2019年3月24日日曜日

真(ま)っ新(さら)って!

先日、女房と話をしていて、こんなことを言われた。
「お父さんは真(ま)っ新(さら)なことを言うな、此の頃使わなくなったけど、京都に居る時は良く使ったなあ」。

そう言えば、この新(さら)、真(ま)っ新(さら)を、東京や横浜で暮らすようになってから、長いこと未使用のままだった。
このような言い方は、京都や関西方面だけの方言(ほうげん)だったのだろうか。
前の文章で解からないことが増えた、「ほうげん」って方言と書くのか方弁と書くのか。

樹木から落下してそれなりの回復はしたけれど、高次脳機能障害のせいか? 
私が発する単語や言葉使いに、変則的な仕法がみられる。
女房はきっと、この障害の一つぐらいにしか考えていなかったのだろうか。

下の欄にある「まっさらな服」だって、今なら「新しい服」と言うに決まっている。
この「まっさら」を東京に長年住んでいる人は使わないだろう。
この2,3日でそのような人と会話するようなことがあれば、尋ねてみようと思っている。


読み方まっさら
意味まったく新しいこと。
まだ、一度も使用していないこと。
例文「―な服」

2019年3月23日土曜日

野蒜(のびる)を喰う

野蒜(のびる)
ノビル/野蒜/のびる 
ノビル/野蒜/のびる
 
ノビル/野蒜/のびる

野蒜(のびる)はユリ科ネギ属の多年草。
全国の野原、河原の土手などに自生している。
昔はニンニク、ニラ、ネギ、ラッキョウと共に 五葷(ごくん)に数えられていた。
五葷(ごくん)とは、辛味と臭気をもつ五種類の野菜。
仏教の世界では、これらが欲情・怒りを起こすとして禁じた。
五辛(ごしん)とも呼ばれていた。(日本語大辞典・講談社より)
根元に小さなタマネギ状に肥大した部分を食用とする。
茎の部分も食べられます。

私の故郷、京都にも生えていたのだろうか。
あんなに野原や田畑、山の奥奥まで探り回っていた私なのに、知らない。
上の文章はネットで見つけたものに多少我が意を加えた。
地面から少し伸びた茎や葉の部分を見て、以前に私が蒔いた玉葱(たまねぎ)になかなか芽が出てこなくてじれったくしていたが、ある時期から畑の周りに芽が出て茎が伸びて来たのを、これはきっと玉葱だと思った。
私の頭は、糠(ぬか)喜びをした。
そして根を引き上げたら、全く私の希望通りの玉葱の幼生の頃と思われる根っ塊(こ)ができていた。
私はホ~イ来た、合~点(がってん)、私の考えていた通りだ。
これを畑の一部に移植させて立派に育ててみようと考え、玉葱の大量生産だとその作業に邁進した。
その作業中、隣のオジサンがいつものように私の畑に顏を出したものだから、そんなイ・イ・ハ・ナ・シをしてみたら、オジサンは、「ヤマオカさん、この植物は『ノビル』と言って、日本のどこにも生えていて、私の田舎・茨城では食ったことはないですよ」ときた。
「きっとインターネットに紹介されているので、よく調べてください」。
「こんなものは何処にも、幾らでもありますよ」。
そんなオジサンの言辞に、がっかり意気消沈している分けにはいかない。
畜生(ちくしょう)、こんなことでくたばる俺ではないぞ。
しっかりやるだけやってみよう。
ネットには数多く料理方法が載せられていて、早くも、私の心の波動は激しくなった。

さて結果は、どのようなことになるでしょうか?
これから 春ですよ~
「期待を乞う」!


ノビル の料理


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ノビルのピーナツ味噌あえ 

春の山菜、ノビルをこってり味で食べるレシピ。ノビルがなかったらネギでも代用できます。
材料: ノビル、マヨネーズ、味噌、酢、砂糖、ピーナツ
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のびる酢味噌 

春の味覚
材料: のびる、お酢、味噌、砂糖
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ノビルの醤油漬け 

ニューヨークでもノビルがありました 早速摘んで醤油漬けにしました 冷奴にかけても良し 。
材料: ノビル、醤油



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今が旬 簡単ノビルの塩昆布漬け

今が旬!春の山菜 、野草のノビルの浅漬けです 材料3つ切って混ぜるだけ簡単おつまみ 。
材料: 野蒜(のびる)、人参 千切り、塩昆布 ふじっ子など、軽く湯がく場合は湯
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藪カンゾウ、ノビルの酢味噌和え

農園のまわりの里山で採った春の山菜レシピです。
材料: 藪カンゾウ、ノビル、味噌、みりん、砂糖、米酢
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のびると油揚げの甘辛炒め 

のびると油揚げを甘辛醤油で炒めました。
ご飯がバクバクいけちゃう~♪
材料: のびる、油揚げ、煮もの醤油、砂糖、一味唐辛子、煎り胡麻、オリーブ油
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ノビルの天ぷら 

生とは違うホクホク食感がとても美味しいです。
辛みは無くなります。
 お塩で食べてくださ い。
材料: 小麦粉、ノビル
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野蒜(のびる)の炒飯 

野にある草、野蒜を使ったレシピ。
 採れた量が少ないのか、野蒜の香りの主張はなかった。 ...
材料: 野蒜、ベーコン、ネギ、ご飯、鶏がらスープの素、マヨネーズ
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3種のヒラタケ、ノビルのムカゴの野菜炒め 

ヒラタケ、ウスヒラタケ、霜降り平茸、ノビルのムカゴを使った野菜の油炒めです。
材料: ノビルのムカゴ、ヒラタケ・冷凍、ウスヒラタケ・冷凍、霜降り平茸・冷凍、キャベツ(ざく ...
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野辺や山道でノビルのムカゴを見つけたらカップ麺に入れて食べます。ピリッと辛くて元気が でます。
材料: ノビルのムカゴ、カップ麺、熱湯


2019年3月15日金曜日

炎の記憶 下町に刻まれた日

20190310(日)
朝日新聞・朝刊/総合3
編集委員・福島申二


日曜に想う
炎の記憶 下町に刻まれた日

先日亡くなったドナルド・キーンさんとともに、故エドワード・サイデンステッカーさん(2007年没)は日本文学に多大な貢献をした研究者だった。
この人の名前なしに川端康成のノーベル文学賞はなかったとさえ言われている。

東京の下町、谷中(やなか)に古くからの墓地があって、サイデンステッカーさんはよく散策をした。
散策するうちに、あることに気づく。
「大正十二年九月一日と昭和二十年三月十日に死んだ人々の墓がいかに多いか」と晩年の随筆集「谷中、花と墓地」に書き残している。

大正の日付は関東大震災、昭和のほうは東京大空襲である。
22年の歳月をはさんで東京の下町を炎で包み、ともに言葉に尽くせぬ惨状をもたらした。

片や天災である。
そしてもう一方は戦災だから、二つは異質な災厄だ。
しかし米軍は、関東大震災による木造家屋密集地の甚大な火災被害に早くから注目して参考にしたという。
その意味において二つの日付にには暗いつながりがある。
手もとの文献によれば、米軍は日本のヒノキに似た建材を用意し、畳や家具にいたるまで忠実に再現した家屋を建てて長屋街を造った。
木材の含水率まで調整をしたり、雨戸を開け閉めして燃え方の違いを確かめたりっして、きわめて周到に焼夷弾の攻撃実験を行ったという。

3月10日未明、279機のB29が投下した30万発を超す焼夷弾に東京の下町は焼き尽くされる。
一夜にして約10万人の命が奪われて、きょうで74年になる。

   

日本の都市を狙った米軍の周到さには「非情」という語がふさわしい。
効果が計算された冷酷な破壊だ。
それに対して日本は、丸腰の庶民を、お決まりの精神論で立ち向かわせた。
防空法は国民に退避の禁止や消化義務を課していた。
「逃げるな、火を消せ」である。

戦局が険しくなると、「焼夷弾には突撃だ」といった標語も張り出されたという。
非科学的で空疎な精神主義は人々を焼夷弾の餌食にしていく。
逃げれば助かったであろう人まで火に焼かれ、東京だけでなく全国の都市で空襲の犠牲を増やすことになった。

新聞にも痛烈な反省がある。
国が言うままに精神論で尻をたたき続けた。
さらに「火と闘って殉職」「死の手に離さぬバケツ」といった類の「防空美談」をさかんに報じたのも新聞だった。

東京大空襲に続いて名古屋、大阪なども空襲を受ける。
直後の3月20日、本紙社説は「空襲に打(うち)克(か)つ力」と題してこう言うのである。
「われらもまた本当に爆弾や焼夷弾に体当たりする決意を以って敵に立ち向かおうではないか」。
同じ新聞の後輩として胸がきしむ思いがする。
ーーーーー

上空からの無差別爆撃を「眼差(まなざ)しを欠いた戦争」と言ったのは、軍事評論家の前田哲男さんである。
殺す側も殺される側も、互いを見ることがないからだ。

「(殺される人々の)苦痛にゆがむ顔を、助けを求める声も、肉の焦げる臭いも、機上の兵士たちには「一切伝わらなかった」(「戦略爆撃の思想」から)。
知覚を欠くなかで加害の意識は薄れ、殺戮’(さつりく)のむごさばかり増幅していく。
日本軍もまた中国を繰り返し空襲した。

第2次世界大戦、ベトナム戦争など20世紀の空爆をへて、21世紀は無人攻撃機が殺意を運ぶ。
たとえば米国では、「操縦士」は国内の安全な基地に出勤し、遠隔操作で遠い紛争地の「敵と見なした人間」にミサイルや爆弾を撃ち込む。

かって爆撃照準器の下の人間を「点」と見た非人間性はいま、ピンポイント攻撃を免罪符にしつつ、無人機のモニター画面に受け継がれた感がある。
それは人間の命へのまなざしを欠くAI(人工知能)兵器へと続く道に他なるまい。

サイデンステッカーさんに話を戻せは、下町を愛したこの人は湯島に長く暮らした。
谷中の墓にかぎらず、東京の下町はいまも「炎の記憶」を静かにとどめている。
供養の碑や地蔵にはきょう、様々な思いが捧げられることだろう。

炎の記憶は世界の幾多の地に刻まれている。
空襲を、戦争を、鳥の目ではなく地べたの人間の目で考える日にしたい。




2019年3月8日金曜日

啓蟄(けいちつ)

3月5日 朝の7時10分頃。
いつものように歩いて会社に行こうと家を出た。
Nihon-akagaeru.JPG
ニホンアカガエル

路上に、蛙(かえる)が、きっと夜中に自動車にでも轢かれたのだろう、体を引っ掻き回されたように、ぐちゃぐちゃになって死んでいた。
事故現場は自宅から200メートルほど離れたところ、長女の家族が住んでいる家の前だ。
これゃ二人の孫娘がこの様子を見てどのように思うか、心配した。
でも、バスの発車する時間が迫っているので、気にはしながらも素通りした。

この蛙は私が田舎でよく見た蛙ではなく、いつの日かアカガエルと言うんだよ、と大学時代の部友に教えられた。
その部友の住んでいる家は横浜市神奈川区高島台の旧居だ。
詳しく話そう。
幕末から明治にかけて活躍した実業家・高嶋嘉右衛門の子孫が代々住んでいた。
今の所有者は、私の友人だ。
横浜の埋め立てやガス灯建設などで功績を残した。
一方、易の達人でもあった。この住宅は明治時代に建てられたもので、父母や祖父母を大事にする彼の意向で、壊すのではなく、弊社で昔に近い状態に改装した。
10年ほど前のこと。
その家には300坪ほどの庭があって、そのなかに50坪ほどの昔からの池がある。
池の水は、量を気にするほど入れなくても、庭からじわじわ引き寄せられていた。
その池に、春、今頃になると、遠くの地からこの池に蛙が戻ってくる。
冬が近づいてくると、部友たち家族が気が付かないうちに、何処かへ居なくなってしまうのだ。
そのことに関して、心配をしないのか?と何回も尋ねたが、不思議なんだよなと返された。
何処かへ去って冬眠して、春先になったら、天気の陽気に嬉々としてやって来る。
昔から、これは変わらないなあ。
彼の住宅の周りはすっかり都市化され、擁壁や路面はすっかり近代化されて、住処(すみか)にするにふさわしい箇所は、私の目に容易に見つからなかった。
その蛙が、今回傷ついた蛙と同じ種類だった。
アカガエルは、外国から帰化した蛙だと聞いているが、随分増えているのか、それとも、何も帰化したものではなく、昔っから日本に居続けていたのか。

いつものように8時には会社に着いた。
翌日、仕事をそっち抜けにして、コンピューターに向かい、ネットで「今日は何の日」を調べてみた。
そしたら、本日から日本でも中国でも啓蟄(けいちつ)です、とあった。
成(な)あ~る程(ほど)。

「啓」は「開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」の意。
「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意を示す。
春の季語でもある。

2019年3月4日月曜日

障害者の兄、隠し続けた葛藤

3/4(月) 7:00配信
障害者の兄、隠し続けた葛藤
一緒に歩いた披露宴で出した答え、「私 幸せ者ですね」


withnews
 
神奈川県の障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年、重い障害のある19人の命が奪われた事件。2年になるのを機に、私たちは障害のある兄弟や姉妹をもつ「きょうだい(きょうだい児)」の目を通して、事件を考えました。その後「きょうだい児への支援について深掘りしてほしい」という要望をいただき、もう一度、当事者の声をもとに取材しました。(朝日新聞文化くらし報道部・山内深紗子)

兄の障害を意識するまで
 「障害は忌むべきものではなく、ちょっと不自由な生活を強いられるけど、ただそれだけなんだよ」

 滋賀県の特別支援学校教諭、久保田優里(ゆり)さん(28)は両親からこう言われて育ちました。

 兄の植松暖人(あつひと)さん(31)は脳性まひで、重い知的・身体障害があります。優里さんは、兄を特別視せず、隠すようなこともなかった家庭で育ちました。

 弟の洸志(こうじ)さん(26)と両親と兄と一緒にデパートに出かけ、自家用車でキャンプやスキーにも行きました。幼い頃は、兄の「障害」を意識したことがなかったそうです。

 そんな優里さんが、兄の障害を強く認識したのは9歳の時でした。

 休日の午後、兄と留守番をすることに。ふたりになってしばらくのことでした。

 「ほんまは話せるけど、実は隠してるだけなんやろ?」。優里さんはそう兄に耳打ちし、部屋を出て様子をうかがいました。

 「うーっ」。声は聞こえましたが、30分間待っても兄は言葉を話しませんでした。よだれが兄の首をつたっていました。

 同級生が学校で、不器用な友人を「お前、障害児か。何にもできん」とからかっていたことが頭に浮かび、胸をつかれました。

 中学生になると、友人に兄の存在を隠すようになりました。好きになった人にも言えませんでした。なぜだったのでしょうか。

 友達に何度か、兄の障害のことを話したことはあったのですが、相手が引いて会話が続かなくなり、悲しい思いをした経験がありました。話した後で、友達に避けられるのではないか、という気持ちもありました。

 そして何より、障害を持つ人が周りにいない人たちに、重複障害がある兄の本当の姿を伝える方法がわからなかったと言います。

 「勇気のない自分。うしろめたい気持ちがずっとありました」


3/4(月) 7:00配信
withnews
「家の中では兄と豊かな会話」
 ですが、家の中では兄との「豊かな会話」があります。

 兄の機嫌が悪くなり、大声で騒ぐと、優里さんは「テレビが気になるのかな?」と察してチャンネルをかえます。

 兄が笑顔に戻ると、「当たり」。言葉を介するより、時間もエネルギーも費やして兄の表現の奥の部分を探ります。

 「うそは絶対にないし、心が通じてくる」

 優里さんは、小学校教諭として働き始め、3年前に特別支援学校に移りました。障害のある家族がいることは「普通」じゃないと思い続けていて、そのことは、どんなに家族の仲が良くても兄の存在を否定しているようで、口に出すことすらためらわれたといいます。周囲に兄のことは言えませんでした。

 でも、学校の子どもたちや家族と接する中で、「特別なことではない」と思うようになったそうです。

 一昨年秋、優里さんは、同僚の一矢さん(34)と結婚しました。お色直しで退場する際には、きょうだい3人で歩こうと決めていました。「任せて」と、弟の洸志さんも快諾してくれました。

 約100人が集まった披露宴。兄の車いすをふたりで押し、参列者にあいさつしながら歩きました。兄の障害を初めて知った人が多かったそうです。

 両親は涙ぐんでいました。かけよって、兄のよだれをぬぐってくれる同僚もいました。親類も友人も「感動したよ。よかったね」と言ってくれました。

 人が大勢いる場所では必ずといっていいほど騒ぐ兄が、この日はずっとにこにこしていました。

 「兄は特別な日だと分かっていたんだと思います。私は自分の軸が強くなったのかな。私、幸せ者ですね」
主役は障害のある兄、悩みを共有できず
 朝日新聞では、重い障害のある19人の命が奪われたやまゆり園事件2年を機に昨夏、優里さんらきょうだい児の思いを伝える連載を朝刊に掲載しました。

 掲載後、優里さんは、小学校の同級生からメールをもらいました。

 優里さんは、幼い頃から、兄のリハビリや特別支援学校の遠足などに両親と一緒に参加していました。その時に、きょうだい児同士で仲良くなる機会もありました。

 でも、主役は障害のある兄たち。そこで友達をつくり悩みを共有することはなかったのです。

 母の久仁子さん(60)のもとには、同じく障害児を育てる親から、数多くの反響が寄せられました。そのひとつは以下のような内容でした。

 「ふたつ上の娘も、彼女なりの悩みがあることは想像できますが、本人は語らずで、どれだけ理解してやれているのか?わかりません。悪い親です」

 久仁子さん自身も、優里さんの心の奥底の葛藤には気づいていませんでした。

 なぜなら、優里さんは、兄との外出も、特別支援学校の行事も一緒に楽しそうにしていたからです。

 今振り返ると、楽しそうにしていたのは、「家族」という理解者がそばにいる時のこと。一人で、障害に対する社会の冷たい風にさらされる時に、毅然と向き合うことが困難な時もあるのだと気づいたそうです。

 同じきょうだいでもそれぞれ性格は異なります。弟の洸志さんは、「気にしなかったし、差別を感じると友達にでも誰にでも、それはおかしいよと伝えていました」と言います。




withnews
大切なのは「1対1」の時間
 久仁子さんは障害の種別に関わらず家族が支え合う「大津市障害児者と支える人の会」の合併設立に10年前に協力。きょうだい児も含めて、相談に乗ったり、勉強会や遠足などの余暇活動を企画したりしてきました。

 障害のある子だけでなく、きょうだい児と1対1の時間をつくることが大事だと言います。「あなたも必要な子で愛している。我慢しすぎないで」と自然な形で伝えることができるといいます。

 その時間を確保できたのは、久仁子さんの場合、同居の母や夫の潤治さん(61)もケアに関わったほか、障害児がいるという理由で働いていなくても、保育園に預けられる市の制度があったからだといいます。

 久仁子さんは「福祉サービスが整備され、特にケアの担い手になることの多い母親が罪悪感を感じることなく、外に開いていける環境づくりが大事です」と話します。

 潤治さんは、小児科医。「全国肢体不自由児者父母の会連合会」の副会長も務めています。

 多くの親子と接する中で必要だと感じることは、「家族の中で抱えて、閉じこもらなくてもいいような制度整備や周囲の理解」だと言います。

 障害がある子どもがいる家族は片時も離れられず、ほっとできる時間がとても少ない。そして、自分たちが先に逝った時の、子どもの身ときょうだいの負担を案じ続けています。

 「親たちにスーパーマンになれ、というのは酷。だからこそ、障害者支援だけでなく、家族、きょうだいのケアを、社会で支援していくことが重要です」

<相模原障害者殺傷事件(やまゆり園事件)> 2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で元職員、植松聖被告が入所者19人を殺害、職員3人を含む27人に重軽傷を負わせたとされる。事件前に衆議院議長公邸に持参した手紙で植松被告は、重複障害者が「安楽死できる世界」を「目標」とし、「障害者は不幸を作ることしかできない」などとつづっていた。

◇ ◇ ◇

 一般に、なじみが薄くなりがちな障害者の存在。でも、ふとしたきっかけで、誰もが当事者になるかもしれません。全ての人が、偏見や無理解にさらされず、安心して暮らせる社会をつくるには?みなさんと考えたくて、withnewsでは連載「#まぜこぜ世界へのカケハシ」を企画しました。国連が定めた12月3日の「国際障害者デー」を皮切りに、障害を巡る、様々な人々の思いを伝えていきます。

2019年3月3日日曜日

一丸(いちがん)になる

社内でよく使う語句で「一丸(いちがん)になる」があるが、どういうことだろう、と思った。
大体は解っていても、その答えは正解ではなさそうなのだ。

★ネットで調べたら、
ひとつのまとまりになること。
心ひとつにしたひとかたまり。
複数人が結集し、力を合わせて事に当たるさま。
使い勝手に、「全員一丸になって難局に切り抜ける」とあった。

私は中学生のときはバスケットボール、高校から大学はサッカー。
大学の4年間は東京都保谷市、東伏見駅界隈のみで生息した。
入試に失敗して、素浪人の2年間はドカタ作業に現(うつつ)を抜かした。
大学には自分で稼いだ資金で何とか遣り遂げたいと思っていた。
2年間で稼いだお金、280万円を農業協同組合に入金、貯金通帳は母に渡して、私の気のままにならないようにした。
スポーツに関しては、技術や体力では誰にも負けたが、気力・精神力だけは負けなかった。
正規の練習が終わってからの時間無制限の勝手気儘(きまま)な練習、休みの日でも善福寺、井の頭公園、武蔵関公園、石神井公園まで走って行って、公園で過ごす恋人たちや遊ぶ子どもたちを見て楽しんだ。
年に2度か3度は多摩湖まで、早くなく遅くなく、勝手気ままなスピードで気楽に走った。

そんな人間が「一丸になる」をどう考えたのか。
サッカーに関しては攻守、それぞれチームカラーはあるが「緻密に練り上げた計画」をそれこそ細やかで緻密な動静、テクニックで攻め上げ守り抜いた。

今、会社は順調に業績をあげようとシッチャキになって頑張っている。
そのときに「会社を一丸となって頑張ろう」と言われたら、私はかくのごとく考える。
先ず社長が何かを言ったら、その意図を好く理解する。
逆に、社員が社長に内容を誤解なく話し、話した切っ掛けを好く理解してもらう。
この社長が社員に、社員が社長に話しかける内容が、過激なものであれば尚更、その衝突する勢いは激しくなるのは当たり前。
これこそが、真のコミュニケーション。
そうした、相互の言葉の遣り取りで十分互いが理解できて、隙間が詰まる。
こんなことこそが、一丸になるのだと思っている。
そんな遣り取りが彼方(あっち)でも此方(こっち)でも交わされれば、繰り返すようだが、一丸の輪が大きくなるのでは。

社長と社員が話すとき、その話すときのスピード、互いに理解し合ったときの激しさも原動力になり、この「一丸になる」の爆発力になる。
それと会話する内容だけではなく、方向ベクトルも影響するだろう。
これこそが、一丸の神髄なのではないか。



トカトントン、トカトントン、太宰治の言葉を借りたわけでない。
はてな? 果てなダ?
何是(なんぜ)こんな文章「前章)を綴ってしまったのだろうか?と考える。

それは1週間前に自宅に送られてきた「campus now 2019早春号」だった。その裏表紙に書かれていた「大隈重信のことば」が頭の隅っこに生き残っていたのだ。


共同するには共同の機関が必要である。

組織が必要である。

また人類は共同の性質をもっておる。

規律的に活動する知能をもっておる。

しかし、これを共同させて、
規律的に活動する
中心の機関がなければならぬ。

学校という共同体の中心は講堂である。


前の方で、グジャグジャ言ってしまったのは、この「大隈重信の言葉」のなかの、
共同、共同の機関、規律的な活動、組織、中心の機関が、
何を隠そう「一丸になる」に繋がっていくのだ。

そんなことが、より良い世界、より良い会社を作り上げる歯車なのだ。



2019年3月2日土曜日

はまりこんだデフレの罠

20190227の朝日新聞・朝刊を、そのまま転載させていただきました。



はまりこんだデフレの罠

その①「脱却」狙い不良債権処理
銀行破綻 企業も直撃 続く悪循環

2003年10月8日、金融庁に匿名の電話がかかってきた。
東京・大手町にそびえていたUFJ(現三菱UFJ銀行)の東京本部ビルに金融庁が検査に入った翌日のことだ。

「検査前に大口債務者の審査資料を(別室)に移している」

翌日、検査官が情報提供に基づいて会議室に入る。
足の踏み場もないほど、段ボール箱が積みあげられていた。
ざっと240箱。
ダイエーや商社など融資先の実態を示す資料だった。

「融資先の業績が改善する楽観シナリオを前提に、不良債権の額を低く見積もっていたことがわかった」。
のちに金融相として旧UFJを「検査忌避」で刑事告発した伊藤達也衆院議員(57)は、こう振り返る。

銀行が抱える不良債権の処理で「デフレ脱却」に取り組んだ小泉純一郎政権は、銀行の検査を厳格化した。
山一證券や日本長期信用銀行などの相次ぐ破綻を経て、「護送船団方式』は過去のものになっていた。

物価の下落が続くデフレ。
00年代初め、日本マクドナルドのハンバーガーや吉野家の牛丼は大幅な値下げに踏み切り、時代を映す商品となっていた。
「価格破壊」が激化していた。
暮らしにはありがたいように見えて、経済の悪循環を招きかねないのがデフレの罠だ。

物価が下がって企業の売り上げが振るわないと、賃金の下落を呼び消費が低迷する。
供給が過剰になり、まあたもや物価の下落につながるーーー。
日本経済は崖っぷちにあった。

罠から逃れるためにも、不良債権の早期処理が必要だった。
マネーを企業に流す銀行の機能を損なっていたからだ。
五味広文・元金融庁長官(69)は「事実上破綻していた金融機関を処理したら、新しい不良債権が猛烈な勢いで発生した。経済が壊れていた」と語る。
日経平均株価は03年春に7607円のバブル後最安値を記録し、失業率は最悪の5%台を続けた。

不良債権処理がもたらした金融危機は借り手の企業も直撃した。
危機に直面しても不都合な事実から目をそむけ、問題を先送りする空気が根強かった。

不良債権の象徴だったのがダイエーだ。
旧UFJの検査忌避が発覚した直後、小売業を所管する官庁として、「自主再建」をはかっていた経済産業省の幹部が金融庁に申し入れた。
「国策として再建している。その点を踏まえて検証してほしい」

銀行検査への異例の介入だった。
経産省は自らが主導する再建にこだわったが、ダイエーは最終的に、政府の産業再生機構の支援を受けることになる。

「ダイエー再建には決定的な阻害要因があった」。
小泉政権で「金融再生プログラム」をつくり、金融相として不良債権処理を進めた竹中平蔵・現東洋大教授(67)は、官民ともに失敗を認めない体質を指摘する。

「経産省も銀行も大企業も同じだった。失敗に終わったバブル期の計画も『会長が社長のときにやったものだから』と温存し、不良債権処理が遅れた」

「いいものを安く」で消費者の支持を得たダイエーも昭和の成功体験に縛られていた。

「総合スーパーはやめて食品に特化し、コンビニなどのグループ企業を中心に生き残りましょう」。
業績不振の1997年、ダイエーの恩地祥光・経営企画本部長(64)が進言すると、創業者の中内功社長は、「気でも狂ったんか」と答えたという。

家電も衣料も売るダイエーはユニクロやヤマダ電機との競争に敗れた。
ほどなく社を去った恩地氏は「中内さんはダイエーに入れる店も関連企業にこだわった。マクドナルドすら入れない。お客さんが一番いいと思う店を選ぶべきだった」と話す。

いくつもの企業が破綻し、銀行は不良債権処理で100兆円近くもの損失を出した。
それでもデフレは続いていった。


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その②悲観主義が日本経済覆う
3度の金融危機 日銀緩和も効かず

小泉政権が06年9月に退陣する直前、政権内に「デフレ脱却宣言」を探る動きがあった。

日本銀行はその年の春、物価が落ち着いているのを背景に、金融市場にマネーを潤沢に供給する「量的緩和政策」を終わらせた。
7月には、さらに踏み込んでゼロ金利政策も解除し、異例の金融政策をやめる「正常化」に乗り出す、
日銀に理解を示した与謝野薫・経済財政相は「脱却宣言」を模索した。

総務省に就いていた竹中氏は、金融緩和がデフレ解消になるというのが持論だ。
「脱却宣言は日銀の政策転換の正当化に使われる」。
首相官邸に小泉純一郎首相(77)を訪ね、反対する考えを伝えた。
小泉氏は「そんな状況じゃない」と応じ、宣言は幻に終わった、

このとき、経済政策づくりに関わっていた元政府関係者は「『デフレ脱却』という言葉は、利上げを急いだ日銀の金融政策に『待った』をかけるレトリックとして使われるようになった」と話す。

それでも日銀は翌07年2月、もう一段の利上げに踏み切る。
政策委員9人のうち、岩田一政副総裁(72)がただ1人、反対した。
日銀の執行部にいる正副3総裁の意見が割れる異例の判断は「賃金が伸びず、個人消費も弱い」との理由からだった。

現在は、日本経済研究センター理事長を務める岩田氏は「日銀は再びデフレに戻ってもいいと言ったのに等しかった」という。
「金利を上げられるときに上げておかないと、再び景気が低迷したときに金利を下げる『のりしろ』がなくなる。
経済情勢ではなく、金融政策の自由度にこだわる本末転倒の考えが日銀にあった」と批判する。

賃金が当時伸びなくなったのは、戦後生まれの「団塊の世代」の大量離職が始まった時期と重なる。
少子高齢化が賃金の動向に影響与え始めていた。
企業は正社員より派遣などの非正規労働者を雇い、賃金全体を押し下げるようになった。

翌08年にはリーマン・ショックが起き、物価は再び水面下に沈んだ。

第2次安倍晋三政権が12年に誕生すると、「デフレ脱却」に向けて日銀に金融緩和を強く迫った。
総裁が代り、日銀は空前の金融緩和に乗り出した。
それでも「物価上昇率2%」の目標は達成できないままだ。

今は景気拡大の局面にあり、その長さは戦後最長をうかがうという。
しかし、暮らしが豊かになった実感は乏しく、物価の上昇ペースも鈍い。

他の先進国に例を見ないデフレが長引いたのはなぜか。

日本生産性本部の茂木友三郎会長(84、キッコーマン名誉会長)は今年1月、年頭の記者会見で「バブル経済の崩壊を経験し、その後長期の経済停滞が続いた」と平成を振り返った。

茂木氏は「今の企業トップたちは金融危機のころ課長クラスだった人が多い。多額の損失を出すのを経験した世代には、投資に失敗したくないマインドが非常に強い」と話す。

リーマン・ショックの後に、日銀理事になった早川英男・富士通総研エグゼクティブ・フェロー(64)は「日本の企業や個人は『学習された悲観主義』とも呼ぶべき消極性を身につけてしまった」とみる。
3度の金融危機の後遺症というわけだ。

企業は手元に資金をため、投資や賃金に回そうとしない。
海外展開も進んだ。
財界の重鎮ウシオ電機の牛尾治朗会長(88)は「我々経営者は戦後、日本の従業員の顔を見て経営してきた。今や中国などにも従業員が増え、日本だけをみての賃上げは難しくなった」という。

「失われた20年」と呼ばれる時代に生まれたデフレは、日本経済に染みついた。
克服しようと、もがいた末に浮かび上がったのは、将来を見通しにくい日本の姿そのものだった。