2009年12月31日木曜日

たかが歯ブラシ1本と、バカにすな

毎年、六月の虫歯予防週間に入ると、私が虫歯にならないために工夫していることを、そのささやかな心がけをみなさんに紹介したいと思うのですが、今まで、思ったときとキーを叩くタイミングが合わなかった。そして、半年遅れなのか半年早い目なのか、正月休日を利用して、虫歯予防セミナーを開くことにしましょう。一言で言えば、虫歯の予防は、あなたとあなたの歯とのバトルなのです。勝つか、負けるか。あなたが勝てば虫歯にはなりません。それじゃ、何に勝てばいいのかを、そのことについて話すことにしましょう。

講師は、61歳になるまで虫歯になったことは1度もなく、当然歯医者さんにも行ったことのないヤマオカです。それでは、徒然なるままに講義に入りましょう。

私には現在でも、1本も虫歯がありません。そのことには理由というか根拠があるのです。私の生活の歯に関する部分=「私の歯との暮らしぶり」を紹介することにしましょう。

 

①子どもの頃、オヤツは昼間だけ。

私は貧乏な百姓の三男として生まれました。貧乏だったので、家庭にはお菓子類の買い置きはなく、オヤツと言えば、お餅やオカキ、団子、トウモロコシ、乾燥芋、干し柿でした。何もないときには、母が大きなお握りを作ってくれて、それを頬張りながら遊びに家を飛び出していきました。そのようにオヤツは、夕食までの空腹をまぎらすためのものでした。遊びで大暴れをして、水をガブガブ飲むのですから、食べ物のカスが歯の間に残るようなことはなかったのです。まして寝る前までは、夕食に腹いっぱいにご飯を詰め込むので、オヤツなど欲しくならなかった。寝る前には歯磨きをする習慣は我が家にはなかった。歯には多少汚れはあっても、ばい菌マンが夜な夜な動き回るほど、私の口の中はそんなに楽しそうな環境ではなかったようです。

 

②小学校の歯の検査で、歯医者に注意された。

小学校の高学年のとき、講堂で全児童が一斉に歯の検査を受けたことがあった。その検査で私の歯には虫歯はないが、下の奥歯の1箇だけが、上を向いているのではなく、30度ほど外に斜めに向いていると指摘されたのです。でも、大丈夫、食べ物を強く噛むようにしなさい、そうすれば自然に歯の向きは正常になりますからと言われたのです。その後の私はそら豆や固いものを好んで食うようにした。意識して、食べ物を奥歯で真剣に噛み砕いた。イワシ、サンマ、アジ、サバまでも骨を噛み砕いて食べるようにした。大学でのサッカー部時代、皆と一緒に定食屋に入ってメシをよく食ったものですが、食い終わった時には、私の食器には骨など何一つ残されていないのを部友は不思議そうに思ったようです。その心がけは今でもしっかり続けています。先日、孫の前でサンマを丸ごと噛り付いていると、孫が、ジジイ、骨を食べると骨が丈夫になって、頭を食うと頭がよくなるんだよね、と私が教えた通りに言っていた。頭のいいジジイ思いの孫です。兎に角丸ごと食うことがいいようですぞ。

数年前のこと、何かで読んだ記憶があるのです。食べ物を口に入れてよく噛めば噛むほど、脳の活動が活発になって、結果頭もよくなるのです、そんな文章でした。立派な人がそのように述べていた。このことには、私の場合にはちょっと当てはまらないのですが。誰か博識あるお方の説明待ちにしたい。

 

③お父さんのタバコのヤニで真っ黒な歯に生理的に嫌悪した。

私の父親はヘビースモーカーで、四六時中煙草を口に咥(くわ)えていないと、落ち着かないほどニコチン中毒だった。子供の頃「しんせい」や「いこい」を夜中に買いに行かされた。父は歯を磨かなかったので真っ黒だったが虫歯はなかった。けれども、これは世にも不思議な父特有のことで、ニコチンで汚れた歯は虫歯になりやすいのです。その真っ黒な歯を見て、生理的に嫌になって、大人になったら煙草は吸わないようにしようと、幼心に決めていました。そして歯を磨くのはサボってはいけない、と思い続けてきた。私の父が死ぬ時は、その死因は肺ガンだろうと思っていたのですが、胃がんから色んな臓器に転移したけれど、肺までは侵蝕しなかった。

余談ですが、父が死ぬ1年前に、私の息子がオーストラリアの大学に留学していたものですから、父を連れてオーストラリアに旅行に行った。通りで煙草を吸いたがる父を、みんなが集まる場所では煙草を吸いたくても遠慮しなくちゃいけないんだよ、誰も煙草など吸っている人がいないでしょ、と納得させていたのですが、ところがどこでも行儀の悪い奴がいるもんで、堂々と吸って歩いてる人を見つけてニタッと笑い、そして俺に怖い顔をして、俺にも吸わせろうと怒っていた。

ニコチンで汚れた歯を嫌悪する感覚を磨きなさい。汚い歯を、他人に見せたくない、と思う心が、歯とあなたの激烈なバトルを維持できるのです。

 

④少女雑誌「明星」の広告に影響を受けました。

当時の少女雑誌「明星」などには、アイドルの歯のように白い歯は如何に格好いいか、という広告が出ていた。それはチューブに入った特製の練り歯磨きの宣伝だったのです。その宣伝広告が目立ったのは、私が中学生から高校生になる頃で、異性を意識しだした第二次性徴期だった。女の子に嫌われないように、好かれるために、歯を磨かなくてはイカン、と思った。実は、私にも前歯の一部に黄色い部分があって、悩んだ。これが原因で女の子にもてないのではないかと。

けっして現在の私の歯が綺麗ではないが、気にすることは必要なことだ。他人の目を意識しなさいってことだ。そんな私だから、自分の顔は2ヶ月に1度1000円カットに行った時に目の前の鏡で見るだけだけれど、歯は一日に1度は必ずチェックします。

 

⑤一度も歯医者に行ったことがない、と友人に話したら、友人は私を化け物のように俺を見た。

大学に入った。クラブの関係で強制的に寮に入れられた。一つの屋根の下で、長くみんなと寝食をともにすると、生活のあれこれを話すことになるのですが、何かの拍子で、私は一度も歯医者さんに行ったことがないと言うと、聞いた友人は私のことをまじまじと見つめ、私を不思議な動物でも見るような顔をしたのです。お前、それは凄い、お前は珍しい奴だよ。そこで、私は始めて自分の歯が人並み以上に丈夫なのだと気付いたのです。ならば、一生懸命に手入れをしよう、と決意した。

 

歯を治してからお嫁さんに来てください。

恋愛をした。俺のお嫁さんになってくれ、でも、ちょっと待って、俺のお嫁さんには傷モノで来てもらっては困るので、ちゃんと歯を治療してから、お嫁さんに来てくれと、彼女に頼んだ。彼女は言われなくてもそのようにする心算だったようで、少し気分を悪くしたようだった。女房でもない他人に対して、歯を大事にしてくれとは、なんという失礼な奴だと思ったのかもしれない。でも、私にとっては、健康であるためには、その入り口である歯が何よりも大切なのだと確信していたのです。

そして30年後、息子が嫁をもらうことになった。初めてお会いした娘さんは将来の息子の嫁、歯並びの矯正中だった。矯正する刃金のようなものを歯にはめ込んでいた。なかなか気の利いた女性だと安心した。結婚を前に、歯並びと言えども、歯の治療に精励しているなんて立派だ。私の家人もやはり、歯の治療をしてからお嫁さんに来たのは、前の方で述べた通りだ。

 

⑧歯は意志を表す。

目はその人の心模様を表すという。心の窓だ。それじゃ、歯はどうか。歯はその人の意志を表すものだと思ってきた。悔しい時、踏ん張る時には上下の歯を強く噛み合わせた。そして歯軋りもした。奥歯を噛みしめた。前歯は犬のあまがみのように、何かを始めて感得する際に様子うかがいで、使うことがあっても、強い意志の作用点にはならない。かって勤めていた会社で、上司に意味もなく怒られた時、私は奥歯を噛みしめ、靴の中では足の指5本に力を入れて踏ん張った。自慢の奥歯は耐えられたが、古くなっていた靴下は指先が破れた。

整然と並んでいても、多少不揃いでも、歯は意志を強く表す。

 

⑨大きく口を開いて磨く。

日常の虫歯対策では、先ずは歯磨きだろう。磨く時間は、一日5分以上。2回でも3回でも、トータルの所要時間は5分以上は磨きましょう。私は一日1回、朝風呂の中でだ。風呂では新聞を40分ほど昨日の朝刊と昨夜の夕刊の読み残しを読む、そして体を洗うのが5分、それから歯を磨くのです。大きく口を開けること。大きく口を開けると、歯ブラシの角度に充分変化が与えられるからです。洗面化粧台などでは、大きく口を開けていると、大いに下品であるので、誰にも見られない浴室内がおすすめです。歯茎、歯茎と歯の間も、充分時間をかけて磨くというか、擦(こす)ることです。ハイカラに言えば、マッサージ。それから肝腎の歯本体の磨きに入るのですが、まずは気合を入れること。気合の入ってないブラッシングは、意味ない。

 

⑩歯ブラシは剛毛であること。

歯を歯ブラシで擦ることなのですが、歯ブラシが新品のうちはそんなに強く押し付けなくてもいいのですが、歯の刷毛が腰砕けになってくると、これからが大事なのです。力任せに強く歯に押し付けるのです。腕の筋肉が攣(つ)るほどに力を入れて、疲れたら休んで、また強く押し付けて磨くのです。刷毛が完全にヘタレコンデしまっても、横に広がった刷毛が歯の裏などを磨くのに丁度都合がいいのです。知恵です。

我が家では、歯ブラシの交換は頻繁に行います。家人が新しい歯ブラシに変えますよ、と言うと、これからが歯ブラシと私の一騎打ちが始まるのです。歯ブラシとのお別れバトルの突入宣言です。使い果たした歯ブラシはどうせ捨てるのですから、今までの感謝を込めて、これからの数日間を大事にするのです。歯が勝つか、私の腕が勝つか。それほど、真剣に歯ブラシと歯の格闘をするのです。私を媒介にして。そのときに、念じるのです。虫歯になんかならせねえ、と。

新しい歯ブラシの使い始めは、歯茎を傷めて血が出ることがありますが、口の中の血は直ぐに止まるので、血を見ただけで怯(ひる)んで、磨くことをストップしてはいけません。(注)です=個人差はありますので、よく考えてやってください。責任は負いかねますサカイに。

私は学生時代はサッカー部に所属して、そこで私が見出したのは走ることにしても筋肉トレーニングにしても、たまには極度に体にストレスをかけることが必要だということです。1週間の何曜日と何曜日とか、月に何回とか、半年に何回とか、通常の練習ではなくて、極度に体を追い込むことが必要だと体得してきたのです。そんな経験から、歯磨きにも言えることなのです。

社員旅行などで、旅館で泊まる際、3~4人で1部屋をあてがわれるのですが、朝、私の歯磨きの強烈さに同じ部屋の者は肝を冷やします。その激しさは、私にとっては日常的なのですが、他人には理解できないようです。用意された歯ブラシは1回きりでポイ捨てです。どうせ、1回で捨てるならばここまで酷使しないと、私は不満足なのです。

 

⑪練り歯磨きの効能は、解らない。

私はチューブに入った練り歯磨きを使っていますが、果たしてそんなに効能があるものかどうか解っていない。練り歯磨きメーカーの宣伝文句に惑わされないことです。メーカーはいつの世も過大に、誇張して広告するものです。過去の歴史からも、多少の効果があることは証明されているのでしょうが。

練り歯磨きを歯ブラシにつけて磨きだします、その後、うがいをして口の中を綺麗に洗い流します。そして、綺麗になった歯を今度は水で濯(すす)いだ歯ブラシで、もう一度磨くのです。冷たい水で濯いだ歯ブラシは、口の中でとても気持ちがいいのです。歯と歯ブラシの接する触感が、直感的で、清清(すがすが)しくて気持ちがいいのです。この気持ち!! 気持ちいいと感じることが大事なのです。くどいようですが、この気持ちよさを感じることが、歯の衛生管理の基本です。

核

⑫あなたが歯と闘う戦意を、常に高揚させていることが一番大事なのです。サボろうかとか、今日は疲れているから、なんて気を緩めたら必ず虫歯のばい菌マンがやってきます。隙を相手に見せないことです。

 

ここまで、「歯と私の暮らしぶり」を得意満面に書いてきたのですが、実は私にも悩みが生まれてきたのです。最近、上の前歯2本の間に隙間ができてきたのです。以前にも隙間があったのですが、段々その隙間が大きくなってきたように思われるのです。その隙間が段々広くなったらどうするの ? と娘から言われているのです。仕事仲間に前の二本の歯の間が、1センチも空いている人がいて、私はその人の歯を夢見て体が凍りついたことがあるのです。また、昔、大阪の漫才コンビに平和、ラッパ・日佐丸が人気を博していたことがあって、そのラッパさんの前の歯が、私の仕事仲間と同じ程隙間が空いていたのです。天王寺の亀の話をし出すラッパさんの顔も私を苦しめるのです。

それを聞いた長男は、お父さん、元(長男の嫁)が歯並びの矯正をしていたやつがあるので、それを貸してもらったら、ええよ、とぬかしやがる。

もう一人、嫌な奴が傍にいるのです。私が歯について、他人に誇らしげに喋ることに皮肉な視線で眺めている奴がいるのです。私の三女・苑です。彼女は、私の歯にはいっぱい歯垢があって、そんなに自慢しているうちに、ガッツウ~と虫歯になるからと、冷ややかなのです。この身内の敵のためにも、私は頑張ります。

本当は私も、不安を抱えているのですよ、わっ歯っハっ歯です。

 

虫歯予防は、歯とあなたのバトルです。

恩師のガン闘病に学ぶ

朝日新聞の「声」欄に、ガンなどの末期患者に対して、余命の告知をした方がいいのかしない方がいいのか、両方の意見が1週間の間をおいて別々に投書されていた。そのどちらの意見にも正しい理由があると思う。告知する患者の症状のことはもとより、患者の性格や性向を充分配慮しなければならないのだろう。本人だけではなく、家族の人たちにも考慮されなければならない。そんな内容の新聞記事を読んだ後に自宅を出て、会社に着いた。

そしたら、社員の浅が、社長、私の高校時代のクラブの監督さんが、ガンを患ってその闘病の報告会があったのです。恩師は余命4ヶ月と宣告されたのです。その報告会では、こんな話だったのですよ、とA4のペーパー4,5枚のレジメを手渡された。このタイミング、この偶然はなんだ。

このレジメの表題には「奇跡は起きるものではない。奇跡は起こすものだ。ガンなんかに負けるか」とあった。

そのレジメを読んでいて、もしも私がガンに侵され余命数ヶ月ですと宣告されたら、どのような行動をとるのだろうか、何をどうしようとするだろうか。この先生の対処療法を私は、最大に参考にさせてもらううことになるだろう、なあ!

この社員・浅の恩師は体育の先生で、ソフトテニス部の監督さんだ。クラブ活動では、生徒を暑い日も寒い日も叱咤激励、絶え間のない技術の研鑽、それを支える体力の向上、並々ならぬ練習を生徒に課して、その成果を喜びとし、生徒とともに努力を惜しまない先生のようだ。血の気が多い先生。意志も強そうだ。

あっさり、医者の宣告をハイそうですか、とは納得できなかった先生は、色んな医者に会い、自ら学習もして、自分が納得できる治療法をあれもこれも実行して、余命4ヶ月宣言に抗して闘っている。その闘病最中のドキュメンタリーです。

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浅は我が社の自慢の社員です。

高校時代はソフトテニス部で頑張ったと自画自賛しているのですが、仕事においてもなかなかの頑張り屋さんなので、きっと高校時代は、彼が言う通りだったのでしょう。その高校生の時にお世話になった、ソフトテニス部の監督さんがガンを患い、その闘病の内容を教え子に報告した。

話を聞いてきた浅が、私にそのときの報告会でのレジメを見せてくれた。そのレジメを読んで、この監督さんが仰っているガンとの付き合い方が、最もな方法ではないか、と思うようになった。その闘病記というか、ガンとの付き合い方というものを、ここに紹介したいと思った。

先ずは、監督はガンを生活習慣の乱れで起きる病気だと位置づけていることです。

ガンは遺伝にもよると言われているけれど、監督は頑なに生活習慣病だとしている。ガンは生活習慣病なので、生活の乱れを改めることが一番大事で、そのためには食事の改善、適度な運動、ストレスの解消、十分な睡眠、規則正しい排泄に心がけなければならない。

真剣に真剣な顔をしたお医者さんが、コンピューターの画面を見ながら、、余命は後(あと)半年ですよ、なんて告知したらこれは百害あって一利なしだ。事が重大だけに、告げる方も告げられる方も、真剣だ。そんな無神経な医者が多いのだ。

でも、ガンは確かにあることはあるのですが、これを対処の仕方次第では、ガンと共存しながらでも、徐徐にガンを弱らせていく方法もあるんですよ、その為には、よく考えて、あれこれ頑張ってやりましょうよ、と言われたらどうだろう。ニッコリ笑って、私たちと一緒に頑張ってみましょうよ、と言われたら、言われた患者は否応なしに元気になるでしょう。

監督は、西洋医学におけるガン治療の方法に、疑問を投げかけている。現在医療では、手術による摘出、抗ガン剤の投与、放射線の照射が行われている。ガンは増殖するので、治療はそのガンを取り除くか殺すか、弱めるかのいずれかになる。

だが末期ガンは、手術ではほとんど助からない。またガンでなくなる80%が抗ガン剤や放射線による影響で死んでいる事実を指摘している。

 

それでは、監督が行ってきた治療をレジメよりダイジェストさせてもらうことにしましょう。

●ガンに対する恐怖を取り除くには、気持ちの持ち方が大事。主たる治療方法として免疫療法を行った。免疫力を上げていけば自然退縮が可能だと知ったからだ。この免疫療法は、抗ガン剤治療をしていないことが条件だそうです。この施療に関わる医師は全て、明るい希望のある話をにこやかにしてくれた。

それでは、●免疫治療とは、自律神経にある交感神経と副交感神経のバランスを整える療法。ガンやその他の多くの病気は自律神経のバランスの乱れか起こる。特にガンの多くは交感神経優位になると白血球の顆粒球が増える。この顆粒球は体内に入ってきた細菌を食菌するがその処理に活性酸素を出し組織を傷つける。顆粒球が増えるということはリンパ球が減るということ。するとガンを食菌するNK細胞等が減りガン細胞が増え続けガンが大きくなるのです。併せて、●身体の経略に沿って磁気棒を使い、気の流れ、リンパの流れ、血の流れをよくする。監督さんの治療にあたっていた医師は●瀉血も行っていた。●磁気ベッドに寝て血流をよくしたり、●鍼灸で身体の内臓の働きをよくする。

注=瀉血とは、治療の目的で患者の静脈から血液を除去すること。

郭林新気功をした。ガンは酸素に弱いので、それを利用して身体の動きと呼吸法で行う療法。

●鉄分はガンの餌になるので、鉄剤は飲まない。

●長生医療。長生医療とは、脊髄を矯正し姿勢を正すことにより血液の流れやリンパの流れをよくする治療で、交感神経の張りをゆるめ副交感優位にします。免疫療法と同じ理論だろう。ガンを患っていて痛みのある人は、痛み止めの薬より長生医療や鍼灸による痛みを和らげる方がお勧めです。

●半身浴。1回20~30分、それよりも長く1日2回以上。血液は約1分で全身を回る。半身浴で血行をよくし血液を回せば、身体から毒素が出る。半身浴を始めたら尿が黄色くなった。毒素が出たのだと思っている。

食事。●玄米食にした。アメリカでは、ガン撲滅に国を上げて取り組み、ガンの発生原因は食事にあると発表し、●動物性たんぱく質を控え、乳製品を控え、野菜や果物を中心に変える運動を起こし、ガン患者を減らしてきた。日本人の欧米食化により、日本ではガン患者が増え続けている。先進国で、ガン患者が増えているのは日本だけだと言われている。

●ビワ葉温灸。ビワの葉のエキスを温灸器で処理し血流を良くする。自己免疫力を高める。ビワの葉にはガン細胞を殺す成分が含まれている。

●里芋シップ。里芋の粉末を水で練り特殊なシートで患部に貼る。排毒作用。

●AWG放射線療法。微量の放射線によってウイルスやガン細胞を死滅させる。

●漢方薬。主にクロレラで免疫力を上げ排毒を促す。

●玄米酵素。酵素不足を補い、便通を良くする。

●蕎麦パスタ。蕎麦の粉末をぬるま湯で練り、特殊なシートで患部に貼る。

 

監督が知り合った多くの医者のなかには、自分や家族がガンになったら抗ガン剤治療も放射線治療もしないと考えている。ガンを自助療法で治した寺山心一翁氏がかって、海外を含めて271人の医師に、「もしあなたがガンになったとしたら、抗ガン剤を使いますか」と聞き取り調査をした。すると「使う」と答えたのは、ただの一人。残り270人は「使わない」だったと言う。

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20091222の朝日新聞・朝刊の記事も、充分参考にしたい。

ガン治療に、手術、抗ガン剤、放射線以外にも補助的に行われている治療方法の紹介があった。その記事をダイジェストにした。

「リンパドレナージ」と呼ばれるマッサージのことです。放射線や手術後に発生するリンパ浮腫は、乳ガンや子宮ガン、前立腺ガン、咽頭ガンなど、さまざまなガン治療の後遺症です。体内のリンパ管の流れが障害を受けて、細菌や老廃物が処理されにくくなって発症するらしい。治療では、リンパ管をやさしく刺激しながらリンパの流れを誘導するためのマッサージをする。

その施術をする人を、リンパドレナージセラピストと呼ぶ。

この記事は放射線や手術後の施療に効果ありの内容ですが、ガンと闘っている人ならば誰にでも効用があるのではないでしょうか。

「99円」の情けなさ

先日、朝日新聞の社会面で扱った内容だ。私は、なんじゃこりゃ、と初めて知って唖然とした。その内容を、ファイルしなくてはと思いながら、何もしなかった。年の瀬の忙しさに身を委ねてしまったせいだ。そしたら、昨夜の夕刊に再びこの件を扱った記事を見つけたので、ここに転載させていただく。こんな小さな記事にも、私は異常に反応するのです。99円 ? それって、なんじゃ ? と思うのです。典型的な、役所的仕事か。それって、どうにもならなかったのか ?

方や、官房長官室の金庫には、1万円の新札が常時何億円かが入っていて、官房長官の一存で、何にでも、領収書なしで使っていい金があるというではないか。日本を訪れた外国の要人に1本何万円もするワインを土産に渡したり、国会議員が外国に視察に行く際に、餞別として30~50万円を渡していたと聞く。馬鹿なことだ。この金を使えばいいじゃないか、なんてそんな短略的なことを考えているわけでは毛頭ないが、もう少し国として考えなくてはいけないのではないか、と思う。

今年は、年越し派遣村で始まった。昨日、都では、住まいのない求職者用に国立オリンピック記念青少年総合センターに、宿泊施設(派遣村)を開村した。来月4日まで宿泊場所と食事を無償提供するそうだ、が、その後はどうなるんだろう。また、寒い路上や建物の隅っこに追い払われるのか。

そんな世情を考えて、この99円の記事を読んだ。子供の頃から貧乏だった。こんな年(61歳)になって、多少扱う金額が大きくなったけれど、生まれながら我が身には、我が精神にはお金とは縁遠いようだ。だからかこそ、お金の遣い方は清らかであって欲しいと思う。金に関して、下の記事のような、他人を馬鹿にしたようなことが起こったときには、私は狂ったように怒りたくなるのです。戦時という異常な時代に、その原因が作られた。平和な時代の今だからこそ、その不幸せな事件を極めて平和的に友好的に処理をすべきではないのか。まして、かって植民地だった韓国の、統治国に徴用、徴兵された人々に対してのことだ、国策として、最優先事項として取り組みべき問題だ。

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20091228

朝日・夕刊

窓/論説委員室から

小倉幸一

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戦時中、10代半ばで名古屋の工場に勤労動員された韓国のおばあさんに先日、厚生年金の脱退手当金として、99円が日本の社会保険庁から振り込まれた。

前にも例がある。年金加入期間などに応じて18円とか316円とかが韓国の徴用工に支払われ、あまりの馬鹿馬鹿しさに受け取りを拒否されるなどした。

ちゃんと対応できていれば、60年も前に支給されるはずのものである。厚生年金保険法などの制度上、貨幣価値を換算する根拠がないため、当時の額面通りの支払いになったという。

加入記録を探し出すといった社保庁の労も否定はしないし、言い分はあろう。だが、あまりにも杓子定規に流れる「お役所仕事」の典型ではないか。

「憤るというよりも、そんなことを飛び越えて、こっけいでさえありますねえ」と知り合いの韓国人は話す。

朝鮮半島や台湾での植民地支配、アジア侵略。そういう日本の行為に起因する「戦後処理」は十分なされたわけではない。働かされた企業に未払い賃金の支給を請求したり、過酷な労働への補償、日本という国に謝罪を求めたりするアジアの人たちは少なくない。

約15年前には、軍事郵便貯金などを持っていた台湾の旧日本軍人・軍属に対して、日本政府が当時の額面を120倍に計算し直して返したこともある。

来年は韓国併合100年だ。お隣同士のわだかまりを解いていくには、心の通った行動がかぎになる。

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29日に社会保険庁が、韓国政府に厚生年金の被保険者台帳に、戦時中の徴用などで日本の企業で働かされていたとされる韓国人4727人の記録があることが判明し、その該当者の名簿を提供した、との報道があった。

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20091230

朝日・朝刊

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韓国では盧武鉉政権下の2004年、日本の統治時代の徴用・徴兵 などの実態を調べる「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」が政府機関として設置された。08年からは、労働を強いられた本人に年80万ウォン〈約6万2千円)の医療支援金、遺族に2千万ウォン(約156万6千円)の慰労金を支給されている。

同委員会によると、16万人から「日本の工場や鉱山などに強制労働された」との申請があるが、約9割は裏づけの資料がないため、認定作業が滞っている。このため、10月下旬、ひとまず4万人分を日本側に照会した。

これを受け、社保庁は確認作業を開始。朝鮮名で246人、日本名で4642人の計4888人の加入履歴を確認した。重複分を除くと、実数は4727人という。

年金記録の確認により、4727人は韓国政府の支援制度を受給できる可能性が高くなった。ただし、社保庁は「各人の加入していた期間は調べていない」としており、日本政府に対して年金脱退手当金を申請できる資格があるか否かはわからない。

2009年12月29日火曜日

核密約文書が現存

20091223 の朝日新聞・朝刊 1面に、核密約文書が佐藤栄作元首相宅に保管されていたとの報道があった。佐藤氏の次男の佐藤信二(元通産相)により明らかにされた。この、当の佐藤栄作は米国がのめりこんでいくベトナム戦争に、どこの国よりも真っ先に積極的に全面的に支持した。その挙句、このウサン臭い男は、ノーベル平和賞を受賞した。

が、その後、佐藤栄作の化けの皮は剥がされた。

このノーベル平和賞を選考したノーベル賞委員会が2001年に刊行した記念誌「ノーベル賞平和への100年」の出版記念会見で、共同執筆家の一人のオイビン・ステネルセンは「佐藤氏を選んだことは、ノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と当時の選考を強く非難した。「佐藤氏はベトナム戦争で米政府を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記し、授賞理由と実際の政治姿勢とのギャップを指摘した。また「佐藤氏は原則的に核武装に反対でなかった」とも指摘した。

この後は、全て朝日新聞の記事を抜粋、転載させていただいた。

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20091223

朝日・朝刊

社説/沖縄核密約・署名文書発見の衝撃

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核 002

 

沖縄返還をめぐる日米密約の決定的な証拠文書が見つかった。

当時の佐藤栄作首相とニクソン米大統領が沖縄返還に合意した1969年に交わした合意議事録の現物だ。「重大な緊急事態」の際は米国が沖縄に再び核兵器を持ち込むことを認める、と約束している。

この密約の存在は、佐藤氏の密使としてキッシンジャー大統領補佐官との交渉にあたった故若泉敬・元京都産業大教授が90年代に著作の中で明らかにした。しかし、日本政府は否定を続け、米国側の情報公開でも、この文書の存在は確認されていなかった。

鳩山政権は、自民党政権時代の日米の密約の解明作業を続けている。すでに、核を積んだ米艦船の日本寄港や領海通過を事前協議の対象外とする密約を裏付ける関連文書が見つかっている。だが、40年の時を経て密約そのものの文書が発見された衝撃は深い。

英文でタイプされた文書には、両首脳の署名もある。再持ち込み先として、日米合意で普天間飛行場の移転先とされ辺野古をはじめ嘉手納、那覇などの地名も挙げられている。極秘とすることも念押しされている。その生々しさには息をのむばかりだ。

東西の冷戦下で、当時はベトナム戦争が激しくなっていた。米側は佐藤氏が求めた「核抜き本土並み」返還を受け入れ、沖縄県内の米軍基地からの核兵器の撤去に応じた。その代わり、有事の際の核持込への確約を日本の首相からとりつけていた。

米国の軍事戦略にとって沖縄をどれほど重要か、そして返還後もその役割をできるだけ減じたくなかった米政府の思惑を、鮮明に映し出している。

自らの手でなんとしても沖縄返還を果たそうとした佐藤氏は、米側の要求をのみ、非核三原則との矛盾を隠すために「密約」として国民を欺く道を選んだことになる。

鳩山由紀夫首相はや岡田克也外相は、外務省の有識者委員会に密約の真相解明を委ねる考えを示した。

確認すべきは、この秘密合意が日本政府の中でどのように引き継がれてきたのかだ。歴代首相や外交当局者は国民に真実を語って欲しい。

さらに重要なのは、密約が現在もなお法的な効力を持つものなのかどうかについて、日米両政府が協議し、見解を一致させることだ。

当時と今では、安全保障環境も核兵器の運用も大きく異なる。現実問題として米国が日本に核兵器の持ち込みを求める可能性は極めて低い。しかし、だからといって密約と非核三原則との矛盾を放置はできない。同盟に対する国民の信頼も揺るぎかねない。鳩山政権の普天間移設問題への姿勢をめぐって日米関係がきしんでいる時だからこそ、賢明な対処を望む。

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〈解説〉

沖縄への核兵器「再持ち込み」をめぐる秘密合意は、ごく少数の関係者しか知らなかったとされる。若泉氏の著書によれば、関与したのは当時の佐藤首相、ニクソン大統領、若泉氏とキッシンジャー大統領補佐官の4人。今回文書が明らかにされたことで、過去の政権が否定し続けてきた「密約」の存在は動かしがたいものになった。

返還前の沖縄には米軍の核兵器が配備されていた。佐藤首相は、返還に当たって核を撤去させ、米軍基地の運用に当たっても本土同様に日米安保条約に基づいて「事前協議」を適用するなど、「核抜き本土並み」の返還を実現すると表明。政権にとって大きな政治的テーマとなる。その際に米側が問題にしたのが、紛争などの緊急事態が起きたときに「再持ち込み」が保証されるのかという点だった。

同書によれば、一連の手続きは外務省当局へも知らされずに進められたようだ。文書そのものも佐藤氏が保管していたとなれば、外務省には存在しないとみられる。

問題は「合意議事録」が日米関係において何らかの拘束力を持ったかどうかだ。まだ冷戦のさなかで、ベトナムへは沖縄から米軍の爆撃機が出撃していた。が、軍事技術の向上により、再び沖縄に核ミサイルを配備する必要性は失われていた。そうした状況の中で、佐藤氏や若泉氏は、核の撤去を実現させるには引き換えに再持ち込みを認めるしかないという「苦渋の選択」をしたのかも知れない。

現在、沖縄に核が再配備される可能性はほとんどない。

この合意がその後の政権や日米関係にどんな影響を与えたかはまだわかっておらず、改めて検証が必要となる。

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日米間の「密約」とは

①核持ち込み痔の事前協議の対象から艦船の寄港などを外す核密約

②朝鮮半島有事の際に米軍が在日米軍基地を出撃拠点として使うことを認めたもの

③有事の際の沖縄への核の再持ち込みに関するもの

④米側が負担すべき原状回復費400万ドルを日本側が肩代わりするなどの財政取り決め

の4密約の存在が指摘されている。

2009年12月27日日曜日

今年も行ってきた、「銀河鉄道の夜」

20091224   19:00

第27回クリスマス公演  

『銀河鉄道の夜』・・ケンタウルス つゆを降らせ

ブレヒトの芝居小屋

2010

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宮沢賢治=作

広渡常敏=脚本・演出

林光=音楽

文化庁「地域文化芸術振興プラン」事業

東京演劇アンサンブル・・第27回クリスマス公演

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今年も、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に行ってきた。東京アンサンブルからお知らせをいただいた時、もうそんな時季になってしまったのかと驚いた。

舞台監督の入江龍太氏に会えて、久しぶりに話す機会ができてよかった。容貌は、おやじ(入江洋祐)そっくりになってきた。次回は君のことを可愛がった西田英生を連れて来るからね、と約束した。是非、「桜の森の満開の下」がいいできばえなので見に来て欲しいとたのまれた。

昨年は一人で観に行った。一昨年は、社員全員と友人達で1ステージを貸切にしていただいた。その前にも6、7回は観ているのですが、毎年、一部に演出の変更を試みて演じられるのも、楽しみの一つでもあるのです。

ケンタウルス祭の夜、ジョバンニは不思議な旅をする。私も無理やり、そう無理やり(槍)だ、この旅に同行させてもらうことにした。

今年の仕事はほとんど終えた。事実、肝心要の問題は、処理仕切れてはいないのです。まだまだやらなくてはならない仕事を、本当は残しているんだけれども。

まあ、いいか!!っと、私も、宮沢賢治の幻想四次元の空間へ、ジョバンニとともに旅立った。

銀河の夜を走る軽便鉄道のかなたに走り出した。ここからが私が一番お気に入りの世界なのだ。

人間の愛の愛が、歴史の歴史が、友情、母や父に対する愛、犠牲愛、自然界に存する万物に対する愛の愛がーーーーーそして生命の生命が、燃えているかもしれない。化石が、夢や歴史を歌う。

真(まこと)の幸〈さち〉は、何所に、どのように、あるのでしょうか。

私の会社の会社が、仕事仲間の仕事仲間が、苦しくて堪らないことの苦しくて堪らないことが、なんだ、そんなにちっちゃな問題かと思われることの、なんだ、そんなにちっちゃな問題かと思われることが。

現実世界は、銀河の夜のかなたに広がる世界の世界の影らしいのだがーー。

私には、まだ銀河の底で、真っ赤に燃えるさそりや、さそりの歌が解らない。

カンパネルラが友の犠牲になって、死んだ。

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ほんとうにこんな、さそりざの勇士だの、空にぎっしりいるだろうか。

ああ、ぼくはその中を、どこまでも、どこまでも、歩いてみたい。

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広渡常敏

宮沢賢治の〈不完全な幻想四次元〉世界では、人々の願いや祈りによって世界が変化する。思いが実現するのだ。そして銀河鉄道の夜の彼方の四次元世界に〈おかあさんのおかあさん〉がいらっしゃる。三次元現実の〈おかあさんは病気で、ジョバンニの牛乳を待っていらっしゃる。四次元世界の〈歴史の歴史〉は三次元現実では〈歴史〉となる。どうやら幻想四次元の投影として三次元現実があるらしい。さながらマルセル・デュシャンの投影図法のようである。もしーー三次元現実の人々の願いや祈りが、銀河の彼方の幻想四次元の世界に届くならば、不動とも思われる現実も変化することができるかもしれない。このような祈りにも似たユーモラスで稚気あふれる世界像が、「銀河鉄道の夜」の基軸構造である。

檜の真っ黒に並んだ坂の道で立派に光って立っている電灯の下に自転車のスポークのように四方に伸びているジョバンニの影たち(二次元)。それらの影が地面から起き上がって(三次元となって)ジョバンニを取り囲む。ジョバンニは二次元から四次元へ出発することになる。銀河ステーションに夜の軽便鉄道の音が近づいてくるのだ。

(今年のパンフレットの中の文章より)

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ブレヒトの芝居小屋で、今年は何回目の「銀河鉄道の夜」になるのだろうか。8?、9回目か、私の頭の中もファンタジ-? よくわからなくなりました。

東京演劇アンサンブルのブレヒトの芝居小屋に行く度に、観客席から「銀河鉄道の夜」を読んだんだけれど、なかなか解りづらくて、あなたは、よく解った? などと観客席から声が漏れてくるのです。必ず、毎年のことです。お互いに、うかぬ表情で、にらめっこしながら、自分流の解釈を交わしている。それほど、この本は奥深く、哲学的で、幻想的で、愉快なのです。

20091129の朝日新聞です。

「重松 清さんと読む 百年読書会」で12月の本として宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を取り上げられていた。スクラップにして保存してあった。

その記事をダイジェストで転載させていただく。

この本についての各人各様の読後感想の違いを大いに、さらして見せてくれた。この読後感想の一つ一つが、私のこれまでの過去に感じたことと相通じることがあって余りにも可笑しかった。やっぱり私も、初めて読んだときはさっぱりつかみどころがなかった。そして、1回、2回読んだが、解らなかった。東京演劇アンサンブルの広渡常敏さんの脚本演出による「銀河鉄道の夜」を観ても、未だに全てが理解できていないのです。含蓄があり過ぎて、またまた、来年も観に行くことになるのでしょう。

母の母が、愛の愛がーーー、これは理解したのですが、、、、。

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20091129の朝日新聞より

まずは再読組の投稿を拝読していると、面白いことに気がつきました。宮沢賢治自身の夭折(ようせつ)もあってか、「青春時代の愛読書」として名高い本作ですが、じつは読み手が年齢を重ねることで感じ取れる奥行きがたっぷりありそうなのです。

茨城県の坂さんが「子供の頃は透明で壮大なファンタジーとして好きでしたが、40代を目前とする年齢になった今強く感じるのは、人が生きる哀(かな)しみと美しさです」と言えば、兵庫県の高さんは「20歳で読んだときには理解不能だったが、60歳を過ぎて読み返してみると、これは童話というより高度な哲学書ではないかと思った」、さらに福岡県の長さんは「血気盛んな若い頃には2ページも読み進められなかったが、今は一気に読んだ」---。

一方、若い世代の初読組・神奈川県の神さんは、「僕は賢治と相性がよくないかもしれない」と率直な感想を打ち明けて、こう続けて言いました。「鉄道に乗ってどこまでも行くという感覚を、現代に生きる僕たちは感じづらくなっているのではないでしょうか?」-なるほど「夜汽車」が死後になりつつある時代、むしろアニメの「銀河鉄道999」を思い浮かべた方が作品に近づけるということもあるのかも。

実際、詩情豊かなイメージをふんだんにちりばめた作品だけに、その世界を共有できるかどうかが感想の賛否の分水嶺になっている様子です。

「三度読み返したが、何が書いてあったのかさっぱりわからないし、イメージを結ぶことがまったくできなかった」東京都の宮さん。

「何度も読んだが、ヒントどころかとりつく島もないというのが正直なところである」東京都の木さん。

ただし、それは決して作品そのものへの反発や否定にはなっていません。宮さんは「皆様の投稿を読むことで学んでみよう」、木さんも「今回は自分のコメントはお手上げ。参加者各位のコメントを楽しみにさせていただく」--これぞ読書会の醍醐味であると同時に、作品に対する優しさや謙虚さが、すでにして宮沢賢治の世界に無意識のうちに包み込まれている証なのでは、とも思わされます。

東京都のほわさんの投稿は、冒頭に「なんて歩きにくい」とありました。てっきり批判のコメントだろうかと思っていたら、さにあらず。

「すごく濃密な文章、そして、鬱蒼(うっそう)としたイメージ。子ども向きとも思われるのに、その内容の濃さ。現代の小説は、これに比べたら草原をスーッと通り抜けてしまうようなもの。

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1992

広渡常敏 「銀河鉄道の夜を旅する」

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野をわたる風の音に耳を傾けて、いのちのよろこびを感じない人がいるだろうか。小鳥のさえずりを聴いてわからないという人がいるだろうか。銀河鉄道の夜を旅する人々には耳をすますとつるの声、さぎの鳴き声がきこえるし、プリオシンの岸辺に埋もれている化石のうたう声もきこえてくる。じっさい、宮沢賢治は林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりや、かしわばやしの青い夕方の風からもらった話を童話に書いたのであった。賢治のイーハトーブはこのようにしてつくりだされた。

だが宮沢賢治がおもい描いたイーハトーブの夢とは、まったくちがったかたちで歴史はすすんだ。西欧的近代科学はじぶんに適合しないものを切り捨て、排除して、近代化、工業化、都市化はほとんど行きつくところまで行きついた。歴史が排除し切り捨てたものたちの歴史だとするならば、排除され切捨てられたものたちの歴史はどこにどのように息づいているのだろうか。賢治にならってぼくらも路傍の石や並木やベンチや、とり残された路面電車や高層ビルや、曇り空を吹く風やパラボラ・アンテナを眺めて、そこからどんな話をもらうことができるだろうか。ぼくらはイルカのことばがわからないように、眼の前の木や草がぼくらに語りかけているにちがいないことばが、ぼくらにはわからない。たいへん便利なオート・カメラが発達したおかげで、眼前の風景に向かってぼくらはパチリとシャッターを押すだけだ。こうしてぼくらは風景から話をききとることができなくなっている。人間から”ものがたり”をつくる能力が奪い取られようとしている。エンピツ削り器のおかげでぼくらの手は、ナイフでエンピツをきれいに削る能力をなくしている。じぶんの手がエンピツをきれいに削れないんだと感じとる感覚さえ、ぼくらから消し去られようとしている。高度に発達した工業化社会は、経験を必要としない社会なのだ。熟練労働はいまでは家庭の台所にだけ残されている。いや、その台所さえ、経験が消去されようとしている。いまではおふくろの味はカップラーメンなのだ。

このあいだ、といってももう去年のことになるが、京都梅小路の蒸気機関車の操車場跡で「銀河鉄道の夜」を上演した。巨大な鉄の塊のようなSLが入線してくると、転轍機が鳴り、円形の転車台が軋む。ジョバンニやカンパネルラたちを乗せた台車があらわれると、見物席にざわめきがひろがった。

ーーー此処はいまは博物館だ。過ぎ去った鉄の時代の痕跡が冷えびえと息づいている。昔の姿そのままに、いまは深い眠りについた梅小路の一隅で、ぼくはあやうく感動する。

これは鉄の時代の終焉をものがたる一つの風景だ。鉄とともにこの国の近代化が推し進められた。鉄とともにこの国の軍国主義もすすんだ。そして打ち振られた日の丸の旗のなか、この機関車が出征兵士を運んだ。

この風景のなかで、ぼくの網膜のなかに傾斜角をもった第三インター記念塔のイメージが浮かびあがる。始動する鉄の時代の過激な朝ーーメイエルホリドよ、マヤコフスキーよ、あなたたちもこの風景のなかに息づいているのか。ブレヒトよ、ホルヴャートよ、ソシテエルンスト・ブロッホヨ、ノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の闇も、この風景のなかに漂う。

そしていま、ぼくらは廃墟となった鉄の終焉の風景のなかで「銀河鉄道の夜」を上演しようとしている。宮沢賢治の四次元世界のプリオシンの岸辺に、果たされなかった約束や、人知れずもらされた吐息や、夢みられた夢の化石が埋もれている。排除された歴史の歴史を発掘する人たちの影も見えるのだ。

「銀河鉄道の夜」の上演台本を書くとき、ダダの画家マルセール・デュシャンに啓示を受けて、賢治の「おかあさんのおかあさん」をぼくはとらえた。それから影たち。桧のまっくろにならんだ坂の道で、りっぱに光っている電灯の下でジョバンニが出会う影たち。その影たちが排除されたものたちの化石ーー歴史の歴史を掘りおこしている。

蒸気機関車が回転して、まっかに照らし出され、銀河の底でうたわれる”さそりの歌”をジョバンニたちが歌う。林光によって作曲された歌はオキナワの民謡を連想させた。機関車は身を震わすように白い煙を噴出させて号笛を吹き鳴らした。人々は涙を流した。ぼくも泣いた。

この人って、可笑(おか)しいんですよ

大磯の吉田邸の隣接で、私達の会社が小さなプロジェクトを始めようとしていて、そのプロジェクト資金を金融機関から借りるために、その金融機関の担当者を大磯駅に車で迎えに来ていた。私と私の会社のスタッフは、約束の時間よりも早く着いた。私の会社の同僚・浅は、車の中で何本もタバコを吸って時間を潰ししていた。

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私は、駅前にある大磯観光協会の案内所に、かって大磯ロングビーチで一緒に働いたことのある水さんが居ることを思い出し、顔を出してみた。最初、この案内所に来たのは3年前。大磯町の年間行事を知りたくて、この案内所に飛び込んだのです。何かのために、必要だったのでしょう。その時、水さんに会ったのは偶然だった。彼の顔を見て一挙に懐かしさが溢れ出た。彼は定年後の再就職でこの案内所で働いていたのでした。数年前、息子さんはバイク事故に遭い、亡くなったと言っていた。子供を交通事故で亡くした親父の悲惨さは、想像に難くない。私は、家人に子供にはバイクに興味を持たせないようにいろいろ仕向けさせた。私もオートバイクの事故で嫌な思いをした経験から、そのように思向したのだろう。       

かっての職場だった大磯ロングビーチの関係者に会ったり、話をする機会があったりすると、その時の私の生活のあれこれを、どうしても懐かしく想い出してしまう。

大磯ロングビーチに勤務時代、今から35年前。私は学校を卒業して2年目から3年目にかけて、25~26歳だった。学校を卒業したのが、24歳だったのだ。働くことが、面白かった。仕事に関して、職場で教わること、仲間から聞くこと、先輩たちのすることを目の前にして、全てが興味津々だった。

盛夏、プールの営業中、アパートから職場まで、ゴム草履に海水パンツ一丁で出かけたこともしばしばあった。帰るときも海水パンツ一丁だったので、雨が降っても、土道の水溜りに足をとられてもジャブジャブ、平っちゃらだった。アパートは、広大な畑に隣接していた。酔っ払って、道から外れて畑に沈没したこともあった。転んだところがナス畑であったり、キューリ畑であったりで、その都度土産にナスやキューリを貰って帰った。濡れ手に粟だ、??。仕事中、体力が余っていて、縦300メートルの駐車場を皆で徒競争をした。腹筋大会もやった。二人一組になって、両手を地面についている者の両足をもう一人が持ち上げて、手押車の競争もした。エネルギーが有り余っていたのだ。誰もが真っ黒な顔に、白い歯が健康的だった。私は、どの遊戯にも競っては誰にも負けなかった。

敷地内は、道路交通法の適用外なのをいいことに、私は自動車免許証を持たないのですが、富士重工業のスバルサンバーを我が物のように独り占めした。丈夫な車だった。プール営業の準備から片づけまで、敷地が広いのでこのスバルサンバーは大活躍だった。会社の誰もが、その車のことは、ヤマオカのものだと諦めていた。そんな甲斐あって、自動車免許取得には、どこの自動車学校にも通わずに、二俣川の自動車試験場で、学科は一発、仮免は4回目、本試験は2回目で合格した。自動車免許取得に要した費用は、交通費込みで1万5千円までだった。一度でも試験に不合格になると、精神的に挫(くじ)けるものです。毎回付き合ってくれた妻の励ましで、踏ん張れたのです。絶対他人を褒めない支配人が、この件に関しては、こいつ割りとしっかりしているんですよ、と取引会社の担当者に言ってくれた。

大磯ロングビーチに配属されていた時は、売店とプールサイドのレストランの責任者をしていた。売店は、前年比1,5倍強の売上を達成した。レストランは対前年比1,3倍の売上を記録した。フジテレビの「夜のヒットスタジオ」の中継中にも、私はビールをドンドン売った。酔っ払いが発生してテレビの生放送に万が一のことが起こると、重大な事件になる可能性があるというので、支配人が私たちの売店をビニールシートで覆った。言うことを聞かない私らは、実力で阻止された。幾らでも売れたのです。

総支配人と支配人がいて、そのどちらの支配人からも可愛がられた。その一方の支配人から、酒を一晩中飲まされて、お前はどちらの言うことを聞くのか、と言われて困ったことがあった。もう一人の支配人も、同じことを言って、俺に迫った。あんたの方が嫌いだ、とは正直に言えなかった。

敷地内で松の小さな幼木を見つけては、それをあちこちに移植した。今、2009年、立派な這い松になっている。西湘バイパスから見える高さが3~5メートルの木は、当時私が植えた松だ。私の先輩も、後輩も誰もそんなことをする人はいなかった。皆からは馬鹿扱いされた。

スイミングクラブを発足することになった。、当然、お前のカカアもやるんだと言われ、社員でもない妻も否応なしに参加させられた。妻は、河合関係の会社に勤めていたのですが、止むなくその会社を辞めざるを得なかった。スイミングクラブでの子供の教え方は、私の奥さんの知恵に、全てを委ねた。我々には、持ち合わせているノウハウは何もなかったのです。私も、一人前のコーチになるために、泳いだ、泳いだ。一日3時間、5千キロをノルマにした。素人の駆け出しには、きつかった。お陰で、3ヵ月後には、他人様の前でも恥をかかないですむ程度には泳げるようになった。

冬は、ゴルフ場の支配人役だった。辞令を受けた本物の支配人は、仕事大嫌いで役に立たなかった。仕事に本気で取り組んでいなかった。社員の全てが、そんな感じだった。上司からは、社員の知り合いだからとか、あの人にはいつも仕事上お世話になっているからとかで、フィーを安くしてやってくれと頼まれたこともあったが、私は絶対きちんと定価を頂いた。又、小さなゴルフ場だったので、一日にプレーできる人数が決まっているので、上司が特別な配慮をしてやってくれと言われても、これも絶対受けつけなかった。この類のことは、私が一番嫌うことだった。そんなことを、私に連絡してくる上司を、アホだと卑下した。

敷地内の西友の中にあったレストラン「アゼリア」で、私たち夫婦の結婚のお披露目をした。大磯地区の人々にも、新妻を紹介したかったのです。友人達のなかには長髪族がいて、お世辞にも行儀がよいとは言えない連中が多かったのです。その友人達の態度が気に食わないと言って、キッチンでふて腐れて、会場には顔を出さないと言っては拗(す)ねた支配人。この男は元W大の競泳部のOBだった。本当に大人気ない上司だったが、私を非常に可愛がってくれた一人だ。                                       

その案内所は、相変わらず水さんのコミュニティそのものだった。久しぶりだったけれど、水さんは見かけはさほど変わっていなかった。ここに顔を出す人は、観光案内所の役割とは関係のない人たちばかりで、何気なく入ってきて、なにやかや話をしては、挨拶をしながら出て行くのです。私がその場に居る間、そのなかでも、何度も来ては出て行くオジサンがいた。元IBMの社員で写真が趣味の人だった。何かで情報を得て、大磯にやってくる芸能人をことごとく写真に撮っていることを自負していた。その写真を持ってきて、私に説明してくれたが、私が知っている芸能人はいなかった

そのオジサンに水さんが、私のことを紹介しだしたのです。水さんは、私のことをこの人と呼んで、話し始めた。

この人が結婚1年目を記念して、トラック島に行ったんだけど、羽田の飛行場の小荷物検査で、バッグの中の大磯ロングビーチのゴムボートをチェックされ、私が総務の責任者だったので、私の所に警察か公安か、どちらかから電話があって、この荷物を持つ青年はそこの会社の社員だと名乗っているのですが、本当ですか---------、とそんなことがあったらしい。思い出しても、その時に長い時間をかけて検査された記憶はなく、気がつかない間に、裏側でそんなやりとりがあったらしい。そのゴムボートは、通常営業で使われているものではなく、もう少し小さめのボートなら、どんな具合になるのかメーカーに試作品を作ってもらったものでした。そんな出来事が35年前にあったのだ。当時、そういうことがあったことを話してくれていれば、今ここで、さほど、驚くこともなかったのですが、久しぶり会って、唐突に、こんな内容のことを聞かされれば、誰だって驚くにきまっている。

水さんが話したラック島は、間違いで、本当はグアムだったのです。当時、本気でトラック島を色々学習していた。トラック島には、家人の友人の夫(現在藤沢にお住まいの相さんです)が、かって大学を卒業してから長年トラック島に住んでいて、その島の好さをいろいろ聞かされていたのですっかりその気になっていたのですが、仕事の関係で、そんなに長く休みがとれなくて、手っ取り早いグアムに変更していたのです。当時のトラック島の、何人もいた酋長ををまとめる一番偉い酋長さんが相さんの叔父さんだったのです。その叔父さんのお父さんは、かってプロ野球のピッチャー(昔の大毎オリオンズの前身のチームだった。未確認)をしていた人で、その人が漁業の関係で住みついたと聞いている。

この小文の作成のためにキーを叩きだしたのは、以前に務めていたときの先輩に会って、私のことを可笑しいと言ってくれるものだから、ひょっとして本当に可笑しい話なのか、と思いながらキーを叩いてみたのですが、読み返してみて、さほど可笑しいと感じられなくて、恥ずかしくなった。

でも、昔を思い出すいい機会にはなったので、これをこのまま投稿することにしました。

神に裁いてもらおうよ

昨夜、夢をみた。夢の中で、私は法廷にいた。

裁判所は、広い草原の丘の上にたった1棟だけ、ぽつ~ンと建っていた。周辺には、住宅も牧舎も建物は何もありません。深い霧に包まれていた。昼間なのに、建物の灯りが外に少し漏れていた。

私は被告席に、傍には、私の会社のスタッフが浮かぬ顔をして座っていた。裁判官がたった一人、真正面の席に座っていて、その前には書記官の女性がいて、コンピューターを前に、議事録をとっているのでしょう。原告は右側に、被告は左側に、裁判官と向かい合うように座っていた。電灯は点されているのですが、部屋の中なのに靄(もや)がかかっていてお互いの顔がぼ~っとして、輪郭がはっきりつかめない。

私は会社の代表者として出席している。被告席に座らされているなんて、どうしても実感が湧いてこない。私が育った長閑な田舎では、けっして豊かではなかったが、泥棒も人殺しも、そんな悲しい事件など起こったことがない。他人を騙すなんてことも、聞いたことがない。他所では凶悪な犯罪が日常的に起きているんですよ、と聞かされても嘘だと思っていた。そんな山間谷間の田舎で育った私が、こともあろうに、被告席に座っているなんて、一体、何が起こったと言うのだ。私が、私の会社が何をしでかしたというのだろう。亡くなってしまったけれど、父や母が、こんな私を見たら、戸惑うことだろう、こんな席に座るためにお前を育てたわけではない、と叱りながら悲嘆にくれるだろう。

原告は、何かを主張していた。口角に泡を吹かし、髪を振り乱し、大いに息巻いているようだが、薄いカーテンの向こうにいるようで、ぼんやりとしか見えない。私には何を主張しているのかさっぱり理解できない。確かに言葉を発しているのでしょうが、私の耳には、理解できる言語としては、届いてこない。頭を抱えて何度も考えた。一体全体、私が、私の会社が何をしたと言うのだろう。

原告は自分が受けた損害や被害を裁判所に訴え出て、裁判官がその罪の深さや償いの量を見計らって、被告に課すのが裁判なのでしょう。被告には、思わぬ重い罰を下されることもあるし、予期せぬ罪から解放されることだってある。

裁判官は静かに、私の顔を心配そうに見ていた。

原告は5人だった。2人は中年の女性で3人は男の大学生でした。誰もがかって見たことのある面々だったが、どこで会ったのか憶えていない。大学生が、裁判に訴えているのは、ただ、単に学習のためなのだろうか。原告になって、裁判を持ちかけたのには理由がある筈なのに。

中年の女性たちには、楽しい家庭があるのでしょう。大学生には、勉強して有為な社会人になって欲しいと願うばかりだ。

裁判官の表情が見えない。意思の通じない長い抗論がだらだら続いたが、どうしても争点がはっきりしないのです。争点が噛み合わない。原告が訴えている内容が、被告である私には理解できないのです。

そうこうしていると、私にはさっぱり理解できない理由が解ってきた。それは、原告自身に損害や被害に対する認識が薄いのだろう。薄いからこそ、私に、被害を及ぼした張本人に対して、訴える力が弱いのだ。又、訴えている内容にも後ろめたい思いがあるのではないだろうか。ズバッと核心をついてこない。

裁判官が口を開いた。裁判官の表情に赤みがさしてきた。

「この事件については、私が判決を出す前に和解を薦めたいのです。が、両者はいかがかな。あなたたちが、和解への作業を進められないようでは、私には考えがあります」。私は依然として訴えられた内容が解せないので、判断しかねていた。

突然、原告に向かって、裁判官の口が爆裂した。「私の法の裁きの前に、神の裁きを受けて来て下さい。そうしたら、もう一度審理することにしましょう。原告と被告人、いかがですか」。

私たち原告と被告は、裁判官の忠告に従って、早速神の裁きを受けるための準備に入りました。

尿意を感じて、私は目が覚めたのです。

2009年12月22日火曜日

オシムの言の葉を、思い起こせ

サッカーの日本代表の監督である岡田武史氏の考えていることは、私はよく理解している。岡田監督は前監督のオシム氏がチームに求めたことをよく理解している。そこに自らチームに求める戦法、戦術を加えながら、岡田ジャパンを作り上げることに懸命になっている。いい結果を出して欲しいと願っている。

この時期になって、私が敬愛するオシムが、かってジーコから監督を引き継ぐ際に語った言葉を今、ここで再確認しようではないか。私のファイルにあった資料を掘り返して読むと、もう一度、この言葉を我々は噛みしめた方がいいのではないか、と思った。早速キーを叩いた。

「日本人は自分たちがトップの仲間だと勘違いしている。できるサッカーとやろうとしているサッカーのギャップがあり過ぎる」。

圧倒的な個人レベルの高さがなければなし得ない、自由な発想のサッカーを求めたジーコ監督の方向性に疑問を投げかけた。日本には日本に適したサッカーがある。それがオシムの考え方だった。

「身長を伸ばせないし、補えないものはある。それなら違う方法でステップを踏むのが正しいこと。背の高い選手をそろえてもうまくいくとは限らない」。

体格やフィジカルがすべてではない。それは小柄な選手が多い千葉で実践した「考えながら走る」の実績が証明している。

「日本人特有のいいものがあり、日本の道を見つけることが大切だ。日本人の特徴を生かせるメンバーを集めてやるべき」。

オシムが口にする「勤勉さとスピード、敏捷性こそが日本人の武器だ」。

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そして、先日クラブW杯の決勝があった。対戦は、スペインのバルセロナとメキシコのエストゥディアンテス。結果は、延長戦の末にバルセロナが制して優勝、5億円近い賞金を持っていった。この試合を振り返って、日本代表の岡田監督のコメントが新聞(朝日・朝刊・スポーツ)にあったので、転載させていただいた。

岡田監督が語った。「スペインサッカーの魅力は、理想の美しいサッカーと勝つサッカーの両方を求める価値観を国民やメデイアが共有しているからだろう。以前は自分の中でもこの二つは別だったけれど、それが一緒になってきた。今のメンバーならできると思っている」、と。

ここでは「美しいサッカーと勝つサッカー」と表現しているが、こんなスマート言葉ではなく、オシムは上の欄のような実際的な言葉で語った。『「できるサッカーとやろうとしているサッカ」ーのギャップがあり過ぎる』だ。このあり過ぎだと言ったことが、今では、岡田監督にはそれ程の差もなく感じられてきているのではないだろうか。選手も然りだ。

先日、カターニャの森本貴行が言っていたことが頭から離れない。「このチーム〈日本代表チーム〉は動いていれば、ボールが出てくるンです」。この言葉、なんと、頼もしい言葉ではないか。次回のワールドカップにおいて、上位に食い込める可能性はある、がそのハードルは非常に高い。だからこそ、ワクワクさせる。これこそが、サッカーなのだ。

2009年12月18日金曜日

昨日は、漢字デーだった

昨日は珍しく目新しい漢字に出くわす機会が多い日だった。「珍紛漢紛」って、こんな漢字だったの?、「卓袱台」ってやっぱり表形文字?。ちゃぶだいは知っていても、卓袱台は知らなかった。「熟柿」は表象文字か、郷里のことを思い出すいい機会を作ってくれた。

 

★珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)

フランス革命秘史ナントカを読んでいたら、突然、アントワネットちゃんが言うセリフが珍紛漢紛だ、ということで、この状況を表現するのに漢字四文字が出てきて、字の並びから「ちんぷんかんぷん」とは読めたが、こんな字を当てるのか、と瞬間、納得できなかった。自宅に帰って、ネットで調べてみたら、意味は言っていることがわからないことで、珍紛漢紛の漢字が使われることが多いとあった。そして、この「ちんぷんかんぷん」には、珍糞漢糞、陳糞翰糞の四文字述語が当てられることもあると書かれていた。

★卓袱台(ちゃぶだい)

昔と言ってもそう遠くない以前、明治から昭和の40年代ころまで、日本家屋の居間には必ずあった。座卓、現在用語では座敷用テーブルです。木製のもので脚が4本あって、片付けやすいように折りたためるようになっていた。丸形、正方形、長方形のものがあった。折りたためないと、卓袱台と呼ばないとも聞いたことがある。食事などの一家の団欒、友人親戚が遊びに来てくれての談笑にも卓袱台をはさんでおこなわれた。夜になると、居間は寝室にも代わることもあったので、その時には卓袱台は脚を折って片付けられた。テレビドラマの「寺内貫太郎一家」の親父が、なにかの拍子で頭にきてひっくり返すあのテーブルのことです。「時間ですよ」にも、撮影用のセットでは不可欠な家具であった。「巨人の星」でも、息子・星飛雄馬の言動に激怒した父・一徹も、しょっちゅう卓袱台を引っくり返していたことが、懐かしい。褒められない日本の親父の一原型?か。小津安二郎監督作品にも、セットされた家具のなかで重要な役割をしていた。「卓」が何故「ちゃ」なんだ、と思って日本語大辞典(講談社)の卓袱台を見たら、「ちゃぶ」は「卓袱」の中国語の音から、と書かれていた。

 

★熟柿(じゅくし)

夜、讃岐うどん屋さんで、うどんを食う前に酒を飲もうと思って、店長お勧めのモノをくださいと注文した。店長は熟慮、あなたは色んな酒を飲んでくれているのですが、これは初めてでしょと焼酎の瓶を見せてくれた。真っ赤なラベルに熟柿と書いてあった。この字、読めますか?、の質問に、私はじゅくしでしょ、と答えると、店長さんは、よく読めたねと感心してくれた。熟柿=じゅくし、で憶えているわけではないのです。郷里、熟した柿の実が、葉が落ちて裸になった柿の木にポツウ~ンと寂しげに取り残された光景が頭のなかをかすめた。その柿を日常的に「じゅくし」と呼んでいたので、そのまま、その名前を言ったまでのことなのです。だから、私はこの熟柿を国語学的に読めるのではなく、山野の風景の一事物の呼び方として知っているだけのことなのです。私の郷里では、渋柿を赤くなってきた頃を見計らって採り、皮を剥いて干柿にするのです。その干し柿の名は、宇治田原町特産=古老柿(ころがき)です。その際、なっている柿を全部採るのではなく、鳥の為にいくつかは残しておくのです。鳥は野菜や果物に巣食う虫をとって食う重要な役割をしてくれるのです。悪い鳥もいるのですが、ここは百姓のおおらかさで、まあいいんじゃないの、ということだろう。鳥さん用に残しておいた柿でも、全てが鳥に食われることもない。食われ損なった柿が、外気が冷えて霜が降り出した頃には、果肉がゼリー状になって、甘味を増し、結晶したようになるのです、これが熟柿なのです。山猿の私にとって、アケビと並ぶ大好物でした。明治、森永、グリコ、雪印がいくら頑張っても、この食感、味は出せません。

赤くなった渋柿を採って、米の籾殻(もみがら)の中に入れて置いて、熟すのを待つこともしました。でも、味では木にくっついたまま自然に熟したモノには、負けました。

★落花生(らっかせい)

お歳暮に八街産落花生をいただいた。有難うございました。私は、どの送〈贈)り主にも受け取った礼状を出しているのですが、経済が最悪の状況下ですから、お気持ちはとっても有り難いのです、が、どうか、今後はお気遣いなさらないように、と一言添えているのです。

その頂いた落花生の箱の中の八街産落花生の紹介文に、落花生という名前の由来というか、何故このような名前がついたのか、その説明書きがあったので、つい熟読してしまった。その説明書きから、抜書きを思いついたのも、私の会社の社員に、落花生が土の中にできるということを知らない者が幾人もいたからなのです。

明治の初めにわが国に導入された作物です。

落花生は土の中にできる作物で、花が咲き終わるとしぼんで地面に垂れ下がり、花の根元から子房の柄が長く伸びて地中に入り、先の方にさやができます。この花が落ちて実が生まれるところから、落花生の名前がつけられた、とのことです。

2009年12月13日日曜日

年末恒例、朝日&住生の創作四字熟語

今の時季、朝日新聞の天声人語では、恒例で下のような類の小文を著している。毎年、楽しみにしているのです。この一年の世相を振り返って、住友生命が創作四字熟語を募るのです。

その創作熟語を利用した天声人語の文章の巧みさに感心させられてきた。マイノートに書き留めておきたいと、そのときは思いついても、ついつい忘れてしまう。世知辛い年末なのに、今回は、マイコンピューターに保存して置く機会が持てたことに感謝する

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朝日・朝刊

天声人語

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有権者の抜きはなった刃が日本の政治を袈裟懸(けさが)けにした。これぞ「一票両断」。住友生命が募った年の瀬恒例の創作四字熟語に、一年を振り返る名作迷昨が多く寄せられた。

寒空の炊き出しで今年は明けた。派遣切りや雇い止めで仕事を失った人々が「断雇反対(だんこはんたい)」を叫んだ。夏の選挙で永田町はひっくり返る。「政権好待(せいけんこうたい)」が実現したが、、新政権の「鳩世済民(きゅうせいさいみん)の手腕はいかに。

新型インフルエンザが上陸すると、店頭からマスクが消えた。日本中が「顔面蒼白」となって、来訪の外国人も驚いた。うつされてはたまらないと、通勤電車も人ごみも「一咳触発(いっせきそくはつ)」でピリピリする。予防したくてもワクチンは足りず、切歯扼腕(せっしやくわん)ならぬ「接種待腕(まつわん)」がなお続く。

高速道路の「千円」は功罪が半ばした。喜々として「遠奔千走(とおほんせんそう)」する人もいれば、「千車万列」の大渋滞にプロの運転手は泣かされ、客をとられた鉄道も船も泣いた。暦の魔術で初の「秋休五日」(シルバーウイーク)となったものの、どこもかしこもやはり渋滞。

司民参加」の裁判員制度が始まり、「判官判民」の裁きに市民感覚がにじみ出た。白昼の天体ショーは「皆祈日食」で晴天を待ったが悪石島は無情の雨。米国では旅客機が川に奇跡の不時着。「一機冬川(いっきとうせん)」の機長の離れ業が喝采を浴びた。

この人を忘れてはいけない。石川遼君めあての「一目遼戦(りょうせん)」のギャラリーでゴルフ界はわいた。国宝の阿修羅像展も長蛇の盛況となり、多くの人が「阿美共感(あびきょうかん)」した。ゆく年に、忘れ得ぬあのまなざしが、ふと胸をよぎる。

2009年12月12日土曜日

この前田の短いコメントに感動した

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Jリーグの年間表彰式「2009 Jリーグアウォーズ」が7日、東京都内であり、最優秀選手賞〈MVP)は鹿島のMF小笠原満男(30)が初受賞した。主将としてチームを史上初の3連覇に導いた統率力が評価された。小笠原の真骨頂は、早い攻守の切り替えだ。相手をなぎ倒して球を奪い、好パスで流れを変える。「危機を、一瞬で好機に」と本人が志す動きは、チームが逆境の時ほど研ぎ澄まされる。朝日新聞紙上における中川文如記者の記事をお借りした。私も、小笠原の受賞については、十分納得している。チームの大黒柱としての風格がある。新聞のスポーツ面に、小笠原がMVPのトロフィーを小脇に抱えた大きな写真が載っていた。来季は、4連覇とアジア制覇をねらうと言ってのけた。

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得点王として、20ゴールを挙げた磐田ジュビロの前田遼一が表彰された。日本選手としては02年の高原直泰(当時磐田、現浦和)以来7年ぶりらしい。

その隣に前田の短いコメントがあって、その短いコメントのなかに、前田の日常の心意気が痛いほど解って、思わず、このコメントを保存しておかなくっちゃ、とキーを叩いた。

前田ー「先輩のおかげ」

日本選手で5人目(6回目)の得点王に輝いた前田。「ここにいられるのは中山(雅史)さんや高原(直泰)さんとプレーできたから」と切り出した。ともに磐田黄金期を支えた先輩FWだ。「でも2人と違って(中心選手として)リーグ優勝、W杯に出場したことがない。肩を並べたい」。今後の前田の活躍を見届けたいと思う。私の後輩、林義規が長年監督をして、トップレベルのチームとして頑張っている、東京は暁星高校の出身だ。文武両道の学校だ。

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20091208 朝日・朝刊 スポーツ

潮 智史 

鹿島 変わらぬ「伝統」

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5年連続で最終節までもつれたJ1の優勝争い。3連覇もさることながら、鹿島の強さにうならされるのは96年の初優勝から、98,00,01,07,08,09年とコンスタントに勝ち続けていることだ。普段の練習から球際の争いを厳しくし、パスの精度を10センチ単位で研ぎ澄まし、結束と献身を重んじる。細部を突き詰める精神性をサポーターは「ジーコスピリッツ」と呼び、選手は「伝統」と表現する。5日の浦和戦でも猛攻を落ち着いてかわしながら、攻め手を探ってひたひたとゴールに迫った。押し込まれた前半を0-0で終えた時点で試合は鹿島ペースだった。

緩みのない守備から仕掛ける速攻と勝負強さ。一貫したスタイルは、ピッチ上で実際に監督役も担っていたジーコを含め、7人のブラジル人監督が作り上げてきた。あまりに手堅くてときに面白みに欠けるほどだが、彼らの仕事ぶりを見ていると。「変わらない強さ」に思い至る。

日本人は勝てば、次には何か新しいものを求めたがる。常に進歩しないと落ち着かない性分だ。鹿島でも優勝した翌年に新鮮味を求める日本選手に対し、「当たり前のことをきちんと身につけろ」と反復練習を強いる監督が結果をだしてねじ伏せてきた。小難しい戦術論を持ちかけても、「最後にものを言うのはあきらめない気持ちとチームの結果だ」と答える。サッカーをシンプルにとらえている彼らは余計なものをそぎ落とし、ただし、肝心の土台となる部分に妥協は許さない。勝つすべを心得ているのだ。

日本代表の岡田監督が横浜マ監督だった当時、00年から6年にわたって鹿島を率いたトニーニョ・セレーゾ監督のチームづくりにあきれていた。「毎年、同じことを忍耐強く繰り返してチームを作り上げる。私には到底まねできない」と。王国ブラジルの奥深さである。(編集委員)

2009年12月10日木曜日

太宰はやっぱり、嘘つきの天才だった

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学生時代、太宰の小説を古本屋さんに出回っているものなら、なんでもかんでも読み漁っていた。貧乏学生だったので、新刊本は買えなかった。そして昭和48年、24歳で某電鉄系の親会社に入社して、初任給を貰えたら、一番に買うぞと決めていたのが筑摩書房の太宰治全集全12巻(昭和46年、新刊として発行)だった。新品全巻で1万円ぐらいだった。活字が大きくて読みやすかった。初任給が5万5千円、手取りが4万8千円。本屋さんから、届きましたから取りに来てくださいと連絡を受け、財布を持たない私は、お金を裸で握り締めて向かった。本を受け取り、代金を誇らしげに支払った。本は重かった、心は晴れ晴れだった。何だか、自分が成長したような気分になれて嬉しかった。

当時、太宰のどの小説も何度も読み返していた。そのなかで、「津軽」は別格だった。太宰の作品のなかで、一番好きなのがこの「津軽」だ。太宰が、30年ぶりに乳母だったたけを訪ねて行く。探しあぐねて、やっと孫(?、子どもじゃなかったと思っているのですが、かん違いかも)が通っていた国民学校の運動会の会場で再会するのですが、この場面で私はいつも金縛りになってしまうのです。

「津軽」のクライマックスの舞台は、陽が燦燦(さんさん)と照りつける運動会の会場で、健康色に彩(いろど)られ、久しぶりに会った太宰と乳母、お互いに会いたくて会いたくて、晴れやかで、自然で、屈折のない交情、純粋で崇高な愛、そんな愛に溢れた状況だった。

作家は物語を創作するものだとは、よくよく理解しているのですが、私小説風に書かれているものだから、ついつい太宰の本当の本当のことを、本当のことだから尚更具体性を伴って、文学的に素晴らしい作品になっているのだ、と思っていた。昨日まで、たけさんと再会した時の状況は、本に書かれたそのものだったと、思ってきた。

ところがじゃ、実際は本に書かれたのとは、随分違ったようだ。その内容については、後の方の新聞記事に委(ゆだ)ねる。虚構という字を好んでよく使った太宰さんに、私は立派に騙(だま)されていたことが、今日の新聞記事で、知った。やっぱり、太宰は天才だったんだと、再発見させられた、ニンマリ、にんまり。こんなに、ころりんと騙される幸せもあるんだ。太宰のことが、ますます憎たらしいほど好きになっていく。

昨日〈20091209〉、太宰治全集で「津軽」を走り読みした。最後の最後のところで、太宰は嘘をつきました、と告白している文章があった。私には、そこまで読解できていなかったようだ。その部分をここに転記しておこう。---《まだまだ書きたい事が、あれこれあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。》 最後にきて、付け足しのように虚飾を行わなかったなんて、言わなくてもいいことを敢えて言っているのは、私は虚飾を行いましたってことだったんだ。どこまでも、憎めない作家だ。

☆新聞記事を丸ごと転載させていただいた。

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以下、20091208 朝日新聞夕刊 

ニッポン 人・脈・記 漢字の森深く⑩

太宰はこの字を追った

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太宰治は今も人気作家だ。生誕100年を迎えた今年は、漢字検定ならぬ「太宰治検定」までできた。

こんな問題がある。

〈私には、また別の専門科目があるのだ、世人は仮にその科目を「  」と呼んでいる〉

空欄に入るのは漢字1文字。出典は「津軽」だ。戦時中に故郷の青森県を旅してつづられた小説で、代表作の一つとなる。この「専門科目」について〈人の心と人の心の触れ合いを研究する科目〉とも書いている。

答えは「愛」。

「津軽」の最後で、太宰は子守のたけと再会する。愛という字を太宰流に描けばこうなる、という屈指の名場面だ。

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越野タケ

たけは本名越野タケ。大地主だった太宰の生家へ13歳で奉公した。幼い太宰をかわいがり、深い影響を与える。嫁いでから11人の子を産んだ。

小説で太宰は、たけを探しあぐねた末に国民学校の運動会で見つけ、〈生まれてはじめて心の平和を体験した〉。一緒に行った竜神様の桜の下で、たけが語る。〈お前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮らしていた〉

太宰と同郷の文芸評論家相馬正一(80)は戦時の勤労動員で結核を患った。「このまま死ぬのか」。戦後、太宰の「人間失格」を読み、心をつかまれる。

高校教師をしながら太宰研究に打ち込み、のちに優れた評伝で名をなす。タケに何度も会い、思い出話を聞いた。

「あの有名な場面がほとんど虚構と知った時は、いや、本当にびっくりしました」

太宰は再会した国民学校で、実はタケそっちのけで知り合いの住職に酒をふるまわれていたという。竜神様でもタケと言葉をかわしていない。

相馬はこの住職からも再会の表情を明かされ、こう考えた。

「太宰は母にかわいがられなかった。タケさんの姿を借りて育ての親という像を作り、安心立命を得たかったのでしょう。再会シーンは願望なのです。愛をめぐる虚構の天才ですね」

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「津軽」が書かれたころ、太宰に恋している女性がいた。戦後の小説「斜陽」の執筆を助ける太田静子だ。太宰が1948年に別の女性と入水する7ヶ月前、太宰の娘、のちの作家太田治子(62)を産む。

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太田治子

治子もタケに会っている。大学生だった66年、太宰を取り上げたテレビ番組の仕事で津軽を旅した。相馬が親切に案内してくれた。68歳のタケは、悲しいくらい腰が曲がっていた。

「あんた、わしの孫だ」

手をつかまれた。「その力の強かったこと。それでいて、浜辺に咲くハマナスの花のように上品なおばあちゃんでした」

治子は自宅に帰って泣いた。

「ママ、私、生きていてよかった」。出生のことで悩んでいた自分を、太宰ゆかりの人たちが温かく迎え入れてくれたから。

「津軽」は太宰文学のなかでも治子の好きな作品の一つだ。

「タケさんと再会する場面にフィクションはあっても、父の心にうそはありません」

タケは上京して、太宰の墓参りをしたことがある。再会した時と同じアヤメ模様の紺の帯を締めて。83年に85歳で亡くなり、今月15日が命日になる。

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治子は1枚の和紙を大切にしている。自分が生まれた時、太宰が名前の1字を取って名付け、したためてくれた。

〈この子は私の可愛い子で、父をいつでも誇ってすこやかに育つことを念じている〉

この肉筆に見る愛の字は、柔らかく、かわいらしい。

治子は今年9月、「明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子」を著した。母の日記を読み、2人の愛と向き合う日々。心は重くなったが、やっと父と母のありのままの姿を見つめることができた。これからは、詩人金子みすずの詩のように、明るい方へ生きていこうと思う。

一つの漢字に、たくさんの物語がやどっている。その森は深く、人を魅了してやまない。

(このシリーズは文を編集委員・白石明彦、写真を八重樫信之が担当しました。文中敬称略)

2009年12月8日火曜日

菅平が遠くになりそう

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12月3日、自宅を04:45に出発、車で菅平に行ってきた。環八、関越、上信越道の上田・菅平で高速道路を下りた。144号線、406号線を通って、菅平入り口に08:00に到着。

数年前に買った別荘を手放すことになったのです。経済不況の真っ只中、少しでも流動資金を確保したいので売却することにした。今まで別荘の管理をしていただいていた香さんに、お礼の挨拶をしなくてはいけないと思いついたのです。香さんは、我々の別荘の前の道路を隔てた向かい側でペンションを経営されているのです。ペンションの名前は「じゃじゃ馬山荘」です。

売却にあたっては、売主である弊社は宅建業者でもあるので、買主さんに交付しなければならない書類を須坂市役所で取得する必要がある。建物の設備のチェックもしなければならない。長野地方法務局での仕事は、インターネットと郵便で事足りたので、時間は短縮できた。

保有していた期間はたったの3年半だったけれど、社員や社員の家族、友人には数々の思い出を演出してくれた。夏に冬に、建物が大きいのでグループで利用できたのです。

私にとって、この別荘には格別の思いがあったのです。菅平という土地柄だ。私の精神と肉体、を鍛えてくれたのは、ここ菅平の母校のグラウンドだったのです。元々、根性のある方だったのですが、その根性にさらなる磨きをかけてくれた。丈夫だった体に鞭を打ち、なお一層頑健な体に鍛えてくれた。大学4年間の夏合宿、疲労、苦痛、汗と鼻汁、よだれにまみれて過ごしたサッカーのグラウンド。昼間は真っ赤な太陽と砂ほこり、夜には清澄な風、冷たい水、美しい星と空、柔らかい布団。

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早稲田大学菅平グラウンド

エリートと呼ばれる部友たちに囲まれ、励まされ、実際に足や手、首を引っ張り回されて、何とかみんなの足かせになりながらも頑張れた。感謝している。走っている後ろから、ぐいぐい押されたこともある、決められた時間内に走りきらないといけないのです。

技術も体力も、みんなとは同じようにはいかなかったけれど、なんとかやり通せたことで、私は、私の大人としての一歩を踏み出せたと思う。私の秘(ひそ)かな自信にもなった。大人としての行動の原理原則をここで、身につけたのだ。

そんな足手まといのサッカー部員が、練習だけではなくて金銭に関しても部友に多大の迷惑をかけたのです。4年間の部費踏み倒し、寮費踏み倒し、みんなで酒を飲みに行っても、清算する段になって、私だけは割り勘に参加できなくて、一人食い逃げ飲み逃げ?蚊帳の外状態だった。こんな男を大目に見て、手放しで許してくれた先輩、同輩たち。浪人中、ド方仕事で貯めた資金から、入学金と4年間の授業料を差っ引いて、その残った金額を4年間48ヶ月で割った額が送金されてくるのです。が、その額はみんなの半額、3万円だったのです。目を瞑(つぶ)って付き合ってくれた。心優しい後輩にも恵まれた。感謝しても、感謝しきれない。迷惑をかけたことが、卒業後も気になっていて、事あるごとにそのことが思い起こされ、いい気がしなかったのです。

そんな折、この別荘を買わないか、とかっての会社の同僚だった佐から持ち込まれたのです。即、買うことを決意した。私には思惑があったのです。日本の各地から、サッカー部の合宿に馳せ参じてくる卒業生のために、現役の選手と同じ合宿所では酒は飲めないし、夜遅くまでの談笑は許されない、それならば卒業生みんなのたまり場にでもなれば、こりゃ喜んでもらえるだろうと思い巡らしたのです。今までの不孝を許してもらうのに、こりゃ打ってつけだ。

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ダボス山(スキー場」

 

「じゃじゃ馬山荘」さんに挨拶に行った。ご夫婦は以前にも増して元気だった。ご主人さんは72歳でピアノ歴は長く、奥さん75歳で2年前からドラムを叩き始めたとのことでした。月に2回、先生が来てくれるのだそうだ。先日、老人達のダンス大会があったのですが、150人の前でドラムを叩いてきましたと、上機嫌だった。その曲はジャズなど洋楽ではなくて、50年ほど前の「東京ラプソデイ」なんですから、笑っちゃいますよね、と。それから、ペンションの仕事を、あなた達と会った頃、やめようと思っていたのですが、最近昔のお客さんが思い出したようにパラパラ来てくれるようになって、やめられなくなっちゃいました。苦笑していた。でも、商売抜きなので、いつまでも居ていいよ、なんて調子でやっています、と仰っていた。私たちも今まで、色んな人のお世話になってきたので、これからは、みなさんにお返しをしながら、生きようと話し合っているのです。奥さんの顔は少し赤みがあって、つるつるしていた。可愛い紀州犬の子犬がいた。人懐っこくて、私にくっついて離れなかった。

それから、須坂市役所に向かおうとしたのですが、どうも母校のグラウンドが気になって、今度ここへやって来るのはいつのことやらわからない。見納めにはしたくないが、ここでグラウンドをもう一度網膜に焼付けておかなければ後悔する。思い出がセピア色になりかけていた。誰もいないグラウンドは、小雨が降るなかにひっそりと静かにたたずんでいた。悲しそうにも寂しそうにも見えた。グラウンドを前に、当時のことを思い出そうとしたが、40年以上も前のことだ、激しく熱いものは湧き起こってこない、とにかくグラウンドも私も、今は静かだ。当時もそうだったが、今も菅平は私には、他人行儀でよそよそしい。温かく迎えるという風情ではない、冷たく厳然と立ち向かっている。容赦しないぞ、とでも言いそうな気配だ。

追慕、菅平は遠くなりにけり、だ。

なんだか、物足りない。静かに、ボーウッと眺めるだけで、このまま、帰るわけにはいくまい。過去の激情が蘇ってくるのではと期待したのに。畜生、俺はどうなったんだ?。そうだ、それならスキー場のダボス山にでも登ろう。学生時代、朝に、昼に走って登った。制限タイムに入れなかったら、罰が用意されていた。突然、この体を痛めつけたいという欲望が、キリギリと湧いてきた。脂肪で弛(たる)みきったこの体を苛(いじ)めるのだ。一気に走って登ろう、ぜえぜえ、息を吐きながら。40年前の、合宿中の激しい練習の痛苦の一部でも、この私の肉体に蘇らせるのだ。

でも、ーーそれは無理だった。走るどころか、ゆっくりゆっくり歩いて登るのが精一杯だった。息は荒れない、乱れない。学生時代には、韋駄天のように駆け上り、下りはめっちゃめっちゃスピードをあげて、足元に何があろうとも、牛の糞があちこちにあったのですが、そんなものへっちゃらに無視して駆け下りた。今、私はゆっくりとゲレンデを振り返り振り返りしながら登っている。小雨が頬に冷たい。何日か前に降った雪が頂上付近に少し残っていた。頂上から、パノラマのような景色を見渡した。遠くには山が連なり、近くにはあちこちにグラウンドやスキー場、畑が視野いっぱいに広がっている。

そして須坂市役所に向かった。用を済ませた。

会社に戻ったのは、17:00だった。