2012年1月31日火曜日

我が家が解体された

MX-3500FN_20120131_150806_002 MX-3500FN_20120131_150806_001

先週の月曜日20120123から、我が家の解体が始まった。

気象庁は、連日低温注意報を出している。こんな注意報が気象注意報の中にあることを初めて知った。一際冷たい寒気団が、空を覆う。その寒空の下、我が家が、解体屋さんによって手際良く、壊されている。

私は、現場の前に立つ。

おとうさん(義父)、草君の習字が残っていたと解体屋さんから連絡があったのですが、捨てますか、どうしますか、と二女の旦那・竹ちゃんから電話をもらった。現場のことも気になっていたので、即、駆けつけた。

その習字は、中学生の時、彼が書いたもので、「一蹴入魂」だ。書には気合が漲(みなぎ)っている。私は長年に亘ってサッカーに情熱を燃やした。息子もまたサッカーに情熱を燃やした、そして素晴らしい仲間に恵まれた。その情熱、炎上中に書いたものだ。海外赴任中の本人の意向は解らないが、とりあえず保管することにした。

目の前で、家が壊されていく。解体屋さんは、壊した廃材を分別しながら収集していく。

解体屋・アさんは、我が社の優良な取引会社だ。それに私の二女の小学校からの友人の夫が社長さんだ。数年前に、この会社の社長さんのご自宅を、弊社で紹介させていただいて、今は凄く喜んでくれている。その家は、この解体現場から200メートルも離れていない。

MX-3500FN_20120131_150806_003 MX-3500FN_20120131_150806_004

この権太坂に引っ越してきたのは、35年前。それから10年後に、200メートルほど離れたところに引っ越してきたのがこの家で、今、まさにか・い・た・い・ち・ゅ・う。この家には約25年住んだことになる。

4人の小さな子供たちと過ごした思い出が次から次と湧いてくる。そして、無性に寂しさがこみ上げてきた。足元がグラグラ、寒さが身に沁みる。目の前の光景が、ぼや~んとかすんでくる。

家人に寂しいなあ、と声を掛けると、彼女は泣いていた。

現場から、車で離れたが、頭の中はドンヨリと重い。車の中で、一人、狂ったように、大声で叫びたい衝動に駆られた。

この家を私の不如意なことで手放すことになったのは、不幸なことだけれど、二女夫婦が自分たちで土地を購入して、家を建て替えようと提案してきたことは、全く予期せぬことだった。

それなら、君らの家はどうするんだ?の質問には、三女・苑たちが住めばいいではないか、と何もかも答えが出ていて、すっきりしたもんだ。三女とは打ち合わせ済みだと言う。

途方に暮れていた私は、彼女たちの提案に嬉しく同意した。こんなに幸せな方向に話が進むとは露ほども想像しなかった。

「どいつもこいつも、不景気な顔をしやがって。景気よく、ここは一発、建て替えようぜ」。頼もしい限りだ。

20120129の夕方、昨年の3・11東日本大震災のことが脳裏を掠めた。

目の前で、やっとのことでローンを払い終えた家や、新築したばかりの家が、又、それぞれに事情の違いはあるだろうが、沢山の家が津波で流された。住宅、店舗、工場、さまざまな建物や施設、市街が丸ごとごっそり流されて、残されたのは、剥がされた地面と瓦礫だけ。死者15600余人、行方不明者4900余人。

罹災者の方々、その関係者の人々が、なんと惨(むご)い思いをされたことだろう。さぞかしい、悔しくて、悲しく、辛く嫌な思いをされたことだろう。残念無念、千万無量の思いだろう。この人たちのことを想うと、この程度の事情で私の家が壊されることなんて、屁みたいなもんではないか。何をメソメソしているんだ。

新しい、我等の家が建て替わる。でも、私が大事にしてきた家はもうない。

この夏前には、新しい家が完成する。悲しんでいる場合ではない、と娘夫婦らから励まされても、喪失感は褪(あ)せない、寂しいのだ。

見たかった、信貴山縁起絵巻

MX-3500FN_20120205_124253_001

20120108の夜、寝屋川で大学時代のサッカー部同期の金ちゃんのご自宅に泊めてもらった。

夜10時過ぎ、私が、宇治であった中学校の同窓会を終えて、金ちゃんの家まで、何とか辿り着いた。同窓会の参加者は、お酒を私ほど深く飲まないようだ。酒などに頼らない、平和な生活を過ごしているのだろう。羨ましい限りだ。

金ちゃんの家に着いたときには、金ちゃん夫婦と先客・西の三人が何やら鍋物を食べ終わったようで、私には仕上げのオジヤで遇してくれた。何鍋だったのか、教えてくれないものだから、想いは広がる。料亭のおざなりな高級料理よりも、種類は兎も角、何鍋でも、私の身には合う。

西は、同じ大学の水球部の主将だった。卒業は私がお決まり通りで、2人は翌年卒業の1年遅れだ。西は日本の代表選手だった。福島のいわき市に住んでいて、原発が水素爆発を起こした後、私の住まいに避難していた。だから、西とは8ヶ月ぶり、金とは1年半ぶりのお酒だ。

金ちゃんは、大学を卒業して母校の高校の先生になった。そして、校長先生と何やら大変揉めたそうで、自己都合退職なのか、馘首なのか、真相は教えてもらってないが、結果、不動産屋さんになって、最早30年近くにはなるだろう。私と同業。情報交換は密にしてきたけれど、関西と関東は、何かと大いに違うところがあって、互いの情報は相手には、余り役に立たないものだった。

翌日20120109、豪華な朝食の後、今日一日何をしようか、と金ちゃんが我らを気遣って聞いてきた。西はこのような場合でも、な~んにも考えてないことは明白。私は躊躇(ためら)うことなく、信貴山に行きたい、と提案した。対論を持たない彼らは、私の提案に無条件で賛同してくれた。

即、金ちゃんは一番頼りにしている弟に電話して、悪いけど今日はヤマオカさんが来ているさかいになあ、ちょっとなあ、頼むぞ、と電話を切った。

MX-3500FN_20120205_124311_001

本堂。舞台づくりになっていて、その眺めは大和平野一望。

何故、信貴山なのか? 前日、奈良の東大寺を見終わって、奈良駅前広場のベンチで寛いでいたとき、夜お世話になる金ちゃん宅がある寝屋川方面を地図で追うと、奈良から生駒山地を越えると、直ぐそこが寝屋川だった。そこで、明日の金ちゃんの都合次第で、生駒山の信貴山行きをお願いしよう、と思いついたのだ。

正式には、信貴山真言宗総本山朝護孫子寺。

車で、有料の信貴・生駒スカイラインを走って、約40分で信貴山に着いた。一行は、金ちゃんと金の奥さんのナオミちゃん、私と西の4人。途中、見晴らしの良い所で、休憩。大阪と奈良の市街地が眼下に眺められた。生駒山の標高は642メートルと後で知った。遠く京都方面も眺めてみた。真言宗の僧侶たちの修験の場所だった。それゃ、奈良や京都から、この山頂までの距離は、高さはさほどでもないが、水平移動は相当な距離になる。

MX-3500FN_20120205_125924_001 MX-3500FN_20120205_125945_001

信貴山へは何年か前に来たことがあって、それがいつだったか思い出せない。下から眺める朝護孫子寺の本堂の姿が遠い記憶にある。高校生のときか、受験浪人のときだったかも。本堂からは、大和平野が一望できた。

この寺は、私のような俗っぽい人間にも、親しみを沸かせてくれる寺なのだ。それは、国宝に指定されている縁起絵巻三巻による。今回のツアーコンダクターの金ちゃんは、少し前にNHKでこの絵巻物の特番を偶然観て、そこで学んだことを丁寧に解説してくれた。車中、境内に入ってから展示室に入るまで、展示室の中で、展示室を出てからも詳しく。そして、寺が発行している「信貴山」、定価500円も買ってくれた。この絵巻物を、いい加減ではなく、きちんと理解してくれよ、と彼の希(のぞみ)が強く感じられた。私が、唐突に、今回信貴山に行きたいといって、彼が快諾してくれたのには、このような知識があったからかもしれない。

境内にある食堂で、お汁粉を私以外の3人は食った。私は朝飯をいつもより沢山頂いたので、何もオーダーせずに水を頂いて、食堂の前で、僧侶たちが5,6人でお経を唱え、護摩を焚いていたのを眺めた。祈祷してもらっている人が後を絶たない。護摩を持たない私は、後ろの方の人陰から、黙して祈った。会社のこと、スッタフやスタッフの家族のこと、自分と自分の家族のこれからの行く末が平穏であることを祈った。

MX-3500FN_20120205_124900_001

食堂内の3人は、お汁粉に満足したのだろう、表情が和やかだ。

 

信貴山真言宗総本山朝護孫子寺のホームページより、信貴山と朝護孫子寺の紹介文を引用させてもらった。

★信貴山

今から1400年前、聖徳太子は物部守屋を討伐せんと河内稲村城に向かう途中に、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はそのご加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山「信貴山と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。  

★朝護孫子寺

醍醐天皇御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空しからず天皇のご病気は、たちまちにして癒えました。よって、天皇朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることになりました。また、「朝護孫子寺」は「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれている。

★戒壇巡り 

本堂階下の暗闇を進んだ。横浜に帰って、友人にこの暗闇の話をしたら、仏像の先に錠前があってそれに触れることができたら、ご利益(りやく)があるんやで、と教えられたが、そんなことには気づかなかった。

p_3

 

★毘沙門天王

毘沙門天王は、七福神のなかでも、商売繁盛、金運如意、心願成就を最も厚く授けてくれる福の神。

 p_4

 

★経蔵堂

中央に回転経厨子がああり、中に仏教のあらゆる法門の経典を集めた「一切経」が納められている。これを回転させる毎に」一切経」を全て読誦したのと同じ功徳があると言われている。一人では重たくて無理だった。数人で、協力して押さないと動かない。

MX-3500FN_20120205_124916_001

-----------------------------------------------------------

★国宝信貴山縁起絵巻

MX-3500FN_20120131_082940_001

この絵巻物は、今から千百年前、当山中興命蓮上人が、この寺で修行していた時の物語を、面白く描き綴られたもので「飛倉巻、延喜加持巻、尼公巻」の三巻からなっている。

〇飛倉巻=京都山崎の郷に一人の貧者がおりました。

命蓮の教えに従い慈悲の心を持って、毘沙門天王を信奉し努力すると、幾年も経たぬ間に大福長者となりましたが、時が経つにつれいつしか心奢り命蓮の教えも忘れ、怠惰な暮らしをして命蓮に差し上げるお布施の米も惜しがり、お返しする托鉢も米倉に投げ入れました。

すると、突然倉がゆらゆらと動き出し、転がり出た鉢が倉を乗せて空高く舞い上がりました。長者も家の人も、あれよあれよと騒ぎ立て、唖然と空を見上げるばかりです。黄金色の鉢が空を飛んで行く、しかもその上には巨大な倉が軽々と浮かんでいます。

馬に乗った長者、後を追う召し使い達、倉は信貴山に向かって飛んで行く。長者の後悔と不安に満ちた顔、召し使い達の驚きの顔、絵巻はその表情を克明に描き続けています。

 

〇延喜加持巻=延喜の帝 醍醐天皇が重い病に罹られました。

さまざまな祈祷も薬も一向に効き目がありません。命蓮の不思議な法力の噂を聞いて勅使の一行が命蓮を訪ねて信貴山に至り、朝廷に来て祈祷して欲しいと頼みます。

命蓮は、勅使に私は、この山で毘沙門天王にお祈りいたします。満願の日が過ぎたら、そのしるしに剣の護法童子が朝廷に出現されるでしょうと答えます。

果たして数日後、帝の夢の中に護法童子が現れたかとみるや霊験もあらたかに、帝の病はたちどころに治りました。千の剣を身に付け、黄金の車輪を廻し雲を呼びながら、帝の枕元へ急ぐ剣の童子の姿は絵巻の最大な圧巻として描かれています。

 

〇尼公巻=命蓮には信濃の国に尼公と言う姉がいます。

尼公は二十年前奈良に修行に行くと言って、古里を出たまま行方不明になった弟をさがして、大和路に入り村の人々に命蓮のありかを尋ね歩きます。若菜を摘み洗濯をする里の女達、大和路は春でした。

見馴れぬ旅人の姿に子供達は、物珍しそうに近寄り、犬は吠えかけています。尼公は尋ねあぐねて、東大寺の大仏殿で一夜を明かしながら、弟の居所を教えてくださいと祈り続けました。

すると、夢の中に大仏のお告げがあり、その教えに従って行くと信貴山の山の中に弟の住み家がありました。命蓮と呼びかける尼公、振り返る命蓮、年老いた姉と弟の感動的な再会が描き続けられています。

 

今夜中に福島・いわきまで帰りたいと言う西のために、ナオミちゃんは夕食の準備を早めてくれた。鍋だった。美味かった。そして西は再会を約束して帰った。上野駅に22時半ごろまでには着きたいんだ、明日はゴルフなんだと言っていた。

それから、金ちゃんとテレビでイングランドのラグビーの試合を観てから少し寝かせてもらった。22:30頃、京阪電車の寝屋川駅まで送ってもらい、京都駅八条口を00:00スタートの深夜バスに乗り込んだ。帰途、夕食は何鍋だったのだろうと思い返しても、思い出せない。きっと話しに夢中だったのだろう。バスは若者で満員だった。

2012年1月29日日曜日

歳費は論戦に払われる

「消費増税国会」の論戦が、26日の衆院本会議から始まった。

消費税の増税を、ネバー、ネバー、ネバーギブアップとチャーチルの言葉を借りて本気度を表現した野田佳彦首相と、なりふり構わず協議に応じようとしない自民党の谷垣禎一総裁。首相には、何が何でもやり抜くとの気概、総裁には、何でも反対、解散だけしか頭にない。

MX-3500FN_20120129_160439_001

衆院本会議で質問に立つ自民党の谷垣禎一総裁。後方は野田佳彦首相=26日午後、国会内、仙波理撮影(朝日新聞20120127)、

私は、貧乏な会社の貧乏な経営者の一人だ。

消費税が5%から10%にも上がると聞けば、腰が抜けるほど嫌だ。怒髪、天を衝く。それでもだ、EUの政府債務や年金が危機にあるとか、破綻しそうだなどと耳にすると、兎に角、聞き耳だけでも立てようとしている。だからって、そうは容易く理解できる人間ではない。

26日、自民党の谷垣総裁は野田首相の施政方針演説に対する代表質問で、消費増税をめぐる与野党協議に応じない三つの理由を説明した、神経質な声と面持ちで。世論や、自民党内においてさえ、協議拒否を批判する声があることを念頭にしているのだろう、異常な熱意をもって自分の正当性を強調した。

その1は、国民との偽りの契約で得た議席を利用した消費税引き上げは、議会制民主主義への冒瀆だ。その2は、増税だけ決めて、社会保障制度の将来の姿がいい加減では、国民の理解は得られない。その3は、2015年度を含めた歳出削減の内容を具体的に示し、国民に約束しろということだった。(朝日新聞20120127の記事を拝借した)

谷垣総裁は、いろいろと協議拒否の理由を発言したが、ここで、ちょっと振り返ってみようぜ。自民党は、確か、2010年の参院選での公約に「消費税は当面10%」と掲げて戦ったではないか。そして、勝った。元々、自民党の税政策は、消費税10%を目指すのではなかったのか。

そして、今、民主党首脳部は、内部分裂を起こしながらも増税に突き進む方針で、野党に協議を申し立てたが、拒否された。党内で、大半のコンセンサスを得た案ができたわけではないのだから、増税法案を野党と協議を始めたいと申し出たって、協議相手は本気には取り組めない。党が、一枚岩でないと、こんな重大な案件は中央突破できない。

それに、野党が消費増税法案を今国会で審議に応じる前提として、新しい年金制度に必要な財源の試算を明らかにして欲しい、と申し出ても示・さ・な・い・とした。これじゃ、話にならない。審議しようにも審議できないのは当然のことだ。

民主党の新年金制度は、消費増税と社会保障の一体化と言っているが、これは制度の一元化と最低保障年金の創設が柱だ。昨春、民主党が作った財源の試算とは、新年金制度へ移行を終える2075年度に、消費税がさらに7,1%の引き上げが必要になる、ということらしい。このことを20120130の新聞で知った。

60年後のことだろう。そんなことなら、イヤ、その程度のことなら少子高齢化が進んでいる現状を知っている人にならば、理解は得られるのではないか。

喝だ、喝。何もかもさらけ出して堂々とやってくださいな。

実は昨日20120129、この増税を推し進めるのに、低所得者対策として、対象者1人に対して1万円、現金で給付するとか、聞いてしまってから、私の中に消費税問題に対する関心がさらに高まったのだ。低所得者対策は講じてもらいたいが、何故現金で、1万円なんだ、と言うことだ。その金って、税金でしょ。流石(さすが)、バラ撒きの民主党らしいわ。

方や自民党は、政権党から外れて2年、消費税に対する検討をどれだけしてきたのだろうか。長年、政権党だった自民党ならば経験、知識で、さぞかし立派な案が検討できている筈だ。それでもって、論戦の果てに、自党の案を大いにアピールすればいいではないか。非力な民主党に練り上げた自案で、コテンパにやっつければいいではないか。でも、そんな自民党を期待できそうにない。

自民党に妙案があるのなら、早く披露してみてくださいな。

こんな状態で解散して、万一自民党が勝ったとしても、元の前々の自民党のままだったら、それこそ、地獄の深堀だ。いい加減にしてくれと嘆いたっても、困るのは国民だ。

私は消費増税が、怖い。私の会社の生業は中古住宅をメインに扱っている。心配だ。

2012年1月24日火曜日

金栗四三氏と村社講平氏

先日朝日新聞で、金栗四三氏がストックホルムオリンピックのマラソン競技に出場して、途中で断念した彼に、オリンピック開催55周年記念式典の式次第のなかにオリンピック委員会が粋な計らいをしたことの記述があり、私は幸せな気分になった

そして、今日(20120124)、車で出勤途中に、ラジオでザトペックと村社講平氏のことを聞いた。ニッポン放送の「朝ラジ」だ。あの人間機関車と言われたザトペックが、幼少の頃、ベルリンのオリンピックスタジアムでの金栗の果敢な激走を観て感激、自ら長距離ランナーを目指し、ベルリンとヘルシンキの2つのオリンピックで不倒の記録を残した。その内容は、下の方で記述した。それから約30年後、日本で是非、自分に感動を与えてくれた村社講平と一緒に走りたいと申し出た。そのとき75歳だった村社講平だが、快諾、5キロを一緒に走った、ということだった。

たまたま、1週間ばかりの期間に、スポーツに関することで、興味ある二つの話に出くわした。やはりこれは、マイファイルに纏めておきたいと思って、次の文章を綴ることにした。スポーツでも、私はサッカー情報には特に鋭敏だけれど、こんないい話は競技種目に、隔たりはない。スポーツやスポーツマンシップが愛されたり、畏敬されたりする所以(ゆえん)だ。

スポーツは素晴らしい、友情はもっと素晴らしい。

これからの殆(ほと)んどの文章は、Wikipediaをそのまま頂戴して、一部、私が書き加えました。感謝。

 

先ずは、金栗四三(かなぐりしそう)さんだ。

Shisou_Kanaguri

1911年(明治43年)、東京高等師範学校(前は、東京教育大学、現・筑波大学)の2年生の時、翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、マラソン足袋で当時の世界記録を27分縮める大記録を出した。当時の距離は25マイル=40、225キロ。タイムは2時間32分45秒。日本人初のマラソンのオリンピック選手だ。

1912年のストックホルムオリンピックでは、レース途中で日射病で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝であった。マラソン中に行方不明になったのだ。この日、ストックホルムは40度を越す酷暑、そのうえ宿泊先に迎えがこなくて、走って会場に向かった。レース参加の68選手のうち半数は途中棄権、そのうちの1人は翌日亡くなった。

次の1916年のベルリンオリンピックでは代表に選ばれながら、第一次世界大戦勃発により開催中止。1920年のアントワーブオリンピックでは16位、1924年のパリオリンピックでは途中棄権。このように、オリンピックではいい成績を残せなかった。

1920年第1回箱根駅伝が開催される。金栗はこの大会開催のために尽力した。この功績を讃え、箱根駅伝では2004年より、最優秀選手に対しては、金栗四三杯が贈呈されている。

kanakuri-shiso_in_Stockholms1967-03-21-thumbnail2

テープを切る金栗氏

1967年(昭和42年)、スウエーデンのオリンピック委員会から、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待される。ストックホルムオリンピックでは棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。記念式典開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくり走って、場内に用意されたゴールテープを切った。この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた。54年と8ヶ月6日5時間32分20秒という記録は世界一遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られることは無いだろうと言われている。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントした。

 

次に、村社講平(むらこそこうへい)さんだ。

中央大学在学中(27歳で入学)、31歳の時、1936年にベルリンオリンピックに日本代表として出場。5、000メートルと10、000メートルでともに4位入賞した。身長160センチ、体重50キロ。小さな体で、堂々と先頭を切って力走する村社の姿に、競技場内は騒然とし、「ム・ラ・コ・ソ」の大コールに包まれた。そのベルリンの村社の力走に感銘したチェコスロバキアの少年が、後のエミール・ザトペックであった。

画期的なカメラワークで記録映画の最高傑作と評される、レニ・リーフェンシュタール監督の「民族の祭典」には、この村社の10,000メートル決勝が記録されている。日本から来たひときわ小柄な選手がスタートまもなく先頭に立ち、当時世界一の長距離王国のフィンランドの3選手を従えて、残り1周半までレースを果敢に引っ張った。映画の実況では、「小さな村社がやって来た」「村社リードする」「村社いぜん先頭。フィンランドは二番手」「村社のペースは驚異的」「フインランド勢が一団となり、村社に襲いかかる」

石ころだらけの宮崎の道を、練習相手もなくただ一人走り続けた猛練習が、やがて彼を国内無敵のランナーに育てていった。

302PX-~1

ザトペック

ザトペックと言えば、1948年のロンドンオリンピックでは10,000メートルで金メダル、5,000メートで銀メダル。1952年のヘルシンキオリンピックでは、5,000メートル、10,000メートル、マラソンで金メダル3個を獲得した。長距離3冠王だ。顔をしかめ、喘ぎながら、前かがみに走るスタイルから「人間機関車」と称された。インターバルトレーニングの創始者としても知られている。

プラハの春の際には自由化を求める「二千語宣言」に署名、ソ連のチェコ侵攻後は国内において冷遇される日々が続いた。1989年、民主化により復権した。

1981年多摩ロードレースに出場するために来日した。そのザトペックが、「どうしても村社講平と一緒に走りたい。彼は私を陸上競技の道に進ませてくれた、憧れの人なんだ」と希望したことから、当時75歳であった村社が「そこまで言うなら」と一緒に走ることを快諾、5キロをザトペックとともに走った。

2012年1月22日日曜日

政治の根幹変える覚悟を

いつまでだったのだろう、かっては、1月15日は「成人の日」だった。

長く私の成人の日は、秩父宮ラグビー場で行なわれる、恒例の社会人のチャンピオンと学生のチャンピオンが、日本一を決するラグビーの試合をテレビ観戦で楽しんできた。今でも、この大会は行なわれているのだろうか、最近、残念なことに、この決勝戦を観ていない。仕事が厳しくて余裕がなかった。

成人式からの帰りなのか、着物を着飾った女性が、観客席に花を咲かせた。寒空の下、白い息、鍛え上げられた青年たちの逞しい体がぶつかり合う。シーズン最後の雌雄を決する肉弾戦だ。

方や成人式の方はと言えば、どこでどう間違ったのか、昨今、日本のあちこちの会場で、酒を飲んでは、その勢いで、理解できない狼藉を振舞う若者のことが、マスコミで報道されてきた。不愉快な思いをしてきた。

ところが、今年は10日が成人式。昨年の3・11東日本大震災の影響か、多くの代表者が、人間の絆について、他人を思い遣ることの大切さを話したそうだ。言説に多くの若者が肯いた。馬鹿な新成人が少なくなった、馬鹿ができなくなった、そんな光景を初老の域に入った私には、嬉しい限りだ。君たちこそ、これからの主役なんだから。頼むぞ。

そんなことを考えながら、新聞を読んでいた。日本の政治家に物申す朝日新聞の記事だ。新成人たちよ、憂れろ、怒れ。そして心休まれば、こんな記事を読んで、考える大人になってもらいたい。

ーーーーーーー

image 000499

20120115

朝日新聞・社説

日本の指導者

政治の根幹変える覚悟を

ーーーーーーーーーーーー

もし、ことしも首相が代われば、7年連続である。

消費税率の引き上げをめぐって、衆院解散・総選挙の気運が高まりつつあり、その可能性は決して低くない。

この6年、毎年、首相が退陣した日本の政治は、すっかりタカが外れてしまった。

民主党では昨年、菅首相に「辞めろ」の大合唱が起こり、不信任案へ同調する動きさえあった。次の野田首相は、増税を訴えて党代表選に勝ったのに、年末の党内議論で反対論が蒸し返され、離党者まで出た。

自民党には、もはや政権党の面影もない。財政赤字を積み上げてきた責任など知らん顔で、民主党のマニフェスト違反を責め立てる姿は滑稽ですらある。

こんなありさまだから、衆院で9割に近い議席を占める民主党と自民党の支持率を合わせても、最近は40%にも満たない。

「支持政党なし」が圧倒的な最大勢力を占める現状は、果たして「2大政党」などと言えるものなのか。

 

確かな時代認識を

 

ことし9月、民主党の野田佳彦代表(首相)も、自民党の谷垣禎一総裁も党トップの任期が切れる。政治を立て直すきっかけにするためにも、指導者のあり方を考える好機である。

「戦後の政治が決めたのは、反共と経済重視。日米安保の方向性だけ。あとは官僚が実行計画を書いてくれた」

こんな自民党ベテラン議員の言葉が物語る「自動操縦」のような時代は、「膨らむ富の再分配」が政治の役割だった。

だが、いまや世界に例のない超高齢化が進む。働く人の数が減る。グローバル化の荒波のなか、新たな経済成長のタネが見つからない。貧富や世代間の格差が広がり続ける。

政治は「負担の配分」という厳しい仕事を迫られている。なのに国会議員たちは相も変わらず「自動操縦」の時代が続いているかのように官僚に寄りかかり、借金を重ねて、その場をしのぐ政治に精を出す。これでは後世にツケを回すだけだ。

政党を率いる指導者は、まず確かな時代認識を持つことだ。それに従って、時代にふさわしい統治の仕組みに制度を根幹から変えていく覚悟が要る。

社会を作り直すためには、たとえば官僚主導から真の政治主導へ、中央集権から地方分権へといった大胆な転換が不可欠なはずだ。

有権者はすでに時代とともに変わっている。都市部だけでなく、農村部でも業界団体などの集票力が激減しているのは、その証だ。要望の多様化とともに、有権者は砂粒のようにばらばらになり、風が吹けば砂丘のように位置を変える。

 

変化への対応

 

この変わりように、政治家がついていけない。

衆院の小選挙区制もあいまって、より幅広い支持を得られるそうな党首を据える傾向が強まっているが、それは気まぐれな世論を味方につけようとする、いわば糊塗策でしかない。

有権者それぞれの思いを重ねて、くみあげる機能もないままに、支持だけ求めても無理だ。時代遅れの政党や政治家が、有権者に見限られるのは当たり前ではないか。

これほど情けない国政を見せられれば、橋下徹大阪市長のような政治家が存在感を増すのもうなずける。

大阪市役所という巨大な組織を批判する言説は、とにかくわかりやすい。大阪府と市の二重行政の無駄をなくす姿勢も、経済が縮んでいく時代の流れに沿うものといえる。

敵をつくり、対立の摩擦熱ですすむような手法は、冷静な思考を妨げる危うさがつきまとう。だが、政治が確かに動いているという感覚を有権者に与えているのは間違いない。

こんな橋下氏に、従来の主張や政策を省みずにすり寄る既成政党の姿は哀れみさえ誘う。

野田首相が税と社会保障の一体改革で、国民に負担増を求めるのは、時代の変化に向き合う一歩だといえる。行革を断行しつつ、前へ進まねばならない。

昨年末に民主党内の増税反対論を押し切った議論を、もっと国民に見える形でやればいい。首相が矢面に立って初めて、有権者は振り返る。

 

組織を動かす力

 

自民党の谷垣総裁は、どう応じるのか。「税制改革の断行を堂々と掲げてきた」というのなら、早期解散への党内圧力を抑え、むしろ民主党をリードして改革を成し遂げるのが筋だろう。それができれば、歴史に名を残すに違いない。

指導者は時代の変化を見極めて、わかりやすい目標を示し、その達成までの戦略を立て、実現のために縁の下で汗をかく人も含めて組織を動かす。こうした指導力を培うには、経験も欠かせない。

指導者を使い捨てるような政治風土からは、有為な人間はなかなか生まれない。

2012年1月19日木曜日

今年のスローガンは、復活だ

晴2 005

20120104 

我が社は翌日、5日が仕事始めだ。会社には、私しか居ない。今年のスローガンを例年通りに書くことにした。文房具屋さんが店を開けるのを待って、用紙を買いに行った。何を書けばいいのだろう、ずうっと考え放しだ。

何回か試し書きを終えて、いざ本番に入ったが、なかなか、思うようには書けない。あらためて、一字一字を確かめていたら、経営責任者の中さんが、子ども二人を連れて、やってきた。

彼の息子も書初めを始めた。きっと冬休みの宿題なんだろう。「平和な国家」と書いていた。なかなか、上手に書けていた。中さんは、「平和な家庭」の方が良いのではないか、「平和な家庭」と書いて持って行ったら、家庭事情を知り尽くしている担任の先生は、きっと喜んでくれるのに、と冗談を言っていた。

今年も仕事開始のゴングが鳴った。きっと、彼も、自宅ではじっとしていられなかったのだろう。気は急(せ)く、経済環境は年を跨いだからといって、そんなに激変するとは考えられない。新しい政策があるわけではない。日本だけではない、世界中の国が政府債務の危機を募らせている。

どうせ、不景気なら、不景気なりにやりがいがある。

幸い、今、我が社にあるのは、優良な住宅の在庫だ。昨年中に仕入れた物件はどれも優良な物件で、商品化できたばかりだ。年明けとともに、未公開のこれらの物件が、住宅購入検討客にどのように評価されるのか、見ものだ。楽しみでもある。

早速、5日には、保土ヶ谷のアパートの売却の取引がある。そして、週末からの3連休は、我が社では平塚で1箇所、横浜で3ヵ所、協力会社で4箇所、中古住宅の現地販売会を行なう。

まだまだ、私の経営者マインドは、元通りには回復できていない、が、それでも、この1年間はなんとか、踏ん張ってきた。忍耐の1年間だった。そして、辛抱にも慣れて、心も体も休まって、新たなステージに向かってチャレンジできるまで、ここにきて、やっと整ってきた。

同 002

ここで、再び、私が大きな声で叫びたいのは、長年の我が社のキャッチコピー「横浜一元気な会社」だ。攻勢の烽火(のろし)を挙げるのだ。我が社を取り巻く関係各社の皆さん、どうか、よろしくお願いします。

一筆入魂。出来上がりは、見ての通りだ。誰が観ても、この書は達筆ではない。が、気合は入れて書いた。

今年は、「横浜一元気な会社」の復活元年にしたいそれには、1に、常に慎みを忘れず、皆さんに感謝して、誠意ある行動をとること。その2は、愚直に、強い意志をもって、よく熟考して、行動は大胆にだ。

繰り返します。どうか、みなさん、今年もよろしくお願いします。 社員一同より。

晴2 003

2012年1月18日水曜日

東大寺の大仏さんに会いたくて

20120108 横浜駅の天理ビル前を、深夜バスで京都に向かった。商品名は、高速ライナー。00:00にスタート。この深夜バス、全てインターネットでの予約制で、新宿ー(横浜ー京都)-大阪を走る。横浜から京都までは片道3400円也。3回のトイレ休憩をして、京都に着いたのが、ぴったり06:00だった。

同窓会 043

昭和38年に卒業した京都府、宇治田原町立維孝館中学校の同窓会に出席するためだ。昭和38年は1963年だから、卒業して約50年、ひえぇ~半世紀前のことになる~の~。宴会の場所は宇治、受付は12:00からと聞いていた。

そこで、京都に着いてからのことを考えた。

折角の京都入りだ。それならば、JR奈良線の宇治駅から京都へは何度も乗ったことがあるが、逆に宇治から奈良方面に乗ったことが一度もないので、この機会に、奈良まで足を伸ばすことにしてみようと思いついた。奈良には、法隆寺も、東大寺、薬師寺、浄瑠璃寺もある。何処に行くかは、奈良駅に着いてから考えればいいや、生来の好い加減な性格だ。兎に角、昼までに宇治に着きさえすればいいのだ、天賦?の賜物、5時間をのんびり過ごしたい。

小学生のときにあれ程驚かせてくれた大仏さんに会いたいとも思った。東大寺の大仏さんのことだ。

07:ちょっと過ぎ JR奈良線の京都駅から奈良行きの各駅停車の電車に乗った。宇治駅を過ぎて、私の高校の最寄の駅も過ぎた。木津川と国道24号線に沿って線路は伸びる。単線で、何処かの駅で上りと下りがすれ違った。城陽、山城青谷、木津を過ぎて、奈良駅に着いたのは、約1時間後の8時前だった。

車窓からは、稲の刈り取られた後の水田と黒瓦の屋根の家並みが交互に見えた。小さな集落や大きな集落が、現れては消える。子どもの頃よりよく見慣れた、ありふれた田園風景だ。この沿線は、開発がそれほど進まなかったようだ。宇治や城陽の辺りでは、昭和40年、50年代に分譲された新興住宅街が、ここらで、一度手を加えて欲しそうな家が目立つ。城陽の駅には、五里五里の看板があった。京都から5里、奈良から5里ということだ。

同窓会 004

旧奈良駅舎

やっぱり、車中、東大寺へ行くことに決めた。天平(てんぴょう)文化の代表選手だ。正式名称は、華厳宗大本山東大寺だ。

同窓会 037

大仏殿

日曜日の早朝なので駅の構内は閑散としていた。駅員は丁寧に東大寺への道を教えてくれた。バスなら5分ぐらいですが、歩くと30分はかかりますよ。正面の階段を下りたところにバス停がありますから、と、懐かしい地元の言葉は、私の耳に心地よい。少し歩いて、今では観光案内所になっている奈良駅の旧駅舎を振り返って見た、なかなか格好良い。そして、ぶらぶら、時間を気にしないで歩いた。見かけたのは、近所の住民が犬の散歩をしている程度で、観光客らしき人は私を入れて数人だけ。

京都の町のことをそれほど詳しくないけれど、生家が京都府の片田舎だったから、何かと訪れる機会があって、親戚もあったから、それなりに京都の街並みは知っている。奈良は、京都に比べて街並みに静寂を維持していることに感心させられた。日本古来の静かさだ。日本の古来の静かさなんて、知らない癖に、知ったかぶりは、良くくありませんが、そんな気がしたのだ。

京都の御所には天皇がいたから、権勢を誇りたがる下品な武士ども、北条時政、時頼、豊臣秀吉、織田信長らの陣営が、江戸時代になってからも徳川家康たちの一派までが、かって静かだった京都を舞台にハシャギ廻った。住民はその度に嫌な思いをした。兵(つわもの)どもの夢の後をあちこちに残した。華美な建物だったり、部屋に残された刀の後だったり。誰もが近づき難い雰囲気の建物や庭園もあることはある。厳かな神社仏閣もある。公家たちも、高級官僚として大いにのさばった。栄華を欲しい侭にやり放題だった。秩序なく混在してしまった。

その結果、それが、いくつかの文化財産を生んだことになり、遺産と言われ、それ目当ての観光客がわんさかわんさかやって来ることになった。それを京都は甘受した。

ところが、奈良の町には、静かに時が流れている。権勢とか、血を血で洗うような血生臭さから遠ざかり、静溢を守ってきたように感じた。

MX-3500FN_20120119_080504_001

駅でもらったマップ

猿沢池だ。水面に興福寺の五重の塔の影を映すたたずまいは、奈良公園の代表的な景観の一つです、と奈良駅で貰ったマップの一部に書かれていた。小学生の時に見た、その光景が蘇った。私のような者にも記憶があったのだ。今は、何かにつけて酒を飲む癖がついてしまったので、酒を飲むと記憶は極端に薄れる。今まで随分損をしたことになるのか。

興福寺、奈良県庁、奈良国立博物館、春日大社参道入り口、東大寺南大門、東大寺金堂(大仏殿)、四月堂、三月堂、二月堂。そこで折り返して奈良駅に戻った。

鹿が寄り添ってくる。鹿のエサ150円、これはせんべえか?俺だって、腹が減って、何も食ってないんだ、鹿よ、スマン。

東大寺南大門の左右の金剛力士立像は、圧巻だった。見る者を圧倒する。大仏の彫師(仏師)とでもいうのか、運慶、快慶、湛慶らで作った。この3人の名前は受験用に、完全にそらんじている。受験では必須アイテムですぞ。

image

南大門金剛力士像

実は、俺を奈良まで足を伸ばさせたのは、横浜を暫らく離れてゆっくりしなさいという友人のアドバイスがあったこと、、それにこの金剛力士像と、大仏さんを見たかったことが、頭の隅っこにあったからだ。日本史の大学受験勉強で、培風館が出版していた下村富士男著の「日本史精義」を穴が開くほど、読み込んだ。その本の中で、一番気を許して、眺めていたのがこの金剛力士像と大仏さんだった。

 同窓会 057 同窓会 025

東大寺の大仏殿は、創建から2度消失したが、鎌倉と江戸時代に再建された。今でも世界最大級の木造建築物だそうだ。入場料500円。開基は良弁僧正(ろうべんそうじょう)。りょうべんさんではない。728年(天平元年)に聖武天皇が皇太子供養のため建立した金鐘寺(こんしゅじ)が東大寺の始まり。743年 (天平15年)に聖武天皇が造立を発願した大仏を本尊とする。

大仏殿を前にして、これは、私の今生の見納めになるかもしれん、ここらで、一発写真にでも納まっておかないとイカン。足跡? そんなもんではないが、今、此処にいる証が欲しいと思った。記念写真のことだ。カップルが交代で写真を撮りっこしているのを見つけて、ニコニコ、私が撮りましょうか、と近づき、手を握り合った二人を撮ってやった代わりに、私を撮ってもらった。貴重な冥途の土産? この年になると、そんなことを考えるようになるようだ。

 同窓会 045

大仏さん

今回の奈良訪問の最大の目的だった大仏さんを早く見たくて、大仏殿に入った。

意外だった。私が小学生のときに、その大きさに吃驚させられたのに、その大きさがそれほど大きく感じないことに、ちょっと気落ちしてしまった。50余年前、子どもの頃、自分の体の小ささから、大仏さんの異常な大きさを驚愕(きょうがく)したのだろう。懐かさが込み上げて来た。横浜で生活することになって、鎌倉長谷の大仏さんを見い、大船の観音さんだって、大船駅を通る度に、電車の車窓から見ている。大きさには慣れっこになってしまったのだろうか。

堂内では、20~30人の僧侶たちが、お経なのか声明(しょうみょう)なのか、大仏さんに向かって、声を合わせて拝んでる最中だった。  実に厳(おごそ)かな雰囲気だ。数少ない参拝者たちは、誰もが手を合わせていた。

私だって、何度も頭を下げた。私には、祈ることが他人以上に多いのだ。

MX-3500FN_20120119_081123_001

MX-3500FN_20120119_081155_001

この時期の東大寺となると、東大寺のお水取りを思う。 お水取りが終わったら、間もなく春が来ると言われている。

私の祖母は、60年も70年も前の話だけれど、この時期になると毎年欠かさず、仲間でお水取りに出かけた。祖母が持ち帰った水を料理に使って、目出度く頂いたものだ。祖母の数少ない、娯楽を兼ねた年中行事だった。祖母が、自分で歩けなくなるまで、毎年欠かさず行っていた。水筒に水を入れて持ち帰ってきた。気丈夫な祖母だった。

このお水取りの儀をインターネットの知恵(東大寺の公式WEB)を拝借して、まとめておこう。奈良近辺で生活をした人ならば、必ずこのお水取りの何かに出くわす。テレビなどで放映される映像は、真っ暗闇の中に急に松明(たいまつ)の火が現れ、そのうち大きな建物全体が炎に包まれるもので、一度見た人は記憶から抜けない。

omizutori6

(Wikipediaより)

Wikipedia から、下の文章は頂戴しました。

日常的に使う「お水取り」とは修二会(しゅにえ)のこと。東大寺開山の良弁僧正の高弟・実忠和尚(かしょう)が創始以来、「不退の行」として、平成23年(2011)には1260回、途絶えたことがない。修二会の正式名称は、十一面悔過(けか)。我々が日常犯しているさまざまな過ちを二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で懺悔することを意味する。

修二会の二は旧暦の二月のこと。天災や疫病や反乱は国家の病気と考えられ、そうした病気を取り除いて、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽、人々の幸福を祈った。

3月1日より2週間にわたって行われる。3月12日の深夜には「お水取り」、若狭井(わかさい)という井戸から観音様にお供えするお香水(こうずい)を汲み上げる儀式が行われる。この行を勤める練行衆(れんごしゅう)の道明かりとして、夜毎、大きな松明(たいまつ)に火が灯される。

 

腹が減ったので、地元のスーパーで小さなアンパン4個入りを食った。100円。10時を過ぎていたことになる。銀行のATMで、今日の同窓会の参加費を下ろした。

参道なのだろう、その商店街では、今ではもう見られなくなっている専門の小売店が、しっかり店が営まれていることに気づいた。豆屋、下駄屋、着物屋、筆屋、漬物屋、茶器屋、そんな店の合間合間に土産物屋さんがある。アンパンを食って、かえって食欲を刺激してしまったようだが、後2時間もすれば、ご馳走が待っているというのに。蕎麦でも食うか? いや無駄遣いは禁物とばかりに、缶ビールを飲んでしのぐことにするか、と思案する前にプッシュ、だ。どっちが無駄遣いだったのだろうか。

奈良駅前広場のベンチに座って、街の様子をぼんやり眺めて時間を過ごした。1時間ばかり。日差しが暖かく、風もなく、睡眠不足もあって、うとうとまどろみかけていた。

缶ビールの酔いが身に沁みて気持ちいい。私のこれからの人生、考えると不安になることもある。その不安を紛らすために、奈良でのんびりすることだったのではないのか。

11:07発 JR奈良線、京都行き快速に乗った。朝来たところを戻って、宇治駅に着いたのは、11:45。集合時間にドンぴしゃ。

同窓会の会場の料亭の送迎バスが待っていてくれた。駆け足で乗り込んだ。懐かしい面々と思い出せなく腐心している輩(やから)の視線が、一瞬、私の赤い顔に注がれた。俺は、皆さんお久しぶりですと、誰彼ともなく頭を深く下げた。馬がいて、シュンちゃんがいて、塚がいた。幹事の森ちゃんが、よく来てくれたと言ってくれた。

いざ、同窓会だ。卒業して50年目、私にとっては40年ぶりの出席だ。

2012年1月13日金曜日

準Vチーム 研ぎ澄ました戦術光る

20120101に行なわれた天皇杯サッカーでは、J2のFC東京が同じくJ2の京都サンガFCを4-2で下し、初優勝をした。そして、0109の高校サッカー選手権では、千葉の市立舟橋が三重の四日市中央工に延長の末、2-1で破り、9大会ぶり5度目の優勝を果たした。J2同士の天皇杯での決勝戦は初めてなのではないか。

この二つの決勝戦は見応えがあった。今シーズンの総決算の試合として、サッカー気違いどもには、失望させない好試合だったのが、何よりも嬉しかった。

そこで、朝日新聞の潮 智史氏は、この二つの決勝戦から、決勝戦では負けた京都サンガと四中工の両チームの特徴を分析、解説しているので、この記事は注目すべき内容だったので、下の方に転載、マイファイルさせてもらった。

先に行なわれたJリーグでは、昨年までJ2で、今シーズンJ1に昇格したばかりの初年度に、柏レイソルは強豪たちをなぎ倒して優勝した。このことも、頭の隅っこの確認袋にしまっておかなくてはならない。

この二つの大会から、多くを学んだ。

top_news_images327

20120101 京都サンガ 天皇杯準優勝

潮氏が指摘していることは、それ程目新しいことではない。

元日本代表監督のオシムが、口酸っぱく走ることを基本のキだと教えた。これは、走ればチャンスがひょんなところで生まれること、それも攻守の切り替えのときこそ、その効果がてきめんだと。それを、岡田ジャパンは、理解していて、このことを徹底した。そして、外人相手の体力差をカバーした。海外のクラブで、試合に使われている選手の岡崎慎司、長友祐都、香川真司、内田篤人らは、この攻守の切り替えを理解し、言い換えればボールを奪われた時の動きが評価されて、所属チームの監督は彼らを使っていると思う。潮氏が取り上げていることは、これに通じる。

攻守の切り替えに、この両チームは殊更徹底した。その徹底の仕方にはそれぞれにその個性を巧く活かした。市立船橋は市立船橋らしく、京都サンガは京都サンガらしくだ。その活かし方については潮氏の分析、解説通りだ。

京都サンガについてだけは、ここでもう一言申し上げたい。強さの秘密のことだ。

身贔屓(みびいき)の批判を覚悟で記している。注目すべきは、どこのチームも真剣に取り組んでいることだけれど、下部チームの育成のことだ。育成の組織や運営、プログラムは各チーム苦心、腐心しているのは、よく聞く。

今シーズンの活躍を目の当たりにして、感じたのは京都サンガの若手の台頭だ。どのチームよりも、突出している。2011年より、山田俊毅、駒井喜成、伊藤優太、下畠翔吾らがユースからトップチームに昇格した。彼らと同学年の宮吉拓実は2008年にプロ契約して、堂々とトップチームのFWで頑張っている。欠かせない選手になっている。彼は1992年生まれだから、現在は19歳だ。そして、今回、高校生の久保裕也が2種登録選手でありながら、天皇杯では3試合に出場して3得点の大活躍だった。

きっと下部組織の育成システムがうまく稼動している証左なのだ。それに、詳しく調査しなければならないのだが、直感で思うのは、出場選手の平均年齢の低さだ。これも、育成システムが功を奏している結果だろう。京セラ、立命館大学、京都サンガの三つ巴で、高校生をサポートしている。勉学と学費は立命館宇治高校、寮と寮費、食費は京都サンガが全面的に負担。練習はサンガタウン城陽にある人工芝グラウンドで、京都サンガのプロの指導を受ける。

ちょっと話は逸れる。

私が京都府立城南高校のサッカー部だったとき、担当してくれた体育の先生で監督なのか部長なのか、世話をしてくれたのは岡本先生だった。先生は、京都サンガの前身の前身の京都紫光クラブの重要な選手だった。キーパーだった。先年なくなられた。岡本先生は旧京都学芸大学特修体育科を卒業して、我が校のサッカー部の面倒をみてくれた。私が秘かに狙っていた大学だった。先生は、釜本、二村、辻先輩など、我が大学の先輩がメンバーの全京都チームのキャップテンだった。当時のキーパーとしては秀逸だった。私の憧れのサッカー選手だった。

それに、宇治は私の高校があったところ。まして、宇治高校と言えば、今でこそ立派な立命館大学の付属と言うことになっているが、私とは人に言えない深い関係ができてしまった。今なら笑い事で済まされることなんだが。私は、故郷の中学校の当直のアルバイトをしていて、思わぬ仕事を請けてしまった。このことは、墓場まで持ち込みますから、もうこの話はなかったものにしてもらおう。

城陽市に育成強化部のグラウンドがあると聞く。この城陽も、私の故郷の隣町だ。

ーーーーーーーーーーーーーー

20120110

朝日・朝刊

準Vチーム 研ぎ澄ました戦術光る

編集委員・潮 智史

ーーーーーーーーー

9日、震災の年のサッカーシーズンが幕を閉じた。心躍らせたのは全国高校選手権の四日市中央工と天皇杯の京都。いずれも持ち味を出しながら、決勝で敗れ去った者たちである。

四中工には「3秒コンセプト」なるものがあった。

ボールを失った瞬間から3秒間、1人が奪い返しに走り、周囲は第2、第3の網を張り巡らせて襲いかかる。体に染み込ませた出足の速さで次々とボールを奪い返した。相手が前がかりになったスキを突いて好機につなげる発想だ。

京都はさらに大胆だ。

アイデアマンの大木監督は「攻めは広く」という原則を逆手にとる。ボールをとった選手にあえて味方が寄っていく。敵も味方も近い窮屈な状況でボールを失うのは織り込む済み。相手が攻めに転じる前に再び奪い返して局地戦を抜け出す。えさをまいて相手をおびき寄せ、置き去りにする繰り返し。決勝の公式記録には、こぼれ球を3度拾って先制点につなげた経過が記されている。意図的に、逆襲を仕掛ける状況を作り出すわけだ。

両者に通じるのは、攻守の切り替えの速さを研ぎ澄ました姿。泥臭いハードワークも徹底すれば立派な武器だ。別物と分けがちな攻めと守りを限りなく一体化させる。マイボールの状況を白、相手が持つ時を黒とすれば、どちらのボールでもないグレーの状況を白に近づける。四中工の樋口監督は「体力の強さに対抗するために求めてきた」とその狙いを明かした。

高校選手権で気になったキックのつたなさにも触れておきたい。中長距離になると途端にパスの精度は落ちる。決定力不足というのは、それ以前にキック力不足ではないのか。戦術練習に走り、当たり前の技術やハードワークを置き忘れていないだろうか。これもプロと高校生に共通している。

2012年1月12日木曜日

いざ、鎌倉攻めだ

20111231(大晦日の夜) 鎌倉攻めのベースキャンプは保土ヶ谷区権太坂の竹ちゃん宅だ。

竹ちゃんとは、私の次女の旦那さまだ。今年の初詣は鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝することにした。歩いて行く、全長約20キロ。

鎌倉武士の守護神だ。今年は、肝っ玉を据えて、鎌倉武士らしく毅然と生活に業務に勤(いそ)しみたい。

20111228

竹ちゃんは、朝から自宅で年越し蕎麦を打った。いっぱい作って、身内に配った。当然私にも、食った後、土産にもくれた。腹が減っては戦はできぬ。

18:00 竹ちゃんお手製の年越し蕎麦をご馳走になって、19:30に保土ヶ谷区権太坂の自宅をスタートした。

今月の末には、この家を解体する。改築することになったのだ。今度の施主は、私ではなく次女夫婦だ。どいつもこいつも、不景気面(づら)下げやがって、景気よくバ~ンと建て替えようぜ、と次女が宣言した。あざやかな、世代代わりだ。

去年は独りで天王町から川崎大師まで歩いて行った。酔っ払いながら。一昨年は、竹ちゃんと二人で、保土ヶ谷区権太坂から相模国一の宮の寒川神社だった、当然歩いて行った。このように自宅「から歩いて、初詣をするようになってから、今年で4年目。どれも片道約20キロ前後だから、歩くには適当な距離だ。

今年は、私と竹ちゃん夫婦と小学1年生の晴(私の孫)、それに晴の学友のショーマとその母が同行することになった。1行は6人。余りにも、私が徒歩による初詣の楽しさを強調するものだから、靡(なび)いてきたようだ。楽しいのは、誰だって楽しい。真夜中の街や山は、昼間とは違った相を見せることがある、それが面白いのだ。子どもらには楽しい思い出になる筈だ。時には、人間以外の動物や鳥に出くわすことがある。早朝の鳥の鳴き声は気持ちいい。

 晴 185

鶴岡八幡宮は、明治維新までは神仏混淆の寺院で、正式には「鶴岡八幡宮寺」といわれ、仁王門、薬師堂、鐘楼などの仏教施設もあったが、明治の神仏分離令で仏教施設はことごとく排除された。

大分県宇佐市の宇佐神宮と京都府八幡市の石清水八幡宮とともに、日本三大八幡宮の一つに数えられている。京都府八幡市は、私が通っていた高校の学校区内だ。一度参詣したことがあって、焼いた雀(すずめ)の串さしが売っていた。骨ばっかりだったけれど、美味かったかな?

ここで一息。

ところで、八幡宮とは? Wikipediaによると八幡神を祭神として祀る神社で、日本各地にある。総本社は宇佐神宮であるそうだ。それでは、八幡神とは、社名の鶴岡は地名? そこが知りたくなる。

八幡神とは=Wikipediaによると、八幡神は、清和源氏をはじめ、全国の武士から武運の神として崇敬を集めた。応神天皇と同一とされる。日本で最初の神仏習合神で、八幡大菩薩とも呼ばれる。

「幡」とは、神の寄り付く旗を意味する。「八」は数多いこと。

鶴岡とは=地名か?

神社への道は、私の考えていたコースに、竹ちゃんのGPS機能付きの携帯電話のナビによるチェックで、かつ相談しながら進もうということになった。全長約18キロ。子供連れで、トイレ休憩をたっぷりとって、1時間4キロのペースで歩いて所要時間は4時間と想定した。一昨年の真夏に私が独りで歩いた時は、歩いている時間は3時間位だったが、休憩に1時間以上とられたのだ。距離の割には辛かったのだ。

権太坂の自宅→旧東海道→環2境木→平戸立体→環2中永谷→地下鉄下永谷駅→日限山→舞岡公園→飛石→JR京浜東北線本郷台駅→横浜栄共済病院→(環4号線)→鎌倉女子大学→(鎌倉街道)→大船警察署→小袋谷→JR横須賀線北鎌倉駅→建長寺→鶴岡八幡宮

晴 186

道中、晴はご機嫌で、舞岡から北鎌倉辺りまで、学校での生活のあれこれを、仔仔細細にわたって話してくれた。朝、家を出てから、夕方児童保育が終わるまで。決められた予定にそって、やること、やらなければならないことを話してくれた。次女にも教えた分数の話で、孫が意外に理解力があることに驚いた。それは、晴が4分の1の50%はねえ、と言い出してから始まった。4分の1の50%は、分数では8分の1になることを、目の前に指で円を描き、その円を円心から4つに切り、それを半分づつに8つに切ったら、どうだ? そしたら、彼は解ったと言った。

鶴岡八幡宮の正面玄関、三の鳥居に着いたのは、新年を迎えるカウントダウンの最中だった。元旦を迎えて10秒後に鳥居をくぐった。源平池をまたぐ太鼓橋を渡った。そこには、もうすでに大勢の参拝する人たちが本殿に向かって待たされていた。多分、5、000人はいたと思われる。これから1時間ほど、そろりそろりの牛歩だ。

よく周りを見渡すと、牛歩の連中のほとんどが若者で、それも20才代から30才代と思われた。私のような60才代の老人はいなかった。我々の世代こそ、この世にもまれにもまれ、神社に足を向けたくなるのではなかったのか。私らの年代の者には時間が早過ぎるのだろう。それに、若い連中の奴こそ、この世の中、不安なのかもしれないな。そうでもなく、夢を追っているから、早く来たのか?

嫌われ者の私は、若者たちに、お前ら、こんな所で、何をしているんだ、もっとやらなくてはならないことがあるだろう、と言いたくもなる。ここは、口にチャックした。龍のぬいぐるみをまとった若者たちの仮装集団の一人に、君たちはどういう仲間なんだ、と尋ねた。彼らは早稲田の学生たちで、ネットで知り合った仲間同士だった。やっぱり、今はネットによる伝達で仲間ができるんだ、と納得した。

そこで、ショーマの母が貧血で救護室に避難した。年末の繁忙の疲れがでたのだろうか。

舞殿を左に迂回して大銀杏(イチョウ)の折れた幹の年輪を横目で見て、本殿への大石段を上る。折れた部分は地面すれすれに綺麗に切りそろえてあった。鎌倉幕府三代将軍源実朝はこの銀杏に身を隠していた甥の公暁(くぎょう)に、斬殺された。公暁は、実朝の父、二代将軍源頼家の子どもだ。この銀杏は、平成22年3月10日の強風で根元から倒れた。惜しまれた。根元ですっぱり切られていたが、その切り株からはいくつもの芽が1メートル近く伸びていた。

200px-Death_of_a_tree

本殿前の階段にたどりつくまでに2箇所で、混雑による事故を防ぐために人数制限用の遮断機があった。線路の踏み切りの遮断機のように上から棒ではなく紐が下りてきて、人の群れを切り割(さ)く。警察官が監視。警察の報道係りの人が、足元や坂のことをハンドマイクで注意をしていた。

孫と娘夫婦は、私の後ろで何をお祈りしようかと相談していた。私の会社は、昨年、いつもの年と違う烈風を受けた。それでも、その烈風も終息に向かっている。そして、新たな局面にチャレンジをし始めた。そして、今年だ。思いは多々ある。私は、家族のこと、先輩後輩友人とその家族、会社のスタッフとその家族、我々の会社を各方面からサポートしてくれている人たちとその家族、取引会社の担当者とその家族、みなさんの健康と、仕事がますます繁盛するようにお祈りした。

娘たちがふんだんにお賽銭を投げ込んでいる前で、私は賽銭なしでひたすらお祈りした。きっと何万人と訪れるであろう参拝者の中で、私ほど多くのお祈りをした者はいないのではないか。欲張りな私を、幸運に恵まれなくても結構ですが、突如とした予期せぬ不運だけはできるだけ少なく、避けられるものなら避けてくださいな。

参拝を終えて本殿から下りた。順番を待つ参拝者の群れは、比較的減っていた。我々が列に参加した頃、カウントダウンの前後が一番混んでいたようだ。それからは、異常でない並みの多さ?で続くのだろう。

腹が空いてきたことと、寒さで、私と竹ちゃんは酒を求めた。私はもつ煮込み600円、ショーマはじゃがバタ500円、竹ちゃんはおでんアラカルト。晴は何を食っていたっけ?

晴 189

その間、次女は、救護室で休んでいたショーマの母を迎えに行った。全員揃ったので、境内を後にした。段葛(だんかずら)を歩かないで、若宮大路を通って鎌倉駅に向かった。若宮大路は、源頼朝が妻、政子の安産祈願のために北条時政に命じ、京都の朱雀大路を模して作らせたものだ。段葛はその遺構だ。造営されたときは海まで続いていたそうだ。段葛のことはよく知っていたので、竹ちゃんに知ったかぶりして話す心算だったが、その機会はなかった。

鎌倉駅を02:??に乗って、俺たちは東戸塚駅から権太坂、ショー-マ母子は保土ヶ谷駅から狩場。

今年も、多難なことは予想される。みんなと連帯を深め頑張ろう。

孫とズーラシアに行ってきた

.20120103(火)。正月の三日目だ。

今日は午後から、次女夫婦の長男・晴と横浜動物園ズーラシアに行ってきた。

さあ、世界の動物のふるさとを歩こう、とパンフレットにあった。

ズーラシア 064

晴にとって、見慣れた動物よりもこのように遊ぶのが嬉しいようだった。

 

晴は午前中は地元のサッカーチームの初蹴り、午後は両親に仕事があって、ジジイである私が子守を頼まれたってことだ。

何をして遊べばいいのか思案の末に思いついたのが、ズーラシア見学だった。開園以来、評判が高いことは多くの人から聞かされていたが、私は一度も行ってないので、良い機会になった。私が、野毛の動物園に子どもを連れて行ったのは、20~30年ほど前のことになるのだろう。

このズーラシアという愛称は、ZOORASIAとは動物園(ZOO)と広大な自然をイメージしたユーラシア(EURASIA)の合成語で、平成8年に市民公募で選ばれた、とズーラシアのホームページで知った。

今まで、仕事で付近に行ったことは何度もあった。子どもたちが学校の行事で行って、その感想を何度も聞かされた。そして、子どもから何度も誘いを受けたが、仕事が忙しいとか、なんだかんだと言い訳をしながら行こうとしなかった。そのうち、子どもたちは大きくなって、動物園の話題は遠ざかった。仕事が面白くて、仕事よりも面白いとは、どうしても思えなかった。

そうして、今回のズーラシア見学ということになった。

ズーラシアの駐車場入り口近づくと、晴は急に元気になって、解説を始めた。ゲートをくぐると、左の方に色んな動物の模型が、あっちこっちにあるんだよ、と言っている間に、その模型の群れを見過ごした。

同窓会 073

立体駐車場はいくつかあって、私は自分が車を止めた所を、注意深く記憶しておかなくてはと、駐車場番号とか棟はどの辺にあるのか、難しい顔をしているのを横目にして、晴は大丈夫だよ、解っているよ、と平気の平左衛門だ。東京は池袋の地下の大駐車場で、自分の車を見つけられなくて、困り果てたことがあったのだ。

アイスと縫いぐるみを買うんだ、と見終わってからの方が楽しそうだった。晴は何回、此処へ来たんだと尋ねると、8回は来ているよ、だった。こりゃベテランだ。晴は小学1年生。

 同窓会 087 同窓会 140

一般の大人600円、子ども(小学生)200円。駐車場1000円

元々、未開の丘陵地だったのを、その地形をいかして作られていた。動物の棲息している地域・気候帯別に、それぞれの環境を再現していた。動物の故郷(ふるさと)の特徴ある風景が作られているってことだ。それは以下のようだ。いただいたパンフレットのまま紹介しておこう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*アジアの熱帯雨林=東南アジアの熱帯雨林を中心とした環境を演出したゾーンです。アジア固有の動物や南国を思わせる植物、時折発生する霧やアジア独特の文化に囲まれて、動物の世界へと誘われる最初のゾーンです。

インドゾウ/カンムリシロムク/ボルネオオランウータン/ボウシテナガザル/マレーバク/スマトラトラ/ウンピョウ/オナガザル類(フランソワルトン・ドゥクラングール・ダスキールトン)/シシオザル/インドライオン

 

*亜寒帯の森=北極圏などの極地や山岳地帯、はるかはるか北方の森(タイガ)を演出したゾーンです。厳しい寒さを生き抜く人々の文化に触れることもできる。

ゴールデンターキー/レッサーパンダ/キジ類/ウォークインバードケージ/ユーラシアカワウソ/オオワシ・カモメ類/フンボルトペンギン/ミナミアフリカオットセイ/ホッキョクグマ/トウホクウサギ/シロフクロ

レッサーパンダの前では、女性の飼育員の人が、レッサーパンダについて説明をしていた。体重5キロほどのレッサーパンダが、なんとウンコを2キロもするって話だ。消化の悪い笹を、それを十二分に消化しきれない結果、体重のほぼ3分の1にあたるウンコをする。そして、そのウンコの臭いを嗅がせてくれたのだが、この臭いが、なんと緑茶のような上品なものだった。

 

*オセアニアの草原=まばらに点在するユーカリと草木。オーストラリアの乾燥した草原をイメージしたこのゾーンには、まったく生態の違う2種類のカンガルーが暮らしています。

アカカンガルー・エミューなど/セスジキノボリカンガルー

 

*中央アジアの高地=中国の山岳地帯かあらモンゴル平原のステップまでを一気にめぐることができます。

テングザル・チベットモンキー/トール/モウコノロバ

 

*日本の山里=日本人と動物たちが共存していた頃の、緑豊かな日本の里山を演出したゾーン。

コウノトリ/ツル類/ツシマヤマネコ/ニホンアナグマ・ホンドタヌキ/ホンドキツネ/ニホンツキノワグマ/ニホンザル

 

*アマゾンの密林=アマゾン川流域の沼地からジャングル、そしてアンデスの山脈までを演出したゾーンです。高床式住居や草葺小屋の休憩所がアマゾンの人々の生活様式を伝えます。

オオアリクイ/オセロット/コモンウーリーモンキー/ヤブイヌ/メガネグマ

 

*アフリカの熱帯雨林=アフリカ大陸中央部に広がる熱帯雨林を演出しています。ここには、20世紀になって初めて発見されたキリンの仲間であるオカピなどの希少な動物たちが暮らしています。

アフリカタテガミヤマアラシ/オカピ/ジャングルキャンプ/アカカワイノシシ/チンパンジー

 ズーラシア 075

オカピ

Wikipediaから知識を頂戴した。オカピとは、「森の馬」を意味するそうだ。。脚の縞模様が美しく、森の貴婦人と呼ばれている。20世紀に入ってから初めてその存在が確認された珍しい動物。体型からシマウマの仲間と思われがちだが、キリンの先祖に近い動物。準絶滅危惧種だ、

 

友人に、今日は、俺、初めてズーラシアに行ってきたよ、と話すと、彼は、あれは動物虐待だよ、俺の前ではその話をするなっ、と言葉に怒気が込められていた。それでも、あそこは、それぞれの動物が元々生活していた環境を作っているそうだよ、むしろ観客がその生活を盗み見するようにできてるんだ、と言っても、それでも虐待に違いない、ますます彼は本気で怒り出した。動物を虐待する動物園を、今すぐ閉鎖しろ!友人は、私の前を去るときに、もう一度叫んでいた。

帰って、カメラを覗いてみたが、動物と動物の名前が一致しない。直ぐに忘れてしまうもんだ。今度、行ったときにはメモすることが肝腎だと反省。ぼっけと見過ごすには、もったいな過ぎる。

2012年1月11日水曜日

50年前に卒業した、中学校の同窓会だった

 

(京都府綴喜郡)宇治田原町立維孝館中学校

昭和38年卒の同窓会だ

このブログを書くに、個人情報は無視した。この同窓会を、出席できなかった奴から、レポートしてくれと言われたので、撮ったものをそのまま公開するしかないではないか。仲間の一部から批判が出ても受けましょ。その折は、よろしく。

ーーーーーーーーーーーーーー

1月8日 12:00受付開始

宇治 花やしき(塔の島前) 0774-21-2126

73944

男子・13000円  女子11000円

幹事・森田市治 前田恭子

ーーーーーーーーーーーーー

image

維孝館中学校

同窓会では、書き残すような特別なことは起きなかった。平和な宴会だった。六十巻の懐かしい物語だ。

50年前の、みんなの面影を追っては、同じ学び舎で机を並べ、体育館やグラウンドで過ごした様子が思い出され、頭の中では思い出が、走り巡った。一般的に言う、走馬灯のようだ。

これからの稿は、あのときの中学生活のあれこれを想起したことを交えて綴ってみた。だって、この宴会で話したことは、全て昔の思い出話だけだったんだ。

1クラス47人、5クラスだったので、卒業生は全員で230余人。今回の出席者は60人。担任の先生は、山、オ、宮、森、吉先生だったが、森、吉の両先生はこの2年間の間に亡くなられた。

私はこの同窓会には、2度目で約40年ぶりだ。中学校を卒業して10年後の、大学を卒業して西武鉄道の持ち株会社に就職した頃、初めて出席した。その後、ずうっと気にはしていたのだが、仕事にかまけて参加することができなかった。

会場に着くと、世話役が受付をしていた。

直ぐに目についたのが、清さんだ。中学のときもそうだったが、彼はいつもこのような役を自然に担ってくれる。ありがとう、とお礼を言うと、いっつもこのような役をやらされているんや、ありがたいわ、と言ってくれた。彼は野球部で、温厚な性格の少年だった。大きな声を張り上げたり、下品なことは一切しなかった。

前さんが、山岡さんのことを、絵をよく描いているあの人(桝のことだ)が最近会ったときにあなたのことを話していたわ、と私の顔を覗き込んできた。横浜でのたうち廻っている私のことを、故郷の野辺で何を噂していたんだろう。噂話の材料にはこと欠かない男だけれど、ここまで辿り付く噂は、どのようなものなのだろう。桝は俺の実情に配慮しながら話してくれたようだ。

司会の中さんの進行で、先ずは亡くなった先生や同窓生に黙祷を捧げた。中さんは消防署に勤めていたので、黙祷、始め、黙祷、止(や)め、と声を掛けるのも消防隊風だ。

中は、小学生のときから、体力的には優秀で、いいガタイをしていた。本領を発揮したのはソフトボールのバッターとして、その能力は凄かった。長距離バッターだ。中学時代はハンマー投げの選手だった。

幹事の森さんの挨拶は、頭のハゲも立派に進んでいるだけあって、挨拶の内容にも磨きがかかっていた。きっと地元で、あれやこれや役を仰せつかっているのだろう。中学時代から、人望の厚い少年だった。野球部員でもあった。横浜から、ヤマオカが来てくれた、と皆に報告してくれた。私は、みんなに頭を下げて、元気なオジサンを印象付けようと胸を張った。

俺にも苦しいことがいっぱいあって、泣きそうになることもある、とは久しぶりに会ったみんなには言えなかった。此処は、堂々としてなくてはイカン。私の顔を不審そうに、怪訝そうに、不思議な奴を見るような目つきの人もいた。私のことを正確に思い出していなかったのでしょう。

そしてオ先生の挨拶、山先生の音頭で乾杯(かんぱ~い)をした。

後は、シッチャかメッチャかの飲めや喋れやの大宴会だった。

料理はさすが、宇治の高級料亭・「花やしき」だ。郷の口の並薬局の並の母親の妹か姉が、この料亭の女将さん、と教えられた。それにしても、料理が余り過ぎて、横浜なら袋やケースに詰めて、持って帰れたのに、悔しい限りだった。

オ先生は英語の先生だった。それまでの英語の先生は荒先生で、この先生の英語はヒヤリング能力に乏しい私にも、東南アジア系発音で聴き取りやすかったが、このオ先生の英語は、実に聞き取りづらかった。本物の英語に近かったのだろうか。大学受験に、今のようにヒヤリングが受験科目にあったならば、私は駄目も駄目、チンプンカンプンだったことだろう。

どのテストにおいても、採点後のテストを生徒に配った後、先生は、今度のテストでサボった奴は、「ヤマオカ!!」と教壇の前まで私を呼びつけて、桜の棒で、コツ~ンと頭の天辺を叩くのだった。私は苦笑し、先生は気持ち良さそうに、皆はゲラゲラ笑った。何故か、毎回、私がこの洗礼を受けていた。今回、この話を先生にしたら、全然憶えていなかった。やられた方は、いつまでもしつこく憶えているもんだ。

山先生は、理科の先生だった。私は理科が大好きで、学校の授業は物足りなくて、自宅では難問の問題集をこなしていたので、授業には身が入らなかった。それでも、山先生の黒板に書く字の巧さに感心していた。漢字の書き順が丁寧で、高校に行ってからも、習字のときには先生の書き順を思い出しながら書いたもんだ。

同窓会 098

谷さんはソフトボール部だった。私が中学時代、淡い恋心を抱いた初めての女性だ。

20年ほど前にこの同窓会の名簿を作り直して、荒木の福と谷さんに渡したことを憶えている。その日は、福の自宅を兼ねた茶問屋で、美味い宇治茶をご馳走になってから、谷さんの嫁ぎ先に行った。

福とは中学時代はバスケットボール部で、高校生になってからはサッカー部で一緒に活動した。高校生のとき、二人でホンダのカブに乗って伏見ミュージックにストリップを観に行った。女性のモノがよく解らなかった。名前も同じ「保」だった。1年間ほどでサッカー部を辞めた彼は、ワルとエレキバンドのグループに流れていった。

その後、彼とは帰郷の際、城陽の彼の馴染みのスナックによく行った。私に金を借りたかったようだ。そして何年か後に自殺した。

谷さんは高校を卒業して役場に勤め始めて、間もなく今のご主人さんと結婚した。当時、私には、谷さんの夫になる資格はなかった。私は大学で、サッカーと先の見えない格闘をしていた。何も知らないうちに、請われるままに結婚したことを、悔やんではいなかったが、何となく他の選択肢もあったのでは、と思っている節が見られたが、そんなことはない、そういうのが本当に、幸せなケースなんだよ、と言った記憶がある。普段は夫婦二人っきりだが、正月や夏休みには、子ども夫婦や孫が来てくれるんやわ、この正月は12人やった、といとも楽しげだった。いいおばあちゃんをしているようだ。

玉さんは、教育長の娘さんだった。高校に入ってからも、私のサッカーの試合には、友人を何人も引き連れて応援に来てくれた。今は、顔がぽっちゃりになって、表情も優しくなって、いいお母さんをしたんだろう、と思った。

ソフトボール部の吉さんは、奇麗な人だった。でも、私は、女の人の顔をそんなに美醜を気にして見る方ではなかったので、会話の少なかった人のことは余り憶えていないよと言ったら、今さんに、あなた、こんなに綺麗な人を知らなかったの、と本人を前に叱られた。

アヤちゃんの家と、私の生家とは遠い親戚同士だ。小さいときから、何かと顔を合わせていた。でも、一緒に遊んだことはなかった。養子さんを向かえて頑張っていたことは聞いていたが、何やら悲しい出来事があったようなのだが、それを未確認だったので、その事には触れなかった。本当はゆっくり話したかった。

 同窓会 081

 バスケット部のキャップテンだった塚さん。寿司屋を経営しているとは、偉いもんだ。昔の可愛い坊や然とした表情はなく、包丁一本を晒しに巻いた生活は、さぞかし厳しいのだろう。顔も口調も寿司職人だ。寿司を握る職人は、気風(きっぷ)が好くなくては、ネタまで腐ってしまう。いつまでも、その気風を忘れないでやってくれよ、キャップテン。

種さんと言うよりも、松っちゃんだ。長年、地元、郷の口の郵便局で働いて、今は、宇治の何とかに週3日ほど仕事に行くんだと言っていた。松っちゃんとは小学生のときから仲がよかった。いじわるとか、人が嫌な思いをするようなことは絶対しない子だった。彼の母親の顔もはっきり憶えている。赤い郵便局のバイクで走っているのを、帰郷の際、よく見かけた。

この郵便局には、私の従兄弟の垣の清ちゃんや、同窓生の福さん(善ちゃんの奥さん)も勤めていた。この郵便局の窓口で、私の父親や母親が、わからんちんなことを言って、随分悩ましたこともあった。

 同窓会 105

 

名村の森さんは、利発な子どもだった。魚屋さんの娘さんだった。4人姉妹の3番目。バスケット部だ。勉強も良く出来た。当時、ピアノを弾ける人は私にとって、異星人だった。後記の吉先生は、彼女の義理のお兄さんに当たるのだ。彼女の口からも、先生批判の舌鋒は鋭かった。今でも、その利発さは衰えていない、表情豊かにみんなと会話を楽しんでいた。

郷の口の森さんは、親子二代に亘っての自動車屋だ。表情は変わらず、穏かだ。子供の頃と全く同じだ。私の席の後ろの方に座っていて、先生に質問されて答えられなくても、微塵も動揺しなかった。大人(たいじん)だ、子どもにして既に達観していたのだろうか。

安井は宇治田原のお茶の製茶場の経営者の一人だ。この製茶場は売上げも相当なもので、その購入客を訴求するための宣伝チラシの制作を統括していると言っていた。費用対効果のことを考えると難しいと苦労話もしていた。

高校卒業の後は、大学でのことか、そのことは確認しなかったが、演劇に走ったらしい。私も、東京演劇アンサンブルという劇団とは、長く深い付き合いなので、その世界での苦労は、どの役を担うにしても並大抵のものではない。彼は、演劇で何を担当しようとしていたのだろうか、俳優、演出、脚本、運営。この辺りの話をもっとしたかった。

禅定寺の谷のオヤジと私の父は同級生だった。中のオヤジもだ。谷の生家は肥料やプロパンの販売をしていた。

 同窓会 096

郷の口の高さんはバスケット部。背が高かったので、大活躍していた。エースだった。

生家は家電屋さんだった。教室での席は、いつも後ろの方だった。今回、顔を合わした時、私は不覚にも、あなたのことを知らないと言ってしまった。彼女にひどく叱られた、ヤマオカさんは私に気があったではないか、と。そうか、今でも多情多恨で苦労は尽きないけれど、幼少のそのときにすでにその性情の兆しはあったようだ。

同窓会 091 

荒木の芦は、医者のお父さんを早くに亡くして、母と兄の三人暮らしだった。小さい頃、日本脳炎か、何かで小児マヒを起こし、どちらかの足をびっこしていたが、運動をすることで完全に克服した。ソフトボールでピッチャー役を自分のポジションのようにしていた。勉強のよくできた子どもだった。同窓の芦、俺、馬、戸の4人は、何故か揃って二浪することになった。当時、二浪までは普通だった、と認識していた。彼の兄と私の次兄は同じ年だった。

この4人は、それぞれ個性があって、進路も目指すことも違っていた。私は、巧くいけば、強い大学のサッカーチームに所属したいと思っていた。できたら、早稲田だった。芦が立命館大学の4年生のときだったろう、当時長髪のスポーツ選手が珍しくてそのことの新聞記事を、大学生協の食堂で見つけた。サッカー界には長髪の選手が出てきて、古河の荒井、大学のサッカー選手の中では、早稲田の山岡などは、髪を紐で結んでいるぐらいだ、そんな記事だった。掲載した大阪日日新聞とかの新聞を送ってくれた。

この4人で、母校・維孝館中学校の宿直をアルバイトした。吉先生の計略だ。先生は、宿直室ではなく、自宅で女房を抱いて寝たかったのだ。持ち回りで、先生たちの代わりに当直したのだ。アルバイト料は一晩幾らだったか記憶にない。当直の夜は、本来勉強しやすくなるだろうとの吉先生の計らいだったけれど、酒を飲むことを覚えることになってしまった。一生の不覚?それともなるようになったのか。

卒業後、住民の糞尿を扱う役所に勤めて、給料が他の役所よりもよかったのは、それは臭い、汚いの特別な職務なので当然と言えば当然なのだが。俺は彼に苦言を吐いた。現場の人は大変だが、お前は机に向かっているだけで、臭くも、汚くもないではないか、それは可笑しいぞ、と。

今さんは、ソフトボール部の過激派だ。同窓会の当日は、彼女のことをはっきり思い出せなくて、嫌な思いをさせてしまった。彼女のことを思い出せない私を、痛烈に罵倒した。スマン。彼女は、宴会に対しても、激しい言動で盛り上げてくれた。二次会もそうだった。彼女の周りには厳戒体制が必要と思われた。

同窓会 090

馬は、私の結婚式で世話役をかってくれた仲間の一人と結婚した。洋子ちゃんという京都は西鴨の女性と縁があった。中央大学時代には、私の大学のサッカー部のグラウンドにも来てくれた。卒業後は日本でパン業界最大手のヤマザキに入社した。もっと出世する道もあったのだろうが、彼は彼なりのサラリーマン生活を選んだ。彼は自分の能力をわきまえていた。

小学生のとき、よく勉強のできた子どもだった。児童会の重要なポジションを担っていた。何役だったか、忘れた。クラスでは、私の後ろの方の席だったが、先生の質問に、手を真っ直ぐに高く上げて、もじもじする私を圧倒した。こんなに自信をもって、生きられたらさぞかし楽しいだろうな、と羨ましかった。生家は、老舗のお菓子屋さんだ。お兄さんが経営責任者、二番目のお兄さんとお姉さんが、裏の工場で和菓子を作っていた。彼の母は、私が買い物に行くと喜んでくれた。だから、母親にババト(馬の生家の店の屋号)に行ってくれと言われるのが嬉しかった。

二年間の浪人生活時代は、4人とも、心中落ち着けなく、不安だった。しょっちゅうミーチングしていた。烏合。それでも、4人は、試験の傾向と対策なんてそっちのけ、あそこのあの娘(こ)はどうだこうだと、女性のことばかりを話して、時間を過ごした。

小のことは、今回の宴会でも、いの一番に私に反応してくれた。私らが小学6年生の頃だったか、彼は私の頭をバットで殴ったのだ。心配しなさんな、教室が荒れていたわけではない、ソストボールの試合をしていたとき、私はキャッチャーで彼はバッターだった。彼は、ボールを打とうとしたとき、ボールのスピードが遅かったから、タイミングを計るために後ろに下がって打ったのだ。そのときのキャッチャーの私は、遅いボールに前のめりに構えた。そして、私の頭は、彼の振ったバットに当たったのだ。

頭の中は真っ暗、真っ暗闇に星がキラキラいくつも輝いた。暫らく、ホームベースに蹲(うずくま)った。多分、5分ぐらいは動けなかった。暫らくして、頭を撫ぜても、血が出ていない。目をぱちくりしてみたが、風景がぼんやりながら見える。どうも、大したこともなさそうだ、と自覚したときは嬉しかった。蹲っていたときには、これは取り返しのつかないことになってしまった、と心配だった。その日、担当の中村先生におんぶして貰って、自宅に帰った。そのときの先生の背中の温もりは今でも、はっきり思い出せる。

そのバッター、小を見つけたとき、その話をし出したら、彼にもよっぽどのショックだったのだろう、よく憶えていた。ニコニコして、私の話を楽しい御伽噺でも聞いているような顔だった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

同窓会 086 

230余人の同窓生のなかで、私はハルと一番長く付き合ったし、彼女にとっても、私との付き合いはきっと一番長いと思う。そして、これからも、彼女との付き合いは続くだろう。それほどの仲なのだ。彼女とは、遠い遠い親戚の仲でもある。

私が小学3年生だった頃から、近くの大辻商店で、春、夏、年末年始の休暇にアルバイトをしていた。大辻商店は雑貨屋さん。大辻さんも、ハルも、私も、遠い親戚付き合いだった。小遣い稼ぎということもあったが、家族のみんなが働いていて、私も働きたかった。ならば、百姓仕事を手伝えばよかったのではと、言われそうだが、百姓仕事は幼い子どもにとって、なかなか、参加するには難しかった。ハルとはその大辻商店で働く同僚だった。

彼女の仕事を同僚として助けた。彼女に、お金の計算の仕方、お釣りの出し方、お客さんとの接触の仕方を教えた。私は私で、この店の利益を、売り上げを伸ばすことに、小学生以上の働きをしたことを自負する。当時、月掛けが普通だったので、その集金の回収率は、経営者の善さんを驚かせた。また、リヤカーに、洗剤や歯ブラシ、その他の日常品を積んで行商に出かけた。私の顔を見当てた人は、何かを必ず買ってくれて、村を一回りすれば持ち出した商品はほとんど売り切った。

それから、私は大学に行くために宇治田原町を離れることになったが、帰郷の際必ず寄るのだが、この店に顔を出すと必ずハルがいて、近所の出来事や、同窓生たちの動静を色々と話してくれた。

同窓会 085

禅定寺の沢さんは、よく勉強のできる人だと聞かされていたが、私と会話をした記憶がない。今回も話す機会に恵まれなかった。

並薬局の並の端正な顔立ちは、ちょっと私らのように平凡ではない。男前と言えばそうなのか、私には彼のような端正な顔立ちの友人はいなかった。深く付き合ったことがことがないので、彼の人格その他を論じることはやめよう。

同窓会 079

岩山の谷さんは、俺よりも一足先に東京の大学に行った。私の父は京都大学と東京大学と日本大学は知っていて、難しい日本大学によく入ったもんだ、と誰かから聞いてきて、すこぶる感動していた。私が入った大学の名前は、何度教えても憶えられなかったようだ。私が入学した学校を案内して、新幹線で東京駅を去るときでも、私の大学をあの大学と言っていた。

彼は野球部。みんなに好かれる人物だった。今回、私に名刺をくれたが、何を何処で、働いているのか話せなかった。残念だった。

 青さんは着物姿だった。バスケット部だ。元々子供の頃から痩せていたが、青さん、ちょっと痩せ過ぎやで、と失礼を省みず、そんなことを言ってしまった。子どもの頃、彼女は、綺麗な母と二人で生活していた。私のもつ家族のイメージとは違って、何か不幸めいたことを、子ども心に感じていた。彼女も綺麗だったので、さぞかし、彼女のお父さんもきっと男前だったのだろう。お父さんはどうしたのだろう、なんて考えていた。

同窓会 077

荒木の岡さんのことは、未だに思い出せないままだ。年をとってから美人になる人もいる。チャーミングな女性だった。私は、女の人とはそれほど親しくはなかったので、正直女の人の顔はよく見なかった。

老中の森さんは、私の生家の近くに住んでいる。背丈が低くて可愛い顔が印象的だった。

同窓会 087

垣は、長距離が強かった。野球部でもあった。なんで、あんなに速かったのよ、と質したが、頭をひねっているばかりで、何も答えてくれなかった。昔のそんなことには触れて欲しくないようだった。でも、それにしても速かった。宇治田原町から京都府の大会に出た、珍しく優秀な長距離選手だったのだ。

同窓会 094

榎は、静かな生徒だった。言葉遣いといい、その所作も品があって、きっと豊かな上品な家庭の息子さんだったのだろう。

同窓会 102

奥は、消防署職員だった。同窓会の当日は、彼は我々の宴会場の隣で、消防署の新年会をやっていて、その会を終えて即、この同窓会に馳せ参じてくれた。そこで、鱈腹飲んできたのか、来たときには随分気持ち良さそうだった。二次会のカラオケ会場では、彼は綺麗な玉さんを捕まえては、人が羨(うらや)むような。濃厚なダンスをしてみせた。相手をさせられた玉さんは、戸惑っていた。

俺はこの時間になって、大学時代の友人の金の所へ行かなければならないことに気づいた。みんなにさよならも言わずに、こっそり出て京阪電鉄の宇治駅に向かった。気持ち好く、酔っていた。

写真には写ってないが、私の記憶にくっきり残っている男がユキノブだった。苗字が出てこない。彼は野球部でピッチャー、エースだった。維孝館中学校は田原小学校と宇治田原小学校の卒業生が揃って全員が行くのだが、中学に入学する時には、互いの卒業生を気にするものでした。私にとって、一番気になっていた奴が彼だった。

会ってみて、直ぐに気分のいい奴だと思った。こいつなら、女の子にもてるのは当たり前だと納得した。それから、教室の中でも、先生の質問に答えられないことがあっても、巧い具合に処理していた。

--------------------------------------------

同窓会の翌日のこと。

恩師・吉岡由造先生が昨年、年末に亡くなった。そのときは仕事が極端に忙しい時期だったので、葬儀には参列できなかった。

病気が病気だったこともある、ご本人の生来の性格にも問題があったにしても、身内の人たちからは、余りよく思われないまま亡くなったことが、不肖の教え子には、気の毒にも、不憫にも思えた。療養の態度が良くなかったらしい。

お前は遠くに居るから、それに実態を何も知らないから、そんなにのんびりしたことを言っていられるんだよ、周りの人は大変だったようだよ、と友人に叱られた。

3年前に病院にお見舞いに行ったきり、最後の挨拶のないままだったのが、この正月、気になってしょうがなかった。

それで、今回の同窓会のために帰郷した折、数人で挨拶にご自宅を訪ねた。が、留守だったので、又の機会に先延ばしをすることになった。先生に縁の深い連中で、奥さんを囲ってプライベートな偲ぶ会をしようと、勝手に連絡をしないまま計画したのだ。前もって、奥さんに連絡したら、断れることが大体想像ついていたから。私は、一番可愛がられていた。

生の供養には、酒があって、過去の思い出話でもあれば、奥さんは突然のことだから、しょうがないわねと許して貰えるんではないかと、この年になって、その失礼ぶり、荒唐無稽ぶりは増すばかりだ。面の皮が角質化したようだ。そのように行動して、この計画は頓挫した。