20131213、郷里に着いた。郷里の実家は、京都府綴喜郡宇治田原町南亥子だ。
私が生まれて育った家は、もうない。甥が数年前に新しく建て替えたので、ビカビカに大変身した。再建されたモダンなデザインの新築住宅を見たとき、こんな田舎にも、こんな住宅の波が押し寄せているのかと驚いた。でも、発注者の甥の年齢が40歳になったばかりと知れば、それほど驚くこともなかったのか。それにしても、住宅メーカーの商魂は逞しく、こんな田舎にまで販路を広げていた。
兄夫婦と甥夫婦に挨拶をして、妻が用意してくれたお供え物を仏壇の前に、父母、祖母に長いことご無沙汰していたことを、線香に火を点け手を合わせて詫びた。位牌を確かめていたら、父母や祖母と暮らした日々のことが走馬灯のように思い出された(陳腐な表現だ)。兄嫁が、よく墓参りに帰ってくれましたねえ、と喜んでくれた。気を病んで、闘病中の兄嫁は随分痩せて覚束ない足取りだったが、それでも笑顔で自らの療養生活について話してくれた。兄と仲良く、気ままに暮らして欲しい。
祖母は昭和56年に86歳で、父と母は平成13年の3月に母が81歳で、12月に父が86歳で亡くなった。父母は、二人とも同じ所に癌ができて、母が亡くなって9ヵ月後に父も亡くなった。「お前のおっ母(か)あと親父(おやじ)は仲が良かったんだよ」と親戚の誰にも言われた。母の入院中、父は仕出し屋で作ってもらった特別な弁当を持って、毎日病院に通った。
祖母は名家の出身、厳しい人だった。若い頃に夫を病気で亡くし、長男を戦争で失い、次男である父を大黒柱に、狭い農地に頼る細々とした生活ゆえ、何かと厳しくせざるを得なかったのだろう。でも、私には優しいオバアチャンだった。一緒に風呂に入って糠(ぬか)袋で体をこすってくれたり、一緒の布団で寝たり、学校や遊びから家に帰ると、必ず、おやつを用意しておいてくれた。おやつは、お握りや、干し芋、干し柿、かき餅だった。おやつを食わないと夕飯までもたない。私が国語の教科書を読むのをよく聞いてくれた。仕事に忙しい父母は、私の勉強なんかには構っていられなかった。祖母の楽しみの一つは、毎年2月の奈良・東大寺のお水取りだった。もらってきた水でご飯を炊いて、無病息災を祈った。
晩年、足腰が弱って、その弱っていく足腰をこれ以上悪くならないように、杖をついて家先の庭から裏の農機具小屋まで、何度も往復していた。気丈夫だった。最期の介護は母が見事にこなした。祖母のお通夜、酔っ払って、冷たい亡き骸に添い寝をして夜を明かしたことを憶えている。当時は土葬だった。墓地までの長い道のりを、棺の前の部分を肩に紐をかけて下げた。この役割は私こそ担うべきだと思ったのだ。私が初めて味わう身内の死だった。
母は愛嬌のある人だった。私が人前でおどけると、そのオッチョコチョイは母譲りだと言われた。私が歌を歌うのを初めて聞いた人はその度外れた音痴に誰もが驚くのだが、その源泉が母にあることを知ったのは、母が町の公会堂で行われたNHKののど自慢大会の予選会において、見事な調子外れの歌唱力を披露して、大爆笑を得たことからだった。予選会にどうしても出たいと考えた母は出場の機会を逃すまいと、希望者の列の一番前に並んで受付を待ったそうだ。そんな母だから、皆からハナちゃんと親しまれていた。
母も野良仕事においては重要なスタッフだった。授業参観日に、真っ黒な顔に白粉(おしろい)をべったり縫って赤い口紅をつけた母が、教室の後ろの方で友人の母と楽しそうに話しているのを見かけて、驚いた。母の顔は日焼けて一年中真っ黒だった。それからは、先生からもらう学校行事を知らせるプリントを見せなくなった。母も何も言わなくなった。私が着る服やズボンは、二人の兄からのお下がりがほとんどで、ツギハギだらけだった。私は、それらの服を私なりには気に入っていた。祖母は「保にもきちんとした服を買ってやり」、と母に苦言を言っていた。特にツギハギの多かったズボンに慣れていたせいか、新しいズボンを身に着けるのが無性に気恥ずかしく、中学生の頃には、土埃を無理にこすり付けて一部汚してから、身につけるようになった。汚れたズボンを穿(は)いてこそ、私の精神は安定した。
私が東京の学校へ行くのに、朝、実家を出ようとした時、母は珍しく真面目な顔をして近づいてきて言ったのは、「保、この家はお兄ちゃんがしっかりやってくれている。お前は東京へ行って、何をしても構わないけど、お兄ちゃんの顔に泥を塗るようなことだけはしないでくれ。お金持ちにならなくてもいい、偉くならなくてもいい、警察のお世話だけにはならないでくれ」、これが母からの私に対する、生涯たった一度だけの忠言だった。
父は頑張った。父は、戦争で亡くなった兄の代わりに、祖母から期待を背負わされた。その頑張りの成果は、父の死後、相続のための整理中に見つけた書類で驚かされた。戦争で働き手がいなくなった農家が手放さざるを得ない農地を買い増して、自分が百姓を始めた当初よりも、3倍以上の田畑に増やしたのだ。国が農地の購入を希望する農家のために、資金を融資することだけを目的とした金融機関を一時的に数行作ったようだ、国策だったと思う。聞いたことのない金融機関と債務者である父との金銭消費貸借契約や抵当権設定契約書が何枚も出てきた。
父の面目躍如たることの紹介をしておこう。父はどこかから情報を得てきたのか、耕運機の試作を友人の寺西鉄工所のオヤジとやりだした。半年間は野良仕事を終えての夜間の共同作業、出来上がった物は子どもの私にさえ上出来とは思えなかった、利便性には欠ける部分が多々あったけれども、走ることは走った。二人は嬉しそうに、眺めては走り、そして又眺めていた。不具合の修理ばかりで、実際に仕事で使っている光景の記憶がない。それから、数年後、井関農機や久保田鉄工が量販しだして、父らが作った耕運機は解体された。このような父の影響で、長兄は機械いじりの妙味を覚えたのだろう、中学生の兄が発動機のエンジン部分を一つひとつの部品にまでバラして、掃除をして元通りに組み立てた。近づくことを許されず、遠くから眺めていた。
それからの父は、少しお金を貯めては新しい農機具を買うのを楽しんだ。新製品を追いかける父を祖母は諌(いさ)めたけれど、父の勢いは止(とど)まらなかった。祖母は、言い張る父を説得できなかった。そのうち長兄が父の仕事をサポートをするようになった。この兄は、静かな笑みを常に絶えさず、早く大量に仕事のできる、規格外の、村一番の働き者になった。働く父の背中を見て育ったのだ。私はと言うと、故郷を離れるまで、いつまでも子ども扱いだった。
お酒は嫌いだったが、私がすすめるとお猪口(ちょこ)一杯だけは飲んだ。盆踊りの会場から、父を迎えに来てくれと電話が掛かってきて、私と母がリヤカーで迎えに行ったことがある。役員席で飲まされたのだ。ベロンベロンの態(てい)、よっぽど口汚く沢山飲んで酔っ払ったのだろう、とは町の誰もは思わない。帰途、リヤカーを曳く私たちは、踊る村人たちから面白可笑しくはやし立てられ、見送られた。狭い町のこと、父が酒に極端に弱いことを皆はよく知っていた。
私の妻はその度に批判するのだが、4人の子どもを連れて実家に帰ると、よお~く帰ってきてくれたと言っては、私の息子だけを抱いて、何処かへ居なくなってしまう。残された三人の娘は、あのジジイ、どうなってんの?と思ったことだろう。お前のところの子どもはみんなエエ子や、が口癖だった。
父母とニューディーランドへ行った。その後、父と私は息子が留学しているオーストラリアへも行った。父と息子、孫の三代にわたる男衆の珍道中は楽しかった。耳の遠くなった父の耳に、息子は手でラッパを作って交差点のど真ん中、オジイチャン、何食おうか?と声を掛け、嬉しそうに寿司だウドンだ、ソバだと答えていた。健啖家だった。しょっちゅうタバコを吸わないではいられないほどの狂〈愛)煙家で、オーストラリアは文化レベルが高い国で、人前では吸ってはいけないことになっているんだ、だからタバコを吸いながら歩いている人はいないでしょ、と説明して納得させても、たまに吸いながら歩いている人を見つけては、タモツ、あの人は吸っているでとニタッと微笑み、凄く吸いたそうな顔をした。私は人通りを避けてビルの隙間に連れて行き、ここならエエでしょう、と父が美味しそうに吸い終わるのを待った。
跡取りの長兄には厳しかったけれど、弟の私には優しい父だった。中学校を卒業してからの進路について、私が勝手に決めて、勝手に進めることに何も口出ししなかった。入学した高校も大学も、浪人していたことについても、卒業して入社した会社のことも、何も聞こうとはしなかった。信頼してくれていたのだろう。
翌日の14日、甥の嫁から受け取った線香を持って、菩提寺である宝国寺のお墓と伯父の戦没者慰霊塔に参った。長兄が山岡家の墓石を新しく建立してくれた。どこまでも頼りになる兄だ。