(遺跡一帯を空撮したもの パンフレットより)
私たちの住まいのこんなに近くに、これだけの大規模な遺跡が、きちんと保存されていることを、知って驚いた。詳しいことは、後ろの方に説明員の人からいただいたパンフレット=国指定史跡「三殿台遺跡」をそのまま貼り付けたので、それを参照してもらえばいい。
ここには、私が感じたことを記しておこう。
住所は、横浜市磯子区岡村4丁目。
遺跡は、標高は55メートル、10,000㎡の小高い丘の上の平地にある。丘の周辺には貝塚が数箇所あったのですよと言われ、こんなに海や川から離れているのに、と聞き返すと、人間が住みだしたときには、今よりも海面が40メートルも高かったそうですよ。
そうならば、ここに貝塚があっても不思議ではない。発見された貝塚をそのまま、特殊な薬品で固められ、剥ぐように切り取って、展示室に置かれていた。
実は、この三殿台遺跡に寄ったのは、弊社の経営責任者・中さんと近くの物件の下見に車で来たついでだった。中さんは、数日前にこの遺跡を見て興味を持ったようで、ヤマオカさんもどうですか、と声をかけてくれた。
社員のみんなは、今も汗水流しながら働いている。両名は、サボっているという後ろめたさを少しは感じていた、でも、で、も、だ、一所懸命、説明員の案内を水も漏らすまいと聴取して、機会があれば皆に話すことができれば免罪してもらえるだろう、と私は都合よく勝手に決め込んだ。
今は、地球温暖化が原因で、北極圏の氷は溶けて、海面がじわじわ上がっていると聞く。南太平洋に浮かぶ標高の低い島などは水没することが現実化してきた。
それにしても、今よりも40メートルも海面が高かったとは驚かされた。40メートルも今よりも高かった海面が、今の高さまでじわりじわり下がって、最後まで水の流れが残ったところが川になったのだろう、それがここでは大岡川で、鶴見川であったり、帷子川、相模川になったのだろう。横浜市内でも比較的、内陸部にあたる都筑、港北の両区の鶴見川の上流でも貝塚が見つかるのは、こういうことなんだ。
この小高い平地は、縄文、弥生、古墳時代の三時代にわたる集落の跡だ。時代ごとに集落が発生して、消滅している。この三時代が隙間なく継続していたのではなく、何故、断絶したのだろうか。気候の影響だろうか。学校で習った世界の四大文明とは、メソポタミア、エジプト、インダス、黄河文明のことだが、此処日本の縄文時代は、この四大文明と時期的には、ほぼ同じ時代だったのだろうか。巨大な建築物が造られ文字が使われていたようだから、この時代においては世界は日本よりも随分先走っていたことになる。でも、これほど多彩な土器が発見されたのは、日本以外ではないそうだ。
見つかった住居跡には、三時代ごとの3棟の住居が、復元されていた。柱があったところは確かめられたが、時代によって柱の配置が違っていた。この住居の仕上げは、研究者が想像をめぐらして造ったもので、本当のことは解りません、と説明員。
古墳時代になると、4本の柱が正方形の4隅に建てられていて、入口の正面にはかまどがつくられていた。ここで煮炊きが行なわれたようで、「人間らしい生活」の原点がこの辺りなのだろうか。
古墳時代は、今から、約1700~1500年前だと仰る。(現在は)2011-(今から)1500(前)=511になる。 確か、壬申の乱、大化の改新は645年、改新の詔が646年と、すぐに受験勉強の成果の一部が役に立つ。この時期に、ヤマトの方では、文字を読み書きできる文化が既に出来上がっていたことになりますね、と説明員に問うと、やはり、同じ古墳時代といえども、中央と地方には随分格差があったようです、とのことだ。此処の住居からは、言語なるものの文化らしき気配は感じられなかった。
そうなんです、5、6世紀となれば、ヤマトでは天皇制が確立されて、飛鳥時代に継がれていく時代だった。
台地に霞み敷く、霧のような霞がかかってきた。
私の前を歩いていた中さんと説明員の二人の姿が遠くに煙のように消え入った。私は、ベンチに寝っ転がって、まどろみだしたようだ。
周囲は静寂。辺りには、深い靄(もや)に包まれている。風がそよいで、木の葉が静かに揺れる。この高台の丘だけには、薄日が差していた。私は、彼らが何処へ行ったのか不安に思いながら、辺りを見渡した。台地には住居と樹木だけ、人影はない。
薄日を受けながら、一人で周辺をさまよった。
樹木の切り株に腰を下ろして佇んでいると、何処かから二人が、突然、目の前に現われた。えっ、二人の姿を見て仰天した。簡単な草や蔓で編んだものを身に纏っていた。上着からは太い手が、ずぼんからは毛むくじゃらの足が、むくっと出ていた。おい、中さんや、どうしたんだ、その格好は、と言ってもニンマリ微笑むばかりだ。「あなたは、中さんだろう」。エプロンのような腰巻を、帯のようなもので締めていた。木の皮でできた草履のようなものを履いていた。手には弓と矢を持っている。耳たぶには貝殻でできたような環(わ)がぶら下がっていた、イヤリングだ。
説明員らしき年配者の方は、口ひげ、頬ひげを生やしていた。長老の酋長さんのようだ。同じようなものを体に纏い、手には棒切れを持っていた。上着には、鹿の模様が書かれていた。木の実や貝、石でできた首飾りをしていた、ネックレスだ。さすがに長老だ、飾り物が多い。
どこか中さんのような面影を残したこの青年は、これから狩りにでも行こうとしていたのだろう。私が話しかけても反応せず、長老から狩りに出る前に、何かとアドバイスを受けているようだった。長老が、棒切れで地面に、文字なのか絵柄なのか、何やらを書いている、それを二人は見つめながら、肯(うなず)き合っていた。会話をしていたのだ。共通の言語を持っているらしい。
この私は一体どうなんだ、とわが身を確かめたら、私も、知らないうちに草でできた帽子を被り、性器を守るためのカップ付きの草で編んだモンペのようなズボンをはいていた。帽子には鳥の羽をつけていた。腰帯には鉄の斧を挟んでいる。弓矢を背負っていた。弓矢は外出の際の必携の道具だ。
長老が私に手招きした。三人で、住居に入ってちょっとお茶でも飲もうということらしい。大柄な中さんらしき男も、入口の天井に頭があたらないように、かがみこんで入って行った。長老は、私を迎えるようにして、入口から座る場所まで案内してくれた。私は、二人とは旧知の仲のようで、久しぶりにこの村にやってきた客としてもてなしてくれているようだ。
住居内は煙たかった。正面にはかまどが設けられていて、土でできた器で貝のスープを温めていた。煙は屋根の裏部分に澱んでは、少しづつ、葺かれた草の隙間から抜けていた。正方形の4隅には柱があって、その柱に架けられた梁で屋根を支えている。この4本の柱が囲んだ部分には、草が敷き詰められていた。三人はそこに車座になった。きっと、夜はこの場所を寝床にしているのだろう。
素焼きの器に貝の身の入ったスープを出してくれた。
長老の家族は何人なのだろうか。何人がどのようにこの住まいで暮らしているのだろうか。かまどの周りには、土でできた器が大小幾つか揃えられていた。衣装が梁にぶら下がっていた。この住居は、長老の居宅のようだ。奥さんや子どもは外出中のようだ。斜めになった屋根が地面に触れるところには、溝が掘られていた。排水のことを考えてのことだろう。
もごもごと、三人は随分と話し合っているようだが、何を話しているのか解らない。
ところで、ヤマオカさん、物件というのはあれですよ、と中さんは此処から少し離れた場所にある住宅を指差した。中さんの動作はいつもキビキビしているのに、私の視覚には緩慢にうつった。中さんの声は異常に大きく、鈍く緩んだ私に、雷が落ちたよう。ハっア? 何、なに、何があったんだ。脳天が突き破られた。どうしたんだ、頭を二、三度叩いた。
私は寝入ってしまっていたようだ。夢をみていたのだ。それとも狐に騙されていたのだろうか、白昼夢だったのか、苦笑してしまった。
正気に戻った私は、展示室を出た所に二人と一緒に立っていた、見晴らしのいい場所から話す中さんの言葉は、現実感をもって、私の耳に届く。物件の敷地は、道路から少しは下がっていますが、南は公園になっていて、日当たりは今後も保証されるようだし、住まいとしては気分の良い家だと思います、と中さんの説明だ。あとは、リフオーム工事代と外構工事次第で、商品化ができるかどうかですね、いつもの軽快な中さん節だ。