西武百貨店、西友、パルコを中心とした流通グループをセゾングループとして育てた。一方、辻井喬(つじい・たかし)のペンネームで作家・詩人としても活躍した堤清二さんが86歳で、25日に肝不全のために死去したことを知って、何故か、私がかって勤めた会社の社長で異母弟の堤義明氏のことも、併せて考えてしまった。
堤清二さんと堤義明氏、二人に欠けていたのは自らの企業グループ内に、自分の考えを理解して実行する人材、将来を見据えたグループを代表する後継者を育てられなかったことだろう。
私は学校を卒業し、西武鉄道グループの中核会社のコクド(入社時は国土計画だった。社長は堤義明)に入社、9年7ヶ月勤めて、昭和57年(1981年)33歳で退社した。この会社の未来に失望したのだ。
国土計画ほどの大会社が、モノの見事に社員の人材育成をしないのには驚いた。チャンスも与えない。何を計画したくて、このような社名にしたのだろうか。内輪での人材育成に留(とど)まり、会社の将来の展望を見据えた人材を育てようとはしなかった。瑣末なことに、社長は会社をキリキリ舞いさせていた。オリンピック、体協、各冬季競技の団体役員などの公務は華々しかった。同期入社は40人足らず、前年もその後も体育会系と縁故関係を主力に採用して、各部門のスペシャリストを育てようとしなかった。個性的な人材を採用したにもかかわらず、平均化、イェスマンに仕立てた。個性を活かすのではなく殺す方に注力していた。社員の能力は、社長指示事項を従順に忠実にこなすこと、それだけを求めた。
会社の全ての指針が、社長からの指示事項で決まってしまうのだ。社長に異論を唱えられる人は居ない、怖かったのだ、袋叩きにあう、世にも不思議な会社だった。虚勢だけは大いに奮う裸の王様。幹部は虎の衣を借る狐。繰り返すが、そのことに失望したのだ。入社して退社するまで、家族友人の慶弔による欠勤を除いて、一日の病欠もしなかった。
この二人の父親は衆院議長にもなった堤康次郎だ。政治家としての彼よりも実業家としての方に刺激を受けた。この創業者には、異母兄弟が皆で何人居るのか、当の兄弟の一人と特に親しくされていた方から、本人さえその正確な人数を把握していなかったそうだよ、と教えられ、本当なんだからと聞かされても、本気で、そうなんですか、とは返答できなかった。10年も前の話ではない
若かりし頃は元共産党員。詩人や文化人としての辻井喬さんの活躍は誰もが認めるところであるが、この稿においては触れない。経営者としての堤清二さんは、大衆消費社会に、文化が付加価値になる文化資本主義を大きく花開かせ、70年代後半から80年代に、世界的にもまれな広告の黄金時代をもたらした=朝日新聞・文化、上野千鶴子氏。文化事業を経営に融合させる手法で、事業を拡大させていった。
その文化事業を経営に融合させる手法は、演劇や現代美術を取り込み、セゾン文化として発信、コピーライターやアートディレクターが文字や映像で表現した。その気運によってグループ会社のイメージを高め、小売業として売り上げを伸ばした。私が懇意にさせてもらっている某小劇団にも協力を惜しまなかった。
だが、インターコンチネンタルホテル買収から始まって、不動産や観光、ホテル事業の展開による金融機関からの多額の借入金による拡大路線がバブル崩壊で破綻、セゾングループは崩れた。
このような、文化的、カリスマ経営者の後釜は、グループ内では育たなかった。育てようとはしたのだろうが、無理だった。確かに、グループ内には彼の影響を受けた方や、感動社員の何人にもお会いしたが、グループを主導、主宰できるだけの後継者としては、誰もが無理だった。だが、身の退き際は潔かった。
堤義明氏も同じように、後継者を育てられなかった。転落のとば口になった原因は兎も角、コクド体制の崩壊は必然、自業自得だった。
業界は違えども、稀代(きたい)まれな異母兄弟の大経営者二人は、かくして経済界から去ったのでした。
20131128
朝日・天声人語
1980年前後、渋谷の公園通り界隈でよく遊んだものだった。西武百貨店の81年のコピー「不思議、大好き。」や翌年の「おいしい生活。」が時代の空気を彩っていた。モノから、情報へ。消費社会の変容を仕掛けた元セゾングループ代表の堤清二さんが亡くなった。
その仕事には常に文化が薫(かお)った。優れたクリエーターを集め、斬新な広告を繰り出す。劇場や美術館をつくる。芸術の発展と創造に抜群の貢献をしたと、音楽評論家の故吉田秀和さんは絶賛していた。頼りになるパトロンでもあったのだろう。
だが、消費社会は堤さんをも追い抜く。バブル絶頂の88年のコピーは「ほしいものが、ほしいわ。」だ。買い物には飽きた。欲望も萎(な)えた。人々の心変わりに、売り手が困り切っているようにも読めた。3年後、グループ代表からの引退を宣言する。
元は政治青年だったせいか、その方面の発言に遠慮がなかった。55年体制に幕引きせよと主張し、自社連立政権の役割に期待した。「個人」の尊重を説き、古くさい愛国心教育論を退けた。憲法の平和主義へのこだわりも再三語った。
回顧録『叙情と闘争』に、小学生のころ同級生に「妾(めかけ)の子」といじめられ、大げんかした話が出てくる。後年の反骨精神の源の一つだっただろうか。経営者として挫折を経験したが、詩人で作家の辻井喬(つじいたかし)として多くの著作を残し、健筆を貫いた。
〈思索せよ/旅に出よ/ただ一人〉。回顧録の最後に掲げられた短い詩の一節が、旅立ちに似合う。