2016年12月22日木曜日

冬至なんて、忘れていた



2016 12 21の昨日は、冬至だった。

仕事にかまけて、季節の節目?なんて!
そんなこと、考えてもいなかった。
夜の食事に南瓜(かぼちゃ)の煮物があって、妻から「今日は冬至ですからね」、と言われて、やっと気が付いた。
チョットした野暮な事故以後、頭の中がすっきりしない。

今日は水曜日で、仕事はお休み。
入院中の義母の担当医が、病院で、現在の体の状態と今後の予想について説明してくれた。
義母が入院して、5日目。
やらなくていけない仕事は、只、それだけだった。
義母の齢は89歳、流石に老いが目立ってきた。

地球の北半球では、太陽の位置が一年間のなかで一番低いときのことを、冬至という。
この冬至の日は日照時間が短い。
昼が短くて、夜が長い。

日本の女性は、南瓜が好物で、昔から、「女性の大好きな物は、コンニャク・芋・タコ・南瓜(ナンキン)」だと、よく言われている。
何故か?
それ以外に不思議なことがある。
アメリカではハロウィーンに、南瓜の橙色の中身をくり抜き、目鼻などをつけた提灯(ちょうちん)を作る。
これも、何故なのか?
物知りのお方殿ヨ、この何故?かも教えてくださいな。

私の生家では裏の農機具などが入れてある小屋に、一年中、南瓜が床に転がっていた。
小屋は夏でも、涼しい。
夏は採りたてのものを食ったが、冬には夏の食いっ放(ぱ)っなしのものだ。
耐久性に強いので、そのように使われていた。

冬至に「ん」のつく食べ物を食べると、その後1年の運が良くなり、根性が強くなると言われている。
その食べ物のことを、『「運盛り」の七種』と言われている。
・なんきん(南瓜)
・れんこん(蓮根)
・にんじん(人参)
・ぎんなん(銀杏)
・きんかん(金柑)
・かんてん(寒天)
・うんどん(うどんのこと)


この冬至と反対なのが、「夏至」だ。
同じく北半球では、夏至のときは、太陽の位置が一番高い。
昼が長くて、夜が短い。

風呂に入る際、冬至のときには、南瓜を食って、それから湯に柚子(ゆず)を入れた。
風邪をはじめ、健康に恵まれることを祈った。
子供の頃から、よ~く馴染んでいた。

そして、夏至には関西ではタコを食い関東では焼餅を食うらしいが、我が家では何故か?夏至の日にも、南瓜を食っていた。
我が家の母は、他所の家とは何もかも違うことを、平気の平左エ門、立派な御仁だった。
私が彼女を尊敬する所以(ゆえん)の一つでもある。







2016年12月20日火曜日

住友生命の創作四字熟語

住友生命の創作四字熟語


やっぱり今年も、天声人語の「住友生命の創作四字熟語」を、拙者ののブログに書き写さなければ、この1週間は進まない。
天声人語の転写の後に、住友生命の世相を反映した50編も、ネットから頂戴して書かせてもらった。

68歳、年末はこの創作四字熟語だ、と洗脳されてしまったようだ。
変な癖?が衝(つ)いちゃったのか。
そのように言っても、この創作熟語が実に感動的なのだから、多分、私が死ぬまでは、毎年毎年、関心しまくるのだろう。



先ずは、2016 12 18、朝日新聞・朝刊の天声人語の転写から、話は始めたい。

★天声人語

流れるバトンパスが日本中をわかせた。リオ五輪陸上男子400メートル、「銀勇四人」(ぎんゆうしじん)たちの37秒60は思い出すだけで胸が熱くなる。
バドミントン女子タカマツペアは大逆転で「羽願優勝」(はがんゆうしょう)の笑顔だった。
住友生命が募った年末恒例の創作四字熟語で1年を振り返る。

オバマ米大統領が広島を訪問。折り鶴を携え、「紙鶴献悼」(しかくけんとう)し、核なき世界への勇気を訴えた。
英国は国民投票で「英欧分離」(えいおうぶんり)を選択。
こちらの勇気は吉か凶か。

金融政策の未体験ゾーンへ突入。日銀のマイナス金利による「金利零下」(きんりれいか)の世界で家計はぬくもったか。
北海道新幹線でにぎわう函館は「函館客沸」(かんかんきゃくわく)。
新幹線の恩恵は続くか、どこまでも。

ポケモン目当て、大人もこどものスマホ片手に「街獣一色」(がいじゅういっしょく)。
運転中の操作による悲惨な事故も忘れがたい。
ポケモンではなく薬物に手を伸ばし「薬捨人生」(やくしゃじんせい)する有名人も相次いだ。
東京知事選では小池百合子氏が圧勝。
新市場や五輪からあふれだした「新都多難」(しんとたなん)は現在進行形である。

25年ぶりのセ・リーグ制覇。
広島東洋カープは他を寄せ付けず「新鯉万勝」(しんりばんしょう)。
イチローは大リーグで「燦然安打」(さんぜんあんだ)の後も進化をやめず。
「五人騒散」(五人そうさん)のSMAPは本当にこのまま解散してしまうのか。

最後に、筆者が11月以降のニュースで練ってみた。
まさかのトランプ氏の当選。
かの国を真っ二つに引き裂く米大統領選は「暴語米断」(ぼうごべいだん)の様相を呈した。国会ではカジノ法が特急で成立した。




★2016年の住友生命の創作・四字熟語


(先ずは優秀作品10編)

1、銀勇四人(吟遊詩人)/4人のすばらしいバトンリレー!五輪陸上、男子400リレーで銀メ ダル。

2、四士奮銀(獅子奮迅)/侍ポーズを決めた五輪陸上男子400mリレーで、日本チームが銀メダルを獲得。

3、羽願優勝(破顔一笑)/リオ五輪、バドミントン女子ダブルスで優勝。

4、神鯉万勝(森羅万象)/「神っている」広島東洋カーブ、圧倒的な強さでリーグ制覇へ。

5、利息魚利(不即不離)/日銀によるマアイナス金利政策の導入。

6、英欧分離(兵農分離)/英国が、国民投票によりEUからの離脱を決めた。

7、風震火山(風林火山)/台風、地震、噴火ーー。自然災害が発生した。

8、刺客誌面(四角四面)/週刊誌が有名人のスキャンダルを次々にスクープした。

9、GO夢中(五里霧中)/「ポケモンGO」にたくさんの人がはまった。

10、新郎多難(前途多難)/小池都政、東京五輪や豊洲移転問題で前途多難。




(入選作品 40編)

1、五豊霧中(五里霧中)/東京五輪と豊洲市場問題。

2、安倍驚管(阿鼻叫喚)/リオ五輪の閉会式で、安倍首相が土管からサプライズ登場!

3、再考豊洲(成功報酬)/築地市場の移転計画が見直しに。

4、消遅増税(消費増税)/消費税増税が延期された。

5、金利零下(金利低下)/日銀がマイナス金利政策を実施。

6、民泊需増(腕白小僧)/訪日外国人の急増で、民泊の需要も増加。

7、函館客沸(侃侃客沸)・かんかんきゃくわく/北海道新幹線の開業で、沸く函館。

8、北歓喜線(北回帰線)/北海道新幹線が開業。喜びの春となる。

9、取社電托(取捨選択)/電力の小売り全面自由化がスタート。

10、日宝新夢(ニホニウム)/森田浩介氏が発見した新元素。日本で生まれた宝物に新しい夢が広がる。

11、山娯休暇(産後休暇)/山に親しみ、山の恩恵に感謝。国民の祝日、「山の日」が制定された。

12、不倫過産(風林火山)/今年の芸能界はスキャンダルだらけ。

13、薬捨人生(役者人生)/薬物汚染問題。薬物と決別して、真っ当な人生を取り戻してほしい。

14、都心電切(都市伝説)/東京都心部で大規模停電。ライフラインのもろさが露呈した。

15、哀多象逝(愛多憎生)/国内最高齢のゾウのはなこが死に、多くの人が哀しんだ。

16、賢島七談(健康診断)/伊勢志摩サミット開催。G7首脳が賢島で会談。

17、蚊熱感染(凱風寒泉)/ブラジルでジカ熱が流行。

18、税文公開(全文公開)/パナマ文書が流布。租税回避地の利用実態が明らかに。


19、韓朴政乱(「関白宣言」)/韓国での機密漏洩問題。韓国国内は大混乱。

20、虎栗参戦(桃栗三年)/米大統領選。ドナルド・トランプ氏とヒラリークリントン氏の一騎打ちに。

21、紙鶴献悼(主客転倒)/オバマ米大統領が広島を訪問。核なき世界を追求する決意を表明した。

22、燦然安打(三千安打)/イチロー選手、大リーグ通算3000安打を達成!

23、鯉昇天結(起承転結)/広島東洋カープがりーグ戦優勝へと上り詰めた。

24、投打無双(当代無双)/北海道日本ハムファイターズの大谷翔平選手、投打の二刀流で大活躍。

25、日本覇夢(日本ハム)/北海道日本ハムファイターズが3度目の日本一の夢を果たした。


26、リオ燦然(理路整然)/リオ五輪。日本選手団の胸に、メダルが燦然と輝いた。

27、四金之栄(衣錦之栄)/女子レスリングの伊達馨選手、五輪四連覇を達成し、国民栄誉賞を受賞。

28、驚銅競泳(共同経営)/五輪競泳男子800リレーで銅メダル!52年ぶりの快挙。


29、体団成就(大願成就)/体操男子団体が、念願の五輪金メダルを獲得。

30、文歌勲章(文化勲章)/ノーベル文学賞をミュージシャンのボブ・ディラン氏が受賞。

31、騎媛馬乗(気炎万丈)/藤田菜七子さんがJRA騎手デビュー。16年ぶりの女性騎手誕生が話題に。

32、医賞自食(自縄自縛)/大隅良典氏がオートファジーの研究でノーベル生理学・医学賞を受賞。

33、五人騒散(誤認捜査)/国民的アイドルグループの解散騒動。

34、筆果豹踊(隔靴掻痒)/豹柄衣装で踊るピコ太郎さんの「PPAP」

35、街獣一色(鎧袖一触)/「ポケモンGO」、大流行。

36、君名客興(群雄割拠)/アニメ映画「君の名は。」が、興行収入を伸ばして大ヒット。

37、昇進昇太(正真正銘)/人気テレビ番組「笑点」の6代目司会者に、春風亭昇太さん。

38、猫狂時代(熱狂時代)/空前の「猫ブーム」到来!

39、愛煙消煙(合縁奇縁)/愛煙家のあいだで、次世代タバコ「IQOS」が大人気に。

40、二騎禿戦(一騎当千)/お笑いコンビ、トレンディエンジェルがブレイク。









2016年12月18日日曜日

小春日和

小春日和

今日で、12月もそろそろ中頃。
もう少しで正月。
孫たちに、お年玉を用意しなくちゃ、イカンなあ。
これから、先生なのか、お坊さんなのか?走り回って、クタクタになるだろう。


冬季から春にかけては、三寒四温という言葉がある。
寒い冬からちょっとは暖かい日が続きそうな時期に、3日寒い日が続いた後に、暖かい日が4日続く。
そのような気温の流れの日のことを意味する。

でも、今日は、そんな感慨を述べたくて、ボードを叩いている訳ではない。
自然現象は、奥ゆかしく、実に面白い!!のだ。
この1か月、嫌に寒いなアと思っていたのに、今日は、不思議に暖かいと思われる。
きちんと、天の神さまはいてくれる。

11月の初め頃の気温だ。



そこで、「小春日和」(こはるびより)を思い出した?

ブリタニカ国際大百科事典より、「小春日和」とは?
晩秋から初冬にかけて現れる、穏やかな暖かい晴天のこと。
気晴らしか!
小春とは旧暦で10月のこと。
太陽暦では11月から12月上旬にあたる。

以下は、ネット情報による。
厳しい冬を前に、現れる温和な転機を喜んだ言葉で、アメリカ大陸やヨーロッパにも、冬を前にしたこの時期の穏やかな晴天をインディアン・サマー(インディアン・夏)、老婦人の夏などと呼ぶ言葉がある。


ここで、何是「インディアン・夏」と言うのか、暇を弄んでいる私には、調べる自由がある。
アメリカ先住民であるインディアンの土地を、移民が様々な方法で奪い取ったと言われている。
しかし、その土地をインディアンが取り戻すために、霜が降りて足元が悪い晩秋を選んで襲撃したとのこと。
アメリカでも、天は味方もしてくれる。

2016年12月4日日曜日

今朝の天声人語は

今朝(20161210)の天声人語は、こんな文章だった。

拙者のブログで、天声人語を転写するのは久しぶり。

その文章を書き綴る前に、天声人語とは?どういうことなんだと、思い馳せた。
基本の基本は?
その基本を、いつものようにネットで調べて、今後のためにその文章も記した。


・天声人語は、朝日新聞の朝刊に長期連載中の1面コラムである。
1904年(明治37年)1月5日に初めて掲載され、別の題名になった時期もあったが、1世紀以上にわたって掲載されている。

・命名者は西村天囚で、「天に声あり、人をして語らしむ」という中国の古典に由来し、「民の声、庶民の声こそ天の声」という意味とされるが、この古典は何であるかは不明である。



★それでは今朝の天声人語の書き写しにはいるーーーー  

英国で17世紀末に「窓税」が導入された。家が大きく、ガラス窓がたくさんあるほど裕福だとして、七つ以上の窓があると税金が取られた。税を払えない人、払いたくない人は窓をれんがなどで塞いでしまった。

こうした「塞ぎ窓」が見られる古い家がいまも残存すると、三谷康之(みたにやすゆき)著『イギリス「窓」事典』にある。日当たりや通気が犠牲になった。税のあり方は人びとの行動を変える。ときにおかしな方へ。

現在日本のこちらの税制も暮らしに影響してきた。専業主婦などがいる世帯の所得税を軽くする「配偶者控除」である。妻の年収が103万を超えると損になるため仕事を抑えてしまう弊害がある。そう考えた政府・与党は一時、廃止を検討した。

代わりに年収に左右されない「夫婦控除」の案が出たが、増税による世帯の反発を恐れて引っ込めた。結局、103万円を150万円に引き上げるだけに終わりそうだ。家族のあり方が多様化するなか、一定の生活様式を優遇するような制度はもうやめたほうがいいのではないか。

政権は「女性の問題」を掲げるが政治家が本腰を入れているように見えない。選挙で男女の候補者数をできるだけ均等にする法案を超党派グループが準備するが、思うように進まない。自民党の会合では議員から、「女性の社会進出で社会全体が豊かになっているとは思えない」との声まで出た。

時代を一歩前に進めるか、あるいは時代の足を引っ張るか。制度作りの重さと怖さである。

2016年12月3日土曜日

相好を崩すって、どういうこと?



先日の定例の会議であったことを、弊社とスタッフの恥も外聞も名誉も捨てて書いてみようと思った。


毎週月曜日の朝1番にスケジュールされている会議でのことだ。
ある担当者が、日頃考えている自分の意見を述べた。

AとBが働き合って、力(ちから)が「ソウサツ」されることになるのです。
何?
「ソウサツ」されるって、何が何を「ソウサツ」するの?

社内で地位の高い人が、ちょっと待ったと言い。
その言葉使いは、可笑しいじゃない。
この人の発言を、私は嬉しく思った。
このことについては、いつかは、大きな声で話さなくてはならない、大問題だと認識していた。

その「ソウサツ」ってことは、「相殺」(ソウサイ)されるということなのではないのか?
貴方が言っている「ソウサツ」というのは、この場合、どういうことですか?

イヤイヤ、すみません。
私が言いたかったのは、皆さんが考えている相殺(ソウサイ)のことを、ソウサツと間違ったようなんです。
顏が真っ赤になりそうな間違いです、と発言者は素直に、自分の過ちを認めた。

それでは、意気込んで、相殺の意味をネットで調べてみよう。


ネットで調べると面白いことが解った。
相殺は、読み方としては二つあるが、どちらも正しい。
でも、使い方や根本的な意味が違う。

それでは、下にあるソウサイとソウサツを比べてください。
★そうさい 【相殺】
(1)貸し借り・損得などを互いに消し合ってゼロにすること。
(2)相反するものが互いに影響し合って、その効果などが差し引きされること。
(3)〔法〕 二人が互いに相手方に対して同種の債権をもっている場合に、相互の債権を対当額だけ消滅させること。

★そうさつ【相殺】
互いに殺し合うこと



そうして、「相好を崩す」の巻きだ。

そして、その翌日、火曜日の早朝。
朝方、眠気が完全に冷めきらない脳の中を、走り回る言葉があった。
前日の事件のこともあって、「相好を崩す」って、どういうことだったけ?だ。
この相好の読み方は、「そうこう」でなく、「そうごう」。
この読み間違いも多い。

相好というのを、ネットで調べたら下のようだった。
① 〘仏〙 仏の身体にそなわっているすぐれた特徴。三十二相とさらに細かい美点である八十種好をいう。
 ② 顔かたち。表情。

[句項目] 相好を崩す
大辞林 第三版

「相好を崩す」とは、「にこやかな表情になる」、「顔をほころばせる」という意味。
孫の顔を見て、相好を崩すなどと、厳格な面持ちの老人が、それまでの表情を一変させて、にっこりする場面などで使われることが多い。

2016年11月24日木曜日

横浜に雪が!!


 横浜に雪が!!


樹木が紅葉した公園で雪が降り続いた=24日午前8時39分、東京都練馬区の光が丘公園
(林紗記氏撮影)


深夜(11月23日の夜~24日未明)から、雨がしっかり降っていた。

2階で一人寝なので、ガルバリュムの屋根に当たる雨音は、私だけには強く感じられた。
雨を受けるクッションがリズム的なのだ。
ときには安寧に、脳の端くれが落ちついてないときには、五月蠅(うるさ)いのだ。

畜生、糞くらえ。
朝から雨なら、悔しいけれど辛抱するしかない。
と、深夜から早朝にかけてそう思っていた。
まだ11月だ、この雨が雪になることはない。
そんな気持ちで、パジャマを脱ぎ、歯を磨いた。

ところが、朝飯を食っている最中に、その雨に雪粒が混ざってきた。
そして、その雪が霙(みぞれ)状態のまま、すっかり中身の濃い霙になった。
その後、霙が雪になったり、霙のままだったり。
昼飯前には、雪や霙は少しになって、昼過ぎにはすっかり止んだ。




ネットで、「ゆき女」のイメージをいただいた。


歌手の新沼謙治さんが、「津軽には七つの雪が降るなんて」、と歌っていたが、果たしてどんな種類の雪だったのだろう?
その歌は、「津軽恋女」だ。

愛に生き、恋に生きる津軽恋女は、枕乱して引いていく。
こんな歌だった。
こな雪、つぶ雪、わた雪、ざらめ雪、みず雪、かた雪?
それでも、今日のこの雪は、春待つ氷雪なんてものじゃない、だろう。

ところで、横浜の雪はどんな雪だったんだ。
こんなに早くに雪が降るなんて、どういうことだ? と疑問は残った。

夕刻、自宅に帰って朝日新聞・夕刊を読んで、今日の雪の内容を知った。。
雪の要因は、偏西風の蛇行が強く、大陸から真冬並みの寒気が東日本にかけて流れ込み、零下3度以下の寒気が南下したことが大きい。
ここに、本州の南側を通る「南岸低気圧」が加わった。
24日も、東京・伊豆諸島付近の前線を伴った低気圧が東に進み、この低気圧によって雨雲が発生。雨から雪に変わった。

東京で11月に初雪が観測されるのは、1962年以来54年ぶりで、記録的には早い初雪となった。
横浜、甲府市でも54年ぶりだ。
ただ、地上までの空気の層によって気温が異なるため、地上に到達するまでに雪が解けてしまうこともある。
24日の午前6時の都心の気温は1,9度。
こうした条件が重なったことが、54年ぶりの初雪になったのだろう。

2016年11月22日火曜日

白瀬探検隊


白瀬探検隊(2016 11 21 朝日新聞朝刊)を
そのまま転写した。

白瀬探検隊のことは、25年前ほどの日々、神経をピリカン、体は膠着状態にして、全ての出版物を読みまくった。

このような探検者の探険物に、私の頭は気が狂いそうなほどだった。
本田勝一の探検物や、冒険物を読んでいて、この白瀬物に加わってしまった。
書物にでてくる内容の全てを、学校の教科書のように読み漁った。

今日(11月21日)の朝日新聞・朝刊に、白瀬中尉の南極点を目指した際の記録映画の記事が載せられていた。

私、今、少し体の調子がよくないので、記録されていた上映会に参加できないのが、血が煮え滾(たぎ)るほど悔しい。
かってなら、参加者のだれよりも、気合を入れて見に行ったことだろう。

私は、他の記事に見向きもせず、その記事に狂(繰る)ってしまった。
「クルって」を表現するのに、どちらの「狂う」、「繰るう」を使えばいいのか、本気で、私の頭は可笑しくなったようだ。

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これからは、下線までの文章は紙面のままだ。


百年前の南極動画 デジタル復元





白瀬探検隊が撮影 無声記録映画  (東京で24日上映)





白瀬陸軍中尉率いる探検隊が、100年余前に日本人で初めて南極点を目指した際の記録映画を、東京国立近代美術館フィルムセンター(東京都中央区)がデジタル復元した。
24日に上映される。
46分で日本最古の長編記録映画でもある。

白瀬隊は、南極点への初到着を果たしたノルウェーのアムンゼン隊、2番種の英国スコット隊と競い、1912年1月28日に南緯80度5分までたどり着いた。
その地を「大和雪原」(やまとゆきはら)と名付けた。
この快挙を当時、動画で記録していた。



同年に公開されたオリジナルのフィルムは現存しないとみられるが、フィルムセンターによると、探検出発から20周年の30年に、探検隊関係者が複数のフィルムを集めて、無声映画「日本南極探検」を作ったとされる。
白瀬は探検に要した多大な借金の返済のため、映画を上映し、講演して各地をまわった。

フィルムセンターは約9年前、白瀬隊の支援者だった村上俊蔵氏の遺族が所有する「日本南極探検」のフィルムを見つけた。
35ミリで5巻851メートルあり、40年に内務省の検閲を受けた記録もあった。

探検隊員らの顔ぶれ、ペンギン、南極上陸から帰国までの映像のほか、後援会長だった大隈重信の屋敷での壮行会、「開南丸」出航の様子も入っていた。

一部オレンジや青に染調色が施された可燃性ポジフィルムのため、フィルムセンターは最新のデジタル技術で傷を消し、不燃性フィルムに復元して、当時の色調で着色も一部に施した。

24日は午後3時から7時からの2回、フィルムセンター2階大ホールで上映される。
定員310人(各回入れ替え制)、一般520円、高校・大学生・65歳以上310円など。
問い合わせはハローダイヤル(03・5777・8600)へ。
上映の前と後に、復元にかかわったフィルムセンター研究員の講演もある。

(中山由美)

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以下は、2010年12月30日の私のブログからーーー
 



白瀬矗(のぶ)の名に、胸に高鳴りが

探検はロマンだ。未知の分野であればあるだけ、そのロマン度も高まる。

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20101221の朝日新聞・夕刊に「南極探検100年、白瀬の伝言」の記事が掲載されていた。
題字は「苦難の道のり 世界が評価」で始まっていた。
この白瀬陸軍中尉の名を、新聞の一コーナーと言えども、目にしてしまった以上、私の胸の高鳴りはどうしても抑えようがない。

かって集中的に白瀬に関するものや、アムンゼン、スコットなどに関連する探検本を読み漁った時期があったのです。
今から20年程前のこと、私が40歳頃のことでした。

新聞記事を読んで、私は探検モノにちょっとばかり知識があることを、密かに自負していることに赤恥したものの、この胸の高まりはどうにもおさまらない。

新聞記事にはスペースに制限があるので、そんなにノタリクタリとは書けないのはよく解っているのですが、他にも知っていることが「私」にはいっぱいあるので、皆、聞いて、みんなもっと聞いて、状態になってしまっていた。
またまた不遜、恥ずかしい限りだ。

とっかかりは本多勝一さんの本「アムンゼンとスコットー南極点への到達に賭ける」(出版社・教育者)だった。

本多さんが所属していた京都大学探検部の指導者で精神的主柱の今西錦司さんを知り、この今西錦司氏の個性の魅力にはまった。
その種を蒔いたのが西堀栄三郎、学問の分野は違えども生態学研究センターの井上民治、最後は国立民族博物館を創立した梅棹忠夫。

この人たちの研究論文は読めないし理解できないが、エッセイや記者との会話を文章にしたものに触れて、一時期彼らに現(うつつ)を抜かした。
東京を中心とした中央に対する在野の意地が感じられ、京都府出身の私には彼らの活躍が快く感じられた。勝手に親近感を持っていた。

それから、ここにたどり着くのです。共同通信の記者だった加納一郎さんの訳したスコット隊の生存者であるアスリー・チェリー・ガラードの探検記「世界最悪の旅」(出版社・中央公論新社)だ。

戦中に発行された、この本を読んで尻に火が点いた。
それから、アムンゼンの先輩ナンセンの「フラム号 漂流記」(加納一郎訳)。
興奮しまくりの勢いのまま、これらをまとめた加納一郎著作集全5巻を手に入れた。
そのときの感動は忘れない。

探検に興味のある方は、どうか私にお申し出ください、貸し出します。
探検とは何かを生涯説き続け、極地研究と啓蒙に尽くした加納一郎氏、この全5巻は私の脆弱な精神構造を強く支えてくれているのです。

精神的に落ち込んだり、苦しくなったとき、引っ張り出してきて、端々をつまみ読みする習慣が身についてしまった。

苦しい時の--------、神ならぬ、加納一郎氏であり、ドフトエフスキーさんだのみだ。
1巻=極地の探検  2巻=フラム号漂流記  3巻北海道の山と雪  4巻=自然のなかで  5巻=世界最悪の旅(5巻のみが、我が書庫に見つからず)



2016年11月21日月曜日

牡蛎をいっぱい食べたゾ

牡蛎をいっぱい食べたゾ

平成28年(2016)11月16日

10:45~

 
横浜市金沢区の「海の公園 かき小屋」へ、新鮮な海産物をいっぱい食いに行った。



横浜市金沢区海の公園10  海の公園内
シーサイドライン八景島駅改札を出て右方向、3分。
屋外104席(テーブル 26)
屋内80席(テーブル 20)
犬同伴席16席
コンテナ席には、4人掛けのテーブルが4卓入っていて、最大16人で個室利用が許されている。



行ったのは、我が家の3人だけ。
我々夫婦と、妻の母。
義母は89歳。
我々夫婦の子供か?孫の一人でもいれば、もっともっと楽しかった!

我が家の道路向かいに住んでいる孫は、風邪のために欠席。
年齢は1歳4か月の女の子。
私にとって、7番目の孫だ。
この子とその母親が一緒に行く予定だったのに。
病欠とは、とっても辛いワ~
両親が働いているので、昼間は保育園。
この子の可愛らしいことを述べるには、このブログぐらいでは、何もかも足りない。

さあ~て、小屋でのお話に入ろう。
色んな種類の魚産物が山のように置かれいて、そこからお好みの品を選び出して、お勘定を済まし、真っ赤な炭火の囲炉裏の網にのせて、いただいた。

選び抜いた品物は、★三陸産かき(牡蛎)、★いか(烏賊)、★三陸産ホタテ、★サザエ、★イワシ丸干し、★とり手羽、★乙舳汁(おっともじる)、★かき飯などだ。


車のハンドルをもたない私の左手には、ビールのグラスと日本酒の瓶。
私にとって、この手の舞台は、堪らなく好きなのだ。
妻の顔はウ・ラ・ヤ・マ・シ・イ印(じるし)。
年取った義母だって、旺盛な食欲を発揮、その嬉しい表情に感動した。

 
 

2016年11月9日水曜日

政子の井戸


政子の井戸


昭和49年(1979)、学校を卒業した。


昭和53年(1983)、学校を卒業して入社した会社の都合で、当時横浜駅前で一番高かったビルの20階にある不動産会社に転勤になった。
入学が他人(ひと)よりもおくての私は、27歳だった。

昭和54年(1984)、イラン革命に端を発する石油の供給危機で、日本経済は大いに狂いだしていた頃で、会社の方でも、方向転換を大いに狙っていた。
第二次石油危機とも呼ばれた。

手持ちの不動産を、できるだけ早く、多く、売り逃げたかったのだろう。
私にとっては、そんな環境が面白くてしょうがなかった。

お世話になった会社は、神奈川県においては、鎌倉、逗子、横須賀で戸建やマンションを、嫌と言うほどハゼに売り出しをやっていた。
これらの資源は、先代が、戦後のドタバタ時代に、多くを取得していた。
売り出しでは圧倒的にボリュームが多く、他社の人間からは、羨ましがられた。
私は、お客さんの住宅資金、今まで住まいにしていた戸建やマンションの売却を担当するセクション、仲介部に配属された。

私は、いつもの負けん気強さを発揮して、誰よりも誰よりも多く仕事をこなした。

住宅に関しては、様々な法律、条例をマスターしていないと、賢い社員になれないし、いいお客さんに対して喜んでもらえない。

その法律、条令らとはこのようなものだ。
これを、陰日向関係なく理解し、きっちり説明できないと、アカン垂れになってしまう。
建築基準法、宅地建物取引業法、国土利用計画法、宅地造成等規制法、
区分所有法、民法、刑法。

私は、社内で優秀な営業社員だけでなく、いつでも、何があっても、独りで生きていくだけの知恵や方策を身につけていた。
田舎育ちの一匹狼だ。
同業他社からの友人も増えていた。
学校に入る前からドカタ稼業になれていたものだから、このような仕事は一人前。


昭和58年、会社の仲間と保土ヶ谷駅界隈のドライブ中、今回の「政子の井戸」を発見した。
「御所台の井戸」とも言われていた。
なんだ、こりゃ?

政子さんのことは、受験勉強で大いに親しくなった御仁(おひと)だ。
JR保土ヶ谷駅を戸塚方面に1号線を100メートル程進んだところに、細い道で横浜清風高校へ向かう道があり、その道の入り口にある。
この坂道を、旧金沢街道(かなざわかまくら道)のいわな坂(石名坂、磐名坂、石離坂と諸説がある)と言われている。

あの源頼朝の北条政子さんのことか?と同乗者に話しても、色よい返事は返ってこなかった。
私は、受験勉強で、日本史に関しては、どんな問題が出されようと95点以上は稼げるだけの力を身につけていた。
英語は70%、日本史はほぼ満点、国語は70%をとれるだけの実力を身につけていた。
ぶっちゃけた話、英語や国語で多少失敗しても、日本史で100%とれば、何とかなる。
これが、私の受験戦略だった。


北条政子。

伊豆の国の豪族だった北条時政の長女の北条政子は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室になった。
どこで、どのような縁があったのか、正室とは奥さんのことだ。
頼朝が1192年に鎌倉に政権を樹立すると、御台所と呼ばれ、頼朝の死後は尼御台、最後には尼将軍とか女将軍とか称され、抜群の力をつけた。
私が受験浪人だったときに、鎌倉幕府ができた年のことを、「1192をイ・イ・ク・ニ作ろう鎌倉幕府」として憶えた。

社会の先生が、政子が自陣の兵への演説で、「頼朝公の恩は、山よりも高く、海よりも深い」を、意味深長に話したことが、印象深い。

ここで、何故、井戸?なんだろうと考えた。
綺麗な人だったのだろう、お化粧をしたのか、身についた汗を拭き切るためだったのか?
別嬪さんで、色香たぐわしい人だったのだろう。
力をつけた女将軍のことだから、政子が来たからには、地元の民衆は騒ぎたてたのだろう。

その後、天皇や将軍が保土ヶ谷宿の軽部本陣に立ち寄った際には、この井戸の水で料理を作った。


 政子の井戸 その2



それから、20年後。


7年前のこと、私の勝手な都合で、一時的に住んでいた横浜市泉区のアパートのそばに神社があって、馬頭観音の碑が建てられてあった。

相鉄線の「弥生台駅」から、歩いて10分。
木が幾つも樹立していて、小さな森になっていた。
神社の名は、横根稲荷神社。

その森の一番奥まったところに本殿があって、その脇に碑が建てられていた。

近所の老人に神社の話を聞いたところ、昔、ある女性が使った井戸がかってあったのですよ、だった。

早とちりの私は、政子の井戸が、ここにもあるんだ、とかん違いをしていたようだ。



むかし、木曾義仲の夫人、巴御前は女武者として義仲とともに勇名をはせていました。
しかし、寿永3年(1184)に近江で義仲が敗れると捕われの身となり、和田義盛に引き取られて、義盛の本拠地三浦で暮らすことになりました。
そして建歴3年(1213)の合戦で義盛も敗れ、巴御前は木曾へと落ち延びていきました。
途中、横根稲荷神社で一夜を過ごした巴御前は、境内にある鎌倉石と七沢石で囲われた古井戸の水を化粧の水として使ったと言われています。
その後、この井戸は「横根の感念井戸」といわれるようにな泉区役所掲示による横根稲荷神社の由緒です。



2016年11月1日火曜日

金閣寺炎上

金閣寺炎上

三島由紀夫の著作・「金閣寺」は、1956年(昭和31年)に新潮社からは出版された。
私は、それから20年後に読書した。
金閣寺は、京都府京都市上京区金閣寺町にあった。

学校を卒業して2年、結婚した年だ。
主人公の心模様は、難しい文字で綴られていた。
それでも、この本に関しては、三島由紀夫の不思議な虜(とりこ)なった。
大学時代の私は、「いじけた左翼ぶり青年」だった。

そして、今年2016年の10月。
100円でも買える安売りブックストアーで、水上勉の「金閣寺炎上」を手に入れて読了。
この本は恐ろしいほどのノンフイクションで、気合を入れて、入れて読んだ。

仕上がるまでに、書き始めてから26年とか29年掛かった。
目くるめく?詳細な記述に、読書の初めは、頭が痛くなった。
水上勉の、生まれながらの修練か?なんて言うと、叱られそうか。

水上勉は福井県本大飯郡本郷町(現:おおい町)生まれ。
放火した林承賢は、京都府舞鶴成生で生まれ育った。
水上が舞鶴で、教員として勤めたころに、林に会っている。
同じく仏教徒をめざしていたので、それなりに意識していたのだろう。


三島由紀は人間のいわゆる美意識を金閣寺炎上事件に見たが、水上勉はそこに人間を見た、とある評論家は述べていた。

三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析した。

この金閣寺の炎上事件を、三島由紀夫は「金閣寺」を水上勉は「五番町夕霧桜」を書いている。



鹿苑寺金閣(臨済宗相国寺派の別格地)




足利義満 (室町幕府3代将軍)


鹿苑寺金閣は、国宝保存法により国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上。
私の生まれは、1948年(昭和23年)なので、生まれて2年後に炎上したことになる。

国宝金閣(舎利殿)は全焼、国宝足利義満坐像、運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像等10体の木像等も焼失した。

林承賢は、寺の裏山で「カルモチン」を飲んで自殺を図ったが、一命を取り留めた。
大谷大学予科 中国語学科1年生。

彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに、山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺した。

逮捕当初の取り調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。
しかし、金閣寺炎上では、実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており、得度を授かった僧侶よりも事務方が幅を利かせていた。

寺の運営は、金銭欲を持たず自身を無にする禅寺修行が行われず、拝金主義であった。
林には、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。


 焼失直後の金閣寺 (昭和25年7月2日)


1956年(昭和31年3月7日)、結核と重度の精神障害により、京都府立洛東病院に入院中に、26歳で亡くなる。その後、この病院はなくなった。





2016年10月20日木曜日

仕事、気配りチェック

弊社の「お仕事、気配りチェック」
  
ちょっとした事件が発生したので、弊社の社内に張られている標語のことを思い出した。
その標語のことは下の通りだが、今までに、何度も書き換えようと思った。
この標語を、何度、読んでも、読んでも、最初に書いた時の心情が、上手く表(あらわ)れてない。

実は、この標語を、100%満足していなかった。
標語?
それは、スタッフの仕事っぷりを看守、察知、そして監守、激励するスローガンだ。
簡単に言えば、キ・メ・ゴ・トだ。

何もなければ、こんなことなど、どうでもよかったことなのだろう?
生まれつき、私の性格はネチッコイのだ。



今からひと昔前と言や、2005年だ。
株価は2003年が大底(おおぞこ)。
それから2008年位に向けて、全体相場が盛り上がり、アメリカの不動産バブルに新興国の隆盛。

ここらで、日本経済の復興の歩みに、安心感が出てきた。
それでも復興の反発力はなかなか辛抱強く、リーマンショックの後の戻りがあって、為替は円高に動き、欧州の債務危機もようやく突破したと言われた。

私は、そんな環境での弊社の経済状態が気がかりでしょうがなかった。
正月には、毎年、私の決められた仕事があった。
新年における、標語の書き換えだ。
ところが、何故か? モジモジしてしまうのだった!!

弊社の社員宛の「お仕事、気配りチェック」を筆で書いて、壁に張り付けることだ。
他人に見てもらって、堂々と胸を張れるほどのモノを書けなかった。
でも、出来上がりは兎も角、私の心根(こころね)だけは、誰よりも強靭で辛抱強く、激しいものを持っていた。




2003年 1月1日の午後

会社には誰もいない。
一人っきりだ。
鎮静な社内だけど、孤独な私を温かめてくれているように感じ。
慣れない手書きのため、出来上がった標語は、見事な悪筆ぶり。
そんなことには無頓着なのが、私の特徴。

この時に仕上げたものを簡易な額に入れて、壁に張り付けた。
その内容は次のようなものだ。

     ①強い意志
 
  ②広範な知識  
 
     ③大胆な行動


ここで、これらの一つ一つの意味と、それに関しての吾輩の思惑を書いてみる。

①の「強い意志」とは

社員の皆に対して、弊社の法人としての品格、品性を高めて欲しい。
理解される宅建業者でありたい。
卑(いや)しくも、業者として辱(はずかし)めるような言動を発したり、行ってはならない。

弊社の商品である中古住宅の法的な知識を、何もかもよく理解して、判りやすく説明をすること。
この精神を強く持って欲しい。

建築基準法
宅地建物取引業法
国土利用計画法
都市計画法
宅地造成等規制法
区分所有法
集落地域整備法
消費者契約法
民法
刑法



②広範な知識とは

物件の売買、賃貸について発する諸問題を、整理して、判りやすく関係者に納得してもらうこと。
発生する費用の明解さ、必要とする時期。
それに必要な諸書類。

物件の周囲の崖や川や電柱から影響を受けるもの。
嫌悪、もしくは好評な建造物の性格。
天然的に影響を受ける内容。



③大胆なな行動

①・②で、確信をもった内容については、躊躇することなく、勇気をもって、大胆に関係各社の担当者、お客さんに、言葉や書面で表現して欲しい。
このことこそ、関係者、お客さんに最大のメリットを受けてもらうことになる。

諄(くど)いようですまないが、もう一度繰り返す。
弊社にとって、言い辛いことこそ、大胆な行動で、言動して欲しいと言うことだ。

上の三つの標語を限りなく正確に行ってもらうために、情感にも条件をつけた。
慎み深く、感謝して、奉仕することだ。
精神的に豊かになって、きっちり業務に励みたい。


Kabocha.jpg  
写真と関係なく、11月7日は立冬だ。
初めて、冬の気配が感じられる。




2016年10月8日土曜日

今こそ 高橋和巳

今こそ、高橋和巳


朝日新聞 文化・文芸

2016 9 26 月曜日の朝刊



破滅文学、苦悩教の始祖と呼ばれた。
全体性をつかもうと格闘し続けた。

作家・高橋和巳氏は、1931年、大阪市生まれ。
日雇い労働者の多い西成区で育つ。
太平洋戦争の空襲で実家と零細工場を焼失。
1949年、京都大学文学部に入学した。
そして、5年後、10年後に人気作家になった。

26日の朝日新聞・朝刊で、並み居る作家の紹介の後に、高橋和巳さんの紹介記事が出てきたことに、吃驚した。
私にとって、高橋和巳は今、此処に一緒に暮らしている作家だった。
こんな状態で紹介される人になってしまった。

彼の作品を、大学を卒業してから数年間、読んで、読んで、読みまくった。
それから30~40年、恥ずかしながら、あれほど愛して愛して、魂が狂うほど好きだった氏のことを、恰(あたか)も忘れ去ったように過ごしていたことを、悔(くや)んだ。
それほど、仕事が楽しかったのだ。

頭脳が辺境な私の読書歴は、実に偏狂だ。
大学に入る前から卒業するまでは、新戯作派、無頼派と呼ばれていた作家の作品ばかり読んでいた。
太宰治や坂口安吾、織田作之助 田中英光、山岸外史、壇一雄たちの著作物だ。
前記の作家以外にも、何人もの作家のものを読んだ。
アホの馬鹿読みだった?のだろう。

私の生まれは、1948年、昭和23年。
劣等生の私が、2浪の果てに大学に入ったのが、1968年。
2年間、皆よりも遅れたものだから、サッカーだけではなく、ただ、皆の邪魔にならない程度に練習をするだけで、大変だった。
今年の9月23日で、68歳。

大学時代はア式蹴球部(サッカー部)に所属したものだから、勉強の怠慢さは当然の当然。
身辺に勉強のことを話し合う仲間や友人さえも、いなかった。
勉強しないのが、「当たり前だのクラッカー」、、、、、、だ。
吉本新喜劇の、お馴染みの当たり言葉。
幾ら下手くそでも、サッカーは愉しかった。
何度、ヤマオカ、荷物を担いで、田舎へ帰れと言われたことか。

代表的な本は、
・「悲の器」
・「邪宗門」
・「わが心は石にあらず」
・「日本の悪霊」
・「わが解体」
・「孤立無援の思想」
・「憂鬱な党派」
・[堕落」ーーーーだった。


社会人になって、最初に購入したのが太宰治の全集、その数年後に高橋和巳作品集を買った。
私の自慢の、買い物だ。
太宰治の全集は3度読みなので、これは人生の記念樹にと想って買った。

高橋和巳の作品集は、よっぽど張りつめて読んだのだろう、か? 
どの本のことも詳細に憶えていないのが、恥かしい。




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これからの文章は、全て新聞に書かれていたものの転載です。
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2014年に 『邪宗門』で始まった河出文庫の高橋和巳作品の復刊が、没後45年にあたる今年、『憂鬱なる党派』 『悲の器』と続いている。

『邪宗門』は戦前・戦中に弾圧された宗教団体が、戦後、世直しのため武装蜂起し、政府とGHQ(連合国軍総司令部)に鎮圧される物語。
『憂鬱なる党派』は1950年代の左翼運動の分裂を背景にし、『悲の器』は自らのスキャンダルに法をもって戦う刑法学者が主人公だ。

社会思想史研究者で京都精華大学専任講師の白井聡さん(39)は、少し前に高橋作品と出あい、感銘を受けた。
『永続敗戦論』の著者らしく、「敗戦と革命の挫折」に思いをはせた、という。

「対米従属批判は60年安保の頃までは盛んだったが、経済的成功とひきかえに不問に付されていく。
安保法など戦後の総決算が迫られている今の課題は、この時代に根があったと改めて痛感しました」

社会に肉薄「求道者の文学」

もう一点、白井さんが刺激を受けたと話すのは、人間社会の実相に肉薄する作家のまなざしだ。
権力はいかに複雑な構造に支えられているか。
同じ世界観をもちながら、どんな卑俗から思惑から亀裂は生じるのか。
この夏の都知事選で敗北した野党共闘を見るにつけ、政治と人間への冷徹で豊かな想像力の引き出しを持つことが、市民の側にも不可欠だと思ったという。

政治思想史研究者で放送大学教授の原武史さん(54)も、学生時代に読んだ『邪宗門』の衝撃が忘れられない。壮大なスケールで描かれる『虚構の戦後像』。
マルクス主義の影響がまだ強い中、宗教という土着のものに根差した変革をめざす着想も斬新だった。

促されるように、大学院では、小説のモデルとされる宗教法人大本の本部に、資料収集のために滞在する。
国家への反乱は架空の物語だが、大本の歴史の中で、天皇制や国家神道に対峙したとみられる要素があったことを知った。

「政治と宗教の問題を掘り下げていく自分の研究を、決定的に方向づけた小説です」

一般には難解な点も多い。
でも生前退位問題はじめ天皇制について考えることが重要ないま、作品の問題提起は古びていない、と原さん。

「阿修羅」のごとく悩み続け

すぐれた中国文学者でもあり、母校の京大へ赴任した高橋は、全共闘運動に一定の支持を表明した。
教員の権威主義や知識人の欺瞞に自覚的だった。
やがて学生との板ばさみに苦しみ、39歳の若さで病死する。
葬儀には多くの若者が弔問に訪れ、「思想的事件」と言われた。
「自己指弾」の文学がたどり着いた悲劇と惜しむ論評もあった。

だが批評家の若松英輔さん(48)は、そうした現象的な作家として語られすぎたことが、三島由紀夫と並ぶスターで文学史に残る力量ある作家を「過去の人」にしてしまった理由の一つとみる。

高橋の作品世界の神髄とは「求道者の文学」だと、若松さんは言う。
人間と人間を超えるもの。
語り得ることと語り得ないこと。
時代と永遠。
理想と現実ーーーー。

「ままならない問題の『あいだ』に立って苦しみ抜いたからこそ、宗教を、外側からだけではなく内面の海、実在をもって描き、沃野を切り開くことができた。彼の作品を政治運動や時代の文学置き換えてはいけない。
同時に、あまりに形而上学的に受け止めてもいけないと思います」

個人の実在から世界の成り立ちまで。
「生涯にわたる阿修羅」としての思索の往還が、全体が見えない時代を生きる私たちを、静かに鼓舞する。

(藤生京子)

高橋和巳の憂憤ーー33回忌に

 ●
 高橋和巳の死を知ったのは、軽井沢のホテルだった。
 不安をぬぐいきれぬまま、連休を利用して出かけたつましい家族旅行の旅先。
 急遽、鎌倉・二階堂のお宅の通夜に駆けつけ、泣きくずれた。
「悪かったわね。あなたに本当のこと言わなくて・・・・」
 高橋たか子さんは毅然としていられた。
 肩を叩かれ、私は絶句した。

 
入院先の病院には、同人雑誌仲間の井波律子や古川修と見舞いに行ったのだが、その病状がすでに絶望的であることなど、もとより何も知らされていなかった。

 
 花々に埋まれ、高橋さんは永遠の眠りについていた。
 野辺送りの日、その顔は白く静かに映え、棺に打つ釘音が五月の鎌倉の風にむなしくひびく。やがて斎場で、白骨の一片をつまみながら、私は高橋和巳の死をしだいに確認していた。

 ●
 三十九歳という若さで生き急いだ高橋和巳とは、いったいわれわれにとって何だったのだろう。
 一九六二年、第一回文藝賞『悲の器』で華々しくデビューした高橋和巳は、その翌年、立命館大学文学部講師を辞職。上京して念願の作家生活に入り、『憂鬱なる党派』『散華』『邪宗門』『我が心は石にあらず』『堕落――あるいは内なる曠野』『日本の悪霊』『黄昏の橋』などを精力的に発表する。

 絶望、破滅、堕落、暗黒の下降意識に沿ったモチーフの根源を、高橋和巳はひたすら殉教者のように負った。登場する主人公たちは、いずれも栄光ある国家、社会、組織から宿命的に弾劾される。いや、自らの選良忌避の告認である。ゆえに追放され、地獄の苦悩と叫喚に引き裂かれる。
 われわれはいつも滂沱の涙を流しながら、その小説を読んだ。
 なぜだったか。

 思うに、終世、高橋和巳はやみがたい憂憤に駆られたまま、そこに言動のすべてを収斂させていく。孤立の憂愁と褐色の憤怒。
 その日本的ラディカリズムというべきものが、内なる感覚のくすぶりを挑発し、静かに熱狂させていた。

 一九六七年、恩師の吉川幸次郎博士の強い招聘で京都大学文学部助教授に就任。
「小説も、一種の念力で書くものでね。その念力さえ涌いてくれば、もうこっちのものさ」
 花形作家はよくそう言った。

 学生として大学の研究室を訪ね、大阪・吹田のマンションに遊びに行き、気がつけば同人雑誌『対話』復刊に、私は加わっていた。高橋さんが鎌倉から京都に舞い戻っての月例の読書会は、熱気が入っていった。   そして、生駒・宝山寺前の旅亭での夜を徹した文学論は白熱した。花札に熱中して、三日間、丹前にくるまり、夜も昼も無心に札を引いたこともある。

 やがて、若者のアイドルとなった高橋さんは、全共闘運動とともに尖鋭苛烈な時代の最先端に突き出される。だが、病に倒れ、入院。京大紛争の中で、その内的葛藤を綴った最後の著作が『わが解体』となった。

 ●
 通過儀礼でもあるまいに、大学自治なるものの幻想と虚偽に立ち向かう青年たちに、高橋和巳は新たな政治的実践者としての全存在を賭ける。それは文学の自己指弾、自己処罰としての営為でもあったのだろうが、大学闘争の過程で、義に近い人間関係を重んじ、道義性を深くうつたえ、人間それ自体の変革を説く高橋和巳は、常に蒼白に身を奮わせて迫る。会議、集会、団交、デモ。路上に火炎瓶が炸裂し、学生たちは血を流し、バリケードが築かれる。
 だが、全存在を賭けないお祭り好きの学生たちは興ざめし、孤立と高揚の裂け目がさらに深まる。

 にもかかわらず、高橋和巳は無上に優しかった。泣きたくなるほど、切ない魅力を持っていた。祇園のお座敷に上がり、
「お前に、このお姐さんの美しさが分かるか」
 と酒をぐいぐい飲みながら言った。いや、美しさが分かるかということよりも、この時、高橋さんは私をダシにいったい何を企んでいていたのか。

 また、先斗町の飲み屋では、
「キラリ光った流れ星、燃えるこの身は北の果て、姓は高橋、名は和巳・・・・・」
 と唐獅子牡丹もどきに、音程はずれの『網走番外地』を歌ってくれもした。
 だが、まもなく、夜明けの仮寓で嗚咽し、不規則な生活もたたって脇腹の激痛に苦しむ。大学の教授会にボイコットされて孤立無援の中で鎌倉に帰り、病床で喘ぐその姿を見るのは無上につらかった。

 末期ガンを知らされた梅原猛先生は、病院に見舞いに訪れた時、
「こういうことで腹を切ったんですが、これで、もう自分の業は終わったと思うんですね」
 と高橋和巳は手術した腹部の無残な傷跡を見せながら言った、という。
 聞かされ、凄いことだと私は思った。
 高橋さんは、おそらくその死を覚悟しながらも、本来のあるべき自己の純粋な内面の文学を書くことを悲愴に決意していた。

 ●
 その後のモーレツからビューティフルな高度消費社会、イデオロギー対立の冷戦構造の終焉、また、バブル後の今日の不透明な社会状況の中で、あの憂憤の高橋和巳が、もし元気に生きていたとしたら、どう対応し、変容し、どのような作家的成熟を果たしていたのだろう。

 むろん、あの六〇年代から七〇年代に向けて疾走した極限と葛藤の高橋文学が、ふたたび熱狂的に迎えられるということは、おそらくもうあるまい。だが、それにしても、作家の個性や言動は、もっとつややかに語り伝えられてしかるべきであろう。

 幸いにも、良友に巡り会い、百愁安慰す。
 友愛の詩型を慄然と説く福島泰樹は、高橋和巳に献じる魂の告白として、第十八歌集『黒時雨の歌』を上板。また、藤井省三はひと夏の軽井沢の山荘で、『堕落』における中国皇帝の意味を備えた黄色の傘の存在と文芸評論のあり方について論じ、日本ペンクラブ獄中作家委員会のあった帰りの酒席などで夫馬基彦は「愛読しましたね。あの情念に魅かれましたからね」と言い、そして、小嵐九八郎とは大宮・氷川神社際の雨の夜の料亭で、蜂起には至らずと酌み交わしたことなど、決して忘れることはできない。
 孤独な薄明のリングで、いまなお、高橋和巳は熱っぽく語られつづけている。

 五月、切なく、苦しい。
 われら憂鬱党、同士数人、その夢と志を秘めて、いまだ健在。高橋和巳三十三回忌。一壺をかかげ、初夏、高らかに献杯。
 
『図書新聞』2002年5月25日号


2016年9月30日金曜日

お嬢さん、どうしたの?

お嬢さん、どうしたの?


苦しそうなお嬢さんに、何をしてやればいいの?

先週の木曜日のことだ。
弊社の公開前の中古住宅の洗浄に出かけた。
現場は、横須賀。
洗浄といっても、そんなに難しいことではない。

改装を終えた物件を、リニューアル住宅として販売するための、第一仕事。
購入を考えるお客さんに、いかにアピールできるか、腕の見せ所だ。

弊社の品格、物件の親愛感性を高めたい。
先住者がつけた、駐車場や玄関周り、庭の嫌な汚れを何から何まで、高圧の水を利用して洗い流すことだ。
洗浄の仕事の後は、雑草を引き抜いた。

作業は難しくなく、時間の経過とともに、それなりに成果は得られた。
作業開始は9時、終了したのは13時。
一人っきりの休みのない仕事なので、4時間で、十分、1日分の仕事だ。
それにしても、我輩は疲れた。

小雨打つ中を徒歩で最寄駅まで向かった。
たかだか、20分だ。
京浜急行の追浜駅と横須賀中央駅の間。

国道に面したところで、小雨から本活的な雨に変った。
それでも歩こうか? もう少し横浜寄りの駅までのバスを待とうか? 
悩みは重い!!

それでも、今、私ができることは、歩くことだと決めた。
バス停にいたおばあちゃんの「駅までは、歩いたって10分ぐらいよ」、と言われた言葉に駆り立てられたのだ。

各駅停車の電車だから、気長に席についた。
それから、2、3駅過ぎたころに、、、、、、、驚天動地?の大事件が起こった。

隣席は、年ごろは大学を出たころの、22~24、5才の非の打ちどころのないお嬢さんだった。
細身の可愛らしい娘さんだ。

げっぽげっげっぽと喉を鳴らして、それから吐瀉物を次々とハンカチで拭きかけた。
彼女の表情はかたつぶりのように、固まっていた。
私もギョット固まり、吃驚したのに、頭は、それからそれから大いに狂いだした。

小さなハンカチ1枚で困っている彼女に、私は自分のカバンに入っているタオルを貸すことで、何とかならんもんか、と思った。
彼女は、ハンカチもタオルも一緒くたに、胸から腹を拭いた。

通路の向かい側に座っている人は、30歳ぐらいのスポーツマン。
お前こそ、何かをしてやってくれないか、と歯軋りした。
その隣のオバサンは、横目で苦しむお嬢さんを眺めるだけの、情けなしの能天気ババアだった。
そんな状況の中で、私の頭だけは、狂いに狂った。
オバサンも、あんたも何かをしてやってくれよ。

彼女の吐いた物が座席のシートを汚した。
見て観て、私は、ただ、心苦しく、可哀想に思えて、ここで、何かをしなければ、タモツは死んだも同然だと、笑われそうだ。

彼女は項(うな)垂(だ)れたまま、降車した。
これ以上、おかしくなったら、駅員さんに訴えるのよ、と強く言った。
その足で、車掌さんに、シートの汚れのことを話すと、車掌さんは座席をゴロンとひっくり返した。
そのサマは、何も知らない人には異様に見えただろうが、それで、よかったのだ。

元の自分の席に戻った。
周りの人々は、俺のことを、変なジジイと想ったことだろう、か?

彼女の無事を祈るばかりだ。

2016年9月22日木曜日

爽やかな秋が欲しい

爽やかな秋が欲しい


梅雨でもないのに、台風の影響を受けてのことだろう? 

なんだかこの1か月、空模様のはっきりしない日が、昨日も今日も。

これから、こんな日が何日続くのだろう。


かって、台風が去った翌日は、雨はやみ爽やかな風が吹く台風一過と呼ばれた。
幼いころ、この好い日のことを、台風一過だと憶えた。
日日是好日?

ところが、今年、そんな日は1日たりとて、見せてくれない。
嫌な想いの傷の後遺症なのか?
単純に空模様が悪いせいなのか?
頭のなかが、すっきりしない。

田畑だって野原だって、当然のこと、、、、。
我々も泣いて、喚いて、苦しんでいる。
糞っ垂れ、俺はどうして生き延びれば、いいんだ!!

秋の日は釣瓶(つるべ)落とし

【読み】あきのひはつるべおとし
【意味】秋の日は釣瓶落としとは、秋の日の急速に日が暮れるさまの形容。

今年も、何台かの台風が過ぎ去り、その度に海に囲まれた山稜の我が国は、山が崩れ、川の水が住宅地や商店街に溢れ、橋が壊れ、建築物は住宅だけではなく大型の公共的なものや老人ホームでさえ、木端微塵(こっぱみじん)にやられてしまった。

「釣瓶」とは、水を汲むために竿や縄の先につけて、井戸の中におろす桶(おけ)のこと。
その釣瓶が井戸に滑り落ちるように、秋の日は一気に日があっという間に暮れるということをいう。
以上、釣瓶おとしからの小文はネットよりいただいたものです。


ところが、まだまだ、次の台風の目が控えているようで、安心はしていられない。
人災被害は当然、それ以外の被害だって、目も当てられない状態だ。
心情の悔みをお金でなんて、どうしょうもなく換算できないことぐらい、よく解っている。



でも? だからか?
今日20160922の朝日新聞・朝刊の1面記事を読んで、これまた、驚いた。
その記事というのは、下記のことだ。
可能な限り、ダイジェストさせてもらった。
国の予算を1兆円も、こんなものに使っていたなんて、吾輩、「堪忍袋の緒がきれる」状態だ。
政府が21日、原子力関係閣僚会議を開き、高速増殖炉原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)について「廃炉を含め抜本的な見直し」を表明したことについて、地元からは不信や困惑の声が上がった。
同市の渕上隆信市長は21日夜、市役所で報道陣に対し「日本を豊かにする核燃料サイクルを担っているという誇りを持って応援してきた。それが簡単に変わるのか強い怒りを感じる。地元の意見は何も聞いてもらえなかった」と、もんじゅの存続を強く要望。
福井県議会も21日、「核燃料サイクルの推進には高速炉の研究開発は不可欠で、長期的視野に立ち、覚悟を持って取り組む必要がある」とする意見書を可決した。
一方で「ほとんど動いた実績がないのに、1兆円超がつぎ込まれてきたのは異常。廃炉にかじを切るのは当然だ。

2016年9月16日金曜日

めぐみの秋。まずは柿ザ!

めぐみの秋! そりゃアー柿ザ

  
おいらの果樹園(横浜市保土ヶ谷区今井町と横須賀市衣笠栄町の2か所)では、色とりどりの果物類がもう少ししたら採ってよね、と大きな声を張り上げている。

幾種類も、植えてあるのだ。
なかでも柿は、真っ青で、赤くなるのはいつ頃のことだろう。

社用で不要になった宅地を、会社に対する貸付金の相殺として頂くことになった。
これやァ 嬉しいことなのか?悲しむべきことなのか? 私にも解らない。

幾万種類ある果樹のなかで、柿の木ほど、親しんできたものはない。
葉は茶の代わりに加工され、飲まれることがあったそうだ。
私が頭が痛いと訴えたときに、祖母が煎じ茶を作るときと同じように作ってくれた。
まるで、薬のようだった。

食うことにおいては、我が家の柿は兎も角、親戚の柿も、お隣の柿も、みんな俺のもんだ、と言って憚らなかった。
種類も、いっぱいあった。
大学に入ったころ、今 東光氏の著作物で、ある柿の種類を「チンポがき」と著いていたのを、何故か?思い出してしまった。

浪人中は、涙が出るほど面白くなくて悔しいシーズンだけれど、一夜に食う量は、小さいものならば20個、大きいものならば5~6個は、カル~イものだった。

甘柿だけではない。
渋柿の皮をナイフで切りとることも、母や私の大事な仕事だった。
皮を切りとった柿を、何台もの棚を作って干した。

干しきって、柿の表面に白い粉がついたものが、宇治田原町の干し柿として、商品化した。
わが町の名産品だ。
ここで、要らなくなった皮は、しばらく天日干しにして、ほどよく乾いたものを、漬物の糠に混ぜた。
皮から出た、ナントカナントカが、より良い味覚にしてくれたようだ。

もう一つ忘れていけないことは、渋柿の生渋をとって、それを専門業者に売ることだった。
未熟果を収穫し、空き臼や粉砕機で砕き、圧搾をかけて生渋をとる。

柿の生渋には、タンニンが多く含まれていて、その渋が、番傘とか漁網、釣り糸など、防腐剤として用いられる。
清酒の清澄剤としても使われている。

渋柿は果実が熟するまでは固くって、味は苦い。
その渋柿を、焼酎の入った鍋に2~3日入れて放置しておく。
それを、いただくのだが、甘柿とは違った、古風な味を楽しませてくれる。
ただ、甘いだけではない。
言葉の知らない私には、この微妙で古風な味覚を表現できない。

柿の葉寿司=余り上等なので、これを、食べるだけのことはある。
一口大の酢飯(すめし)に鯖や鮭などの切り身と合わせ、柿の葉で包んで押しをかけたすしだ。

ここまで書き進めてきて、重要なことを思い出した。
お酒をちょっと多い目に飲んだとき、翌日の頭の痛みから抜けられない。

18歳から25歳まで、どうにも避けられないことだった。
二日酔いのとき、そんな朝、柿を思い切りガブ食いすると、何故か、酔いが自然に冷める。
柿肉の科学反応?それともエネルギーが頗(すこぶ)る低いの?
友人から得た知識は、大事にしなくっては!!
イカンなあ




このように、柿は、甘いも渋いも、大いに人間に貢献しているようだ。



 Kaki.JPG

2016年9月11日日曜日

タモツ 祝:生誕68年

タモツ、祝・生誕68年


今月の24日になると、この私、タモツがこの世に生まれて、やっとのことで68年経つ。
後、2年で70歳だ。

父は勝次で母はハナ、祖母はナミ。
3兄弟の一番年下の末っ子だ。
生まれたというのは、昭和23年(1948)のことだ。

昭和34年9月の伊勢湾台風で、稲田に、畳ほどの岩や私の体ほどの大きさの石が流れ込んで、我が家の田は甚大な被害を被った。

5歳上の長男は、父や母と共同で元通りに修復した。
祖母も手伝った。

長男は中学生次男は小学生だった。
私だって小さな石や樹木を拾って、傍の小川に流した。
それ以外は、父や母の周りで遊んでいた。
世間の人から、ヤマオカさんのお家は神聖家族だと、言われていた。

昭和20年(1945)8月15日を、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、全国戦没者追悼式を主催している。
この日を終戦記念日、終戦の日とされている。
私はこの日から3年後に生まれたようだ。

父の兄(叔父)が東南アジアでの戦闘の果てに、インドネシアで罹った悪病に苦しみ、帰還2年目に亡くなった。叔父の人の好さには、風聞で聞かされるごとに、悔しさがこみ上げた。
叔父さんの人並の立派さが私の誇りであった。
独身のまま亡くなったことが、何とも言えない。

父は、数少ない田畑を耕しながらも、銀行から借りた費用で、農地を2倍に広げた。
人力以外、鋤(すき)や鍬(くわ)、鎌(かま)だけの貧しい農民だったが、私が大学に行く頃には、人並み以上の農機具を揃えていた。


この昭和23年の1年間を、備忘のために大事件をネットで知ったことだけでも、ここに列記しておこう。

★昭和23年=1948年 子(ね)の年だ。

1月   帝銀事件(椎名町支店) 行員12人毒殺

2月   朝鮮民主主義人民共和国 設立宣言

3月   第1回NHKのど自慢始まる

4月   東宝争議始まる

     済州島 四・三事件

5月   10歳の美空ひばりデビュー

     「母子手帳」配布される

6月   昭電事件

     13日、作家・太宰 治 玉川上水で情死

7月   第14回オリンピック・ロンドン大会開催
     (日本の参加は不許可)

8月  大韓民国 樹立宣言

9月   アイオン台風 死者・2838人

     全日本学生自治会総連合 結成

     暮らしの手帖 創刊

     本田技研工業設立

     日本人身保護法施行


10月  110番設置

11月  極東国際軍事裁判判決
      7人に絞首刑

12月  GHQ 岸 信介らA級戦犯19人を釈放

2016年9月4日日曜日

寂しい夜の、読書欄です

寂しい夜の、読書欄です


寂しい夜の、私の「楽しみ読書欄」とは、こんなものだ。
この稿は、未だ未だ出来上がってはいないが、少しでいいから、公開してくれよとの声にこたえた。


前回に述べたかったが、書けなかったその読書とは、こんな本のことだ。
この本は、私のお抱(かか)えの本屋(ブック オフ)で、購入した。
購入総額は、お小遣いの一部でまかなえている。
本の内容について、著書のなかの文章をお借りしたので、宜しく了解していただきたい。

この稿は、今日の今日までの原稿に過ぎません。
よって、明日からも、ドンドン追加しますので、気長に御付き合いください。
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① 「推定脅威」  未須本有生(みすもと ゆうき)・文芸春秋
 
スクランブル飛行中の自衛隊航空機が墜落した。
はじめ事故原因はパイロットの単純な操縦ミスとされていたが、航空機メーカーの技術者たちは、どこか不可解なものを感じたようだ。
この影には、防衛省と航空機メーカーが相対する、脅威の正体が、暴露されていく。


「デビュー即日本一の航空小説」=石田衣良
「航空機についての知識に圧倒される。これは強い」=北村 薫



 ② 「化生の海(けしょうのうみ)」  内田康夫・新潮社
  
観光地紹介をメインにした出版局の記者が、知り合いの不幸にどうしても納得できず、死者が 行きがった道を、自ら車や船を利用して、忘れ去られていた犯人を捕まえる。
不幸を受けた側からのささやかな応援も、記者にはありがたかった。

講談社によると、「化生」とは、ーーー
①(仏教語)四生の一つ。母胎や卵からでなく、自らの業力(ごうりき)によって超自然的に発生すること。または、そのもの。諸天・地獄の有情など。
②形をかえて現れること、化身。③ばけもの。変化(へんげ)



 ③ 「廃墟に乞う」  佐々木 譲・文芸春秋

仙道孝司は北海道、捜査一課の敏腕刑事だったが、任務がもとで患った病のため、休職を命じられていた。
幾ら病気だからと言われても、心身は覚めやらずだった。
ようやく回復してきた頃、かって札幌で起きた殺人事件と、同じ手口で、千葉でも性風俗に勤める女性が殺された。

仙道は、札幌で起こったこの事件もあいつの犯行か?と思いついた。
それから、仙道の行動が始まった。
先ずは、犯人の足を追って、旧炭鉱町に向かう。
それから、リゾート村、札幌の倉庫、競走馬生産牧場へだ。

警察手帳も銃も持たない休職刑事が 事件を見出す。
光と闇を駆け出したのだ。



 ④ 「しまなみ幻想」  内田康夫・光文社

「母は殺された?----」

瀬戸内の海に浮んだ、少女の「哀しき疑惑」。
この少女に果てしない情を感じた浅見光彦は、希望の光となれるのか!!

来島海峡から飛び降りた母の死に、疑問を持った少女。
偶然、彼女と知り合った浅見は、その死の真相を調べるため、しまなみ海道へ向かう。

美しき海と島々がおりなす”海道”で、浅見がみたものは!?
浅見と少女の考え道理のことだった。




⑤ 「瑠璃の海」  小池真理子・集英社

副題に、究極の恋の道行く、とあった。


この男の中で壊れてしまいたい。
究極の愛のかたちが呼ぶ、圧倒的な感動。
拡がる共感の声。

バス事故で夫を失った三十代半ばの萌。
娘を失った作家・遊作。
突然の悲劇に結びつけられた二人は、
同じ孤独の淵で愛し合い、終末へと向かう。
運命に弄ばれ、静かな絶望に彩られた愛の行く方は如何に?




⑥ 「孤舟(こしゅう)」  渡辺淳一・集英社

定年退職して始まる本当の孤独!


バラ色の第2の人生のはずが、待っていたのは、夫婦関係と親子関係の危機。
人生最大の転機をいかに乗り切るか!?

主人公の威一郎は、広告会社の大手の会社を、ほぼ1年半前、満60歳になったところで定年退職した。
それから、娘は出て行き、妻だって娘の世話をやくと言って、出て行った。
主人公は一人きりになって、何か有意義な生活をおくれないか、と模索した。
そこで、この本の物語は始まる。

此処で今日これから逢う相手は、先日、デートクラブで約束した女性である。
名前は、小西佐智恵、27歳のオフイスレディだ。




⑦「落第坊主を愛した母」  遠藤周作・海竜社

没後10年記念出版

小学校も中学も不成績で、周囲の者や親戚の人たちから馬鹿にされるばかりか、学校の先生からも馬鹿あつかいを受けて、自分でも俺はほんとに馬鹿ではないかという劣等感に悩まされた。
そうした時に、母は、「お前は一つだけいいところがある。
それは文章を書いたり、話しをするのが上手だから、小説家になったらいい」と、言ってくれた。

遠藤順子(本文より)
遠藤の兄は灘中四年から(昔の中学は五年制)に入学し、一高の二年で(昔の高校は三年制)東大に合格するというような秀才でした。
ところが主人のほうは零点ばかり。
成績順でAからDまでに組み分けされていた灘中では、遠藤正介の弟だからということで一年はA組でしたが、二年B組、三年C組、四年五年はD組という有様でした。
親戚中から周作は仕様がない、仕様がないと非難される中で、母一人がいつも主人をかばってくれたということです。
ですから、主人のファン第一号は間違いなく遠藤の母だと思っています。
「周ちゃんは大きいことをする人間になる」といつもいつも言ってくれたそうです。
「おふくろがいなかったら俺はぐれていただろう」と自分でもよく述懐していました。











2016年8月30日火曜日

俺は気まま、だ!!

俺は気まま、だ!
 
今、貴方はどんな花を見たい?
そンな質問に応えて、
私は、今の今、あの事だって?さり気無く話すことができる。
私の命でさえ、奪おうとした悔しい事故のことだ。

4~5mの高所から落ちた怪我の後遺症も、今では誰にも、何の色気もなく話せるのかと聞かれたら、それはそれは当然でしょ、と言いながらも、悲しさはつきまとう。

そんな我が身でも、歯を食い縛って、何とか生きてゆかなければならない。
それも、有意義に活動的に、そして今まで以上に活発的に。
誇りをもって活きたい。

そんな私が、日々生きていくための力不足にこれらの小説を読んでいる。
情けない奴ザ、とお笑いください。
この本については、余りにも多くて次回にお任せください。


今日のことは、、、、、、?
明日のことは尚更、誰にだって、何が起こるか解らない。
我が身のどこかに、どんな種類の花が、何色で咲くの?
香りは? ーーーー、そんなこと、解らないってことだ。


昔、世界は隈なく戦争に追い込まれた。
「不思議な大砲」と思い込んでいたモノが、原子爆弾だった。
私たちの国の、広島と長崎に落下された。

落下したのは、
広島は1945(昭和20年)  0806 午前08:15
長崎は同年  0809 午前11:02。

沢山の人が亡くなり、それを機に大儲けをした奴や会社や国がある。
実家の周りでは、傷痍に戦死、殺人に廃墟、犠牲者の大量発生。

孤児、夫や子供の戦死による家庭崩壊。
多国間に紛争と紛議、果てに血だらけの闘争。
戦禍は、多種多様、、、、幾らでもある。
生命や財を無くすること、そのことが、未来を悲しいものにした。
実家周辺の農民は心も体も、国益に馳せるどころか、撃ちのまれた。

何が起こるか? それは何が原因だったのか?
それで、結果的に何が、どうなるのか?
何かいいことでも、あるのか。


話を変えよう。
この15年間に、可愛がっていた犬が3頭亡くなった。
そのどれもが、病気のしらない健康モノだった。

15年前には、ラブラドール。

30日前には、シーズン。

1週間前には、ミニチュアピンシャー。

どの犬も亡くなる3日前から、体の動きが少なく、息が弱まって目動きも穏やかになったかなあ、と思ったすぐ後に、静かに息を引き取った。

3頭とも、我が家の家族みんなに見守られた。
私の頭が、少し可笑しくなっているのは、この犬たちの死なのだろうか。

そして今日、近所のラブラドール・ダナが死んだ。
我が家の犬のように接するほど、とんでもなく可愛い奴だった。息子・シュンの飼いたさの熱望に、親父さんが負けたのは16年前だった。


それじゃ、気まぐれに。
天気のことでも考えようか。
俺って、能天気か!!
天気ブログって奴だ?
この俺さまのいい加減な奴仲間と同じ、面白くないブログだ!!!
雷、雪? 霰か?
晴れるのか? 雨が降るのか?

晴れたら? 雨だったら? つまらぬ曇り空?だったら。
空?それとも天気ブログか?

このように考えていたって、一体、どうなるの?

気温は暑くなるのか、冷ややかになるのか。
暑くなったら? 冷ややかになったら?
日射の加減に熱量は? 
濃いのか? 薄いのか?

相(あい)変(かわ)らぬモノだったら、いったい、どうなるの?
この俺さまは、一体、どうなるの?


そんなことを考えたって、結果的に予定と違っても、私の命の在りようは、何も関係なしに存在するザケのこと、と腹を括(くく)っても、しょうがないことだ。

2016年7月24日日曜日

可笑しなことが、いっぱい

可笑しなことが、いっぱい



この平和な世の中、いいことばっかりだと思ってきた私にも、ヘエエ?と思われる、可笑しなことが、いっぱいあることに気づいた。
でも、これらは、人の生きざまについてだ。

ヤマオカさん、そんなことにワーワーゴチャゴチャ言うものでもない。といわれそうなのだが、言いかかった口もとの皺はゆるみません。

何もこのページをもって描くこともないと思われるだろうが、仕方がない。

私自身の生活が余りにも穏便だからか、街中で不思議だなと思うことが良く見かける。


☆バスの中での小さな子供と親父。

昨日7月24日の帰途のことだ。時間は17時25分頃。

幼稚園児の二人の子供が、大きな声で、それも動物園のライオンのように悪戯(ふだけて)いた。
一緒にいるのは、40歳そこそこの親父。
延々と続いた。
何回も何回も、同じ悪戯をして、騒ぎまくった。

親父は、毅然としたお叱りをしない。
俺の頭のシンは切れそうだった。
何故だ?

私は直ぐ後ろの席で、この野郎たちにいつ注意をするべきなのか、悩んでいた。
そのうち、前の席のオバアチャンが、自分の帰りで席を立ったとき、静かに注意をした。
先ずは子供に、その次には親父に対してだった。

子供をいい子に育てるためには、親こそが大事なのですよ。
気をつけてくださいね、、、、、、静かな口調だった。

私だって、終着駅でこの親父に、子供も大事、大人も大事ですね、と念じた。
言い過ぎだっただろうか。

この横浜市交通局の106号の運転手の言葉遣いが、丁寧で気が利いていることにも、感謝している。

運転中でも、中ほど(通路の中ほどのこと)にお立ちのお客様は、少し後ろの方にお詰めください。
もう少し、みなさんをお乗せしたいのです。
右に回ります、左に回ります。
道路の面が荒く、バスが揺れます。



☆バスのなかでのオバサンの振る舞い。

バスの真っ先の席に座っている長髪のお姉さんのことについて、話したい。
運転手さんの隣の席だ。

顔も見ないこのオバサンの容姿が気にいって、恥ずかしながら、視線が留まることが多かった。
そして、5分、10分経ったころから、彼女が両手で自分の髪をとぎだしたか。

事がよほど許せば、振れることだって許してもえもらえる事態だって、生まれる、かもしれない。
ところが、事態じゃ急にあらぬ方に進んだ、。

髪の毛をコシコシ手で「トグ」ことを、「とぎだした」とは、間違いですか。
唯、それだけなら気も済むところだが、このオバサン、ちょっと下品過ぎるのだ。
両手で髪をこすりながら、出てきた抜け毛やゴミを通用路に捨てる。

このことを、何回も何回もやっても、飽きないどころか、気が済みそうにない。

こんな女が、居て堪るかと思ったが、流石にクレームを言えなかった。



☆バスの運転手さんの振る舞い。

横浜市交通局
先日三浦半島を営業の拠点にしているバスに乗って、非常に嫌な想いをした。

ところが、私が一番仕事や私事でお節介になっているのが、横浜市交通局の106号のバスだ。

このバスの運転にかかわっている運転手さんのなんて、気の利いたことヨ、と大きな声で叫びたくなって、この項は始まる。

運転手さんは、体の不自由な人や老人たちに対する心配りには感動した。

この私だって、見かけには痛みなんて誰も想像はつかないだろうが、運転手さんによく見分けられた。
足を痛めている私が、座席に着くまで、よ~く待ってくれた。

足が痛くて、速く歩けないのを見破り、ゆっくり席を見つけて、座って下さいね、丁寧な言葉遣いだった。




2016年7月23日土曜日

暑気払いを、どうするの?

暑気払いを、どうするの?



暑気払いを、どうするの?

今日は、20160723。
土曜日、雨は降っていないが曇り空。

昨日、今日に明日、雨と気温に気をとられ、矢鱈、周到に、この暑気払いのことをよく考えるようになった。
今日は、仕入れ予定物件を数件見て、まだまだ見なくちゃいけない物件が控えている。
私は自動車の後部座席でうんだりして乗せてもらっているだけだから、疲労度は俄然少なくてすむ。
が、運転している社長さんは、さぞかし苦しいだろう。

何故なら、この俺様は、今まで、68歳になるまで、寒さや暑さに苦しんだことがないからだ。
でも、私の周りには暑さ惚(ぼ)け、寒さ嫌いが余りにも多いのに、驚いている。
言っておきますが、私は今まで、気温その他で気をもんだことはない。
苦しくないのだ。
大学時代、4年間朝から晩まで、グラウンドで走ったり蹴ったり、猛烈な練習に耐えてきた。

そこで皆さんに、暑さ、寒さについて、もっと頑張れないものですか?と聞きたかった。

「暑さ」と言ったって、日々の太陽のうねりが作る雰囲気=熱気球が、暑い体を先ずは冷やし、冷やすことでカロリーを消費させる。
こんなこと、よくよく解りきっている。
正確には、「暑気払い」とは、人によって対処は違うけれど、暑い夏に冷たい食べ物や体を冷やす効果のあるものを食べて、体中の熱気を取り除こうとすることだ。

薬がなかった時は、暑くなった体を漢方の飲み薬で癒し、冷えた体に鞭を打った。
でも、恐れることなかれ、体温は正常でも、水や塩の変調によって、いわゆる「暑気あたり」になることだってある。
怖ろしい軽薄な行為は避けたい?

正確には、体温調整中枢の機能が障害され、発汗が止まり、体温の異常な上昇をきたすのが特徴だ。
この暑気払いとは、この忌み深い糞暑気を、意味深く慎重に、積極的に引き払おう、とすることだ。

2016年7月17日日曜日

哀しい梅雨のこころ? 哉(かな)!

哀しい梅雨のこころ? 哉(かな)!


哀しい梅雨のこころ? 哉(かな)!

自ら克つ者は強し(老子)

梅雨の季節が続く、昨日に今日、明日もきっと、、、、
空は、真っ黒なジュウタンが拡(ひろ)がれたように、いつまでも変らない。
気温は、暑い、暑い、、、


すかっとしない頭の中は、この鬱陶しい季節そのものの関係だけではない。
そんなことは、絶対無い筈だ、と解りきっている。
でも、でもだ、十二分に解りきっているのだが、この鬱陶しさをなんとか、したい。
これ、私だけの信念ではない。

梅雨乗り越えの秘策を書面にでも、書き記しておきたいと想った。
気休めだ、と言えば、叱られそう。


ゴチャゴチャした不思議な頭の中に、老子の名言だけが、理由もなく浮かぶ。
恰も、全てを解決できそうに。

この名言は、自分の心の欲望に勝つ者ほど強いものはない、と言うことなんだが、それだけでは話が進まない。この名言は、著・野本米吉の「ことわざと名言辞典」からいただいた。
「法学書院」発行
私の机上の書だ。


これでは、曖昧過ぎる。
もっと、もっと、もっと丁寧に、豆粒を一つづつ箸で拾い上げるように、納得できるように話してくれませんか。

私の頭は、狂っているんです、ヨ。
この数日のように、降りしきる一つ一つの雨粒に、何か不思議なものが含まれているんではないか、とか。
天の神様までが、人間どもに苦羞や哀愁を与えようとしているのか。
雨粒のなかに、人間どもが嬉しくなるモノや楽しくなるモノが含まれているのか?
額に滲む汗までが、この俺を苦しめる。

今朝、会社までの徒歩中、思いついたことがある。
日常の生活や勤務において、そこで発生した、他人には言えない悲しいやり繰りが、会社や学校で、ゴミになりチリになり、狂わせているのではないか、と。
肉親たちの口吻、かって愛し合った男と女の愛の言葉に、二度と交わしたくない言葉。
はしたない言葉。
愛なんて忘れちゃった、老人や若者たちの極めて普段の生活から。

ヤクザな悪意極まりない悪態行為や、下品なナセル技(わざ)と交う怖い殺気。
このやるせなさが、人間の世界を行き交う。
それらの気風が、周りの人間まで狂わせる。
それも、梅雨の一現象なのかもしれない。

それらのモノが揉(も)まれ擦(こす)れ、果てに高度な化学?変化を起こして、人間たちが住みにくくさせられているのではないか。

ちょっとでも速く、この糞面白くない梅雨時期から逃げ切りたい。


2016年7月3日日曜日

名犬ポン(った)が亡くなった

名犬ポン(った)が亡くなった




名犬ポン(った)が今朝6時、亡くなった。

この犬は、私の次女が犬屋さんでもらってきたもの。
犬種はシーズー  雄。
中国産といわれている。
年齢は16歳を過ぎた頃だろう。
三女が、機嫌を悪くした名犬を胸に抱えているうちに、呼吸が弱り、最後には息絶えた。
この1週間、特に肺炎が激しかった。
老衰での痛みも激しく、彼の寿命をソロソロかと、心配していた。

2頭いた犬のうちポン(った)が居なくなって、我が家ではツバ1頭になってしまった。
この犬種は、ミニチュア・ピンシャー。
いつか、その素晴らしい姿を紹介したい。

この犬は、次女にも大いに可愛がってもらったが、次女にも色々都合があって、我が夫婦が面倒をみることになった。
冥途に入った彼(ポンった)に、今更、失礼だと思うけれど、いただいた時は、頗(すこぶ)る情けない顔をしていた。
一見、とぼけた風体に間抜けた顔立ち。

次女が飼いだして間もなく、次女は自分の家を建てることになった。
ところが、次女の夫が犬や猫と一緒に住めない体の事情があって、私たち夫婦が飼うことになった。
でも、住まいの環境その他で、私たち夫婦ではなく三女が一緒に住むことを望んでくれた。
三女の家は、私の家のすぐ傍だ。

飼いだして間もなく、餌を用意したときの嬉しそうな仕種と顏立ちに、私は可笑しくなる程狂いだした。
犬よりも、私の方が嬉しかったのか?
散歩に外出するときは、満面に笑みだ。
全身を使っての大喜び。
嗚呼、この無上の可愛さよ!!

私にも、今後のこの子との一生に励んでみせる、そんな気概が高まった。
犬屋さんが言う悪口なんて糞食らえ。
「この子の欠点なんて知るものか」
俺の家族の一員だと腹を括(くく)った。

スタンダードプードル
ネットでお借りした

体の具合の調子や、食事については、ほとんどが妻と三女が手をやいた。
犬は手をやいてくれる人には、誰だって気を許すものだ。

この犬は、次女の顏の広さだろう、馴染みの犬屋さんからいただいたモノだ。
このような言い方をすれば、私がいかにいい加減な奴だと思われるかもしれないが、残念だが、仕方がない。

ところがドッコイ、一緒に住めば住むほど、愛情は、、、、愛情は、、、、
根こそぎ深まるものだ。
健康だった!
焼却後に観たポン(った)の骨は、丸で真っ白で、神々しく感じられた。

参会者は
私と妻、それに妻の母
三女と夫とその長女
長女夫婦と二人の娘、長女と次女。

誰もが、ポン(った)のことを可愛がってくれた。


2016年6月21日火曜日

アリ死去。 信念の拳 世界を揺るがした




20160603 モハメド・アリさんが死去した。

信念の拳 世界を揺るがした。






彼こそが、世界の、スポーツを愛する人々、人の権利を尊重する人々、人種差別の撤廃や信仰の自由を高らかに奉じた人間らの、世界チャンピオンだった。

誰よりも、隣人をこよなく愛した。

この3日に、我らの神様だったアリさんが亡くなった。
瞬間、私の体も死んだように固くなってしまった。
翌日、アリのことを報じる記事が、朝日新聞に載った。

今後のためにも、是非、転載させてもらうべきだと考えた。


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 朝日新聞が報道した記事を、今後のために書き残しておこうと思った。


 
1965年の防衛戦の1回、前王者のリストン(手前)をKOし、雄叫びを上げるアリ=AP
 


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先ずは、20160604の朝日新聞夕刊から。

モハメド・アリ氏 死去
元ヘビー級王者・徴兵拒否

プロボクシングの元ヘビー級王者、モハメド・アリさんが3日、米アリゾナ州の病院で死去した。
74歳だった。米NBCが報じた。
リングの外でもベトナム戦争への反対や人種差別、信仰の自由をめぐる言動で注目を集め、20世紀の米社会を代表する人物の1人だった。

1942年、カシアス・クレイとして米ケンタッキー州ルイビルで生まれ、12歳カラボクシングを始めた。
60年のローマ五輪で、ライトヘビー級の金メダルを獲得したが、自伝によると、米国への帰国後に黒人であることを理由にレストランで食事の提供を拒まれ、川に投げ捨てたという。

プロ転向後の64年にヘビー級王者に挑戦。
前評判では不利とされたが、、「チョウのように舞い、ハチのように刺す」という言葉通りにソニー・リストンを破り、世界王者となった。
同じころ、黒人指導者のマルコムXらの影響を受けテイスラム教に改宗し、名前をモハメド・アリに改めた。

プロとして無敗のままだった67年、信仰とベトナム戦争への反対を理由に米軍への入隊を拒否。
ボクシングライセンスを剥奪(はくだつ)され、王座も失ったが、「私とベトコンの間に争いはない」との言葉が有名となるなど、世論に影響を与えた。

70年にライセンスを再び取得してリングに復帰。
74年に、当時無敗の世界王者だったジョージ・フォーアマンに勝利し、7年ぶりに王者に返り咲いた。
78年にレォン・スピンクスに敗れたが、同年の再対決で勝ち、3度目の王者となった。

81年の引退後は人道的活動に力を入れ、国連の「平和大使」にも指名されたが、パーキンソン病を発症し、次第に活動が難しくなった。
96年のアトランタ五輪では、病気の影響で手が震えながら、聖火点灯の大役を果たした近年は体調が優れず、入院を繰り返していた。

(ダラス=中井大助)


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20160605の朝日新聞朝刊から。


信念の拳 世界を揺るがした

モハメド・アリさん死去


プロボクシングの元ヘビー級王者、モハメド・アリさんが3日、米アリゾナ州の病院で死去した。
74歳だった。
家族の代理人によると、「32年間にわたルパーキンソン病との闘病の末」だった。
オバマ米大統領が「モハメド・アリは世界を揺るがした。
そして、それによって世界はより良い場所になった」と声明を出すなど、その死を悼む声が広がっている。

オバマ氏は声明で、自らの書斎にアリのグローブと写真を飾っていることを明らかにした。
ベトナム戦争への反対や信仰を理由に米軍への入隊を拒否して王座を失っても立場を貫き、やがて復帰して勝利したことが「(より多様な)今日の米国に私たちを慣れさせてくれた」と述べた。

1996年にアリさんが聖火を点灯した米アトランタ五輪の際の大統領ダッタクリントン氏も、「栄光と試練を通じて、その伝説よりさらに偉大になった男性と、友情を築けて光栄だった」との声明を発表。
映画監督や歌手、政治家ら著名人が相次いで追悼の声明を出している。

アリさんは42年、米ケンタッキー州ルイビルで生まれ、旧名はカシアス・クレイ。
60年のローマ五輪でライトヘビー級の金メダル獲得したが、自伝では、帰国後に黒人であることを理由にレストランで食事の提供を拒まれ、メダルを川に投げ捨てたとしている。

プロ転向後の64年、「チョウのように舞い、ハチのように刺す」という言葉通りの闘いぶりでソニー・リストンを破り、ヘビー級の世界王者に。
同じころ、黒人指導者のマルコムⅩらの影響を受けてイスラム教に改宗し、名前もモハメド・アリに改めた。

67年、ベトナク戦争への反対などから米軍入隊を拒否して王座を剥奪(はくだつ)されたが、「私とベトコンの間に争いはない」と述べるなど、世論に影響を与えた。
70年にリングに復帰すると、74年にジョージ・フォアマンに勝って7年ぶりに王者に返り咲く。
81年の引退後は人道的活動に力を入れたが、パーキンソン病の影響で次第に活動が難しくなった。

(ダラス=中井大助)



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アリ逝く 伝説残し


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チョウのように舞い、ハチのように刺す

速く華麗な技 挑発の元祖


「均整の取れたアスリートという印象だった」。
国際的マッチメーカーのジョー小泉氏は、1974年にアリが来日した時、公開練習で見た肉体が脳裏に残っている。

「チョウのように舞い、ハチのように刺す」と評されたアリのボクシング。
スピードとテクニックを追求するスタイルは、ヘビー級では異端だった。

「強いパンチを打ち込み合う力比べが当たり前だったヘビー級で、華麗なフットワークとスピードのあるパンチ、鋭いジャブを使うボクシングを後世に残した」と小泉氏。

74年に2度目の王座に返り咲いた「キンシャサの奇跡」を旧ザイール(現コンゴ民主共和国)で取材したボクシング専門誌元編集長の前田衷氏も「相手に打たせずに打つという軽量級のボクシングをあの時代に持ち込んだのは新鮮で、驚異的だった」と振り返る。

アリはリング外でも、それまでのボクサーにナカッタスタイルを持ち込んだ。
試合前の記者会見でのパフォーマンスだ。
「ボクサーは拳で戦うのであり、口で戦うのではないといわれた時代に、プロモーターに任せられていた興行面を自らが盛り上げた」と前田氏は解説する。

例えば、試合前の挑発。KOラウンドの予告のほか、ジョージ・フォアマンをミイラ、ジョー・フレイジャーをゴリラに例えた。
「テレビが発達した時代。映像を利用して自分を売り込む戦略を使った」と小泉氏。
日本ボクシングでは亀田兄弟の挑発が記憶に新しいが、元をたどればアリだった。

(編集委員・中小路徹)


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同時代にいてくれた

元世界2階級王者の原田政彦氏
「(アリは)常に話題を振りまき影響力もあった。モハメド・アリという存在があったので、私も世界王者として広く認めてもらえたと思う。1歳年上のアリが、同じ時代にいてくれたことに感謝したい

元WBAライトフライ級王者の具志堅用高氏
「ボクシングを始めた頃の英雄だった。プロの本当の面白さを教えてくれた。フットワークと、相手のパンチをもらわないところはすごいと思った。今のヘビー級にあのような選手はいない」

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「最も大切な一部 逝ってしまった」
フォアマン、別れの言葉

ツイッター上では、ボクシング界のかってのスターたちがアリの死を悼んだ。
「キンシャサの奇跡」でアリと死闘を繰り広げた67歳ノジョージ・フォアマン(米)は「自分のなかで、最も大切な一部が逝ってしまった」と書き込んだ。元ヘビー級統一王者のマイク・タイソン(米)は「神がチャンピオンを迎えに来た。偉大なる王者よ、さようなら」と別れの言葉を贈った。
プロボクシングで49戦全勝、世界5階級を制覇し、昨年引退したフロイド・メイウェザー(米)は「私の心は、先駆者であり、本物の伝説であり、ヒーローである彼とともにある」。世界6階級制覇を果たしたマニー・パッキャオ(フィリピン)は「我々は今日、偉人を失った。私の心と祈りは、アリの家族とともにある。彼らに神のご加護があらんことを」と書き記した。


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1968年2月、米シカゴで開かれた黒人ムスリム大会で話すモハメド・アリさん=AP


人種の平等 訴え続ける


アリさん死去 
  
政治的発言 最後まで

3日に死去した、ボクシングの元世界王者モハメド・アリさんはスポーツ・イラストレイテッド誌が「20世紀最高のスポーツマン」に選ぶなど、米国のスポーツ選手でも突出した存在感を持っていた。1960年代には言動が米世論を二分することもあったが、後年は全米の尊敬を集めた。

最初に大きく米社会に波紋を起こしたのは、ヘビー級世界王者になった64年。イスラム教へ改宗し、名前も改めた。米メディアの多くは以前の名前の「カシアス・クレイ」を使い続けたが、アリさんは「それは奴隷の名前で、私はもう奴隷ではない」と反発。黒人への差別についても強く発言するようになった。

67年には、ベトナム戦争への反対と信仰を理由に米軍への入隊を拒否し、王座を剥奪される。

だが、ベトナム戦争への反対が広がるなか、アリさんの姿勢も支持を集めるようになる。
ボクシングから離れていた間は全米の大学をまわり、講演で人種の平等などを訴えた。徴兵拒否の罪で起訴され、一、二審では禁錮5年の実刑判決を言い渡されたが、最高裁まで争い、71年には、「良心的拒否を認めない理由が明示されなかった」として有罪が翻された。

70年にリングに復帰した後はスポーツ選手としての実績に加え、信念を通した姿勢が米国でも評価されるようになった。74年に「キンシャサの奇跡」と呼ばれた一戦で世界王者に返り咲くと、初めてホワイトハウスに招かれた。

引退後はパーキンソン病との闘いが始まったが、96年のアトランタ五輪で手を震わせながらも聖火を点灯する場面は感動を呼び、死去を伝えるニュースでも何度も流れている。2005年には、米国の民間人に対する最高勲章である大統領自由勲章を授与された。

症状もあり、かってのような鋭い言葉を発することはなくなったが、政治的な発信は最後まで続けた。共和党の大統領候補に名乗りを上げていたドナルド・トランプ氏が昨年に、イスラム教徒の米国への入国禁止を打ち出した際には「イスラム教徒として、自らの利益を得るためにイスラム教を利用する人に立ち向かわなければならない」との声明を米メディアに発表していた。

トランプ氏は「本当に偉大なチャンピオンであり素晴らしい人間だった」とツイッターで追随した。

(ダラス=中井大助)


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世紀の異種戦 

心躍った


アリさん死去

猪木さん「人生戦い抜いた友」

伝説のボクサー、モハメド・アリさんが3日、亡くなった。生前、日本人格闘家と相まみえた一戦がる。1976年に東京・日本武道館で行われた元プロレスラーのアントニオ猪木さん(73)との異種格闘技戦。前代未聞のイベントは国民的な注目を集めた。

「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた2人の試合。ファイトマネーは、アリーさんが18億円、猪木さんが6億円と破格だった。

プロレスファンで知られる直木賞作家の村松友視さん(76)は、「スポーツと見られていなかったプロレス界の男と、五輪金メダルをとった世界一のボクサーが試合をする。八百長で引き分けになるのではという見方もあり、一気に興味が膨れあがった」と振り返る。

試合は、猪木さんがリングに寝転がったまま蹴り繰り返し、アリさんもパンチではなく足蹴りで応酬。終盤には猪木さんがタックルを決め、アリさんが左ストレートを食らわす場面もあったが、結果は引き分け。

「メディアでは世紀の凡戦という評価。でも、互いの武器が違う中で隙を探りあった緊張感のある試合だった。それぞれの世界を背負った真剣勝負だった」と村松さん。テレビの視聴率は40%に迫った。

猪木さんは4日夕、都内で開いた会見に、黒色のネクタイとマフラー姿で現れた。「後にアリは『あんなに怖い試合はなかった』と言っていた。俺にも緊張と興奮、そして怖さがあった。お互いあれでよかったんだと認め合った」。26日、伝説の一戦から40年を迎える。「できれば日本にきて欲しかった」と惜しみながら、「人生を戦い抜いた友として冥福をお祈りしたい」と結んだ。

(菅沼遼)


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モハメド・アリさんの歩み

1942年   米ケンタッキー州ルイビルに生まれる

1960年   ローマ五輪のボクシングライトヘビー級で金メダル

1964年   世界ヘビー級王者に。
         イスラヌ教への改宗を発表

1967年   ベトナム戦争への徴兵拒否で有罪判決を受け、タイトル剥奪

1972年   初来日し、マック・フォスターに判定勝ち

1974年   ジョージ・フォアマンにKO勝ちする「キンシャサの奇跡」で、
         2度目のヘビー級王座に返り咲き

1976年   再来日。プロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」、
         を戦い、引き分ける    

1978年   レオン・スビンクスに王座を奪われるが、
         スビンクスとの再戦で3度目の王座獲得

1981年   引退

1996年   アトランタ五輪で聖火を点灯

2009年   オバマ大統領の就任式に出席

2016年   6月3日 死去


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「私のヒーロー」 「勇気忘れない」

世界の著名人ら




1974年、王者フォアマン(手前)を倒したアリ。
「キンシャサの奇跡」と呼ばれた=AP




1996年アトランタ五輪の開会式で聖火を持つモハメド・アリさん=ロイター


モハメド・アリさんお死去を米メディアはトップニュースで伝えている。ニューヨーク・タイムズは「ボクシングと20世紀の巨人」と表現。ウォールストーリート・ジャーナルは自由な言論や社会の変革を掲げた姿勢を評価し、「スポーツ界において比類のない功績を残した」と記した。


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20160605

朝日新聞/天声人語

プロボクシングの人気者になった黒人青年が、名前をカシアス・クレイから、イスラム風のモハメド・アリに変えた。白人優位を批判するイスラム教のグループの影響を受けて、改宗していた。奴隷にされた先祖が所有者から与えられた名前を返上する意味もあった。

改名は、強い批判にさらされる。彼は後に、作家のトマス・ハウザー氏に悔しそうに語っている。「もし俺が白人の思うようなもっとアメリカ的な名前が欲しくてーーーースミスとかジョーンズとかに改名したなら、誰も文句はつけなかったろうよ」。

74歳で亡くなったモハメド・アリ氏は、間違いなくアメリカの英雄であった。弾むようなフットワークと鋭いパンチで観衆を魅了し、みたび王座に就いた。しかしその生涯は、自分の国との距離を測りかねていたように見える。

アマチュア時代の1960年、ローマ五輪で金メダルに輝いた。誇らしく帰国したものの、レストランでは「黒人はおことわり」と言われた。屈辱と衝撃と孤独を感じたと、自伝にある。

ベトナム戦争に反対して徴兵を拒否し、王座を剥奪された。人びとが無益に死んでいくのが耐えられなかった、と後に語っている。 「すべての人が考えるべき抵抗だったーーー自由とは自分の信念を守ることができるということだ」。

アリ氏はかって、試合相手をこきおろす弁舌で知られた。それは社会や政治にも向けられた。もう一つの重く鋭いパンチを、アメリカはどれだけ真摯に受け止めてきただろうか。

2016年6月20日月曜日

悪霊の午後

悪霊の午後


悪霊の午後=遠藤周作


この本のことを、遠藤周作氏の「魔性の女シリーズ」の一つだ、と友人から聞いていた。
それとも、簡単に言えば。
魔性の作家による魔性的小説と思いこめば、いいのか。

この本を読む前から、遠藤周作氏の本が好き?でもなく、気がかりに?でもなく、頭の中に残って忘れられない-----シコリものだ。
読者に、シコリものを残す性根の強い作家だ。

「悪霊の午後」。
この作家が書いたものだから、まずは読み出した。
ちょっとでも、全部でも、、、、、読まないと話は始まらない。
小説とは、そういうものだ。

ヤマオカは、古本でも新刊でも、私の心はどうにも治まらない。
読まないわけには、いかない。
悪名とは何だ? 午後とは何だ?
題名からの妄想も、次から次に浮かぶ。

※この小説の読後感想を、ネットで得た内容を元に書いた。
書き始めると、どうしても山岡が自ら書いたようにように思われるかもしれない。
が、再度、繰り返しますが、ネットで得た文章に私が乗っかったようになってしまった。
そのことを、冒頭で述べるべきだった。

美しい女性があらわれてきた。
この女性が、マ・セ・イ的な小説の張本人か?
本の題名の「悪霊」とは、この女性のことだ、と直感した。
ここで、心がワクワクし出した。

この女性は、作家の藤綱の秘書として仕事を始めるのだが、この美女には、どうも恐るべきトゲがある。
彼女に取り掛かる人々は異常な心理や何かにのりうつられたりするのだ。
この美女こそ、有刺鉄線だ?

最初の奇っ怪なことは、この美女の夫の交通事故死だ。
自分に厳しく、規律を重んじる有名作家の藤綱を中心として話は進む。
大学で講師をしていた時の教え子が、自動車単独事故で死亡した。
死亡したのは、南条。
これが、この本の最初の奇っ怪な出来事の始まりだ。
不可解な事故だ。
この事故の原因に、妻も何らかのことにかかわっていたのではないか、と思う人も現れる。

そこに、教え子の妻であった美しい女、これがどうも魔性的、、、、、が浮上してくる。
この妻は、美人で、夫の見知らぬ交通事故にもかかわらず、恰も何もなかったように生活していた。

話はこれからだ。
南条の大学時代からの友人として、菊池は怪しい行動をなす。
菊池はサラリーマンとしては、ちょっと恐ろしい行動をおこすタイプである。
その菊池が、身のうえの事情にかかわらず、南条の妻に密かな恋心を持ちはじめる。

藤綱は、そんな菊池の強引な勧めで、彼女を秘書に迎えた。
ところが、藤綱は、仕事以外の部分で、秘書のプライベートな動作に不審な一面を見てしまう。
南条が交通事故で亡くなって、まだ多くの日が過ぎ去ったわけでもないのに、自宅ではないマンションに男と連れ立って入っていた。
このマンションで行われていることが、どうにも不思議感が抜けない。
藤綱も、この美女に関係する人たちと同じように、何かを感じた。
理解できない不思議さだ。

それ以来、元秘書の美女の周辺で可笑しな出来事が絶えない。
実に、魔性なのだ。

次のようなことが、何故?起こり得るの?-----どうしてなの?

・過去のことを、実にあったかのようにあばく。
・美女に関係した者たちは、美女の夫の死を疑わしいと思いだした。
・画廊に今まで働いていた人が、美女と接した後、万引きに手を染めて堕ちていく。
・美女が就職した画廊では、今まで画廊で働いていた人が、何故か首になった。
・有名な画伯が、マンション内で、赤子の真似ごとをしていたらしい。
・この画伯の、気が狂ったような行為が、過ぎる。

美人を追っていた菊池は、前記の異常な現象に引き込まれ、この術中にはめられていく。

ここで、もう一つの大事件が起こる。
菊池は自らも抑えきれず、美女から自殺願望について告げられ、もはやその呪縛から逃れられない窮地に追い込まれる。

何故だ?
それだけではない。
南条は、精神的に悩みぬいたあげく、結果、美女の友人を扼殺することになってなってしまう。

肝心要の藤綱も、この美女から悪魔の象徴に追いかけられ、精神病に駆り立てられていく。
精神科の治療を受けつつも、病院の屋上から自殺するまで、弱っていた。
でも、何とか自殺を止められたのは、彼の女房の献身だった。

人の心の奥底に抑圧されている願望の栓が開かれるとき、人は滅亡に向かっていく。





2016年6月10日金曜日

日本で一番美しい花は?

日本で一番美しい花は?

★年の瀬までに、これから咲く花のなかで、日本で一番美しい花は蓮(ハス)だと言う人がいる。

私は、祖母が育てていたダリアとか百日草、向日葵(ひまわり)が気に入っていた。
祖母や母がやっていたモノこそ最高のモノと思い込んでいる。
でも、そんな影は、田舎を後にして45年も経てば、すっかり薄れてしまったようだ。

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★雨の日の休日。
高次脳機能障害で、怪しげに固まってしまった脳を、少しは緩めたくて、一体、日本人はどのような花が一番美しい、と思っているのだろうか、と考え出した。
頭に、新鮮な血を巡らせたかった。

私の脳は傷ついたままだが、美しいものを観て蘇りたい。
でも、今日は、脳の怪我については語らない。
休日を、少しでも愉しいものにしたい。

桜なのかツツジなのか、それとも吃驚するほど思わぬ花を告げる人が現れたら、エエのに。
それほど、私の頭はコチコチ!
いわゆる感性が薄まってしまった。

気分を好くする色や香り、見た目が格好いい花を、見つけ出せない。

そんなコチコチ頭だけれど、蓮(ハス)のことを浮かべた。

蓮のことを皆はどう感じているのだろうか? 脳足(ノー・タ)リんの私には、これこそが重要なことだった。

蓮の花は朝に咲いて、夕方に蕾に戻るようだ。
何故だ?
不思議な花だ。

綺麗な水でも、蓮は花を咲かせることはできるが、大きな花を咲かそうとするのであれば、泥水が必要になるそうだ。
何故だ?
これは、第二の不思議だ。

鶴岡八幡宮源平池のハス


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★実は今回のブログで本当に言いたかったのは、日本で一番美しい花が何なのか?ではなく、私自身に、それを判断できるだけの感性が弱っていることだった。

嘆かわしい、私の感性不足が、何よりも何よりも貧困なのだ。


★ 以下の文章と写真は、ネットのものをそのまま引用させていただいた。

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮


源氏池

源氏池


平家池

平家池

鎌倉八幡宮の正面の両側に広がり、かっては東の源氏池に三つの島が、西の平家池に四つの島が配されていた。
三は「産」で源氏の繁栄を、四は「死」で平家の滅亡を祈願したためと伝われている。


★鎌倉のハスは、鶴岡八幡宮の源平池で咲くハスと、大賀博士が発見した大賀ハスが咲く、材木座にある光明寺が名所です。

開花時期はハスの花の種類や咲く場所、気候の状況によって違いがあるが、大体、7月から8月です。

かっては、「源氏の白旗」と「平家の赤旗」にちなんで、源氏池には「白ハス」が、平家池には「紅ハス」が植えられていたといいますが、現在は紅白咲き乱れている。






2016年6月3日金曜日

陀羅尼助(だらにすけ)って、日本最古の胃腸薬

「陀羅尼助って、日本最古の胃腸薬」 
「腹によし 歴史が支える胃腸薬」



約300年前から「陀羅尼助」を製造、販売している藤井利三郎薬坊。
昔ながらの看板が目立つ=奈良県吉野町


上のタイトルで、20160531の朝日新聞の夕刊に特集されていた。
目を牙(きば)、脳を鱗(うろこ)にして読んだ。

この記事を捨てるわけにはイカナイと、観念した。
この体(てい)の材料に、田舎を去ってから、極めて興味が深いのだ。

私にだって、センブリ(千振)を煎じたものを飲まされたことはある。
お腹が痛くなったり、頭痛を起こした際に祖母が用意してくれた。

センブリは「リンドウ科センブリ属」の二年草。
薬草として利用され、生薬及び当薬といわれていた。

記事には「ダラニスケ」とあるが、日常的には「ダラスケ」と呼ばれていた。
昨年から同居をはじめた義祖母(妻の母)は、幼少の頃から、この薬のことをよ~く知っていた、そうだ。

ニュースの所在が、大峰山の麓、奈良市となれば、関心が深まるのはしょうがない。

私は、くたばっても京都府の出だ。
奈良市はお隣だ。

★ ネットで、藤井利三郎薬房の
陀羅尼助の成分として、次のようなことが書いてあるのを発見して、それも付け加える。

①オウバク(キハダ)
オウバクはベルベリンを主成分とする生薬で、抗炎作用があり、漢方では健胃、消炎、消化不良などに用いられる。

②センブリ
我が国の民間薬として古来より、苦味性の健胃消化剤として、胃弱、胃部・腹部膨満感、胃のむかづきなどに用いられる。

③ゲンチアナ
ヨーロッパでも古くから薬効が認められた生薬で、強い苦味が胃液の分泌を促し、食欲不振、消化不良に効果がある。

④延命草
古くから苦味、健胃薬として民間薬に配合され、消化不良、食欲不振などに用いられる。

⑤ゲンノショウコ
日本で古くから建胃、整腸薬として民間療法に用いられ、慢性の胃腸病、胃弱などに効果がある。

⑥その他
ニンジンやケイヒなども、胃弱対策用に含まれている。


★ 私のブログに、新聞記事そのままを転載しておこう。
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胃腸薬に使う金額が、全国の県庁所在地と政令指定市の中で一番多いのが奈良市だ。

総務省の昨年の調査では、2人以上の世帯で1年あたり1919円を使う。
なぜ多いのか。
「なかなか難しいですがーーー」

奈良県薬務課の中村正主幹(54)が悩みながら答えてくれた。
「配置薬制度も関係があるかもしれませんね」。
 
つまりは「置き薬」。
県によると、江戸時代中期に「大和の名薬」が有名になり、幕末の頃には全国に行商圏を広げていったという
 
1960年代半ばごろまで、県出身の配置員が4千人以上いて、全国を回っていた。 
「以前は奈良のどこの家にも置き薬ありました」

「大和の名薬」の一つが、約1300年前に奈良で生まれた日本最古の胃腸薬といわれる「陀羅尼助(だらにすけ)」。

奈良では「抜群の知名度」だと中村さん。
「ちょっと具合悪いと、とりあえずこれを飲んどけって言われ、小さい頃からよう飲みましたわ」

サクラで有名な同県吉野町に「陀羅尼助」を製造、販売している「藤井利三郎薬房」がある。
創業は約300年前。

品質管理責任者の柏田信二さん(58)は「何代にもわたる常連さんもおられます」。

陀羅尼助の成分は、キハダのほかセンブリ、エンメイソウなどいずれも健胃作用のある薬草だ。

店に残る江戸時代とみられる資料には、頭痛、やけど、きりきずなどにも効くとある。
 
「お酒の前に飲むと悪酔いしません。私が実証済み」と笑う。

日本書紀には611年、推古天皇が今の奈良県宇陀地方で薬狩りをしたという記述があるなど、県内では、ヤマトトウキ ヤマトシャクヤクといった薬草が古くから盛んに栽培されてきた。

歴史的背景に着目し、県は2012年から「漢方のメッカ推進プロジェクト」をスタートさせた。
生薬の生産拡大から関連する商品・サービスの創出などを、総合的に検討している。

UHA味覚糖が藤井利三郎薬房と協力して4月に発売した「陀羅尼助飴」はその一環だ。

陀羅尼助に使われているキハダ成分に着目し、黒糖味に仕上げた。

藤井利三郎薬房に置いたところ、数日で一千袋近くが売れたという。
関西を中心に発売中だ。

(斉藤博美)


★印胃腸薬の年間支出額

※総務省の家計調査から。
県庁所在地と政令指定市の2人以上世帯の年間支出額(2015年)

①奈良市     1919円
②山口市     1692円
③札幌市     1662円
④さいたま市   1599円
⑤仙台市     1554円

(全国平均     1145円)