2011年6月28日火曜日

小沢一郎、今こそ働き時だぞ

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小沢一郎、元民主党幹事長。岩手4区で衆院選14回当選の実力議員だ。

幹事長時代に自党の金を自由に遣って子飼いを増やし、その可愛い子飼いたちに囲まれながら、実力者として、小沢グループなる郎党を組み、何かをやらかしてくれるのかと期待をしても、聞こえてくる話題は政事ではなく、内紛の火起こしばかりだ。

東北地方、宮城、岩手、福島の3県は、東日本大震災の災害で大変な事態だ。地震と津波、それに東京電力福島原発事故による放射性物質の拡散が続いている。

この危機、国難を勇気と英知を結集して危機を乗り越えなければならない、と小沢一郎氏は公式ホームページで述べている。が、果たして、小沢氏が言う国難に対して、まして生まれ故郷で選挙地盤でもある岩手県、東北地方が困っている状況を、誰よりも解っている筈なのに、何を、どのように、政治的な行動をしたのだろうか。今こそ、小沢氏の働き時だ。

有史以来の困難な事態にもかかわらず、小沢氏は仕事をしていないなあと思って、どうにも不愉快な気持ちでいたら、私の憤懣を朝日新聞の編集委員の星さんが、一人小沢氏だけの問題ではなく、民主党の問題として著してくれた。

我が意を得た、この文章をこの欄に拝借させてもらうことにした。

20110629 今日は弥生台から天王町の会社まで歩いた。距離としては12~14キロメートルあるのだろうか、3時間かかった。道中、こども自然公園の入り口に、民主党の看板が無傷のまま、整然と掲げられていて、そのスローガンを読んで笑ってしまった。これも、なにかの記念にでもなるだろう、とカメラにおさめた。

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20110625

朝日朝刊

編集委員・星 浩

政治、考

民主党の弱さ  黙々と汗かく人が少ない

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国会の会期延長をめぐる被災者そっちのけの小競り合いには、うんざりしたので、別の話題を書いてみたい。

「政権交代」で沸いた熱い夏から2年になろうとしている。この間の民主党政治のどこに問題があったのか。財源なき財政支出など、政策に不備があった。小沢一郎氏の政治資金問題と分派活動、鳩山由紀夫、菅直人両氏のリーダーシップ不足ーーーー。さらに深刻なのは、与えられた任務を果たすフォロワーシップとも呼ぶべき 「政治の作法」が欠けていることだと思う。「作法」にうるさかった竹下登元首相の語録を引きつつ、民主党の現状を考えてみよう。

 

▲汗は自分でかく。手柄は人にあげる。

例えば原発の再稼動問題。菅首相は浜岡原発の停止要請を発表し、得意満面だった。一方で点検の済んだ原発の再稼動に向けた地元自治体との話し合いは、海江田万里経済産業相に委ねている。竹下流であれば、停止要請といった目立つ仕事は経産相に任せ、首相は地元との折衝に汗を流すだろう。菅氏の「手柄は自分」の体質が、民主党全体に及んでいないか。

「謹慎」すべき鳩山氏が大事な局面にしゃしゃり出てくる姿に、多くの国民はあきれ返っている。鳩山氏側近の松野頼久元副官房長官が、税と社会保障の一体改革を話し合う党の調査会で執行部批判を繰り返していた。鳩山政権の迷走で党に迷惑をかけたのだから、鳩山氏と共にしばらくは静かに身を処し、裏方の仕事に徹するべきだろう。黙々と汗をかく人が少なすぎる。

 

▲世間の評価は自己評価の半分と心得よ。

自分が80点の仕事ができたと思っても、世間から見たら40点というケースがある。人の評価は難しいのだ。

平野博文元官房長官、小沢鋭仁前環境相、樽床伸二国会対策委員長らの中堅議員が次の代表選出馬に意欲を見せているという。ちょっと待って欲しい。もっと重要閣僚や党役員などを経験し、国家観や政策実行力について、ある程度の評価を受ける必要がある。平野氏の自己評価は甘すぎないか。民主党が苦境にあるいまは、中堅議員は腰を落として、地道な仕事に力を傾ける時だ。首相を選ぶ代表選なのだから、手を挙げればいいというものではない。

民主党は、この2年間を真剣に反省し、体質を根っこから改めなければならない。それができないなら、菅首相を代えて新首相を選んでも、自民党と大連立を組んでも、民主党は行き詰るだろう。

2011年6月27日月曜日

やっぱり6月は、太宰だ

(サクランボ 。 上の写真はネットWikipediaから無断で拝借した。太宰が好んだ桜桃(おうとう)ってサクランボのことですか、誰か、教えてください)

毎年、梅雨になると太宰のことで胸騒ぎする。三鷹・禅林寺での6月19日の桜桃忌がやってくるからだ。太宰治の消息が13日(19480613)の深夜11時半以降、判らなくなった。玉川上水下流で19日に遺体で発見されたが、確か、1909年の6月19日生まれだから、満39歳の誕生日に発見されたことになる。今年は東日本大震災があってか桜桃忌のことがあまり話題に上らなかった。

20110614 横浜市緑区三保町に宅地開発用の土地情報が寄せられたので、現地に向かったが、いつもの癖で、情報をくれた川崎の不動産屋さんとの待ち合わせまでには、たっぷり時間に余裕があった。

こういうときに時間潰しを兼ねて利用するのが、何とかオフという古本屋だ。今回の店は、緑区三保町交差点付近だ。店に入るなり、足先は105円コーナーに自然に向く。この何とかオフの古本チェーン店は、店によって置かれている本が違っていて、その違いを確認するだけでも、それなりに楽しいのだ。

そこで、目に留(と)まったのが、太宰という文字だった。受験浪人時代から大学1年生頃までの3年間、それはそれは熱心に太宰、坂口安吾、織田作之助、田中英光、壇一雄、井上光晴、山岸外史などを集中的に読んだ。著者・太宰治の本は、105円コーナーには並ぶことはない。しばらく彼のことはご無沙汰していたなあ、なんて考えると無性に懐かしくなって読みたくなった。昔の虫が今でも生きていた。

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そんな心境の私が居並ぶ本の中から見つけたのは、太宰治の名前を書名に使った本だった。松本侑子氏の「恋の蛍」、副題に「山崎富栄と太宰治」。新田次郎文学賞受賞とある。

「恋の蛍」、書名にも使われた蛍の、今は盛りの時期だ。危なっかしく静かな光を出して、生きている間は命がけで燃えるような恋をする、そんな蛍たち。一度目に入ってしまったら、手にとって確認しないわけにはいかない。太宰を夢中になって読んだ40余年前の自分に戻っていた。

太宰と一緒に入水自殺した山崎富栄のことを書いた本だ。勿論、御代は105円。大学生時代に、山崎富栄の日記をもとにした「愛は死と共に」(石狩書房)を読んだ。この本は彼女が太宰を思う心像を遺書のように綴ったもので、その時は独りよがりの気持ちをよくもそこまで書くなあ、ぐらいにしか感じなかった、が、今回の本で、富栄が生真面目で、純粋で、思索的な人柄、文学的な教養と育ちのよさ、芯の通った凛とした女性だった、ことが偲(しの)ばれた。

富栄の生い立ちから兄(姉)弟のこと、父母のこと、たった10日間だけの新婚生活、夫の戦死のこと、とりわけ日本で最初に文部省認可のお茶の水美容洋裁学校を創立した、立派な教育者だった父・山崎晴弘のことについては興味をもった。明治の東京に生まれ、日本の美容教育の近代化、自らの立身出世を目指して孤軍奮闘しながらも、軍国主義と戦争に巻き込まれ、一切を失った。この元校長を人間的に敬慕する卒業生たちが日本全国に散らばった。晴弘の生きてゆく支えにもなった、

この父と娘を含む山崎家族は、大正デモクラシィー、関東大震災、第二次世界大戦、東京大空襲、疎開、敗戦、動乱の世から戦後の時代まで生き抜いてきた。やっと、戦後の民主的で自由な時代を迎えて、美容学校再建の担い手にと父が望んだ富栄は、太宰との心中で散った。

この本で、富栄を深く知ることができた。

後の方でまとめるが、富栄のことが、彼女の名誉を傷つける内容が、あたかも事実かの如く著述され、その嘘がこの本で明らかにされた。それにしても、立派な著作家たちが、何故、そこまで、富栄のことを事実に反してまでも、かくも悪く著したのだろうか?残された山崎家の肉親たちが、そのことで、どれほど辛い思いをしたかという事実を、この有名な作家たちは、どのように感じていたのだろうか。

野田宇太郎は「六人の作家未亡人」で、富栄のことを酒場女、と唾棄した。臼井吉見は「太宰の情死」で、知能も低く、これという魅力もない女だった。文学好きなどという種類のものでもなかった、と。また「展望」では、人気作家との恋に夢中になっていた女が、その独占の完成のために、強引に太宰を引きずっていったさまを、ありありと想像することができたのである、と。村松梢風は「日本悲恋物語」で、引き揚げられた太宰の死体には、首を絞めて殺した荒ナワが巻きつけたままになっていて、ナワのあまりを口の中へ押し込んであった。つまり情死の相手の山崎が太宰の首を絞めて殺したあとで一緒に入水したものと推定された、と書いた。中野好夫は「志賀直哉と太宰治」で、山崎某女の日記などに見れば、頭の悪そうな、感傷過剰症の女である、と。

 太宰が敬愛していた井伏鱒二と仲のよかった亀井勝一郎からは、根拠もないのに、富栄が青酸カリを飲ませたのだとか、富栄が太宰の首を絞め殺したのだとも書かれた

 鎌倉長谷で富栄ら三人で共同経営していた美容室に客として通っていた梶原悌子は、2002年に「玉川上水情死行」という評伝を上梓(じょうし)した。執筆の動機は、「親しかった富栄の死後、文壇の人々が根拠のない噂や憶測で富栄を中傷し、卑(いや)しめた文章を発表している」のを読んで、「太宰につき添って死んだ富栄が憐れで、一人でも多くの人に本当のことを知らせたかった」(あとがき)からだった。

友人が、この本をざあ~と読んで、一言、この男、太宰治はずるい奴だと言い捨てた。とんでもない奴だ、と。

果たして、富栄は太宰との愛が本当に幸せだったのだろうか。昭和22年5月3日の日記より、彼女の心のうちの一部でも覗(のぞ)かせて頂いて、この稿は終わりにしたい太宰は死にたかったかもしれないが、富栄まで死ぬことはなかったのではないか。それにしても、男はアホで、女は難解だ。

先生は、ずるい

接吻はつよい花の香りのよう

唇は唇を求め

呼吸は呼吸を吸う

つよい抱擁のあとに残る、涙

女だけしか、知らない

おどろきと、歓びと

愛(いと)しさと、恥ずかしさ

2011年6月25日土曜日

オッサン、順番は守ろうよ

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20110625のことだ。格安商品のエアコンを何とか手に入れようと、1ヶ月前から作戦を立てていたが、結論は、毎週週末(土)の新聞の折込チラシに掲載されている得だしの商品に目星をつけて、その店の開店前に行くことだ、これしかないと腹をくくった。このような商品は必ず数量限定なので、早い者勝ちだ。

私は、弊社がある天王町の隣駅前にある、某電気製品量販店に行くことに決めた。開店時間は多分10:00だから、30分も前に行けばいいやぐらいな気持ちでいた。一度会社に出て、スタッフに事情を言って、出かける心算だった。

そんなことをみんなに話していたら、経営責任者の中さんが、ヤマオカさん、そんな30分前なんて甘いですよ、今から、直ぐにでも、新聞と本を持って行くべきですよ、と尻を叩かれた。椅子でもあれば、持って行くと待つのには都合がいいですよ。8時15分頃のことだ。

アドバイスを背に聞きながら、直ぐに支度をして出かけた。店の前には8時30分着。開店時間は9時半だった。幸い3階の入口には私が一番乗りで、その後30分ぐらいの間に、10人は集まった。この店の建物の入口は、1階と3階だ。私は3階の入口にいたが、ここからは見えない1階の入口の様子が気にかかる。どのぐらいの人だかりがあるのだろうか、ちょっと心配だった。

9時15分に建物の入口が開いて、館内の店の前までは進むことができて、その店の入口で、整列して待った。そうこうしていると、店の係員の人が来て、整列している人たちに整理券が配られた。

私が5番目に並んでいた。係員が無造作に整理券を5枚配ろうとした。本日のエアコンの販売台数は限定の5台だったからだ。私は5番目なので、購入できる資格は得ることができたワイと一先ずは安心した。

係員が私の前に券を差し出したら、後ろの方からオッサンの手が伸びて、その手が整理券を握り締めたではないか、私は黙ってはいない、おいおい、俺だよ、順番は俺だよ、と言って、そのオッサンから係員に券を取り戻してもらった。真の受け取り資格者の私に整理券が渡された。オッサンは、さすがに拙(まず)いなと、反省したのだろう、気まずそうに去って行った。

手にした券をよく読むと扇風機、13、800円と書いてあった。係員に、私が買いたいのはエアコンなんですよ、この券は扇風機のものなんですねと確認するや、先程のオッサンにこの整理券をあげなくては、と思って係員を呼んだ。階段付近でオッサンが見つかって、先程の気まずさはケロット忘れたような顔で現われた。

エアコンの売り場に行ったのは、私が1番でほぼ同時に3人が申し込んでいた。今日の目玉商品は扇風機だったのだ。きちんと着飾った老婦人や、私よりもきっと金持ちだと思われる紳士も整理券をもらっていた。金持ちほど、倹約するものだろうか。勉強になるなあ。

ただ、それだけのことですがね、年をとっても、浅ましくなく、ずるくなく、上品は無理でも下品にはなりたくないもんだ。

私の家(うち)には、7月1日、取り付けに来てくれる。当方は、お金を用意しておくだけだ。

帰り道、こんなことが以前にもあったなあ、と考えていたら、三女・ソが小学生の3,4年生の頃、タマゴッチを買い求めるために横浜駅前の三越百貨店に二人で出かけた、その時のことに思い当たった。当時、タマゴッチの人気が爆発的で、品不足だった。予(あらかじ)め、販売店と販売個数、販売日が知らされる。私たちは、三越に決めていた。正月の少し前か少し後だった。大勢の人間が開店と同時にエレベーターを使わずに、5階か6階のおもちゃ売り場を目指して一目散に駆け出した。私ら父娘のダッシュは他を圧倒、ダントツにトップグループだった。

そんなこともあったのだ。今日のことで、20年ほど前のことを懐かしく思い出させてくれた。

2011年6月22日水曜日

三殿台(さんとのだい)遺跡

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(遺跡一帯を空撮したもの パンフレットより)

私たちの住まいのこんなに近くに、これだけの大規模な遺跡が、きちんと保存されていることを、知って驚いた。詳しいことは、後ろの方に説明員の人からいただいたパンフレット=国指定史跡「三殿台遺跡」をそのまま貼り付けたので、それを参照してもらえばいい。

ここには、私が感じたことを記しておこう。

住所は、横浜市磯子区岡村4丁目。

遺跡は、標高は55メートル、10,000㎡の小高い丘の上の平地にある。丘の周辺には貝塚が数箇所あったのですよと言われ、こんなに海や川から離れているのに、と聞き返すと、人間が住みだしたときには、今よりも海面が40メートルも高かったそうですよ。

そうならば、ここに貝塚があっても不思議ではない。発見された貝塚をそのまま、特殊な薬品で固められ、剥ぐように切り取って、展示室に置かれていた。

実は、この三殿台遺跡に寄ったのは、弊社の経営責任者・中さんと近くの物件の下見に車で来たついでだった。中さんは、数日前にこの遺跡を見て興味を持ったようで、ヤマオカさんもどうですか、と声をかけてくれた。

社員のみんなは、今も汗水流しながら働いている。両名は、サボっているという後ろめたさを少しは感じていた、でも、で、も、だ、一所懸命、説明員の案内を水も漏らすまいと聴取して、機会があれば皆に話すことができれば免罪してもらえるだろう、と私は都合よく勝手に決め込んだ。

今は、地球温暖化が原因で、北極圏の氷は溶けて、海面がじわじわ上がっていると聞く。南太平洋に浮かぶ標高の低い島などは水没することが現実化してきた。

それにしても、今よりも40メートルも海面が高かったとは驚かされた。40メートルも今よりも高かった海面が、今の高さまでじわりじわり下がって、最後まで水の流れが残ったところが川になったのだろう、それがここでは大岡川で、鶴見川であったり、帷子川、相模川になったのだろう。横浜市内でも比較的、内陸部にあたる都筑、港北の両区の鶴見川の上流でも貝塚が見つかるのは、こういうことなんだ。

この小高い平地は、縄文、弥生、古墳時代の三時代にわたる集落の跡だ。時代ごとに集落が発生して、消滅している。この三時代が隙間なく継続していたのではなく、何故、断絶したのだろうか。気候の影響だろうか。学校で習った世界の四大文明とは、メソポタミア、エジプト、インダス、黄河文明のことだが、此処日本の縄文時代は、この四大文明と時期的には、ほぼ同じ時代だったのだろうか。巨大な建築物が造られ文字が使われていたようだから、この時代においては世界は日本よりも随分先走っていたことになる。でも、これほど多彩な土器が発見されたのは、日本以外ではないそうだ。

見つかった住居跡には、三時代ごとの3棟の住居が、復元されていた。柱があったところは確かめられたが、時代によって柱の配置が違っていた。この住居の仕上げは、研究者が想像をめぐらして造ったもので、本当のことは解りません、と説明員。

古墳時代になると、4本の柱が正方形の4隅に建てられていて、入口の正面にはかまどがつくられていた。ここで煮炊きが行なわれたようで、「人間らしい生活」の原点がこの辺りなのだろうか。

古墳時代は、今から、約1700~1500年前だと仰る。(現在は)2011-(今から)1500(前)=511になる。 確か、壬申の乱、大化の改新は645年、改新の詔が646年と、すぐに受験勉強の成果の一部が役に立つ。この時期に、ヤマトの方では、文字を読み書きできる文化が既に出来上がっていたことになりますね、と説明員に問うと、やはり、同じ古墳時代といえども、中央と地方には随分格差があったようです、とのことだ。此処の住居からは、言語なるものの文化らしき気配は感じられなかった。

そうなんです、5、6世紀となれば、ヤマトでは天皇制が確立されて、飛鳥時代に継がれていく時代だった。

台地に霞み敷く、霧のような霞がかかってきた。

私の前を歩いていた中さんと説明員の二人の姿が遠くに煙のように消え入った。私は、ベンチに寝っ転がって、まどろみだしたようだ。

周囲は静寂。辺りには、深い靄(もや)に包まれている。風がそよいで、木の葉が静かに揺れる。この高台の丘だけには、薄日が差していた。私は、彼らが何処へ行ったのか不安に思いながら、辺りを見渡した。台地には住居と樹木だけ、人影はない。

薄日を受けながら、一人で周辺をさまよった。

樹木の切り株に腰を下ろして佇んでいると、何処かから二人が、突然、目の前に現われた。えっ、二人の姿を見て仰天した。簡単な草や蔓で編んだものを身に纏っていた。上着からは太い手が、ずぼんからは毛むくじゃらの足が、むくっと出ていた。おい、中さんや、どうしたんだ、その格好は、と言ってもニンマリ微笑むばかりだ。「あなたは、中さんだろう」。エプロンのような腰巻を、帯のようなもので締めていた。木の皮でできた草履のようなものを履いていた。手には弓と矢を持っている。耳たぶには貝殻でできたような環(わ)がぶら下がっていた、イヤリングだ。

説明員らしき年配者の方は、口ひげ、頬ひげを生やしていた。長老の酋長さんのようだ。同じようなものを体に纏い、手には棒切れを持っていた。上着には、鹿の模様が書かれていた。木の実や貝、石でできた首飾りをしていた、ネックレスだ。さすがに長老だ、飾り物が多い。

どこか中さんのような面影を残したこの青年は、これから狩りにでも行こうとしていたのだろう。私が話しかけても反応せず、長老から狩りに出る前に、何かとアドバイスを受けているようだった。長老が、棒切れで地面に、文字なのか絵柄なのか、何やらを書いている、それを二人は見つめながら、肯(うなず)き合っていた。会話をしていたのだ。共通の言語を持っているらしい。

この私は一体どうなんだ、とわが身を確かめたら、私も、知らないうちに草でできた帽子を被り、性器を守るためのカップ付きの草で編んだモンペのようなズボンをはいていた。帽子には鳥の羽をつけていた。腰帯には鉄の斧を挟んでいる。弓矢を背負っていた。弓矢は外出の際の必携の道具だ。

長老が私に手招きした。三人で、住居に入ってちょっとお茶でも飲もうということらしい。大柄な中さんらしき男も、入口の天井に頭があたらないように、かがみこんで入って行った。長老は、私を迎えるようにして、入口から座る場所まで案内してくれた。私は、二人とは旧知の仲のようで、久しぶりにこの村にやってきた客としてもてなしてくれているようだ。

住居内は煙たかった。正面にはかまどが設けられていて、土でできた器で貝のスープを温めていた。煙は屋根の裏部分に澱んでは、少しづつ、葺かれた草の隙間から抜けていた。正方形の4隅には柱があって、その柱に架けられた梁で屋根を支えている。この4本の柱が囲んだ部分には、草が敷き詰められていた。三人はそこに車座になった。きっと、夜はこの場所を寝床にしているのだろう。

素焼きの器に貝の身の入ったスープを出してくれた。

長老の家族は何人なのだろうか。何人がどのようにこの住まいで暮らしているのだろうか。かまどの周りには、土でできた器が大小幾つか揃えられていた。衣装が梁にぶら下がっていた。この住居は、長老の居宅のようだ。奥さんや子どもは外出中のようだ。斜めになった屋根が地面に触れるところには、溝が掘られていた。排水のことを考えてのことだろう。

もごもごと、三人は随分と話し合っているようだが、何を話しているのか解らない。

ところで、ヤマオカさん、物件というのはあれですよ、と中さんは此処から少し離れた場所にある住宅を指差した。中さんの動作はいつもキビキビしているのに、私の視覚には緩慢にうつった。中さんの声は異常に大きく、鈍く緩んだ私に、雷が落ちたよう。ハっア? 何、なに、何があったんだ。脳天が突き破られた。どうしたんだ、頭を二、三度叩いた。

私は寝入ってしまっていたようだ。夢をみていたのだ。それとも狐に騙されていたのだろうか、白昼夢だったのか、苦笑してしまった。

正気に戻った私は、展示室を出た所に二人と一緒に立っていた、見晴らしのいい場所から話す中さんの言葉は、現実感をもって、私の耳に届く。物件の敷地は、道路から少しは下がっていますが、南は公園になっていて、日当たりは今後も保証されるようだし、住まいとしては気分の良い家だと思います、と中さんの説明だ。あとは、リフオーム工事代と外構工事次第で、商品化ができるかどうかですね、いつもの軽快な中さん節だ。

 

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こんな怖い思い、もう嫌!!

以下の文章は、20110607の新聞から抜粋したものに、私が書き加えたものだ。

東日本大震災から3ヵ月後の11日の20110611。「脱原発」を訴えるデモが全国、約140箇所でデモやイベントが開かれた。

 (朝府新聞より、無断拝借した)

日本で発生した福島原発事故で、最初に反応を示した国はドイツだった。震災の翌日12日、全ての原発の点検を表明。14日には原発運転延長政策の3ヶ月凍結。15日には古い7基の運転一時停止に踏み切った。圧倒的な国民世論を考慮したのだろう。ドイツのメルケル政権は今月6日、国内に17基ある原子力発電所を2022年までに閉鎖し、風力など再生可能エネルギーを中心とした電力への転換を目指す政策を閣議決定した。

何故、こんな重要なことがこんな簡単に結論を下せたのか、と疑問を持ちながら新聞を読み進めていくと、ドイツ国内では30年にわたる原発是非についての議論の蓄積があることに気づいた。

それにしても日本は、今までかって原発に関して、市民レベルまでを含めて、国を分けての議論をしたことががあっただろうか、私の記憶にはない。

スイスは既に、脱原発を保有する5基の更新や改修をやめて、34年までに廃炉にする方針を決めている。

ドイツでは83年、緑の党が連邦議会に進出。86年チェルノブイリ事故以降に生まれた「原子力は市民社会と共存しない」との考えを政策に掲げた。メルケル首相率いる中道・右派のキリスト教民主・社会同盟は元々、原発維持を訴えてきた。中道左派の社会民主党主体のシュレーダー前政権が決定した脱原発政策を昨秋に変更し、原発の運転を平均12年間延長する政策を決めたばかり。だが、福島原発事故で大きく政策変更を余儀なくされた。

その後、この原稿を投稿しないままにしておいたら、ヨーロッパではイタリアが動き出した。伊では、原発の是非(法律の改廃)について、今まで6回も国民投票で問うてきた。が、6回とも投票率が50%に満たず、成立しなかった。今回の7回目の国民投票では東京電力福島原発の事故の影響もあって、原発の新設や再稼動が無条件に凍結されることになった。

それにしても、独も伊も原発を止めるとは言うけれど、周辺国から原発の電力を購入するという。これでは、根本的な問題は解決されたことにはならない訳で、今、一歩の議論の前進を望みたい。日本や米、中などは、周辺国からの電力購入ができない。電源不足が逼迫している中国では、ガンガン新規計画があると聞く。

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20110608

朝日朝刊

天声人語

〈行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない〉。ゲーテの言葉である。目的地が定まらないと足取りが重くなる。そんな意味だろう。逆に、確かな目標があれば急坂や回り道をしのぎ、転んでも起き上がり、大きな事を成せる。

文豪の故国ドイツが、原発を2022年までに全廃すると決めた。主要国初の「脱原発」は、もともと環境志向の強い世論が、福島の事故で雪崩を打った結果という。電力の23%を賄う原子力の穴は、風力や太陽光の活用で埋める算段だ。

すでに割高な電気料金に響きそうだが、産業界も競争力を案じつつ従った。先々、国民にとっての吉凶は予断を許さない。ただ、この踏ん切りとスピード感、合意作りの知恵や努力は学んでもいい。

敗戦の闇から、技術力と勤勉ではい上がった日独。先方は異国の失敗で国策を転じ、火元の当方は浜岡を止めたにとどまる。隣国の電力を買えるドイツとは事情が違うけれど、日本が「遠くまで行く」には、国民的な熟議と強いリ-ダーシップが足りない。

脱原発がエネルギー戦略の根幹にかかわる決定なら、将来図を欠いた節電は枝葉の対応だ。それでも、国が抱える宿題を我がものとし、それぞれが「行き先」を決めて頑張るところが日本人らしい。

企業や自治体には「勝手にサマータイム」の試みが広がっている。東京都は25%の節電を目指して今週から都庁職員の出退勤を早めた。こうした「枝葉」を官民で積み重ねながら、こぞって「根幹」を論じたい。

2011年6月21日火曜日

バカ議長への批判、何故、高まらぬ?

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西岡武夫参院議長が、参院での審議を認めない?なんて堂々と表明した。議長が審議をしないって、?何でや、と新聞記事を疑った。よもや、新聞社が誤った記事を載せるようなことはあるまい。

よく読んでみると次のようだ=菅内閣が3日に閣議決定して衆院に提出した、震災復興財源を確保するために国家公務員の給与を削減するという臨時特例法案のことだ。人事院の勧告を経ない給与増減案についての法案は初めてらしい。そんな議案は、ちゃんと手続きがとられていないので、審議に値しないということだろう。二院制を無視したような発言だ。原則、人事院の勧告の有無は法案作成には何ら関係しない。歴代の議長に、こんな荒唐無稽なことを言って、憚(はばか)らない人が居たことがあったのだろうか、きっと憲政史上初めてのことだろう。

ねじれ国会でスムーズに法案が進まない。今、大震災後の謂わば日本国家の非常事態だ。国が総力挙げての復興作戦を何よりも最優先させなければならない重要な時期だ。野党は兎も角、与党内でも菅降ろしの内紛状態、政事そっちのけの明け暮れ、国会では法案が通らない。

東日本大震災対策の法案が進まない、そんな中でも、珍しく菅内閣が声高に提議したこの国家公務員の給与削減の特例法案は、やれやれ、なんとか一つはやってくれそうだと思って、今後の推移をうかがっていた。

そうしたら、こんな記事が出て、それも直近、私自身が三十余年前に関わった西岡氏の税の不正申告を告発した『私のこのブログ(20110521)「西岡議長、耄碌したか」』の矢先に、またまた、バカな西岡氏を話題にしなければならないことに、うんざりした。

国会法では、「議案が提出されたときは、議長は適当の委員会に付託する」と定めてある。衆院通過後に参院に送られた場合、参院議長が担当の委員会に付託して審議が始まる仕組みだ。この議長が委員会に付託するのは、法的義務がある。

年末から、このバカ議長が菅首相に退陣を勧める内容のことを記者会見で述べ、同じ内容の書簡を読売新聞に送ったり、ついに、こんな感情的とも思われる嫌がらせ、法律をも無視したような言辞を繰り返す西岡氏に対して、民主党からも、連立内閣からも批判の嵐が何故起こらないのだろうか、まして野党である自由民主党よ、どうしたんだヨ。

議長が繰り返す言辞の内容は、菅直人憎しのいじめ、首相降ろしだから、国会議員はみんな黙っているのだろうか。むしろ、国会議員は西岡氏をけし掛けているのではないか、それに乗らされたのか、このバカ議長め!!

こんな国会議員を選んだ、我々も反省しないとイカンのではないか。

2011年6月18日土曜日

100,000年後の安全

20110615(水)  15:10。

映画「100,000年後の安全」

監督・マイケル・マドセン

キネカ大森

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15日は水曜日。弊社の営業部の定休日だ。午前中は仕事をして、午後は映画鑑賞ってことに洒落込む心算だったのですが、鑑賞という気分にはなれなかった。が、いい勉強にはなった。

東京電力福島第一原子力発電所が、東日本大震災で発生した津波によって、事故を起こした。正確には、事故を起こして、今尚、事故の真っ最中だ。今回の事故はタダモノではない。制御がきかない。結果的に、大気中や海に、放射性物質を撒き散らし続けている。

原発事故の危険性に日本国民はおろか、地球上の全ての人々の心臓が止まりそうになった。3・11から最早、3ヶ月を過ぎても、事故を起こした原発は治まってくれない。まだ、半年やそれ以上、水で冷やし続けなければ、危険はなくならない。この間、注意を怠ってはいけない。困ったことだ。

こんな危険な原発を、発生する廃棄物もまた危険千万なやっかいものなのに、その処理方法を見いだせないまま、世界中で見切り発車、稼動させてしまった。このやっかいな廃棄物を10万年安定した状態で保管できれば、その廃棄物は生物に対して安全なものになる、そのための保管場所を作っている。これについての映画だ。

ちょっと、待ってくれ。地球上で今から10万年前と言ったら、どんな時代だったのだ。20万年前、ホモ・サピエンスの祖先といわれるネアンデルタール人が出現し、2万数千年前に絶滅している。ならば、人間の10万年後なんて、想像の域を遥かにビヨンドだ。そんな時代にまで、安全な状態で保管する、ウ~ン、解らな~く~な~る、ワイ。でも、フィンランドのこの施設は、本気で10万年後までは安全に保管してみせるぞ、との意気込みで取り組んでいる。

二酸化炭素を発生しないから環境にやさしい、と表向きのいいことばかりの音頭に踊らされ、政管民一体になっての安全神話キャンペーンが、大嘘だった。この電源、よっぽど安価に手に入るのだろう。詳しく、知らされないままの市民。国を分けての熟議も討論もなしに、原発は次々と建設された。

私も恥じ入っている。仕事仲間や家族や友人と酒を飲んでいるときには、30年も前から超脱原発派なのに、酔いが醒めるとともに、日和見的に成り果ててしまう。あれほど、原発の恐ろしさについて口角泡を吹き飛ばしていたのに、どうなったんだよ、オジサン。人間失格、こんなことでは、イカンぞ、と思う。豊かな未来に向かって、再び、怒りをもって、脱原発に立ち戻ることを、宣言する。

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映像の内容は次のようだった。

フィンランドでは、この高レベル放射性物質の最終処分場を、オルキルトに建設中だ。この施設が「オンカロ」と呼ばれる。この施設に関するドキュメンタリー作品だ。

地上では、自然的人為的に何が起こるか予想がつかない。そんな予想もつかない危険な場所には、このような施設を建設することはできない。ならば、固い岩盤の地下500メートルに地下都市のような巨大な施設を作ろうと決定し、今進行中だ。地層処分という言葉を使っていた。2020年に運用開始を目指している。

内容は、この施設の計画に携わった研究員らの発言と、建設現場の様子がほとんどだ。先ずは高レベル放射性物質の危険性の説明があり、安全な状態になるまでの10万年は安定した状態で保管しなければならないこと。かって、建造物で10万年の10分の1も、保持されたことがない。

研究熱心で何に対しても興味をもつ人間が、10万年経つ前に、掘り起こしたりしないためには、文字で絵画で、色々仕掛けで注意を促す必要がある。絶対、この処分場には人を近寄らせてはならない。

作業現場では、硬い岩のあっちこっちにダイナマイトを発破させながら、掘り進められている。

2011年6月9日木曜日

麦秋って、いつのことだ?

 横須賀自衛隊 063

    (20110609 夕方撮影した)

朝の散歩で、この一週間のうちに麦畑の黄金色の穂がひと際濃くなったことに気づいた。

いくつもある散歩コースで、麦の栽培はこの畑だけだ。これは、大麦だったのか、小麦だったのか、子どもの頃を思い出していた。私のこの類の知識は子どもの頃でストップしている。先の鋭く尖った針のようなものを、芒(ノギ)と言う。余計な話だが、芒はススキとも読む。もう一つ余計な話だが、薄もススキだ。

私の生家では大麦しか作っていなかった。茎が中空になっていたことと、田舎の生家では味噌作りにも使っていたし、麦飯にして食っていたので、結論、これは大麦に間違いない。

そんなことを考えながら散歩を続けていたら、「麦秋」という言葉に思い当たった。あれ?今は何月? 今は梅雨だよなあ、夏になったのか? と自問。落ち着いて、深呼吸して、今日は6月9日で初夏だということを確認した。秋は夏の後にやってくる、そしたら麦秋の秋ってどうしてなんだろう、と疑問をもった。

友人に麦秋って、いつのことを言うんだ、と尋ねると、麦秋は六月の季語だよ、と瞬時に返ってきた。熟した麦を刈り入れる初夏の頃のことを言うんだよ、友人は博識だ。

春に種を播いたのは8月の中頃、秋播きは7月の末頃が収穫期だ。私が見ているのは秋播きだった。春に芽が伸びだした頃、麦踏みをしなくちゃいかんのでは、と考えたことがあったのを思い出した。若い芽をどうしても、踏みつけなければいけないそうなのだ。何故、麦踏みが必要なのか、死ぬ前までには調べなくてはイカン大問題だ。

子どもの頃の食事は、主食は麦飯だった。脚気が多いのは、麦を食わなくなったからだ、と父はよく言っていた。麦飯は麦と米を合わせて炊くが、両者がうまくくっ付かなくてパラパラ、どうにも食いにくかった。

そんな時期に、父が「押し麦」を中村精米所で買ってきた。押し麦は真ん中に繊維の筋が赤道のように入っている直径5ミリほどの平べったく円盤状に加工したものだ。押し麦と米を一緒に炊き上げても、パラパラしないで、米だけのときと食感は変わらない。円盤状の押し麦は、炊き上がったときには米と同じようにふっくら丸く仕上がる。我が家では押し麦を20%ぐらいの割合で混ぜていたようだった。大麦を炊いて食べるのは日本人以外はないようだ。

ネットを駆使して、麦秋の秋の意味を調べた。流石(さすが)、ヤフーさんだ。そこで得た知識をそのままここに紹介して、麦秋の秋の意味を知ろう。

ここで使われている秋は、季節の秋のことではない。秋(あき)という漢字には、百穀熟成の意味がある。また、「秋」とは「収穫の時期(実りの時)」のことだから、麦秋とは、麦の実りの時とか、収穫の時と思えばいいようだ。

私も飽きない 天声人語

20110606の天声人語に、10年以上も天声人語の書き写しをされていた人の紹介があった。本人は2年前に亡くなったそうだ。後ろの方に、この日の新聞の文章を転載させていただいた。

私の中学1年生の時のクラス担任の小沢先生は国語の担当だった。それまでの小学生時代は、国語に関しては読み書きは好きだったが、教科としてはどうしても馴染めなかった。国語が、日常的には重要なのは解るが、試験をする対象科目ではないのではと思っていた。

そんな時期に、小沢先生が朝日新聞の天声人語を、毎日、原稿用紙に鉛筆で書き写している人がいることを教えてくれた。50年ほど前のことだ。天声人語の文章がそれほどまでに何故(なにゆえ)に人を魅入らせるのか、そんなことを不思議に思いながらも、中学1年生の終わりごろには、ついつい私も毎日読むようになってしまった。感染したのだ。文章の上手さに惚れ込むほど、読む力があったわけではない。天声人語のネタというか、テーマに興味を惹かれた。文章が短いのもよかったのだろう。特に社会で起こった問題を材にしたものには、とりわけ真剣に読んだ。過疎の村で三男坊として生まれた私は、将来は中央、とりわけ東京で仕事をしたかった。青雲の志を持っていた。

高校受験を意識しだした中3になっても、受験科目にしなくたっていいんじゃないの、と思っていた。自分が自分流に解釈していれば、それでいいのではないかと。

高校生になってからは、天声人語とスポーツ欄、それに社説を加えて毎日読んだ。理解はどこまでできていたのか、それは眉唾だけれど、習慣として読み続けた。

高校1年生の私はどうかしていた。変になったのだ。どの科目の授業のときも態度はよくなかった。ちょっと難関だった高校に受かって、周りの生徒と見比べて、大した能力もないくせに浮かれていた、自惚れていたのだろう。そんな状態の私の前に現れたのが後藤先生だった。

後藤先生は、山岳部の顧問。現代国語と古文、漢文の三教科を一人で私の高校生活の3年間を担当した。授業態度の悪い私を含めて数人に対して、お前らは授業など受けなくてもいい、中間、期末の試験さえ合格点ならば単位をやるから、なにも嫌いな授業などには出席しなくていい、と言い渡されたのだ。仲間の手前、ヤッタアなんて言っていたけれど、内心は不安だった。この国語系3科目の授業中は、サッカー部の部室で、漫画を読んだり、ボールにワックスを塗っていた。タバコを吸っている奴もいた。

後藤先生の有難いお言葉を真に受けて、私は3年の間に高校生が履修すべき授業を全部受けなかった。

ヤバイことになったと自戒しながらも、その代わりに、藁にも縋(すが)る気持ちで、新聞だけは集中して読んだ。教科書を開くことも、参考書を買い求めることもしなかった。

そして、受験浪人を2年間過ごしたのですが、国語系3科目に関しては、勉強の仕方が解らない、判らないけれど、なんとかしなければ、大学入試を突破して憧れの大学サッカーへの道は開かれない。それで、強化したのがさらなる新聞の熟読・精読だった。完璧を期した。知らない言葉や漢字は辞書で調べ、用語や略語などもノートに書き溜めた。漢字は全て読めるように、書けるように徹底的に練習した。当時の大学入試には、難解な文章の読解問題は出題されなかった。天声人語と社説をできるだけ深く理解できていれば、それで十分基礎力の水準点に達しているんだと、勝手に決め込んでいた。

私も、このように新聞と付き合ってきたのです。

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20110606

朝日・朝刊/天声人語

声欄に乗る投書に、思わず背筋の伸びることがある。それでは足りず頭(こうべ)まで垂れたくなる一文を、先月の大阪本社版で読んだ。2年前に他界された奥さんが、10年以上にわたって小欄を書き写してくださっていた、という内容だった。

京都の大石治さん(77)のお宅には、丁寧な字で埋まったノートが27冊も残る。毎晩、就寝前の30分を充てておられたという。筆写につれて、日記の文章が無駄なく上手になっていくのにご主人は驚いたそうだ。宝物にしたいようなありがたい話である。

パソコンにおされて手書き文化はたそがれつつある。そうした中、多くの方が小欄を筆写してくださっているのを知った。専用の書き写しノートを発売したところ、面映(おもは)ゆくも好評らしい。筆写としては日々の出来不出来がいっそう気にかかる。

自由律の俳人尾関放哉(ほうさい)の一句、〈心をまとめる鉛筆とがらす〉が胸に浮かぶ。何も小欄に限らない。文を書き写す時間には、ゆたかな静謐(せいひつ)があるように思う。キーボードでは得られない「手と心」の一体感だろうか。

写真のなかった昔、人をしのぶよすがは肉筆だった。「平家物語」にも「はかなき筆の跡こそ後の世までの形見」とある。なのに昨今は、職場でも互いの手跡を知らない同僚が増えている。

日ごろの「パソコン頼み」を反省し、この原稿は鉛筆をとがらせ、マス目の書き写しノートに書いてみた。恥ずかしながら5枚も反故にした。さて出来不出来は、採点はどうか、お手柔らかに願います。

2011年6月6日月曜日

野いちご!半世紀ぶりのこの味覚

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(20110606の私の机です。花が豊かです。)

毎朝の散歩で、秘密ができた。

野いちごのちょっとした群生地を見つけた。野いちごだから、当然野生モノ。秘密は秘密にしておくから秘密なんだが。その場所は、誰にも教えたくない、がこの文章を読んだだけでは、誰にも解らない筈だから、その秘密のことを話そう。

朝、一番多く歩くコースは、昭和の30年代中頃に行われた土地改良事業で整備された農業用の専用道路だ。一帯は畑ばっかり。季節の移り変わりに合わせて、種々雑多な作物が、お百姓さんの手によって育てられている。種を蒔いて、小さな芽が出て、花が咲き、実がなる。背丈の高いものや低いもの、葉っぱが大きくなるもの、根が太く長く、赤く白く黒く黄色くなっていく。花の形や色は様々だ。実がなるもの。茎が地面を這うように伸びる、天に向かって支柱を巻きつけるように伸びる。それらを熟視しながらの散歩が、堪(たま)らなく楽しいのだ。

このような土地改良事業地内でも、未だに雑木のままで放置されている地帯もある。その雑木林はサッカーグラウンドの半分ぐらいの広さだ。雑木林だからといって、完全に放置するわけにはいかない。何故なら、周囲は耕作地だから、その雑木林から虫や、病原菌等を発生させて、迷惑をかけてはいけない。このようなことは、茶業農家出身の私には、よく解るのだ。家庭の事情で営農がままならず、離作せざるを得なくなったとき、生産農家は、離昨と同時にその後の茶畑の面倒を見てくれる農家をイの一番に探すのだ。

その雑木林の下草は綺麗に刈られていた。風通しを良くすることも大事なのだろう。

この雑木林の一画に、野いちごの群生があった。群生と大げさな表現をしたが、15株ほどの小所帯、でも、私にとってはそれはそれは見事な光景だった。赤く色づいたものや、まだ白くてこれからのものが、ちょっとした野いちご園を作っていた。まだ白い花をつけているのもあった。所有者にとって、野いちごの存在なんてどうでもいい、そんな扱いのように感じられた。背丈がそんなに高くないから、下草刈りにも無視され、切られないままに残っていた。

見つけた瞬間、瞳孔満開。自然に頬が緩んだ。そして、口の中に唾が湧いてきて、ゴックリと唾を飲み込んだ。大脳皮質とは無関係に反応する、パブロフの条件反射だ。私は、普通に本能的なようだ。20110529の日曜日、片手の掌(てのひら)いっぱいの野いちごを一度に口の中に含んだ。美味かった。その前の日も後でも、少しづつ食っている。

今、私は62歳。多分初めて口にしたのは大体55年前のことだろう。半世紀前に味わった味覚の痕跡がきちんと脳のどこかに蔵(しま)われていて、その痕跡が、久しぶりの野いちごに、昔ながらの反応を示した。半世紀ぶりだ。懐かしい、子どもの頃の味そのものだった。

年のせいか、こんなことにも、これだけ多くの幸せを感じる。

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野いちごの、この味、この植相が懐かしい。

秋にはアケビだ。アケビはこの辺りでは見つからないだろうから、是非時間を作って、丹沢の山にでも行ってみよう。もう一度、どうしても味わってみたい。山に入れば、必ず見つけ出す自信がある。

野いちごによく似ているのに「ヘビいちご」というのがある。

植物を分類するのに、食えるものと食えないものと二種類に大別して、食えるものは、味覚別に、甘い、辛い、酸っぱい、苦い、などと分ける、それから味に等級をつけるって、どうでしょうか。そこで、二つ並べると、違いは一目瞭然だ。(甘い)そうなのが野いちごで、(苦い)そうなのがヘビいちごで、食には堪えられない。知識に貪欲な方には試食をお勧めする。心配御無用、ヘビいちごには毒はありませんから。

食えない方は、先ずは、毒があるものとないものに区分。他は、種子植物であろうが胞子で増える植物であろうが、被子でも裸子でも、単子葉でも双子葉でも、どのように分類しても構わない。そんな分類なら、ヤマオカ、お前が勝手にやればいい、学問はそんなもんじゃ、ネェーんだ、と大家(たいか)から怒られそうだ。でも、学者さま、学問は楽しく生きるためのものでしょ。