ホンダの「スーパーカブ」(排気量50 、90cc)の累計生産台数が6000万台に達したとの新聞記事を読んだ。今年で発売50周年。
私が高校2年生になってから、学校へはホンダのカブで通っていた。当時は50ccと55ccの2タイプがあった。50ccでは二人乗りが禁止されていたので、55ccを買ってもらった。買ってもらってからは、乗って、乗って、乗り廻した。高校の想いでは、常にホンダのカブとともにあった。
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毎日、宇治川に沿った道を、ガンガン飛ばした。
お尻をシートの後ろの方にずらして、前かがみに上体を寝かせて、カーブごとにバイクを右に左に倒して、まるでレーサー気取りでした。夏の雨は幾ら強くてもへっちゃらだったけれど、冬の雨は辛かった。小さな虫が目に入ったり、鳥の糞が顔にぶつかることもあった。
たまには、カブを止めて、ぼんやり佇むこともあった。
そそり立つ山と川に挟まれた道端で、川面で遊ぶ鳥や、時々飛び上がる魚をぼんやり眺めたり、山や樹木が漂わせるものを体に浴びて、山気とでもいうものか?なかなか、気持ちのいいものでした。後に森林浴なんてハイカラな言葉になった。
春、夏、秋、冬、どの季節も、飽きなかった。
中途に天ヶ瀬ダムがあって、そこには売店とレストランがあって、そのレストランで只「ただ」水を飲ましていただいて、ベンチに寝転がって休ませてもらうこともあった。俺は、高校を卒業して、大学へ行くのだろうか? 何をしに大学へ行くの? 大学へ行ったとして卒業したら何をするのだろう? 俺って、何なのだろう? 世間は? 自問自答を繰り返した。これからの人生、不安だった。
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私の実家の住所は、京都府綴喜郡宇治田原町南切林。宇治川の上流で瀬田川と田原川に分かれるのですが、私の故郷はこの田原川に沿って山奥に入っていくのです。瀬田川を遡っていくと、日本最大の湖、琵琶湖なのです。だから、京都府と滋賀県の境の山間谷間の村でした。町制ではあったのですが、やはり村といった方が相応しい。
河岸段丘でできた猫の額のような平らな部分は集落と、畑と水田で、地図を広げると90%が山林です。
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この実家から通える公立の高校といえば、普通コースなら城南高校、工業なら伏見工業高校、自動車なら田辺工業高校、農業なら木津高校だった。
私は、宇治の城南高校を選んだ。
通学には、実家のある町、宇治田原町からは城南高校生用のスクールバスが朝だけはありました。そのバスに乗り遅れると、いったん宇治まで行って、そこで乗り換えて、学校を目指すので、乗り継ぎがうまくいかないと1時間半はかかった。
それに、私は2年生になってからサッカー部に入部したのです。練習が終わって部室を出るのが7時ごろだったので、それからバスを乗り継いで帰ると、帰宅が10時ごろになってしまう。カブなら、アクセルをいっぱい吹かして猛スピードで走れば30分で帰れるのです。学校から自宅まで、8キロ程なのですが、信号は4つか5つしかなかったのです。宇治の町を抜け出すと、6キロ程は信号は一つもなかった。
カブでの通学を始めたのは2年生からだった。
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1年生では、バイクの運転免許試験を受けることができなかった。学校への直行スクールバスに乗ればよかったのですが、私は自転車を選んだ。貧農の子せがれだったのです。家にはお金がなかった。近所での買い物は全て通帖(かよいちょう)でもって済ましていた。
私の田舎では、日常の買い物をする時には、現金を持って行かないで通帖を持って行って、買った品物と金額を店の人にその帳面に書き込んでもらうのです。月末で〆て請求書がきて支払うようなシステムになっていたのです。だから、私は自宅でお金の入った財布なるものを、見たことがなかった。子供心に、親に対して気を遣っていたようだ。本当に貧乏だったのか、それなりに貧乏だったのか。貧乏だったことには間違いないと思われるのですが、どの程度の貧乏だったのかは、いまだに謎です。間違っても、金持ちではなかった。
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自宅から宇治までは、下り坂一辺倒。学校への直行スクールバスを私は自転車で追い越すのです。車窓から覗き見る友人たちが、自転車で追いつき、並び、そして追い越していくさまを、オ―おーと、どよめきとともに驚いているだろう雰囲気は、外からでも解った。帰りはその逆で、毎日がバテバテだった。腹がヘッて、ペダルを踏む足に力が入らない。なかなか進まない。
当時、天ヶ瀬ダムは工事中だったのです。一休みしながら工事を遠くから眺めた。興味深かった。大林組は主幹の建設会社だった。どの現場も、どの重機も、働いている誰もが、何もかも刺激的だった。俺も大きくなったら、このように泥まみれになって働きたいと思った。
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7月の頃、蛍の季節、これが最高にいいのです。そそり立つ山にはところどころに、谷間があって、その谷間に小さな滝があるのです。その滝の周辺から、道の上を覆いかぶさるように蛍が群遊するのです。蛍を見れる時間は丁度帰りどきなのです。早くても遅くて駄目で、見ごろの時間帯があるようです。
街灯や明かりは何もないので、真っ暗闇に黄色い蛍の光は幻想的で、夢のなかにいるのではないかと錯覚するほどです。蛍の光が輝く場所は2箇所あった。その蛍の群れのなかを爆音たてて通り抜けるのです。先にも後にも、車やバイクは走ってはいない。
なんだか、俺だけがこんなに気持ちよくていいのかなあ、という思いだった。
ーーーーーカブに乗ってどこまでも行った。サッカーの試合のために、洛北高校、山城高校、紫野高校、桂高校、京都商業高校、伏見高校へ、必ず誰かを後ろに乗せていた。
ストリップの殿堂、伏見ミュージックへもサッカー部の福井保と行った。新京極へも、彦根にもカブで行った。どこへ行くにも、地図を頼りにするのではなく、あてずっぽ(こんな言葉あったか?昔のことを書いているからか、田舎の方言になったかな)に、あっちだこっちだとフラフラ走るものだから、傍からは随分危なかしく見えたことでしょう。
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マフラーを途中で切って爆音高らかに走っていました。その爆音のことで警官に捕まったことがありました。スピードを出すと視界は狭まって、前方の限られた範囲しか見えません。後ろから、ホンダのベンリーに乗った警官の怒鳴り声でやっと追われていたことに気がついたのです。ほとんど見逃してくれるのですが、勢い込んで、アクセルをいっぱいひねると、その時はさすがに迷惑モノでした。
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スーパーカブはホンダ創業者の故本田宗一郎らが開発を進め、58年(私が10歳の時だ)8月に発売された。蕎麦屋が片手で出前の蕎麦を持っても運転できるような、使い勝手の良さを追及した。左手のクラッチ操作なしで変速できる「自動遠心式クラッチ」などを搭載し、海外でも大ヒットとなった。
今でも、生産は続けられ、記録はドンドン更新中だ。
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高校を卒業してからの2年間の浪人中も、どこへ行くにもカブを使った。乗った乗った。
パンク以外、ノートラブルだった。優れモノのバイクだった。
大学のために故郷を後にした。そんなに利用したホンダのカブなのに、どうなったのか解らずじまいだ。