2008年5月31日土曜日

もっと、驚かなくっちゃ。火星極域に初着陸

新聞の報道の扱いが小さめだ。
毎朝20分程しかテレビを見ない私だからしょうがないのかも知れないが、このことの放送は見てない。でも、これって大変なことではないのか。宇宙ステーションを構築することは、それはそれは、大偉業の継続中だということはよく理解できるのだが、なんだか、宇宙開発の目的が真に地球人の平和の為ではなくて、大国主義、軍国主義、果ては覇権主義へ、特に軍事大国向けに進められているようで、鼻白む気がしてしょうがないのは、私一人だけだろうか。
日本人宇宙士が、宇宙船の内外で活躍する様子が報道され、その仕事ぶりが高く評価されているのだが、私にはいまいち納得できないのです。地球を「征服」するために、宇宙ステーションを構築しているのではないのか。
追記~
今日、080601早朝、米スペースシャトル・ディスカバリーが打ち上げられた。日本の有人宇宙施設「きぼう」の中核となる船内実験室を運ぶのが今回の任務だ。星出彰彦さんらが設置作業をするらしい。
星出さんの母校の関係者や親戚・家族が、涙をぬぐって、打ち上げが成功したことを喜んでいた。その様子をテレビ報道で見た。
そこで、ますます、私は宇宙開発を懸念する心境が、深刻になっていくのです。
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ところが、今回の、火星に軟着陸した報道にはロマンを感じるのです。
火星こそ、みんなの星「惑星」であって欲しいと思うのです。従来の宇宙開発の概念から、全く違う視点、観点からの開発にして欲しい。真に地球人の平和の為、地球人の誰もが楽しめる開発のことです。
既に、アメリカは火星の着陸に成功して、情報を地球にもたらした。日本の「のぞみ」も、確か半年程前のことだが、近くまで近づきながら、周回軌道投入が果たせなかった。最後の着陸の段階で制御が利かなくなって断念した。
今回は、今後の有人探査機による着陸を考えると、貴重な成功と言わざるをえない。それは、軟着陸のことだ。軟着陸の際にパラシュートで降下するさまが写されていて、俺のような非科学的人間にも、ぎょっと、注目した。あれ、火星の周りには大気があるんだ、と納得した。
でも、私はやっぱり無知だった。大気がある、となれば、それは酸素だと自然に思ってしまう程、私は無知なのです。火星を取り巻く大気は90%が二酸化炭素らしいのです。
なんだか、非科学的な人間の私でさえ、穏やかな空間のように思えて、私のイメージはますます広がるのです。
私の脳は、もっと勉強することの必要がありそうです。
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今回のフェニックスが火星の地表に向かう際に、3つの試練に直面したそうだ。その内容が、インターネットの記事を読んで、これは転載して記憶に留めたいと思ったので次に記す。①大気との摩擦を利用した「エアロシェルブレーキング」だ。このブレーキングにより、機体は数千度まで加熱する。②パラシュートの開傘だ。着陸機のパラシュートが勢いよく開き、同機の降下速度を減速させる。③着陸の衝撃を和らげるための逆推進ロケットの発射だ。
それから、これもインターネットによるパクリだ。火星から発信された信号が地球に届くまで、15分間かかるそうだ。フェニックスは自律的に着陸されるように設計されていたのだそうです。
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この稿のキーボードを叩いていたら。080530の朝日新聞に、21日に宇宙基本法が成立されたとの記事を見つけた。これまで宇宙の防衛利用は厳しく制限されてきた。宇宙開発は平和目的に限ると決議されてきた。「平和」について「非侵略」より厳しい「非軍事」として、自衛隊の利用は封印されてきた。
が、今回の基本法は、「非軍事」から「非侵略」に緩和して防衛利用を正面から認める。無理な拡大解釈をしなくてもよくなる反面、自衛隊が幅広い目的で宇宙を使えるようになる危うさをはらむ。世界的にも、「非侵略」の名のもと、偵察や監視、誘導など各種の軍事利用が認められるのが一般的だ、と記事による。
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防衛はいつでも、攻撃になり得るのだ。
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*火星周回探査機マーズ・リコネンス・オービターが撮影したパラシュート降下中のフェニックスの様子
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以下、「フェニックス」の朝日新聞の記事を転載させて頂いた。
米航空宇宙局「NASA]の火星探査機フェニックスが米太平洋時間25日夕「日本時間26日朝」、火星の北極に近い北緯68度付近の平原に軟着陸した。
エアバッグに包まれ、地面に弾む方式ではなく、有人探査にも応用できるガス噴射による軟着陸は76年のバイキング1,2号以来、32年ぶりで、極域への着陸は初めて。
昨年8月に打ち上げられ、約6億8千万キロの旅をしてきた。
フェニックスが火星に軟着陸する直前、パラシュートで降下している姿をとらえた画像を公表した。火星の上空310キロを周回中の米探査機マーズ・リコネサンス・オービター「MRO]の高解像度カメラで撮影した。
着陸の約2分前、フェニックスが高度13キロほどでパラシュートを開いた直後、760キロ離れたところから撮った。大きさ10メートルのパラシュートと、その下にぶら下がるフェニックス、両者をつなぐひもが火星をバックに写っている。
火星の大気圏に時速2万1千キロで突入し、パラシュートを開けて、ガス噴射で時速8キロまで減速して、軟着陸した。
惑星に降下中の探査機を、別の探査機が撮影に成功したのは初めてという。


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*フェニックスが撮影した火星表面の擬似カラー画像
一方、NASAはフェニックスが撮影した火星の北極付近の地表の画像も公表した。地球の凍土帯でも見られる多角形の割れ目がとらえられている。地下のごく浅いところの水が凍結と融解を繰り返してできる模様だという。
最深50センチほど地面を掘って土を採り、氷が含まれているかどうか確かめる。氷や有機物が見つかれば、地球型生命が存在していた可能性が高まることになる。

2008年5月23日金曜日

第59回早慶サッカー定期戦

「早慶サッカー定期戦」
 2008年6月20日
  国立霞ヶ丘競技場
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58回を重ねてきたこの大会も今大会で59回を数えることになった。この長きに亘る定期戦は、日本サッカー創成期より現在に至るまでの早慶両校OBの諸氏の並々ならぬ努力の賜物だろう。
現在も、日本サッカー界を牽引している多くは早慶OB諸氏であり、諸氏も早慶戦を経験して日本サッカー界へ羽ばたいた。
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私は、4年間早慶戦に出場する機会は与えられなかった。4年生のときには、ベンチには入れたのですが、とうとうピッチの上に立つことはできなかった。ウォーミングアップとハーフタイムにボールを蹴っただけだった。早慶の部員なら誰でも、なにがなんでも、早慶戦だけには出たいと思うのです。格別の思いがあるのです。
4年のとき、秋の関東大学サッカーリーグや全日本大学選手権には、半分ぐらいは、試合に出してもらった。そして関東大学サッカーリーグ優勝、全日本大学選手権優勝の2冠をとった。このことだけは、他人に誇りれる私の唯一の自慢です。
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毎年、この時期になると、大学のサッカーの同期で現在は同僚の青島さんに、早稲田のチームの近況を尋ねては、勝て、勝て、絶対慶応なんかに負けるんじゃないぞと、思いを馳せるのです。
早稲田が下部のリーグで低迷していて、慶応が1部で華々しく活躍していても、早慶戦になれば、早稲田が勝つのです。そんなものなのです。
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普通、学生スポーツは期間限定です。メンバーは一番長くて4年間、短くて1年、チームを組めるのですが、それ以上は組みたくても組めない。毎年メンバーを組み替える工夫こそ学生スポーツの難しいところだが、それこそが学生の本分である学習なのだ。
早慶両校の学生のみなさんに告げる。
このとき、この場で、この仲間たちで、サッカーを競えることの喜びに感謝しよう。
この喜びを、思いっきり味わって欲しい。
この喜びを味わえる彼方は、最高の幸せ者ですぞ。
私は、今でもこのときの感動の余韻のなかで生きている。


早慶戦はプロでもなく、アマチュアであり、また大学の公式戦でもない「誇り」のみをかけ、早慶両校の意地と意地がぶつかり合う伝統の対戦である。
今年は、福沢諭吉翁が慶応義塾を創立して150周年だそうだ。慶応は命がけで向かってくるのでしょう。


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最近の早稲田大学ア式蹴球部(通称・サッカー部、ちなみに慶応はソッカー部です)を紹介させていただきます。弊社に早慶戦のプログラム作成のために協賛広告を求められた。その広告の出稿依頼を受けた事務局からの文書を一部転載させてもらった。


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早稲田大学ア式蹴球部は、1924年(大正13)の創部以来、常に日本のサッカー界をリードする存在であり、数々の輝かしい成績を収め、同時に数多くの名選手を輩出してまいりました。関東大学サッカーリーグ戦優勝24回や全日本大学サッカー選手権大会(インカレ)優勝11回という数字は、他の追随を許さない最多優勝記録である。
ところが、97年。関東2部リーグに創部史上初めて降格し、2000年には、東京都リーグにまで降格してしまいました。その後、低迷という辛く長いトンネルを抜け出せない時代が続きました。
04年。元清水エスパルスの大榎克己氏を監督に迎え、ア式蹴球部はようやくそのトンネルを脱出することができました。1年目には、関東2部リーグ復帰、05年には、7年ぶりの全国大会・総理大臣杯で準優勝、さらに関東2部リーグで優勝し、9年ぶりに関東1部リーグに復帰を果たしました。
06年は、リーグ戦では上位にこそ食い込めなかったものの、大学選手権において準優勝を果たしました。
そして、早稲田大学創立125周年を迎えた昨年、名門・早稲田の復活、念願の日本一をめざしての戦いになりました。しかしながら、総理杯ではまさかの予選敗退、関東リーグでは2位と、歯がゆい想いが続きました。迎えた最後の大会であるインカレ、勇退する大榎監督と共に優勝することを誓い、遂に、11回目の優勝という結果で、『名門・早稲田完全復活』を果たしました。
常に覇者であり続ける早稲田大学の誇りを守るため、永遠のライバル、慶応大学との戦いは絶対に勝利しなければなりません。
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「ア式蹴球」とは、----
「アソシェーション・フットボール」を指し、サッカー創成期の英国において未成立のフットボールと、世界共通のルールを提唱していた「The Football Association 」の協議との呼び分けの表現である.。

早慶戦プログラムの協賛広告です。


2008年 サッカー早慶戦広告

2008年5月22日木曜日

俺はカブの名ライザーだった

ホンダの「スーパーカブ」(排気量50 、90cc)の累計生産台数が6000万台に達したとの新聞記事を読んだ。今年で発売50周年。
私が高校2年生になってから、学校へはホンダのカブで通っていた。当時は50ccと55ccの2タイプがあった。50ccでは二人乗りが禁止されていたので、55ccを買ってもらった。買ってもらってからは、乗って、乗って、乗り廻した。高校の想いでは、常にホンダのカブとともにあった。
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毎日、宇治川に沿った道を、ガンガン飛ばした。
お尻をシートの後ろの方にずらして、前かがみに上体を寝かせて、カーブごとにバイクを右に左に倒して、まるでレーサー気取りでした。夏の雨は幾ら強くてもへっちゃらだったけれど、冬の雨は辛かった。小さな虫が目に入ったり、鳥の糞が顔にぶつかることもあった。
たまには、カブを止めて、ぼんやり佇むこともあった。
そそり立つ山と川に挟まれた道端で、川面で遊ぶ鳥や、時々飛び上がる魚をぼんやり眺めたり、山や樹木が漂わせるものを体に浴びて、山気とでもいうものか?なかなか、気持ちのいいものでした。後に森林浴なんてハイカラな言葉になった。
春、夏、秋、冬、どの季節も、飽きなかった。
中途に天ヶ瀬ダムがあって、そこには売店とレストランがあって、そのレストランで只「ただ」水を飲ましていただいて、ベンチに寝転がって休ませてもらうこともあった。俺は、高校を卒業して、大学へ行くのだろうか? 何をしに大学へ行くの? 大学へ行ったとして卒業したら何をするのだろう? 俺って、何なのだろう? 世間は? 自問自答を繰り返した。これからの人生、不安だった。
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私の実家の住所は、京都府綴喜郡宇治田原町南切林。宇治川の上流で瀬田川と田原川に分かれるのですが、私の故郷はこの田原川に沿って山奥に入っていくのです。瀬田川を遡っていくと、日本最大の湖、琵琶湖なのです。だから、京都府と滋賀県の境の山間谷間の村でした。町制ではあったのですが、やはり村といった方が相応しい。
河岸段丘でできた猫の額のような平らな部分は集落と、畑と水田で、地図を広げると90%が山林です。
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この実家から通える公立の高校といえば、普通コースなら城南高校、工業なら伏見工業高校、自動車なら田辺工業高校、農業なら木津高校だった。
私は、宇治の城南高校を選んだ。
通学には、実家のある町、宇治田原町からは城南高校生用のスクールバスが朝だけはありました。そのバスに乗り遅れると、いったん宇治まで行って、そこで乗り換えて、学校を目指すので、乗り継ぎがうまくいかないと1時間半はかかった。
それに、私は2年生になってからサッカー部に入部したのです。練習が終わって部室を出るのが7時ごろだったので、それからバスを乗り継いで帰ると、帰宅が10時ごろになってしまう。カブなら、アクセルをいっぱい吹かして猛スピードで走れば30分で帰れるのです。学校から自宅まで、8キロ程なのですが、信号は4つか5つしかなかったのです。宇治の町を抜け出すと、6キロ程は信号は一つもなかった。
カブでの通学を始めたのは2年生からだった。
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1年生では、バイクの運転免許試験を受けることができなかった。学校への直行スクールバスに乗ればよかったのですが、私は自転車を選んだ。貧農の子せがれだったのです。家にはお金がなかった。近所での買い物は全て通帖(かよいちょう)でもって済ましていた。
私の田舎では、日常の買い物をする時には、現金を持って行かないで通帖を持って行って、買った品物と金額を店の人にその帳面に書き込んでもらうのです。月末で〆て請求書がきて支払うようなシステムになっていたのです。だから、私は自宅でお金の入った財布なるものを、見たことがなかった。子供心に、親に対して気を遣っていたようだ。本当に貧乏だったのか、それなりに貧乏だったのか。貧乏だったことには間違いないと思われるのですが、どの程度の貧乏だったのかは、いまだに謎です。間違っても、金持ちではなかった。
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自宅から宇治までは、下り坂一辺倒。学校への直行スクールバスを私は自転車で追い越すのです。車窓から覗き見る友人たちが、自転車で追いつき、並び、そして追い越していくさまを、オ―おーと、どよめきとともに驚いているだろう雰囲気は、外からでも解った。帰りはその逆で、毎日がバテバテだった。腹がヘッて、ペダルを踏む足に力が入らない。なかなか進まない。
当時、天ヶ瀬ダムは工事中だったのです。一休みしながら工事を遠くから眺めた。興味深かった。大林組は主幹の建設会社だった。どの現場も、どの重機も、働いている誰もが、何もかも刺激的だった。俺も大きくなったら、このように泥まみれになって働きたいと思った。
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7月の頃、蛍の季節、これが最高にいいのです。そそり立つ山にはところどころに、谷間があって、その谷間に小さな滝があるのです。その滝の周辺から、道の上を覆いかぶさるように蛍が群遊するのです。蛍を見れる時間は丁度帰りどきなのです。早くても遅くて駄目で、見ごろの時間帯があるようです。
街灯や明かりは何もないので、真っ暗闇に黄色い蛍の光は幻想的で、夢のなかにいるのではないかと錯覚するほどです。蛍の光が輝く場所は2箇所あった。その蛍の群れのなかを爆音たてて通り抜けるのです。先にも後にも、車やバイクは走ってはいない。
なんだか、俺だけがこんなに気持ちよくていいのかなあ、という思いだった。
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カブに乗ってどこまでも行った。サッカーの試合のために、洛北高校、山城高校、紫野高校、桂高校、京都商業高校、伏見高校へ、必ず誰かを後ろに乗せていた。
ストリップの殿堂、伏見ミュージックへもサッカー部の福井保と行った。新京極へも、彦根にもカブで行った。どこへ行くにも、地図を頼りにするのではなく、あてずっぽ(こんな言葉あったか?昔のことを書いているからか、田舎の方言になったかな)に、あっちだこっちだとフラフラ走るものだから、傍からは随分危なかしく見えたことでしょう。
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マフラーを途中で切って爆音高らかに走っていました。その爆音のことで警官に捕まったことがありました。スピードを出すと視界は狭まって、前方の限られた範囲しか見えません。後ろから、ホンダのベンリーに乗った警官の怒鳴り声でやっと追われていたことに気がついたのです。ほとんど見逃してくれるのですが、勢い込んで、アクセルをいっぱいひねると、その時はさすがに迷惑モノでした。
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スーパーカブはホンダ創業者の故本田宗一郎らが開発を進め、58年(私が10歳の時だ)8月に発売された。蕎麦屋が片手で出前の蕎麦を持っても運転できるような、使い勝手の良さを追及した。左手のクラッチ操作なしで変速できる「自動遠心式クラッチ」などを搭載し、海外でも大ヒットとなった。
今でも、生産は続けられ、記録はドンドン更新中だ。
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高校を卒業してからの2年間の浪人中も、どこへ行くにもカブを使った。乗った乗った。
パンク以外、ノートラブルだった。優れモノのバイクだった。
大学のために故郷を後にした。そんなに利用したホンダのカブなのに、どうなったのか解らずじまいだ。

いい話、かき集め②

「わたしの母さん」という児童小説がある。
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小学校4年の主人公、高子は算数が得意で、学級委員をしている。気がかりが一つ。明るいけれど、少し変わった母親のことだ。
月初め、母さんは日めくり暦の一枚一枚に封筒をはりつけ、千円札を2枚ずつ入れていく。毎日、その2千円を財布に移して生活に充てるのだ。高子は「ひと月分を同じ袋に入れておけばいいのに」と思うが、母さんは大きな数の計算が嫌いらしい。
さらに連絡のプリントにはフリガナをつけてと学校に頼んだりもする。あきれる娘はある日、母が生後間もない熱病で知的障害を負ったことを知る。父さんとは、養護学校高等部の同級生だった。
作者の菊地澄子さん(73)は養護学校などで教えてきた。この作品も体験が元だ。突然の真実に立ちすくみながらも、母を理解し、優しく伸びてゆく少女。
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2008 0516
広島は巨人に7-1で勝った。
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広島の39歳、高橋が8回1失点でチームの連敗を止め、リーグトップタイの5勝。内外、高低を巧みにちりばめた。
このゲームのことについては、勝ったチームは喜び、負けたチームは悔しがった。あたり前のことだ。両チームのファンも同じように喜んだり、悔しがったであろう。
どこに、勝因があったのか、どこに敗因があったのかは、誰もが解説者になって勝手に楽しめばいいのだ。
ところが、この編は「いい話、かき集め」なのです。
巨人のことが大嫌いな私にとって、巨人が負けるのは嬉しいのです。
正確に言うと、巨人が嫌いなわけではなく、ナベツネだけが嫌いなのです。そんなオヤジがグループの親会社の会長だからです。
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G惨敗 渡辺会長激怒
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巨人が惨敗した。打っては高橋から今季17イニング目に奪った1点のみ。守っては4投手中、3投手が失点した。阪神とのゲーム差は9。観戦した渡辺恒雄会長の堪忍袋の緒も切れた。「Aクラスを目標にしろ。優勝しっこない。こんな馬鹿なことやっていたら」。主力の不振や故障者続出で、ただでさえ悪い雰囲気に拍車をかけて帰っていったそうだ。
あんた、スポーツには、もう口出しすんな!!
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080517 巨人は5位に転落した。ナベツネは如何に?
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ジャズトランペッター・日野皓正
アジアの人々が仲良く
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アジアを一国にしたいなんて、ジャズをやっている日野皓正さんだから言えるのかもしれない。日本を飛び出して、拠点をアメリカに演奏活動を行っている。定期的に日本にやってきては、子供にも、楽器から演奏から音楽の楽しみ方まで教えている。彼にとっては、国境なんて無きに等しいものなのだろう。
ーーー(聞き手・宮坂麻子)アメリカではいろいろ学んだけれど、差別もすごかった。大きなフェスティバルともなると、日本人のリーダーが名を連ねるなんて、とんでもないという感じなの。黒人は「おれたちのジャズ」、白人は「アメリカのジャズ」。どちらからも「なんで、イエローなんだ」って言われる。
アジアの人々が黒人の「ヘイ、ブラダー(兄弟)」ってのと同じ感じで仲良くなれれば、世界中が相当変わると思うんだ。世界平和だってめざめるんじゃないかな。
ミュージシャン、とりわけジャズをやる人には国境なんて意識はないのだろう。
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小渕恵三首相が亡くなって、早いもので、もう8年になる。
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命日は5月14日だった。
「思いやりの政治家」だと、言われた。
米軍基地の重い負担に苦しむ沖縄に強い思いを抱き続けていた。00年の夏のサミット(主要国首脳会議)を沖縄で開催を決断した。だが、本人は出席できなかった。今年は、北海道の洞爺湖畔で開かれる。
ここで、書きたいのは、その小渕さんの人柄のことです。
小渕さんが外相だった時、オルブライト米国務長官が小渕氏を「ディスアーミング(disarminng)な政治家」と評したそうです。「武装を解く」つまり「相手を安心させ、和ませる」といった意味で小渕氏の思いやりに通じる。
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「負の世界遺産展」を自前で続ける
後藤勝美さん(68)
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愛称はGO。名刺の肩書きは「えかき」。「画家だと硬い。好きなモチーフを好きに描く。気ままがいい」
そう言いつつも、アウシュビッツ収容所跡などを描いた水彩やアクリルの絵約40点を並べた展覧会を続ける。「負の世界遺産展」の名で。
10歳の時、病気で聴力を失った。「他人と話をしなくてもすむ」と絵の世界を選び、画家の道へ。だが、ろう学校を出た仲間の低賃金と劣悪な労働条件を知り、仲間と共に闘おうと、20代半ばで筆を折った。
それからは福祉運動ひと筋。映画の絵看板作りで生計を立て、ろう劇団やろう者美術展も創設した。だが絵心はくすぶり続け、51歳で画業再開を宣言。運動は後輩に委ねた。
「人に営みの跡」「暮らしのにおい」にひかれる。古い家、工場跡、路地裏ーーー。柔らかな筆致の絵が人気で個展は100回を超えた。
アウシュビッツを訪ねたのは昨年6月、小さな靴の遺品の山に「もの言えぬ人たちの心の言葉を感じた」。
震える思いでスケッチした。その時の衝撃と日本の改憲の動きに突き動かされ、昨年8月、東京で遺産展を始めた。今月初めに千葉・幕張であった9条世界会議で11回目に。
会場さえあれば、岐阜市の自宅から全国どこへでも車で作品を運ぶ。
ふだんは、「ろう画家」をみずから名乗ったりはしない。遺産展だけは別だ。「平和を訴えるろう者の画家が一人ぐらい、いていい。戦争は障害者を生む。だから声を上げたい」
(文・写真 朝日新聞 中沢一議)
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2008年5月20日火曜日

難民の苦境に終止符を

パレスチナ60年 
 20080515 朝日新聞 社説
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60年前の1948年5月14日『注=私が生まれた、昭和23年のことです』、英国の委任統治領だったパレスチナにイスラエルが建国された。ユダヤ人にとって、流浪と迫害の歴史に終止符をうつ「歓喜の日」である。
翌15日、独立を認めないアラブ諸国がイスラエルに攻め込んだ。その中で70万人が故郷を追われ、難民となった。パレスチナ人はこの日を「ナクバ(大破局)」と呼ぶ。
それ以後の60年間、両者だけでなく世界にとっても波乱の歴史が続いた。
数次にわたる中東戦争、占領、世界各地でのテロ、虐殺、難民ーーーー。アラブ産油国の禁輸戦略により、多くの国がオイルショックに見舞われた。日本も無縁ではなかった。
ハリネズミのように武装を固めるイスラエルは、事実上の核保有国と見られ、世界の核不拡散体制に大きな穴を開けている。イラクやシリア、イランなどが原子力開発に手をのばそうとするのもそれを意識してのことだろう。
米国は巨額の軍事援助などでイスラエル寄りの政策を続け、中東そしてイスラム世界全体に反米意識を呼び起こしている。米国を標的にした国際テロも、根っこではイスラエル・パレスチナ紛争につながっている。
そうした派手な政治、経済の動きが世界の注目を集める一方で、忘れがちなのが難民問題だ。いまや国連に登録されるパレスチナ難民は450万人にまで膨らんだ。
多くの難民は、イスラエル占領地内やヨルダン、レバノンなどの劣悪な環境の難民キャンプに暮らしている。キャンプで生まれ育った世代も増えた。
祖父母や親から故郷の家の鍵や権利証書を受け継ぎ、帰還の日を待ち続ける。絶望と怒りが深まり、過激主義にひかれる人々も出てきている。
難民の帰還促進や権利補償は48年12月の国連総会で決議され、それ以降、何度も同じような決議が採択されているが、まったく進展しない。
ブッシュ大統領は、来年1月の任期切れまでに中東和平の合意をつくろうと外交努力を強めているが、難民問題を避けて和平はありえない。
イスラエルの存立が危うくなりかねないような急激な難民帰還は現実的ではない。しかし、難民の存在と権利を認め、互いに共生を考えるところから正常化への第一歩が始まる。米国は仲介者として、もっと公平で積極的な役割を果たしてもらいたい。
難民の苦境を早く終わらせなければならない。どの程度の帰還なら受け入れ可能なのか、戻れない難民の受け入れ先や経済補償などを考えるには、国際社会も知恵を出す必要がある。
この60周年を機に、そのための枠組みを国連につくる。パレスチナ支援に実績を持つ日本はそんな声を上げたらどうか。

2008年5月19日月曜日

恒例の健康診断だ

080527と、ー0603、弊社では恒例の健康診断を受けることになっている。
私は、全員で30人程の小さな会社の社長ですが、社業のデキバエはともかく、社員の健康のことは常々気に掛けているつもりだ。
女房がいて、小さな幼子がいて、年老いた親がいて。誰もが健康であって、立派な社員でいてくれて、いい父親であっていい母親でいて欲しいのだ、と思っている。
社員の誰もが、元気者でいて欲しいのですが、特に男性社員の健康管理には、心配の種が尽きない。働き盛りの若い者ほど、健康管理の意識が薄いのだ。ぶくぶく太って、むっちりした胸、おおきな腹、ケツ。背中にまでお肉が山盛り。
「お前に病で倒れられたら、俺は困るんだ」、そんな私の気持ちを、少しは察してくれませんか。
私は、と言えば、内臓については万全なのですが、関節、筋肉、筋、神経に異変が生じつつあるようです。
20年前自動車の運転中、オカマを掘られてその影響で首周りがこる。数年前酔っ払って自宅の2階から落ちて左の鎖骨を折った、その影響だと思われるのですが、左肩がこり固まっていて、左腕が全体に重くだるく感じる。大学の現役当時から傷めていた両膝の関節が、今までは冬になると痛みが出たのですが、この頃は常に痛い。階段がきついのです。
私の場合、頭の中も見てもらいたい。心も、ハートも診断してもらいたいものです。
厚労省がつくるメタボ基準は、当局の都合に合わされて、刻々変わっているようだけれども、危険ゾーンにだけは入らないでくれ。お前等!!気をつけてくれ。
「メタボ狩り」じゃ。
ヘビメタで、何かいいことあっかあ??
幼稚園や小学校での運動会、お父さんが参加できる競技では、格好良く走りましょうよ。逃げる泥棒を、泥棒よりも早く走れないと捕まえることができないよ。山登り、子供よりも先にへたばるわけにはいきません。
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労働安全衛生法に基づく、定期健康診断等の項目が、今年4月1日から改正されることになった。ということで、何が、何故どう改正されたのか、女性スタッフに聞いてみた。
変わったのは、定期検査の項目に腹囲測定だけが増えたことだけです、とのこと。え、え、これだけ?と、しつこく聞き質しても、「それだけなんですって」、「皆にも聞かれるのですが、腹囲を測るだけです」。
なあんだ、と思ったのだが、その改正の背景は重い。
作業関連疾患としての脳・心臓疾患を予防する観点から腹囲測定が加わったそうだ。
前の一行は厚生労働省・都道府県労働局・労働基準監督署が発行しているパンフレットによるものですが、噛み砕いて言えばーーーーー
デブは、内蔵脂肪型肥満=メタボリック・シンドロームが引きおこす動脈硬化、糖尿病、心筋梗塞、脳卒中などになりやすい。こういう生活習慣病に陥らないように、デブにならないようにしよう、ということのようだ。業務中に生じた脳・心臓疾患により労災認定される件数もうなぎ上りだそうだ。
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ここで、この稿を書くのに、学んだことがあるので、追加しておく。
BMIのことです。
Body Mass Index =体重(kg)/身長(m)*身長(m)
この数式で出た数字が22未満なら、OKのようだ。
ちなみに、私の場合は、
BMI=68/1.68*1.68=24 
よって、24です。

2008年5月14日水曜日

「光の雨」/「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」

未完成です。もう少し待ってください
4月のはじめ、銀行からの帰り道、古本屋さんに寄った。
最近、古本を買うときは、チェーン店になっているお店に行くようにしていたので、商店街に前からある古本屋に足を踏み入れたのは、久しぶりだった。
手持ち資金が少なかったこともあって、本を買う意欲は店に入る前から希薄だった。案の定、目ぼしい本が見つからなかったので、店を出たのですが、店頭に本棚が並べられていて、どれでも100円です、と書かれているのを見た私は、棚の前に立ってしまった。
どこまでも、文字が好きな私なのです。


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立松和平・「光の雨」/どのページにも字ががっちり詰まっていた。何かの予感がした。
津島佑子・「火の河のほとりで」/著者は、私の大好きな太宰治の娘さんだ。
吉本ばなな・「白河夜船」/お父さんは立派な文芸評論家で詩人で思想家だ。
辻 仁成・「冷静と情熱のあいだ」/今、もてはやされている人気作家だ。
飯島 愛・「プラトニック・セックス」/私の官能をくすぐる艶本がわりにと考えた。


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この5冊を税込み500円で買い込んだ。どの本も、内容は確認しないまま。投下資本の割には、いい本が買えたと満足した。それも短時間のうちに。
内容を吟味して買ったわけではないので、どれから読むか?と思案六方。立松和平さんの本が、一番分厚く字が詰まっていて、どのページにも余白がない。

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立松和平が、イヤに力が入っいる、と気になってしょうがなかった。この本からやっつけるぞ、と力を込めて、最初の1ページを読んだ。なんじゃ、こりゃ。重っ苦しいぞ。重たいな。でも、やっぱり、と本の半ば部分を適当に読んでみた。
ぎょ、ぎょ。これは連合赤軍ではないか。頭がしゃきっとした。こんな題名から、まさか連合赤軍を題材にした小説だとは露ほどにも想像しなかった。それにしても大した本を買ってしまったものだ。こりゃ、腰をすえて読まなくてはいかんぞ、と覚悟したのです。
そして、私は真剣に読み出した。
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又、不思議な巡り合せだ。この本の読書中、弊社が大株主?の東京テアトル株式会社のテアトル新宿で、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」を上映していたのです。ゴールデンウィークに取り残された?オヤジ等で満席だった。私よりも少し年長の方々だ。自分史を併せて確認したくて、足を運んできたのだろう。
ひょっとして昔の友人でもいるんではないかと、館内を見渡した。
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5月6日、11:00
テアトル新宿
監督・若松孝二


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ゴールデンウイークの私のささやかなお楽しみとして観賞して来た。
映画は実録と題名にもなっていて、立松和平さんの小説は裁判記録をもとにしたものであるから、どちらも映像と活字の違いはあっても、内容はほぼ同じだった。立松和平さんの筆力、若松孝二さんの映像による表現力、ともに私は強い感動を受けた。
私の、チカラの範囲内で内容を纏めてみようと思うのです。映画についての感想は館内で買ったパンフレットの写真を使わせてもらった。その写真で、映画の中身をうまく想像を巡らしてくださいな。それで、良(よ)しとさせてください。それよりも、このパンフレット作成にあたって、重信房子、雪野建作、植垣康博、前沢虎義、吉野雅邦、坂口弘氏等が寄稿したもの、既に発表されているものをダイジェストで転載させていただいた。彼らは、実際に軍に参加した人たちです。
これらの文章が、「連合赤軍」の全ての証明だと思ったからだ。最後の方にまとめました。


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立松和平の「光の雨」の内容を簡単にまとめました。
以下、登場する人物の名前は小説のままにしたが、( )内に本名を入れたので、名前を知っている読者は、少しでも臨場感をもっていただけるのではないか。
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中核派と社学同・社青同解放派の主導権争いが激烈化。学生運動の流れは、全学連から全共闘へ。東大・日大闘争勝利 全国学生総決起集会から、東大安田講堂の攻防へ。ブントの指導部は、機動隊導入の前日、安田講堂から籠城部隊を撤退させるよう社学同の幹部たちに指示していた。しかし、学生幹部たちがその指示に従わず、ブント=社学同は新左翼主流としての面目を失わずに済んだ。
そしてブント内の軋轢が進む。
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そのブント内の塩見孝也の共産主義者同盟「赤軍派」の地下組織「中央軍」と、日本共産党左派(神奈川県委員会)から分派した「革命左派」=「人民革命軍」が「統一赤軍」を形成した。それに京浜安保共闘が加わり《連合赤軍》になった。
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「赤軍派」の地下組織「中央軍」は、幹部が次々に逮捕され、田宮高麿たち9人はよど号のハイジャックを決行した。その後、重信房子たちがが、アラブに行って、日本赤軍を作った。日本では残された中間クラスが権力を握り、革命左派と合体して連合赤軍が生まれたのである。
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この二派は、軍ごとに猟銃店を襲いライフル銃や弾薬を手に入れ、その銃器を武器に銀行や郵便局を襲って現金を強奪した。
やがて、合体した連合赤軍は,山岳をベースでの軍事訓練に入る。
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若松監督は、この映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」のDVDをもって北朝鮮のよど号をハイジャックしたメンバーに見せた。
彼らは、粛清を指導した森 恒夫を「ほんとうに優しい人間なんだ」と言っていた。森は、誰もが演歌や猥歌を歌う中で、革命歌しか歌わなかったまじめな奴だったそうです。ゲバ棒で叩くのさえ嫌だたらしい。「あとを引き受けた責任感で、心身共に強くならねばと半ば妄想のように自分を追い込んでいったのだろう。
彼がああなったのは、僕達に責任がある」とその場にいたメンバーは吐いたそうだ。
森 恒夫がそういう人だったら、もう少し描き方が違ったかもね、とも若松監督は語ったそうだ。
若松監督は、週間朝日に、よど号ハイジャック事件がなければ、その後の連合赤軍事件は起こらなかったのではないか、と言っている。
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立松和平、著者は、「供述調書」「弁論要旨」「判決書」「上告趣意書」「答弁書」など、裁判所の書類に基づいて事実を小説風に書いたとのことだ。
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小説の主人公は、かって、連合赤軍の中央委員として活動を引っ張ってきた玉井潔だ。
私はこの玉井潔が(坂口弘)だと思っていたのですが、そうではなさそうです。でも、玉井潔の動きが、(坂口弘)の動きとどうも同じように窺えるのです。それとも玉井 潔は(吉野雅邦)のことか?
彼は、老衰が痛ましく、死を前に、古アパートの隣室に住む予備校生の阿南満也と同じ予備校に通う恋人、高取美奈に、自分たちが革命を夢みて闘ってきた生きざまを、そのものの実態を、そのことごとくを話し尽くしたいと思いつく。
今まさに、死に際だ。階級闘争の過程において、おこなわれてきた「自己否定」「自己解体」「自己変革」「自己批判と批判援助」と「総括」要求から処刑。
党派闘争もあった。
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自戒、自省、批判を込めて自分が体験したことを、若い二人に告げてからでないと、どうしても死ねない、と覚悟した。
中央委員会は名だけで、倉重鉄太郎(森恒夫)と上杉和枝(永田洋子)が、最後には二人の目配せで持って、命令が下される。玉井と倉重の確執。
ほとんど全編において、自己批判が、総括が、粛清が事実として文字で綴られ、スクリーンに上映され続ける。
その総括で殺されて逝った人たちを書き記しておきたい。それには、なぜ、殺されたのか、ということも。
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先ずは逃走、離脱した今村道子(早岐やす子)と黒木利一(向山茂徳)のことだ。山から離脱・逃走した二人は、強制的に連れ戻し、当時、塩山ベースに牢屋が作られていて、そこに監禁することになっていたが、方針が転換され、殺すことになった。
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二人は、山を下りて都会暮らしをしていたのだが、黒木は山を下りた時点から始まる小説を書いたり、私服刑事と会話することでスリルを楽しんだり、今村は他のメンバーに「山を下りてせいせいしたい」などと語った。
黒木利一も今村道子も、本人はスパイの意識はなかっただろう。黒木利一は小説を書くためではあっても、権力と接触した。もちろん警察のほうから望んでしたものだが、情報を漏らせば組織は壊滅に追い込まれる。黒木はスパイの役割を充分果たしたことになる。今村道子も山にいたことをなんとなく周りの人間に漏らしていた。組織と何の関係もない恋人の医師は、山岳拠点の様子を当然知っていただろう。貪欲な権力は必要な情報をなにがなんでも得ようとするだろう。
無防備な二人をこのまま自由に生活させておくと、敵権力に、軍の情報が漏れることを恐れた。二人とも、殴打して首を絞めて殺した。死人の特定をごまかすために、衣服を剥ぎ丸裸にして、穴を掘って埋めた。
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この二人の殺害は、各メンバーに複雑な心理を与えた。
赤軍派に対するデモンストレーションの意味もあった。当時、赤軍派には銀行強盗などの行動性があり、機関紙などにも理論性が見られた。もう一方の革命左派は自派の先進性を肯定し、自分の存在意義を確認したい心理が働いたのでしょう。
離脱者、逮捕者の続出、獄中最高指導者からの「統一赤軍」問題での抗議反発などで、指導者の統率力が問われる状況に急速に追い込まれていたことが背景にあった。
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当時、革命戦争の遂行のためには、銃による遊撃線の必要性を、連合赤軍は是認し、その方向に向かっていた。この戦いを殲滅戦(せんめつせん=皆殺し)と呼んでいた。

ここで、改めて確認することもないのですが、連合赤軍はこの銃を手にしたときから、当然のごとく、究極の革命へと盲進した。
この銃が痛ましい。
銃さえ手にしなければと思うと、嘆かわしい。
でも銃も革命には必要かもしれない。
が、使用するまでの方法・手段を間違ったようだ。
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国会では、彼等の動きを防止するための破壊活動防止法を制定した。
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この二人の殺害のために、メンバーを車に乗せて移動する際、強制的に運転手役をやらされた谷口淳子(小嶋和子)は、たびたび離脱未遂を繰り返した。軍では彼女が唯一人、運転ができた。そのために、友人の殺害という思わぬ場面に遭遇することになり、この軍の行動に疑念を抱き始めた。この谷口淳子は、今村道子と同じ看護学院で、共に学園闘争を闘ってきた同士だったのである。

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次は高田ゆみだ。上杉和枝(永田洋子)が高田ゆみに「あなた、軍事訓練中、どうぢてクリームを塗っているの。銃を持つのに関係ないんじゃないの」、このセリフから始まった。
上杉和枝はしつこく追及する。「あなたは、決意表明の時に、女をアピールするかのようにお化粧をしている。銃を持ちながらその場で必要もない高価なネックレスをしている。何処まで女であることを強調しているの。それは男性兵士にとっても反革命的ではないのかしら。戦闘中に女を強調すべきではない。要するに革命戦争にとっては、女であることは敵対行為なのよ」。
高田ゆみは「あなたが、何を言っているのか解らない」と反論する。
小屋の中で、上杉和枝は、全員に聞こえるように、必要以上に、これでもかこれでもか、と責め立てた。
この上杉和枝の高田ゆみ攻撃には、二派が合体して新たな軍への脱皮を図るべき、無理な締め付けがあったようだ。また、元革命左派が元赤軍派の山岳拠点における行動を安易にとらえ過ぎていると攻撃したかったようだ。
上杉和枝には、元革命左派の方が、山岳ベースにおける活動については、元赤軍派よりも、優れた活動をしてきたという自負があった。
翌日、軍事訓練が行われ、高田ゆみの射撃の順番がまわってきた。
高田ゆみは銃を腰だめにし、銃口を白い雪に向けて引き金を引いた。だが、台尻を腰にぴったり付けていなかったので、脇腹を銃の台尻で激しく打たれる格好になった。その痛みに耐えかねて、訓練場を離れようとした。
その夜、上杉和枝から、「山岳での戦闘を想定しての訓練なのに、あなたはその意味が解っていない。お腹を打ったぐらいで、戦線を離脱するのは、革命戦士とはみなされない」と追及され、総括を受ける。
殴る、蹴るの果て、柱に縛り付けられた。
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倉重鉄太郎の上杉和枝に向ける視線には、恋愛感情の兆しがみえてきたようだった。
この辺りから、「連合赤軍」は完全に狂いだしたようだ。
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大学のキャンパスで開かれた同志二人による交番襲撃一周年記念集会に参加した戸張真(加藤倫教)が山岳拠点に戻ってきた。弟二人を見て安心した。合法の集会に参加した者がこんなに早く山岳拠点に戻るのは、権力に嗅ぎ付けられる可能性が高く革命的用心がたりないのではないか、と戸張の行動を問題化した。
山岳拠点の空気が以前に比べて、余りにも違っているので驚いた。
谷口淳子は、戸張の恋人であった。谷口は微笑を押し殺して戸張を迎えた。
帰ってきた夜、戸張は革命歌を歌おうとメンバーに声をかけたら、皆も唱和した。
会議していた指導部が、足音荒々しく姿を現し、「呑気に歌など歌っているんじゃない。どうして総括に集中しないのだ、正座しろ」と。
正座から解放された戸張は谷口の横に寝袋を敷いた。二人は寒気のなかで人差し指で、爪で、唇で、歯で、誘い合って外に出て、唇を吸いあった。
抱き合う二人は、上杉に見つかる。
「歴史に残る革命の発生の地を、お前らの犬のような薄汚い欲望で汚しやがって」
「総括を援助するために殴る」
そこにいたメンバーが次々に殴った。となりで、谷口も殴られた。女性メンバーからも殴られた。弟二人(加藤能敬)(加藤元久)にも、殴らせた。谷口と戸張は柱に括り付けられた。
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ーーーーーーーーーー(中途です)--------- 
戸張を総括援助のためにみんなで殴っている時だった。北川準がよくも俺を小市民と言ったなと、金切り声を上げて、戸張を殴った。倉重鉄太郎は、革命戦士になってもらいたいと願って、同志を縛ったり殴ったりするような高次元の闘争をしているのだ、と演説をした。
そして、北川準の審問になった。
北川準は山岳拠点に向かうため東京の某駅の窓口で電車のキップを買った時、刑事に行き先を知られてしまった。尾行がつき、山岳拠点が急襲され、同志達は一網打尽に弾圧されてしまうかも知れない。革命戦争はこれで終わってしまう。そんな妄想を抱いた北川はとりあえず後進に革命戦争を受け継いでもらわなくてはならない。そのために、武器を埋めた場所を伝え残しておかなければならない。紙きれにその場所の地図を描き合法活動のメンバーに託した。
そのことについて、倉重は刑事にキップの行き先を知られたのは不用心、また、それだけで、軍が崩壊すると妄想するのは、軍への信頼が全くないことを意味する。我々の党を過小評価し、その裏返しとして権力を過大評価している。権力への敗北をいつも考えてします思想を敗北主義という。我々は銃をとった瞬間から敗北主義との闘いを開始したのだ。
おい、北川、お前は浜田真二同志の気概をもって闘うんだ。闘う相手は、浜田真二同志を虐殺した警官だ。北川準の総括援助のため、誰か警官になるものはおらんか。
そこへ警官代わりに現れたのは、この立松和平さんの「光の雨」の今にも死にそうな老人の玉井 潔だった。玉井は体力万全で、北川は怯えていた。
縛られていた戸張は、身を乗り出さんばかりに泣き声で、北川を励ましていた。
寝袋に入って寝ようとした北川に倉重は、「甘ったれるんじゃない。まるでお前の総括は、終わったみたいじゃないか。シュラフに入るなんて贅沢だ。立って総括しろ」と怒鳴った。また、北川は殴られた。夜を徹して、薄着のまま極寒の小屋内に立たせ続けた。」そして、衰弱して死んでいった。
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   ------------------------                 書き込むさかいに、待ってくれ。
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重信房子(元・日本赤軍リーダー)
なぜ我でなく君だったのか
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日本からベイルートへ来て1年、丁度アラブの慣れはじめた72年3月、私は26歳だった。PFLP情報局「アルハダフ」の事務所に突然日本から国際電話だと交換手が告げた。「『三時のあなた』の山口淑子と申します。赤軍派が仲間を殺したのをご存知ですか。山田孝さんご存知ですか。この方が殺されました。あなたのご意見をお聞かせください」。たたみかけるような突然の情報と質問。電話機を置くと激した感情に立っていられずにしゃがみこんでしまった。何かとんでもないことが起こった! すぐにバーシム(奥平さん)に伝えながら、泣き続ける私を慰めたのは彼だった。「スパイと間違って殺されたのかもしれないじゃないか」と。それからすぐ、殺されたのは一人ではなかったこと、遠山さんも殺されたことを知った。私はもう泣かなかった。泣けなかったのかもしれない。逆にバーシムは号泣し、傍らにあった本の一節を繰り返し繰り返し読み続けた。「隊伍を整えなさい。隊伍を整えなさい。隊伍とは仲間のことであります。仲間でない隊伍は、うまくいくはずがないではありませんか。全軍は91人と72挺の銃を残すのみとなった。しかしながら、われわれはどんな困苦欠乏にも耐えうる、もはやわが血肉、革命の志で結ばれた同志のみであった」。中国革命途上の長征の話か、繰り返しその一節を彼は暗くなるまで読み続けた。
アラブでの「連合赤軍事件」は、そのように始まり、私たちの心の中に深く刻まれてきた。風化させたくない痛みであると同時に開けて欲しくないパンドラの箱だった。
それを今回、若松監督が『実録・連合赤軍』として映画にした。私は観ることができないことに正直ホッとしているところがある。近しい仲間が、仲間によって傷つき死んでいくことに目をそむけざるをえないのは当然だろう。
かって私は、大学のバリケードの中の若松映画のオールナイトを観たことがある。「極致的」シーンになると「映倫カット」で空白のままのフィルムが続いて何も映らない。観客は「ナンセンス!」と叫びながら共感した。ならば、あのように出来ないか!? 「極致的」シーンは、ブランクでいい。見れない‐--。「連赤」は今も風化させて欲しくない私たち一人ひとりが問われた時代の証であり、開けて欲しくないパンドラの箱だ。ヒューマニズムのない革命は存在しない。勇気あるヒューマニストは、やっぱり目をつぶって、『実録・連合赤軍』を観るだろう。
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男が泣くおいおいと泣く哀しみは
君の強さの思い出となる
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催涙ガス除けるレモンを噛みながら
笑ったあなたは 「連赤」に死す
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雪の降る日に巡る思いはあの時に
なぜ我でなく君だったのか
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ふりむけば孤立の道を青春の
証のごとくひた走りしわれは
『ジャスミンを銃口に』より
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雪野建作 (元・革命左派メンバー)
青空の記憶と、輪廻
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25年後にはじめて訪れた上州の山々は、緑に萌えていた。
迦葉山、榛名山、倉渕村といまわしい事件の記憶をとどめる山々と村落は、ようやく冬の眠りから覚めて、若葉の季節を迎えようとしていた。いちばん標高の高い榛名山でも、見通しの良い冬枯れの梢に、春霞のような新緑のベールをまとっていた。あと10日もすれば、むせかえるような新緑にあふれることだろう。
私の中にある、「山」の印象は、あの事件を知るまでは、あくまでも明るく、開放的な世界だった。しかし、あの過激な事件を経た後では、春の新緑は、私に「生」とともに「死」を想起させるようになった。生があるから、死がある。死があるから、生がある。生と死はひとつながりの円環ををなし、悠久の昔から未来にわたって連綿と続いている。春の新緑も、生と死の円環のなかで、しばしのあいだ燃え上がる命のように、私には見えるようになった。
山で惨劇が繰り広げられていた頃、小菅の東京拘置所にいた私は、同士たちはてっきり都会のアジトで冬を過ごしているものと思っていた。火の気のない独房で、私はわずかに、食事時に配当を受けたヤカンの湯で、掌を暖めたものだった。はじめはやっと手をつけられるほど熱い湯も、冷え切った掌でヤカンをかかえているわずかの間に、すっかり冷めてしまう。この年は、何度も雪が降り、2月末の時期にもまだ根雪が残っていた。厳冬のさなか、仲間がまだ山にいようとは、私には夢にも思えなかった。
小袖のバス停で落ち合った吉野君は、ハイカーのスタイルでバンダナを額に巻いていた。こうして、私と瀬木君は、3ヶ月近い札幌の長屋住まいを終えて、先に上京していた永田たちに合流した。1971年の5月のことである。
そのころ、山の生活は、息をひそめて暮らしていた北国の町の潜伏生活とくらべて、開放的で明るかった。折りしも、奥多摩の山は新緑に萌え、生命感にあふれていた。私たちは、久しぶりに会った仲間たちと議論し、時には酒を飲んでインターンを思いっきり歌った。
まず、落ち着いた所は、使用されなくなったキャンプ場で、小袖川沿いに建てられた管理棟と集会場を中心に、大小数十のバンガローが配置されていた。思えば贅沢な「小袖キャンプ」であった。管理棟には、四畳半位の和室と、大きな二つの竈(かまど)のしつらえられた台所、それに大テーブルを椅子が囲んでいる食堂があった。私たちはこんなところで議論し、食事をし、「軍事訓練」をおこなった。
山を下りようとして連れ戻される者がでたり、厳しい生活に耐えられずに都会で姿を消す者もでた。しかし、指名手配中の私にとっては、次に移動した塩山の野営地もあくまでも明るく、美しかった。ナメと呼ばれる、きれいに半円形に浸食された沢を流れる、澄んだ流れ。川の両岸に迫る斜面の森林に囲まれた、仰ぎ見る夜空に輝く星。流木の陰から何度もあちこち顔を覗かせる、好奇心あふれるオコジョ。もし、私があの時、あのような境遇にいなかったら、山の自然はあれほど美しく輝いていなかったのかもしれない。
しかし、その野営地にも、山を去った「脱走者」を収容するための小屋が、葦を束ねて作られていた。半年後の破局につながる萌芽が、さまざまな形で現れていた。
それから1年後、私は再逮捕されて、警視庁の地下の留置場にいた。円形に配置された居房の外側の窓からは、小さな青空が見えた。その一瞬、塩山の抜けるような青空の記憶が甦り、決して戻ってこないあのころと、仲間たちへの痛切な思いが、あふれるように押し寄せてきた。

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生まれたばかりの魚のように
はじめて知った、水の冷たさ

ふるさとの川の流れに、いま、手をつけてな
ぜか、涙があふれる
なんでもないのに
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そのころ、東京拘置所のラジオで心にしみ通るような想いできいた歌が、青い空の鮮烈な印象と共に、胸に残っている。
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植垣康博 (元・連合赤軍兵士)
歴史抜きでは語れない
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実際に起こった事実を映画化するとき、なによりもそれを歴史的に描くことだろう。実際、「連合赤軍」をそれ自体として、歴史的背景を抜きにして描くことほど馬鹿げたことはない。それでは、連合赤軍がなぜ誕生し、どうして自滅としかいいようのない結果に至ったのか考える糸口さえつかめない。
その点で、若松さんの『実録・連合赤軍』は、歴史的な流れを丁寧に追及している。ともすれば、「仲間殺し」だけが強調される連赤が、けっしてそれを目的にしていたわけではないことを、全体の流れのなかから明らかにしようとしていること、しかも敢えて実名を出すことによって、それぞれの人物がどのように振る舞い、生きようとしたかを描こうとしていることが最大の特徴ではないかと思う。これは、赤軍派、特にその後の日本赤軍と関わりを持っていた若松さんだからこそできたことだろう。
ただ、その反面、そうであるが故に、当事者である私には大きな違和感を抱かされることが多々ある。たとえば、妙義山の山越えが、雪原の縦走になっていたこと、しかも夜間ではなく昼間に変わっていたことは、なにやら気の抜けたビールのような感じがする。それまでの「総括要求」というわけのわからない戦いに振り回されていた中で、警察との遭遇を通して、やっと目に見える敵との戦いが可能になった。このことは、仲間を殺すというはかりしれない苦痛から私たちを解放してくれることになった。そうした昂揚した状況下で、今から思えば不可能としかいいようのない夜間での妙義山の山越えを行ったのであるから、そこには特別の意味があったのである。
そうした面から『実録・連合赤軍』を見ると、どうしても言わざるをえないことは、絶望的な状況ばかりが強調され、何の希望も見出せないこと、従って、全体的に極めて暗いものになってしまっていることである。
たしかに連赤を明るく描くことは無理なことであろう。しかし、私は絶望的な思いをもって戦いに参加したわけではないし、ずっと暗い気分でいたわけではない。それにもかかわらず自滅という事態に至ってしまったのは、私たちが武装闘争を通してより大きな問題にぶつかりながら、それを解決できる方向を見出せないまま、個々人の決意や精神力によって突破しようとしたからである。そうした面を少しでも描いていたならば、映画に対する印象はずっと異なったものになっただろう。
そういう意味から言えば、若松さんの『実録・連合赤軍』は、連赤問題を若い人たちが正面から考えていくきっかけを与えてくれる映画ではないかと思う。
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前沢虎義 (元・連合赤軍兵士)
40年近く生き残ってしまった
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40年近く経った今も、まだ生きていなければいけない。
日本人は、2000万人が殺されたと言われる「大東亜戦争」を起こし、敗北した。
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1973年1月1日、東京拘置所内で自死)ーーーーーーーーーーーーーーーーー
元旦になってしまいました。いい天気です。山田さんが入れてくださった花が美しく咲いています。
一年前の今日の何と暗かったことか。
この一年間の自己をふりかえるととめどもなく自己嫌悪と絶望がふきだしてきます。
方向はわかりました。
今ぼくに必要なのは真の勇気のみです。
はじめての革命的試練ー跳躍のための。
1973年1月1日 森 ーーーーーーーーー
注 「山田さん」とは山田孝の妻。山田孝は森による総括要求のため、1972年2月12日、妙義山瀧澤の洞窟で死亡した。
同年2月17日、永田洋子とともに群馬県松井田町で逮捕。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
坂口弘 (元・連合赤軍中央委員)
1993年2月 最高裁にて死刑確定。
常(とこ)しへの道ーーーーーーー
いつしかダンテになぞらへ
現代の
地獄めぐりせる心地するなりーーー
屠殺(とさつ)なる言葉
おのづと思ふなり
三人 四人と一挙の処刑にーーー
通路の上
蒸気が漏れて揺蕩(たゆた)へり
あの下を昨日曳かれ行きしか
ーーー
わが名前を新聞歌壇に見つけたる
午睡(ごすい)の夢見に
涙ぐみたり
ーーー
花の雨に
声を絞て鳥啼けり
黙して死にし同志ならむか
ーーー
われ勝てり
かの名誉毀損訴訟にて
警察上がりの男に勝てり
ーーー
指導者を憎みをれども
第三者の彼への批判は
不愉快になる
ーーー
これが最後
これが最後と思ひつつ
面会の母は八十五になる
ーーー
十二なる数字もて
総括犠牲者を括(くく)りたる記事の
堪え難きかな
ーーー
慰安婦にされし婦人を
質(ただ)せるが
板垣戦犯のせがれなりとは
ーーー
酷(むご)き過去は
寝静まりてより思へとや
寒き夜風に窓の鳴るなり
ーーー
一夜明けて
雪化粧せるアルプスよ
連赤の名も厳かに変れ
ーーー
捕虜とせし
ゲリラ全員を銃殺せる
無法に人は黙しいるかな
ーーー
なぜ吾を認めざるかと
総括にて縛られしあと
凛と言いたる
ーーー
起きしなに死にたしと
つね思いつつ
なす仕事ありと思い直すも
ーーー
指南のできるものなら
月の夜に
思ひの丈を吹いてみたきかな
ーーー
新左翼運動を誰一人として
総括をせぬ
不思議なる国
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー塩見孝也 (元・共産主義者同盟赤軍派議長) ーーーー
迷妄の霧が晴れるとき
ーーーーーーーーー
6月27日、待ちに待った、若松孝二監督による『実録・連合赤軍』を観ました。
「リアリズム」「事件の評価の核心における正鵠性、トータル性、人間性の掘り下げの深さ」「70年大会戦の革命闘争とそこでの諸問題を真正面から向かい合い掘り下げている真摯さと協調性」---。僕ら、かっての「革命戦争派」、革命的左翼は、あれから40年近く経ってではあれ、苦節するなかで、従って、やっと、ということでしょうが、あの事件を映像化する事に成功した、といってよいと思いました。
連合赤軍とその光と影は実に描きにくい対象です。
それを実現するには、近・現代史への、透徹した見識、歴史観が必要で、今まで、この課題に優れた数々の映画監督が幾度も挑戦したものの、その映像化を許さなかった程の対象でした。
ドストエフスキーが幾人いても描けないほど、連合赤軍事件は、人を寄せつけないような、エベレストを越えた、さらに峻厳なる高峰として聳立(しょうりつ)していたのでした。
それを、若松監督は見事、やり遂げた、と言ってよいと思う。
「当事者」の僕としては、このような映画を、亡くなった同志達、今も獄で苦しみながら不屈に闘い続けている同志達、傷ついて今も彷徨している人々、外国の地で、祖国日本を憧憬しつつも、帰れず、今も苦闘している同志達、連合赤軍事件の真相を知りたいと真剣に調査、研究している若い人達に対する、何よりのはなむけ、鼓舞激励の作品と解したいと思います。
重ねて、監督にありがとうと言いたいのです。
もっと、大きな視野で捉えれば、連赤事件というドラマは、日本、否、世界の民衆運動の成熟程度をシンボライズする事件でありますから、この過去の成熟程度を、民衆自身が乗り越え、新しい成熟段階に到達しないかぎり、或いは、その門口、端緒に立たない限り、もっと言えば、そういった萌芽の現象を、人間的感性の鋭さとトータルな見識、教養において捉えきる予兆能力を持った、確かな芸術家が輩出しない限り、どうしても全面的には描けない対象だと思います。
あれ以降の後対戦、迷妄が社会と民衆全体を覆っていた、約30年間を経て、心ある人々が、苦節の中で、やっとトータルな思想的、政治的視野、布陣を先駆的に獲得し始めたとき、それが伝播し合う中でしか、映像化し得ない対象です。
霧が晴れ始めた時、過去が見え始め、同時に未来が見え始め、現在の位置が正確に掴め始めます。
天の時、地の利、人の和、と言いますが、この映画はそれが、合し始めた今の時期、これからの未来を、切り裂きつつ、これからの未来を照らし出す意味合いをもって、誕生したように思えます。
監督は、革命的左翼の最前線に立ち続け、その世界での動きを、思想的、政治的に捉えr切らんと身を処し続けてこられた人でした。
こういった人でない限り、こういった映画は、絶対に撮り切れません。
その意味で、この映画は、今後の日本と世界の民衆が進むべきスプリングボードをがっちりと提供してくれており、過去30年間の、権力者達が布石し、民衆がその迷妄にマイイドコントロールされてきた迷妄の霧を、この映画は、すっきりと拭い去ってくれます。
迷妄の夜霧の中を、民衆の巨万の軍船が、進むべき進路をしっかりと照らし出す、最高に性能ある確固たる灯台であるといえます。
僕も、ここでは赤軍派議長として、正当な歴史的評価を与えられ、登場してきています。
これは、僕が、公的に復権されることとして、終生希(ねが)っていた要望の実現でした。
この点でも、監督に感謝したいです。
身に余る光栄ですが、監督は、僕の著作をしっかりと読んで下さっており、相談もかなり頻繁にあずかりました。
僕の意見を、じっくりと聞き届けてくださり、それは、ほぼ95%パーセント、映画に貫かれています。
細部につきましても、要点をしっかり質問され、疑問も晴らされたようでした。こういった、予断と偏見なき目が、多分に、この映画を、さらに輝かせる要因になっているのでは、と自負します。
監督や参加された人々と、この映画の感想、評価を交換、分かちあうべく、上映後に予定された「ロフトプラスワン」の感想、批評会には、是非、出席したかったわけです。
しかし、翌日の会議に向け、文章を用意しなければならず、泣く泣く僕は家路につきました。
実に、返す返す、残念至極なことでした。
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2008年5月11日日曜日

いい話、かき集め①

朝日新聞などから、気になった部分だけ拾い書きした。一部には、私の日常の雑感も。
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気弱になった集団の多数意見は、往々にして誤る」この鋭い洞察は、南極観測隊を何度か率いた村山雅美(まさよし)さんだ。(小学館『千年語録』)。追い詰められてからの「数の論理」は危険で、局地では全滅を招くことさえある。

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5歳ころからピアノを始め、13歳でジャズピアノの巨匠ハンク・ジョーンズに絶賛され



た松永貴志は、20歳を過ぎた。新作はバリバリとやんちゃに弾きまくっていた過去の作品とは色合いが違って、のっけから哀愁ただようバラード。
今回のコンサートツアーのタイトルは
「地球は愛で浮かんでる」
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080430 23:00 NHK総合
水谷豊 22年ぶりの歌声」を視た。こんな時間帯にテレビを視るのは1年に5回はない。仕事上のことなんだが、昼間に思いついたことが気になって、酒を飲んでも眠気がしなくて、ついテレビのスウィッチをオンにした。
俳優であり、歌手である水谷が何曲か歌った。カリフォルニア・コネクション、この歌も知らないし、他に歌った歌も私は聴いたことがなかった。お世辞にも歌唱力があるとは、思えなかった。極端な音痴の私の感想だからこの批評は当てになりません。
ここで話題にしたいのは、そんなことではなくて、水谷が中学校の国語の先生に会いに行ったときの会話から書き残しておきたいセリフがあったのです。
先生は、先生を辞められて諏訪神社の神官になっておられて、久しぶりに会った恩師に水谷が言ったのです。
「先生は、国語には100点はないんだよ」と、当時言われていましたよね。恩師は水谷にそうだ、と優しい笑顔でうなずかれていた。
心和(なご)むシーンだった。
やっと、寝る気になって布団に入った。
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埼玉県長瀞町立長瀞中の教壇に、中途失明の国語教師、新井淑則さん(46)が立った。念願の普通学級復帰に「見えないからこそできることもある。優しさや思いやりを伝えること。障害者と健常者がともに生きてこそ社会なんだから」
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「できないことはたくさんあるけれども、できることを見ていきたい。もっと輝いてくれると思うから」と、宮崎県延岡市の堀之内タミさん(34)。新入学のダウン症の長女、天音(あまね)さん(6)が図画コンクールで入選した。
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JR宝塚線事故で妻を亡くした山田富士雄さん(58)が、学生時代の落語仲間と出前寄席。病気などで家族を失った人たちを笑わせた。今度は僕が癒す番。心の中で生きている妻は、自分が好きなことをして光ることで光る」
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昨秋、咽頭ガンで声を失った大阪芸術大学の牧泉さん(59)。手術前の肉声をパソコンで再現する仕組みを使い講義に臨んだ。感想もキーをたたいて「授業中はイケてると思い、グットきました」と懐かしい声で。
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カンボジアで選挙監視員をしていた息子を凶弾に奪われた中田武仁さん(70)。15年間のボランティア名誉大使を辞して多くの息子を持てたのが大きな誇り。生きている限り活動を続けます」
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「算数を勉強をして千まで数えられるようになりたい」と、札幌市の三角山小に入学した壇上怜乃(れの)君(6)。この向上心、千まで数えたことのない身には、まぶしく、うらやましい。
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相模原市に住む詩人で英文学者の郡山直(なおし)は、イラク戦争に影響を受けて反戦詩を書き始めたそうだ。自らの詩作の一方で、戦争詩、原爆詩の翻訳にもとりかかった。郡山さんが訳した中に、被爆詩人として知られる故・栗原貞子さんの作品がある。「一度目は あやまちでも/二度目は 裏切りだ/死者たちへの/誓いを忘れまい」
最後の2行は
「 We"ll not forget / the promise we`ve made to the dead. 」
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井上ひさし 著
子どもにつたえる
日本国憲法」
二十世紀の中ごろ、大きな戦争で嘆き悲しみ傷ついた世界中の人たちが、
血と涙のまじった溜息をついた。
この溜息が固まって一個の宝石が生まれた。
これが日本国憲法だった。
この宝石の輝きを二十一世紀に大人になる子どもたちにどうにかしてつたえたい。
この一冊はこのための試みの一つです。
          井上ひさし
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080506 
本日は久しぶりの快晴だ。
今年最初の五月晴れか。
昨日は端午の節句で、菖蒲湯に入った。
ゴールデンウイークの終わり。私も早くに仕事を繰り上げ帰宅した。女房は早い帰宅に驚いていた。会社を出る時、専務が今日は八百屋さんに寄って菖蒲を買わなくちゃ、と言って帰っていった。我が家の家人はきっちりされた御仁だから、ぬかりなく菖蒲湯の用意はしていてくれた。
ビールを飲み、焼酎を飲み、熱燗を飲んで、十分酔ったので寝ようとしたら、女房が「今日は、菖蒲湯ですからね」と風呂をすすめてくれた。酔っ払って風呂に入るのは危険だから湯に入るのを止めて、2階の寝室に向かった。
子供は4人いるが、2人は我が家を出て家庭をもっている。同居している長男の方は、彼女と私の生家を訪ねているらしい。私には、まだ内緒にしておきたいようだ。もう一人の三女は仕事に行っている。
子供は我が家にはもういない。
寝室に向かう階段の途中で、何を思ったか、ここの主(あるじ)は口走った。
「我が家には子供はいないのだから、君と子供の頃に戻って、一緒に入るか?」
妻は聞き取れなかったようで、反応がなかった。私は酔っていたので発声中枢がやられていたようです。きちんと発音できていなかったようだ。それとも、最初から聞き取られないように用心して、喋ったのかもしれない。恥ずかしいセリフですから。
聞こえなくってよかった。
何事もなくてよかった。
安心して、寝よう。
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080506 
中国の国家主席である胡錦濤(フーチンタオ)(こきんとう)が来日中です。
6日夜、日比谷公園の松本楼で福田首相らと会食をした。日中国交回復を成し遂げたときの首相だった田中角栄の娘、娘と言ってもりっぱな国会議員だが、田中真紀子さんも招待を受けて臨席した。
主席は田中真紀子さんに、亡き父にかっての労をねぎらった。真紀子さんも今後の日中の平和的な付き合いが進展することを願っている、と答えた。
そこで、主席は「中国では、水を飲んだときに井戸を掘った人のことは忘れません」という諺(ことわざ)があるのです、と言われたそうだ。
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米マイクロソフトのびつ・ゲイツ会長が、080507、朝日新聞のインタービューに答えた。情報技術(IT)社会の「予見者」は、今後10年で主に三つの変化が起こる、としてきする。
第一は、「どこでもハイビジョン体験」だという。現在のハイビジョンの液晶やプラズマディスプレーだけでなく、プロジェクターの発達でどんな壁にもハイビジョン映像を映しだせるようになると」同氏はみる。立体映像技術も進展し、ネット上でお店の中を歩き回ったり、ネット上でさまざまな人たちに立体画像で会ったりすることも可能になるという。
第二は、パソコンなどのIT機器のより自然な使い方が可能になる」点だ。現在は、パソコンを使うにはキーボードやマウスを使いこなさないといけないが、今後、画面にタッチしたり、言葉や、身振り手振りで操作したりする動きが大きく広がるとみる。
第三は、カメラ、ビデオカーオーディオ、携帯電話など様々な機器が、「相互に簡単につながるようになる」ことだという。
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産卵の浜支えた熱意      (中村明子)
「初めてウミガメの産卵に出くわしたとき、命の誕生する神秘さがカッと胸にきました」宮崎野生動物研究会会長の竹下完(ひろし)さん(74)は、約30年前をこう振り返る。宮崎県日向灘海岸で、産卵のためにやってくるアカウミガメの調査・保護活動を30年以上続ける同会は、日本のウミガメ保護運動の草分け的存在だ。先月、「明日への環境賞」(朝日新聞社主催)を受賞した。
会の発足当時、砂浜に産みつけられた卵の85%は盗掘」されていた。さまざまな対策を試み、10年後には被害はほぼゼロに。
夜の砂浜を見回っていたら、海岸で寝泊りしている若者に誤解され、「何しているんだ。ここはカメを大事にするところだ」と言われたこともあった。「ものすごくうれしかった。それだけ宮崎の人に伝わっているのかな、と」
熱意と喜びをもって続けること。人間の営みで損なわれた自然の再生に取り組む全国の人々に、竹下さんのメッセージを伝えたい。
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ワタヤ社長 渡辺美樹さん母は長く腎臓を患い、人工透析を受けていた。亡くなった当時は36歳。
ある日曜の午後、父に公園に連れ出された。父はベンチに座らせて言った。「本当ならお前は生まれてこなかったかもしれないんだ」
最初の子は女の子、渡辺さんは父母が授かった2人目の子だった。妊娠4ヶ月、医師は父に「体力的に出産は厳しい。奥さんを説得してください」と迫った。しかし、母は首を横に振った。
「せっかく授かった命よ。命が縮んでも、あなたが欲しがっていた男の子を生みます」「また女の子だったら?」「3人目のとき頑張ります」
息子の目を見て、父は語気を強めた。「お前がいつまでもめそめそしていたら、お母さんの立つ瀬がないだろう」
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戦争の放棄をうたう憲法9条に、世界で平和運動に取り組む人たちがエールを送っている。千葉市の幕張メッセで6日まで開かれた初の「9条世界会議」は
約2万2千人が訪れた。なぜ、9条なのか。海外から来たゲストは「支持するのは、あなたたちだけではない」と日本の参加者を勇気付けた。
「9条を広めるために来た。日本はひとりぼっちではない。世界から支持されているのです」
「軍は国民を守ると教えられたが、そうではなかった。非暴力こそ人々を守る最善の方法だ」
「9条は国際的な問題だ。同じ道を歩いていこうと決意した」
「もし日本が9条を放棄すれば、周辺に悪いシグナルを送ることになる」
「アジアのなかの9条」
「9条は日本だけのものではない」

2008年5月7日水曜日

日本国憲法 現実を変える手段として

080503 朝日 朝刊 
社説
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たった1年での、この変わりようはどうだろう。61回目の誕生日を迎えた日本国憲法をめぐる景色である。
昨年の憲法記念日のころを思い出してみる。安倍首相は、夏の参院選に向けて憲法改正を争点に掲げ、そのための手続き法である国民投票法を成立させた。集団的自衛権の政府解釈を見直す方向で、諮問機関も発足させた。
ところがいま、そうした前のめりとでも言うべき改憲気分は、すっかり鳴りを潜めている。福田首相は安倍時代の改憲路線とは一線を画し、集団的自衛権の見直しも棚上げにした。
世論も冷えている。改憲の旗振り役をつとめてきた読売新聞の調査では今年、93年以降の構図が逆転し、改憲反対が賛成を上回った。朝日新聞の調査でも、9条については改正賛成が23%に対して、反対派3倍近い66%だった。
90年代から政治やメディアが主導する形で盛り上がった。だが、そもそも政治が取り組むべき課題を世論調査で聞くと、景気や年金など暮らしに直結する問題が上位に並び、改憲の優先順位は高くはなかった。イラクでの米国の失敗なども背景に、政治の熱が冷めれば、自然と関心も下がるということなのだろう。
むろん、政界再編などを通じて、9条改憲が再浮上する可能性は否定できない。ただ、今の世の中の流れを見る限りでは、一本調子の改憲論、とりわけ自衛隊を軍にすべきだといった主張が訴求力を失うのはあたり前なのかもしれない。
9条をめぐってかまびすしい議論が交わされる陰で、実は憲法をめぐってもっと深刻な事態が進行していたことは見過ごされがちだった。
すさまじい勢いで進む経済のグローバル化や、インターネット、携帯電話の広がりは、日本の社会を大きく変容させた。従来の憲法論議が想像もしなった新しい現実が、挑戦状を突きつけているのだ。
たとえば、「ワーキングプア(働く貧困層)」という言葉に象徴される、新しい貧困の問題。
国境を越えた競争の激化で、企業は人件費の削減に走る。パートや派遣の非正規労働者が飛躍的に増え、いまや働く人の3分の1を占める。仕事があったりなかったりの不安定さと低賃金で、生活保護の対象になるような水準の収入しかない人たちが出てきた。
本人に問題があるケースもあろう。だが、人と人とのつながりが希薄になった現代社会では、個人は砂粒のようにバラバラになり、ふとしたはずみで貧困にすべり落ちる、はい上がるすべがない。
戦後の日本人は、豊かな社会をめざして懸命に働いてきた。ようやくその目標を達したかに思えたところで、実は袋の底に新しい穴が開いていた。そんな状況ではあるまいか。
東京でこの春、「反貧困フェスタ」という催しがあり、そこで貧困の実態を伝えるミュージカルが上演された、
狭苦しいインターネットカフェの場面から物語りは始まる。カフェを寝場所にする若者たちが、かたかたとキーボードをたたきながらネットを通じて不安や体験を語り合う。
長時間労働で倒れた人、勤め先の倒産で給料未払いのまま職がなくなってしまった若者、日雇い派遣の暮らしからは抜け出せない青年ーーー。
最後に出演者たちが朗唱する。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。生存権をうたった憲法25条の条文だ。
憲法と現実との間にできてしまった深い溝を、彼らは体で感じているように見えた。
    「自由」は実現したか民主主義の社会では、だれもが自分の思うことを言えなければならない。
憲法はその自由を保障している。軍国主義の過去をもつ国として、ここはゆるがせにできないと、だれもが思っていることだろう。だが、この袋にも実は穴が開いているのではないか。そう感じさせる事件が続く。
名門ホテルが右翼団体からの妨害を恐れ、教職員組合への会場貸し出しをキャンセルした。それを違法とする裁判所の命令にも従わない。
中国人監督によるドキュメンタリー映画「靖国」は、政府が関与する団体が助成金を出したのを疑問視する国会議員の動きなどもあって、上映を取りやめる映画館が相次いだ。
インターネット社会が持つ匿名性は「両刃の剣」だ。多数の人々に個人が自由に発信できる世界を広げる一方で、無責任な書き込みによる中傷やいじめ、プライバシーの暴露が、逆に個人の自由と人権を抑圧する。
こうした新しい現実の中で、私たちは自由と権利を守る知恵や手段をまだ見出していない。
憲法で「全体の奉仕者」と位置づけられている公務員が、その通り仕事をしているか。社会保険庁や防衛省で起きたことは何なのか。憲法の精神への裏切りではないのか。
憲法は国民の権利を定めた基本法だ。その重みをいま一度かみしめたい。人々の暮らしをどう守るか。みんなが縮こまらない社会にするにはどうしたらいいか。現実と憲法の溝の深さにたじろいではいけない。
憲法は現実を改革し、すみよい社会をつくる手段なのだ。その視点があってこそ、本物の憲法論議が生まれる。

こどもの日に

080505 朝日 社説
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白鳥も君も同じ命なのに
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細く長い首が優雅なハクチョウやコクチョウを、どうして力まかせに殴ってしまったのだろう。
連休のさなかに流れたニュースに、なんともやりきれない思いがする。
ことの起こりは1週間ほど前だ。水戸市にある湖で、頭や首などに傷を負った7羽が無残な姿で死んでいるのが見つかった。
「いったいだれが?」。地元の怒りが膨らむなか、市内に住む男子中学生たちが警察の調べに、「棒で殴った」と認めたという。警察は動物愛護法違反などの疑いで話を聴いている。
中学生といえば、まだきちんとした判断力が備わっているとはいえない。
面白半分だったかもしれない。仲間でふざけているうちに、いたずらが過ぎたのかもしれない。
しかし、それにしても、と暗い気持ちにならざるをえない。かれらが生きているものへのいとおしさを肌で感じられなくなっていたのではないか。と、思うからだ。
少年たちも幼い頃、生きた動物や昆虫に興味を抱き、飽きずに眺めた時期があったはずだ。生きるものの不思議さ、愛らしさに、目を輝かせもしただろう。そんな思いをいつしか忘れてしまったとすれば、なぜなのか。
まるでゲームをするかのような感覚だったのだろうか。
だが、あと少しの想像力があれば、こうはならなかったと思いたい。ハクチョウにも命があり、懸命に生きていることに思いを至らせる。殴られた時の鳥の痛みに、ほんの一瞬でも想像を及ぼしてみる。そうすれば、棒を振り下ろしたりはしなかったろう。
生きるものを大切にできなくなっている。それは少年たちだけの問題ではあるまい。
池のカモに矢が刺さり、学校で飼っているウサギが殺される。そんな動物たちの受難は、これまでも繰り返されてきた。いい年をした大人が残虐な行動に走るケースも目に付く。
大人や年かさの少年たちが生き物の命を粗末に扱うことが、同じようなことをしてもいいのだ、と年少の子供たちにも思わせてはいないか。
心ない被害に泣かされているのは、動物だけではない。この春、鮮やかな花をつけたチューリップやパンジーが、根元から折られたり、引き抜かれたりする被害が全国で相次いだ。
動物にも植物にも、自分と同じように命がある。そんなあたり前のことをあたり前に受け止める感性を、今の社会が失わせつつあるのではないか。
きょうは「こどもの日」だ。家族で、あるいは友達同士で命の大切さを考えて、生きるものへのいとおしさを感じてみたらどうだろう。動物や植物に同じ生きものとして共感できれば、人も生きやすい社会になるだろう。
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おじさん、おばさんの出番
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続編も含めてヒットした映画「ALWAYS 三丁目の夕日」には昭和30年代の風景画ふんだんに出てくる。そこに欠かせないのが近所のおじさん、おばさんの存在だ。つかず離れずの関係を保ちつつ、よその子でも悪いことをすればしかり、良いことをすればほめた。
だが、向こう三軒両隣の近所づきあいは希薄になり、隣人の孤独死にも気づかない世の中になってしまった。
そんな時代だからこそだろう。家庭や学校だけにまかせず、地域で子供たちの面倒をみようというさまざまな取り組みが各地で進んでいる。
そのなかで1対1で見守る先駆的な例が、広島市教育委員会が実施する青少年メンター制度だ。
メンターとは、「優れた助言者」の意味で、ギリシャ神話に語源を持つ。1人の大人が1人の青少年の成長を支える活動は100年ほど前に米国で始まった。
広島市の制度では、子供への支援を希望する保護者からの申し込みを受けて、メンターとして登録した市民との組み合わせを決める。メンターは週に1,2回家庭を訪問して、2時間ほど過ごす。期間は原則として1年間。
メンターは1回につき600円の活動費が出るだけの無償ボランティアで、特別な資格はいらない。市民から募集し、審査を経て登録されると、研修を受ける。
小学5年生から不登校だった保田光一郎さん(18)は、中学3年生でメンターに出会った。その60代の「おじさん」は絵手紙が趣味だった。絵手紙の描き方を習ったのをきっかけに、話が弾んだ。他の人とも話せるようになり、学校に通えるようになった。いま大学進学をめざし、東京で浪人中だ。
母の一代さん(51)は「2人でいるのを見ると、本当に穏やかでゆったりとした時間が流れていた。親は忙しくて、つい目先のことにとらわれてしまう」とメンターの効用を語った。
メンターに登録する市民は60代の主婦が多い。西田志都枝さん(61)は地域活動の経験が豊富だが、マニュアルがないので、初めは戸惑った。そのうち、無理に話さなくても、「用事があったら声をかけてね」と待っていればいい、と学んだ。「やってみんさい」と知り合いに勧めている。
この精度は、全国に先駆けて3年前から本格的に始まった。昨年度は約60組が活動した。日本でもかって、「取り上げ親」「名付け親」「仲人親」など実の親以上の大人が子供を見守ってきた。
そんな先祖の暮らし方を思えば、現代でも「メンター」の要素はだれもが持っているだろう。
人生経験豊かなおじさん、おばさん、さ出番ですよ。

2008年5月4日日曜日

アーバンビルドは護憲、9条改正反対。

3日の憲法記念日に、あわせておこなった朝日新聞の全国世論調査(電話)の結果が紙上にでていた。
憲法を
変えないほうがいいとの回答が、66%。
変えるほうがいいが、23%。
憲法改正が必要とする人が56%いるが、その中で、9条改正を
支持する人の割合は37%にとどまり、
54%の人が9条は変えないほうがいいと答えた。
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私は小学校の5年生から護憲派だ。伊藤先生の影響を強く受けた。
陰では先生のことを、いと(伊藤)にチンチン、ぷらぷらと、と呼んでいたのですが。先生の憲法にかける情熱は半端ではなかった。お兄さんを戦争で亡くしたと仰っていた。右手が不自由だったけれど、左手でチョークを力いっぱい押し付けて黒板に字を書くものだから、チョークの欠片(かけら)と粉で、ホワイトボード下の床は真っ白になった。
こと、憲法に関しては、護憲を問答無用で支持し、児童に対しては強圧的でした。ぐちゃぐちゃ、議論するまでもない、そんな態度だったように思う。
中学校は宇治田原町立維孝館中学です。江戸時代の藩校だった。
中学生の時は、森本先生(世界史)、吉岡先生(体育)も護憲には熱心だった。
森本先生も、吉岡先生も二人ともスケベーで、男子生徒には人気があったが、女の生徒には嫌われていた。
森本先生は教職員組合では、エライんだと自慢していた。吉岡先生は、職員室で赤旗(共産党の広報紙)新聞を読んでいた。「たもっちゃんも、読んでみ」、と薦められた。労働者、組合,賃金とかそんな文字が、紙面のあっちこっちで躍る。イヤな気がしなかった。なにか、先生を励ましているような内容だったように思った。
吉岡先生は、後に宇治の中学校の校長先生になられた。私は、他人には漏らすわけにはいかないエッチな秘技を教えてもらった。この仔細は二人の名誉のために、絶対口外は許されません。悪い先生で、大学受験のための浪人中に、酒を教えられた。
高校時代の岡田先生(政治経済)は、過激だった。高校は京都府立城南高校です。スポーツも勉強もしない、覇気のない高校だった。立ち食い弁当だけが、伝統だった。弁当を食いながら、あっちこっちの教室や廊下をウロチョロするのです。
5月1日のメーデーの日には、岡田先生は学校内で一番輝いていて、格好よかった。大将だった。赤旗を振りながら、同僚の先生と肩を組んだり、私たち生徒にもスクラムを組ませた。学校の行事の際、国旗や校旗を揚げるポールに赤旗を揚げた。
当時、京都は社共が支援する蜷川虎三知事だったので、中小企業や農家に対していろんな対策が講じられていた。実家が貧しい農家だったので、助成金を用意してくれる知事のことを、父から教わった私は子供心に感謝していた。蜷川知事は反帝、反米、労働者の味方だった。
そして、憲法記念日の日の岡田先生の「政治経済」は、生徒を誰一人となく飽きさせなかった。自由民権運動のさなか、板垣退助もかくもこれほど熱っぽくはなかったのではないか、と感心させられた。
このようにして、私は護憲派になった。

2008年5月3日土曜日

ヒットラーと、中国の聖火

今年夏、中国で行われる北京五輪の聖火が五大陸の国々をめぐり終えて、5月2日から中国の国内ルート(中国では「紅色旅行」というそうです)をめぐるとのニュースがあった。
2004年に開催された28回アテネ大会は、初回の開催都市であったアテネが2回目という記念すべき大会になったことで、聖火リレーを初めて五大陸をめぐった。
スポーツの祭典であるのは言うまでもないのだが、平和の祭典でもあるのだということを、ここらで一発、オリンピック委員会が「純粋」にアピールしたかったのだろう。
ところが、このことを「純粋」だと私は勝手に思い込んでいただけで、どうも違うんだな。
五大陸をめぐる聖火リレーには、スポンサーがついているのだ。スポンサーがついている以上、どんな道筋をたどっていくかは、自明だ。商業主義的になる。
そこで、なぜか、今回の北京大会でも五大陸をめぐることになった。そこへチベット問題が勃発。漢民族によるチベット民族に対する人権抑圧問題が火を噴いて、ヨーロッパ、アメリカの各地で人権派といわれる人々から、聖火リレーの妨害がおこった。
ここで、聖なる火が悪態を晒(さら)すことになってしまったのだ。
中国の狙いである国威発揚と、オリンピック委員会の商業主義が合体して、可笑しいことになってしまった。そんなことを考えていたところに、朝日新聞に「ヒットラーと、中国の聖火」の記事が出たので、我が意を得たり状態で、この文章を綴った。
ある人が言っていたそうですが、五大陸をめぐるのではなく、アテネからトルコを経て、シルクロードを通って万里の長城から北京に着く。そんな聖火リレーだったら、壮大なロマンにあふれていて、世界の人々に違った感動を与えたのではないだろうか。
東京オリンピックでは、日本の国内で聖火リレーが行われたらしい。私の妻の友人たちが、小学生か中学生だったころ、あっちこっちで走った者たちがいる。いい思い出になっています、だって。
中国の国内ルートは、香港、マカオのほか、本土の31の省、自治区、直轄市全てをめぐるそうです。民族調和をアピール、チベット、新疆ウイグル両自治区も通過する。国内での聖火リレーは共産党政権の正当性を誇示する、政治色の極めて濃いものになる、と新聞では報道されていた。
中国政府の高級官僚はチベット問題は、内政問題だと言っていた。
昨日のニュースでは、ダライ・ラマの特使と話し合いに入るとのことだ。


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080501 朝日夕刊より。
脇坂紀行
ヒットラーと聖火リレーが近代五輪に登場したのは、1936年開催のベルリン大会だった。その8年前のアムステルダム大会で「聖火」が初めて使われ、ベルリン大会で「リレー」が加わった。
なぜ、聖火リレーになったのか。
国威発揚を狙ったということは容易に想像がつく。33年1月に政権を握ったヒットラーは、オリンピックを国家プロジェクトと考えていた。国民の結束を強め、ドイツの発展を誇示する。聖火リレーはそのために不可欠な仕掛けだった。
驚かされるのは、ギリシャが特別な意味をもっていたことだ。
ヒットラーは「ドイツ人は古代ギリシャ人の直系子孫である」と唱えていた。ギリシャとドイツを結びつける聖火リレーは、この妄想を真実と思い込ませるための手段でもあった。
暗黒の時代はすでに始まっていた。ユダヤ人への迫害が始まり、ドイツ選手団からユダヤ人を排除しょうとした。
36年7月20日、オリンピアの丘で採火された聖火を掲げた走者が北方へと走り出した。伴走するラジオ記者の中継に、ドイツ国民は熱狂した。
13日目、スタジアムで最後の走者を迎えた観衆は「ハイル・ヒトラー」と独裁者をたたえた。(ダフ・ハート・デイビス著「ヒトラーへの聖火」)
なにも、北京五輪の聖火リレーに異議を唱えようというのではない。ただ、聖火リレー誕生の秘話を知っておくことも無駄ではなかろう。

2008年5月2日金曜日

国会にも、みなし否決ってあったの?

国会にも「みなし」否決とやらがあるのに、驚いた。

みなし法人というのは聞いたことがある。個人で事業を行っていても、あたかも法人と同じように経営を行っているものだから、法人格ではなくても税法等は法人と同じように扱われる。
我々の業界では建築基準法42条3項に該当する道路のことを、通称但し書き道路と呼んでいる。これを人によってはみなし道路と呼ぶ人もいる。認定道路ではないが、要件が整えば道路と認めましょうということだ。
私が極端に元気だった頃。破れかぶれのジーパンを穿(は)いて、下駄を鳴らしていた頃のことだ。渋谷駅ハチ公前で、右翼が街宣車の上から、意味もないセリフを蛾鳴り立てていた。有名な赤尾敏だ、大日本愛国党の総裁を名乗っていた。その街宣車が10分に3メートル程移動するのを見ていて、駐停車禁止ゾーンにおいてうまいこと脱法行為を考え出したものだと感心していた。
それから、12,3年後、私はマチバの不動産屋の部長さんになっていた。年齢は30半ばになっていたが、生意気な青二才からは卒業できていなかった。場所は同じ渋谷駅はハチ公前でのことだった。どこかの労働組合かそれを支援する団体だったようだが、詳しいことは憶えていない。その団体の演説が行われていた。演説は助手席に乗っている者がやっていて、運転手と警察官は何やら問答し合っていた。友人との待ち合わせ時間には余裕があった。私は、無意識のうちにその運転手と警察官の会話の一部を漏れ聞いてしまった。ここは駐停車禁止区域だ、道路使用の許可をとっているのか、と。
私は、出っ張って運転手に話しかけた。いいんだよ、止まらなければいいんだよ。10分で3メートル動けば駐停車禁止区域でもOKだ、心配するな。昔 大日本愛国党の赤尾総裁がそのようにやっていて、警察は手も足も出さなかったよ、と激励した。
そこで、警察官が反論して吐いた言葉が、『「みなし駐車」として駐車違反だ』。キップをきるよ、喧嘩ごしだった。
そこで、みなし駐車という言葉を知った。警察は右翼に優しくて、左翼には厳しいとは聞いていたが、案の定だった。
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以下は、080501 朝日朝刊1面記事より。
衆院本会議は30日、憲法59条の規定に基づき、衆院可決後、参院が60日以内に議決しなかった税制改正関連法など5法案を参院が否決したとみなす動議を与党の賛成多数で可決。その後、5法案は参院から衆院に返付され、衆院本会議で再可決、成立した。民主、社民、国民新各党は採決を欠席し、共産党は反対。暫定税率の復活は賛成337票、反対12票だった。
衆院の3分の2による再可決は1月の補給支援特別措置法以来だが、この時は参院否決を受けたもの。みなし否決を踏まえた再可決は、1952年の「国立病院特別会計所属の資産譲渡に関する特措法」以来、56年ぶり2度目。
政府は30日夕、臨時閣議を開き、関連法の施行日を1日と決定。
よって、ガソリン税の暫定税率(1リットルあたり25.1円が1ヶ月ぶりに復活した。