2013年12月29日日曜日

望郷編その3、墓参り(1)

20131213、郷里に着いた。郷里の実家は、京都府綴喜郡宇治田原町南亥子だ。

私が生まれて育った家は、もうない。甥が数年前に新しく建て替えたので、ビカビカに大変身した。再建されたモダンなデザインの新築住宅を見たとき、こんな田舎にも、こんな住宅の波が押し寄せているのかと驚いた。でも、発注者の甥の年齢が40歳になったばかりと知れば、それほど驚くこともなかったのか。それにしても、住宅メーカーの商魂は逞しく、こんな田舎にまで販路を広げていた。

兄夫婦と甥夫婦に挨拶をして、妻が用意してくれたお供え物を仏壇の前に、父母、祖母に長いことご無沙汰していたことを、線香に火を点け手を合わせて詫びた。位牌を確かめていたら、父母や祖母と暮らした日々のことが走馬灯のように思い出された(陳腐な表現だ)。兄嫁が、よく墓参りに帰ってくれましたねえ、と喜んでくれた。気を病んで、闘病中の兄嫁は随分痩せて覚束ない足取りだったが、それでも笑顔で自らの療養生活について話してくれた。兄と仲良く、気ままに暮らして欲しい。

20131213同窓会、墓参り 022

祖母は昭和56年に86歳で、父と母は平成13年の3月に母が81歳で、12月に父が86歳で亡くなった。父母は、二人とも同じ所に癌ができて、母が亡くなって9ヵ月後に父も亡くなった。「お前のおっ母(か)あと親父(おやじ)は仲が良かったんだよ」と親戚の誰にも言われた。母の入院中、父は仕出し屋で作ってもらった特別な弁当を持って、毎日病院に通った。

祖母は名家の出身、厳しい人だった。若い頃に夫を病気で亡くし、長男を戦争で失い、次男である父を大黒柱に、狭い農地に頼る細々とした生活ゆえ、何かと厳しくせざるを得なかったのだろう。でも、私には優しいオバアチャンだった。一緒に風呂に入って糠(ぬか)袋で体をこすってくれたり、一緒の布団で寝たり、学校や遊びから家に帰ると、必ず、おやつを用意しておいてくれた。おやつは、お握りや、干し芋、干し柿、かき餅だった。おやつを食わないと夕飯までもたない。私が国語の教科書を読むのをよく聞いてくれた。仕事に忙しい父母は、私の勉強なんかには構っていられなかった。祖母の楽しみの一つは、毎年2月の奈良・東大寺のお水取りだった。もらってきた水でご飯を炊いて、無病息災を祈った。

晩年、足腰が弱って、その弱っていく足腰をこれ以上悪くならないように、杖をついて家先の庭から裏の農機具小屋まで、何度も往復していた。気丈夫だった。最期の介護は母が見事にこなした。祖母のお通夜、酔っ払って、冷たい亡き骸に添い寝をして夜を明かしたことを憶えている。当時は土葬だった。墓地までの長い道のりを、棺の前の部分を肩に紐をかけて下げた。この役割は私こそ担うべきだと思ったのだ。私が初めて味わう身内の死だった。

母は愛嬌のある人だった。私が人前でおどけると、そのオッチョコチョイは母譲りだと言われた。私が歌を歌うのを初めて聞いた人はその度外れた音痴に誰もが驚くのだが、その源泉が母にあることを知ったのは、母が町の公会堂で行われたNHKののど自慢大会の予選会において、見事な調子外れの歌唱力を披露して、大爆笑を得たことからだった。予選会にどうしても出たいと考えた母は出場の機会を逃すまいと、希望者の列の一番前に並んで受付を待ったそうだ。そんな母だから、皆からハナちゃんと親しまれていた。

母も野良仕事においては重要なスタッフだった。授業参観日に、真っ黒な顔に白粉(おしろい)をべったり縫って赤い口紅をつけた母が、教室の後ろの方で友人の母と楽しそうに話しているのを見かけて、驚いた。母の顔は日焼けて一年中真っ黒だった。それからは、先生からもらう学校行事を知らせるプリントを見せなくなった。母も何も言わなくなった。私が着る服やズボンは、二人の兄からのお下がりがほとんどで、ツギハギだらけだった。私は、それらの服を私なりには気に入っていた。祖母は「保にもきちんとした服を買ってやり」、と母に苦言を言っていた。特にツギハギの多かったズボンに慣れていたせいか、新しいズボンを身に着けるのが無性に気恥ずかしく、中学生の頃には、土埃を無理にこすり付けて一部汚してから、身につけるようになった。汚れたズボンを穿(は)いてこそ、私の精神は安定した

私が東京の学校へ行くのに、朝、実家を出ようとした時、母は珍しく真面目な顔をして近づいてきて言ったのは、「保、この家はお兄ちゃんがしっかりやってくれている。お前は東京へ行って、何をしても構わないけど、お兄ちゃんの顔に泥を塗るようなことだけはしないでくれ。お金持ちにならなくてもいい、偉くならなくてもいい、警察のお世話だけにはならないでくれ」、これが母からの私に対する、生涯たった一度だけの忠言だった。

父は頑張った。父は、戦争で亡くなった兄の代わりに、祖母から期待を背負わされた。その頑張りの成果は、父の死後、相続のための整理中に見つけた書類で驚かされた。戦争で働き手がいなくなった農家が手放さざるを得ない農地を買い増して、自分が百姓を始めた当初よりも、3倍以上の田畑に増やしたのだ。国が農地の購入を希望する農家のために、資金を融資することだけを目的とした金融機関を一時的に数行作ったようだ、国策だったと思う。聞いたことのない金融機関と債務者である父との金銭消費貸借契約や抵当権設定契約書が何枚も出てきた。

父の面目躍如たることの紹介をしておこう。父はどこかから情報を得てきたのか、耕運機の試作を友人の寺西鉄工所のオヤジとやりだした。半年間は野良仕事を終えての夜間の共同作業、出来上がった物は子どもの私にさえ上出来とは思えなかった、利便性には欠ける部分が多々あったけれども、走ることは走った。二人は嬉しそうに、眺めては走り、そして又眺めていた。不具合の修理ばかりで、実際に仕事で使っている光景の記憶がない。それから、数年後、井関農機や久保田鉄工が量販しだして、父らが作った耕運機は解体された。このような父の影響で、長兄は機械いじりの妙味を覚えたのだろう、中学生の兄が発動機のエンジン部分を一つひとつの部品にまでバラして、掃除をして元通りに組み立てた。近づくことを許されず、遠くから眺めていた。

それからの父は、少しお金を貯めては新しい農機具を買うのを楽しんだ。新製品を追いかける父を祖母は諌(いさ)めたけれど、父の勢いは止(とど)まらなかった。祖母は、言い張る父を説得できなかった。そのうち長兄が父の仕事をサポートをするようになった。この兄は、静かな笑みを常に絶えさず、早く大量に仕事のできる、規格外の、村一番の働き者になった。働く父の背中を見て育ったのだ。私はと言うと、故郷を離れるまで、いつまでも子ども扱いだった。

お酒は嫌いだったが、私がすすめるとお猪口(ちょこ)一杯だけは飲んだ。盆踊りの会場から、父を迎えに来てくれと電話が掛かってきて、私と母がリヤカーで迎えに行ったことがある。役員席で飲まされたのだ。ベロンベロンの態(てい)、よっぽど口汚く沢山飲んで酔っ払ったのだろう、とは町の誰もは思わない。帰途、リヤカーを曳く私たちは、踊る村人たちから面白可笑しくはやし立てられ、見送られた。狭い町のこと、父が酒に極端に弱いことを皆はよく知っていた。

私の妻はその度に批判するのだが、4人の子どもを連れて実家に帰ると、よお~く帰ってきてくれたと言っては、私の息子だけを抱いて、何処かへ居なくなってしまう。残された三人の娘は、あのジジイ、どうなってんの?と思ったことだろう。お前のところの子どもはみんなエエ子や、が口癖だった。

父母とニューディーランドへ行った。その後、父と私は息子が留学しているオーストラリアへも行った。父と息子、孫の三代にわたる男衆の珍道中は楽しかった。耳の遠くなった父の耳に、息子は手でラッパを作って交差点のど真ん中、オジイチャン、何食おうか?と声を掛け、嬉しそうに寿司だウドンだ、ソバだと答えていた。健啖家だった。しょっちゅうタバコを吸わないではいられないほどの狂〈愛)煙家で、オーストラリアは文化レベルが高い国で、人前では吸ってはいけないことになっているんだ、だからタバコを吸いながら歩いている人はいないでしょ、と説明して納得させても、たまに吸いながら歩いている人を見つけては、タモツ、あの人は吸っているでとニタッと微笑み、凄く吸いたそうな顔をした。私は人通りを避けてビルの隙間に連れて行き、ここならエエでしょう、と父が美味しそうに吸い終わるのを待った。

跡取りの長兄には厳しかったけれど、弟の私には優しい父だった。中学校を卒業してからの進路について、私が勝手に決めて、勝手に進めることに何も口出ししなかった。入学した高校も大学も、浪人していたことについても、卒業して入社した会社のことも、何も聞こうとはしなかった。信頼してくれていたのだろう。

翌日の14日、甥の嫁から受け取った線香を持って、菩提寺である宝国寺のお墓と伯父の戦没者慰霊塔に参った。長兄が山岡家の墓石を新しく建立してくれた。どこまでも頼りになる兄だ。

2013年12月28日土曜日

望郷篇、その2同窓会

同窓会

20131214(土) 19:00~  会場:魚定の2階(南にある魚屋さん)

今回の帰郷の目的の一つに、同窓会に出席することがあった。

この同窓会は、昭和23年に京都府綴喜郡宇治田原町の南地区で生まれ、地元の田原小学校と維孝館中学校を卒業した竹馬の友たちの集いだ。宇治田原町には他にもいくつかの地区があるが、維孝館中学校の同窓生150人のうち、3分の1程度が、この南地区で生まれた。今回は、その半分が出席したことになる。

65年間も狭い地域で住んでいるから、兄弟姉妹同然だ。交流が深まるのは当然。出席者は、近くの城陽市に嫁いだ人もいたけれど、私以外のみんなはこの宇治田原町で今も暮らしている。私は、初めての参加だ。実家に帰る度に訪れる大辻百貨店で、店番をしているハルエちゃんから、同窓会での楽しい話を聞かされ、早く一度は出席してみたいと考えていた。

幾星霜(いくせいそう)、皆の風貌は激変していたが、話し出せば、昔の思い出ばかり。今の仕事については、お互いに興味がないようだった。現在の状況を尋ねられたら、私はどのように話せばいいのか実のところ悩んでいた。激しい仕事の現実を話したら、きっと彼らは舌を巻いたことだろう。務めていた会社や役所を定年で辞めた者たちは、地元地域の役員さんになって世話役を担っている。

郵便屋さん、消防署の署長さん、茶問屋、バイク屋、百姓、マンションの管理業、某自動車会社の陸送の運転手、建材会社の社員、私は不動産屋。毎日会社に出勤して仕事をしているのは、男では2、3人だった。女性たちとももう少し話したかった。悔やまれる。

私のカメラに写された人のプライバシーは守られないことになっているので、そのままここに掲載させてもらう。あしからず。

 

20131213同窓会、墓参り 054 20131213同窓会、墓参り 041 20131213同窓会、墓参り 038  20131213同窓会、墓参り 039 20131213同窓会、墓参り 040 20131213同窓会、墓参り 055   20131213同窓会、墓参り 061

 

20131213同窓会、墓参り 05620131213同窓会、墓参り 042 20131213同窓会、墓参り 043 20131213同窓会、墓参り 044 20131213同窓会、墓参り 053

 

20131213同窓会、墓参り 062

2013年12月22日日曜日

望郷編その1、お月さま

20131212の深夜、横浜から観光バス会社=オー・ティー・ビーが主催する深夜バスで京都に、それから、寝屋川に住む大学時代の友人の銀さん宅で、奥さん手作りの温かい味噌汁をいただいて、待望の故郷、京都府綴喜郡宇治田原町に帰った。銀さんが車で送ってくれた。お世話になった人が亡くなってから、唯、仕事が忙しいと言うだけの理由で、長く墓参りをしていないことに気づいたのだ。父母、祖母、伯母と伯母の母? 伯父、妻の父。

中学校を卒業して一度も出席したことのない同窓会にも出席した。スケジュールを思いっきり調整した。

途中の浜名湖のサービスエリアで、トイレを済ませて眺めた湖上の月は優しかった。これって、誰かの顔に似ているなあとじっと眺めていたら、アンパンマンが浮かんだ。昨夕、横浜で眺めた月の光は穏やかだった。

そして翌日の13日、高校時代のサッカー部の後輩の家を出て、同窓会に向かう夜道で見た月は赤い月だった。同窓会の散会後、3人だけの2次会をやろうと、少し離れたスナックに連れてゆかれる車の窓から眺めた月は、冷たい夜を昼間のように明るく照らしていた。

高校生の頃、夜道を歩くときは何故か守屋浩の「僕は泣いちっち」をよく歌った。恋人を追いかけて行くわけではないが、きっと、東京にいるだろう、未だ見ぬ恋人との邂逅を夢見ていたのだ。その道を車で走りながら、昔のように私は口ずさんでいた。

僕の恋人 東京へ 行っちっち
僕の気持を 知りながら
なんで なんで なんで
どうして どうして どうして
東京がそんなに いいんだろう
僕は泣いちっち 横向いて泣いちっち
淋しい夜は いやだよ
僕も行こう あの娘の住んでる 東京へ

 

そこにきてこの記事だ。無粋な私のこの一両日の月のことを想った。

 

20131217

朝日・天声人語

忙しく年が暮れる師走の夜空を眺めて、「徒然草」の兼好法師が書いている。〈すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、二十日余りの空こそ、心ぼそきものなれ〉。現代語なら、荒涼とした月が寒々と澄んだ光を放つ二十日過ぎの空はもの寂しい、といったほどだ。

おぼろに潤む春の月。涼しく光る夏の月。さやかな秋の月。それらとは違って冬の月には凄(すご)みがある。今夜は晴れ間があれば、北風に磨かれたような満月が、きりりと空に浮かぶはずだ。

約400年前、自作した望遠鏡でガリレオが初めて観察した天体が、やはり冬の月だった。完全無欠で鏡のような球体と信じられていた表面に、幾多のクレーターを見つけた驚きを自著に記している。

そのガリレオも眺めたことがあったろうか、今では「虹の入江」と名のつく平原に、中国の無人探査機が着陸に成功した。米国と旧ソ連に続く3カ国目になる。ゆくゆくは人を送り込む計画というから、技術力は侮れない。

未来の資源への期待ゆえか、昨今、改めて月に目が注がれているという。科学の進歩とともに神話や俗説は葬られてきた。月の都はなく、地球から見えない裏側に結集して侵略をもくろむ異星人もいなかった。といって、地球人同士の縄張り争いになるようでは困る。

月夜のロマンからはほど遠く、「権益確保」なる言葉が登場する昨日の本紙記事だった。知ってか知らずか、手つかずのあばた面(づら)は天空で「寒けく澄める」光を静かに放っている。

2013年12月16日月曜日

社長さんは、早朝出勤がお好き

私は社長を約25年間、今の社長の中さんは丸4年だ。

二人でコンビを長く組んで会社を経営してきた。私には私なりの性情、習慣がある、中さんにも中さんの家庭の事情がある。そんな二人に共通しているのは、夜早く寝て朝早く目が覚めることだ。私が社長になった当初、寝つきが悪く、そのための催眠にと夕食時に酒を飲む習慣をつけてしまった。酔いの勢いで寝ついても、間もなく目が覚め、深夜に追い酒を飲むわけにはいかず、眠れぬならば起きだすしかないと、当時は未明に出勤していた。

夜早く寝れば朝早く目が覚めるのは、当然のことだ。この当然を良いことに、二人は朝早くから仕事をすることにしている。中さんも私も、摂食については真面目なので、きちんと自分の食事を済ませ、今は5時半夏は4時頃に待ち合わせをして、スタッフが検討中の物件の下見に出かけるのだ。私は自分だけの食事を作ればいいのだが、中さんの場合は家族全員の食事と息子の弁当も作るのだ。

早朝ならば、道は空(す)いていて車はすいすいと進む。効率よく見回れて仕事ははかどるのだが、その反動が午後の体調に現れる。11時前後に早飯(はやめし)を食い終わって1時間もすれば、急に睡魔に襲われる。体中の血液が胃袋に集中するらしい、脳の血液は薄々(うすうす)、持続可能な範囲すれすれだ。運転手の中さんは欠伸の連発に耐えながらハンドルを握る、私は申し訳ないと思いつつ、後部座席で、運転手さんへの配慮はそっちのけで熟睡に入る。

 このようなスケジュールをとった日に痛感することがある。24時間営業の牛丼屋ではなく、普通の地元のラーメン屋さんや食堂に入りたくても、我々のような早朝からの労働者には、店の開店時間が遅過ぎる。メジャーなレストランに金を落とすのが嫌なんだ。大体、開店時間は11時半か11時、二人とも、人並み以上に空腹に対する忍耐力が弱い。朝5時前に飯を食うので、通常の生活者よりも早く腹が減るのは当たり前。

そんな折、よく利用するラーメン屋さんの店頭に、今まで11時の開店だったのが、10時45分に早めたことを知らせるシールが張ってあって、二人はニンマリ、このラーメン屋の主(あるじ)は、よく解っている人だと感心した。主は、この15分の差に商売のネタが埋蔵されていることを見抜いたのだ。商魂たくましい。狙いは図星、11時前には多くの我々と同じ、早朝出勤労働者たちが目を血走らせて入ってくる。

私のマーケット調査は更に進む。

会社の近くのイオン系のスーパーマーケットでは、食料品売り場は7時から営業している。こちらの方でも、やはり、我々のような早起き仕事野郎が朝飯を漁(あさ)っていた。

そして先日、東京は渋谷のハチ公前で、お世話になっている人と夕方4時半に待ち合わせをして、一杯飲みながら話しましょうということになって、手ごろな酒場を探した。が、営業中の店はどこも五月蝿(うるさ)かった。静かそうな店は、どこも開店時間が6時以降ばかりだった。

そうだよなあ、俺たち年寄りは、朝が早いんだから、昼飯も早くなり、当然飲みたくなる時間も早くなるもんだよ、まだ居酒屋組合は、マーケットを調べ上げてないな、、、、、、。

2013年12月10日火曜日

堤清二さんの死に想う

 OSK201301130128.jpg

西武百貨店、西友、パルコを中心とした流通グループをセゾングループとして育てた。一方、辻井喬(つじい・たかし)のペンネームで作家・詩人としても活躍した堤清二さんが86歳で、25日に肝不全のために死去したことを知って、何故か、私がかって勤めた会社の社長で異母弟の堤義明氏のことも、併せて考えてしまった。

堤清二さんと堤義明氏、二人に欠けていたのは自らの企業グループ内に、自分の考えを理解して実行する人材、将来を見据えたグループを代表する後継者を育てられなかったことだろう。

画像

私は学校を卒業し、西武鉄道グループの中核会社のコクド(入社時は国土計画だった。社長は堤義明)に入社、9年7ヶ月勤めて、昭和57年(1981年)33歳で退社した。この会社の未来に失望したのだ。

国土計画ほどの大会社が、モノの見事に社員の人材育成をしないのには驚いた。チャンスも与えない。何を計画したくて、このような社名にしたのだろうか。内輪での人材育成に留(とど)まり、会社の将来の展望を見据えた人材を育てようとはしなかった。瑣末なことに、社長は会社をキリキリ舞いさせていた。オリンピック、体協、各冬季競技の団体役員などの公務は華々しかった。同期入社は40人足らず、前年もその後も体育会系と縁故関係を主力に採用して、各部門のスペシャリストを育てようとしなかった。個性的な人材を採用したにもかかわらず、平均化、イェスマンに仕立てた。個性を活かすのではなく殺す方に注力していた。社員の能力は、社長指示事項を従順に忠実にこなすこと、それだけを求めた。

会社の全ての指針が、社長からの指示事項で決まってしまうのだ。社長に異論を唱えられる人は居ない、怖かったのだ、袋叩きにあう、世にも不思議な会社だった。虚勢だけは大いに奮う裸の王様。幹部は虎の衣を借る狐。繰り返すが、そのことに失望したのだ。入社して退社するまで、家族友人の慶弔による欠勤を除いて、一日の病欠もしなかった。

この二人の父親は衆院議長にもなった堤康次郎だ。政治家としての彼よりも実業家としての方に刺激を受けた。この創業者には、異母兄弟が皆で何人居るのか、当の兄弟の一人と特に親しくされていた方から、本人さえその正確な人数を把握していなかったそうだよ、と教えられ、本当なんだからと聞かされても、本気で、そうなんですか、とは返答できなかった。10年も前の話ではない

若かりし頃は元共産党員。詩人や文化人としての辻井喬さんの活躍は誰もが認めるところであるが、この稿においては触れない。経営者としての堤清二さんは、大衆消費社会に、文化が付加価値になる文化資本主義を大きく花開かせ、70年代後半から80年代に、世界的にもまれな広告の黄金時代をもたらした=朝日新聞・文化、上野千鶴子氏。文化事業を経営に融合させる手法で、事業を拡大させていった。

その文化事業を経営に融合させる手法は、演劇や現代美術を取り込み、セゾン文化として発信、コピーライターやアートディレクターが文字や映像で表現した。その気運によってグループ会社のイメージを高め、小売業として売り上げを伸ばした。私が懇意にさせてもらっている某小劇団にも協力を惜しまなかった。

だが、インターコンチネンタルホテル買収から始まって、不動産や観光、ホテル事業の展開による金融機関からの多額の借入金による拡大路線がバブル崩壊で破綻、セゾングループは崩れた。

このような、文化的、カリスマ経営者の後釜は、グループ内では育たなかった。育てようとはしたのだろうが、無理だった。確かに、グループ内には彼の影響を受けた方や、感動社員の何人にもお会いしたが、グループを主導、主宰できるだけの後継者としては、誰もが無理だった。だが、身の退き際は潔かった。

堤義明氏も同じように、後継者を育てられなかった。転落のとば口になった原因は兎も角、コクド体制の崩壊は必然、自業自得だった。

業界は違えども、稀代(きたい)まれな異母兄弟の大経営者二人は、かくして経済界から去ったのでした。

 

 

20131128

朝日・天声人語

1980年前後、渋谷の公園通り界隈でよく遊んだものだった。西武百貨店の81年のコピー「不思議、大好き。」や翌年の「おいしい生活。」が時代の空気を彩っていた。モノから、情報へ。消費社会の変容を仕掛けた元セゾングループ代表の堤清二さんが亡くなった。

その仕事には常に文化が薫(かお)った。優れたクリエーターを集め、斬新な広告を繰り出す。劇場や美術館をつくる。芸術の発展と創造に抜群の貢献をしたと、音楽評論家の故吉田秀和さんは絶賛していた。頼りになるパトロンでもあったのだろう。

だが、消費社会は堤さんをも追い抜く。バブル絶頂の88年のコピーは「ほしいものが、ほしいわ。」だ。買い物には飽きた。欲望も萎(な)えた。人々の心変わりに、売り手が困り切っているようにも読めた。3年後、グループ代表からの引退を宣言する。

元は政治青年だったせいか、その方面の発言に遠慮がなかった。55年体制に幕引きせよと主張し、自社連立政権の役割に期待した。「個人」の尊重を説き、古くさい愛国心教育論を退けた。憲法の平和主義へのこだわりも再三語った。

回顧録『叙情と闘争』に、小学生のころ同級生に「妾(めかけ)の子」といじめられ、大げんかした話が出てくる。後年の反骨精神の源の一つだっただろうか。経営者として挫折を経験したが、詩人で作家の辻井喬(つじいたかし)として多くの著作を残し、健筆を貫いた。

〈思索せよ/旅に出よ/ただ一人〉。回顧録の最後に掲げられた短い詩の一節が、旅立ちに似合う。

2013年12月5日木曜日

墓参りに、郷里に向かう

経営の最前線から一歩後退して、経営責任者の中さんのサポートをする立場になって2年、気分に余裕ができたのか、望郷の懐(おも)いに度々駆られることがある。その懐いとは父母や祖母、若かりし頃の私を可愛がってくれた今は亡き人々のことだ。そして、この秋のお彼岸に墓参りを思いついた。が、仕事の都合で果たせなかった。

父母は16年ほど前、祖母は40年前に亡くなった。母が癌で亡くなった同じ年に父も癌で亡くなった。父は、棺の中の母に向かって、迎えに来てくれよと叫んだ。そんなことを言うものではない、と戒められても意に介しなかった。父の葬儀の日、親戚のおじさんたちに、よっぽど二人は仲が好かったんだねと冷やかされた。

墓参りを思いついてからは、何度も何度も、田舎での活気に溢れた生活を懐かしんでいる。懸命に野良仕事に精を出していた父母、留守を守り家事を担当していた祖母。母の毎年の藪入りに一緒に連れて行ってもらった際には、女主人の伯母と伯母の母(母の母)はいつも温かくもてなしてくれた。中学生のときから大学に行くように進めてくれた吉岡先生。酒を飲んだ勢いで、タモツ、タモツと大きな声で話しかけてくれた叔母の夫。そして、私と杯を交わすのを楽しみに、帰郷する私を待っていてくれた妻の父。彼らが、天界で私の墓参りを待っているような気がするのだ。

冬の夜、お湯割りの焼酎の酔いと仕事の疲れで、ボヤ~ンとしていると、田舎の風景が頭に浮かんでは消える。横浜の私の貧しい部屋の窓から、鷲峯山が吹き下ろす冬の冷たい風や、夏の田畑の草いきれ土の臭い、製茶工場の窓から新茶の香りが、漂ってくる。そんな気がするのだ。

タモツ少年は、真っ赤な夕焼けを背に、野原で牛の散歩をしている。紐を放たれた子牛は、草を食(は)む親牛の周りをじゃれている。父と母は、仕事の手を休めて私や牛たちを眺めている。

今度こそ、墓参りを決行しようと、20131212の深夜バスに乗って帰郷することにした。