2014年3月31日月曜日

恒例の後輩たちの同窓会


20140308 11:30 東名高速道路の裾野インターで下りて、少し246号線を静岡に向ったところの寿司屋さん、ひょうたん寿司で、昼飯を兼ねて集合した。この寿司屋さん、飛び込みのお客さんはほとんどなく、客の大半は法事のお客さんだった。流石に、ネタがよろしいようで、いつものくるくる回る寿司屋さんとは違った。久しぶりに美味しい寿司を食った。
集合したメンバーは、同じ大学のサッカー部の先輩後輩、昭和52年卒を中心にその前後に卒業した元部員たちの毎年恒例の同窓会を、時の栖で行うための腹ごしらえのためだ。同窓会のメインの行事は地元のサッカークラブとの対戦と、その後、バイキングで舌鼓を打ち、旧交を温めることだ。
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寿司屋では、私だけは試合に出ないので、熱燗を1本注文したが、前日の燗冷めを出されて憤慨。大きい声を出して文句も言えず、静かに、この酒ちょっとおかしいから替えてよ、と猫をかぶったように抗議した。先方は、私の怒りをどのように感じたのか? 見た目は平然とお代わりを持ってきた。この年になっても、こういう時の怒り方を身につけてこなかった。

我が方は、次女夫婦と孫の三世代の5人組、メディカル機器の会社に努めている杉君組も三世代で、こちらは次女夫婦に孫、長女に孫、長男の8人組の大所帯だ。杉君は往年の名キーパー、試合では相変わらずの軽快、堅守にもかかわらず?いっぱい点を取られてしまった。それでも、優秀な営業マンは底抜けに明るい。彼から学ぶべきことは多い。
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14:00から30分3本試合をした。
対戦相手は、地元の袋井サッカークラブの中学1年生だったが、どう見ても中3ぐらいの体つきで、試合前のウオーミングアップでも、よく走るし、よく蹴った。こりゃ、大変な事になりそうだ、と本気でビビった。スコアーはオジサン、おじいちゃんの名誉にかかわること、特別の秘密事項にしておこう。
お利口な対戦相手は、当方のチームを気遣ってくれたのか、本(ホン)ちゃんでは、自分たちのサッカーではなく、オジサン、おじいちゃんに合わせてくれた。そのことにな~んも気づかない仲間たちは、自分たちのチームが割りとよくやっているじゃん、と暢気に観戦している。アカン、当然といえば当然のことなんだろうが、彼らは身も心も老化してしまったようだ。
若い頃は、パスを受ける際には、走り込む先にパスを出すことを求めたが、老人になってしまった今では、足元にボールを出せよ、と声を荒らげていた。
この会で、ゲームに参加した3代目は我が孫・晴ただ1人。2代目が参加しているのは、杉君の息子・ゴウと小君の息子・シンの2人だ。
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試合が終わって、 19:30の食事会までのたっぷり余っている時間の過ごし方は、やっぱり、ビールを飲むことだった。これが、時間を一番効率よく過ごすやり方だ。話したいことは、山々ある。毎年恒例の同窓会だ。
メンバーには、三菱系某大手の飲料会社に勤めている奴が二人いて、販促用の飲み物をたくさん用意してくれた。横浜と名古屋に勤務している両君だ。新製品のビールを突き出されて、どうですかね味の方は、と聞かれたが、酔いがピーク寸前の私には解らないよ、と失礼なことを言ってしまった。

話すことはほとんどが昔の思い出話。学生時代の狼藉、失態の数々には事欠かない、誰々の女性関係だとか、どこの誰が可愛いかったとか、フジの嫁はんはキツ~イかったなあ!とか。
久しぶりに顔を出してくれた広島からの白君と藤枝のヒ君。白君は、10年か15年前に広島大会を世話してくれた、広島で長い歴史をもつ酒蔵の若大将だ。ヒ君は、長くアルコール中毒に苦しめられていたが、今は、ちゃんと快復していて、安堵した。体型はマラドーナのような風体(ふうてい)になってしまったが、足技は健在?だった。

宇都宮の松ちゃんも、すっかりおじさんになって静かなモンだ。松ちゃんの学生時代の豪快な酒乱?立ち回りは、誰に迷惑をかけたわけではない。話題としては際立って面白い。
塩山のシさんも衰えが激しい。それでも、日常の仕事は各方面で頑張っているようで、嬉しかった。静岡と神奈川の高校の二人の先生も衰えが激しい。かっては、全日本の代表だったのに、と惜しいむのには無理がありそうか?


さて、来年は皆さんの老化が、どれほど進んでいることでしょうか。

2014年3月27日木曜日

ケンタウルスに初植込

20140326 横須賀市栄町の「ケンタウルスの果樹園」に、果樹5本を植えてきた。

1番目の果樹園の名称が「イーハトーブの果樹園」なら、2番目の果樹園の名称が「ケンタウルスの果樹園」になるのは必然だった。ケンタウルスは星座の名前でもあるが、「銀河鉄道の夜」のケンタウルス、露を降らせのケンタウルスだ。

柿3本と梨と桃を1本づつの計5本。果樹を植えているときの喜びって何だと思いますか? それは、果樹が立派に育ち、果実がたわわに実り、会社のスタッフやその家族、仕事でお世話になっている仲間たち、私の家族やその仲間たちに、お裾分けをする光景を想像するだけで、それで、もうすっかりハッピーな気持ちになれるのだ。

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この土地は道路から階段を30段以上のぼった高台にある。何を運ぶのも手運びだ。肩に担(かつ)いだりや背に負うほどの威勢よくない私は、たいてい、荷物をぶら下げてのぼる。地勢は全くイーハトーブとそっくり。元は住宅が建っていて、弊社でその住宅を解体して長く更地状態にしておいた。地盤は、何故か、河原のように大小の石でがっちり固められていて、土壌らしい土がなく砂利(じゃり)状態。

私が試験的に穴を掘ろうと、ツルハシの先を強く地面に刺そうとしたが、歯が立たなかった。それで、昨年の11月10日、人力のみでは無理と判断して、レンタル会社から発電機と電動ドリル(削岩機みたいな奴)を借りてきて、何とか直径1メートル深さ1メートルほどの穴を12個掘った。

今は、誰にもこの作業の辛さなど、露ほども漏らすものか。

その穴に、仕事の合間を縫って、少しづつ木の葉、培養土、普通の土壌を埋めてきた。そして、やっとのことで、果樹を植えられるまでになった。それが、3月26日のことだ。

だが、硬い地面の一部に穴を掘ってそこに植樹したのは、いわば、大きな植木鉢に植えたようなものだから、今後の心配は尽きない。強い風を受けた時などは根こそぎ倒れてしまうかもしれない。観葉植物なら、それなりの手入れですむかもしれないが、果樹を実らせる樹木が一時的なショックといえども、倒れれるようなことがあった時は、相当なダメージを受けることになるのだろう。

後4本、何を植えようか思案中だ。

2014年3月23日日曜日

龍に襲われた

昨夜20140322、変な夢に悩まされた。

布団にくるまって寝ていた私を、龍が火を吹きながら襲ってきたのだ。

その姿は、家ごと丸飲み込みしそうな大きい奴で、大きな黒目を見開き、口には牙を尖(とが)らせ、尾をグネグネと左右に動かしていた。身の周りに強い風を纏いながら降臨、数軒向こうの方から、周辺の家や樹木を焼き焦がしながら、私の家の私の寝室に向かってきた。宙を舞いながら吐く火焔は強く長く、吹きかける風が炎をますます勢いづけた。寝ている布団の周りは、火の海と化していた。

何故だ、どうしたんだと、身を震わせている間に目が覚めた。炎の熱よりも、噛み殺されるのが怖かった。

目が覚めて、興奮が治まるにつれて、20年ほど前、子どもを連れて京都府綴喜郡宇治田原の実家に帰った時の、蛇の一件を思い出した。

子供らを車に乗せて、父が働くキュウリ畑か、カブト虫採りに出かけた時のことだ、農道で蛇を轢いてしまった。見通しは良く対向車もなく、子どもたちとふざけながら走っていて、農道を横切る錦蛇(にしきへび)に気づかなかった。縄か紐に見えた。

確かに、こと~んと蛇を轢いたショックがハンドルに伝わった。が、しかし、戻ってまでも確認しなかった。直感で蛇だと解った、が、たかが蛇だろうと軽く見くびったのだ。でも、この「こと~ん」の薄気味悪い感触は、今でも蘇る。きちんと思い出せるのだ。戻る際には、蛇の姿はもうそこにはなかった。踏み殺すことはななかった、と勝手に安堵した。

その蛇が、古くから中国に伝わる神話の龍に化身(けしん)、龍になって私に仕返しにやってきたのだと、思い当たった。

 

追記・白川 静(しらかわ しずか)先生なら、「龍」と「襲う」の龍の関係をちゃんと説明してくださるのだろう。ボンクラの私でも少しは気になった。

集団的自衛権は、私が行使します

集団的自衛権の行使を何とか実現させるために、従来の憲法解釈の変更を目指す安倍晋三首相は、閣議決定に強い意欲を示している。「憲法解釈は、最終的には私がやる」と国会答弁で言い放った。選挙で選ばれた者たちが、リードするのが当たり前ではないか、とこのような意思・言い方で発言している。オイ、オ~イ、そんなに易々とこの問題を言い放さないでくれよ、日本国憲法の世界でも類をみない「平和主義」を脅かす考え方だ。丁寧な手順が必要だ。

首相のこの国会答弁を聞いて、この男、危険千万なりと感じた。朝日新聞では、憲法解釈を強引に改めさせようとする安倍首相のことを、前のめりで腰高の姿勢に危うさを感じると表現した。

それじゃ、従来の解釈はどうだったのかと言えば、20140323の朝日・1面・「座標軸」より引用=従来の憲法解釈を要約すれば、「自衛隊は合憲だが、海外での武力行使はできない」ことに尽きる。その枠内で集団的自衛権を「保有しているが、行使は許されない」と定めた、ということだ。

長年の解釈を、首相やお仲間だけでそう簡単には変更できないことは、何も、私のような無学な者でさえ容易に理解できる。この危険な男をけん制するために、動いたのはお膝元の自民党の「総務懇談会」、早速17日に開かれた。その会では、結論を急がないよう求める声や、法改正で取り組むべきだとの意見が大勢を占めたと、紙上にあった。当然のことだ。

この首相、第一次安倍政権発足時の前後から、「戦後レジームからの脱却」すべきだと言いだした。「この国をかたちづくる憲法や教育基本法など、日本が占領されていた時代に制定されたまま半世紀以上経ったもの」を見直すべきだと、いうことだ。

戦争を知らない若い議員らとお仲間を作った。このお仲間、何故か威勢がいいのだ。30年~40年前の自民党のほとんどの議員は、特殊な議員は別にして、集団的自衛権は日本国憲法をいくら解釈に工夫を凝らしても認められるべきでないとしてきた。与野党問わず、老齢のために引退した議員や現職古参議員は、こぞって認めるべきでないとする人が大半だ。

アメリカから相当の圧力がかかっているのだろうか。

 

20140317

朝日・社説

首相の懇談会/「空疎」なのはどっちだ

 

どうしても違和感が募る。

集団的自衛権の憲法解釈変更について、安倍首相は「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」の報告書が提出された後に対応を検討すると強調している。

このため国会もメデイアも「待ち」の態勢を取らざるを得ず、報告書の価値が自然とつり上がっている印象だ。しかしそもそも報告者は、どれほどの正統性持ち得るのだろうか。

確認しておきたい。安保法制懇は首相の私的諮問機関である。設置は法令に基づかず、人選も運用も好きに決められ、国会の目は届かず、法的な情報公開の義務もない。政府は従来、私的諮問機関は、「意見交換の場にすぎない」と説明してきた。

安保法制懇には、首相と志を同じくする仲間が並ぶ。これまでの懇談会の議論では「集団自衛権を行使できるようにすべきでないといった意見は表明されていない」という答弁書が先日、閣議決定された。

首相は「空疎な議論をされている方は排除されている」と国会で述べた。「結論ありき」の疑念はぬぐいようがない。

安保法制懇だけではない。同じく首相の私的諮問機関「教育再生実行会議」のメンバーも首相に近い人物が目立つ。内閣法制局長官人事でも、内部昇格という慣例を破り、自らに近い人物を据えた。安倍政権の特徴的な政治手法の一つだ。

かって中曽根政権も私的諮問機関を多用し批判を浴びたが、最低限の正統性確保への配慮はあった。例えば84年に設置された「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会に。適切な方式での公式参拝実現を促す内容の報告書を出し、それを根拠に中曽根首相は公式参拝に踏み切った。ただ、公式参拝違憲論を唱えていた憲法学者の権威・芦部信喜氏もメンバーに入り、報告書には違憲の主張が付記された。

この事実は決して軽くない。

少数意見に耳を傾け、反対派からも合意を得られるような力を尽くす。その合意形成のプロセスをおろそかにし、選挙に勝てば何でもできるとばかりに「勝者の正義」を押し付けるようなやり方では民主政治は成り立たないし、政権の正統性をも傷つけてしまうだろう。

ある時点において多数派だったことを足場にする「勝者の正義」は歴史の風雪に耐えられない。首相が是が非でも「戦後レジームからの脱却」に挑むというなら「お友達」の意見を錦の御旗にして強引に事を進めるのはやめ、国会など公的な場で堂々と議論に臨むべきだ。

2014年3月20日木曜日

人車鉄道って知ってた?

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私は皆に遅れて正午過ぎに真鶴に着いた。今週末、ダイヤパレス湯河原とクレスト真鶴アネックスの現地販売を行う告知チラシを、物件の近辺の住宅に投げ込むためだ。こういう仕事になると、俄然、気合が入るのだ。

朝早くから湯河原で別件の仕事を終えた浅と、そこに少し遅れて合流した佐の二人は、既に、午前の部はやり終えていた。私が着いたのは昼飯時だったので、先ずは腹ごしらえを整えてからだ、と昼飯に誘った。

それから、3人はそれぞれ、思い思いのエリアを担当した。私は海側の集落を攻めた。もう一つの住まいとしてマンションを買ってくださいとか、買い替えしませんかではなく、気候温暖な真鶴で隠居暮らしか、保養のためか、それとも文学や絵画などの創作の場にでも使いたいと思ってくれそうな人を紹介してもらえれば、エエか!ぐらいに考えて、それでも、念を込めて郵便ポストに投げ込んだ。

息子一家や娘一家が、親の家の近くに住みたい、と考えてくれる人がいれば、思う壺だ。

それにしても、この日は強風だった。都内では、成田も羽田も飛行機は飛べず、海上を走る自動車専用道路も通行不能になった。瞬間風速20キは中型の台風並だ。細い坂道を上って行って、それから階段を10段~20段を登ってやっとのことで家に辿り着く、そんな家ばかり。疲れてふらふらの足取り、それでも何とか踏ん張っていても、突然、まともに風を受けて海側の崖下に突き落とされそうになったことも、しばしば。

持ってきたチラシを全部配り終え、待ち合わせの時間より少し早い目に真鶴駅に着いたので、駅のロータリーをウロウロ、上の方で写真を紹介した「豆相人車鉄道歴史街道」のことを記した看板が目についた。この豆相の豆は伊豆、相は相模の相のことだろう。

人間が客車を押すという「人車鉄道」が、かって、小田原と熱海間を走っていたようなのだ。貼り付けてある写真のなかの光景に目が留まった。現在の私たちの目には、どうしても滑稽に映る。

大正時代に、秦野で産出された煙草の葉を二宮まで運ぶことを主目的に、軌道の上を馬が貨物車を引く鉄道が敷設されていた。この馬車鉄道はその後、軽便鉄道になったが、小田原急行鉄道(小田急小田原線)が開通すると衰退し、昭和12年に廃止された。この鉄道のことは、以前に秦野の煙草を調べていた時に知った。

都心から遠く離れた地方でも、このように貨物や人の輸送に、叡智をめぐらし、努力がなされていたのだ。日本人の何事をも発展、発達させようとする精神の逞しさが偲ばれ、嬉しくなった。

帰途、強風で落下した夏みかんを、10個ほど拾って帰った。帰りの車の中、疲れ体にはその振動が快く、後部座席で惰眠を貪った。

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豆相人車鉄道歴史街道

城口(じょうぐち)駅跡

人間が客車を押すという珍しい鉄道”人車鉄道”が小田原か熱海間25.6キロメートルを走ったのは、明治29年(1896)のことです。豆相人車鉄道と呼ばれていました。現真鶴駅の駐輪場付近に城口駅があったと思われます。駅前には真鶴屋・福浦屋・川堀屋の3軒の茶店もありました。

2014年3月15日土曜日

納骨ぐらいはお早めに

大手の某不動産仲介会社から、多摩地区にある中古住宅を、御社の中古住宅をリフオームして再販する企画にのりませんかね、と弊社の担当者に連絡があった。担当者は、へ~いガッテン、うちの会社の生業ですから、喜んで見せてもらいます、と鼻息荒く返答した。

日取りを決めて、担当者と私は現場に向った。空家だった。物件は某大手住宅メーカーが昭和の終わり頃に建てたものだが、リフオーム工事がきめ細かに施工されていて、築後30年以上も経つというのに古さを感じなかった。その居住空間の隅々に、住んで居た人の几帳面な生活ぶりが偲ばれた。洗面化粧台や便器、浴室、キッチンに少しの損耗がみられない。丁寧に手入れが行き届いていた。

ここに住んでいた人の子女らが相続を受けて、息子2人と娘1人の共有名義になっていた。よって、この3人がこの物件の所有権者で売主だ。長男は外国暮らし、次男は埼玉の妻の実家の近くのマンションに住んでいる。娘さんは、結婚して東京でマンション暮らし。この子供らに対して、親の教育が行き届いていたのだろう、それぞれに、立派に豊かに暮らしているようだ。この住宅は相続人の誰にも、住居としては不要なのだ。

仏壇の前には、最近亡くなった主人のものと思われる遺骨が置かれていた。同じ部屋の隅っこには、10年ほど前に亡くなった奥さんの遺骨も置かれていた。主人は、亡くなるまで自分の女房の遺骨を傍に置いておきたかったのだろうか。それとも、納骨できない何かの事情でもあったのだろうか。

な~んだ、両親が亡くなって、その遺骨を今まで住んでいた住宅に置きっ放(ぱな)しだなんて、と少し怒りに近い感情を抱いた。置きっ放しを、言葉を替えれば、捨て置いていることにならないか。外国暮らしの長男はしょうがないとしても、次男や長女はどうして、この家の近くに住みながら、自分の父母の遺骨を、こんなところに放(ほお)り放しで、平気でいられるんだ。死んでしまったら、子どもたちは恩を忘れて知らんぷりとは、ベンベン、これ如何に!!

この住宅を弊社が購入すれば、それで得た資金は相続人である子供たち3人で分配するのだろう。当たり前のように。そして、父母の遺骨をどこかに納める、これで何もかも、お、し、ま、い。こんなことで、死者は報われるのだろうか。親には感謝しているけれど、俺たち私たちにも自分らの生活があって忙しい、ということか。お彼岸が近いので、このように想念が巡ったのだろう。

死亡した当人が私ならと、この事態を自分にあてがって考えてみた。子供たちに告ぐ、戒名や葬式もいらないが、遺骨ぐらいは気楽に早い目に処分してくれ。海でも山でも、樹木の下でもよし、こそっと私の聖地でもある大学のグラウンドに人知れず粉にして撒いてくれるとなお更嬉しいが、そこまでは望まぬ。それらに要する費用ぐらいは、心配かけなようにしなくてはイカンなあ。

死んで子供に財産を残すのもいいだろうが、何か、もうちょっと違う、世のため人のためになる、財産の残し方使い方はないのだろうか、と考えさせられた。

どんな人生であろうと、死んだら遺骨だけは残る。それで一巻の終わり、か!!

2014年3月14日金曜日

懲りない浦和の差別表現

 

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20140314 日経・スポーツ

8日のJ1の試合で埼玉スタジアアムに掲げられた横断幕

 

世界基準ではこの程度の処分では済まない、ぞ。

サッカーのJリーグ1部(J1)浦和レッズのサポーターが人種差別的な横断幕をスタジアムに掲げた問題で、Jリーグの村井満チェアマンは、13日、浦和に無観客試合1試合の処分を下した。

浦和レッズの社長は、サポーターの合意が得られなかったために横断幕を撤去できなかったと説明し、クラブの差別に対する認識が甘かった、と謝罪した。が、認識が甘かったのではない、差別的行為を放置したこと自体が差別的行為に加担したのだ。今までにも、浦和サポーターは懲りずに再犯を繰り返し、それをクラブは許し続けた。

問題の横断幕は浦和サポーターが集まるゴール裏の観客席に入るゲート付近に掲示された。掲示者は、ゴール裏は聖域で海外からの観光客らには入って欲しくなかったからだと述べている。でも、その横断幕の文言から、外国人が差別的な表現だと受け止めるのは当然だ。

恥ずべきサポーターだ。君たちは何をサポートしているのかい。わいわい、ドンチャカと騒ぐだけがサポーターではないぞ。サッカーを偏愛している?私は、サッカーは文化レベルの高いスポーツだと誇りに感じている。

この「JAPANESE ONLY」の横断幕を目にした人の中で、すばやく、これはまずいと直感した人はいなかったのだろうか。差別だと直感はしたが、それをないがしろ、無視したのだろうか、大抵の人は無関心だったのか、私なら、どう反応しただろうか?

私は高校、大学においては他のことには見向きもしないで、サッカー三昧の生活をした。学生として、その部活のなかで得たものは、当然サッカーのスキルや戦法、戦術を身につけたことは言うまでもないが、スポーツの本質は他人の権利を尊重するということだ。普遍的な人権のことだ。だから、東京・新大久保で繰り広げられているヘイトスピーチや、図書館における「アンネの日記」やその関連本の損壊事件に、敏感に反応する。

このサッカーという競技の魅力は、貧乏人も金持ちも巧拙の区別なく、肌の色が黒かろうが白かろうが、どんな民族間においても、唯、一つのボールさえあれば競えて、又思いもせぬ展開が限りなく生まれ、我々はそのプレーの一つひとつに感動する。プレーに参加しても、観るだけでも感動が得られる。その戦いには、神聖なる精神が秘めているからこそだ。その神聖なる精神とは、他人を尊重する心のことだ。とりわけ、その神聖なる精神が遺憾なく発揮されるフェアープレーは人々を魅了してやまない。

サッカーを愛するサポーターたちよ、あなたたち一人ひとりと、紋切り型の言葉でなく、サッカーの魅力を徹底的に話し合おうよ。このような交流の中からは、アホな差別表現なんか生まれっこない、と私は断言できる。

処分を受けて今月23日の埼玉スタジアムでの清水エスパルス戦が無観客試合になる。

2014年3月13日木曜日

東京大空襲

 

新聞記事を読んで、知識の浅薄さを自覚する機会が余りにも多いので、いささか自嘲気味、でも、、、だ、教えられたこと、入手した知識を大事に扱いたい。 知らないことは知らない、知ったかぶりをしない、教えてくれた人には感謝する。今まで、このように生きてきた。

そこで、今回は20140310の日経・春秋の内容だ。

前の世界大戦の終わり頃、当時の政権は、疎開していた子女たちを都会に戻させた。都会から人が去ることは、敵国に戦意を喪失したかの如く見られるとの憶測か、それに日本国民の緊張を高めるためとでも考えたのだろうか、折角、危険を回避するための疎開生活を中止させて、都会に引き戻させたというのだ。そんなこと、初めて知った。そのことについて、この日の春秋は著している。

また、東京大空襲がどんなものだったのか、とネットで調べていたら、先ず第一に、その大空襲で、一夜にして10万人近い人が亡くなったということ、又、第二は、米国のこの空爆の責任者を佐藤栄作政権は、何故か、彼に勲一等旭日大綬章を授与したことに驚いた。学生時代、佐藤訪米羽田阻止デモに参加したが、こんなことは初めて知った。東京大空襲の内容の一部を、ネットより、後の方にマイファイル、転用させてもらった。

今から約70年前の19450310の大空襲は一夜にして10万人近い人が亡くなった(殺された)と言うが、戦争を避けようと、人智の使い方次第では、このようなことは起り得なかった。酷薄な人災によるものだ。3年前の20110311の東日本大震災は、防災に対する備え不足は認めるにしても、神のみぞ知る天災だった。その震災で2万人近い人が、亡くなったり未だに行方が分からない。

私には基本的に身に付けている数字の単位がある。1年間で自殺する人数は、3万人弱。3万2~3千人は東京マラソンランナーの総員。1年間に交通事故死する人数は、1万人弱。神奈川県の人口は9百万人でその4割が横浜市の3百50万人、藤沢40万人で小田原はその半分の20万人。

 

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日経・春秋

「やむをえず方針にしたがうことになりました」。校長先生は子供たちと親を前に、そうあいさつしたそうだ。時は昭和20年3月9日、場所は東京・下町の国民学校。現在の小学校にあたる。卒業生66人を引率、疎開先の宮城県から帰京し、親に引き渡した時の言葉だ。

これから空襲がひどくなり、首都がその標的になると予想していた。せっかく疎開している子を戻すのには反対だった。しかし、やむをえずの帰京。国のやり方への反感を公の場で示したのは、当時としてはぎりぎりの発言かもしれない。「くれぐれも空襲から身を守ってあげてください」。校長先生は親たちに念を押した。

生徒の1人である東川豊子さんのこうした回想を、早乙女勝元著「東京が燃えた日」が紹介している。両親との再会、慣れた町、集団生活からの解放に皆、はしゃいだ。その日の深夜に、爆撃機が来襲。子を守ろうとせぬ親などいなかったはずだが、それでも66人の生徒のうち13人が命を失う。東川さんも父と弟を失くした。

この夜の死者は10万人以上。想定外の数字ではなかった。河出書房新社「図説東京大空襲」によれば、東京の防衛に責任を持つ陸軍中将が空襲の前年にこんな論文を発表している。東京の爆撃で約10万人が死ぬ。 しかし東京の人口は700万人、「十万死んだところで東京は潰れない」。命を見る目の軽さに改めて驚く。

 

『odd_hatchの読書ノート』2012年6月16日付エントリより

著者は、江東区の住人で当時13歳。3月13日(ママ)からの空襲を経験した。この記録が残されていないことに憤りを感じて、東京大空襲の記録を集める活動を開始する。本書はたぶんその第一弾にあたる。係累をたどることで数十名の経験者に対談を申し入れたが、ほとんどの人に断られ、承諾した13人の証言を組み合わせて、3月10日の空襲の模様を再現する。

作戦はこうだ。おとりの2機のB29を東京上空に飛ばし、なにもしないまま房総半島を通して退避させることで、警戒を緩める。その直後に300機とも400機ともいえる大編隊で侵入する。まず、円形に空爆し炎の壁を作り、閉じ込められた人の逃げ場をなくす。そして円の内部を風上から順次、爆弾を落としていく。多くの人は窒息死、圧迫死、二酸化炭素や一酸化炭素の中毒、厳冬の川に逃げ込んだ末のショック死、溺死などを遂げる。たくさんの焼夷弾は人の体を炭化するほどの燃焼力を持っていた。この夜の死者は8万人にもなるという。本書には何枚かの写真が掲載されているが、それは当日および翌日にかけて撮影されたものだ。被害の大きさと悲惨さに目を背けたくなるが、見なければならない。

 

『日本語と日本文化 壺齋閑話』~「早乙女勝元『東京大空襲』より)

(前略)3月10日に東京を襲ったB29の数は、334機という説と279機という説があったりで、正確なことはわからない。落された爆弾と焼夷弾の量もしたがって正確には分からないようだ。米国戦略爆撃調査団の資料によれば、1667トン、これによって焼失した市街地の面積は15.8平方キロメートル、死者の数は83600人、負傷者の数は10万2000人、一日で失われた人間の数としては、戦闘行為も含めて世界戦争史上最大の規模になるという。

早乙女さんが日本政府のとった対応の中で最も許せないことは、この空襲の責任者だったルメイ将軍に対して、昭和39年に勲一等旭日大綬章を授与したことだ。ルメイは東京大空襲のみならず、広島、長崎に原爆を投下した直接の責任者でもある。こうした男に、何故当時の佐藤政権が最高の勲章を授与したのか、まったく理解に苦しむといって、早乙女さんは憤っておられる。日本人なら誰でも同感のはずだ。

神聖喜劇・第1巻、粗筋(未完)

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20140312 超人的な記憶力と論理的思考で、非人間的な旧日本軍組織に抵抗する兵士を描いた長編小説「神聖喜劇」で知られる作家の大西巨人(おおにし・きょじん/本名は、巨人を〈のりと〉と読む)さんが、亡くなったことを知って、この本の粗筋をまとめ中の原稿を投稿した。10ヶ月前に読み終えていたが、この本は粗筋をメモしておかないと後で困ることになりそうな予感がして、書きだしたものの、中途半端のままだ。この春から第2巻に取り組むつもりだったが、兎に角、作者は巨人さん、読み側はフラフラになってしまうのだ。2巻も多分1年間かけて読むことになるのだろう。

以下、未完ですが、弔意を込めて今朝投稿した。ご冥福をお祈り致します。

 

この本を読んでいて、なるほど、この本の題名が実に神聖的なる喜劇だと納得した。それにしても疲れた。中休みに、別の著者の本を数十冊読んで気分転換、そして今日20130531、やっとの思いで第1巻は読了した。

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朝鮮海峡に面した対馬に、24歳の主人公・東堂太郎が補充兵役入隊兵として教育を受けるべく、着任した。その教育に、手ぐすね引いて待ち受けていた堀江中尉(隊長)、大前田軍曹(班長)、神山上等兵たちとの騒動を主人公が語る形で話は進む。1941年1月から4月までの物語だ。当時、対馬は日本の第一の要塞だった。

大東亜戦争に突入した時にも、東堂はこの聖戦の本質を知りながら、「反戦平和のための積極的活動を行い得なかった」ことを屈辱と感じ、虚無主義者として軍隊の中で「一匹の犬」のように過ごそうと考えていた。

着任して早々、まだ軍隊生活の細かい決め事を教えられないうちに一つの事件が起こった。朝の呼集の時間を知らされていなかったので、のんびり洗顔をしてその呼集に遅れてしまった。遅れた数人を上官は叱責した。東堂と冬木以外は「忘れました」と答えたが、東堂は「知りません」と答えた。遅れた者たちは聞いていなかったので遅れたのに、忘れましたと答えた。東堂も忘れましたと答えれば、その場を穏便に済まされることは解っていたが、どうしても教えてもらっていないのだから、忘れましたとは言えず、知りませんと答えた。軍隊内では、何故、「知りません」が許されず、「忘れました」が強制されるのか、深く考えるようになった。「知りません」なら上官の責任が追及され、「忘れました」なら、悪いのが全て下級兵のみで上官には責任を求められることはない。

だが、冬木と東堂は、今回の此の件について、何故か「忘れました」の使用をとことんまで強圧せられることもなく見送られたのか、この段階では知り得なかった。

この「知りません」禁止、「忘れました」強制という無条件的な不条理に対して虚無主義者ないし「一匹の犬」らしからぬ疑問と興味を持った東堂は、いくつかの教範操典類を調べて、その根拠となるものを探し始める。

この教範操典類を調べているうちに、睾丸ハ左方ニ容ルルヲ可トスなども知る。

学生時代に特高の取り調べを受けた。驚異的な記憶力と暗記力を持つ東堂に、かって読んだことがある共産主義に関する禁書、非合法印刷物の名前や買ったもの、借りたものを、容赦なく尋問される。その特高に対しては、帝国主義勃発の前夜とその勃発後における、関係諸国の労働階級や社会主義諸政党の国会議員団の反戦任務を規定したテーゼについて、漠然とした記憶しかないと、嘘をついた。東堂は、一度読んだり聞いたことは、そらんじることができるほどだ。公然と売られている本を読んだか、読んでないか、何故そんなことが問題になるのだ。

教練教官から、大刀洗陸軍飛行隊見学での徒歩教練と銃訓練には、くたくたになるまで鍛えられるであろうが、「ただし、どうしても行きたくない者は」と言って、教官は、明確に参加しない者は教練の用意をして登校せよと、指示した。東堂と西条の二人は、別に申し合わせていた訳ではないが、翌日教練には参加しないで、学校には登校した。登校したのは二人だけだった。このことで、学校側と二人の間で強硬な談判がはじまった。ここで、悶着は、東堂は28回の欠席で西条は29日の欠席を既にしていて、飛行隊の見学に参加しなかった二人は欠席扱いになって、西条は欠席日数が30日に達したとして原級に留め置かれる。東堂に対しては、反学校当局的、反軍事教練的やり口を尚続けるならば、今期以降の教練成績が低い査定やその他の不利損失を被ることになるよ、と訓戒される。

一時代前に全国学生大衆を巻き込んだマルクス主義的、共産主義的焔の歴史は、昭和9年、16歳の高等学校生には、まだまだ真の理解に達していない未熟な東堂なのに、赤化学生だと追及され、「おれの単純素朴な行為は、そんな事々しい意義を持つことができるのか」と驚愕した。学校側はこれ以上、東堂にこの種の学問に傾倒していくならば、保証人である父親を召喚する必要があるだろうと迫るが、東堂には何も恐れるものはなかった。

 

大前田軍曹(班長)

神山上等兵

堀江中尉(隊長)

 

石橋二等兵が書いた手紙の内容は「毎日毎日三度三度大根のおかずばかり食べておりますので、大根中毒しそうです。このごろは戦友たちの顔まで大根のように見えてきました。よろしくお頼みします」だった。食事についての不服を隊外への通信に記したことが軍事機密や軍隊の内情を漏らしたことになると言って公的制裁、ビンタを受けた。

神山は、公的制裁という合成語を使った。教範操典類のどこにも、上官が下級兵に対して行う制裁のことには触れていないどころか、厳しく禁じられていた。まして、公的制裁?なんてあり得ない。

石橋二等兵に対する制裁が終わってひと通りの訓示をした後、神山は唐突に、冬木の名を呼んで、「そうだな、冬木。悪事を働いた人間は、何よりも自首するのが一番正しい。そうだな? 冬木」と言った、突然のこの発言は冬木に何を示唆し、何を求めているのか、理解できなかった。神山のそれからの「お前は、忘れたのか?」、「少なくとも後一年半?」。それから「どっちにしろあんな人間だし、、、」という侮辱。大前田の「お前がどげな人間か、班長は知らんと思うなよ、、、」という警句。巡察衛兵の「ふうん。お前が冬木か、、、」という感嘆。冬木自身の「ここにも世の中の何やかやがひっついて来とる、、、」という述懐。これらが、何を具体的に指示しているのか、この時点では、解らなかった。

事は、犯罪と刑罰とに関係しているのであろうか。秘密がありそうだ。あるいは冬木は刑余の人間ででもあるのか、不可解なことだった。

それにしても、どういう訳か、東堂並びに冬木が「忘れた」の使用をとことんまで強圧させられることがなく、見送られたのだろうか。何かが、班長以下に意図がありそうだ。

 荒巻jっk、橋本庄次二等兵は、堀江隊長に神山から大根のおかずの件を、軍事機密だと教えられたことを、暴露する。また、身上調査において橋本の義務教育を終了したのか、尋常高等小学校を終えたのか、いい加減に聞き取られていたことが判明した。そこで、再度、橋本は大根のおかずの件を隊長に、軍事機密だと教えられたことを告げた。隊長は神山を責め、上司である大前田も責めた。

そこからが面白い。堀江隊長は大根のおかずは軍事機密ではない。そのように言った神山、それを認めて訂正をしなかった大前田も悪いが、外部に漏らしてはならない防諜上の秘密を、軍事機密と言いそこねたのだと、神山を助けた。この似非(えせ)弁証法には、驚愕と嫌悪を覚えた。

 

そんなてん末の最中に、神山は上衣から取り出した手帳の1枚に何かを書きつけて、堀江隊長の後ろを通って大前田に手渡した。大前田は隊長に差し出した。何が書かれていたのか、物語の推移を待とう。

責任阻却(そきゃく)とは、違法行為者も特定事由の下では(その責任が阻却せられて)刑法的非難を加えられることがない、「責任なければ刑罰なし」、というような意味だ。ここで、「知りません」「忘れました」問題を再び訴求する。「忘れました」は、ひとえに下級者の非、下級者の責任であって、そこには上級者の下級者にたいする責任(上級者の非)は出て来ないのである。言い換えれば、それは上級者は下級者の責任をほしいままに追求することができる。しかし下級者は上級者の責任を微塵も問うことができない。これが、「知りません」禁止、「忘れました」強制の慣習に繋がっているのではないか。

そして、この責任阻却の論理を、上へ上への追跡があげくの果てに行き当たるのは、天皇だった。統帥大権者が完全無際限に責任を阻却されている以上、ここで責任は雲散霧消し、その所在は永遠に突き止められない。

軍隊は人外の境地。

軍隊はひとえに理窟不要、問答無用、蒙昧無法の非論理的特殊地帯。

「典範令」、特に『軍隊内務書』、『内務規定』、『陸軍礼式令』などの勉強に積極的に取り付いたのは、直接には「知りません」禁止、「忘れました」強制なる不条理の正体を突き止めるためだった。

 

軍隊内においては、軍隊には軍隊の字の読み方がある、と言って憚(はばか)らない。真諦(しんたい)→シンテイ、弛緩(しかん)→チカン、捏造(でつぞう)→ネツゾウ、直截(ちょくせつ)→チョクサイ、消耗(しょうこう)→ショウモウ、

「軍隊の読み方」などは成立しない、そんな不条理はあり得ないと考えた東堂は、「軍隊内務書」の中に一般「社会道義」と東堂の「個人の操守」とは、軍隊でも完全に保守されなければならない、ことを明確に指示する準則を見つけた。

弛張(しちょう)を軍隊ではチチョウと読むのじゃ、と断言する堀江隊長に対して「地方も軍隊も字の読み方は同一でなければならない、と白井少尉に具申しておきました。堀江隊長にも意見を具申し、、、。」と話した時、堀江隊長は「待て、横着者が。『白井少尉』とは何か」と、二等兵の分際で、将校を呼び捨てにしよって、『白井少尉殿』となぜ言わぬ」と責められたが、「軍隊内務書」の「敬称及称号」によって、隊長殿は白石少尉の上級者でありますから、ただいまの東堂は隊長殿の下級者たる白石少尉に敬称を略しました」

1巻はもう少しで終わりだーーーーーー!!!1

2014年3月10日月曜日

沙羅、愛子お姉さんに習おう

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決勝2回目のジャンプを終えた高梨沙羅=飯塚晋一撮影

 

今月の8日、スキージャンプ W杯オスロで、個人第16戦が行われ、既に個人総合2連覇を決めている高梨沙羅(17)が、初の5連勝をマーク、今季13勝目、通算22勝目を挙げた。1回目は最長不倒の132メートル、2回目は128.5メートルを飛び合計257.6点で圧勝した。

今シーズン、W杯シリーズでは、落ち着いて勝ち続けてきた。小さな沙羅ちゃんに王者の風格さえ感じられる。それでも、先月のソチ五輪では、優勝候補の最有力にあげられながら、初の五輪出場、平常心で飛ぼうとしたのだろうが、オリンピックに棲む魔物って奴か、重圧に苦しんみ、無念の4位で終わった。気まぐれな風にも影響を受けた。

今大会で女子ジャンプは初めて行われた種目だ。

ラジオで、スポーツ写真家が、飛び出し台にいる沙羅ちゃんが緊張でガチガチ、いつもの高梨選手ではありませんでしたと話していた。

ソチ五輪で4位入賞が決まった直後の記者のインタービューに、「支えてくれた人たちに感謝の気持ちを伝えるためにこの場所にきたので、いいところを見せられなかったのがとても残念、ここ(オリンピックの場)に再び戻ってきて、その時には、いい結果を出したい」と訥々と話していた。この敗戦の悔しさこそ明日への苦い良薬になるだろう。

テレビの前の私は、「沙羅ちゃん、ヨッシャ」と声をかけた。いいんだヨ、現実をしっかり認識することダ、若いんだからサア、これからヤ、と既に次のステージでの活躍に期待していた。私の方が立ち直りは早かった。

沙羅ちゃんは次に向かって往(い)く。そして、果敢に戦っている。平常心を取り戻したのだろう、現在、W杯の転戦では勝ち続けている。

悔し涙を浮かべる沙羅ちゃんを見ていて、頭の隅っこに、開幕一番目に登場したモーグル女子の上村愛子(34)選手のことが過(よぎ)った。テレビに映る沙羅ちゃんに向って、あの上村の愛子姉さんのアスリートとしての気骨を学べ、と叫んでいた

上村選手は、18歳で初出場した98年長野五輪で7位、以後大会ごとに6位、5位、4位と順位を上げて5大会目を迎えていた。今度のソチでは、優勝候補の筆頭、本気でメダルを取ると意気込んでいた。06年トリノ大会では「そろそろ(メダルを)もらえると思っていたのに」と目を腫らし、10年バンクーバー大会では「なんで一段一段なんだろう」と涙した。そして、結果は4位入賞に終わったが、彼女の表情はすがすがしかった。

かって、現役時代には女姿三四郎と言われた筑波大大学院准教授の山口香さんが、20140218の日経新聞に寄稿していた。その一部が、私が応援団長を務める沙羅ちゃんを激励するにふさわしい文章だったので、そのままここに転記させてもらった。

海外の選手はW杯を生活のために戦うが、五輪は人生を懸けて戦うと。今回、W杯では未勝利で金メダルを勝ち取ったドイツのフォクト選手らは人生を懸けた一発勝負に出たわけだ。ちょうど上村選手が競技人生の集大成として、絶対に逃げずに滑りきるんだという決意で攻めたように。

上村選手が示したのはメダルだけではないスポーツの価値。あれだけ重圧がかかる戦いを終えて「すがすがしい気持ち」になれる選手がどれだけいるだろうか。よく聞く「自分のベストが出せればいい」という言葉も、本当にそう思えるのは最善を尽くした人間だけ。努力は結果を保証してくれないが、「これが自分のベストだ」と言い切れるよりどころになる。

自らの限界に近づくには上村選手のような鬼気迫るものも必要。4年後、最高の飛躍を見せてやると目の色を変えた高梨沙羅選手を見たい。

2014年3月8日土曜日

まど・みちをさん

今月28日、まど・みちをさんが老衰のために、都内の病院で亡くなられた。104歳だった。お悔やみ申し上げます。童謡「ぞうさん」や「やぎさん ゆうびん」、「一ねんせいになったら」などで知られ、優しい言葉で、ユーモアたっぷりに、又、命の大切さを歌いあげた。

ぞうさんも、一ねんせいも、口癖のように日ごろ、歌っているのに、この詩を綴った張の本人がこのまど・みちをさんだったことなど知らなかった。幾人かの詩人の詩集をもらったり、買ったりして、詩に触れることはままあるのに、ナンチュウコッチャサンタルチア、まど・みちをさんの名前すら知らなかった。

友人にそんなことを話すと、半ば呆れ顔で、ひぇ~と言われてしまった。

まど・みちをさんの死亡に際して、氏を紹介している新聞記事を読んで興味を持った、と書くと、氏をよく知る人の間からは、今さらとあきれられ、シラケ鳥が飛ぶようだ。でも、私のことは心配しないでください、知らないものは、知らないのであって、これからでも遅くない、追っかけで、氏の作品を味わいたい。今まで、私はこのようにして、遅れ遅れで学習しながら生きてきたのだ。

 

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朝日 100歳を前にしたまど・みちをさん=2009年、東京都稲城市

 

新聞記事をマイファイルさせてもらった。

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朝日・天声人語

「トンチンカン夫婦」という作品が愉快だ。91歳の夫は靴下を片足に2枚を重ねてはき、もう片方がないと騒ぐ。84歳の妻は米の入っていない炊飯器にスイッチを入れる。〈おかげでさくばくたる老夫婦の暮らしに/笑いはたえずこれぞ天の恵みと〉。

「おならは えらい」にもくすっとさせられる。なぜ偉いかというと〈でてきた とき/きちんと/あいさつ する〉からである。しかも〈せかいじゅうの/どこの だれにでも/わかる ことばでーー〉やさしさとユーモアに満ちた詩をたくさん残して、まど・みちをさんが亡くなった。享年104歳。童謡の「やぎさん ゆうびん」をはじめ、ひらがなばかりで書かれた多くの作品は、見た目を裏切る深みをたたえていた。

小さなものに慈しみの目を向けた。蚊や毛虫、ビーズ、あかちゃん。それが、宇宙の無限や太古の悠久につながっているところに真骨頂があった。〈ああ/ほしが/カと まぎれるほどの/こんなに とおい ところで/わたしたちは いきている〉。

「戦争協力詩」を書いたことがある。後に編んだ『全詩集』に、それをあえて収めた。懺悔も謝罪も手遅れと思いつつ、当時の心情を誠実に分析し、あとがきに代えた。

『人生処方詩集』で見られる自筆原稿は、なんとも天衣無縫だ。〈たのしみは? ークーテネール〉と始まり、〈すきなさくは? ーオナラハエライ〉と続き、〈まだかくき? -シンダラヤメール〉とくる。いま宇宙のどのあたりだろうか。

 

 

20140229

朝日・朝刊/評伝

まっすぐ届いた言葉  

広い世代に勇気

 

日本人の心のふるさとといえる多くの詩と童謡を生みだした詩人のまど・みつをさんが2月28日亡くなった。100歳を超えても詩を書き、やさしく深い言葉で森羅万象を歌いあげた。

ぞうさん

ぞうさん

おはながながいのね

そうよ

かあさんもながいのよ

戦後を代表する童謡「ぞうさん」を書いたのは1951年。作品を頼まれ、一気に6編書いた。その1編が「ぞうさん」だった。作曲家の故団伊玖磨が曲をつけ、ラジオで放送された。

聴くたびに、詩人谷川俊太郎さんのまどか評を思いだす。「こんなにやさしい言葉で、こんなに少ない言葉でこんなに深いことを書く詩人は、世界で、まどさんただ一人だ」。

「ぞうさん」については、まどさんは「ほかの動物と違っていても、自分が自分であることはすばらしいと象はかねがね思っている」と語っていた。自分が自分に生まれたことはすばらしいーーーこのテーマの作品がまどさんには多い。冬眠から覚めた熊が川面に映る顔を見て、「そうだ、ぼくは くまだった/よかったな」と思う「くまさん」もある。こんなものの考え方に、どれほど多くの人が勇気づけられたことだろう。

熱烈なフアンの間では、純粋無垢の詩人として、いわば神格化する動きさえあった。しかし素顔は普通のおじいちゃんだった。夫婦げんかもすれば、人の悪口だって言った。

戦時中に戦意高揚のために書いた戦争詩に晩年苦しんだ。書いたことも忘れていた「はるかな こだま」など2編を91年に見たときは、衝撃を受けていた。

翌年には「私はもともと無知でぐうたらで、時流に流されやすい弱い人間」と自己批判し、読者に謝罪した。05年に会ったとき、突然、「私は臆病な人間。また戦争が起こったら同じ失敗を繰り返す気がする。弱い人間だという目で自分を見ていた」と語り始め、驚かされた。戦争責任はこれほど正面から向き合った文学者はまれだ。

みずみずしい想像力は晩年まで衰えなかった。まどさんは、現在詩とか童謡とか、世間の分類にとらわれることなく、だれの心にもまっすぐ届く言葉で詩を書き、詩をみんなにものにした。こんな詩人はいない。

(著・白石明彦)

 

まどさんは、100歳の誕生日を控えた2009年11月、「なんか新しいことができるんじゃないかと、いつも必ずそれを思っている」と語っていた。08年の年末に腰を痛めて入院、09年春に介護付病院に転院してからは、居室の大き目の机で、日記や抽象画を描いた。

11年8月出版の「絵をかいていちんち まど・みちを 100歳の画集」には、50代に集中して描いた抽象画35点に加え、99歳から再び描き始めた抽象画170点も掲載された。編集した松田素子さんは「100歳を過ぎても、『びっくりしたな』 『しらんかったなあ』 『ありがたいなあ』が口ぐせだった。小さなものの中にある宇宙を、いつも初々しい目で見ておられた」としのぶ。

30年のつき合いがあった編集者・市河紀子さんは、「やさしい、温かな方だったけれど、厳しさも持ち合わせていた」と振り返る。1992年に、「まど・みちを全詩集」を出版した後も、校正を繰り返し、妥協しない姿勢を見せていた。

(著・佐々波幸子)

2014年3月7日金曜日

ヘイトスピーチと「アンネの日記」

 

新聞記事で、「コリアンタウン」と呼ばれる東京都新宿区の大久保とその周辺地域の約50箇所で、在日韓国・朝鮮人に対する差別蔑視言葉の落書きを消す作業を、今月の2日、市民グループが行ったことを知った。

その落書きは、商店街の看板や住宅の壁、工事現場の塀、JRの高架下などに書かれた「コリアン日本に来るな」 「非劣なバカ」 「帰れ」といった文言やナチス・ドイツの「かぎ十字」などだ。

今回の活動の中心になった市民グループは、ヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)のデモに反対する「のりこえねっと」で、ツイッターで「差別落書きを許さない姿勢をしめそう」と呼びかけた。デモの際には、彼らは体を張って阻止を試みた。デモは容易になくなりそうもなく、今でも各地に拡散、散発的に行われている。

無念だ、と諦めていないのがこのグループ、今回の活動は、差別蔑視言葉で書かれた落書きを消すことだった。見れば嫌な気分になり、読めば神経がささくれだってくる。呼びかけに賛同した人たちが、首都圏や東海地方から約50人駆けつけ、雑巾やスポンジで消して歩いた。エライなあ、と感心させられた。

しばらく、この手のデモが鳴りを潜めていると思っていたら、今度は新種の蔑視モンだ。「アンネの日記」と関連本が、東京や横浜の図書館で300冊以上が破られるという卑劣な事件が起こった。まさか、大久保でのヘイトスピーチ・デモの一味の犯行かと、、、、想像してみたが、そんなことはないだろう、と打ち消してみたものの、すっきりしない。

大久保では、他の国や民族のことを差別蔑視言葉で表現し、「アンネの日記」や関連本からは、ナチス・ドイツの行為を表現から抹殺しようとしている。「アンネの日記」といえばナチス・ドイツによるユダヤ迫害の悲劇を象徴する本だ。当然、杉原千畝氏に関する本も含まれている。

 

20140228の朝日新聞・社会面の記事をここに転記させていただく。

自著「母と子でみるアンネ・フランク」が破られた早乙女勝元さんは「人間とは何か、が詰まっているのが本。それを切り裂くのは歴史を知らず、想像力を欠いた人だ。ナチスは焚書(ふんしょ)した末に人間をガス室で殺し、焼いた。本の次は人間を切り裂くことにならないか」と心配した。

高千穂大学の五野井郁夫准教授=首相の靖国参拝が一定の支持を集めるような社会の右傾化が背景にあるのではないか。歴史や領土の問題では中国や韓国に日本がおとしめられたと感じ、戦後の歴史観を否定しようとする人もいる。ネット上ではそうした意見が広がっており、戦勝国側の価値観を全て否定しようという意見さえ出始めている。その延長線上で、敗戦国が反省すべき象徴ともいえるホロコーストに関する本が狙われたのではないか。「ユダヤ人虐殺がうそならば、南京事件や慰安婦問題だって全否定でき、日本は悪くないと主張できる」というゆがんだ発想かもしれない。様々な意見はあるだろうが、史実に基づいて議論していくのが開かれた社会だ。

 

アンネ・フランク

第2次世界大戦下でドイツ・ナチスの迫害を逃れ、家族とともにオランダに移住したユダヤ人少女。13歳からの2年間の隠れ家生活で感じた恐怖や悲しみ、希望を日記に綴った。その後、アンネはナチスに捕まり、15歳で収容所で亡くなった。戦後、生き延びた父親が編集した「アンネの日記」は世界的ベストセラーとなり、2009年に世界記憶遺産に登録されている。