20111231(大晦日の夜) 鎌倉攻めのベースキャンプは保土ヶ谷区権太坂の竹ちゃん宅だ。
竹ちゃんとは、私の次女の旦那さまだ。今年の初詣は鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝することにした。歩いて行く、全長約20キロ。
鎌倉武士の守護神だ。今年は、肝っ玉を据えて、鎌倉武士らしく毅然と生活に業務に勤(いそ)しみたい。
竹ちゃんは、朝から自宅で年越し蕎麦を打った。いっぱい作って、身内に配った。当然私にも、食った後、土産にもくれた。腹が減っては戦はできぬ。
18:00 竹ちゃんお手製の年越し蕎麦をご馳走になって、19:30に保土ヶ谷区権太坂の自宅をスタートした。
今月の末には、この家を解体する。改築することになったのだ。今度の施主は、私ではなく次女夫婦だ。どいつもこいつも、不景気面(づら)下げやがって、景気よくバ~ンと建て替えようぜ、と次女が宣言した。あざやかな、世代代わりだ。
去年は独りで天王町から川崎大師まで歩いて行った。酔っ払いながら。一昨年は、竹ちゃんと二人で、保土ヶ谷区権太坂から相模国一の宮の寒川神社だった、当然歩いて行った。このように自宅「から歩いて、初詣をするようになってから、今年で4年目。どれも片道約20キロ前後だから、歩くには適当な距離だ。
今年は、私と竹ちゃん夫婦と小学1年生の晴(私の孫)、それに晴の学友のショーマとその母が同行することになった。1行は6人。余りにも、私が徒歩による初詣の楽しさを強調するものだから、靡(なび)いてきたようだ。楽しいのは、誰だって楽しい。真夜中の街や山は、昼間とは違った相を見せることがある、それが面白いのだ。子どもらには楽しい思い出になる筈だ。時には、人間以外の動物や鳥に出くわすことがある。早朝の鳥の鳴き声は気持ちいい。
鶴岡八幡宮は、明治維新までは神仏混淆の寺院で、正式には「鶴岡八幡宮寺」といわれ、仁王門、薬師堂、鐘楼などの仏教施設もあったが、明治の神仏分離令で仏教施設はことごとく排除された。
大分県宇佐市の宇佐神宮と京都府八幡市の石清水八幡宮とともに、日本三大八幡宮の一つに数えられている。京都府八幡市は、私が通っていた高校の学校区内だ。一度参詣したことがあって、焼いた雀(すずめ)の串さしが売っていた。骨ばっかりだったけれど、美味かったかな?
ここで一息。
ところで、八幡宮とは? Wikipediaによると八幡神を祭神として祀る神社で、日本各地にある。総本社は宇佐神宮であるそうだ。それでは、八幡神とは、社名の鶴岡は地名? そこが知りたくなる。
八幡神とは=Wikipediaによると、八幡神は、清和源氏をはじめ、全国の武士から武運の神として崇敬を集めた。応神天皇と同一とされる。日本で最初の神仏習合神で、八幡大菩薩とも呼ばれる。
「幡」とは、神の寄り付く旗を意味する。「八」は数多いこと。
鶴岡とは=地名か?
神社への道は、私の考えていたコースに、竹ちゃんのGPS機能付きの携帯電話のナビによるチェックで、かつ相談しながら進もうということになった。全長約18キロ。子供連れで、トイレ休憩をたっぷりとって、1時間4キロのペースで歩いて所要時間は4時間と想定した。一昨年の真夏に私が独りで歩いた時は、歩いている時間は3時間位だったが、休憩に1時間以上とられたのだ。距離の割には辛かったのだ。
権太坂の自宅→旧東海道→環2境木→平戸立体→環2中永谷→地下鉄下永谷駅→日限山→舞岡公園→飛石→JR京浜東北線本郷台駅→横浜栄共済病院→(環4号線)→鎌倉女子大学→(鎌倉街道)→大船警察署→小袋谷→JR横須賀線北鎌倉駅→建長寺→鶴岡八幡宮
道中、晴はご機嫌で、舞岡から北鎌倉辺りまで、学校での生活のあれこれを、仔仔細細にわたって話してくれた。朝、家を出てから、夕方児童保育が終わるまで。決められた予定にそって、やること、やらなければならないことを話してくれた。次女にも教えた分数の話で、孫が意外に理解力があることに驚いた。それは、晴が4分の1の50%はねえ、と言い出してから始まった。4分の1の50%は、分数では8分の1になることを、目の前に指で円を描き、その円を円心から4つに切り、それを半分づつに8つに切ったら、どうだ? そしたら、彼は解ったと言った。
鶴岡八幡宮の正面玄関、三の鳥居に着いたのは、新年を迎えるカウントダウンの最中だった。元旦を迎えて10秒後に鳥居をくぐった。源平池をまたぐ太鼓橋を渡った。そこには、もうすでに大勢の参拝する人たちが本殿に向かって待たされていた。多分、5、000人はいたと思われる。これから1時間ほど、そろりそろりの牛歩だ。
よく周りを見渡すと、牛歩の連中のほとんどが若者で、それも20才代から30才代と思われた。私のような60才代の老人はいなかった。我々の世代こそ、この世にもまれにもまれ、神社に足を向けたくなるのではなかったのか。私らの年代の者には時間が早過ぎるのだろう。それに、若い連中の奴こそ、この世の中、不安なのかもしれないな。そうでもなく、夢を追っているから、早く来たのか?
嫌われ者の私は、若者たちに、お前ら、こんな所で、何をしているんだ、もっとやらなくてはならないことがあるだろう、と言いたくもなる。ここは、口にチャックした。龍のぬいぐるみをまとった若者たちの仮装集団の一人に、君たちはどういう仲間なんだ、と尋ねた。彼らは早稲田の学生たちで、ネットで知り合った仲間同士だった。やっぱり、今はネットによる伝達で仲間ができるんだ、と納得した。
そこで、ショーマの母が貧血で救護室に避難した。年末の繁忙の疲れがでたのだろうか。
舞殿を左に迂回して大銀杏(イチョウ)の折れた幹の年輪を横目で見て、本殿への大石段を上る。折れた部分は地面すれすれに綺麗に切りそろえてあった。鎌倉幕府三代将軍源実朝はこの銀杏に身を隠していた甥の公暁(くぎょう)に、斬殺された。公暁は、実朝の父、二代将軍源頼家の子どもだ。この銀杏は、平成22年3月10日の強風で根元から倒れた。惜しまれた。根元ですっぱり切られていたが、その切り株からはいくつもの芽が1メートル近く伸びていた。
本殿前の階段にたどりつくまでに2箇所で、混雑による事故を防ぐために人数制限用の遮断機があった。線路の踏み切りの遮断機のように上から棒ではなく紐が下りてきて、人の群れを切り割(さ)く。警察官が監視。警察の報道係りの人が、足元や坂のことをハンドマイクで注意をしていた。
孫と娘夫婦は、私の後ろで何をお祈りしようかと相談していた。私の会社は、昨年、いつもの年と違う烈風を受けた。それでも、その烈風も終息に向かっている。そして、新たな局面にチャレンジをし始めた。そして、今年だ。思いは多々ある。私は、家族のこと、先輩後輩友人とその家族、会社のスタッフとその家族、我々の会社を各方面からサポートしてくれている人たちとその家族、取引会社の担当者とその家族、みなさんの健康と、仕事がますます繁盛するようにお祈りした。
娘たちがふんだんにお賽銭を投げ込んでいる前で、私は賽銭なしでひたすらお祈りした。きっと何万人と訪れるであろう参拝者の中で、私ほど多くのお祈りをした者はいないのではないか。欲張りな私を、幸運に恵まれなくても結構ですが、突如とした予期せぬ不運だけはできるだけ少なく、避けられるものなら避けてくださいな。
参拝を終えて本殿から下りた。順番を待つ参拝者の群れは、比較的減っていた。我々が列に参加した頃、カウントダウンの前後が一番混んでいたようだ。それからは、異常でない並みの多さ?で続くのだろう。
腹が空いてきたことと、寒さで、私と竹ちゃんは酒を求めた。私はもつ煮込み600円、ショーマはじゃがバタ500円、竹ちゃんはおでんアラカルト。晴は何を食っていたっけ?
その間、次女は、救護室で休んでいたショーマの母を迎えに行った。全員揃ったので、境内を後にした。段葛(だんかずら)を歩かないで、若宮大路を通って鎌倉駅に向かった。若宮大路は、源頼朝が妻、政子の安産祈願のために北条時政に命じ、京都の朱雀大路を模して作らせたものだ。段葛はその遺構だ。造営されたときは海まで続いていたそうだ。段葛のことはよく知っていたので、竹ちゃんに知ったかぶりして話す心算だったが、その機会はなかった。
鎌倉駅を02:??に乗って、俺たちは東戸塚駅から権太坂、ショー-マ母子は保土ヶ谷駅から狩場。
今年も、多難なことは予想される。みんなと連帯を深め頑張ろう。