2019年12月27日金曜日

しらす




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しらす
シラスとは、イカナゴ・ウナギ・カタクチイワシ・マイワシ・ウルメイワシ・アユ・ニシンなど、体に色素がなく白い稚魚の総称。

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ちりめんじゃこ
しらすを乾燥させたもので、我家ではこれを使う。


皆さんに「しらす」のことと「しらす」という言語を知っていらっしゃるかどうか、お聞きしたい。
この稿で使った写真は、大根以外全てネットからお借りしました。

そんなことを何故言い出すかと言うと、今、我が命の畑・「イーハトーブ」では大根の収穫期にあって、妻から根っこもいいですが葉も茎も一緒に頼みます、と強く言われているからだ。
大根の旬なんです。
大根と「しらす」がそれぞれに、これからの話が始まる。


妻からそんなことを言われようが、茎から葉っぱについてはどうするのだろうか?と黙って様子をみていた。
何にするか、ちっとも具体的に思いつかないのだけれど、妻が料理の最中に口走る言葉が、「しらす」と「なめし」だった。
余り料理について嘴(くちばし)を突(つ)っこないのが私の癖、果たして話は旨くいくでしょうか?

それが、葉と茎は★「なめし」だった。
大根の茎と葉を小刻みに切って、笊(ざる)に入れ水が下に流れたことを確認する。
水っ毛がなくなったと見切ったら、フライパンに油少々入れてしらすと炒(い)り胡麻を加えて熱く炒める。
それが「なめし」で、私は熱いご飯の上に散りばめて、ごはんと一緒に頂くのが私の食い処方だった。
食べ方そのものは、みなさん、どうぞご随意にやっておくんなされ。

根っこ1は、鰤(ぶり)大根なり
鰤大根とは、鰤と大根や野菜をそれぞれに切って、鰤を焼いてから煮たり、そのまま時間を掛けて味付けして煮たり、私の郷里では馴染みのオカズ(副食)だった。
鰤は成長するたびに呼称がかわる、成長するに伴って出世するように呼称が変わる魚を出世魚と呼び、縁起が良い魚と解釈されて門出を祝う席など、祝宴の料理に好んで使われる。
鰤の大きさは平均的には80センチ、重さ8キロ以上、特別大きいのは1メートルを遥かに過ぎ、15キロ以上のものも獲れるらしい。

★そして根っこ2は、船場汁(せんばじる)
せんば汁とは、晩秋から冬にかけての関西での典型的な惣菜(そうざい)だ。
せんば汁とはよく使う言葉だが、それがこの漢字を使っての「船場汁」とはしらなかった。
せんば汁は、大阪の問屋街である船場で生まれた、よって呼び名が船場なのだ。
塩鯖(さば)などの魚類と大根などの野菜類を煮込んで作る具沢山(ぐだくさん)の汁。
この料理においては、鯖を身、頭、中身に切って大根と昆布を入れて水から煮る。
鯖の粗(あら)をもちいるのが肝要で、切り身だけでは味がでない。
粗とは、魚類の主要な魚肉を取り去った残りの部分のことだ。

鰤とは、旧暦の師走の頃、脂がのって食べ頃になるから魚偏に師をつけたといわれているそうだ。
日本の太平洋各地で水揚げされる鯖は秋が旬で、「秋鯖」と称される。
太平洋沿岸を回遊する鯖は、伊豆半島沖で春ごろに産卵し、餌を食べながら北上する。
特に北海道沖での海域は、プランクトンが豊富にあり鯖は丸々と太る。
「鯖は魚偏に青と書くんですよ」と何十年か前に巨人軍の長嶋茂雄氏がテレビで喋っていたのを好く憶えている、きっと30年ほど前のことだ。
だからか、この稿を書くのにサバとキーを押すとこの鯖が出て来たので、長島氏が仰っていた魚偏に青は間違っているのかもしれないし、どちらでもいいのかも知れない。
悩んだが、その成否ついて納得する答えは得ていない。
鯖は、鮪(まぐろ)や鯵(あじ)等と並んで世界的に消費量の多い魚である。
日本では焼き魚、煮魚(鯖味噌など)、寿司(鯖寿司)、〆鯖(しめさば)として食べられる。

最後は★根っこ3の大根おろし
さっぱり食べられる秘密は大根の酵素にあった


我が命の畑・イーハトーブで採れたものです。

しらすの項目での大根おろしについては、ちょっと意外に思われるかもしれないが、この稿においては、鰤大根、せんば汁において、大根が料理の具材にされているわけだから、しらすだって大見得切っての大登場にしよう。
主役ではないが、恥ずかしくなく充分脇役王の立場だ。

よ~く、目ン玉を開(ヒンラ)けて見てくださいな。
上の写真の大根は、我が命の畑・イーハトーブで私の耕作によって得たものだから、尚更、この記事のエポックでも居て欲しいと思うのだ。
[大根おろしの作り方]辛み&口あたりは、部位やおろし方で調節

60年やら70年前のこと。
この大根おろしは、郷里の京都府綴喜郡宇治田原町、交通の超不便な村落では大物だった。
その代わり、魚や肉の生ものはそう容易く手に入ることはできなかった。
新鮮な食料品は、1週間に1度か2度、小さなトラックに食物を載せて売りに来てくれるオジサンの労苦に頼っていた。
このトラックが村の交差点に到着すると、村田英雄の「無法松の一生」「王将」や三橋美智也の「星屑の町」「哀愁列車」「達者でナ」が拡声器で我鳴り出した。
怒鳴ってはいない、我鳴っていたのだ。
そのことだって、私には楽しい思い出でもある

常日頃の食膳にあるのは干物状態の魚や肉だった。
そして、身近な畑で作られた大根おろしが、鱈腹のように盛られていた。
この大根おろしは、焼き魚や天ぷら、肉料理や鍋料理などいろいろな料理に腕利きを発揮してくれる。
大根おろしを添えることは、食べ物を消化しやすくするのに、至って手頃で便利な方法なのだ。
この「消化しやすくする」を高校の生物科で学んだことを改めて記す。
大根にはデンプンを分解するジアスターゼや、唾液や肝臓などにも含まれるカタラーゼ、オキシターゼなどには消化酵素が含まれている。


素晴らしい自然に恵まれた湯浅湾の海の幸

 食卓に一回は上ったことのある食材シラス、みなさん普段何気なく食べられていると思いますが、シラスって何の子供?どんなにして獲の?・・・。地元のものでも知らないことは数多くあります。

このページではそのシラスの七不思議について解明していきたいと思います。

◆第1の不思議◆ シラスって何の子供?


 シラスって何の子供かご存じですか?
ナマズの孫?イヤあれはシラスという名前の魚?いやいやシラスとはウナギ、アユ、イワシの子供(稚魚)の総称です。
有田で販売され、食されているのはイワシの稚魚です。

 大海原で卵からかえってたシラスは、透き通った体をしています。
おもに2㎝程度の大きさまでがシラスと呼ばれ、やがて3㎝程度になると、親イワシの様に銀色がつきはじめ、カエリと呼ばれるようになります。
カエリの語源は卵がかえるのと同じようにイワシの成魚となる前という意味があるそうです。
カエリはやがて5㎝程度になりイワシと呼ばれるようになります。

 またイワシといっても何種類もありますが、有田では、カタクチイワシ、マイワシの稚魚が使われています。
上がシラス、中がカエリ 下がイワシ
獲れたてのシラス(体が透きとおっている)


◆第2の不思議◆ シラス・チリメンの違いは?
 一口にシラスといってもいくつかの種類があり、その造り方(干している時間)、またその地方によって、呼び方が変わってきます。
 まず、獲れたての生のシラスを釜ゆでして、そのまま出荷したものを有田地方では、「シラス」と呼びます。
 「釜揚げシラス」「釜揚げ」と呼ぶ地方もあります。
シラス(釜揚げ)
 先程のゆで上がったシラスを天日で、2時間程度干し、少し乾かしたものを「太白ちりめん」「中干しシラス」といいます。
 関東では「シラス干し」と呼ばれています。
中干しシラス(太白チリメン)
 さらにシラスを半日程度、天日干しして良く乾かしたものを「上干ちりめん」と呼びます。通称「チリメン」と呼ばれているのはこれです。
上干チリメン(ちりめん)
 

◆第3の不思議◆
 
色の違うシラスを見かけるけど、白いシラスは、漂白剤や添加物を使ってるの?


 ズバリ、全く使っていません。

 シラスは加工する前は透き通っ透明な体をしています。これは、大きな魚から体を隠す為だそうです。ですから、岩場で獲れたシラスは黒っぽく、河口など砂地で獲れたシラスは白っぽいそうです。たまに、黒っぽいシラスを見かけることがございますが、これは、獲れた場所による違いで黒くなったり白くなったりするそうです。けして、漂白剤や添加物を加えているわけではございませんのでご安心下さい。

 従って日持ちいたしませんので冷凍保存するなど、保存方法に気を付けていただきたいのです。お買いあげいただいてから、すぐに食べるようにしていただければ一番おいしく召し上がっていただけます。




◆第4の不思議◆ 
一番美味しい時期はいつ?
栖原漁港、漁船からの積み出し風景
この後、すぐにセリに出されます
シラス屋さんのセリ風景
鋭い目つきで、最良のシラスを選び抜く

◆第5の不思議◆ 
シラスって健康食品?


 カルシウムタップリの健康食品です!  

 魚を丸ごと一匹食べるシラスはたくさんカルシウムが含まれています。
また、コレステロールを下げるEPAがふんだんに含まれています。

 カルシウムは、現代人にとって必要な栄養素の一つだと言われています。

骨を強くし、イライラを押さえる。
そんなカルシウムをふんだんに含まれているシラスは、妊婦さん子供さんからお年寄りまで、女性の美容にシラスは最適な健康食です。


◆第6の不思議◆ 
シラスって、どんなにして造るの?

①水洗い 
透明なシラスはゴミと粘膜を落とされます。
②釜ゆでここが一番重要な作業です。単純ですが、そのときのシラスの大きさ、鮮度によって塩加減・ゆで加減が変わってきます。
詳しいことは企業秘密です。
③さましゆで上がったシラスを常温まで急速に冷やします。(釜揚げシラスはこの工程で出荷されます。)
④天日干し冷まされたシラスは天日に干されます。この干す時間によって、太白ちりめん、上干チリメンに別れます。
①きれいに洗われた、ナマのシラス
これから、釜ゆでにかけられます
②釜ゆで風景
ここが一番重要な作業です。
季節、シラスの種類・大きさにより、
塩加減、茹で時間を変えます。これで、シラスの出来具合が大きく変わります。


◆第7の不思議◆ 
シラスの一番美味しい食べ方は?

 シラスのおいしいレシピ、玉子とじ、お吸い物・・etcたくさんあります。主観的な意見となってしまいますが、シラスは、そのまま食すのが一番!紀州名物茶粥(おかいさん)と山盛りのシラスに醤油をかけてガサガサとかき込めばこれにまさる食べ方は他にございません。

 シラスはクセが少なくあっさりとした味です。

獲れたてを新鮮なまま釜揚げしています。
ですから素材の味を楽しむのにはシンプルに食べるのが何たって一番です。
又、クセの少ない味ゆえに、毎日同じ食べ方をしてもアキがきません。
 少し干している太白チリメン、上干チリメンもせめて、大根おろしを付けて食べるにとどめて欲しいのが、偏屈のシラス評論家(自称)の意見です。


       シラス漁ってどんなの?
バッチ網を引くシラス漁船帰港するシラス漁船
2隻で網を引く常にペアで漁をする

 大きな魚は目の粗い網で取ります。
ではシラスはどんな網で取るでしょう?その通り目の細かい網で取ります。
この網はバッチ網と呼ばれ、その形が男性下着のモモヒキ(有田では、バッチと呼ばれる)に似ていることから、バッチ網と名前が付きました。
シラス漁は、このバッチ網を二隻の小型船で引っ張って行われ、新鮮なまま水揚げするための運搬船がもう一隻加わった三隻の船団を組んで行われます。

 この漁は、バッチ網の目が細かいためそれだけ水の抵抗も大きく、それを巻き取るウィンチも強力なものでなければなりません。

そのため、引き上げの時に少し間違えばたちまちウィンチに巻き込まれて、大怪我、最悪の場合は命を落とすことが多くあります。
このためシラス漁は特に危険な漁といわれています。 
 こんな危険を冒して収穫される湯浅湾のシラスは特に値打ちがあるのです。



2019年12月16日月曜日

官邸の力が強くなり過ぎた

20191213の夕方のことだ。

日本酒の種類
ネットから写真をお借りしました。

この30年近くも仕事やその他でお世話になった方が弊社に来られて、一杯飲むことになった。
それはそれは楽しい酒盛りだった。
我が陣営は老頭児(ろーとる)の私と建装担当の若武者、みんなで3人の肩肘(かたひじ)詰めての宴会でした。
思い出話(ばなし)から始まって、現業についての今の状態と今後の見通しやら、話題はアッチ行きコッチ行き、その内容は種々雑多、痛快丸(まる)被(かぶ)りだった。
東京オリンピックが我々の仕事にどのように影響するのだろうか。
前回の東京オリンピックが開催された日は、1964(昭和39)年の10月10日、私が高校生1年生だった。
「有色人種」国家における史上初のオリンピックと言われた。
閉会してからの数年間は、決して楽な商売をさせて貰えなかった。

そのささやかな宴会で話題になったのは、自民党内において、議案から法案立法等についてもっと論争があってもいいのではないか、人事問題でももっとアレヤコレヤと騒ぎ立てるほどの騒ぎがあってもいいのではないか。
ところが、自民党内は静寂平静安穏安楽、野党だって何をどう攻めていっていいのやら、策がない。
問題は「桜を観る会」疑惑だって、何が何やらさっぱり分らない状態で終わろうとしているのだろうか。

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宴もたけなわ、お世話になった人が仰るには、自民党が変なのは「菅義偉(すがよしひで)内閣官房長官のせいですよ、彼が何もかも滅茶苦茶にしちゃったんですよ」だった。
そう言われてみると、私は頭の整理がつかなくなって、こりゃ、明日にでもしっかり調べなくちゃイカンわ、そして、それを調べているのが今だ。

どうしても官邸特に総理総裁の力が強過ぎて面白くなく感じていた折、11月23日投函されたこの新聞を、すっぱりゴミ箱に捨てられなく、今まで残して置いたことを思い出した。
「内閣人事局」の暴走・爆走のことが書いてあった。
私が青年だった頃まで、自民党だって派閥抗争たけなわだったのに。
その派閥ごとの論争の成り行きが、私には面白かったと言えば叱られるだろうか。

この新聞記事のテーマは「題名は官邸の力が強くなり過ぎた」ことだった。
そこには、竹下内閣から村山内閣までの7内閣で内閣官房副長官を務めた石原信雄(いしはらのぶと)氏が、内閣人事局」が総理総裁を中心に人事権を強く握り過ぎてしまったとあった。
新聞記事の★2で内閣人事局と、小選挙区制が権限の一極集中化を、
ネット記事の★1で内閣人事局と菅内閣官房長官の行為を、
この2つで官邸が異常に強い力が発揮できるようになったことが解った。

お世話になった方は、よくぞ色々とお考えなのだ。

★1
「これまで官僚主導で行われてきた幹部の人事権を内閣人事局に一元化し、官邸主導で審議官級以上、約600名の人事を決定することになった。
何故か? それは、政権の意に沿わない官僚を、要職からパージできるフリーハンドを官邸が握るためだったのだ。
安倍官邸の方針に従った政策をする人物しか幹部に登用しないということを、霞が関に叩き込むためのものだ」(自民党ベテラン秘書)

内閣人事局の初代局長ポストをめぐっても、一波乱があった。
当初内定していた警察庁出身の杉田和博官房副長官(66年入庁)の人事が直前に撤回され、同じく官房副長官で政務担当の加藤勝信氏(旧大蔵省出身、当選4回)が抜擢されたのだ。
「杉田氏は周囲に『俺がなる』と吹聴していましたから、内定は間違いありません。
それをひっくり返したのは、菅義偉官房長官です。
お世話になった人が仰っているのは、これこそが、このような仕事を成し遂げた菅官房長官の仕事っぷりのことだろう。
官僚トップの杉田氏が霞が関の人事改革を担うのは、印象が悪い。
そこで、安倍総理の了承を得た上で、加藤氏の起用を決め、その結果、緒戦から『政治主導』を鮮烈に印象づけることに成功しました」 (官邸関係者)

ワッハッハと安倍首相、菅官房長官はバカ笑いしていたのでしょう。

安倍官邸が霞が関の聖域に手を突っ込んでくることを、官僚たちが手をこまねいて見ているはずがない。
財務省はすでに鉄壁の防御を張り巡らせている。


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20191123(土)の朝日新聞朝刊に出ていた記事をそのまま掲載させていただいた。

★2 官邸の力強くなりすぎた
    
元内閣官房副長官

石原信雄(いしはらのぶと)氏
1926年生まれ。
旧自治省事務次官を経て、87年に官僚トップの内閣官房副長官に就任。
竹下内閣から村山内閣まで7内閣で務めた。

今の内閣が長期にわたって安定しているのは、与党はもちろん国会、経済界も含めて色々な分野のニーズをバランスよく取り上げて実行しているからだ。

7年3ヶ月の官房副長官の経験を踏まえれば、内閣人事局ができ、内閣の指導力が強化されたことが要因として大きいだろう。

私が官房副長官ををしていた頃は、内閣の方針に各省を従わせることに大変苦労した。
幹部の人事権を各省が持っていたから、各省は自己主張し、官邸は報告を受ける立場だ。
自民党の族議員と同じ歩調を取り、公然と内閣の方針に反対する幹部も結構いた。

官房副長官を退任し、橋本龍太郎内閣の行政改革会議の時に「もう少し内閣の権限を強化すべきではないか」と意見した。
しかし、決まった形は私の想定以上に首相官邸の力が強くなった。
各省の幹部人事を官邸が掌握し、政策面も官邸の方針が通りやすくなったのは間違いない。

さはさりながら、総理総裁が長く続けられるかは、自民党内の力関係の影響が大きい。
かって政治が不安定だった理由は、自民党が割れていたから。
衆院は中選挙区制で派閥により考え方も違った。
(注)然(さ)は列(さ)り乍(なが)ら=意味は、それはそうだが

小選挙区制になると、選挙の公認権を持つ総理総裁や党幹事長の力が圧倒的に強くなり、派閥が力を持つ余地が少なくなった。
権限の一極集中は選挙制度の帰結。
現に党内で、「総理総裁を代えないといけない」という強烈な動きが起きていない。
官邸の中枢にいる安倍晋三首相と菅義偉官房長官のコンビで、大きな不満を生じないようにと、特定の利権に偏らないよう配慮していることもある。

官邸の力が非常に強くなると、一つの心配は、政権のやり方に不満を持つ国民の声が政権中枢に伝わりにくくなることだ。

政治家は、選挙を通じて国民の声を把握するが、全ての声が投票に反映されるかといえばそうとは限らない。
各省は、法律や政令を実行する実施部隊として国民と接触する。
行政の現場で国民のニーズを把握し、それが内閣に伝えられればいい。
でも、内閣の方針と違う意見だとどうしても伝えにくい。
「内閣が気を悪くするようなことは言わない方が無難」となり、忖度が起こる。

強い立場にある内閣がよほど胸襟を開こうとしないと、人事権を握られた役人はびびってしまう。
長期政権であるほど、そうならないように努力が必要だ。
内閣の方針と違った意見を言ったら人事でデメリットを受けるようなことはやっちゃいかん。

マスコミは批判すべきはするのが仕事。
官邸は聞く耳を持ってもらいたい。
問答無用になってはいかんということだ。
社会情勢の変化を把握し、現場の声をくみ上げる努力を常に心掛けて」もらいたい。

(聞き手・松山尚幹)

2019年12月13日金曜日

鳥に絆(ほだ)された3日間

201912の6日(金)、7日(土)、8日(日)の3日間のことだ。

私が、好んで好んで見つけた訳ではないが、どういう訳かこの3日間、鳥さまに縁のある日だったようだ。
まるで鳥に絆(ほだ)されたみたい。
鳥に取り付かれたようだと言えばいいのか。

飛ぶ鳥は大気や風の象徴であり、蝶や蛍とともに霊魂の似姿とされる。
なかなか、日頃の生活では馴染みのない表現だが、ネットで「似姿」を調べてみたら、かくの如しだった。
似姿とは、似せて作った像や絵。
ある人物の姿、顔形を写した像、または絵。
ざっくばらんに言わしてもらえれば、私の頭が鳥の羽に襲われたと言うことだろう。


コウノトリ
(コウノトリ)

6日は、コウノトリ編です。

コウノトリの飼育係として孵化作業に取り込んでいたが、なかなか実現できなかった。
ところが30年前、ソ連から贈られてきたコウノトリの卵から孵化に成功した人の話が6日の朝日新聞の天声人語にあった。
担当したのは松島興治郎(こうじろう)さん。
朝日新聞の天声人語は、私が高校生だった頃から、日々読まなくてはどうにもならなくなってしまった。
それは、高校を卒業したら何処かの大学には入学したいと思っていたが、脳が偏向している私にはサッカーと勉強を振り分けできなかった。
サッカー一辺倒がヤマオカの高校生活の唯一の生き方だった、そんなに秀抜な学校ではなかったのに。
そんな私だから、学校で習うことの勉強、予習、復習は無理だった。
ならば、できることだけをやる、、、、、国語に関しては新聞記事を読むことから全ては始まった。
「基礎力水準法」が私の受験用の憲法だった。
大学入試は、英語と日本史、国語で何とかやり抜きたいが、そのなかで古文、漢文の勉強は省く、現代国語は新聞を読み切る書き切る、最少限の感想文作成、ただそれだけが勉強の全てだった。
天声人語からは、作文の手練手管、文節(連節)の前後の遣り繰り、大中小節、言語(口語、文語)を特に学んだ。
日本史については、どんな問題が出題されようが、95点以上を採る。
英語は単語、熟語、原理原則の文法、日常会話、構文を憶える、それ以外は想像力。

今回の記事については、松島さんの努力について並々ならぬものがあった。
その内容の特集だ。
その詳しい内容については、後ろの天声人語の本文を読んでいただきたい。

「天声人語」より。
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20羽ほどのコウノトリがエサをついばみ、ゆったりと歩く。
歌舞伎役者の赤いくま取りを思わせる目もとが精悍(せいかん)である。
兵庫県豊岡市の県立コウノトリの郷(さけ)公園を歩いた。

いま兵庫や千葉など国内に推定273羽が生息する。
だが半世紀前はまさに絶滅寸前だった。
当時、豊岡市でただ一人の繁殖担当だった松島興治郎(こうじろう)さん(78)は「教本もなければノウハウもない。何度も投げ出したくなりました」と話す。

意外にも、望んだ職ではなかったという。
高校卒業後は農業とカバン製造の道へ進む。
だが高校時代に羽数調査に加わった縁で、恩師らに口説かれて住み込みの飼育員に。
捕獲したコウノトリは産卵こそすれ、ただの1個も孵化(ふか)しない。
破卵、無精卵、成長中止卵ばかりで途方にくれた。

「早くヒナを」。
周囲の期待がそのまま重圧と化した。
盆も正月も休めず、家族旅行も子どもの運動会もあきらめた。
それでも成果のあがらないまま20年余が過ぎた。
転機は1985年。
旧ソ連から6羽が贈られた。
育ててきた鳥たちと違い、農薬摂取がなく、栄養状態もよかった。
行けると確信した。
夢見た孵化が成功したのは89年、ちょうど30年前のことだ。
気がつけば47歳、元号は昭和から平成に変わっていた。

定年退職した松島さんだが、数年会わなくても鳥たちは羽を振って迎えてくれる。
「苦労が吹き飛びます」。
涙ぐむ姿にこちらの目頭も熱くなる。
この人の忍耐がなかったら、豊岡の空にコウノトリが戻る日はなかっただろう。



★「7日」は、白鳥(ハクチョウ)から。


白鳥(ハクチョウ)

7日(金)のTBSテレビの17時半の報道特集の後半部。
その番組「傷ついた白鳥見守る男性の思い 私は白鳥」を観た。
舞台は、冨山県富山市山本坊津山の田尻池、農業の溜め池だったところに40年ほど前から、その池の冬場に白鳥がやってきた。
その白鳥のなかに、羽を痛めて飛べなくなった1羽を見守り続けた男性のドクメンタリー。

毎年白鳥が来る池として富山市による駐車場やトイレなども整備されている。
高速道路で来るとインターを降りなくても北陸自動車道の呉羽パーキングに駐車したら、パーキングを出てから南方向へ歩いてほんの数分で着ける。
県内ではこの白鳥の飛来が冬の訪れを感じさせる一つの風物詩となっている。

無題

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白鳥の生息するシベリアは、9月になると気温が氷点下を下回り冬には最低気温ー30℃以下になるほどの極寒の地となる。
湖が凍ってしまうと、餌が獲れなくなってしまうため、遠路はるばる水面の凍らない北日本地域に越冬しに来る。

何羽もいる白鳥のなかに、足の部分が怪我をして苦しんでいる1羽、これがこの番組の大きな目玉になる。
この猛暑の夏をこの池で越せるのだろうか、春に仲間や家族と一緒に飛べ立てるだろうか。
4月というのに、飛び立てられない白鳥がいることを、男性は見つけた。
少しは飛び立ったものの、夏を越え9月になり、近くの田んぼへ移動するも再び田尻池に戻ってきた。
10月下旬、越冬のためオオハクチョウがこの地に戻って来た、それは家族や仲間との再会のため、そして生まれ故郷に帰るための準備であろう。

7ヶ月ぶりに、この田尻池に、越冬のために白鳥の群れが戻って来た。
問題の怪我をした白鳥だってそれなりに回復して、池の周りをみんなと飛べるだけになっていた。
が、一緒に仲間と一度飛んでも、長時間飛べる体力はなくなっていた。
怪我がそれほどに回復していなかったのだろうか。
男性には、怪我をした白鳥の親なのか兄弟姉妹なのか、1羽が一緒に飛ぶことがあって、そのシーンに深く感動した。

この男性が田尻池に生え茂った水草を、怪我した白鳥が喜んで呉れるかもしれないと、自ら鎌のような用具を持ってきて、その水草をそれなりに池の外に持ち出した。
ところが、近所の誰かさんから、余計なことをしないで欲しいと告げられた。
この男性は、そんなことに穢れることなく、負けることなく平気でいられた。
男性が、放送局のマイクに言うには、
「私は人間の形をしていますが白鳥です。白鳥が白鳥の世話をしているだけです」
表情は何処までも明るく、我が目と我が脳は白鳥に辿(たど)られた。



★8日は、永谷平戸川での渡り鳥見学。

散歩のノルマは休暇日は2万5千歩、勤務日は2万歩と決めていて、辛い日も楽勝の日があってもなんとか遣り遂げてきた。
8日は日曜日、休日の路程はきめていて自宅から東戸塚駅、戸塚駅、そこから折り返して国道1号線や旧東海道を通って自宅に帰ってくる。
それでぴったり2万歩になる。
残った5千歩は、愛しの畑・イーハトーブの往還でクリアーできる。

横浜新道の裏街道にある歌舞伎道祖神碑を必ず眺めることにしている。
今回もいつものように眺めて、双神像の男と女がいかにも相手を優しく眺め合っていることに感心した。
今日は好いお天気なので、私の心まで気持ち良く騒いでいた。

このコースで一度だけベンチに座って休むところがある。
戸塚駅の近くにあったダイエーは、今は解体され新しいビジネスに取りかかっている。
その現場の前に法事が行われるホールがあって、その玄関口に備えられたベンチで10分間使わせてもらう。
たった10分間なのに、足腰の疲れが不思議な加減でなくなってしまうことを憶えてしまった。
その界隈は、日本の自慢の会社が堂々と屹立していて立派な工業地帯を作っている。
戸塚駅から東海道1号線を自宅に向かって、平戸にやってきた。
いつものように国道を歩くのではなく、今日は川に沿って歩き出した。
通り越した橋には永谷平戸川と欄干に川名の付いた文字板が張られていた。
人かけらがなく、樹木が集まっている場所で、小便をさせてもらった、、、スマン。
散歩道を歩き出すと、遙か300メートルほど先に4人ばかりの群れが、川に視線を向けたままだった。
何についても興味深い私は、何じゃろう?と頭を傾げた。
そうすると、100メートル近くに近づくと、女性たち3人が群れから外れた。
一人のオジサンだけが現場に残り、その視線は微塵もせず、姿かたちも固定したまま。

視線を川面に向けたおじさんに、「渡り鳥がやってくるんですか、長く観ていられるようだが、どうなんですか?」と聞き出した。
「私は仕事をしているので、観に来られるのは日曜だけなんですよ。
だから、日曜日は午前中此処にいますよ。
此処の川にはいろんな人が来ますよ。
プロしか持ってないような、トンネルのような長い望遠鏡付のカメラを持って来る人もいるんですよ」。
このおじさんの横顔を見て、7日に観た田尻池の怪我をした白鳥を人間としてではなく、白鳥の身になって心配し、世話をやく男性のことを想い出していた。

あなたは何処から来たの?と聞かれたので戸塚駅とか何だかんだと言うとややこしくなるので、権太坂ですと応えた。
ああ、あの辺りからも此処にやって来る人は多いんですよ。

私には鳥について知識が無さ過ぎて、このおじさんにあれやこれや聞きそびれた。
しかし、おじさんは幾つかいる鳥の名前をなんだかんだと言ってはくれるが、私の頭には何も残らなかった。
ほんの少しでも知識があればこのおじさんとの会話は楽しかっただろう。
確かに鳥の種類と数の多さは、流石だと自覚した。


どうしたことだろう、この3日間は。
6日は天声人語で「コウノトリ」、7日はテレビの特集番組で「白鳥」、8日は私の散歩道で、名前も知らない数々の渡鳥たち。
自宅に戻って妻に、俺って感性の鈍い奴なんだろうな!
世の中には、こんなに面白いことがいつでもどこでも感じられるのに、この貴重な世の中を、「屁(へ)」みたいにしか思っていない俺は、アホなんだろうな!
そんなに悲観することはないよ、そんなことに気づいたあなたは幸せもんですよ、と返ってきた。
そうなんだろうか!!











2019年12月7日土曜日

面白かったぜ、12月3日(火)は!!

今日は私の休暇日。

雲一つない青空。

「いいお天気ですよ」、病気を抱えながらも苦にしない妻の元気な声が居間に響く。
来年1月の初めに横浜の立派な病院に入院予定だ。
今日はいいことだらケ、ウッハッハ、ゲーラゲラそんなことの多い日になりそうだ。
下記にて掲載させていただいた写真は、私が撮った以外は全てネットからいただきました。


今日の2万5千歩の散歩は和むぜ!!

好いお天気に感謝しながらやらなくてならないのはイの一番、2万5千歩の散歩だ。
休日は2万5千歩、勤務日は2万歩、これが常日頃の与えられたノルマの一つだ。
俺だってサボってはいられない、予定はしていたものの、そういう言葉を聴いてしまうと、矢庭に私の心は逸(はや)りだす。
2万5千歩の散歩なんて、義務だとか責務だとか苦肉を命じられた! そんな堅苦(かたぐる)しいものではない、私の生活の習性になってしまった。

「いいお天気ですよ」と何度も繰り返す、余程彼女は気分が好いのだろう。
「富士山と富士山の後ろの空が、私には神々(こうごう)しく見えるのですよ、今日の散歩は気分好いですよ」。
洗濯物を干す彼女の働き具合まで快活で、私を何処かに放り出したいのかと思われた。
無精者の俺だって、そりゃ、気分が好くなってきたモンダ。
東の空は朝焼けで、西方の低空には静かに白い月。

体が和(なご)むのだ。
お前、2万歩も歩いて心体が和むなんてそんなことってあるの? そんなことってないだらうと他人は思うかも知れないが、この和むという気分はまさしく私の個人的な感慨だ。
体がこの2万歩の快楽を憶えてしまった。
実にモノの見事に和むのだ。
健康な人には解ってもらえないかもしれないが、体を動かすことによってのみ、強靭な気楽さが生まれるのだ。
強制されたり、その言われたことを全うして得られる和みとはちょっと違う、静かな微笑の心までいただける不思議な和みなのだ。

自宅・権太坂ー旧東海道ー平戸町―上柏尾ー不動坂ー柏尾町ー元町ー戸塚駅
戸塚駅-JR横須賀線・東海道線の上りー阿久和川ー上矢部ー秋葉町ー前田町ー東戸塚ー権太坂・自宅
午後には愛しの畑・イーハトーブへの大根収穫、往還で2万6千歩。


女子高校生がカラスに襲われた。
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カラス

気持よく今日の2万5千歩を楽しもうと、7時半、自宅を出て500メートルほど進んだときのこと。
バス路には通勤通学の人たちが、これからの1日を覚悟しているような何食わぬ顔をして歩いていた。
私だって、他人の顔や仕種を気にしたことはない、いつものような光景なんだろう。
今日は火曜日なので、境木小学校と境木中学校の前を通り、境木地蔵尊の前に来たとき。
歩いている私の後ろから自転車が近づいて来た、乗り手が女性だろうと見向きもしないで感じていた。
私は私のこれからの散歩道、どこからどこを廻って帰って来れば、なんとか2万5千歩はクリアーできそうだと胸勘定、道先だけを想像していた。

そしたら、若い女の子が、大きな冷たい声で「ヒィアーアーー」と声を出したので、私は瞬間的に振り向いた。
彼女は自転車から降り、頭に乱れはないかと真剣に手で触っていた。
上空にはカラスが大きく羽を広げて、こちらを見ながら遠くへ飛んで行った。
人間どものバ~カたち、と言いたそうな顔立ちに見えた。
この高校生の頭には、長髪だからか、頭上の一番高い所に真ん丸く髪を纏めていて、そのボールのようなチンチクリンにカラスが興味を持って、突っついてきたのだ。
そのチンチクリンを赤いリビンで結んでいたのだろうか。
彼女は笑って、何もないように過ぎ去ってくれたから、私だって何もなかったように歩調を速めた。

半年前、私にだってよく似た経験はある。
出勤時、私たちの会社の側にある横浜ビジネスパークの空地を歩いている時、私の着ていた夏用のセーターの胸の部分の赤い柄に興味を持って、電信柱から私を目指してカラスが飛んできた。
私は私のできる範囲内で、怖い顔をしておっ放(ぱな)した。
噂でこのようなことは聞いてはいたが、自分がそのような標的になるとは想像もしなかった。
正直に話す、一瞬怖かった。



富士山の巻きです。


「富士山」の画像検索結果
上の写真は私のカメラで撮ったもの、感度が悪すぎて申し訳ない。
下はネットからいただいたもの。

そして、今度は名峰富士山だ。
静岡県と山梨県に跨(またが)る活火山、標高3776、24メートル。

妻の「いいお天気ですよ」の言葉通り、我が家の小さな庭から富士山が碧い空をバックに白い巨峰を見せていた。
我々が、夏に歩き出す10合目辺りからの冠雪、その姿が、それこそ日本代表の雄姿を見せてくれた。
2万5千歩の途中に東戸塚駅の界隈で、もっと裾野まで見られたら写真にでも収めようと、レベルの低いカメラをポケットに絞まった。
旧東海道をいつものように普通の顔をして歩いた。
だって、私に向って歩いてくる人たちは通勤通学生らで、そんな人たちに向って失礼な振る舞いはできません。
今日は12月3日、こんなに雪がたっつぷりの状態でも、テント泊で登りきった凄腕はいる。
11月中旬以降の富士山は、他の山の厳冬期に相当する。
氷化した斜面に強烈な烈風が吹き、滑落の危険はある、今年も何日か前に滑落した人が出て、その人の死体を発見していた。

私の大好きな太宰治が「富獄百景」で、「富士山には月見草が似合う」なんて気障(きざ)なことを言っていた。
これは太宰が29歳のときの生活を綴った私小説だ。
20代前半に華々しく文壇デビューしたものの、当時の太宰は私生活や作品づくりに問題を抱え、幼馴染の女性「初代さん」との自殺未遂の末、断筆に入ってしまった。
そんな中、浮上のきっかけを掴むべく恩師である井伏鱒二を頼って、山梨県の御坂峠にある天下茶屋を訪ねた。
その間に、石原美知子さんと見合いをしたそうだ。

ヤマオカさんよ、お前のブログで富士山のことを紡(つむ)ぐのはいいけれど、何でそこまで太宰治の話を書き込まなくてはならないだ、、、、、、。
それに対しては「スマン、これはしょうがないんだ」、、、、それだけだった。
それは私だけの問題ではなく、日本国全ての人に関心のある富士山なのだ



歌舞伎道祖神碑




国道一号線バイパス、保土ヶ谷区常盤台を起点に戸塚区上矢部町を終点とした通称横浜バイパス(横浜新道)。
私の休暇日の2万5千歩の通過路地はこのバイパスの横道を3千歩は歩くことになる。
横浜に45年前に自宅を構え仕事の根城にしてから、このバイパスを何回通ったことか。
通行料金も年々廉くなり、ついには無料になるでしょうと楽しみにしていたが、その夢は儚く消え、立派な有料道路として頑張っている。
何年か前に普通車が100円だったのが、タダではなく倍額200円になった。

私のブログではお得意の場外話(ばなし)になって申し訳ないが、このバイパスのことを吉田バイパスって言わなかったヶ。
吉田茂が東京から大磯の自宅に帰るには、従来の道では余りにも時間がかかり過ぎて、我が道用にこの道を作ることにしたと大磯の漁師から聞いたような気がするのですが、本当でしょうか。

そのバイパスの戸塚料金所の少し戸塚に寄った西側の旧道に面した崖にこの碑はあった。
何度も何度も、この旧道を歩いているのに、こんな碑があるなんて知らなかった。
大きな樹木と草の陰にあるので、気付かなかったのだ。
或る日、歩き疲れて前でも後ろでもなく、ふらっと横に聳える崖を見て気づいた。
そこにあった横浜観光協会が作った碑に書かれた文章は下に書き足したけれど、その内容がよく分らない。

上の碑に書かれていた文章を読み易いように書き換えた。
歌舞伎道祖神碑
寛政6年(1794)正月の建立、もとは付近の小丘の上に置かれていたが、横浜バイパスの建設にともなって丘が崩され、現在の場所に移されたものである。
柔らかな線で刻まれた双神像(浮彫り)碑が、宝輪を具えた大きな石室のなかに安置されている。
横浜市内でも稀れな堂々とした石造物である。
横浜観光協会

先ずは、双神像とは?
確かに神像は二つ作られていて肩を並べて座っていた。
浮き彫りとは、何もかもを同じ石一つから作り上げる彫法の一つなのだろう。
双神とは男と女、父と娘なのか母と息子なのか、その表情は安らかだった。
道祖神は、路傍の神である。
集落の境や村の中心、村内の村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。
宝輪とは像室の一番上の石で作られたもので、私にはこの像を守っているように見えたが、皆さんは如何かな?

ところで、この歌舞伎とはどういうことか像の傍で草を切っている人に聞くと、この歌舞伎はここよりも戸塚方面の近くに歌舞伎と名の付く村落があって、その地名をそのまま歌舞伎道祖神になったそうだ。
古式豊かなお芝居や舞踊とは関係ないらしい。

ところで寛政とはどんな時代だっけと思い直した。
学校の授業では、老中・松平定信が主導した1787年の「寛政改革」だ。
田沼意次政治と天明の大飢饉による世の中の大混乱に対して行った改革だ。


★メジロの始まり、はじまり。
画像  画像
メジロ             ウグイス

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スズメ

5日前の近所の横浜児童公園での散歩中で、不思議な2羽の鳥をみて、これは「ウグイス」だと直感した。
雀(すずめ)の群れのなかに、混ざっていたのだ。
2羽で仲良く遊ぶなんて、仲睦(むつ)まじく、その光景を見続ける私を幸せな気分にさしてくれた。
梅にウグイスと言われている、でもホーホケキョは聞こえてこなかった。
ところが、長く見続けても「ホーホケキョ」と大きな声でさえずらなかった。
この鳴き声を「日本三鳴鳥」と言うらしい、、、そんなことは初耳だ。
山梨県と福岡県の県鳥である。

ところが、今回旧東海道で見たのは7羽が集まりを作って遊んでいたので、ひょっとして、この鳥たちはウグイスではないかもしれんと思い、帰ってコンピューターで調べてみた。
肝心要(かんじんかなめ)の「ホーホケキョ」の鳴き声が聞けなかったからだ。
メジロと梅 筆絵

今回の稿は、「メジロ」とウグイスの違いコーナーだ。
改め、混同コーナーとも言おう。

ウグイスとメジロは、春を告げる鳥として親しまれてきたこともあって、時期的、場所的に重なるので、古くから混同されがちであっった。
今回は秋も終わって冬に入りかけている、そんなシーズンだからか、最初ははウグイスのことは思ったけれどメジロのことは思い浮かばなかった。
実際、この目で見たのはメジロだったようだ。

メジロは梅の花蜜を好み、早春には梅の花を求めて集まってくる。
また比較的警戒心が緩(ゆる)く、姿を観察されやすい。
いっぽう、梅が咲く頃によく通る声で囀(さえず)りはじめるウグイスは警戒心がとても強く、啼き声は聞かれても姿を現すことはあまりなく、藪の中から出ることは稀(まれ)である。
またウグイスは主に虫や木の実などを食べ、花蜜を吸うことはめったにない。

混同するのに「鶯(うぐいす)色」がある。
鶯色と言った際に、ウグイスの灰褐(はいかっ)色(オリーブ色に近い)を想像する人もいれば、メジロの緑色に近い色を想像する人もいる。
上の写真のように、2種の羽根の色には明らかに違いがあった。
私自身だって、最初に見た2羽と今回の7羽の、羽色についての違いを区別できなかった。
同時に観たわけではなかったからだ。
自宅で、ネットを見て読んで、何となく理解できた程度だ。


★大横綱の「大根」さんの始まり、はじまり。

イーハトーブの大根です。

愛しの畑・イーハトーブで午後の4時ごろ大根を収穫した、今日の最終の仕事だ。
私の所有している畑だけれど、一部を隣のオジサンと遠縁にあたるオジサンと私の3人が、一つの畑をなんとか場所を特定して楽しく農作業をしている。

人間が代われば心も当然、栽培する作物も育て方も何もかも変わるものだ。
遠縁のオジサンは畑仕事をかって勉強をしたようで、他の二人よりもレベルが高い。
使う場所を特定しているとは言え、不思議なもので、なんだかんだと自分と比較してしまう。
敗けず嫌いという、他人には言えない私の性分だ。
幾ら相手に知識があろうが、育て方を知っていようが、負けたくないと思ってしまう私の本分、これは繰り返すが私の性根なのだ。

写真の大根は、今回自宅に持ち帰った1本、そのものだ。
妻からは、大根の根っこそのものも有り難いが、葉っぱも楽しみにしているんですよ、と念を押された。
妻は大根を使っての「しらす」を作りたいよう、そのしらすについては後日説明させてもらいたい。
他にも、20本は根・葉とも立派な姿になっている。
遠縁のオジサンちの大根、お隣のオジサンの大根と比べて見て、大根そのものには引けを取らない状態で、それなりに満足している。
このように冷静に陳述はしてはいるが、ライバルなんですよと口が裂けても言えない。
それから、他の作物の様子見をして、隣のオジサンに挨拶して帰ることにした。

大根の根っこと葉っぱの料理については、みなさん、上手く説明すれば悔しくなるでしょうから今回は止めます。

他には、大蒜(にんにく)、春菊、蕪(かぶ)、人参、葱(ねぎ)、etcを耕作中ですが、野菜そのものの生育は順調です。


2019年12月3日火曜日

霧にむせぶ朝


ネットで得た霧の様子。


自宅の玄関先から南側に向かって撮った、朝6時ころ。

20191125(月)のゴミ出しの早朝、06:00のこと。

空は薄暗い雲に覆いかぶされ、ゴミの集積所までの道は暗かった。
朝一番の私の仕事が、妻が集めたゴミを集積所まで運ぶことだった、せめてこれ位は働かなくっちゃ。
雨は降っていないが、気分までどんより暗く、今日はどうしても気分の好い一日になりそうでなかった。
外気は霧に包まれて、100メートル先までは見えない、通る車だって、真夜中のように照明を点けている。
それでも良く見えていないのではと思われた。

こんな機会はそんなにあるとは思えなく、空(す)かさずカメラで自宅から南側、北側を何回も撮った。
レベルの低いカメラなので巧く撮れているか撮れていないかは解らなかった。
取り敢えず会社でコンピューターに入力してその成果をみてみよう、それで何とかしよう。

案の定、精度の悪いカメラなので、撮れたもののは感心できないものだった。
これならば、ヤマオカの実力不足のせいだからと諦めやすい。

それならば、霧とはなんじゃいな? とネットにお世話になった。
霧 - Wikipedia
霧(きり)とは、水蒸気を含んだ大気の温度が何らかの理由で下がり露点温度に達した際に、含まれていた水蒸気が小さな水粒となって空中に浮かんだ状態。

昼過ぎに私の愛(いと)しの畑・イーハトーブに定例の耕作のために出かけた。
自宅を出て暫らく歩くとJRを超える跨線人道橋があって、その橋の床面を見てその霜のようなものに驚いた。
床にはゴム製のマットが敷かれていて、そのマットの上には、白い幕のような霜が張っているように思えた。
私はすかさず、これは霜だと感じた。
霜だけれど、マットの下に土らしきものがないために、霜柱を立てることもできず、ただ、マットの上に寝そべっているしかなかったのだろう。
その上を歩くことだって慎重にならざるを得なかった。
白い露だってあるのかもしれないが、これは霜だ、だって白い幕のようだったから。

霜柱のことは、子供のころの田舎時代に嫌というほど付きあった、そして大学時代は所属していたサッカー部のグラウンドの周りの霜柱を愛した。
よって、幼少のころから霜柱に関してはそれなりの知識があった。

それじゃ霜とは、零度以下に冷えた物体の表面に、空気中の水蒸気が昇華(固体化)し、氷の結晶として堆積したものであるとネットで知った。

だから、朝一番の霧と霜を今日はお目にかかったことになる。



2019年12月2日月曜日

高麗大学(コリョ大学)との対抗戦

第55回早稲田大学・高麗大学定期交流戦
13:00~
早稲田大学東伏見サッカー場

朝起きて小さな庭から空を見上げた、雲ひとつない日本晴れだ。
この雲一つない空、紺碧の空から私は確信してしまった、好い試合が観られることを。
背丈ほどの高さの外気だって、清く澄んでいた。

早稲田大学が勝とうが負けようが、高麗大学が勝とうが負けようが、私がどんな予想を持っていようが、どんなことがあっても相手チームの関係者に言ってはいけない。
このことを、本日の禁句にしよう。
だが、私心の秘めどころに「当ったり前の、クラッカー」があった。
この台詞(せりふ)は、昭和35年前後の関西地区のテレビ番組などで、吉本新喜劇の小演劇でよくよく見せてくれたドラマでの定型句だった。

大馬鹿者になっちゃおしまいよ、それほど私はサッカー気違いではない。
サッカーに関しては攻守の相手に拘わらず、賛否を純粋に複合思考ができるのだ。
そんなことを心の奥にしまい込んで、何食わぬ顔をしてグラウンドに出かけよう。

早稲田大学、高麗大学の選手の皆さん、変則的な私の無礼をご勘弁ください。
このオジサンさん(ヤマオカさん)は、体の芯から芯までサッカーマンなんです。

本館


ネットで得た高麗大学の校舎です。

先週の23日(土)、専修大学に3-0で勝って、我が早稲田大学サッカー部(正式にはア式蹴球部)はなんとか1部リーグ残留ができた。
この勝利の喜びは、唯この1勝獲得だけでは済まされない飛び抜けた喜びがあった。
この試合は、どうしても勝ちたかった。

そして今回は韓国の高麗大学と早稲田大学との第55回目の定期交流戦だ。
後で試合の内容については、詳しくない報告で申し訳ないが、私の冒頭での紺碧の空の確信通りだった。
高らかに紺碧の空だった。

高麗大学はサッカーファンなら誰もが知っている韓国における最優秀校、韓国の大学リーグでも今年は3位の成績を残した強豪だ。
早稲田大学の姉妹校でもある。
話は少し外れるが、私の息子がお世話になった東京理科大とも姉妹校であると知った。

早稲田が訪韓、高麗大学が訪日を1年毎の年次交代で行ったり来たりした。
韓国代表のチームのなかには、何人もこの大学の卒業生がいる、その名簿を見て驚かされた。
私が卒業してから早や48年経つので、その7年前ころからスタートしたとすると、早稲田大学から日本代表が多く選ばれていた時代だろう。
きっと釜本邦茂さんが在学中なのかその少し前からだったことになる。
両校にとって誇り深く名誉ある定期交流戦になった。

私には技量が伴わなくて、まして国外の大学との定期交流戦なんて、どんなことが起ころうが出してもらえることはなかった、当(あ)ったり前のことざ。
だからか、当然私は瞠目、2回の高麗大学の訪日での試合は心に残る壮絶な試合だった。

4年生の部員としての期間が終わり、私は独りで韓国旅行をした。
下関から釜山までは名だたる関釜(かんぷ)フェリー、往復だったのか片道だったのか1万円だった、学生割引を使って9千円払っただけだ。
世にも珍しい貧乏学生のギリギリの貧困旅行だったのだ。
7日間の旅行で、持ち合わせたお金は10万円、それだけで何とか遣り繰りしなくてはならないと強い決意を持っていた。
学生みざりの姿形は私だけ、多くの人たちは大きな風呂敷にいっぱい荷物を入れて運んでいた、大きな荷物を担ぎこんでいる人、幾つかの荷物を大きな棒に乗せて肩に掛けている人、それぞれの人が仕事ながらの雰囲気だった。
私は小さな鞄に1週間の荷物をぐちゃぐちゃにぶち込んで行った。
サッカー部の同期に作ってもらった案内はよく理解しないまま、何とかなる、いつもの能天気発奮だ。
釜山駅の駅長さんは、国籍は解らないが島根県出身の人で、釜山の街の案内を日本語で教えてくれた、お陰で随分助かった。
当時、50歳以上の人は日本語を話せる人が多かった。
そしてオンドル。
泊まった旅館の室内の床はオンドル、または温突(おんとつ)で、その暖かさに吃驚した。
本来の形式は、台所の竈(かまど)で煮炊きしたときに発生する煙を居住空間の床下に通し、床を暖め部屋全体をも暖める設備だ。
一般の住宅ではどのように仕掛けているのか、じっくり確認したかった。
ソウル郊外の高麗大学のサッカー場も見てきたが誰も居ず、静観するだけだった。

本日(20191128)のこと、今、勤めている会社の社長に、いつもいつも我が儘(まま)言って申し訳ないのですが、土曜日の30日、休ませてもらいたいと具申した。
社長は、最近の私の仕事の調子について大きな希望を無くしているのは百も承知しているのだが、イイデスヨ、と歯切れのいい返答をしてくれた。
私71歳、社長60歳前後、長いお付き合いが幸を走したのだろう、決して「功を奏した」のではありません。
先週の土曜日は専修大学戦のため、今週の土曜日は高麗大学との第55回目の定期交流戦のためだ。
何と、自分勝手でいい加減な言い草に、恥かしい気概からすっぱり抜け切ったようだ。

今日の第55回早稲大学・高麗大学定期交流戦のことを知った3週間前のことだ。
早稲田大学ア式蹴球部のホームページを見て気づいた。
なんで、こんなに連絡が遅かったんだと事務局の者に話したら、実は韓国の大統領の周辺に問題があって、それも高麗大学にもその問題が波及していて、予定が立たなかったのですだった。
韓国の政争は、現在の15代文在寅(ムン・ジェイン)大統領が、9月10日に法務大臣を決めてから始まった。
問題は、韓国閣僚人事において、韓国式の権力闘争のなかで疑惑の人物・曹国(チョ・ゴク)法務部長官(法務大臣)のことだ。
この法務大臣には、次から次へと疑惑が持ち上がることを揶揄して「タマネギ男」と呼ばれている。
その法務大臣の息子さんが兵役逃れが5回あって、私自身何も知らないからここで確定的に書けないけれど、息子さんが通っている高麗大学でのことが大きな批判の的になっている。
よって、曹国(チョ・ゴク)法務大臣は辞任せざるを得なくなった。
それまでは、政争のことは私だって新聞やテレビの放映で知ってはいたが、高麗大学でも大騒ぎになって、サッカー部の早稲田大学との定期交流戦の予定を組める状態ではなかったらしい。
それで、組み手の早稲田大学でさえいつどのように用意していいか判断が付かなかったそうなのだ。
で、法務大臣は辞任し、やっと定期交流戦が実行できるようになって、年の瀬が迫るなか、今回の日時に決めることができたらしい。

9時半、自宅を出た。
いつものように蕎麦屋の三晃庵(社長さんはイっちゃん)に行く時間がなく、これも駅前の松屋で牛丼を食ってグラウンドに出かけた、12時半だった。

同期の工藤が、高麗大学のマネージャーと早稲田大学のマネージャーとの間を言ったり聞いたり、指示を出したりしていた。
彼は、今回の定期交流戦の事務局の責任者を任されている、と言っていた。
4年生は、先週の土曜日の1部リーグの「歴史的残留」を目指す専修大学との試合が在学中での最後の試合になった。
それで、4年生と関係者たちは東日本大震災の被災地に出かけ、地元の高校生や大学生とサッカーの親睦試合やお楽しみ稽古をするために、東北で過ごしている。
きっと彼らの顔は、笑顔に溢れて楽しかろう。
総監督の小柴さんに、「小柴、それはとんでもないイイ企画だよ、頑張って来い、楽しんでこい」と4日前に励ました。
「サッカー部には予算が無く結構苦労していると聞いていたので、その費用はどうなっているんだ」と工藤に聞いた。
「行った先は遠いけれど行程もそれなりに大変で、車中2泊旅館1泊ですよ、後のことは余り聞いていないんだよ」だった。
早稲田大学が何か無理をする時は、いっつもこの調子で無理、無理の大売り出しだ。

試合内容については、詳しく報告できない。
グラウンドに早い目に着いたものだから、清清(すがすが)しい風に靡(なび)かれながら、温かい日射を受けて、自身が心優しくなってしまったような気分で、ベンチでうっとりしてしまった。
そんな時間が30分ほどして、高麗大学の連中はどうしているんやろうと気づいたとき、グループを組んで高麗大学のサッカー部がやってきた。
黒い上下のトレーニングウェアー、上衣の背中の部分にKOREA UNIVと白字で書かれていた。
大きい身長、筋肉豊かな体躯、激しい動きでウォーミングアップ。

試合内容については、早稲田大学には嫌味に聞こえるかもしれないが、ひ弱にように見えた。
ところがどっこい、ホイッスルが鳴ってからの早稲田大学は、高麗大学に負けるどころか、私の目には十分、ボールに向かう攻めぎ合いで勝っていた。
相手の体の有利さなんて、何も感じさせなかった。
結果を急ごう、前半2-0、後半3-2、合計5-2で早稲田大学が高麗大学に勝った。
勝ったからこそ、こんな言い方は許されるのだろうが、高麗大学はこの得点差にがっかりしているように見えた。
逆に、早稲田大学は異状に張り切っているようで、この得点差は何が良かったのだろうか?
東日本大震災の被災地に行っている上級生や監督さんたちに、この試合そのものを見せてあげたかった。
そして、彼らの正直な感想が聞きたかった。

高麗大学には応援団らしい人はいなく、控えの選手たちが懸命に応援していた。
方(かた)や早稲田大学はというと、本部の反対側に6人が陣取り、試合の最初から終わるまで、早稲田大学の校歌や応援歌、自分らで作った応援歌をはちきれんばかりの声で、尽きることなく歌い続けた。
この元気印にも、よ~くやったと大いに感謝しなくてはならない。


★高麗大学の歴史をネットからお借りした文章で認めてもらいたい。
前身は1905年に設立された「普成専門学校」で、経営を引き継いだ金性洙により、第二次世界大戦後の1946年に総合大学として創設された。
李承晩政権下では学生運動が盛んだった。サムスングループ李健煕会長は、同大学の開校100周年記念館の建設のために41億円もの費用を寄付している。
早稲田大学とは姉妹校の関係である。
財界に多くの人材を輩出する一方、スポーツの名門としても知られる。
ソウル大学校日本統治時代帝国大学の一つである京城帝国大学を、延世大学校はアメリカ人によって設立されたキリスト教系大学を、成均館大学校王氏高麗李氏朝鮮時代の王立学舎である成均館を起源とするなかで、完全に民間の韓国人によって設立された高麗大は「民族高大」のスローガンとともに知られていたが、現在では「Global KU Frontier Spirit」を掲げ、学内のグローバル化に向けた改革を進めている。




昨年の定期交流戦を早稲田大学で作ってあるのをネットで知った。
皆さんにも読んでいただきたい。

早稲田大学・高麗大学 定期交流戦

8月1日、羽田空港を出発して2時間程度で金浦空港に到着しました。
高麗大学グラウンドで翌日の試合に備えて練習を行いました。ボール、ビブス、マーカー、スポーツドリンク等を用意していただき、定期戦用の横断幕も設置されていました。
練習後には大学の食堂で昼食をいただきました。プルコギ、キムチ、もやしナムルなど、韓国料理を美味しくいただきました。

2日は10時から定期戦が行われました。当初は14時からの予定でしたが、韓国でも歴史的猛暑のため試合開始時間を変更しました。
試合前、外池監督は高麗大学のエンブレムに描かれている虎のイメージを選手に問いました。「威嚇してくる」「攻撃的だ」その言葉通り、試合開始から高麗大学の選手は激しい身体のぶつかり合いを物ともせず、ゴールに迫ってきました。相手のプレスに臆することなく、サイドと中央を上手く使い分けることで徐々にペースを握ることができました。20分には岡田(4年・川崎フロンターレU-18出身)のクロスに直江(4年・早稲田実業高校出身)が頭で合わせて先制。35分には岡田の中盤からのスルーパスに抜け出した神山(3年・真岡高校出身)がドリブルで運んで冷戦にゴールに流し込み2点目。
後半は2点を失いながらも、集中力を切らさない高麗大学に立て続けに2失点してしまいました。後半37分、秋葉(4年・駒場高校出身)と千葉(3年・鹿島アントラーズユース出身)の投入により、流れを引き寄せるもチャンスを決め切れずに2対2の引き分けとなりました。

試合後のレセプションでは、先程の激しい試合が嘘だったかのように、両校の選手からは笑顔が溢れていました。8人席に両校の選手が4人ずつ混ざり合いながら会食をしました。お寿司も用意されており、些細な気遣いを感じました。
両校の主将挨拶は印象的でした。「アニョハセヨ.チョヌン オカダ ユウキ イムミダ.(こんにちは。私は岡田優希です。)」と、主将の岡田は覚えたての韓国語で話し始めました。高麗大学の主将は数年間、日本で暮らしており、流暢な日本語を話してくれました。通訳の方がいたのですが、自分で韓国語で話してから、日本語に訳すという姿は会場を温かく包み込んでくれました。

サッカーを介して、人と人が繋がる。言葉を完璧に分かり合えないながらも、お互いを理解しようとする、伝えようとする姿勢から、言葉だけでなく、心で繋がっていくような感覚を覚えました。
素晴らしい定期戦がこれからも続くように、来年は早稲田大学が高麗大学を「おもてなし」する番です。
カムサハムニダ.(ありがとうございました。)







4年 小笠原学

2019年11月27日水曜日

山茶花(さざんか)梅雨

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雨にぬれた山茶花の花
上下2枚とも山茶花(サザンカ)
山茶花は年内に咲くが、花のよく似た椿(ツバキ)の咲くのは年明けだ

出勤前、朝飯を食べて朝刊を読みながらテレビを観ていた。
テレビは、香港での激しく燃え盛る学生デモの様子が画面一面に映されていた。
このデモのなかで、24日に行われる区議会選挙が今後どのような結果になるか、興味たっぷりな報道もした。
それから、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇のタイ訪問での活躍ぷりが放映されて、タイが終われば日本に、長崎、広島、天皇、政界、東京スタジアム、上智大学、にやって来る。
日本でもきっと数々の人々に笑顔を、祈りをなさるのだろう、タイで温かく迎えられた教皇と住民との交わりが好感をもって放映された。

それから、天気予報が始まった。
気象予報士が今日から1週間の天気予報をやり出した。
この2,3日雨が続いている。
そして発したのが、この時期にこんなに雨が続くことを「山茶花(さざんか)梅雨」と言うんですよだった。
私には、この気象予報士が次に言うことが何か?なのか直感で解った。
秋から冬にかけて移動性高気圧が北に偏り、前線が本州南海上に停滞して梅雨時のような天候になることから発生する。
年によっては山茶花の咲く頃、晴天が多いはずの11月下旬から12月上旬、太平洋側では雨の日が多くなり、季節違いの長雨の感じになる。
この長雨が「山茶花梅雨」と呼ぶのだそうだ。
長雨は決して皆に喜ばれるどころか、時と場合によっては悲哀にむせぶ雨の感ありだ。
この「山茶花梅雨」の造語は1963(昭和38)年、大野義輝(元気象庁)さんが造語した。
『日常の気象事典』平塚和夫 著(平成12年)

この「山茶花梅雨」の言葉を聞いた時、気象予報士が山茶花梅雨の後に話そうとしていたこと、私の記憶=「菜種梅雨」が頭に浮んだ。
この際、日本における梅雨の一切をネットの力を借りて勉強しよう。
3月下旬から4月上旬にかけて、菜の花が咲く頃に連続する長雨のことだ。
花を咲かせようとする雨という意味で「催花(さいか)雨」とも呼ばれるという、これはネットで今回知ったことだ。

5月下旬からは本格的な「梅雨」だ。
50年前、私は湘南海岸沿いのプールで働いたが、その時には、この梅雨の出現をどれだけ恨んだか? 
会社でのお金の出入金には、十分子どもではなく、大人だった。

秋雨(あきさめ)とは、日本において8月後半頃から10月頃にかけて、降る長雨のこと。秋雨、秋霖(しゅうりん)、すすき梅雨ともいう。
この秋霖の「霖」を使った漢字に霖雨(りんう)があり、たまたま或る本で学んだ。
これは何日も降り続く長雨のことだ。

どの梅雨も地域によって時期に差がある。
1年間を梅雨で辿ってみれば、冬から春は菜種梅雨、春から夏は梅雨、夏と秋は秋雨や秋霖、秋から冬が山茶花梅雨です。

こんなに梅雨のことに拘(こだわ)って、一体全体ヤマオカさん何かあったの? 悲しいことでもあったの? と思われるだろうが、心身共々底の底まで健康でありますので、心配しないでくださいな!
嬉しかったことは。
先週の土曜日14:00~ 母校の大学のサッカー部が専修大学サッカー部に何とか3-0で勝って1部リーグに「歴史的残留」を成し遂げたことだ。
監督、総監督、コーチ、部員の皆さん、出場できた選手だけではなく応援に身を削っていた皆さん、おめでとう。
応援に来てくれた人たちにも感謝したい。
どこに居て何をしている関係者でも、この戦いを歴史的残留と思うだろう。
私は貧困なサッカー学生だった、それだけにこの思いは人並み以上だ。

悲しかったことは。
単に友情(先輩、後輩、同輩)だけではなく、唯の知り合いという関係(文化、演劇、同業)だけではない人を幾人も亡くしたことだ。
愛し愛された人と、もう会えないなんて、どうせ誰もが味わなくてはならないことだろうが、こんなに苦しいことはない。


2019年11月26日火曜日

W大の勝利に乾杯

20191123 14:00~
早稲田大学東伏見グラウンドにて、早稲田大学サッカー部(正式にはア式蹴球部)は専修大学サッカー部に3-0で勝った。




朝から雨が降り続けていたが、午前中に午後の試合を前に練習をしたらしい、こんな日のこんな雨どりなので、早稲田としては当然だったのだろう。
私だって、早朝布団から飛び出してからというものの、頭の中は早稲田のサッカー部のことだけを考えていた。
我が家の前がバス停なので、8時22分に乗るよと妻に言ったら、あんた何を言っているのよ、9時半だって十分だよ、と笑われた。
この貧しい拙宅にいつまでも居られないんだよ。
やっぱり、妻が言うように乗り合う電車の待ち時間がなく、思っている以上にグラウンドに着くのは早かった。
こんなに早く、総監督の小柴さんとの会合場所の蕎麦屋に行くよりも、雨の中をとぼとぼと散歩した。
何をやっているか分りはしないが、早稲田のスポーツ選手と思われる学生があっちこっちで目についた。
そんな何てことのない光景でも、チンプンカンプン、私の胸が騒ぎ出すのが可笑しかった。
裏道に廻ってみて、新しい料理店が出店しているのに驚いた。
工藤薬局だけは、昔の店装そのままで、周りに医院ができて、それなりに羽振りがいいと以前工藤は言っていた。
工藤薬局は、今日は勤労感謝の日だったので休み、金属製のシャッターで締められたままだった。


試合内容については、早稲田大学ア式蹴球部公式サイトからそのままを転載させてもらった。

この勝利については涙、涙の溢れる、唯、唯、嬉しいだけの勝利ではなかった。
1週間前に総監督の小柴さんに電話をして、暫く観戦に行けなかったが事情があったんだよ、と釈明して、今週の専修大学戦は観に行くからと報告した。
そしたら小柴さんから、「ヤマオカさん、今度の試合は大変なんですよ。最悪の最悪でも引き分け、どんなことがあっても勝ちたいんです。必ず来てください」だった。
それならば、俺は土曜日の仕事を休みにして行くから、あの蕎麦屋さんで11時15分に待っていてくれと指示を出した。
旨い物でも食って、彼を励ましたかった。
公式戦では、監督は試合始まりの1時間半までにはベンチに入らなければならないと言った。
この試合で早稲田が負けると、1部リーグから陥落せざるを得ない状況にいることを苦しそうに話した。
鍋焼き蕎麦を食いながら、特別話すことはない、ひたすら励ますだけだった。

三晃庵

この三晃庵は、西武新宿線東伏見駅北口、ロータリーの真ん前。
蕎麦屋の社長さんとは、50年以上のお付き合い、同期の工藤とは幼友達だ。
西武線の踏切のすぐ横のビルの1階、このビルも所有物だと聞いている。
鍋焼き蕎麦を食っても試合時間までは時間があったので、東伏見に住んでいる同期の工藤に電話して、今度は彼と彼の家の近くの喫茶店で、日頃の四方山話と早稲田の今の状況、他大学の調子を聞かせてもらった。
彼はカレーに野菜サラダ、私はアイスクリーム。
グラウンドでは、トンボで人工芝上の水を掃きだせるだけ掃き出していた。
私たちが現役の時代とグラウンドは大きく変わり果てている。
私の技量では、泥んこグチャグチャのグラウンドの方がやりやすかったが、それは私だけの話か。
総監督の小柴さんと昼飯を食ったときに、「小柴さん、攻撃のことはよく考えているでしょうが、守りについては絶対、小さなミスのないように選手に言っておいてくれよ」と念を押した。

試合内容は前半1-0、1点差で勝ってはいるものの、相手チームにも結構攻められた。
最後のストップを何とかやり遂げたが、心配ハラハラの前半だった。

ハーフタイムに総監督の小柴さんに会った時、「小柴さん、1-0ではアカン、1点差ならいつでも追いつかれるし、安易に抜かれてしまうことだってある」と話した。
「兎に角、先ずはもう1点採って、2点差にしてくれ」と雄叫びを上げると、解かってますと顔は明るかった。

後半2-0で勝てた。
後半も相手チームは必死の覚悟で攻めてきたが、早稲田は巧い具合に2点加算できた。
2点目を入れた段階で、私の弱虫根性の急所は緩んだ。

そして3-0でゲームは終わった。
総監督に、メールで「嬉しい気持ちで、横浜へ帰ります」と送信したら「ありがとうございました」と返信してきた。

冒頭部分で話した通り、今回の試合はタ・ダ・モ・ノではなかったからだろう、グラウンドの周りの応援団は双方共に、応援団の人数から応援の手法に手をかけ品をかけ、大騒ぎだった。
どんなことがあっても勝ちたい早稲田大学の応援団は、勿論我が校のグラウンドでもある、相手校・専修大学に気魄でも勝っていた。
応援団の人数が、専修大学が100人とすれば、早稲田大学は我々のような卒業生も入れれば5倍以上はいただろう。
グラウンドの周囲には、目を瞠るだけの大きな手製の看板がピッチに睨みを利(き)かせていた。
こんな光景を、この早稲田の東伏見のグラウンドで見るのは初めてだった。


JR東日本カップ2019 第93回関東大学サッカーリーグ

戦 1部  第22節 


vs専修大学

2019年11月23日(土) 14:00キックオフ @東伏見グラウンド vs専修大学
早稲田31 – 0
2 – 0
0専修
(36分)加藤 拓己
(79分)栗島 健太
(84分)金田 拓海
得点
警告・退場
28シュート6
2GK7
9CK3
9直接FK18
3間接FK1
0PK0
スターティングメンバー
POSNO.選手名
GK31上川 琢
DF2牧野 潤
DF3大桃 海斗
DF5杉山 耕二
DF6阿部 隼人
MF4鍬先 祐弥
MF7栗島 健太
MF10金田 拓海
MF25倉持 快
MF35梁 賢柱
FW9加藤 拓己
リザーブメンバー
POSNO.選手名
GK21千田 奎斗
DF12大里 優斗
DF41西前 一輝
MF27山下 雄大
FW11神山 皓亮
FW14藤沢 和也
FW23清水 駿
選手交代
OUTIN
71倉持 快神山 皓亮
86阿部 隼人大里 優斗
86加藤 拓己藤沢 和也

この試合の戦評

前節、関東リーグ王者明治大学を撃破し残留に望みをつなげた早稲田。引き分け以上で自力残留が決まる最終節は、専修大学との対戦である。もがき、苦しみ続けた今シーズン。
しかし「歴史的残留」を成し遂げるチャンスがそこにはある。
東伏見開催の最終節、部員一丸となって死力を尽くす。
前半立ち上がり、早稲田は再三にわたりセットプレーのチャンスを獲得するが、なかなかゴールに結びつけることができない。両者気迫のこもった攻防が繰り広げるも、時間の経過とともに早稲田が試合を優位に進める展開となる。35梁、25倉持が積極果敢に突破を試みシュートを放つなど、ゴールに迫るがあと一歩及ばない。
対する専修大も縦に鋭い攻撃を展開し早稲田ゴールを脅かすが、決定機を作らせない。
拮抗した状況が続く中、前半33分試合が動く。35梁のコーナーキックから3大桃がニアですらし、ファーで待ち構える9加藤がヘディングで叩き込み先制。
守備陣も集中力を切らさず、危なげない試合運びで前半を終える。
後半に入っても早稲田が試合の主導権を握る。
前半同様両サイドの突破に加え、裏への抜け出しから幾度となく決定機を迎えるも追加点を奪うことができない。
後半17分一瞬の隙をつかれ専修大の反撃を受ける。
専修大11に背後の抜け出しを許し、ピンチを迎えてしまう。
しかしGK上川がファインセーブ、残留に向けた執念を見せる。
後半26分、25倉持に代え11神山を投入し攻勢に打ってでる。
そして迎えた後半34分、6阿部のスルーパスに抜け出した7栗島がキーパをかわし、無人のゴールに流し込み待望の追加点を得る。
これで勢いに乗った早稲田は攻撃の手を緩めない。
後半39分、35梁のクロスを7栗島が折り返し、10金田拓が左足一閃。
これがゴール右隅に突き刺さり、残留を決定付ける3点目をあげる。
専修大も意地を見せ試合終盤、反撃を試みるも、早稲田はDFラインを中心に一瞬の隙も与えない。
早稲田は終了間際にチャンスを迎えるなど最後まで攻める姿勢を貫き、得点を許すことなく試合終了。
この瞬間に、「歴史的残留」が決まった。