2014年4月26日土曜日

日本サッカーの日本語化

各種のスポーツ競技を率いる監督やコーチが、指導する際に選手に向かって使う言葉で、監督の意図が大体読み取れる。監督が求めるチーム作りや試合の采配に対する考え方もよく解る。試合会場に足を運ぶ機会の少ない私にとって、日経新聞の武智幸徳さんが興味ある記事を18日の朝刊で提供してくれた。

私は30余年前に、地元の自治会が作った子供サッカーの指導にかかわった。そのときに、子供に対する言葉の使い方の難しさを体験した。ジャンルは異なるが、優れた芸術作品を前にして、人は言葉を失うことがある。作品に圧倒され、感じたことを何と表現したらいいのか分からない。それとは逆に、的を得ぬ饒舌ほど耳に不愉快なものはない。作家の金井美恵子さんは自らの文章に対して、何が嫌かって、間の抜けた文章で評されるほど嫌なことはないと何かで言っていた。日常でも、人生の大先輩や功成(こうな)り名を遂げた人に、語りかける言葉選びの難しいことを、誰もが経験する。

なのに、子供の試合を観戦に来た父兄のなかに困った奴が時々いる。未熟ながらも健気な子供たちのプレーに、なんとも耐え難い発言を何気にする奴らが、いることが悩みの一つでもあった。奴らに向かって、何度、私が怒り狂ったことか。

決定的にいただけないのが、「何をやっているんだ」だった。こんな破廉恥な言葉を口にする馬鹿タレは、スポーツを、まして子供のプレーなど観戦する資格はない。いいか、憶えておけ、二度と俺の前でこのような発言をしたら、退場してもらう、家に帰ってビール飲んで屁でもこいて寝てろう! だ。このような発言を繰り出す奴は、必ず自分の子供から将来手ひどい復讐を受けることになる、間違いなしだ。

したり顔で、「何をやっているんだ」なんて、これほどスポーツの神髄からほど遠い言葉はない。私には絶対許せない言葉だった。

新聞記事にある言葉についての内容とは大いに異なるけれど、私の積年の思いを吐露させてもらった。

 

20140418 日経・朝刊/スポーツ

アナザービュー・武智幸徳

2016年リオデジャネイロ五輪を目指す21歳以下日本代表の手倉森誠監督(46)は、ちょっと変わった言語感覚の持ち主である。滑ることをまったく恐れない。駄じゃれ好きはつとに知られた話で聞き手をしばしば困惑させるが、サッカー指導で繰り出す言葉の力はかなりいい線いっている気がするのである。

例えば、くさびのパスを受けたFWをサポートする選手に対して発する「潜れ!」。単純に「サポートに入れ」というより隠密行動の匂いがするし、ボールを受けたらゲインラインを必ず突破せよ、という推進力の強調も同時に感じられる。

聞く度にどこか痛い気がする「ボールを握れ」もただの「ポセッション」より迫力がある。手倉森の後、仙台の指揮を執り先日解任されたアーノルド監督は「キープ・ザ・ボールと教えたらしい。それより”握れ!”の方が感じが出るでしょ」と手倉森監督。確かに「死んでも渡すな」というニュアンスはこちらの方が伝わる気がする。

明治維新を境に標準語がまず軍隊で必要になったように、日本サッカーも1990年代半ばから用語の統一と普及に熱心だった。「ターン(turn=フリーだ。前を向け)」や「マノン(man on=気をつけろ。後ろから来てるぞ)」といった外来語がそうである。

日本中のコーチと選手がそうした共通語を使うようになると、地方から代表合宿に参加しても、代表コーチが使う言葉の意味が分からない、というようなことはなくなった。共通語として全国に拡散すれば、地域ごとの指導のばらつきもやがてなくなる。そんな狙いもあったのだろう。

それはそれで意味のあることだったが、「潜る」「握る」など日本人の身体感覚でサッカーを捉え直すかのような”手倉森語”を聞いていると、日本サッカーが次のステップに進むヒントが隠されているような気がしてくる。元日本代表監督のオシムさんは「日本サッカーを日本化する」という名言を残したけれど、その実現には「日本サッカーの日本語化」が必要なのではないか。

実際、「プル・アウェイ」なんかより、不世出のストライカー釜本邦茂さんの「ゴール前で1回消えたらいい」という言葉の方が、よほど含蓄と選手に考えさせる力があるように思う。