2014年4月27日日曜日

承継効とは

20140423の水曜日、09:50~15:45、宅地建物取扱主任者証の更新のための法定講習を神奈川県不動産会館5階のホールで受けた。

この5、6年は、リーマンショックで受けたダメージから、何とか脱却するために東奔西走、落ち着いて宅建業に関係する色んな法律の改正などを詳細に確認することなど怠(おこた)った。私の能力では、あれも、これもとはいかないのだ。今回の講習で、その勉強不足を痛感した。

最近の法律改正に伴う重要事項説明事項の追加や変更になったものは、改正に伴って宅建業法施行令第3条も改正された。この第3条は法令上の制限についての規定条項だ。

平成25年度の港湾法施行令の一部改正や災害基本法等の一部改正、平成24年度の都市の低炭素の促進に関する法律施行令、都市再生特別措置法の一部改正、平成23年度の津波防災地域づくりに関する法律の施行などに伴う宅建業法施行令第3条改正について、詳しく説明を受けた。

そこで、前の方の改正された法律以外にもいくつか改正されたが、この改正の教本での説明文のなかに、初めて見て聞いたのが「承継効」だった。改正の内容よりも、文字好きの私は、この言葉に釘づけになった。不動産に関する六法については、条文はしっかり憶えていないにしても、割と人並以上に法令や政令、条例を把握していると自賛しているこの私が、承継効って奴に初にお目にかかった。今まで知らなかった。聞いたこともなかった。

承継効とは、「一団におけるその協定については、協定後に新たに一団に加入した者に対しても効力を有する」ということのようだ。

そして翌々日、会社で、承継効を知っていますかと、スタッフに尋ねても誰も知らなかった。

ところが、経営責任者の中さんには、承継効を知ってるか?と聞こうとして、間違えて「継承効」って知ってる?と尋ねてしまった。彼は、初めて聞いた言葉ですがとか言いながら、早速インターネットで調べて、継承効はですね、「土地や物件などを売買や相続、譲渡などで承継した者が、それについている権利義務関係を引き継ぐこと」だそうですよと答えた。

う~ん、えー?、成る程、承継効があれば継承効があっても可笑しくはない。承継する人がいれば、継承する人だって必ずいるわけだから、二つの言葉があっても当然!なのだった!!

初めて知った言葉に、それから派生して知った言葉、承継効と継承効。

勉強になりました。

2014年4月26日土曜日

日本サッカーの日本語化

各種のスポーツ競技を率いる監督やコーチが、指導する際に選手に向かって使う言葉で、監督の意図が大体読み取れる。監督が求めるチーム作りや試合の采配に対する考え方もよく解る。試合会場に足を運ぶ機会の少ない私にとって、日経新聞の武智幸徳さんが興味ある記事を18日の朝刊で提供してくれた。

私は30余年前に、地元の自治会が作った子供サッカーの指導にかかわった。そのときに、子供に対する言葉の使い方の難しさを体験した。ジャンルは異なるが、優れた芸術作品を前にして、人は言葉を失うことがある。作品に圧倒され、感じたことを何と表現したらいいのか分からない。それとは逆に、的を得ぬ饒舌ほど耳に不愉快なものはない。作家の金井美恵子さんは自らの文章に対して、何が嫌かって、間の抜けた文章で評されるほど嫌なことはないと何かで言っていた。日常でも、人生の大先輩や功成(こうな)り名を遂げた人に、語りかける言葉選びの難しいことを、誰もが経験する。

なのに、子供の試合を観戦に来た父兄のなかに困った奴が時々いる。未熟ながらも健気な子供たちのプレーに、なんとも耐え難い発言を何気にする奴らが、いることが悩みの一つでもあった。奴らに向かって、何度、私が怒り狂ったことか。

決定的にいただけないのが、「何をやっているんだ」だった。こんな破廉恥な言葉を口にする馬鹿タレは、スポーツを、まして子供のプレーなど観戦する資格はない。いいか、憶えておけ、二度と俺の前でこのような発言をしたら、退場してもらう、家に帰ってビール飲んで屁でもこいて寝てろう! だ。このような発言を繰り出す奴は、必ず自分の子供から将来手ひどい復讐を受けることになる、間違いなしだ。

したり顔で、「何をやっているんだ」なんて、これほどスポーツの神髄からほど遠い言葉はない。私には絶対許せない言葉だった。

新聞記事にある言葉についての内容とは大いに異なるけれど、私の積年の思いを吐露させてもらった。

 

20140418 日経・朝刊/スポーツ

アナザービュー・武智幸徳

2016年リオデジャネイロ五輪を目指す21歳以下日本代表の手倉森誠監督(46)は、ちょっと変わった言語感覚の持ち主である。滑ることをまったく恐れない。駄じゃれ好きはつとに知られた話で聞き手をしばしば困惑させるが、サッカー指導で繰り出す言葉の力はかなりいい線いっている気がするのである。

例えば、くさびのパスを受けたFWをサポートする選手に対して発する「潜れ!」。単純に「サポートに入れ」というより隠密行動の匂いがするし、ボールを受けたらゲインラインを必ず突破せよ、という推進力の強調も同時に感じられる。

聞く度にどこか痛い気がする「ボールを握れ」もただの「ポセッション」より迫力がある。手倉森の後、仙台の指揮を執り先日解任されたアーノルド監督は「キープ・ザ・ボールと教えたらしい。それより”握れ!”の方が感じが出るでしょ」と手倉森監督。確かに「死んでも渡すな」というニュアンスはこちらの方が伝わる気がする。

明治維新を境に標準語がまず軍隊で必要になったように、日本サッカーも1990年代半ばから用語の統一と普及に熱心だった。「ターン(turn=フリーだ。前を向け)」や「マノン(man on=気をつけろ。後ろから来てるぞ)」といった外来語がそうである。

日本中のコーチと選手がそうした共通語を使うようになると、地方から代表合宿に参加しても、代表コーチが使う言葉の意味が分からない、というようなことはなくなった。共通語として全国に拡散すれば、地域ごとの指導のばらつきもやがてなくなる。そんな狙いもあったのだろう。

それはそれで意味のあることだったが、「潜る」「握る」など日本人の身体感覚でサッカーを捉え直すかのような”手倉森語”を聞いていると、日本サッカーが次のステップに進むヒントが隠されているような気がしてくる。元日本代表監督のオシムさんは「日本サッカーを日本化する」という名言を残したけれど、その実現には「日本サッカーの日本語化」が必要なのではないか。

実際、「プル・アウェイ」なんかより、不世出のストライカー釜本邦茂さんの「ゴール前で1回消えたらいい」という言葉の方が、よほど含蓄と選手に考えさせる力があるように思う。

2014年4月21日月曜日

蘇った、私の野性

私の「野性」を思いっきり蘇らせてくれた友人ステ君が、20140418、南洋に浮かぶ母国に帰ってしまった。

ステ君と仕事を一緒にして、久しぶりに私の体の全ての細胞が瑞々しく活性した。この、私が言う「野性」って奴は、肉体を酷使した結果、冴(さ)えて荒ぶる昂揚感?のことだ。この感覚が久しぶりに覚醒した。

リーマンショックの前からこの10年間、私の体は鈍(なま)ってきていた。鈍らないように、鈍らないようにと心がけて、果樹園や野菜畑での農耕作業、住宅のリフオーム工事の現場での作業に、率先して励んだのだが、それでもスッキリはしていなかった。

大学に入る前は2年間のドカタ稼業で、4年間の東京での生活費と学資を稼いだ。そして学生生活の4年間はクラブ活動一本、朝から晩までグラウンドにいた。クタクタに疲れることが快感で、それこそが私の生きがいだった。

卒業して入社した会社でも、体を酷使する仕事が多く、性格に相応しい会社に入ったことを喜んでいた。だが、それから数年経て、オーナーの近くで働くことになって、オーナーの周りのゴマすり幹部、米(こめ)搗(つ)きバッタ社員を目の当たりにして嫌気がさした。このオーナーは私の退社後、有価証券報告書の虚偽記載による証券取引法違反で逮捕された。

その会社を辞めて独立してから、今度は経営者として身も心も酷使する仕事に精を出した。だが、そんな充実した幸せな日々も、時が経つにつれて頭を使うことは増えても、体を動かすことに少しづつ怠惰になってしまった。サボったのだろう。

そんな時に、ステ君が登場した。一緒に仕事を始めた年末からこの4月までのステ君の仕事ぶりについての印象を記す。

仕事が楽しくて、楽しくて、実に楽しそうに働く。金を稼ぐというドロ臭さが一切臭ってこない。まるで、解脱してる? 除草のときには、徹底して小さな草も見逃すことがない。私は百姓の子倅(こせがれ)、小さな草は茎を切っておけば枯れるので、目くじらを立ててまで収集しないで、放置したままにしておく。それが、気に入らないのだ。

聖人のような彼のお陰で、私の気分は清澄、スッキリ爽やかになる。仕事ははかどり、私は刺激を受けて1.5人前、彼は私への触媒役も兼ねて2人前、二人合わせて3.5人前の仕事をこなすので、一日仕事が4時間程でやりきれるのだ。

昼飯を食った後、腰を伸ばして横に寝っ転がったり、雑談をするのが私の楽しみなのに、彼は飯を食い終わると、直ぐに立ち上がって、軍手をはめる。仕事の再開のシグナルだ。いや、いや、と言いながら私も軍手をはめだす。

仕事を終わろうと声をかけると、もう終わりなの?と浮かぬ顔つきで私を睨みつける。そして、嬉々として片づけに入る。

鈍って、老化しかけていた私の「野性」を、蘇らせてくれたことに感謝している。

2014年4月16日水曜日

ケンタウルスの果樹園

20140413 日曜日、ケンタウルス果樹園の第1次植栽計画は、下のように〇印の苗木を植樹して終了した。

日曜日は弊社の書き入れ時、2時間ほど執務時間中にちょっと失礼して、最後の2本、梅とプラムを植えてきた。

2次計画では、△印の位置に低木の柑橘類を植える。そして、〇△の果樹の育ち方次第で、×印の位置に何かを植えて完成する。

果樹園の土地は、深い部分は粘土で、地表から1.5メートルの深さまでは河原のように大小の石が密に混ざった状態だったので、大きな穴を掘って石を出し、それでもまだまだ砂利の多い中に、枯葉に培養土と馬糞を普通の土と混ぜて埋めた。そこに苗木の根に水をたっぷりかけて植えた。いわば甕や鉢に植えたようなものなので、今後、根がどのように張るかが気がかりだ。その張り方次第で幹や枝など、果樹全体の成長に影響がでる。

会社のスタッフから、いつ頃から食える果実が採れるのですか、との質問攻めにあっている。私は余裕を持ってニンマリ、心配するな、時期がきたらたんまり食わしてやるから。できそうもないことを、大威張りすることを大言壮語(たいげんそうご)というが、決して俺様は嘘つきではない、空威張りでもない。まして妄想でもない。実は、気の早い梅は花の落ちた後に、もう小さな実をつけているんだ。

そんなことよりも、何故、このような果樹を選んだのですかとか、肥料はどうするのですか、剪定のやり方は、虫は、病気は、とかを聞いて欲しいのに。

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2014年4月14日月曜日

犬に好かれた男!

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娘が作ったソックリさん。右2匹が我が家の犬、ツバサとポン太。

朝、出勤時に新聞の大きな見出しを拾い読みしながら、最寄の駅に向かって歩いていた。気づくと私の足元に、小さなシーズー犬が絡みついてきた。犬の飼い主はそんなことには気づかずにリードを引っ張り、犬は私に顔を向けたまま、引きずられていた。

シーズーは、5メートル離れても、10メートル離れても、熱い視線で私の顔を見続けている。根っからの営業マンの私は、やはり、この犬にも笑顔で応えた。

私は、どういうわけか、どんな犬種の犬にも、街角で出くわしたときには、必ずこのような経験をする。

ラブラドールレトリバーと一緒に暮らした生活は10年も前に終わったけれど、ゴンという名の我が家の名犬は、私に楽しい思い出をいっぱい残してこの世を去った。感謝している。苦しみや悲しみ、不安を訴える子供たちの叫びを、全身で受け留めてくれた。まるで、身代わり犬だった。子供たちは受験だクラブ活動だと大変な時期でもあった。深夜、小用で二階から降りてくると、リビングの隅っこで、ゴンと3人の娘と息子が交代交代(こうたいごうたい)にミーテイングしているのをよく見かけた。

無言の交流、安穏なスキンシップ。親にも先生にも話せない子供たちの悩みを、ゴンにはすっかりお見通しのようで、聞き耳を立てるその姿は神様のようでも、仏様のようでもあった。

このようにしてゴンと過ごした。その結果、後遺症のように、どこのどの犬を見ても、親しみを感じて、フラフラと近づいていくようになってしまった。スマイリング、私がにっこり微笑むと、見つめられた犬たちもスマイリングしているようなのだ。

初めのうちは、私の体に犬の臭いが沁みついていて、その臭いのせいかと考えたが、ゴンがこの世から去って随分年月を経ているのだから、私の体や衣類からは何も臭わないはずだ。貧乏ったらしい風体。餌をくれそうもない素振りなのに。

私が何故にこれほどまでに犬に魅かれるのだろう? 逆に、何故、犬は私のことをそれほどに気にかけるのだろう?

双方の思いが通じているようなのだ。犬と私の超感覚的知覚とか、超常的遠隔精神反応って奴か? 誰か、解りやすく教えてくださいな。

2014年4月7日月曜日

〇△ラーメン屋さんに、軍配!

先日、湘南地区の物件調査に行った折、その地域に行ったときにはしばしば立ち寄るラーメン屋さんに行った。
平塚の海岸寄りだ。
カウンター席の真正面の壁の張り紙には、4月1日からの消費増税にともなって、又、原材料の値上げもあり、今まで350円のタンメンを50円値上げさせていただきます、そのような内容だった。
ここのお店のタンメンは実にユニークなもので、どんぶりには麺とスープ、みじん切りにした玉ねぎだけのシンプルなものだ。
突然、何かの拍子に食いたくなり、一たび食いたいと思ったら、ますます食いたくなる絶品なのだ。
スープは何で出汁(だし)をとっているのか知らないが、無色で透き通っていて、それで美味しい。
麺はソーメンのように細く白いもので、普通のラーメン屋さんとは違う。
全てが上品。
ラー油を玉ねぎと麺にからめる、私は必ずこのようにして食う。
この店は、雨の強く降っている日でさえ、昼時には店の周りに席待ち客で溢れている。
夫婦、家族連れのお客さんが多く、地元のお客さんに熱く支持されているようだ。
そういう私もファンの一人だが。
それにしても、今まで350円だったものを50円も、消費税の増税とか原材料が値上がったからといって、値上げするとは、ちょっといただけないのではないか。
消費増税だけなら、350÷1.05×1.08は、ほぼ360になる。
それに原材料のアップをいくら加算しても、350+50=400は、怪しげだ。
この値上げに斯(か)くもこだわるのは、この店のファンの一人だからだ。ファンだからこそ、そのメニュー内容と価額、経営者の人柄、厨房内のおじさんおばさんたちの立ち居振る舞いにも注目してしまうのだ。


ところで、私は、このラーメン屋さん以外に、味噌ラーメンを売りにしている、もう一つの地元ラーメン屋さんのファンでもあるのだ。
このラーメン屋さんは湘南で生まれて、全国に打って出るぞと意気込んでいる。
多分社長さんの苗字なんだろう、幾つもある店の名前をその苗字を頭文字に、〇△ラーメンにしている。
店内のメニュー紹介の文章にもこの社長さんの思いが込められていて、思わずニッコリしてしまうのだ。
ちょっとばかりのコラーゲンでさえ、一気に鬼女を変幻自在に美肌にしてしまうほどのコピーが面白い。
その店には、味噌ラーメンを食いたくなった時によく行くのだけれど、以前に値下げした500円で、消費増税後の今も、ボリュウムたっぷりの味噌ラーメンを提供している。
「値下げ断行 500円」、と店の窓にステッカーが貼られていて、経営者の気概が、私の心を打つのだ。
消費増税なんのその、原材料値上げ糞食らえ、と経営者の〇△さんは意気が上がっている。
スープも麺も、チャーシューも美味しい。
平日の昼時はブルーカラー、休日は家族連でにぎわっている。
すりニンニクをどんぶりの中ほどに山ほどに盛って、それを崩しながら麺にからめていただくのが、私の作法だ。

タンメン屋さんや味噌ラーメン屋さんにも、どちらにも依怙(えこ)贔屓(ひいき)なく行きたいのだが、今回の消費増税の巻きでは、味噌ラーメン屋さんに軍配を上げるか?

2014年4月4日金曜日

消費税記念日だ

今月の1日から消費税が8%になった。まさか、エイプリルフールじゃないでしょうね? そんな冗談はヨシコさんだった。5%になったのが、平成9年(1997年)4月1日だから、17年ぶりの消費増税だ。

それじゃ、消費税が創設されたのはいつかといえば、昭和63年(1988年)12月に竹下内閣の時で、翌年の平成元年(1989年)4月1日から実施された。今から25年前のこと、このときは3%だった。

3月の月末の29日(土)、30日(日)は、消費増税導入前に駆け込みで物品を購入しようと、大手家電量販店やホームセンター、百貨店にスーパーは、人ごみでごった返しだったようだ。トイレットペーパーまで、品切れになったと聞く。人様は、そんなにしてまで生活防衛をするものなんだ、と感心させられた。私は、これぽっちも思いつかなかった。

そういうわけで、4月1日は消費税記念日なのだ。この日に、考えなくてはならないことを、朝日の社説はまとめてくれた。

 

20140401/朝日・社説

改革の原点に立ち返れ

 

消費税率が、5%から8%に引き上げられた。

国民にとっては、つらい負担増である。だが、借金漬けの日本の現状を考えれば、やむを得ない選択だ。

問題は、その痛みに政治がきちんとこたえているかどうかである。消費増税の原点に返って考えたい。

 

ツケ回しを減らそう

 

消費増税は「社会保障と税の一体改革」の柱だ。

国の一般会計予算の3割強を占める社会保障の財源は、保険料や税金だけでは足らず、国債の発行に頼っている。つまり、今の世代への給付を維持するために、将来世代にツケを回す構図である。

それを改め、手薄な子育て支援策を充実させつつ、年金や医療・介護を安定させる。先々への安心感を高めることで消費を促し、経済の活性化にもつなげる狙いがある。

そうした考えから、国民が広く負担する消費税の税率を今回と15年10月の2段階で10%に上げ、増税分はすべて社会保障に使うことになった。

増収分がそっくりサービスの充実に充てられるのではなく、多くは国債の発行を減らすことに回される。それでも財源不足は解消せず、高齢化に従って社会保障費は増え続ける。

日本の厳しい現実である。

では、財政破綻に陥らないために、どうすればいいのか。

経済成長によって税収が自然に増える環境を整える▼限られた金額が友好に使われるよう、予算の見直しに取り込む▼増税から逃げないーーこの三つが欠かせない。

とりわけカギを握るのは予算改革だろう。税金の使い道に納得感がなければ、反発するからだ。

 

膨らむ公共事業

 

ところが、政権からは緊張感が一向に伝わってこない。

消費増税をにらんだ昨年度の補正予算は5.5兆円に膨らんだ。初年度の増税分を上回る額だ。当初予算として過去最大となった今年度予算と合わせ、総額は100兆円を超す。

年度をまたぐため単純比較はできないが、自民党が「ばらまき」と批判していた民主党政権下の予算規模に肩を並べる。

所得の少ない人ほど消費税の負担が重くなる「逆進性」への配慮など、欠かせない対策は少なくない。

しかし、「増税で財源に余裕ができた」「景気の冷え込みを防ぐ」といって予算を膨らませていては、何のための一体改革なのか。

象徴は、公共事業である。

「老朽化したインフラや防災への対策は待ったなし。景気対策を兼ねて前倒しを」「民主党政権が大幅に削減したひずみをただすだけ」。こんな声が政府・与党にかまびすしい。

「防災」を錦の御旗に、費用対効果の検証をおろそかにしたまま、建設ありきの対策を続けていないか。新設から老朽化対策へと軸足を移しつつ、既存の施設を集約する試みが徹底しているとはとても思えない。

東日本大震災の復興事業に、景気対策としての公共事業の積み増しや東京五輪の準備が加わって、現場では賃金や建設資材の高騰が深刻だ。入札の不調が相次ぎ、当初の予定価格を引き上げてやっと業者が決まる例も珍しくない。その分、税金が多く費やされ、借金は増える。

 

国債残高は3倍に

 

財政再建のために増税と歳出削減が実施されているが、成功したケースは歳出削減に重点を置いていたーーー。

90年代後半、米ハーバード大のアルベルト・アレシナ教授らが60年以降の先進国の取り組みを調べ、こんな論文をまとめた。成功例では、歳出削減と増税の比率はおおむね7対3だったという。

限られた事例の分析だが、予算の見直し・削減が財政再建に欠かせないことは常識だ。先進国の中で最悪の水準に落ち込んだ我が国の財政難を考えれば、増税と予算改革を同時並行で進めるしか道はない。

民主党は、政権を獲得する09年の総選挙で、新たな政策の財源として既存の予算の組み換えで十数兆円を用意すると公約したが、実現しなかった。

見直しは一朝一夕にはできない。個々の政策を一つひとつ吟味し、継続する場合もできるだけ少ない金額でまかなう。

そんな地道な作業を積み重ねるしかないのに、増税を理由に予算を膨らませるのでは、改革の方向が逆である。

90年代のバブル崩壊後、景気対策のために、毎年のように補正予算が編成された。

17年前の消費増税時と比べると、国債の発行残高は3倍の750兆円である。借り入れなどを加えた国の借金総額は1千兆円を超えた。

膨れあがった予算を抜本的に見直し、削減につなげる。それが、消費税率を10%に上げる前提である。

2014年4月1日火曜日

お前さんに言いたいことがある

昨日20140330、これまでの約15年間、公私にわたって、時には厳しく時には優しくお付き合いをしていただいた前後さんから電話を受けた。経済人としても敬愛している方だ。彼は、ちょうど1年前まで、東証1部の上場会社の社長さんだった。今は相談役か顧問をなされている。会社は、映画の配給から不動産、レストランなどを手広く運営している。

唐突の電話で、現在癌で入院しているんだと話された。ご無沙汰をしていることを詫びようともじもじしているうちに、耳に入ってきた言葉が余りにも衝撃的な内容だったので、私の頭は混乱した。病気が食道癌だということ、医師との話し合い、手術の仕方、術後の施療の内容に、パニ(ッ)クったまま、私は鎮まらない。

ヤマオカさんにはちょっと話したいことがあるんだ、と病院名と面会時間を教えてくださった。これって、見舞いにおいでよ、ということだなあと理解した。電話の内容を側で聞いていた経営責任者の中さんは、ヤマオカさんは前後さんに、随分可愛がられているんですね、見舞いに来いよというのは珍しいですよ、と微笑んだ。

電話を受けて直感した。彼は自らの罹病のことを身内以外には、イの一番に私に話さなくてはならない、と思いつかれたようだ。彼には、私の生活態度が、不摂生、不養生の権化そのもののように映っているのだろう。酒は毎晩きちんと酔っ払うまで鱈腹飲み、それに一人暮らしのいい加減な食生活、不良老人め! いい歳になったというのに、お前さん、大丈夫か? 過信は禁物だよ、と叱咤されるだろうと身構えた。

そして今日20140331、午前中の月曜日定例の営業会議を終えて、定食カレー(月曜日の会議後の昼飯は、社長が作ったカレーを全員で食うことになっている)を食って、前後さんのお見舞いにでかけた。一日も早い方がいいと考えたからだ。

ナース室で聞いた病室に足を踏み入れると、奥様と何やら楽しそうに話されている声が聞こえてきて、内心、ホッとした。余計な気遣いもなく、無理なくご挨拶できた。溜飲。心配事は瞬時にパッと消えた。食事を摂れなかった日もあったようで、少しは痩せられた。だが、元気、元気のおお元気。おお安心して、おお安堵した。

ヤマオカさんには、どうしても、一言注意したかった。今回の病気で知り得たことだが、お酒を飲んで顔が赤くなる人は、特に癌に注意しなくてはならない、らしんだよ。このことをあなたにはどうしても言いたかったのだ、と。

その後、一通り病状の説明を受けてからは、矢継ぎ早に、現在の会社のこと、自分が信奉する経済人で詩人・歌人のこと、会社のスタッフや外部の友人たちのことを、一所懸命に話されたのを、私は嬉しく受け応えさせてもらった。

奥さんは傍で静かに聞き入っておられた。どうして、癌患者と見舞い客がこんなにまで熱く語れるのか? こんな奴らはどうかしているんじゃないの? とでも思われたかもしれない。

それにしても楽しい病気見舞いだった。

健康管理に、万全ってない

20140326 今日は弊社の営業部の定休日だ。

いつものように4時半に起きて、洗濯をし終えて洗い物を干していたときだ。パンツを物干し台にかけた時のこと、強烈な目眩に(めまい)に襲われた。目がグルグル回るというか、外の景色が上下に揺れながら移動する。ベランダで、立っていられなく、尻を床にべったりくっつけた。そして、移動は無理と判断して、その場に仰向けに寝っ転がった。

誰かがこの光景を見ていたとしたら、度肝を抜かれたのではないだろうか。

でも、このような状況に落ち込んでも、私は冷静だった。だって、この感覚には6年前の覚えがあったからだ。初めに目が回りだしてからも、回っている最中にも、頭は痛くないなあ、手は意識通りに動くなあ、と観察していた。これならば、目を瞑(つむ)っていれば必ず鎮まる、と確信した。

それにしても、内心、おさまるまでの時間は怖かった。誰にも気づかれずに死んで、それを見つけた人は何と思うだろうか。自殺?まさか、他殺ではないだろう。それなら、死因は? パンツで塞(ふさ)いだ目を、慎重に開いて、その混乱の度合いを見測った。10分、15分と段々に、視界は落ち着いてきた。30分後には、目を見開いて一人で歩いてトイレに行けた。

6年前は会社の台所で、インスタントラーメンを鍋にかけている最中だった。目の前の壁のタイル張りが、いっせいににガタガタと崩れるように見えた。必死でガス栓は止めた。この時が初めてだったので、私は、これは脳に異変が起きたのではないか、ただでは済みそうもない、と女性スタッフに救急車の出動要請した。

搬送先の病院で精密検査をしてもらったが、脳には全く異常はなく、耳の三半規管の何らかの変調が原因でしょうと言われた。後遺症があっては困ると思ったが、それらしいことは何も発生しなかった。今回はその時の学習が大いに役立った。

話は、これからだ。

実は2週間前の毎週月曜日の定例会議で、みんなの前で、1ヶ月前に行った健康診断において、会社のスタッフの中で私だけが、唯一、全ての項目の評点がAだったことを自慢し、評点の悪い人に対して強い口調で批判した。

会社で経費を掛けてやっている事なんだから、みんなもこの結果を真剣にとらえて欲しいと言った。来年、今よりも評点が悪くなった人には、1項目ごとに1万円給料から天引きするぞ、とまでは言わなかったが。

普通の健康診断では、三半規管などの異状までは診断しないのだ。

体は、各器官がそれぞれに連係して機能、それでやっと全体がバランスよく働くものだが、その一つひとつの器官まで、健康診断では解らないのが現状だ。器官の一つの部位が、突然変調をきたすことだってある。よって、健康診断ぐらいの大まかな診断で、万全だと思い為さんなと言うことのようだ。

健康診断で全Aだからといって万全ではなく、慢心しなさんな、ってこと。

屠畜場の聖ヨハンナ

20140328
19:00~/東京演劇アンサンブル/ブレヒトの芝居小屋

スタッフ
ベルトルト・ブレヒト 作 / 加藤衛 訳
構成 庭山由佳  小森明子
演出 小森明子
音楽 かとうかなこ(クロマチック・アコーディオン)
舞台美術 池田ともゆき
舞台監督 入江龍太
その他

キャスト
ヨハンナ・ダーク(救世軍麦わら隊少尉) 久我あゆみ
ピーヤポント・モーラー(牛肉王) 松下重人
サリヴァン・スリフト(仲買人) 大多和民樹
食肉業者たち/家畜業者たち/問屋たち/刑事たち/新聞売り子
ポーラス・スナイダー(少佐)公家義徳
麦わら隊マルベリィ(家主) 志賀澤子
組合の指導者/労働者たち/一人の女/一人の男/一人の労働者/職工長/ボーイ


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仕事の都合で、予定していた日には行けなくて、やっと28日に行ってきた。年度末の3月28日の金曜日の夕方、道路は混んでいた。

私の心のふるさとその1の東京演劇アンサンブルの創立60周年記念公演だと聞けば、観に行かないわけにはいかない。それに、今回のお芝居には、ほとんどの劇団員が出演すると聞けば、こりゃ、もう尚更、行くしかない。この劇団とのお付き合いは40余年以上になる。大学3年生の時に、牛島さんというテレビ脚本家に連れられて、公演1日前の舞台稽古を観に行ったのが最初だ。

当時の私は、サッカーの練習以外は、雑多な読書と寺山修二の天井桟敷や唐十郎の状況劇場、鈴木忠志の早稲田小劇場での芝居に心魅(ひ)かれていた最中、この劇団の稽古を観て、不遜な言辞を垂れたようで、いつも静かな牛島さんにこっぴどく叱られたことを憶えている。3年半を寝食を共にし、卒業してからの10年間も熱い交流をしたが、叱られたのはこの1回だけだ。

劇団の創立当初のことは、話を聞かされる程度だけれど、付き合いの40余年、代表の入江洋祐さんはいっつも飄々と、劇団員の入れ替わりはあったけれど、見た目には何ら変わっていない。経営的には、大変だった時期もあったようだが、それは何もこの劇団に限ったことではない。
この程度の小劇団でこれほどの劇場を自前で確保しているのは、余り例がないのですよ、と入江さんによく言われていたが、その通りだ。その入江さんから半年前にこの芝居の概要を聞かされていたが、自らも重要なキャストに入っていることは言わなかった。

屠畜場と聞けば、やはり、そこで働く労働者は部落出身者が多かったことを、子供のころから聞かされていた。私の田舎では、これらの人々のことを、5本の指の1本を折って4本の指を掲げ、ヨッツと言っていた。ヨッツ(4つ)とは、部落出身者を指す差別的蔑称だ。

遅れて到着したので、入場するまでに話しかけたのは劇団関係者では太田さんだけだった。今日は芝居に人を取られて受付が人手不足なんですよと笑っていた。芝居が進んでも、代表者の一人である志賀さんは家賃の集金を迫る強欲な家主役をこなしていたが、もう一人の代表者の入江さんがいつまでも舞台に姿を現さない。帰りに息子さんの龍太から、親父はスナイダー役を演じる予定だったが、病気で降板したと知らされた。この役、重要な役回り、入江演じるスナイダーを観たかった。


一緒に行った友人は、芝居の箇所箇所で文字を映写して芝居の内容を補充するような演出方法が気にくわぬと言っていた。若い演出家にはありがちなやり方らしいが、俳優さんの台詞の能力を全然信用していない証左だと。それにしても、アコーディオン奏者は上手かったとべた褒めしていた。私には、友人が言うことの半分も理解できなかった。

それにしても、台詞の多い芝居だった。俳優さんは大量の言葉をよく憶えられるもんだと感心させられた。できたら、もう少し少ない台詞でゆっくり話してくれると有難かったのだが、これは当方の勝手な望みですから、余り気にしないでくださいナ。頭の回転が遅い私は、日常の会話でさえ、早口で話されると理解が追い付かないのだ。


この作品は、ブレヒトが共産党に入った1930年頃のものだが、1929年にニューヨーク・ウォール街の株価大暴落を契機に世界大恐慌が始まった。この時代のシカゴの屠畜場を舞台に、家畜の売買にかかわる牛肉王、仲買人、食肉業者に家畜業者、問屋たち、そして労働者に麦わら隊の人々。そこで、聖ヨハンナは猪突猛進、「なぜなぜ、どうして?」と誰にも問いかけ、「人はなんのために生きるのか?」と問う。

演出した小森明子さんは、芝居の終幕、事業家たちは死んだヨハンナを祀り上げ神格化する。慈善や社会貢献と銘打って、宗教を金の支配のもとに置き、「貧しき者の慰め手」を用意することで、人々の不満を吸収させようとする。権力はいつでもストーリーをでっち上げ、ドラマの中に人々を迷い込ませる、とパンフレットの中で述べている。
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芝居の内容は、下のネットで見つけた「火花」を無断でお借りした。この文章を読んでもらえれば、芝居の全体は理解してもらえると思う。

ブレヒト■「屠殺場の聖ヨハンナ」
革命的共産主義を擁護……共産党は当時まだ革命的だった
1983年5月29日「火花」第591号

 
 ブレヒトは、世界第一次世界大戦中、わずかな期間陸軍病院に勤務した後、階級闘争、政治闘争に参加した。1924年ごろ(26歳)マルクス主義の研究にうちこみ、ナチスの擡頭とともに30年には共産党に入党、資本主義を暴露し、ナチズムを諷刺し、革命闘争を讃美する作品を数多く残している。

 「屠殺場の聖ヨハンナ」はブレヒトの入党のころの戯曲だ。シカゴの屠殺場街をバックに、教会の救世軍の“戦士”であるヨハナの貧民に対する“救済活動”と労働者に接しての動揺と労働者の味方に徹しきれなかったが故の破滅までの何日かを描いている。

 資本家(製肉業者間)の競争や陰謀、ストライキ、かん詰工業の実体(労働者があやまってボイラーの中に落ちてベーコンになってしまった等々)、シカゴの屠殺場街の貧困のなかで、ヨハンナは宗教的な“人間愛”にかられて労働者の援助におもむく。


彼女の出発点は、「わたしは神さまに仕える兵士なのです。……不平がたかまって暴力行為の危機が迫るところに進軍し、忘れられている神を思い起こさせ、すベての人の心に神をとりもどさせるのです」といった、資本主義の現実を知らないが故の無邪気なものである。

 しかし彼女は労働者との接触の中で、又、競争の下で相手をけおとしてますます肥え太る大資本家のモーラー、しかも自分のこの行為を“善意”や“道徳的” な仮面でごまかすモーラーとのやりとりの中で、自分の行動が客観的には大資本家とその搾取を助けているのではないかと気づきはじめ、労働者への理解と同情が生れる。


 「みなさん貧乏人たちは十分に道徳というものを持たないとよく聞かされます、それはそうかもしれません。あの下層階級のスラム街には、不道徳が巣くい革命の温床となっています。でもわたしはみなさんにおききしたいのです。その貧乏人がなにひとつ持っていないのにどうして道徳だけが持てるのですか。……みなさん、道徳を買う購買力というものがあるです」。

 かくして彼女は労働者のストライキの渦中にとびこむが彼女の思想的な(もしくは階級的な)弱さ故に重大な任務の遂行をためらってしまい、ゼネストの崩壊に手を貸す結果となり、彼女は挫折して死を迎える。

しかし死に臨んで彼女は、「善人として一生を送ってこの世を去ることなんか心配せずに/世を去っていくときまでに、世界のほうがいまとちがった/善なる世界になっているように、心がけるべきです!」と訴え、「暴力が支配しているところでは暴力だけが助けになる/人間がいるところでは、人間だけが救いです」と叫ぶが、救世軍のコーラスの声でかき消され、彼女は聖女にまつりあげられて結果としては資本家を助けて死んでいく。

 ブレヒトはこの作品で、資本主義の残酷な現実、労働者の抑圧と搾取と悲惨な状態、宗教や道徳の名による労働者欺瞞と共に、結果として資本主義を助ける改良主義や修正主義の不毛さ、そして革命的共産主義の正当性を強調しているのであり、まさにこの作品は世界の共産党がまだある意味で革命的だった時代の反映である、といえよう。