2017年5月25日木曜日

梅雨のはしり


今日(2017 5 25)の天気図(雨雲)をいくら見張っても、スッキリしない天気図だ。私の目は万巻鏡だ。

沖縄は雨、九州から近畿は回復傾向。東海、北陸と関東、東北も曇りや雨の一日になりそう。北海道は晴れ間があるが午後は、急な雨や雷雨になりそう。
上記の文章は、ネットを見て、朝のテレビでの天気予報を参考にして作ったものです。

テレビで、解説者がこのように梅雨を前にして天気が悪くなるなることを、『梅雨のはしり』と言われています、と言った。近頃、日々の生活に面白味の足りない私には、面白い言葉もあるものだ、と感心した。
お前、そんなことで、そんなに興奮するもんではないヨ。

じゃ!
「梅雨のはしり」って奴をもうちょっと知りたいと考えた。
はしりを走りと書いていいようなのだ。

5月下旬から、梅雨本番前ぶれのように雨が降り続く状態を言う。「走り」とは、「先駆け」を意味し、「梅雨の走り」とは、梅雨に先駆けて降り続く雨と解釈することもある。「走り梅雨」ともいう。
沖縄などの南西諸島が梅雨期にあり、南西諸島付近にある梅雨前線が一時的に本州南岸沿いに北上したときに多く見られる。

その他、メイストームなど、日本海や北日本方面を通過する発達した低気圧の後面に伸びる寒冷前線が本州を通過して、太平洋側に達した後、南海上の優勢な高気圧の北側に沿って、そのまま停滞前線と化して、太平洋側、主に東日本太平洋沿岸部でしばらくぐずつき天気が続くケースもその類いである。


メイストーム(和製英語)とはー。

4月後半から5月。
主に温帯低気圧の急速に発達による大風、暴風が吹く気象のこと。ヘルマン・ヘッセの「春の嵐」でこの言葉を知った。
今月の12日にブログにした「春の嵐」でのこと。

2017年5月12日金曜日

春の嵐


2017年のゴールデンウイーク、4月29日から5月5日まで、この1週間の読書にヘルマン・ヘッセの「春の嵐」を選んだ。原題は、主人公・クーンが想う女性「ゲルトルート」。
舞台は19世紀末のドイツ。
ヘッセ33歳の1910年に発表した。
商品の詳細

唐突にこのような本を話題に出すとは、青天白日? 雨後晴天?
語彙の使い違いか? ちょっと可笑しいか。
今の私、健康に恵まれているが、年老いた妻の母の面倒を観ることになって、外出することはできない。ならば、室内での贅沢にするかと決めた。
この「春の嵐」は高円寺駅南口の古本屋さんで、大学4年生の時に買った。
彼女のアパートからの往還は定かではない。現在の妻だ。今から46年程前。

大学時代はサッカー部。優秀な学生が集まってきた。
全国のサッカー有名校から、並み外れたサッカー餓鬼だ。
4年生、技術、体力に苦労はしていたけれど、やっとのことで、何とか試合に出してもらえるほど腕を上げていた。
そんな私の青春糞まみれ!時代だ。
粗筋の文章では、「春の嵐」/訳=高橋健二の中のものを随時大いに使わせもらった。

ちょっとした3年前の事故で脳に傷を負ってしまってから、何もかもいじけてしまった私なのだ。
それでも読書欲だけは、上手く理解できないけれど、しつこい。
高橋和巳を読み太宰治、坂口安吾、織田作之助、田中英光を読み、次に目をつけたのは、この「春の嵐」だった。

恋愛小説を読みたかった。
でも、文学をよく理解できなかったのだろう!! そんなに面白いとは思わなかった。
それよりも、小説を文学として良く読みきれていなかったのだろう。

ところで書名の「春の嵐」とは何じゃ、と思った。
これも、悔しいけれどネットで調べさせてもらった。
4月から5月にかけての時期、急速に暖かくなって過ごしやすくなった頃、冷たい空気と暖かい空気がぶつかりあって、巨大な低気圧を発生させることがある。
この際に台風並みの強風や暴風が発生する。
これらの気候の状態のことだそうだ。


★粗筋
避けがたい身の上、苦しい運命に自覚をもって、よいことも悪いことも十分味わいつくし、偶然的なこともあるだろうが、思わぬ運命を獲得することがある。
このようなことが、人生に対して、貧しくも悪くもなかった。
これこそが、人生なのだ。

頭章では、クーンの回想からはじめられるこの物語は、彼が左足の複雑骨折とたたかいながら、自分の芸術と人生をいかにして可能にしていったか、その過程である。

クーンは、6、7歳のころから「目に見えぬ力のうちに、音楽によって最も強くとらえられ、支配されるように生まれついていることを知った」。
学校を終えて音楽学校に学んだ。
ところがどうしたことか音楽に身が入らない。
最終学年に、好きな女友だちにそそのかされた彼は、急な斜面を橇(そり)で落下し、木に激突、左足を骨折したのだ。結果、足はビッコを引きながらでないと歩けない。

本では、一生「かけることも踊ることも」できない障害を負うことになり、それからが自分の「内的な本来の運命」とある。

学校に復帰した彼は、彼の音楽を強く支持するオペラの名歌手・ムオトの知遇を受け、1年後、彼はムオトの推薦によりR市の歌劇団にバイオリニストの職を得る。
彼はムオトとの交流のなかで、少しずつ創作をすすめ、音楽家として世に認められるようになる。
作曲家としてだ。

何よりも音楽愛好家の娘、ゲルトルートとの出会いによって、彼は「春の嵐」を経験し、愛と仕事、音楽と生活のるつぼで身を焼きながら、オペラの作曲をすすめる。
ところが、そのゲルトルートは、彼の兄貴分のムオトと結ばれることになり、絶望した彼はついに自殺を決意する。

ところがその実行の日「チチキトク ハハ」の電報によって、彼の自殺は未遂に終わる。彼は運命に大きくゆさぶられながらも、作曲家として世に認められ、物語は、後年、未亡人となったゲルトルートと、友情をあたためあい、歌やソナタを作曲していく日々を描いて、静かに幕となる。

ヘルマン・ヘッセは、作品のなかで弱者・障害者などに対し、つねにあたたかい目を注ぎ、作品を書いている。

音楽家をこころざすクーンは、すでに20歳をこえている。
不慮の事故のために、彼は長い療養生活を経験する。
彼はそれを、自分は青春をむざんに切断され、見るかげもなくされてしまったが、これは自然が自分にとって必要な「休息をとらせた」のだと悟っていく。

自分は「音楽をやること」以外には生きる道のないことを自覚する。こうして彼は「不具となった足もたいしたことではないとさえ思えるまでに回復していく。

しかし、彼は以後、事あるごとに自分の肢体障害に心乱される。
療養生活を終えて故郷に帰った時もそうだった。彼は再び外出もできず、憂うつのなかに落ちこんでいく。

それをいやしたのは「ひとり旅」であり、「自然」だ。
彼は「静かな貧しい村のたった1軒の小さい宿屋」に泊り、孤独のなかで親しく自然に触れ、憩う。
高地での数週間は一生のもっとも美しかった時だったと思いだす。

音楽家として世に出た彼は、その評価についても素直に喜べない。
それは社会が、自分をいたわり、自分にあんなに親切にしてくれるのは、自分が哀れな身障者であるからだ、と思った。

それでも、クーンは、障害に負けた生き方をできなかった。
彼はやがて自分の障害を運命として引き受け、そこから新しい人生を切り開いた。

この本の結末の文章に、「われわれ人間の中には、親切と理性が存在する」し、「私たちはたとえ短いあいだだけであるにせよ、自然や運命より強くありうるのだ」だから「私たちは必要なときには、たがいに近より、たがいに理解する目を見合い、たがいに愛したり、たがいに慰めあって生きることができるのである」とあった。
ヘルマン・ヘッセの強い決意が表現されている。

クーンが芸術家であると同時に、障害を負っていたからこそできたのだ、と、ヘッセは言いたかったのではないでしょうか。

2017年5月7日日曜日

次の高橋和巳は、「邪宗門」だ

この本から、やっぱり、私は身を引き下げれない?
脳髄から抜け切らないのは、高橋和巳作品集のなかでも「邪宗門」だ。

再読、その後、感想を述べないわけにはイカナイ。学生時代を終え、それから10年、大いにこの作家に影響を受けた。
1971年、39歳で早逝した高橋和巳はこの小説を「朝日ジャーナル」に連載した。
私の学生時代、大学3年か4年生だった。

1984年(昭和59年)の「オウムの会」から、2000年(平成12年)に破産するまで、世間の関心がオウム真理教に大いに寄せていた。このオウムとは全然関係なく、私の頭脳構造は苦悩教の始祖・高橋和巳の「邪宗門」に傾いていた。
まさか、このオウム真理教の開祖・麻原彰晃はこの邪宗門を夢にでも見ていたのだろうか。
そんなことは、ないだろう。

「邪宗門」が、新興宗教団体を題材としていたから取り上げたのだろうか。
この小説では、最終的にオウム真理教のようにテロを思わせるような展開になる。
オウム真理教はテロでも、邪宗門は決してテロではない。

オウム真理教と関連したように引き合いに出されたのは、「邪宗門」にとって不幸であった。勝手な者が、身勝手に発想しただけのことだ。
著者である高橋和巳は、後で記す大本教を手本にしたことは事実だ。
オウム真理教と「邪宗門」の関係することは、この程度にして、これ以上話すことも書くこともない。高橋和巳さんにとって、面白くも可笑しくもない話だ。
繰り返すが、「邪宗門」はオウム真理教のような狂気な集団でない。
むしろ、大本教を模した宗教物語のようだ。ちなみに、大本教とは反差別思想や平和主義を掲げる教派神道系の教団だ。

誤解されやすい題名が誤解を招く結果になったのかもしれないが、信仰や宗教にこれほど真摯に取り組んだ文学作品はほかにはない。私にとっても、不思議な文学だった。

高橋和巳が存命ならば、オウム真理教と並べて自作が語られることに毅然とした態度で反論したはずだ。

昭和6年、母を失くし「ひのもと救霊会」を訪ねた少年、千葉 潔は教団に救われた。やがて時代は戦争へと向かって、教団は徹底的に弾圧を受け、教主は投獄される。
それから、分派、転向、独立、壊滅へ向かう教団の運命はいかに?
上記の内容が、この物語の極めて大まかな粗筋だ。


★もう少しまめな粗筋をネット記事より拝借した。

ひのもと救霊会」は、国家権力からの圧力を受け、教団の本拠地である神部(かんべ)の村の神殿を破壊される。

太平洋戦争勃発以降虐げられ続けた教団は、敗戦とともに勢力を取り戻すが、再び弾圧的となり、ついには権力との対決を選ぶ。
この本の最後には、神部を自治解放区に変え、国家からの独立宣言をなした。

小説は大きく戦前、戦中、戦後を時系列に描く三部構成をとっており、教団に関わる数多くの人物が登場する。

高橋和巳の視点は、どの人物にも丁寧に照射されており、壮大な群像劇とも言える。
そして、その中心には常に教主が置かれている。
二代教主は、
開祖・まさとともに「ひのもと救霊会」を立ち上げた行徳仁二郎である。

裁判にかけられ、投獄されても、仁二郎は教団の精神的支柱であった。

仁二郎は、特別に高邁な理論を並べるだけではなく、ただひたすら、日本に土着した人々の普通の考え方、来し方を説くのみだ。
先祖代々の土地を守ろう、そこで一生懸命に働こうと言う教主の言葉は、読者の我々にもしみじみと伝わってくる。
本書より、、、、、、、、
神とは何か。
それは祖霊、すなわち先人たちのなさんとして果たさざりし心の結晶であります。
それゆえに私どもは、その神の意を体し、神の意を受けて、この土地に神の国を築かねばなりません。
それが先祖の業績、その富の文化をうけて生活する子孫の義務であります。

刑務所の独房に閉じ込められ、ついには出所できないままに果てるのであるが、そんな極限の環境下でも仁二郎は、周囲に圧倒的な影響力を持ち続ける。
特に説教をするわけでもないし、獄中の囚人には発言どころか仰臥する自由さえ与えられていない。
それでも、長年にわたって仁二郎と接触する人々は、いつのまにかその人物の大きさの前に自然とこうべを垂れるようになるのだ


その一方で、高橋和巳は、信者たちに太陽のような存在として崇められるだけの人物を描くわけではない。
教主の姿は仁二郎が意識して作り上げたものであり、その裏側には同時にまた、別の仁二郎がいることをも、冷酷に暴いていく。

幹部の誰かが警察の訊問に屈して開祖まさのお筆先を否定した、という噂が流れる。
ところでこの「お筆先」の意味をネットで調べた。
お筆先とは、神のお告げ。
特に天理教や大本教で教祖が神のお告げを書き記したという文書だそうだ。

仮釈放された仁二郎は、彼が不在の間、妻の八重が教主代理を務めてなんとかやりくりしていた神部の教殿に戻る。
自室に籠ると、仁二郎は妻の八重の前にひれ伏して、慟哭する。

拷問の末、開祖の教義を曲げたのは、ほかならぬ仁二郎であった。
真の宗教家らしくあり、またひとりの人間としての弱さをあわせ持つ仁二郎は、死に際に教団の将来を示唆する遺言を残す。
遺言を引き継いだ者は二人いて、それぞれが受け取った言葉は、正反対のものだった。

長老の松葉幸太郎には、怨みや怒りは持たず何もなかったようにして自分たちの信じる道を歩めという寛恕の言葉が伝えられる。
かたや、青年部の足利正が臨終の枕元で筆記したという文章は、権力を呪詛し、凌辱のはずかしめをあたえよという内容だった。

仁二郎の二面性がそのままふたつの遺書として残ったとき、教団の人々もまた、当たり前のようにしてどちらも正式な遺書として受けとめる。
二者択一はせず、矛盾したものとして非難もしない。
人は必ずしも一貫した精密さで、ひとつの考え方を保ち続けるわけではない。
ましてや、長年の独房生活の末に獄死を覚悟した人の遺言なのである。
未来志向の展望も、度重なる弾圧への私怨もあって当然。
この教主と信者の関係性の幅の広さと信頼の奥深さが、「ひのもと救霊会」の宗教団体としての純粋さをリアルに表現している。
仁二郎が死んだあと三代教主の座につくのは、
千葉潔である。

物語の冒頭に神部の村はずれで、行き倒れているところを老婆堀江駒に救われた少年が、成人となって教団のトップに昇りつめる。
読み取り方によっては、「邪宗門」は千葉 潔の成長物語でもある。

千葉 潔は、東北の貧しい農家の出身。
父親が早くに行方不明で稼ぎがなくなり、母親と二人で放浪しながら乞食生活を送る。
ついに餓死寸前のところ、母親から私の肉を食べて生きのびろと言い渡される。
死んだ母親を食らって生きながらえることの因業。
幼くして孤児となった千葉 潔には既に暗く哀しい将来しかなかったのだ。

千葉少年を引き取って育てることになった堀江 駒の一家は、その過去は知らない。
千葉 潔は素直な働き手とはなっても、誰とも語り合わず交流もせず、ひたすら孤独に神部の村で暮らし始める。

不幸な生い立ちではあるものの、千葉 潔は明晰な頭脳を持ち、他人を惹きつける雰囲気を備えていた。
教団の中で少しずつその存在が馴染んだところで、教団最高顧問加地基博は千葉少年にこう言い渡す。
年端もいかぬ年齢でお前がどういう経験をしてきたか、どういう運命の下にあるか、言わいでも解る。
お前自身もそれは知っていよう。お前は人を愛してはいけない。
この世のすべてが空であるその空に身を寄せて、生涯を孤独に送りなさい。

最高顧問の忠告通り、いちどは千葉 潔は教団から離れるが、戦争が終わって南方の島から復員すると、神部の村に戻ってきてしまう。
そして、再び教団に対する弾圧が始まると、望まざる形式のもとで三代教主になってしまう。

参謀役として信者を細胞化させ全国に広めることに成功した千葉 潔は、教主になると、抜群の記憶力をベースに次々と通達を繰り出す。
混乱する教団を理論で導き、組織人事を固め、ひそかに武装化を進める。
  
しかし、怜悧な戦略家ではあっても、彼は所詮、宗教家ではないのだ。
ただ千葉 潔の場合はそうではなかったのだ。

もし一切の宗教が自らに生命を与え、外気に触れながらもただ泣きわめくことしか知らぬ自分を育ててくれた者への感謝、そして今ひとつ死すべき存在としての人間の死の恐怖に発するものなのなら、彼にはまさしくその宗教的感情の基礎が欠けていたのだ。

結局、教団は予期せぬ事故をきっかけとして、千葉 潔が準備していた武器弾薬を使用することになる。
すなわち、神部を自治解放区に変え、国家からの独立を宣言したのだ。

当然のことであるが、戦後すぐの日本の支配者はGHQ、アメリカ占領軍であり、ちっぽけな一地域の武装蜂起などすぐさま鎮圧してしまい、教団の存在もろともなかったことにされてしまう。

信者と神部の土地を失った千葉 潔は、開祖まさのお筆先の通り、餓死の道を選ぶ。それは、母親の肉で飢えをしのいだ彼にとって、宿命づけられた死に方だった。
そして「お前は人を愛してはいけない」という最高顧問の言葉は、忠告ではなく千葉 潔の運命を予言したものであったのだ。
三代教主千葉 潔を同時に愛する二人の女性は、ともに二代教主仁二郎の娘でもある。

姉の阿礼は、気高く傲慢な精神と豊満な肉体を持ち、千葉 潔を小間使いとしてこき使う。いじめることが他の誰よりも愛することなのだとは、本人さえもわかっていない。

かたや、妹の阿貴は、小児麻痺から片足が不自由となり、幼くして堀江駒の家に預けられた。
自然の成り行きとして、駒が拾ってきた千葉少年が阿貴の面倒をみることとなり、無口な阿貴は千葉にだけはなつくようになる。

その千葉 潔が教団を去る場面。汽車を見送って、歩くこともままならない阿貴が走り出す描写は、ドストエフスキーの『虐げられた人々』のネリーを彷彿とさせる。


この二人の女性、阿礼と阿貴は、その立場を逆転するようにして、父であり教主である仁二郎不在の教団を支えることになる。

阿礼は、教主代理として自分を捨てて戦中の教団を支える。
ついには物資の調達に行き詰まった教団の困窮を救うため、救霊会から分離独立してファシスト集団化した皇国救世軍の子息のもとに嫁ぐ。

一方で、阿貴は、父の死と姉の嫁入りの後、教団の継主、すなわち次の教主を指名する権限を持つ最高責任者にすえられてしまう。

戦争が終わり、右翼団体から出戻りした阿礼は、妹の阿貴にかしずく立場となる。
昼間から酒を浴び自暴自棄になった阿礼は、復員した千葉 潔が神部に戻ってくると、阿貴になりすまし、偽の手紙を書いて千葉を三代教主に指名してしまうのである。

ただ遠くから千葉に思慕の念を抱き続ける阿貴と自分付きの下男として千葉を直接的に使い倒してきた阿礼。
どちらが男と女の関係に行きつくかは明白だ。
阿礼は三高生となって成長した千葉 潔と契りを結び、教団が占領軍の手により滅ぼされる直前にも再び千葉と閨を共にする。
誇り高い阿礼と虚無的な千葉の交わりは、具体性の乏しい、極めて詩的な表現で描かれている。

原本より。
すべてが完全な沈黙の中に行われた。
寒々した部屋。
彼女の健康を気づかう人々もさすがに疲れて寝静まった夜半。ただ月のわずかな青さだけが流れこむ部屋に、二人は向い合い、そして阿礼は長襦袢の襟をはだけて横たわった。
雨が降っていたのだろうか。
ぽとぽとと雨だれの音がする。
いや、それは枯葉が庭に散る音だったろうか。
人影は動かず、もの言わず、じっと彼女を見おろしている。

2017年5月5日金曜日

朝日新聞 社説その3

「第2の政治改革」構想を

政治システムとは機械仕掛けの時計のようなものだろう。

優れた全体設計が求められ、繊細なバランスの上で歯車やバネが役割を果たさなければ、針は狂い、故障してしまう。

「安部1強」の下で、日本の政治システムの歯車が狂いつつあるのではないか。不自然な国有地払い下げに端を発した森友学園の問題を見るにつけ、そう感じざるをえない。

首相への権力集中

安部首相は本人も妻昭恵氏も関与していないと繰り返す。政府は事実究明に後ろ向きだ。

一方、政府の監視役であるべき国会は、国権の最高機関としての役割を果たせないでいる。

野党は国政調査権の発動を求めるが、与党の反対で実現しない。財務省資料の国会提出は宙に浮いたままだ。

政府・与党を掌握する首相への権力集中という政治状況が問題を解明しようとする歯車の動きを止めているのだ。

首相の1強は、1980年代末から進められてきた「政治改革」の帰結ともとれる。

金権政治への国民の怒りを受けた一連の政治改革は、自民党一党支配を元凶と見立て、政権交代可能な政治をめざした。

勝敗をより際立たせ強い政権をつくるため衆院に小選挙区制を導入。政党助成金制度で、政治家個人や派閥より政党に政治資金が集まるようにした。

その後も省庁再編、国家安全保障会議や内閣人事局の設置など、歴代政権がバトンをつなぎながら「政治主導」「首相官邸機能の強化」を追求した。

人事権、公認権、カネ、情報ーーー。権力の源泉が首相に集中する一方で、国会による監視機能は相対的に低下した。

確かに、小選挙区制は政権交代をもたらした。政治とカネの大きな疑惑も減った。

だが、政権交代を繰り返すことで、権力チェックの機能が強まる。そんな好循環は旧民主党政権の挫折によっておぼつかなくなっている。

抑制と均衡の回復を

政治改革の成果は生かしながらも、行き過ぎた権力の集中がないかを検証し、統治機構のバランスを回復するメンテナンスが必要だ。

立法府と行政府の間に抑制と均衡の緊張関係を取り戻す。そのための「第2の政治改革」と言ってもいい。

例えば森友学園問題で俎上にのぼった国政調査権。ドイツでは行使の権利を議会の少数派に与えている。同様の制度を日本でも導入できないか。

憲法に書き込む方法もあろうが、国会法などの改正で実現することもできる。

「強すぎる首相」の一因である、首相の衆院解散権を抑制すべきだという指摘もある。

衆院憲法審査会では「解散理由を国会で審議するなど解散手続きを法律で定める方法と憲法を改正して解散の条件を明記する方法がある」という具体的な選択肢も議論された。

政治の歯車が狂うのは権力の集中によってだけではない。衆参の多数派が異なる「ねじれ」現象で国会が停滞し、「決められない政治」と批判を浴びた。再び衆参がねじれた場合に、国会がどのように合意形成をはかるのかという問題にも答えを出しておく必要がある。

三権の全体構想から

似通った選挙制度と権限をもつ衆院と参院という二院制の役割分担をどう整理するかは、政治改革で積み残された大きなテーマでもある。

衆院のコピーではなく、参院独自の果たすべき役割とはなにか。「再考の府」か。それとも「地方の府」か。

憲法学者の大石眞・京大名誉教授はこう指摘する。

「衆参それぞれの役割をイメージしたうえで、選挙制度や権限はどんな組み合わせがよいのかという統治機構全体を構想する議論を始めるべきだ」

まずは司法を含む三権全体のあり方を点検する議論から始めたうえで、今の不具合は国会の規則や慣例の変更で対応できるのか。国会法、公職選挙法、内閣法など「憲法付属法」の改正が必要なのか。統治機構の基本枠組みを定めた憲法の改正が避けられないのかーー。

そうした整理を進めることこそ、あるべき道筋だろう。

自民党からは「衆院選の合区解消」「緊急時の国会議員の任期延長」など統治機構の一部をとらえた改憲論も上がる。手を付けやすいテーマでとにかく改憲をという思惑が透ける。

求められるのは、このような改憲ありきの局所的な手直しではないことは明らかだ。

日本国憲法は施行から70年の時を刻んだ。自由や人権、平和主義といった憲法の核心といえる理念を守り、次の世代に引き継いでいくには、健全な政治システムが必須となる。

その針と歯車は狂いなくしっかり動いているか。主権者である国民一人ひとりが絶えず目を光らせる努力が欠かせない。

2017年5月4日木曜日

5月4日の天声人語


天声人語

日本国憲法のもとになったのは連合国軍総司令部(GHQ)がつくった英語の草案である。外相の側近だった白洲次郎が、翻訳の過程を回顧している。天皇の地位を定める英文の表記をめぐって、外務省の担当者が疑問の声をあげた。「シンボルって何というのや」。

白洲はそこにあった英和辞典を引き、この字引には「象徴」と書いてある、と言ったという(『プリンシプルのない日本』』。天皇主権の時代を生きてきた人びとの戸惑いが伝わってくる。

出自にかかわらず平等を旨とする民主主義と、世襲の君主制。本来ならば相いれない二つを結びつけたのが、象徴という言葉であった。しかし、「象徴とは何か』について私たちはどれほど考えてきただろうか。

象徴のありようをずっと模索してきたのが、天皇陛下であった。そのあらわれが被災地への訪問であり、病に苦しむ人たちとの対面なのだろう。太平洋戦争の激戦地への慰霊の旅は、大きな犠牲の上に今の平和が築かれていることを思い起こさせてくれた。

もしかしたら、そんな姿に甘えていたのかもしれない。先日の紙面にあった渡辺治・一橋大名誉教授の言葉にほっとした。「将来、別の天皇が、慰霊の旅として、国民の間で様々な意見がある靖国神社や全国の護国神社を回るとしたらどうでしょう」。

退位のあり方にとどまらない議論が必要なのだろう。主権を手にした私たちにとって、象徴とはどうあるべきか。施行されて70年の節目に、問いかけられている。






憲法70年 朝日社説その2

9条の理想を使いこなす

戦後70年余、平和国家として歩んできた日本が、大きな岐路に立たされている。

台頭する隣国・中国と内向きになる同盟国・米国。北朝鮮の核・ミサイルによる軍事的挑発はやまない。

日本は自らをどう守りアジア太平洋地域の平和と安定のために役割を果たしていくか。

答えに迷うことはない。

憲法9条を堅持し、先の大戦の反省を踏まえた戦後の平和国家の歩みを不変の土台として、国際協調の担い手として生きていくべきだ。

平和主義を次世代へ

安部首相はきのう、憲法改正を求める集会にビデオメッセージを寄せ、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と語った。

首相は改正項目として9条を挙げ、「1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込むという考え方は国民的な議論に値する」と語った。

自衛隊は国民の間で定着し、幅広い支持を得ている。政府解釈で一貫して認められてきた存在を条文に書き込むだけなら、改憲に政治的エネルギーを費やすことにどれほどの意味があるのか。

安部政権は安全保障関連法のために、憲法解釈を一方的に変え、歴代内閣が違憲としてきた集団的自衛権の行使容認に踏み込んだ。自衛隊を明記することで条文上も行使容認を追認する意図があるのではないか。

9条を改める必要はない。

戦後日本の平和主義を支えてきた9条を、変えることなく次の世代に伝える意識の方がはるかに大きい。

専守防衛の堅持を

日本防衛のため一定の抑止力は必要だが、それだけで平和と安定が築けるわけではない。

米国が北朝鮮に軍事攻撃を仕掛ければ、反撃を受けるのは日本や韓国であり、ともに壊滅的な被害を受ける可能性がある。日米韓に中国、ロシアを巻き込んだ多国間の対話と、粘り強い外交交渉によって軟着陸をはかるしかない。

そこで地域の強調に力を尽くすことが日本の役割だ。そのためにも、専守防衛を揺るがしてはならない。

自衛隊はあくまで防衛に徹する「盾」となり、強力な打撃力を持つ米国が「矛」の役割を果たす。この役割分担こそ、9条を生かす政治の知恵だ。

時に単独行動に走ろうとする米国と適切な距離を保ち、強調を促すため、日本が9条を持つ意義は大きい。

中国や韓国との関係を考えるときにも、他国を攻撃することはないという日本の意思が基礎になる。侵略と植民地支配の過去を持つ日本は、その歴史から逃れられない。

一方で今年は国連平和維持活動(pko)協力法制定から25年の節目でもある。

pkoを含め海外に派遣された自衛隊は、一発の銃弾も撃っていない。一人も殺さず、一人も殺されていない。

9条が自衛隊の海外での武力行使に歯止めをかけてきたことの効用だ。その結果、中東などで賠われた日本の平和ブランを大事にしたい。

紛争の起きた国の再建を手伝う「平和構築」は憲法前文の精神に沿う。日本も「地球貢献国家」として、自衛隊が参加できるpko任務の幅を広げたい。朝日新聞は憲法施行60年の社説で、そう主張した。

同時に、忘れてならない原則がある。自衛隊の活動は、あくまで9条の枠内で行われることだ。それを担保するpko参加5原則を緩めてまで、自衛隊派遣を優先してはならない。

日本の「骨格」を保つ

pkoは近年、住民保護のために積極的に武力を使う方向に「変質」している。そこに自衛隊を送れば実質的に紛争に関与する恐れが強まる。

pko以外にも視野を広げれば、災害支援や難民対策、感染症対策など日本にふさわしい非軍事の貢献策は多い。こうした人間の安全保障の観点から、日本ができる支援を着実に実行することが、長い目でみれば日本への信頼を育てる。

安全保障の文脈にとどまらない。戦前の軍国主義の体制ときっぱり決別し、個人の自由と人権が尊重される社会を支えてきたのも、9条だった。

これを改めれば、歴史的にも社会的にも、戦後日本はその「骨格」を失う。戦前の歴史への反省を否定する負のメッセージと国際社会から受け取られかねない。その損失はあまりにも大きい。

軍事に偏らず、米国一辺倒に陥らず、主体的にアジア外交を展開する。国際協調の担い手として、常に冷静な判断を世界に示す。そんなバランスのとれた日本の未来図を描きたい。

9条は日本の資産である。

そこに込められた理想を、現実のなかで十分に使いこなす道こそ、日本の平和と社会の安定を確かなものにする。




2017年5月3日水曜日

憲法70年 朝日社説その1

本日、2017 5月3日(水)は、今の憲法が作られてから、70年経つ。
何だカンだと、改正が必要だとか加えるべきだとか、改正の必要ないとか、世を賑わしている。
これからは、今日の朝日新聞の社説をそのまま転載させてもらう。
一考か?それとも一顧か?

社説/憲法70年 
①この歴史への自負を失うまい

1947年5月3日、『新しい憲法 明るい生活』と題する小冊子が発行された。政府肝煎りの憲法普及会が作り、2千万部を全国の家庭に配った。

後の首相、芦田均による発行の言葉が高らかだ。「古い日本は影をひそめて、新しい日本が誕生した」。本文は、新時代を生きる国民に「頭の切りかえ」を求めている。

施行から70年。憲法は国民の間に定着したかに見える。それでは為政者の頭はしっかり切りかわったか。残念ながら、答えは否である。

先月行われた施行記念式典で、安部首相は70年の歩みへの「静かな誇り」を語った。憲法の「普遍的価値」を心に刻む、とも述べた。
額面通りには受け取れない。首相自身の言葉の数々が、その本音を雄弁に語る。

「今こそ、憲法改正を含め、戦後体制の鎖を断ち切らなければなりません」

あるいはまた、自民党の選挙スローガン「日本を、取り戻す。」について、「これは戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す戦いであります」。

静かに誇るどころか、戦後の「新しい日本」を否定するような志向が浮ぶ。一時は沈静化したかに見えた」押しつけ憲法」論が、色濃く影を落とす。

そのような安部政権の下で、憲法は今、深く傷つけられている。かってない危機にあると言わざるをえない。

集団的自衛権は9条を変えない限り行使できないーーー。
この長年堅持されてきた憲法解釈を覆した決定に、「立憲主義の破壊」との批判がやまないのは当然だろう。

念入りに葬られたはずの教育勅語。その復権を黙認するかのような最近の動向も同様である。戦前の亡霊が、これだけの歳月をもってしても封じ込められていないことに暗然とする。

安部政権に欠けているのは、歴代内閣が営営と積み重ねてきた施政に対する謙虚さであり、さらに言えば、憲法そのものへの敬意ではないか。「憲法改正を国民に1回味わってもらう」という「お試し改憲」論に、憲法を粗略に扱う体質が極まっている。

国民主権、人権尊重、平和主義という現憲法の基本原理が役割を果たしたからこそ、日本は平和と繁栄を達成できた。ともかくも自由な社会を築いてきた。その歴史に対する自負を失うべきではない。

現憲法のどこに具体的で差し迫った不具合があるのか。改憲を語るなら、そこから地道に積み上げるのが本筋だ。

目下の憲法の危機の根底には、戦後日本の歩みを否定する思想がある。特異な歴史観には到底同調できないし、それに基づく危険な改憲への道は阻まなければならない。

『新しい憲法 明るい生活』は言う。「政府も、役人も、私たちによってかえることができる」。そして、「これからは政治の責任はすべて私たちみんながおう」とも。

70年前の言葉が、今まさに新鮮に響く。

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社説/憲法70年
②先人刻んだ立憲を次代へ

時代劇で江戸の長屋に住む八っつぁん熊さんが万歳三唱をしたら、脚本家は落第である。

あれは日本古来の振る舞いではないと、NHK大河ドラマなどの時代考証を手がける大森洋平さんが著書で書いている。1889年、明治憲法の発布を祝うために大学教授らが作り出した。ちゃぶ台も洗濯板も、明治になって登場した。

動作や品物だけではない。

西欧の思想や文化に出会った当時の知識人は、その内容を人々に伝えようと苦心し、新しく単語をつくったり、旧来の言葉に意味を加えたりした。いまでは、それらなくして世の中は成り立たないと言ってもいい。

消えた「個人」

個人、もその賜物の一つだ。

「すべて国民は、個人として尊重される」。日本国憲法第」13条は、そう定めている。

根底に流れるのは、憲法は一人ひとりの人権を守るために国家権力を縛るものである、という近代立憲主義の考えだ。

英文では〈as individuals(個人として)〉となっている。翻訳家の柴田元幸さんはここに、固有の権利を持つ人間というニュアンスを感じたという。もし〈as humans(人間として)〉だったら「単に動物ではないと言っているだけに聞こえます」。

ひとり、一身ノ身持 独一個人と〈individual〉の訳語に試行錯誤した福沢諭吉らがこの話を聞いたら、ひざを打ったに違いない。『文明論之概略』で福沢は、日本の歴史には「独一個人の気象」がないと嘆いていた。

個人の尊厳をふまえ、幸福を追い求める権利をうたいあげた13条の文言には、洋の東西を超えた先人たちの思いと労苦が息づいている。

ところが自民党は、5年前に公表した憲法改正草案で「個人」を「人」にしてしまった。

安部首相は昨年、言い換えに「さしたる意味はない」と国会で答弁した。しかし、草案つくりに携わった礒崎陽輔参院議員は、自身のホームページで、13条は「個人主義を助長してきた嫌いがある」と書いている。

和の精神と同調圧力

「個人という異様な思想」「個人という思想が家族観を破壊した」。首相を強く支持する一部の保守層から聞こえてくるのは、こんな声だ。

一方で、草案の前文には「和を尊び」という一節が加えられた。「和の精神は、聖徳太子以来の我が国の徳性である」と草案のQ&Aは説明する。

角突き合わさず、みんな仲良く。うまくことを進めるうえで「和」はたしかに役に立つ。

しかし、何が歴史や文化、伝統に根ざした「我が国」らしさなのかは、万歳三唱たちゃぶ台の例を持ち出すまでもなく、それぞれの人の立場や時間の幅の取り方で変わる。

国内に争乱の記録はいくらもあるし、かって琉球王国として別の歴史を歩んだ沖縄は、ここで一顧だにされていない。

一見もっともな価値を掲げ、それを都合よく解釈し、社会の多様な姿や動きを封じてしまう危うさは、道徳の教科書でパン屋が和菓子屋に変わった一件を思い起こせば十分だ。検定意見の根拠は「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」と定めた学習指導要領だった。

ただでさえ同調圧力の強いこの社会で、和の精神は、するりと「強制と排除の論理」に入れ替わりうる。

近代的憲法観の転覆

「個人」を削り、「和」の尊重を書きこむ。そこに表れているのは、改憲草案に流れる憲法観ーーー憲法は歴史や伝統などの国柄を織り込むべきもので、国家権力を縛るものという考えはもう古いーーである。

だから、人は生まれながらにして権利を持つという天賦人権説を西欧由来のものとして排除し、憲法を、国家と国民がともに守るべき共通ルールという位置づけに変えようとする。

これは憲法観の転覆にほかならない。経験知を尊重する保守の立場と相いれない、急進・破壊の考えと言っていい。

明治憲法を起草した伊藤博文は、憲法を創設する精神について、第一に「君権(天皇の権限)を制限」し、第二に「臣民の権利を保護する」ことにあると力説した。むろん、その権利は一定の範囲内でしか認められないなどの限界はあった。

だが、時代の制約の中に身を置きながら、立憲の何たるかを考えた伊藤の目に、今の政権担当者の憲法観はどう映るか。

明治になって生まれたり意味が定着したりした言葉は、「個人」だけではない。「権利」も「自由」もそうだった。

70年前の日本国憲法の施行で改めて命が吹き込まれてたこれらの概念と、立憲主義の思想をより豊かなものにして、次の世代に受け渡す。いまを生きる私たちが背負う重大な使命である。