくて、そのままにしておいてもまっとうに育たないだろうと思われる物で、それなりに熟している物をいただくのです。これらは、いつかは、間引かれて捨てられる物なのです。また収穫期が過ぎて、取り残されていたものをいただくのです。これらは、喉の渇き、空腹を満たす、好材料になるのです。このようなことは、田舎では皆が承知の上のことで、野良作業中、お互いに、盗み喰いを許し合っているのです。

その田畑の農産物のなかで、私は特別柿に魅かれたのです。私の「盗み食い」症状が一番劇(はげ)しく表れるのは、柿が視野に入ったときなのです。柿を見ると、人間が変わるのです。私の田舎では、柿を商品にして市場などに出すことは誰も思いついていなかった。品質の優良な柿を育ててみようとする百姓はいなかった。金になる果物として、見なされていなかったのです。でも、やっぱり、私にとっては、最高の果物でした。

そんな子供時代を過ごしてきた私だから、いまだに「盗み食い」症が抜けないのです。年を重ねてきた、いっぱしの良識ぶった大人なのに。59歳。困ったものです。生っている柿が、道路にまではみ出しているのを見ると、自然に手が動きだそうとするのです。たとえ、その柿の木が他人のものでも。必死に、両手を合わせて指をからめて、どちらの手も勝手に動かないように押さえつけるのです。

今から20年程前のことです。私は早朝5時頃自宅をスタートして、権太坂から藤塚、今井町、秋葉町、品濃町、平戸周辺をランニングしていた時期があったのです。ランニングで疲れたら、早足で歩くのです。約1時間。いつものコースに、庭先に柿がたわわに実っている農家があったのです。柿の花が咲いて、青い実になって、それが赤く色づいていくのを、しっかり観察していました。最初は羨ましかった程度だったのですが、色づいてくると、私の子供時代にきっちり培った「盗み食い」症の初期症状が表れだしたのです。その柿の木は、少し道路から奥まった所に立っていたのです。鈴なりに生っていて、枝はその重さに必死で耐えているようにも見えました。私の病気は、日に日にますます悪化していくばかりだった。真っ暗闇だった。ついにその日が来たのです。末期症状を迎えた私は、餓鬼になって1個の柿を手にしてしまったのです。柿の実を手にした盗人は、一目散にその場を離れなくてはならないと、走り出そうとしたその時、目に入ったものは、人影だったのです。暗闇のなかに、はっきりと老人を確認しました。その農家の人だと思われる老人は、早起きをしたのでしょう。早く起きて家族に迷惑をかけまいと玄関の前で縁台に座っていたのです。座って、煙草を吸っていたのです。老人は、こっちを見ていました。私の行動を見ていた筈です。でも、一瞬の出来事だったから、老人は何も反応できなかったのでしょう。私は逃げた、逃げた。韋駄天、脱兎の如く、その場からできるだけ早く、遠くへ移動しなければならなかった。足がツッた、心臓はバクバクして破裂寸前。その時に、決心したのです。二度と「盗み食い」はしまいと。私はいつまでも、懲りないと改めない、生半可な人間なのです。

柿にもいろんな種類の柿がありました。正確に何種類と答えられる者はいないそうです。700種類とか、1000種類とか、言われている。田舎にあった渋柿はツノコ(正式名称はツルノコ)と、呼んでいた種類が一番多く、それ以外にもいろいろあった。甘柿では、富有柿、次郎柿、チンポ柿(たまたま、学生時代に読んだ小説で、今 東光さんが題名に使っていた)は、どこにでもある種類のものだった。が、その本当の名称は、名無しの権兵衛で、田舎ではただ「甘柿」とだけ呼んでいた。今、思うに、ひょっとして今 東光さんの受け狙いの造語かもしれません。作家はうまいこと、嘘をつきますから。

渋柿は渋をとるのに使われるのと、干柿にするものに分かれるのです。

百姓は、冬を迎える鳥のために、どの木にも幾つかは実を残して置くのです。その残された柿のなかでも、鳥が見逃したラッキーな柿の実は、秋が深まり霜がおりる頃、果肉は真っ赤なゼリー状に結晶するのです。このようになった柿のことを、熟柿(じゅくし)と言います。結晶化した果肉の美しさは、今でも懐かしく思い出されます。それが、オイラのおやつなのです。今、市販されている森永さんか明治さんのゼリーと比べたら、月とスッポンの違いです。半熟になった実を、鳥に食われないうちに収穫して、米のモミガラの中に入れて、果肉を完熟させる方法もありました。

浪人時代のことです。私の母の実家には、背丈10メートル程の柿の木があって、実が採りごろになっても、それを誰も採ろうとしないことを知った私は、1週間に1度の割りで出かけていった。2階建住宅ほどの高い木に登って、柿を竹籠に入るだけ入れて下りてくるのです。木登りは、幼児のときから、歩くよりもハイハイの次におぼえたようです。秋、切林(自宅の在所名)と名村(母の実家のある在所名)の間を、何度も往復するのでした。この柿はチンポ柿と今 東光さんが言っていたものです。1日に20個は食っていた。実は大きくなくて、種が幾つも入っているので、食べられる部分は少しなのです。皮をむかないで、そのままがぶっと噛るのです。

柿根性と言う言葉があるように、柿の枝はもろく、肝を冷やしたことは何回もありました。反語は梅根性だ。こいつは、精神的にしぶといってことだろう。

この頃から、私は柿の虜(とりこ)になっていったのです。親戚の間では、完全に変人扱いでした。へい、私は柿食人です、と言っていました。でも祖母だけは、あんまり食べ過ぎると、体が冷えるから気をつけなさいと気をつかってくれた。

大学に入れなくて、ドカタ稼業に身を染めた。仕事を終え、夕方には必ず酒を飲むのです。卑猥な言葉を無理して使って、無理して多い目に飲んでは、管を巻いた。受験がうまくいかなかったことを文部省のせいにしたり、ヴェトナム戦争に対する政府の対応を批判したり、学園紛争にやたら共鳴したり、深酒するためのネタには事欠かなかった。ドカタ仲間で飲む酒の量は半端ではない。

そして、必然的に苦しい二日酔いの朝を迎えるのです。ガンガン、頭が痛い。のどが渇いて、かあらっから。吐き気がする。胃が痛い、腸もやられて、ぴ~。そこで、また柿なのです。酔いさましに、私は柿をかっ食らうのです。救いを求めて、すがるように。阿修羅の如く、柿を食い続けるのです。柿が二日酔いに効くんですよ、と効かされていたものだから、盲信した。ずうっと後に、柿に含まれるタンニンが、アルコールの吸収をうまくコントロールして悪酔いを防いだり、血圧降下作用もあるのだと知った。またカリウムは、アルコール分を早く体外に出す働きをするのだということも知った。

大学になんとか潜りこめた。勉強のことは、そっちのけでサッカー一筋の学生生活だった。激しい練習に明け暮れ、食っても食っても、ヒモジイのです。毎日、いつも満腹状態にしておかないと、頭が変になるのです。でも、腹を満たすにも、資金が必要なのです。貧乏だった、素寒貧だった。そんな時に、田舎の父から送られてきた柿は、私を有頂天にしてくれた。うれしくて、涙が出た。不揃いな柿が、ダンボール箱に100個ほど入っていた。一人、ニタニタしながら1日10個づつ食った。

私の田舎は、お茶が特産なのです。宇治茶です。滋賀県に近い湯屋谷地区という集落があって、そこで永谷宗円が、室町時代に緑茶の製法を考案した。千利休の茶室も、元はこの地で作られたのです。これほどお茶に関しては立派な土地柄なのです。お茶の聖地とでも言いましょうか。でもここは、お茶を語る項ではないので、これで終わりにして、柿物語に戻ります。

渋柿は、渋をとる方にまわされなかったものは、干柿にするのです。その干柿のことを郷里の有志が作った小冊子に載っていたので、その文章を紹介します。郷里で作る干柿は、果肉を完全に天日で干しきるのです。だから、歯ごたえはあります。そして、白い粉が噴いてくるまで、ザルであおるのです。そうしてできた干柿を、郷里ではころ柿と呼んでいました。お正月などには、神棚に餅に並べて供えます。

古老柿(ころがき)伝説「美女石」 (孤娘柿)とも。                      宇治田原茶業青年会が編集。


『古老柿。秋になると、澄み切った秋空のもと、あちこちで(ぽきん、ぽきん。)と枝を折る乾いた音が青空にこだまします。稲刈りも既にすみ、秋祭りも終わってほっとした頃。お正月にそなえて宇治田原の町では、古老柿作りが始まります。そんな古老柿にまつわる伝説をご紹介しましょう。宇治田原の柿は枝もたわわに実るとても美しい眺めでしたが、どうしたことか甘い柿が少なかったのでした。村人たちはいろいろ工夫しましたが甘くはならず悩んでいました。ある日、一人の少女が道端にたおれていました。話を聞くと空腹と疲労で持病が出たらしく、かわいそうに思った村人は一所懸命に看病し、そのおかげで少女はすっかり元気になりました。そして柿が渋くて悩んでいることを話すと、少女は、村人に渋柿を甘くておいしい柿にする方法を教えてくれました。それは、一面に白い粉がふいたまるいコロコロした柿で、口に入れると、とても甘くおいしいものでした。

村人がどうしてこんなに甘い干柿ができるのかと感心している間に、少女はにっこり笑って名前も告げずにお礼だけを言って立ち去っていきました。村人は不思議に思い、そのあとをしのび足でつけていくと、少女はお寺への坂を上がって姿を消してしまいました。』


渋柿の渋みを抜いて食べる方法もあるので、紹介したい。


渋柿を40度ほどのお湯に半日から1日ほど浸けるか、焼酎に浸けるなどして、渋みを抜く方法があります。湯に浸けるやり方は、果肉が柔らかくなったり、表面が傷つきやすいので、あまり出来ばえはよくないのですが、一番手軽です。また、一度に大量に作れる利点があります。焼酎に浸けるやり方は、一番グッドに出来上がりますぞ、上品な味を楽しめます。このように渋みを抜いた柿も、食った、食った。



復刻(朝日新聞) 中日 日本一。

私は、根っからの中日ファンではございません。でも、男、落合が好きです。中村紀洋(のりひろ)が、オリックスを昨季自由契約になり、育成枠とかで入団した中日で、かくも頑張ったことに感動した。ケライマックスシリーズに入ってから、私は俄然、中日のことがイヤに気になりだしたのです。巨人などには目もくれない、落合が好きなのです。今シーズンは、今までとは違う雰囲気を体感したのです。これあ、見逃すわけにはいかないぞ、と覚悟した。そしたら、あれよあれよのうちに、勝ち進んだ。見れば、見るほど個性的な選手がいることに興が沸き、私もペナントレースに乗っかってしまったのです。岩瀬、山井、谷繁、森野、山本昌、井端、荒木、ウッズ、平田、李炳圭がいて、故障中の福留がいる。感心を持てば持つほど、個性的な選手ばかりだ。

2007 11 2日の朝日新聞の朝刊の1面から2,18、19,20面の中日ドラゴンズの記事をできるだけ多く転載しましたので、あの時のあの場面を思い出したくなったら、読み返していただきたい。

先ずは1面から

中日 日本一 

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53年ぶり  シリーズ初、継投で「完全試合」

プロ野球の日本シリーズは昨年と同じ顔合わせで1日、第5戦がナゴヤドームであり、中日が日本ハムを1-0で破り、対戦成績を4勝1敗として53年ぶり2回目の日本一を果たした。日本ハムの2連覇はならなかった。

中日の先発、山井大介投手(29)は立ち上がりから得意のスライダーがさえた。ボールを低い目めに集めて凡打を打たせる投球に徹した。2回には中村紀洋三塁手(34)、4回には荒木雅博二塁手(30)の攻守など、野手も山井投手を盛り上げ、日本ハムに攻略のきっかけを与えなかった。

山井投手は8回まで走者一人も許さない完全な内容。58回目を迎えた日本シリーズ史上、初の完全試合を期待させる投球ぶりだったが、落合博満監督(53)が9回からリリーフエースの岩瀬仁紀(ひとき 32)を投入。その岩瀬投手も打者3人で抑えた。日本シリーズ史上、一人も走者を出さなかったのは初めて。

中日は今季、セ・リーグ2位だったが、新しく導入したクライマックスシリーズの第1ステージ(対 阪神)、第2ステージ(対 巨人)をともに全勝の5連勝で勝ち上がり、日本シリーズへ進出。第1戦(札幌ドーム)は落としたが、その後は投打がかみあって、4連勝で一気に優勝を決めた。リーグ優勝しなかったチームが日本一になるのは初めて。

最高殊勲選手(MVP)にはオリックスを自由契約になり今季、中日にテスト入団、育成選手を経てレギュラーを獲得した中村紀選手が選ばれた。

2面から

ひ と    53年ぶりに日本一になった中日ドラゴンズの監督

 落合博満さん(53)     文・加藤真太郎  写真・小川 智

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一人の走者も許さなかった先発の山井大介投手を代え、9回から抑えの岩瀬仁紀投手を送り込む。日本一への思いが伝わる采配で日本ハムに雪辱した。

史上一人しかいない3度の三冠王。でも、今や「名将」と呼ぶ方がふさわしい。就任してから4年間、毎年優勝争いに絡み、、リーグ優勝2度。今年は2位に終わったが、セ・リーグ初導入のクライマックスシリーズを5連勝で突破した。

「勝利が一番のファンサービス」。様々な集客作戦を繰り広げる今の風潮を嫌う。1月の少年野球教室も、1万円の福袋を買う「有料」を条件に腰を上げた。

グラウンドから離れると人間くさい。今季通算200勝をめざした山本昌投手の登板前には、「これを食べないと勝てないやつがいるからなあ」。42歳左腕が登板前に験担ぎで食べるカレーライスを自らも口に運んだ。遠征先では宿舎にわざわざ取り寄せてまで食べた。

東京遠征で都内の自宅に戻ると、20歳の一人息子、福嗣さんと野球ゲームに興じる。「ここでは何を投げればいい?」「巨人の小笠原か。ここはインコースだ」。本業の血が騒ぎ出し、福嗣さんは「母ちゃん、嫌になっちゃうよ。本当の攻め方を教えるんだよ」。横で信子夫人がほほえむ。

「52年の厚い壁にはねかえされた」。札幌での屈辱から1年。53年続いた負の歴史に「オレ流」が終止符を打った。

18面より

4連勝竜一気

新生ノリ 感謝・涙のMVP

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どん底からのシーズンを、最高の結果で締めくくった。中日の中村紀がシリーズ最高殊勲選手(MVP)に輝いた。昨季、オリックスを自由契約となり、2軍戦のみ出場が可能な育成選手として中日に入団。地道な努力でチャンスをつかみ、シリーズでは再三の好打で打率4割4分4厘、4打点。チームを53年ぶりの日本一に押し上げた。「今年はいろんなことがあった。本当はほっとしている」。試合後のインタービュー、涙で声にならない。「ありがとうございます」

日米で通算16年プレー。豪快なスイングで本塁打王1度、打点王2度獲得した。しかし、昨季オフ、オリックスとの契約交渉がこじれ、トレードも不調。行き先がなくなった。中日が救いの手を差し伸べたのは、2月25日。年俸は昨季の50分の1の400万円、背番号「2005」からのスタートだった。

3月に支配下選手登録され、1軍出場が可能になったが、それでも年俸600万円。背番号「99」。「お金の問題じゃない。感謝の気持ちでいっぱい」。妻の浩子さん(35)が「野球小僧」と言うほどの情熱家が意気に感じた。

今季終盤は腰を痛め、コルセットをつけてプレーした。この日もドームの駐車場に着いた時は、ぎこちない歩き方だった。試合が始まれば、けがを感じさせない。2回、先制点につながる二塁打を放った。

「一度リストラされたたが、自分を信じてやってきた。そういう人たちの励みになれば」。かって金色に染め上げていた長髪は、初心を忘れないよ高校球児のように短く刈り込んだ。そんな謙虚さは1年を通じて変わらなかった。生まれ変わった「ノリ」に、野球の神様もほほ笑んだ。

ダル奪投11K実らず

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悲運の右腕はベンチで腕組みして唇をかみ、落合監督の胴上げを目に焼き付けた。「先に点を与えてしまった。全力を尽くし

たが、負けたのは自分の責任」。たった1点で日本一を逃したダルビュッシュは潔かった。唯一の失点は2回。無死一塁で中村紀を追い込んでからのウイニングショットが甘かった。高めスライダーを右中間にはじき返され、二、三塁。勝負するのか外すのか、中途半端なコースにいった。平田の右犠打が決勝点になった。

中4日の疲れのため150キロは投げられない。それでも第1戦の13個に続き、7回で11奪三振。「体力的にきつく、降板したらもう1球も投げられなかった」というが、2試合16回で適時打はついに許さなかった。

今季、ヒルマン監督に2年連続の日本一を誓った。新人の春季キャンプで喫煙問題を起こしたときから温かく見守ってくれた。「自分が今あるのは監督のおかげ。この人のために頑張らなければ、とやってきた」

最後だけ有言実行とはいかず、ヒルマン監督とはお別れとなる。

「監督の最後の試合になったのは悔いが残る。(監督との3年間は)自分のことを成長させてくれた。これからも練習します」。高校時代は練習嫌いでプロ入りした男が、その大切さを教えてくれた恩人に感謝の言葉を贈った。

選手信じた5年間

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ラストゲームは、一人の走者も出せなかった。ヒルマン監督は「投打の力を出せなかったが、選手を最後まで信じた。選手には恥じることも悔いることもないと話した」と語った。

シーズン前、主力が抜けたため下馬評は低かったが、若手が台頭した。投手力と堅守に加え、犠打と足を絡めた攻撃で接戦をものにしてきた。

2年連続の日本一は逃したが、米国人監督としては初のリーグ連覇と、北海道に野球文化を根付かせた実績は色あせない。「5年間、たくさんの素晴らしい思い出がある。また札幌に帰って試合がしたかった」。来季から大リーグ・ロイヤルズで指揮をとる44歳は寂しそうに言った。

19面より

夢半世紀歓喜

山井快投8回完全

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日本シリーズ第5戦は1日、中日が平田の犠打で挙げた1点を守りきり、53年間抱き続けた悲願を達成した。セ・リーグのチームが日本一になるのは5年ぶり。

中日先発の山井は直球、変化球ともにさえ、8回を終わって一人も走者を許さない投球を見せた。連覇を狙った日本ハムだが、丁寧に低めを突く山井を終始打ちあぐねた。不振を極める打線のなかで、唯一好調を維持していたセギノールも抑え込まれ、攻略の糸口をつかめなかった。中4日で先発したダルビュッシュは2試合連続の2ケタ奪三振と力投した。しかし打線は9回から代わった岩瀬にも3人で仕留められ、完璧に封じられた。

壮絶な投手戦を中日が「完全試合リレー」で制した。中日は2回先頭のウッズがダルビュッシュのシュート回転の球を左前へ。続く中村紀がスライダーを狙って右中間二塁打。1死二、三塁から平田が外角高めの直球に食らいつき、右犠飛を放った。ダルビュッシュはこの1点だけで7回まで11奪三振の力投。

しかし、山井のスライダーとカーブを巧みに使った投球はそれを上回った。荒木の美技などもあり、8回まで一人の走者も出さず、岩瀬にバトンを渡した。

「本人が言うから」交代劇

中日1-0日本ハム 

9回表を迎えるナゴヤドームに「ヤマイ ヤマイ」の大歓声がとどろく。だが、その直後、場内アナウンスに、3万8118人の観客の誰もが耳を疑った。

「ピッチャー山井に代わり~岩瀬」。中日の山井は8回まで打者24人を一人も塁に出さない完全投球。球数はまだ86球。「体力的には限界ではなかった。」と山井。でも「個人記録はどうでもいい。頑張ってきた岩瀬さんに投げて欲しいと思った」。指揮官は9回を岩瀬に託した。

継投について聞かれた落合監督はさらりと言った。「山井がいっぱいいっぱいと言うから」

3勝1敗と王手をかけ、地元での胴上げがかかった大事なマウンド。川上を前倒しで送る手もあったが、落合監督は迷わず山井を送り出した。

投げ合う相手はダルビュッシュ。でも、ひるまない。「初回から感じがよかった」。鋭く曲がり落ちるスライダーがさえまくる。「後半は一発を警戒した」と丁寧に低めを突いた。低調な日本ハム打線はほんろうされるしかなかった。

バックももり立てた。4回。先頭森本の強いゴロに荒木が飛び込み、素早く一塁へ。続く田中賢の場面では、谷繁が中村紀にセーフティバントを警戒を指示。読みとおりのファウルフライを中村紀が難なく捕った。山井を中心にチームは一つになり、最後はバトンを受けた岩瀬が3人で締めた。

「山井が完璧」だったんじゃないですか」。山井に最高の賛辞を送った落合監督。中日がシリーズ史上初の継投による完全試合を達成し、53年ぶりの頂に立った。

最大の重圧 耐えて締め  抑え・岩瀬

感情が爆発すると、人間の体は想定外の挙動をするものらしい。歓喜の瞬間、岩瀬はガニ股。中途半端に拳を突き上げた。「どうやって喜ぶか、いろいろ考えてたんですけど、すべて吹っ飛んでしまいました」。ラジオ体操のようなガッツポーズに、守備神も苦笑いだ。

緊張感が並じゃなかった。何せ8回までパーフェクトの山井の後を託されたのだ。リードは1点。負ければ名古屋での胴上げはなくなる。「人生初めてでしたね。こんなにプレッシャーがかかったのは」

異様な雰囲気のドームの真ん中で、腹をくくった。「やるべきことをやる」。三振、左飛、二ゴロ。13球で、53年ぶりの日本一を手に入れた。「あの状況でも僕に任せてくれた。その期待にこたえたかった。絶対に」 (篠原大輔)

横っ飛び荒木美技

中日の二塁手、荒木の好守が、山井の快投を支えた。4回、日本ハムの先頭は1番の森本。中堅方向への鋭い当たりを、横っ飛びで好捕した。「体がかってに動いてくれた」。試合後、満面の笑みでそう振り返った。

去年のシリーズでは本来の力を出せなかった。「何とか借りを返したかった」。資料だけではなく、DVDもじっくり見て、相手投手陣の癖を完全に盗んだ。「盗塁は裏づけがあってのもの」。走攻守、持てる力を振り絞って、日本ハムを苦しめた。堂々の優秀選手賞獲得だった。

中日・森野 日本一を語る

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ぶっ通しのノック、力に

昨年、日本シリーズで負けた夜、札幌の街に出ると、お祭りムード一色ですごく肩身の狭い思いをした。今年はリーグ優勝も逃し、一度死んでいる。ここで一泡吹かせてやろうと。だから、日本一は本当にうれしい。

2月のキャンプで急きょ同じ三塁の中村紀さんが加わった。でも、競争しなきゃという心境にならなかった。三塁しかできなければ別だけど、違うところもやっていたから。逆に、監督の信頼がないのかなと考えて発奮した。今年は、内野、外野、一塁とグラブを三つ持ち歩きました。

結局、バッテリー以外、七つの位置を守った。どこでも守れるのは誇り。その方が試合もでられるし、昨年はレギュラーを奪ったといっても、数字的にも周囲の信頼もまだまだだったので、今年はみんなの信頼を得られるように強い気持ちで臨んだ。年間6失策だったけれど、ここ一番で変なミスがなかった。

04年から落合監督になって、練習をすれば実力がつくことに気づかされた。それまで守備は「普通にできればいいや」程度しか思っていなかった。監督のノック?当然つらいし、正直つらいし、正直受けたくないですよ。特に05年秋のキャンプでは放心状態になった。何時間ぶっ通しで浴びたかわからないけど、思い出したくない。監督は僕にとって「野球の先生」ですね。

打撃では。今年は「二度と打てない」といういい当たりが多かった。「ミスター3ラン」と言われました。8本の3点本塁打はすべていい場面。シーズンでは主に5番を打ったけれど、今年は4番のタイロン(ウッズ)が歩かされても、気負いなく打てました。

僕にとって、福留さんが抜けた穴は大きかった。途中で気づいたんです。福留さんの打席で、左打者にどんな球を投げられるかを見ていた。中村紀さんが3番に入り、1番から4番まで右打者。試合の流れを見ているのに、投手の攻め方がつかめず、調子を崩した。1番のつもりで積極的に行くことで克服しました。今年の目標は3割、20本塁打、100打点でした。結果は、2割9分4厘、18本、97打点。本塁打数のわりに打点はよく行ったと思う。初めて球宴に出たし、北京五輪予選はすべての持ち味を出せるように準備するつもり。そして来年は、もっと成績を上げたい。3割と言って届かなかったので、3割6厘と言おうかな。楽しみにしてください。

もりの・まさひこ

横浜市生まれ。神奈川・東海大相模高時代では1年生から活躍。96年、ドラフト2位で中日入団。06年、立浪から正三塁手を奪い、10年目で初の規定打席に到着。今年は七つのポジションをこなし、主に左翼手として日本一に貢献した。妻と一男一女の4人家族。29歳。

2007年11月11日日曜日

忘年会は、銀河鉄道の夜だ。

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今年の【忘年会】を企画しました。

’07 アーバンビルド 

大忘年会「来年はもっと頑張るぞ」

日時:12月27日(木) 15:00~

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」

東京演劇アンサンブル  第25回クリスマス公演 

宮沢賢治・作  

広渡常敏・脚色 

演出  林光・音楽

場所=ブレヒトの芝居小屋 (東京都練馬区関町北4-35-17)                     電話=(03-3920-5232)交通=西武新宿線武蔵関駅北口より徒歩6分

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今年は、いろんなことがありまして、私が企画することにした。東京演劇アンサンブルの志賀さんと、映画の配給も行っている東京T株式会社の高橋さんとのひょんな関係から、私も巻き込まれ、交流を深めているうちに、こんなことになった次第です。社内の誰にも相談しないで進めてきました。ビールを前に「志賀さん、クリスマスには何を上演するのですか」とお聞きしたら、「宮沢賢治の銀河鉄道の夜をやります」と返ってきた。へえ、と驚いた。企画はここで、即、お決まりだった。 今から15年ほど前に、忘年会を兼ねてだったか?、仕事仲間に慰労と感謝、また親睦を図ろうと、銀河鉄道の夜の朗読会をしたことがあった。その朗読会を思いついたのは、当然、私だった。学生時代に知り合った、当時、東京演劇アンサンブルで女優をしていた北村麦子(本名=入江紡子、愛称ツム)さんに依頼した。朗読してもらう文章を、ツムとまとめるのに苦労したことを、懐かしく思い出します。

ちなみに、ツムは東京演劇アンサンブルの代表者の一人である入江洋佑さんの長女です。もう一人の代表者は、志賀澤子さんです。朗読会の後、私は東京演劇アンサンブルの銀河鉄道の夜を2度観ています。そして、今度は3度目だ。

この忘年会に参加していただく皆様には、資格や基準は一切ありません。希望していただく方ならば、誰でも自由に来ていただきたいと思っています。大風呂敷を広げてお待ちしております。日頃、アーバンビルドの社業に邁進している社員の皆さん、その家族の方々、日常業務でお世話になっている各方面のサポーターの方々、どうぞ友人にも声を掛けてご一緒におこしください。なんせ、大風呂敷なんですから。

劇場の収容能力は、130人は可能だと聞いています。でも、130人という限定があるので、予約は必要かと思われますので、当忘年会開催準備室(045-338-3370)のⅠさんには連絡をしてください。

お芝居の後で、劇団の代表者と若手役者さんにお話をうかがうコーナーを作っていただきました。劇団にかける心情(なんで、ブレヒトなのか?)とか、役者にこだわる思いなどを話していただくようにお願いしています。ビールと(柿の種)なども、少々用意させていただきます。酒がないと、見向きもしないお人もいらっしゃるものですから。でも、酒場じゃないですからね、紳士的、上品に、飲み上手でないといけませんよ、淑女に嫌われますぞ。

宮沢賢治の世界は、草や樹木、星や雲、風をも意思や感情をもって登場するのです。是非、銀河鉄道に相乗りしませんか。現在、無料乗車券を風の又三郎が、風に吹かれながら、制作中です。皆様のお越しをお待ちしています。

銀河鉄道

ケンタウルスつゆを降らせ      

ケンタウルス祭の夜、

ジョバンニは不思議な旅をする。

宮沢賢治の幻想四次元の空間へ、

ジョバンニとともにぼくらは旅立つ。

銀河の夜を走る軽便鉄道のかなたに、

人間の愛の愛が、

歴史の歴史が、

そして生命の生命が燃えているかもしれない。

現実世界は銀河の夜のかなたにひろがる

世界の世界の影らしいのだがー

広渡常敏(脚色 演出)   (パンフレットの文章より)

宮沢賢治の〈不完全な幻想四次元〉世界では、人々の願いや祈りによって世界が変化する。思いが実現するのだ。そして銀河鉄道の夜の彼方の四次元世界に〈おかあさんのおかあさん〉がいらっしゃる。三次元現実の〈おかあさん〉は病気で、ジョバンニの牛乳を待っていらっしゃる。四次元世界の〈歴史の歴史〉は三次元現実では〈歴史〉となる。どうやら幻想四次元の投影として三次元現実があるらしい。さながら、マルセル・デュシャンの投影図法のようである。もし三次元現実の人々の願いや祈りが、銀河の彼方の幻想四次元世界に届くならば、不動ともおもわれる現実も変化することができるかもしれない。このような祈り似たユーモラスで稚気あふれる世界像が、「銀河鉄道の夜」の基軸構造である。檜のまっくろに並んだ坂の道で立派に光って立っている電灯の下に自転車のスポークのように四方に伸びているジョバンニの影たち(二次元)。それらの影が地面から起き上がって(三次元となって)ジョバンニを取り囲む。ジョバンニは三次元から四次元へ出発することになる。銀河ステーションに夜の軽便鉄道の音が近づいてくるのだ。

ものがたり〈劇団作成の案内文より)

北の海へ漁に行って帰らない父をもつジョバンニ少年は、活版所で働きながら、病気の母の世話をしている。学校では、つらい仕事のために皆と元気に遊べない。父親のいないジョバンニを見て、友達は仲間外れにする。カムパネルラだけはジョバンニを気に留めていて、ジョバンニもまたカムパネルラにあこがれていた。

美しく飾られたケンタウルスの星祭りの夜、ジョバンニはお母さんのために牛乳をもらいに行く。その途中で、ザネリたちに冷やかされたジョバンニは、町の灯りや子供たちのざわめきから離れて丘の頂上にやってきた。降るような星の下、体を冷たい草の上に投げ出した。寝そべっていたジョバンニの耳に、汽車の汽笛が聞こえてくる。

ジョバンニは影たちの激しい踊りに取り巻かれ、気がつくといつの間にか天の川を走る軽便鉄道に乗って幻想四次元の世界に旅立っていた。どこまでも滑るように走って、決して引き返すことのない銀河鉄道。気がつくと、カムパネルラも乗っている。

「お母さんは僕を許してくれるだろうか」、カムパネルラの突然の言葉にジョバンニは、この幻想四次元の軽便鉄道に乗って、〈お母さんのお母さん〉に会いに行こうと考える。

ジョバンニとカムパネルラの星めぐりの旅。ほんとうの幸せを見つけ出す旅が始まる。傾く銀河の彼方に、ジョバンニはほんとうの幸せを見つけ出すことができるだろうか。

2007年11月5日月曜日

憲法と市民結ぶ政権の夢

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朝日新聞新で、

元社会党の委員長浅沼稲次郎さん

のことを扱った記事が出ていたので、下に転載させていただいた。

私が小学校の5年生か6年生だったと記憶している。演壇に駆け上り、浅沼委員長を右翼の少年が包丁のようなもので2度刺した。浅沼委員長は病院に搬送中に、絶命した。刺した少年は元大日本愛国党員の山口二矢(おとや、17歳)だった。その場で逮捕された。

1960年、昭和35年10月12日、自民・社会・民社の3党首による立会演説会が日比谷公会堂でおこなわれた。浅沼委員長は議会主義の擁護を訴えていたと聞く。右翼の集団が、ヤジを飛ばして演説の妨害をしていた。演説の終わりかけた頃、その集団の中から手に短刀を持った山口が壇上に駆け上がった。そして、悲劇が起こった。

この頃、右翼による活動が活発になっていたらしい。このショッキングな場面を、普及しだしたテレビで、全国的に放映された。茶の間はそのシーンに戦慄した。子供だった私には、その事の重大さが理解できなかった。翌日、私は学校で山口二矢ぶって、再現シーンをやってみせた。そんな無邪気な子供だった。

なんだろう?

何で?

この事件は私にとって、政治とはいったい何なんだろう?と考える最初の出来事であった。それにしても、今から思うに、3党が党首を立てて公開の場で意見を交わすなんて、よっぽど昔の方が民主的だったのではないのか。

その後、浅沼稲次郎は私の出た大学と同じと知って親近感を抱くようになった。あのガラガラ声と、その特徴的な風貌で人気があったと聞く。「ヌマさん」、と友党にも対立する党にも慕われていたそうだ。

ポリチィカ にっぽん  早野 透(朝日新聞コラムニスト)

2007 10 29 朝日朝刊

浅沼と江田

「ドナウの真珠ブダベスト。失われた革命とオリンピックの栄光」。そんな誘いのフレーズに惹かれて、「君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956」の映画の試写を見にでかけた。

独裁的な共産政権下、市民たちは自由を求めて立ち上がった。だが、ソ連の戦車がたちはだかる。流血、そして敗北。その渦の中で愛し合ったオリンピック水球選手と女子学生の悲劇。「私たちはかみしめる。自由はすべてに勝る贈り物であることを」。いい映画だった。

「ハンガリー動乱」から半世紀、この国は自由をかちとって、この映画ができた。ハンガリーに遅れること4年、日本では、国会の周りを空前の民衆デモが取り囲む「安保闘争」が起きた。こちらももう少しで半世紀になる。日本の場合、あの劇的な日々は何を生んだんだろう。

今月12日昼、国会近くの憲政記念館で、社会党委員長だった浅沼稲次郎の追悼集会が開かれた。1960年のこの日、「ヌマさん」は東京・日比谷公会堂で演説のさなか、17歳の右翼少年に刺殺された。岸信介首相退陣とともに「アンポ ハンタイ」のデモの波が引いて、高度成長に向かったころだった。

沼は演説百姓よ                                                   汚れた服にボロカバン                                      きょうは本所の公会堂                                        あすは京都の辻の寺  

戦前から「無産階級」のために、がらがら声で走り回った。 「人間機関車」ヌマさん。東京の下町、深川の安アパートに住み、馬肉を好み、銭湯に通った。底抜けに楽天的で、かくも大衆に愛された政治家はまれだろう。しかし、なぜ、いま急にヌマさんなのか。

追悼集会で、土井たか子、村山富市の歴代委員長が語った。岸信介の孫、「戦後レジームからの脱却」の安倍晋三首相は退陣したけれども、国民投票法は残った。土井さんは「参院で与野党逆転した。次は憲法を大切にする多数派をつくらなければ」と述べ、村山さんは「9条を守ること。それが浅沼さんが生きているということ」と熱弁をふるった。集会呼びかけ人には民主党の横路孝弘衆院副議長、江田五月参院議長も名を連ねた。どうやらヌマさんをかついで、安保闘争にも似た「護憲再結集」を策そうということらしい。

もうひとつ、同じ12日の夜、「江田三郎没後30年・生誕100年を記念する集い」が都心のホテルで開かれた。浅沼が殺されて社会党の委員長代行となったのが江田である。銀髪、ソフトな語り口、エダさんはヌマさんとは違った魅力でテレビ時代の大衆をひきつけた。

しかし、それからの江田はいばらの道だった。かたくなな社会主義ではもうだめだと「構造改革」を唱え、「江田ビジョン」でこれからの四つの目標を打ち出した。         アメリカの生活水準                                        ソ連の社会保障                                          イギリスの議会制民主主義                                   日本の平和憲法  

今から思えば、なんと当たり前のことだろう。江田がめざしたのは「市民的自由」だった。だが、教条派は「敵のアメリカを見習えとは何だ」と悪罵を投げ続けた。そんなことでは社会党は人々の気持ちをつかめないのに。江田は「議員二十五年政権とれず 恥ずかしや」と嘆きつつ、一人で離党した。

「記念する集い」のシンポジウム で、民主党の菅直人代表代行、江田の息子の五月参院議長らが語り合った。69歳の江田が死を前に「社会市民連合」をつくったパートナーが当時30歳の菅さんである。「江田さんの社会主義は社会正義のことだった。こんどの参院選で民主党が掲げた『生活が大事』と同じではないか」と発言した。江田ビジョンはいまの民主党につながる。

江田の心残り、「政権」も手に届くところにきた。菅さんは「衆院解散に追い込んで届かなくても、また解散に追い込む。2度でも3度でも挑戦する」と述べた。3年間は変わらない参院の野党優位状況をテコにすれば、それは可能である。

ヌマさんが「無産階級」のために奔走したとすれば、社会党の末裔社民党の福島みづほ党首は「ワーキングプア」のために走り回る。働いても働いても浮かばれない格差社会。福島さん4月、東京・新宿でフリーターや派遣、過労死寸前の正社員たちの「自由と生存のメーデー」のデモと一緒に歩いた。7月、「生きさせろ!」と叫ぶ作家雨宮処凛さんらの人材派遣会社のピンハネへの抗議シュプレヒコールにも参加した。

今月24日の福島さんのパーティーで、彼女は語った。「私は弁護士のころは、市民運動にも加わって、ルンルンと生きていました。政治の世界に来るとそうはいきません。なかなか勝てないので辛い思いもする。やりたいこととやれることのギャップの感じます。政治は、巨大壮大な権力構造です。安倍さんのことはひりひりする思いで見ていました。私は、しぶとく、まっとうな社会にするためにがんばっていきたい」

完了支配でも市場原理でもなく、憲法と市民と生活を結ぶ、もう一つの政権。野党の現実は混迷に満ち、力量不足も否めないけれど、ここは大きな夢をみたい。あの「安保闘争」から半世紀になんなんとして、同じ日の昼と夜、浅沼と江田を偲ぶ集会があったのは、そんな未来図への寓意だったかもしれない。

                       

2007年11月3日土曜日

図星です。相続税は地獄招きだ。

さすが、朝日新聞さんだ。私の考えていたことと全く合致したコメントだった。あっぱれだと思いました。今は小さな意見かもしれないが、そのうち世の中を揺さぶる意見になると、私は、確信してしています。全国の頑張っている中小企業の経営者の皆さん、こんなことが、文字になって、意見として主張してくれた朝日新聞に感謝して、実現するように関係各省庁に圧力をかけましょう。

2007 11 1 朝日朝刊

未上場株式相続の「タワケ」 経済気象台)     (樹)

相続税とは、親の残した財産を相続するときにかかる税金である。親が働いてたくさんの税金を払った残りを節約してつくった資産である。そういう意味では二度目の課税となる。それでも、土地建物といった不動産、上場企業の株式や債券、銀行預金など換金可能な資産の相続なら換金後に納税することができる。だが、中小企業の後継者には、未上場企業株式の相続による納税が重大な責任と義務となっている。相続税の目的は、富の配分による貧富の差の拡大防止とされる。しかし、未上場企業の株式の相続は財産の相続というよりは事業の継続だ。

換金できない自社株に誰も買わない高額な株価を設定し、これに税がかかる。だが、後継者には支払い可能な資金はない。未上場株の換金は不可能だからだ。このため兄弟で平等に分割継承された株式では事業を継承した人が債務者、株式のみを相続し経営に参加しない人が債権者という妙な関係になってしまう。

親から継承した小さな田圃(たんぼ)を兄弟で平等に分け合うことを、「タワケ」と言う。尾張地方の方言で、「馬鹿」という意味だ。事業継承遺産を均等に分けた結果、全員が食っていけなくなる、ということへの皮肉である。

有能な経営者が相続対策という非生産的な仕事に貴重な時間を割き力を注ぐ。これは国家的損失だ。現在オーストラリアには相続税はなく、米国も10年にはなくなると聞いている。

業績を上げ、長年にわたり納税を行い無駄使いをせず内部留保を高めた優良企業。そんな企業の株式評価は高く、事業継承時に多額の相続税が発生する。これでは優秀な中小企業経営者ほど最後に「罰金」を課せられるようなものだ。農業の後継者と同じく、未上場企業に事業継承の特例を設けるべきだ。さもないと、いずれこの国から、中小企業が姿を消すことになってしまう。

またかよ、尾崎 豊だ。涙その④

昨夕(10月31日) 帰途、カーラジオのスウィッチをオンに入れたら、馴染みのあの歌手の歌声が流れてきたではないか。尾崎 豊だ。

瞬間、ドキっとした。あの声が怖いのです。恐れていたのです。あの歌声が一旦私の鼓膜を揺るがしたならば、胸はキュンと締め付けられ、涙腺が緩み、脳の活動が停止し、視線が定まらなくなるのです。そのうち、うつむいてしまうのです。

「シェリー 」、そして

やっぱり、「15の夜」だった。

夕方の5時半頃、NHK・FM82.5

毎週水曜日は、営業のスッフの定休日なので、少し早く会社を出た。近所に住む長女が孫を連れて家に来ていることも、大きな理由だったのです。鰤(ぶり)大根の作り方を母親に教えてもらいに来たのよ、と言っていた。又、かえで(私の孫の名前です)と来ているので、早く帰ってきてと急かせられていたのです。

「シェリー」が終わり、まさに自宅の駐車場に着く直前に、「15の夜」が始まった。

糞!!

車を駐車場に入れた。エンジンのスウィッチが切れない、ラジオの電源は点いたまま。尾崎は歌い続けている。家人は私の帰宅に気がつかない。ライブでの収録盤で、歌声はかすれ、感極まっている聴衆の声が混じっている。尾崎が、必死に、聴衆に語りかけるように歌う。ライブ会場を感動の坩堝(るつぼ)化したような異様な雰囲気を伝えてくる。

私には、ラジオのスウィッチが切ることができない。

盗んだバイクで走り出す、行く先も解らないまま、暗い夜のとばりのなかへ~。冷たい風、冷えたからだ~。

う~ぅ、う。

躊躇いながらシートを倒して聞きふける。やっぱり、私はやられてしまった。彼に弱いのだ。車の中から窓越しに自宅のリビングを覗くと、孫が長女と遊んでいる。犬は二匹が寝そべり、もう一匹は食卓の下を駆け回っている。女房が夕食の準備をしている。食卓には、数種類の料理が並べられている。まだ歩けない孫が、皆の感心を集めているのだろう、駐車場の車の中の私ことには、誰も気付かない。室内は平和な家庭そのものだ。

尾崎は、愛したい、愛されたい、信じたい、確かめたい、と繰り返し歌っている。

私はといえば、一人、車の中。尾崎が胸を掻ききらんばかりに歌っている。私は、やっぱり泣かされた。涙が止まらない。シートに縛り付けられ、身動きできない。全身をシートに深く沈めて、泣いた。家族は、私の帰りを楽しみに待っていてくれる。でも、こんなに、涙ボロボロでは、自宅には入れない。

私は、尾崎に縛り付けられ、もう~離れられな~ああ~い。と尾崎の真似して口ずさんでみた。

一ヶ月に2度も尾崎の歌を浴びせられるとは。幸か不幸か。この機会に感謝したい。

2007年11月1日木曜日

いよっ!! 中日・落合監督。

ナベツネのオヤジさんは、さぞかし悔しがっていることでしょう。今シーズン、読売ジャイアンツ・巨人はセ・リーグ優勝を果たした。クライマックスシリーズでは、巨人は、リーグ優勝の祝勝会の酔いが冷め切らないまま、中日は、監督の落合が頭を丸坊主にして、文字通りチームを一丸化。双方、試合に臨んだ。結果、私の想像していた通りというか、案の定というか、巨人は中日にけちょんけちょんにやられた。

そして中日は、パ・リーグの日本ハムと日本シリーズを戦うことになった。昨日(10月29日)までは、中日の2勝1敗だ。これからが、楽しみですぞ。日本ハムだって、そう簡単には負けるわけにはいかないだろう。今シーズン絶好調のダルビッシュが控えているではないか。ダルビッシュは婚約中とかで私生活も充実している。未来の夫として、特に許婚にはいいところを見せたいところだ。沢村賞も獲得した。いけいけどんどんの、今は旬(しゅん)、真っ盛りの投手だ。

球場への来場者はどの試合も満タンらしい。さぞかし、参加チームの収益はいいのだろう、これからもどのように試合の勝ち負けが進むか解らないけれども、いい結果は間違いなしと推察できる。

書き込み(11月1日)=昨日、日本シリーズ第4戦。中日対日本ハム戦は、中日が4:2で勝った。これで中日の3勝1敗で、王手をかけたことになる。次はお待ちかねのダルビッシュ君の出番だ。ここで、ダルビッシュが中日にストップをかけられるか、楽しみだ。昨日も中日の中村紀が決勝打をはなった。中日が優勝したときには、きっと、落合監督とこの男が話題になるのでしょう。我輩も心の準備をしておこう。

ここで、私は余計なことを考えてしまうのです。何かにつけてうるさいナベツネさんが、オフになったら、又何かを言い出しかねないだろうと。クライマックスシリーズはよくないとか、止めようとか。あのオヤジから目を離せないオフになりそうだ。

2007 10 30 朝日朝刊 スポーツ面

EYE  西村欣也

落合采配 反骨と熟練と

04年の日本シリーズ前の出来事を忘れない。プロ野球界は再編騒動の嵐に巻き込まれていた。ペナントレース終盤には日本プロ野球選手会がストライキに突入する事態になった。セ・リーグは中日が首位に立っていた。監督は落合博満だ。

選手会総会に出席しようとしていた井端弘和を落合が引き止めた。何を言われるのか、と井端はわずかに緊張した。落合は静かに言った。「徹底的に戦って来い。日本シリーズがなくなってもいい。世の中にはそれ以上に大事なことがあるんだ」

選手が権力に押しつぶされることに我慢ができない。それは落合の人生観と重なり、今もぶれることはない。

そのシーズン、中日はリーグ優勝し、西武との日本シリーズに臨んだが、王手をかけながら3勝4敗で負けた。落合・中日は昨年も先勝しながら日本ハムに4連敗して、チャンピオンフラッグに届かなかった。中日は54年に日本一になって以来52年間シリーズを制していないことになる。

落合の反骨精神は04年当時と全く変わっていない。しかし、今年のクライマックスシリーズから日本シリーズにかけて、彼の野球にわずかだが、確かな変化が見える。

例えば、競った試合では、岩瀬を8回途中から投入する。第2ステージ巨人との初戦では、予想外の小笠原を先発させ、巨人ベンチを混乱させた。「奇襲じゃない。ローテーション通りだよ」。笑って言ったが、そうではない。短期決戦での戦い方を過去の敗戦から学び取ったのだ。シリーズ第2戦で大量リードの9回に中田を下ろし、石井、クルス、高橋をつぎ込んだのは、使える選手の見極めをする目的もあった。

落合監督のタクトが52年間の呪縛から中日を解放することになるのだろうか。

2007年10月29日月曜日

地鎮祭、直会と社員旅行だ。

楽しみにしていた

地鎮祭と直会(なおらい)と社員旅行

を無事に終えた。

9日は那覇前島でホテル建設のための地鎮祭と直会をやってきたのです。神事は地元、普天間宮の宮司さんに執り行っていただいた。神事の進行は、沖縄も同じだった。沖縄では、神事を夕方から執り行っても、それ程変則的ではないと聞いたので、当方は迷うことなく、夕方から行うことを選択した。暑さを避けたいのと、ゆっくりダラダラ飲みたかったからです。この選択は正しかった。当日の気温は、昼間35度を越えていました。

地鎮祭以外の時間は、海で泳いだり、ちゅら海水族館、ひめゆりの塔、平和祈念公園、首里城公園と思い思いの観光・レジャーを楽しんだ。沖縄料理と幾種類もの泡盛を、足の先から、頭のてっぺんまで、溢れんばかりに飲んで喰ってきました。

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私と小見さん、伊藤さんとは、次のホテル建設の候補地探しを地元・友人に案内してもらった。どこまでも、仕事に懲りない連中です。

10月9日  17;00地鎮祭

        17:30直会

先発隊は8日から10日。

後発隊は9日から11日の2泊3日。

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直会は地元の友人・仲本さんがいろいろと地元の舞踊、三味線、民謡を取り入れてくれて、こちら側から行った者には、モノ珍しいことばかりで大いに楽しませていただいた。とりわけ、沖縄の民族衣装を纏った子供たちによる太鼓を叩きながらの群舞に、我々も気分が高まってきて、つい周りで踊りだしました。イヤ~いやいや、と囃すのです。この「イヤ~いやいや」はなんですか?と宮司さんに尋ねたら、頑張って、頑張って、という意味だと教えられた。踊りは、沖縄の人のようにはいかなかったが、酒の勢いを借りて阿波踊りを真似て、頑張りました。阿波踊りでは、両手を頭の上の方で、リズムに合わせていきよいよく突き上げるようにしますが、沖縄では両手を波のように、横に左右に静かに揺るがせるのです。

こちら側からの特出し企画は餅つきだ。小見取締役がスタッフと飲んでいるときに、沖縄では、めでたい催事において、餅をつく風習がないことに気付いて、その場から沖縄の友人・仲本さんに相談したところ、そりゃ喜びますよ、是非お願いしますよ、と返答あり。解りました、やりましょ、と即答。でも石臼と杵だけは何とかそちらで手配をお願いします、と投げかけた。するとしばらくして、石臼と杵はなんとかなりました、との電話。演舞で頑張ってくれた少年や少女は、ついた餅をみんな平らげてくれました。餡をつけて、おろし大根をつけて。非常に美味しいと言ってくれた。

臼と杵で餅をつくということは、めでたいことなのですよ。豊穣を祈り、豊作を祝う。男女の幸せな交合をイメージしていて、廃(すた)ることのない末永い幸せを祝う。特に田舎などではお祝い事には欠かせないのです。都会では、自治会の行事とか子供会のお楽しみ行事として行われているのです。当日、みんなの前で実演したところ、地元、沖縄の人はすごく興味をもってくれた。小見取締役と業務部のボスの和泉の大勝利だった。ごくろうさん。喝采を受けた。石垣島から来ていただいたい石垣島観光協会会長、ロッテのキャンプ地での後援会長の肩書きをお持ちな名士は、私に、石垣島では餅つきを目の前で見た者はそんなに居ない筈ですよ、と仰っていた。レイコフの山本社長にもついていただいた。「私はぎっちょなんですよ」と少しつきにくかったようです。

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踊りました。とにかく、よく踊りました。直会のスピーチ以外は最初から最後まで踊っていました。学生時代の文化祭の夜の打ち上げのようでもあり、ブラジルはリオのカーニバル風のようでもありました。ちっとも、大げさではないですよ、それほど、激しく楽しく踊ったのでした。そして、気がついたときには、うちの会社の者だけが、残って踊っていました。

これらの決められた行事以外は、社員旅行なのですから、自由に勝手に遊びました。

行事と自由時間の様子はカメラが的確に撮っているので、写真を見ていただければ、全てのことが、想像していただけると思います。醜い写真も、恥ずかしい写真も含めて公開した。

〈神事〉

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〈直会〉

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〈自由時間〉は、遊びに夢中だったのだろう。誰もいい写真を撮っていなかったようです。

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2007年10月15日月曜日

「母」 東京演劇アンサンブル公演

「母」  おふくろ

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生きている以上、「決してできない」なんて言ってはいけない!

「決してできない」が「今日にもできる」にかわるのだ。

東京演劇アンサンブル公演   広渡常敏追悼  2007年度文化庁芸術祭参加作品

ベルトルト・ブレヒト/作   入江洋佑/演出  林光/音楽

10月5日(金)

19:00~  ブレヒトの芝居小屋

以下の文章は、東京演劇アンサンブルが発行している印刷物のなかの文章を利用させていただきながら、私見を加えて綴りました。

ブレヒト作「母ーおふくろ」は、東京演劇アンサンブルによって60年、日米安全保障条約の改定の最中に初演された作品です。国会議事堂を毎日30万人の労働者・学生・市民が取り巻き安保反対のデモがおこなわれていた。赤旗やプラカードをもった人たちがそこらじゅうで頑張っていた。そんなある種革命的昂揚のなかで、『母』は上演された。あれから50年経つ。安保条約は今さらに強固になり、日本にアメリカの軍事司令部が移ってくるという。そして60年安保の時の総理大臣岸信介の孫の安倍晋三が〈美しい国〉という言葉の中で、憲法改悪をスケジュールにいれた。アメリカのエージェントの孫が戦争をしたい国に変えてしまった。街で赤旗を見ることも、運動という言葉も聞くことも少なくなった。だから、入江洋佑さんは上演をしたいと考えた。その後、安倍晋三は、挫折して総理の席を下ろされた。病気も理由らしいけど。〈美しい国〉よりも、まずは民主的で平和な〈普通の国)をめざしたい。

歴史の表層に映る革命ではなく、ひとりの母親と、一人の息子の人間の心のなかに揺れ動く《変化》=革命(山岡)を。ゴーリキーは革命の退潮期に『母』を執筆し、ブレヒトはナチスが政権を獲得する直前に、労働者と協力して、この『母』を上演した。勿論、即上演禁止になるのだが。

ストーリーは、次の通りです。

労働者の寡婦であり労働者の母であるペラゲーヤ・ウラーソワが、当初息子たちの運動がよく理解できなかったのだが、息子の周りの人たちに関わっていくうちに、息子たちの活動を徐徐に理解していく。そして、知らぬ間に活動のお手伝いから、本格的活動家になっていく。息子にかわって、ストライキのビラの印刷から始まった。そのビラをまくことから、始めたことによる発見と、学習と認識、実践に身を挺する物語です。

劇団としては、「明日を紡ぐ娘たち」に連なる作品として、広渡常敏追悼の公演でもある。コミュニズムの真の姿を問うブレヒトの大作に入江洋佑代表が演出して、もう一人の代表者である志賀澤子がペラゲーヤ・ウラーソワ役を熱演された。頑張っておられることに感動しました。以前、東京テアトル株式会社OBのT氏と共に、居酒屋でビールを飲み交わしたときの物静かな表情からは想像もつかない迫力だった。格好、良かった。

私が初めて東京演劇アンサンブルの舞台稽古を見せていただいたのは、今から37年くらい前のことだったと思う。劇団の代表者である入江洋佑さんの友人で、当時、私とベッタリ付き合っていただいていた放送作家の牛島孝之さんに連れられて行った。演出家、俳優さんが公演前の最後の仕上げを確認していた。学生だった私は、天井桟敷や黒テントやアングラの学生演劇を見歩いていたものだから、何かが違うぞ、との思いがあったのだろう。そんな私のちょっとした一言で、牛島さんから私は噛みつかんばかりに、叱られたことがあった。不用意な発言だったのだろう、が私は何を喋ったのか覚えていないのです。牛島さんも私の発言を最後まで聞くどころか、言い出した単語の1,2語で、瞬間的にガツウ~んときた。余りの勢いに、怒られた理由を聞き出せなかった。滅多に激高する人ではなかったのに。芝居に関わる人々の気魄、心意気、信念、誇りが、私の配慮のない発言で、傷つき爆発したのだろう。劇団とは、それから、心のお付き合いです。

その時はきちんと理解できなかったのですが、とりわけ、ブレヒトの芝居小屋の人たちは、この演劇集団は、本気に「マジメ」だということです。なめたらアカンで、と痛感させられた。そして畏怖さえ感じました。その訳は何なんだろうと、今でも思い続けている。ところが、何となく解ってき始めた。鍵はブレヒトだったのです。兎に角、ブレヒトを学習しなければならないわい。ブレヒトを学習すれば、その謎が解けると確信した。

ブレヒトの芝居小屋改修基金のお願いの文章のなかに、この劇団の信念の一部が伺えたので、ここに転記する。

「文化・芸術が巨大化し、個性あふれる独創性が、みるみる失われていく現実のなか、このブレヒトの芝居小屋を現代社会への鋭い批判の生きた発信地として、発展させていくことの重要さを私達はあらためて感じています」。

久しぶりに会った入江さんは、元気だった。でも、ちょっと年をとりましたね、と言ったらそりゃそうですよ、と頭を掻いておられた。志賀さんのパワーにも感服しました。

未来への構想力      入江洋佑(演出)

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広渡常敏(タリさん)が亡くなって、一年経った。亡くなった9月24日には、稽古が終わってからみんなで静かに(?)飲んだ。

タリさんの追悼公演の1本目は、タリさんの最初の戯曲『明日を紡ぐ娘たち』だった。そして2本目が今回の『母』だ。

タリさんはブレヒトが好きだった。だから都心からはずれたこの武蔵関にブレヒトの芝居小屋を作った。タリさんは温かく過激な人だ。だからぼくたちも温かく過激な『母』を選んだ。タリさんは大丈夫かいと苦笑いしているかも知れない。

今度『母』の稽古をしたり、いろいろな資料を読んだりした時、ゴーリキーも、ブレヒトも歴史を視るスパンがぼくと違うということがよく解った。

ゴーリキーは、1905年の血の日曜日の虐殺に抗議し、ペトロバウロフスク要塞監獄に投獄された。そして、1906年ニューヨークに亡命して『母』を執筆した。その時ゴーリキーは「10人か20人の人間はひょっとしたらこの本を読んでほっと溜息をつくかも知れないと思う」と言ったといわれる。

ブレヒトは1932年、ナチスが230の議席を獲得した時に『母』を上演、勿論すぐに上演禁止となる。多くの人に読まれないだろうことも、芝居が観客に出逢わなくとも、その作品が生き続けること、そして、それはどこかで世界を変えていくのだという未来への構想力の信念があったのだろう。

劇団の現実は苦しいし、厳しい。でもそれを承知で芝居を続けている。その中で遠い未来への構想力を創りだそう。モタモタした話し合いの中から。

今回のポスター・チラシの絵は、ブレヒトと同じ時期活躍したドイツのケーテ・コルヴィッツが1924年、第一次世界大戦開戦10周年の反戦青年大会のためにかいたものです。彼女にも「母」の連作があり3人の芸術家の「母」に瞶められての上演ということになりました。

なおケーテ・コルヴィッツの作品を、初めて日本に紹介したのは、この『母』の翻訳者である千田是也氏です。

後々の為にプログラムに書かれている「場割」を転載させていただくことにした。

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1、世界中のウラーソワたち

2、ペラゲーヤ・ウラーソワは息子が革命的労働者と一緒にいるのを見て心配でしかた 

  がない            

3、泥沼のコペーカ

4、ウラーソワは経済学の最初の授業を受ける

5、メーデーの報告

6、教師ニコライの住居で

  a,ベラゲーヤ・ウラーソワの息子が逮捕された後、イワン・ウエッソウチコフは彼女

    を、教師をしている兄のニコライのところへ連れて行く

  b、煽動しているウラーソワのところへ、教師ウエッソウチコフが、突然帰ってくる

  c、ベラゲーヤ・ウラーソワは文学を習う

  d、イワン・ウエッソウチコフはあぶなく兄を見違えるところだった

7、ウラーソフは監獄にいる息子を訪れる

8、農民の騒擾と農場労働者のストライキがこの国を揺り動かした

  e,田舎道

  f,農場の料理場

9,7年後、パーヴェル・ウラーソフがシベリヤ流刑から帰って来る

10,フィンランドの国境を越えようとした時、パーヴェル・ウラーソフは捕らえられ、銃殺

   された

11,息子の死がベラゲーヤ・ウラーソフの革命的な活動を麻痺させた。病の床につきな

   がら、彼女は世界戦争勃発の知らせを聞く

12,流れに抗して

 

沖縄集団自決に軍の関与はあった。

沖縄集団自決問題

9月29日の沖縄県民大会

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安倍首相が退任した。そのお陰で、「戦後レジームからの脱却」だとか、何とか言っちゃって、イヤに威勢がよかった一派『私はこのグループのことを日本の悪霊と言っているのです』が、ちょっと沈静してきた。確かに、戦後レジームからの脱却をしなければならないことは、山程ある。やらなくてはならない喫緊の問題がある。足元を揺らがしている火急の問題があるでしょ。そんなことには目を瞑って、この悪霊たちは、憲法改悪を進めようとしていた。教育基本法を何十年ぶりかに改正したことの評価を受けたがっていた。残念、全然、なんとも感じなかった。従軍慰安婦問題では、軍は直接関与していない、それを証明するものが見つからなかった、と結論づけた。結果、中国、韓国をはじめアジアの隣国から、強い非難を受けた。

そして、今回、沖縄で集団自決問題で、沖縄は怒っている。私の友人は、狂ったように怒っている。沖縄を馬鹿にするな!!

朝日新聞の記事を参考(引用も含めて)に記述しました。

集団自決には、軍の「強制」を示す資料が見つからなかったとして、教科書から「軍の強制」を示す記述が検定で削除された。沖縄では、集団自決に軍が関与したというのは常識中の常識だ。教科書の執筆者らは「集団自決はすべて日本軍に強いられた」と言っているのではない。そうした事例もある、と書いたにすぎない。それなのに、日本軍のかかわりを全て消してしまうのは、あまりにも乱暴という他ない、と朝日新聞の社説でも主張している。

そして、沖縄では検定意見の撤回を求める沖縄県民大会が開かれた。この教科書検定で「集団自決強制」削除された問題で、検定意見の撤回を求める超党派の沖縄県民大会が9月29日宜野湾市の海浜公園で開かれた。参加者は11万人が参加した。主催側の予想の倍以上が集まった背景には、「戦争」や「基地」にかかわる重いが、なお「本土」との隔たっていることへのいらだちが、根強いのだろう。この事態を重く見た福田首相は、次のようにコメントした。安倍首相なら、どんなコメントを発しただろうか、そしてどのように沖縄に応えようとしただろうか。決して福田首相をヨイコラショと持ち上げているわけではありません。安部の敵前逃亡を喜んでいるのです。安倍は、こういうことになるのではと、薄々感じていたのかもしれない。

福田首相のコメント

☆ (衆参両院の代表質問で、沖縄戦で日本軍が住民に集団自決を強制したとの記述が教科書検定で削除された問題で、検定意見は)軍の関与を否定するものではない。☆ 06年度の教科書検定は、沖縄の集団自決に関する記述について軍の関与を否定するものではなく、集団自決された沖縄住民のすべてに対して自決の軍命令が下されたか否かを断定できない、という考えに基づいてなされたと承知している。☆ 沖縄県民の思いを重く受け止め、文部科学省でしっかりと検討している。(教科書会社から訂正申請があった場合には)☆ 真摯に対応する。☆沖縄戦は住民を巻き込んだ悲惨な戦いであり、これからも学校教育においてしっかり教えていかなければならない(と強調した)

教科書検定を「透明に」

検定審議会は現在。中立・公正を保つために、原則非公開。総会は議事要旨のみが事後的に公開されているが、具体的な審議をする部会や小委員会は開催日時を含めて、明らかにされていない。

渡海文部科学省のコメント

☆ 非公開でする部分はちゃんと説明し、それ以外の部分については基本は公開でおこなうということが、様々な疑義が生じないことで大事だ。☆ (ただ)途中段階で議論はこうなっているということになると、委員が自由にものが言える環境にならないかもしれない(全面公開は難しいとした)。

発端の訴訟 11月に山場

検定意見が付く発端となったのは、座間見島の第1戦隊長だった梅沢裕さん(90)と渡嘉敷島で第3戦隊長だった故・赤松嘉次さんの弟秀一さん(74)が、岩波新書「沖縄ノート」(70年)の著者で作家の大江健三郎さんと岩波書店に出版差し止めなどを求めた訴訟だ。11月9日、大江さんの証人尋問が大阪地裁であり、山場を迎える。「生存者らが戦後、遺族年金を得るために軍の命令だったと証言したのが真相だ」と主張する原告側に対し、大江さん側は、地元の資料などから、「軍の命令はあった」と反論してきた。

2007 10 3

朝日朝刊   天声人語

ざわざわ ざわわ~と繰り返す「さとうきび畑」は、好きな曲だ。沖縄の悲しみを、情感を込めて歌う。だが、以前から少し気になっていたところがある。〈むかし 海の向こうから いくさがやってきた〉のくだりである。

戦争は、海に生まれた台風ではない。「鉄の暴風」と言われる沖縄戦の悲劇は、自然の営みではなく人間のおろかな営みの果てに起きた。「いくさがやってきた」が呼び起こすイメージは、美しすぎはしないか。やって来たのは、武器を携えた「日米の軍隊」だったのだから。

日本軍は住民を避難させず、戦いにも駆り出した。軍民混在の戦場は、「ありったけの地獄を集めた」(米軍報告書)と形容された惨状を生む。集団死(自決)も各地で起きた。軍の強制があったことは沖縄では常識である。

その記述が教科書から消されることに、沖縄は怒った。抗議の県民大会は11万人でうねった。「分厚い教科書の中のたた一文、たった一言かもしれない。しかし、その中には失われた多くの尊い命があります」。高校生、照屋奈津美さんの訴えが胸を突く。

大学に進んで、日本史の教師になりたいという。醜くても真実を教科書にとどめ、沖縄の痛みを共有してほしい。そんな願いを込めた、本土への呼びかけでもあっただろう。

ざわわ~は、詩と旋律が深い悲しみをたたえ、それゆえに人を癒す不思議な歌だ。その癒しの花が、「ありったけの地獄」に根ざしていることは、知っておきたい。島の悲しみが、容易には消えないことも。

第29期各部行動指針

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2007年10月11日木曜日

「なでしこ」ジャパンA に涙。その③

FIFA女子ワールドカップ中国2007、9月17日にグループステージ第3戦でドイツと戦って負けた。このときのなでしこジャパンのチームがとった行動が、翌日の新聞のスポーツ欄に出ていた。切り抜いて、後日、ブログで私が感動したことを書こうと思っていたら、流石、朝日新聞がそのことを、社説で取り上げてくれた。私の拙い文章よりも、洗練された文章を堪能して欲しい。

これが、私の最近の涙物語、その③です。

2007 9 30  朝日新聞 朝刊(社説)

日中35年 「なでしこ」の精神で

中国・杭州で行われた女子サッカーのワールドカップで、日本代表チーム「なでしこジャパン」は観客のブーイングを浴び続けた。相手のドイツには声援と拍手が沸き起こる。04年のサッカーアジア杯を思い出させる光景のなかで、なでしこは善戦むなしく敗れた。

だがここから意外なことが起こる。なでしこは試合後、「ARIGATO 謝謝 CHINA」と書いた横断幕を広げて、並んでお辞儀をした。淡々とホスト国に感謝を伝えたのだ。すると、このことが中国国内で反省の声を呼び起こした。「彼女たちは感情を乗り越える勇気をもったが、我々は以前のままだ」と、中国紙は論評を載せた。

フェアプレー精神をしっかりと受け止めたところに、中国側の変化もうかがえる。日中がどう向き合うべきか。なでしこジャパンの一件は大きなヒントを与えてくれたと思う。

日中両国が戦争からの不正常な状態を終わらせ、国交を回復させてから35周年を迎えた。祝賀の日に合わせ、それぞれ市街地に近い東京・羽田空港と上海・虹橋空港を結ぶ第一便が飛んだ。日中の距離がまた縮まった。

35年間に両国の経済は強く結びつき、貿易額は日米間を超えた。だが、国民感情は悪化の一途をたどってきた。日本政府の世論調査では、80年には79%が中国に親しみを感じていたが、昨年は34%だった、89年の天安門事件や05年の反日デモなどの影響が大きいようだ。

わだかまりを和らげ、相互理解を深めることが実に難しいことを改めて思い知る。国民感情が悪いままだと、信頼は生まれず、猜疑心ばかりが先行する。それは2国間だけではなく、アジアや世界にとってもマイナスであり、改善の努力を重ねなければならない。

まず、政治にしっかりしてもらわなければならない。日中の政治体制は違うし、経済の利害もぶつかる。東シナ海のガス田問題も一例だろう。国益がぶつかったときに、話し合いによって冷静に解決することこそ政治の役割だ。その土台は揺るがしてはならない。

靖国神社の参拝にこだわった小泉元首相の時代に日中関係は大きく傷ついた。だが、安倍前首相の訪中をきっかけに、関係は上向いた。アジア重視を唱える福田首相の登場で、さらあなる関係発展への期待が双方から出ている。

目の前のミャンマー(ビルマ)問題は日中協力の試金石でもある。

ミャンマー軍事政権と最も近い関係にある中国が平和的解決に全力を挙げるのは当然だ。日本も軍事政権に対し、弾圧の停止と民主化を強く説得しなければならない。アジアの大国の日中が同時に厳しい姿勢を示すことに意味がある。

日中の連携で、地域に平和と発展をもたらす実績を積み上げていくことが、両国の信頼関係を育てることにもなる。そんな時代のページを開きたい。

古田の涙は、俺の涙。その②

2007 10 1  朝日朝刊 スポーツ

古田の涙

ファンに見せた悔しさ

「知・理」の男、あふれた「情」

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彼の涙を見るのは2度目である。

04年、9月18日の午前1時前だった。ヤクルトの古田敦也は、民放のスポーツ番組に出演していた。前日の午後9時、労組日本プロ野球選手会は、プロ野球史上初めてのストライキに入ることを決めていた。「近鉄・オリックスの統合を1年間凍結して欲しい」という案をプロ野球機構側はのまなかった。選手会長の古田はストライキを打つ理由と心境を、番組で冷静に説明していた。アナウンサーがファンからの激励のファックスを読み上げ始めた時だった。古田の唇が震え始めた。眼鏡をはずした。やがて嗚咽がもれた。号泣に近い泣き方になった。

「ストライキをしてファンに迷惑をかけている。それなのに応援していただいて」。切れ切れに言った。けっして計算したわけではない。しかし、この涙は選手会にとってフォローの風になった。世論はストライキを支持した。

それから3年がたった。9月19日、古田は東京で退団と引退を発表する記者会見を行った。「プロですから、結果を問われるのは当然。ファンを失望させた。ケジメをつけたい」。落ち着いた空気で会見は始まった。

しかし、会見途中で雰囲気が変わった。選手に伝えたいことは?という質問に1分半近くだまりこんだ。続いたファンも惜しんでいるが、という問いには、もう答えられない。「あかんわ。すみません」と言ってから2分間言葉が出ない。涙が次から次からあふれ出てくる。ハンカチで目を覆った。「感謝の気持ちでいっぱいです。ここまでよく応援してもらいました」

普段、涙と無縁の男である。一流のアスリートだけが持つ冷静な自己分析力を持つ選手、監督だった。「野球でピンチになった時もおうですが、ストライキを打った時も同じでした」と彼は話したことがある。「もう一人の古田がね、肩の後ろあたりから見てるんですわ。追い詰められていても、もう一人の古田が追い詰められている自分を冷静に見ている。パニックになることはないですね」

「もう一人の自分が冷静に見ている」という感覚はイチローや松井秀喜、スピードスケートの清水宏保らからも聞いたことがある。優れた選手になるための必要条件に違いない。

だからこそ、大学、社会人出身で2千本安打を達成し、93、97年にはMVPを獲得、ベストナイン9度、チームを5度の優勝に導くことができたのだろう。

そんな彼の涙の裏側には何が隠されてるのだろう。今回の退団会見で涙の意味を聞かれて、こう答えた。「寂しさというよりは悔しさですかね」。選手の補強などをめぐって球団との確執もあったのだろう。ストライキの時も、激励のファックスを読み上げられて、悔しさがこみあげてきたに違いない。

それでも、いつもは悔しさなどのみ込んで顔に出さないことができる男だ。

何が彼を号泣させたのか。キーワードは「ファン」だ。古田は常にファンに向けて野球に取り組んできた。ストライキの時もすだった。「あの時も、近鉄のファンの人たちが直接僕を訪ねてきてくれて、心を動かされた」と古田は振り返っていた。

今回の記者会見でもファンへの気持ちを問われて、長い沈黙と涙につながった。チームの成績の低迷でファンを満足させられなかったという思いがあふれたのだろう。

彼は「知」と「理」の男である。例えば95年の日本シリーズでイチローを徹底的に分析して完全な配球で抑え込んだシーンを鮮明に覚えている。野村克也監督の教えもあるが、彼が培ってきた野球人生のなかで得た「知」と「理」は日本のプロ野球を代表する財産となっていた。

が、「ファン」という言葉を耳にすると、それまで古田の中に隠れていた「情」が姿を見せる。感情が揺れる。涙がこぼれる。大人が人前で涙を見せることに賛否はあるかもしれない。

しかし、僕は「知、情、理」の男である古田の、彼らしい記者会見だった、別れの告げ方だったと思う。