(京都府綴喜郡)宇治田原町立維孝館中学校
昭和38年卒の同窓会だ
このブログを書くに、個人情報は無視した。この同窓会を、出席できなかった奴から、レポートしてくれと言われたので、撮ったものをそのまま公開するしかないではないか。仲間の一部から批判が出ても受けましょ。その折は、よろしく。
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1月8日 12:00受付開始
宇治 花やしき(塔の島前) 0774-21-2126
男子・13000円 女子11000円
幹事・森田市治 前田恭子
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維孝館中学校
同窓会では、書き残すような特別なことは起きなかった。平和な宴会だった。六十巻の懐かしい物語だ。
50年前の、みんなの面影を追っては、同じ学び舎で机を並べ、体育館やグラウンドで過ごした様子が思い出され、頭の中では思い出が、走り巡った。一般的に言う、走馬灯のようだ。
これからの稿は、あのときの中学生活のあれこれを想起したことを交えて綴ってみた。だって、この宴会で話したことは、全て昔の思い出話だけだったんだ。
1クラス47人、5クラスだったので、卒業生は全員で230余人。今回の出席者は60人。担任の先生は、山、オ、宮、森、吉先生だったが、森、吉の両先生はこの2年間の間に亡くなられた。
私はこの同窓会には、2度目で約40年ぶりだ。中学校を卒業して10年後の、大学を卒業して西武鉄道の持ち株会社に就職した頃、初めて出席した。その後、ずうっと気にはしていたのだが、仕事にかまけて参加することができなかった。
会場に着くと、世話役が受付をしていた。
直ぐに目についたのが、清さんだ。中学のときもそうだったが、彼はいつもこのような役を自然に担ってくれる。ありがとう、とお礼を言うと、いっつもこのような役をやらされているんや、ありがたいわ、と言ってくれた。彼は野球部で、温厚な性格の少年だった。大きな声を張り上げたり、下品なことは一切しなかった。
前さんが、山岡さんのことを、絵をよく描いているあの人(桝のことだ)が最近会ったときにあなたのことを話していたわ、と私の顔を覗き込んできた。横浜でのたうち廻っている私のことを、故郷の野辺で何を噂していたんだろう。噂話の材料にはこと欠かない男だけれど、ここまで辿り付く噂は、どのようなものなのだろう。桝は俺の実情に配慮しながら話してくれたようだ。
司会の中さんの進行で、先ずは亡くなった先生や同窓生に黙祷を捧げた。中さんは消防署に勤めていたので、黙祷、始め、黙祷、止(や)め、と声を掛けるのも消防隊風だ。
中は、小学生のときから、体力的には優秀で、いいガタイをしていた。本領を発揮したのはソフトボールのバッターとして、その能力は凄かった。長距離バッターだ。中学時代はハンマー投げの選手だった。
幹事の森さんの挨拶は、頭のハゲも立派に進んでいるだけあって、挨拶の内容にも磨きがかかっていた。きっと地元で、あれやこれや役を仰せつかっているのだろう。中学時代から、人望の厚い少年だった。野球部員でもあった。横浜から、ヤマオカが来てくれた、と皆に報告してくれた。私は、みんなに頭を下げて、元気なオジサンを印象付けようと胸を張った。
俺にも苦しいことがいっぱいあって、泣きそうになることもある、とは久しぶりに会ったみんなには言えなかった。此処は、堂々としてなくてはイカン。私の顔を不審そうに、怪訝そうに、不思議な奴を見るような目つきの人もいた。私のことを正確に思い出していなかったのでしょう。
そしてオ先生の挨拶、山先生の音頭で乾杯(かんぱ~い)をした。
後は、シッチャかメッチャかの飲めや喋れやの大宴会だった。
料理はさすが、宇治の高級料亭・「花やしき」だ。郷の口の並薬局の並の母親の妹か姉が、この料亭の女将さん、と教えられた。それにしても、料理が余り過ぎて、横浜なら袋やケースに詰めて、持って帰れたのに、悔しい限りだった。
オ先生は英語の先生だった。それまでの英語の先生は荒先生で、この先生の英語はヒヤリング能力に乏しい私にも、東南アジア系発音で聴き取りやすかったが、このオ先生の英語は、実に聞き取りづらかった。本物の英語に近かったのだろうか。大学受験に、今のようにヒヤリングが受験科目にあったならば、私は駄目も駄目、チンプンカンプンだったことだろう。
どのテストにおいても、採点後のテストを生徒に配った後、先生は、今度のテストでサボった奴は、「ヤマオカ!!」と教壇の前まで私を呼びつけて、桜の棒で、コツ~ンと頭の天辺を叩くのだった。私は苦笑し、先生は気持ち良さそうに、皆はゲラゲラ笑った。何故か、毎回、私がこの洗礼を受けていた。今回、この話を先生にしたら、全然憶えていなかった。やられた方は、いつまでもしつこく憶えているもんだ。
山先生は、理科の先生だった。私は理科が大好きで、学校の授業は物足りなくて、自宅では難問の問題集をこなしていたので、授業には身が入らなかった。それでも、山先生の黒板に書く字の巧さに感心していた。漢字の書き順が丁寧で、高校に行ってからも、習字のときには先生の書き順を思い出しながら書いたもんだ。
谷さんはソフトボール部だった。私が中学時代、淡い恋心を抱いた初めての女性だ。
20年ほど前にこの同窓会の名簿を作り直して、荒木の福と谷さんに渡したことを憶えている。その日は、福の自宅を兼ねた茶問屋で、美味い宇治茶をご馳走になってから、谷さんの嫁ぎ先に行った。
福とは中学時代はバスケットボール部で、高校生になってからはサッカー部で一緒に活動した。高校生のとき、二人でホンダのカブに乗って伏見ミュージックにストリップを観に行った。女性のモノがよく解らなかった。名前も同じ「保」だった。1年間ほどでサッカー部を辞めた彼は、ワルとエレキバンドのグループに流れていった。
その後、彼とは帰郷の際、城陽の彼の馴染みのスナックによく行った。私に金を借りたかったようだ。そして何年か後に自殺した。
谷さんは高校を卒業して役場に勤め始めて、間もなく今のご主人さんと結婚した。当時、私には、谷さんの夫になる資格はなかった。私は大学で、サッカーと先の見えない格闘をしていた。何も知らないうちに、請われるままに結婚したことを、悔やんではいなかったが、何となく他の選択肢もあったのでは、と思っている節が見られたが、そんなことはない、そういうのが本当に、幸せなケースなんだよ、と言った記憶がある。普段は夫婦二人っきりだが、正月や夏休みには、子ども夫婦や孫が来てくれるんやわ、この正月は12人やった、といとも楽しげだった。いいおばあちゃんをしているようだ。
玉さんは、教育長の娘さんだった。高校に入ってからも、私のサッカーの試合には、友人を何人も引き連れて応援に来てくれた。今は、顔がぽっちゃりになって、表情も優しくなって、いいお母さんをしたんだろう、と思った。
ソフトボール部の吉さんは、奇麗な人だった。でも、私は、女の人の顔をそんなに美醜を気にして見る方ではなかったので、会話の少なかった人のことは余り憶えていないよと言ったら、今さんに、あなた、こんなに綺麗な人を知らなかったの、と本人を前に叱られた。
アヤちゃんの家と、私の生家とは遠い親戚同士だ。小さいときから、何かと顔を合わせていた。でも、一緒に遊んだことはなかった。養子さんを向かえて頑張っていたことは聞いていたが、何やら悲しい出来事があったようなのだが、それを未確認だったので、その事には触れなかった。本当はゆっくり話したかった。
バスケット部のキャップテンだった塚さん。寿司屋を経営しているとは、偉いもんだ。昔の可愛い坊や然とした表情はなく、包丁一本を晒しに巻いた生活は、さぞかし厳しいのだろう。顔も口調も寿司職人だ。寿司を握る職人は、気風(きっぷ)が好くなくては、ネタまで腐ってしまう。いつまでも、その気風を忘れないでやってくれよ、キャップテン。
種さんと言うよりも、松っちゃんだ。長年、地元、郷の口の郵便局で働いて、今は、宇治の何とかに週3日ほど仕事に行くんだと言っていた。松っちゃんとは小学生のときから仲がよかった。いじわるとか、人が嫌な思いをするようなことは絶対しない子だった。彼の母親の顔もはっきり憶えている。赤い郵便局のバイクで走っているのを、帰郷の際、よく見かけた。
この郵便局には、私の従兄弟の垣の清ちゃんや、同窓生の福さん(善ちゃんの奥さん)も勤めていた。この郵便局の窓口で、私の父親や母親が、わからんちんなことを言って、随分悩ましたこともあった。
名村の森さんは、利発な子どもだった。魚屋さんの娘さんだった。4人姉妹の3番目。バスケット部だ。勉強も良く出来た。当時、ピアノを弾ける人は私にとって、異星人だった。後記の吉先生は、彼女の義理のお兄さんに当たるのだ。彼女の口からも、先生批判の舌鋒は鋭かった。今でも、その利発さは衰えていない、表情豊かにみんなと会話を楽しんでいた。
郷の口の森さんは、親子二代に亘っての自動車屋だ。表情は変わらず、穏かだ。子供の頃と全く同じだ。私の席の後ろの方に座っていて、先生に質問されて答えられなくても、微塵も動揺しなかった。大人(たいじん)だ、子どもにして既に達観していたのだろうか。
安井は宇治田原のお茶の製茶場の経営者の一人だ。この製茶場は売上げも相当なもので、その購入客を訴求するための宣伝チラシの制作を統括していると言っていた。費用対効果のことを考えると難しいと苦労話もしていた。
高校卒業の後は、大学でのことか、そのことは確認しなかったが、演劇に走ったらしい。私も、東京演劇アンサンブルという劇団とは、長く深い付き合いなので、その世界での苦労は、どの役を担うにしても並大抵のものではない。彼は、演劇で何を担当しようとしていたのだろうか、俳優、演出、脚本、運営。この辺りの話をもっとしたかった。
禅定寺の谷のオヤジと私の父は同級生だった。中のオヤジもだ。谷の生家は肥料やプロパンの販売をしていた。
郷の口の高さんはバスケット部。背が高かったので、大活躍していた。エースだった。
生家は家電屋さんだった。教室での席は、いつも後ろの方だった。今回、顔を合わした時、私は不覚にも、あなたのことを知らないと言ってしまった。彼女にひどく叱られた、ヤマオカさんは私に気があったではないか、と。そうか、今でも多情多恨で苦労は尽きないけれど、幼少のそのときにすでにその性情の兆しはあったようだ。
荒木の芦は、医者のお父さんを早くに亡くして、母と兄の三人暮らしだった。小さい頃、日本脳炎か、何かで小児マヒを起こし、どちらかの足をびっこしていたが、運動をすることで完全に克服した。ソフトボールでピッチャー役を自分のポジションのようにしていた。勉強のよくできた子どもだった。同窓の芦、俺、馬、戸の4人は、何故か揃って二浪することになった。当時、二浪までは普通だった、と認識していた。彼の兄と私の次兄は同じ年だった。
この4人は、それぞれ個性があって、進路も目指すことも違っていた。私は、巧くいけば、強い大学のサッカーチームに所属したいと思っていた。できたら、早稲田だった。芦が立命館大学の4年生のときだったろう、当時長髪のスポーツ選手が珍しくてそのことの新聞記事を、大学生協の食堂で見つけた。サッカー界には長髪の選手が出てきて、古河の荒井、大学のサッカー選手の中では、早稲田の山岡などは、髪を紐で結んでいるぐらいだ、そんな記事だった。掲載した大阪日日新聞とかの新聞を送ってくれた。
この4人で、母校・維孝館中学校の宿直をアルバイトした。吉先生の計略だ。先生は、宿直室ではなく、自宅で女房を抱いて寝たかったのだ。持ち回りで、先生たちの代わりに当直したのだ。アルバイト料は一晩幾らだったか記憶にない。当直の夜は、本来勉強しやすくなるだろうとの吉先生の計らいだったけれど、酒を飲むことを覚えることになってしまった。一生の不覚?それともなるようになったのか。
卒業後、住民の糞尿を扱う役所に勤めて、給料が他の役所よりもよかったのは、それは臭い、汚いの特別な職務なので当然と言えば当然なのだが。俺は彼に苦言を吐いた。現場の人は大変だが、お前は机に向かっているだけで、臭くも、汚くもないではないか、それは可笑しいぞ、と。
今さんは、ソフトボール部の過激派だ。同窓会の当日は、彼女のことをはっきり思い出せなくて、嫌な思いをさせてしまった。彼女のことを思い出せない私を、痛烈に罵倒した。スマン。彼女は、宴会に対しても、激しい言動で盛り上げてくれた。二次会もそうだった。彼女の周りには厳戒体制が必要と思われた。
馬は、私の結婚式で世話役をかってくれた仲間の一人と結婚した。洋子ちゃんという京都は西鴨の女性と縁があった。中央大学時代には、私の大学のサッカー部のグラウンドにも来てくれた。卒業後は日本でパン業界最大手のヤマザキに入社した。もっと出世する道もあったのだろうが、彼は彼なりのサラリーマン生活を選んだ。彼は自分の能力をわきまえていた。
小学生のとき、よく勉強のできた子どもだった。児童会の重要なポジションを担っていた。何役だったか、忘れた。クラスでは、私の後ろの方の席だったが、先生の質問に、手を真っ直ぐに高く上げて、もじもじする私を圧倒した。こんなに自信をもって、生きられたらさぞかし楽しいだろうな、と羨ましかった。生家は、老舗のお菓子屋さんだ。お兄さんが経営責任者、二番目のお兄さんとお姉さんが、裏の工場で和菓子を作っていた。彼の母は、私が買い物に行くと喜んでくれた。だから、母親にババト(馬の生家の店の屋号)に行ってくれと言われるのが嬉しかった。
二年間の浪人生活時代は、4人とも、心中落ち着けなく、不安だった。しょっちゅうミーチングしていた。烏合。それでも、4人は、試験の傾向と対策なんてそっちのけ、あそこのあの娘(こ)はどうだこうだと、女性のことばかりを話して、時間を過ごした。
小のことは、今回の宴会でも、いの一番に私に反応してくれた。私らが小学6年生の頃だったか、彼は私の頭をバットで殴ったのだ。心配しなさんな、教室が荒れていたわけではない、ソストボールの試合をしていたとき、私はキャッチャーで彼はバッターだった。彼は、ボールを打とうとしたとき、ボールのスピードが遅かったから、タイミングを計るために後ろに下がって打ったのだ。そのときのキャッチャーの私は、遅いボールに前のめりに構えた。そして、私の頭は、彼の振ったバットに当たったのだ。
頭の中は真っ暗、真っ暗闇に星がキラキラいくつも輝いた。暫らく、ホームベースに蹲(うずくま)った。多分、5分ぐらいは動けなかった。暫らくして、頭を撫ぜても、血が出ていない。目をぱちくりしてみたが、風景がぼんやりながら見える。どうも、大したこともなさそうだ、と自覚したときは嬉しかった。蹲っていたときには、これは取り返しのつかないことになってしまった、と心配だった。その日、担当の中村先生におんぶして貰って、自宅に帰った。そのときの先生の背中の温もりは今でも、はっきり思い出せる。
そのバッター、小を見つけたとき、その話をし出したら、彼にもよっぽどのショックだったのだろう、よく憶えていた。ニコニコして、私の話を楽しい御伽噺でも聞いているような顔だった。
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230余人の同窓生のなかで、私はハルと一番長く付き合ったし、彼女にとっても、私との付き合いはきっと一番長いと思う。そして、これからも、彼女との付き合いは続くだろう。それほどの仲なのだ。彼女とは、遠い遠い親戚の仲でもある。
私が小学3年生だった頃から、近くの大辻商店で、春、夏、年末年始の休暇にアルバイトをしていた。大辻商店は雑貨屋さん。大辻さんも、ハルも、私も、遠い親戚付き合いだった。小遣い稼ぎということもあったが、家族のみんなが働いていて、私も働きたかった。ならば、百姓仕事を手伝えばよかったのではと、言われそうだが、百姓仕事は幼い子どもにとって、なかなか、参加するには難しかった。ハルとはその大辻商店で働く同僚だった。
彼女の仕事を同僚として助けた。彼女に、お金の計算の仕方、お釣りの出し方、お客さんとの接触の仕方を教えた。私は私で、この店の利益を、売り上げを伸ばすことに、小学生以上の働きをしたことを自負する。当時、月掛けが普通だったので、その集金の回収率は、経営者の善さんを驚かせた。また、リヤカーに、洗剤や歯ブラシ、その他の日常品を積んで行商に出かけた。私の顔を見当てた人は、何かを必ず買ってくれて、村を一回りすれば持ち出した商品はほとんど売り切った。
それから、私は大学に行くために宇治田原町を離れることになったが、帰郷の際必ず寄るのだが、この店に顔を出すと必ずハルがいて、近所の出来事や、同窓生たちの動静を色々と話してくれた。
禅定寺の沢さんは、よく勉強のできる人だと聞かされていたが、私と会話をした記憶がない。今回も話す機会に恵まれなかった。
並薬局の並の端正な顔立ちは、ちょっと私らのように平凡ではない。男前と言えばそうなのか、私には彼のような端正な顔立ちの友人はいなかった。深く付き合ったことがことがないので、彼の人格その他を論じることはやめよう。
岩山の谷さんは、俺よりも一足先に東京の大学に行った。私の父は京都大学と東京大学と日本大学は知っていて、難しい日本大学によく入ったもんだ、と誰かから聞いてきて、すこぶる感動していた。私が入った大学の名前は、何度教えても憶えられなかったようだ。私が入学した学校を案内して、新幹線で東京駅を去るときでも、私の大学をあの大学と言っていた。
彼は野球部。みんなに好かれる人物だった。今回、私に名刺をくれたが、何を何処で、働いているのか話せなかった。残念だった。
青さんは着物姿だった。バスケット部だ。元々子供の頃から痩せていたが、青さん、ちょっと痩せ過ぎやで、と失礼を省みず、そんなことを言ってしまった。子どもの頃、彼女は、綺麗な母と二人で生活していた。私のもつ家族のイメージとは違って、何か不幸めいたことを、子ども心に感じていた。彼女も綺麗だったので、さぞかし、彼女のお父さんもきっと男前だったのだろう。お父さんはどうしたのだろう、なんて考えていた。
荒木の岡さんのことは、未だに思い出せないままだ。年をとってから美人になる人もいる。チャーミングな女性だった。私は、女の人とはそれほど親しくはなかったので、正直女の人の顔はよく見なかった。
老中の森さんは、私の生家の近くに住んでいる。背丈が低くて可愛い顔が印象的だった。
垣は、長距離が強かった。野球部でもあった。なんで、あんなに速かったのよ、と質したが、頭をひねっているばかりで、何も答えてくれなかった。昔のそんなことには触れて欲しくないようだった。でも、それにしても速かった。宇治田原町から京都府の大会に出た、珍しく優秀な長距離選手だったのだ。
榎は、静かな生徒だった。言葉遣いといい、その所作も品があって、きっと豊かな上品な家庭の息子さんだったのだろう。
奥は、消防署職員だった。同窓会の当日は、彼は我々の宴会場の隣で、消防署の新年会をやっていて、その会を終えて即、この同窓会に馳せ参じてくれた。そこで、鱈腹飲んできたのか、来たときには随分気持ち良さそうだった。二次会のカラオケ会場では、彼は綺麗な玉さんを捕まえては、人が羨(うらや)むような。濃厚なダンスをしてみせた。相手をさせられた玉さんは、戸惑っていた。
俺はこの時間になって、大学時代の友人の金の所へ行かなければならないことに気づいた。みんなにさよならも言わずに、こっそり出て京阪電鉄の宇治駅に向かった。気持ち好く、酔っていた。
写真には写ってないが、私の記憶にくっきり残っている男がユキノブだった。苗字が出てこない。彼は野球部でピッチャー、エースだった。維孝館中学校は田原小学校と宇治田原小学校の卒業生が揃って全員が行くのだが、中学に入学する時には、互いの卒業生を気にするものでした。私にとって、一番気になっていた奴が彼だった。
会ってみて、直ぐに気分のいい奴だと思った。こいつなら、女の子にもてるのは当たり前だと納得した。それから、教室の中でも、先生の質問に答えられないことがあっても、巧い具合に処理していた。
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同窓会の翌日のこと。
恩師・吉岡由造先生が昨年、年末に亡くなった。そのときは仕事が極端に忙しい時期だったので、葬儀には参列できなかった。
病気が病気だったこともある、ご本人の生来の性格にも問題があったにしても、身内の人たちからは、余りよく思われないまま亡くなったことが、不肖の教え子には、気の毒にも、不憫にも思えた。療養の態度が良くなかったらしい。
お前は遠くに居るから、それに実態を何も知らないから、そんなにのんびりしたことを言っていられるんだよ、周りの人は大変だったようだよ、と友人に叱られた。
3年前に病院にお見舞いに行ったきり、最後の挨拶のないままだったのが、この正月、気になってしょうがなかった。
それで、今回の同窓会のために帰郷した折、数人で挨拶にご自宅を訪ねた。が、留守だったので、又の機会に先延ばしをすることになった。先生に縁の深い連中で、奥さんを囲ってプライベートな偲ぶ会をしようと、勝手に連絡をしないまま計画したのだ。前もって、奥さんに連絡したら、断れることが大体想像ついていたから。私は、一番可愛がられていた。
先生の供養には、酒があって、過去の思い出話でもあれば、奥さんは突然のことだから、しょうがないわねと許して貰えるんではないかと、この年になって、その失礼ぶり、荒唐無稽ぶりは増すばかりだ。面の皮が角質化したようだ。そのように行動して、この計画は頓挫した。