2013年12月29日日曜日

望郷編その3、墓参り(1)

20131213、郷里に着いた。郷里の実家は、京都府綴喜郡宇治田原町南亥子だ。

私が生まれて育った家は、もうない。甥が数年前に新しく建て替えたので、ビカビカに大変身した。再建されたモダンなデザインの新築住宅を見たとき、こんな田舎にも、こんな住宅の波が押し寄せているのかと驚いた。でも、発注者の甥の年齢が40歳になったばかりと知れば、それほど驚くこともなかったのか。それにしても、住宅メーカーの商魂は逞しく、こんな田舎にまで販路を広げていた。

兄夫婦と甥夫婦に挨拶をして、妻が用意してくれたお供え物を仏壇の前に、父母、祖母に長いことご無沙汰していたことを、線香に火を点け手を合わせて詫びた。位牌を確かめていたら、父母や祖母と暮らした日々のことが走馬灯のように思い出された(陳腐な表現だ)。兄嫁が、よく墓参りに帰ってくれましたねえ、と喜んでくれた。気を病んで、闘病中の兄嫁は随分痩せて覚束ない足取りだったが、それでも笑顔で自らの療養生活について話してくれた。兄と仲良く、気ままに暮らして欲しい。

20131213同窓会、墓参り 022

祖母は昭和56年に86歳で、父と母は平成13年の3月に母が81歳で、12月に父が86歳で亡くなった。父母は、二人とも同じ所に癌ができて、母が亡くなって9ヵ月後に父も亡くなった。「お前のおっ母(か)あと親父(おやじ)は仲が良かったんだよ」と親戚の誰にも言われた。母の入院中、父は仕出し屋で作ってもらった特別な弁当を持って、毎日病院に通った。

祖母は名家の出身、厳しい人だった。若い頃に夫を病気で亡くし、長男を戦争で失い、次男である父を大黒柱に、狭い農地に頼る細々とした生活ゆえ、何かと厳しくせざるを得なかったのだろう。でも、私には優しいオバアチャンだった。一緒に風呂に入って糠(ぬか)袋で体をこすってくれたり、一緒の布団で寝たり、学校や遊びから家に帰ると、必ず、おやつを用意しておいてくれた。おやつは、お握りや、干し芋、干し柿、かき餅だった。おやつを食わないと夕飯までもたない。私が国語の教科書を読むのをよく聞いてくれた。仕事に忙しい父母は、私の勉強なんかには構っていられなかった。祖母の楽しみの一つは、毎年2月の奈良・東大寺のお水取りだった。もらってきた水でご飯を炊いて、無病息災を祈った。

晩年、足腰が弱って、その弱っていく足腰をこれ以上悪くならないように、杖をついて家先の庭から裏の農機具小屋まで、何度も往復していた。気丈夫だった。最期の介護は母が見事にこなした。祖母のお通夜、酔っ払って、冷たい亡き骸に添い寝をして夜を明かしたことを憶えている。当時は土葬だった。墓地までの長い道のりを、棺の前の部分を肩に紐をかけて下げた。この役割は私こそ担うべきだと思ったのだ。私が初めて味わう身内の死だった。

母は愛嬌のある人だった。私が人前でおどけると、そのオッチョコチョイは母譲りだと言われた。私が歌を歌うのを初めて聞いた人はその度外れた音痴に誰もが驚くのだが、その源泉が母にあることを知ったのは、母が町の公会堂で行われたNHKののど自慢大会の予選会において、見事な調子外れの歌唱力を披露して、大爆笑を得たことからだった。予選会にどうしても出たいと考えた母は出場の機会を逃すまいと、希望者の列の一番前に並んで受付を待ったそうだ。そんな母だから、皆からハナちゃんと親しまれていた。

母も野良仕事においては重要なスタッフだった。授業参観日に、真っ黒な顔に白粉(おしろい)をべったり縫って赤い口紅をつけた母が、教室の後ろの方で友人の母と楽しそうに話しているのを見かけて、驚いた。母の顔は日焼けて一年中真っ黒だった。それからは、先生からもらう学校行事を知らせるプリントを見せなくなった。母も何も言わなくなった。私が着る服やズボンは、二人の兄からのお下がりがほとんどで、ツギハギだらけだった。私は、それらの服を私なりには気に入っていた。祖母は「保にもきちんとした服を買ってやり」、と母に苦言を言っていた。特にツギハギの多かったズボンに慣れていたせいか、新しいズボンを身に着けるのが無性に気恥ずかしく、中学生の頃には、土埃を無理にこすり付けて一部汚してから、身につけるようになった。汚れたズボンを穿(は)いてこそ、私の精神は安定した

私が東京の学校へ行くのに、朝、実家を出ようとした時、母は珍しく真面目な顔をして近づいてきて言ったのは、「保、この家はお兄ちゃんがしっかりやってくれている。お前は東京へ行って、何をしても構わないけど、お兄ちゃんの顔に泥を塗るようなことだけはしないでくれ。お金持ちにならなくてもいい、偉くならなくてもいい、警察のお世話だけにはならないでくれ」、これが母からの私に対する、生涯たった一度だけの忠言だった。

父は頑張った。父は、戦争で亡くなった兄の代わりに、祖母から期待を背負わされた。その頑張りの成果は、父の死後、相続のための整理中に見つけた書類で驚かされた。戦争で働き手がいなくなった農家が手放さざるを得ない農地を買い増して、自分が百姓を始めた当初よりも、3倍以上の田畑に増やしたのだ。国が農地の購入を希望する農家のために、資金を融資することだけを目的とした金融機関を一時的に数行作ったようだ、国策だったと思う。聞いたことのない金融機関と債務者である父との金銭消費貸借契約や抵当権設定契約書が何枚も出てきた。

父の面目躍如たることの紹介をしておこう。父はどこかから情報を得てきたのか、耕運機の試作を友人の寺西鉄工所のオヤジとやりだした。半年間は野良仕事を終えての夜間の共同作業、出来上がった物は子どもの私にさえ上出来とは思えなかった、利便性には欠ける部分が多々あったけれども、走ることは走った。二人は嬉しそうに、眺めては走り、そして又眺めていた。不具合の修理ばかりで、実際に仕事で使っている光景の記憶がない。それから、数年後、井関農機や久保田鉄工が量販しだして、父らが作った耕運機は解体された。このような父の影響で、長兄は機械いじりの妙味を覚えたのだろう、中学生の兄が発動機のエンジン部分を一つひとつの部品にまでバラして、掃除をして元通りに組み立てた。近づくことを許されず、遠くから眺めていた。

それからの父は、少しお金を貯めては新しい農機具を買うのを楽しんだ。新製品を追いかける父を祖母は諌(いさ)めたけれど、父の勢いは止(とど)まらなかった。祖母は、言い張る父を説得できなかった。そのうち長兄が父の仕事をサポートをするようになった。この兄は、静かな笑みを常に絶えさず、早く大量に仕事のできる、規格外の、村一番の働き者になった。働く父の背中を見て育ったのだ。私はと言うと、故郷を離れるまで、いつまでも子ども扱いだった。

お酒は嫌いだったが、私がすすめるとお猪口(ちょこ)一杯だけは飲んだ。盆踊りの会場から、父を迎えに来てくれと電話が掛かってきて、私と母がリヤカーで迎えに行ったことがある。役員席で飲まされたのだ。ベロンベロンの態(てい)、よっぽど口汚く沢山飲んで酔っ払ったのだろう、とは町の誰もは思わない。帰途、リヤカーを曳く私たちは、踊る村人たちから面白可笑しくはやし立てられ、見送られた。狭い町のこと、父が酒に極端に弱いことを皆はよく知っていた。

私の妻はその度に批判するのだが、4人の子どもを連れて実家に帰ると、よお~く帰ってきてくれたと言っては、私の息子だけを抱いて、何処かへ居なくなってしまう。残された三人の娘は、あのジジイ、どうなってんの?と思ったことだろう。お前のところの子どもはみんなエエ子や、が口癖だった。

父母とニューディーランドへ行った。その後、父と私は息子が留学しているオーストラリアへも行った。父と息子、孫の三代にわたる男衆の珍道中は楽しかった。耳の遠くなった父の耳に、息子は手でラッパを作って交差点のど真ん中、オジイチャン、何食おうか?と声を掛け、嬉しそうに寿司だウドンだ、ソバだと答えていた。健啖家だった。しょっちゅうタバコを吸わないではいられないほどの狂〈愛)煙家で、オーストラリアは文化レベルが高い国で、人前では吸ってはいけないことになっているんだ、だからタバコを吸いながら歩いている人はいないでしょ、と説明して納得させても、たまに吸いながら歩いている人を見つけては、タモツ、あの人は吸っているでとニタッと微笑み、凄く吸いたそうな顔をした。私は人通りを避けてビルの隙間に連れて行き、ここならエエでしょう、と父が美味しそうに吸い終わるのを待った。

跡取りの長兄には厳しかったけれど、弟の私には優しい父だった。中学校を卒業してからの進路について、私が勝手に決めて、勝手に進めることに何も口出ししなかった。入学した高校も大学も、浪人していたことについても、卒業して入社した会社のことも、何も聞こうとはしなかった。信頼してくれていたのだろう。

翌日の14日、甥の嫁から受け取った線香を持って、菩提寺である宝国寺のお墓と伯父の戦没者慰霊塔に参った。長兄が山岡家の墓石を新しく建立してくれた。どこまでも頼りになる兄だ。

2013年12月28日土曜日

望郷篇、その2同窓会

同窓会

20131214(土) 19:00~  会場:魚定の2階(南にある魚屋さん)

今回の帰郷の目的の一つに、同窓会に出席することがあった。

この同窓会は、昭和23年に京都府綴喜郡宇治田原町の南地区で生まれ、地元の田原小学校と維孝館中学校を卒業した竹馬の友たちの集いだ。宇治田原町には他にもいくつかの地区があるが、維孝館中学校の同窓生150人のうち、3分の1程度が、この南地区で生まれた。今回は、その半分が出席したことになる。

65年間も狭い地域で住んでいるから、兄弟姉妹同然だ。交流が深まるのは当然。出席者は、近くの城陽市に嫁いだ人もいたけれど、私以外のみんなはこの宇治田原町で今も暮らしている。私は、初めての参加だ。実家に帰る度に訪れる大辻百貨店で、店番をしているハルエちゃんから、同窓会での楽しい話を聞かされ、早く一度は出席してみたいと考えていた。

幾星霜(いくせいそう)、皆の風貌は激変していたが、話し出せば、昔の思い出ばかり。今の仕事については、お互いに興味がないようだった。現在の状況を尋ねられたら、私はどのように話せばいいのか実のところ悩んでいた。激しい仕事の現実を話したら、きっと彼らは舌を巻いたことだろう。務めていた会社や役所を定年で辞めた者たちは、地元地域の役員さんになって世話役を担っている。

郵便屋さん、消防署の署長さん、茶問屋、バイク屋、百姓、マンションの管理業、某自動車会社の陸送の運転手、建材会社の社員、私は不動産屋。毎日会社に出勤して仕事をしているのは、男では2、3人だった。女性たちとももう少し話したかった。悔やまれる。

私のカメラに写された人のプライバシーは守られないことになっているので、そのままここに掲載させてもらう。あしからず。

 

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2013年12月22日日曜日

望郷編その1、お月さま

20131212の深夜、横浜から観光バス会社=オー・ティー・ビーが主催する深夜バスで京都に、それから、寝屋川に住む大学時代の友人の銀さん宅で、奥さん手作りの温かい味噌汁をいただいて、待望の故郷、京都府綴喜郡宇治田原町に帰った。銀さんが車で送ってくれた。お世話になった人が亡くなってから、唯、仕事が忙しいと言うだけの理由で、長く墓参りをしていないことに気づいたのだ。父母、祖母、伯母と伯母の母? 伯父、妻の父。

中学校を卒業して一度も出席したことのない同窓会にも出席した。スケジュールを思いっきり調整した。

途中の浜名湖のサービスエリアで、トイレを済ませて眺めた湖上の月は優しかった。これって、誰かの顔に似ているなあとじっと眺めていたら、アンパンマンが浮かんだ。昨夕、横浜で眺めた月の光は穏やかだった。

そして翌日の13日、高校時代のサッカー部の後輩の家を出て、同窓会に向かう夜道で見た月は赤い月だった。同窓会の散会後、3人だけの2次会をやろうと、少し離れたスナックに連れてゆかれる車の窓から眺めた月は、冷たい夜を昼間のように明るく照らしていた。

高校生の頃、夜道を歩くときは何故か守屋浩の「僕は泣いちっち」をよく歌った。恋人を追いかけて行くわけではないが、きっと、東京にいるだろう、未だ見ぬ恋人との邂逅を夢見ていたのだ。その道を車で走りながら、昔のように私は口ずさんでいた。

僕の恋人 東京へ 行っちっち
僕の気持を 知りながら
なんで なんで なんで
どうして どうして どうして
東京がそんなに いいんだろう
僕は泣いちっち 横向いて泣いちっち
淋しい夜は いやだよ
僕も行こう あの娘の住んでる 東京へ

 

そこにきてこの記事だ。無粋な私のこの一両日の月のことを想った。

 

20131217

朝日・天声人語

忙しく年が暮れる師走の夜空を眺めて、「徒然草」の兼好法師が書いている。〈すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、二十日余りの空こそ、心ぼそきものなれ〉。現代語なら、荒涼とした月が寒々と澄んだ光を放つ二十日過ぎの空はもの寂しい、といったほどだ。

おぼろに潤む春の月。涼しく光る夏の月。さやかな秋の月。それらとは違って冬の月には凄(すご)みがある。今夜は晴れ間があれば、北風に磨かれたような満月が、きりりと空に浮かぶはずだ。

約400年前、自作した望遠鏡でガリレオが初めて観察した天体が、やはり冬の月だった。完全無欠で鏡のような球体と信じられていた表面に、幾多のクレーターを見つけた驚きを自著に記している。

そのガリレオも眺めたことがあったろうか、今では「虹の入江」と名のつく平原に、中国の無人探査機が着陸に成功した。米国と旧ソ連に続く3カ国目になる。ゆくゆくは人を送り込む計画というから、技術力は侮れない。

未来の資源への期待ゆえか、昨今、改めて月に目が注がれているという。科学の進歩とともに神話や俗説は葬られてきた。月の都はなく、地球から見えない裏側に結集して侵略をもくろむ異星人もいなかった。といって、地球人同士の縄張り争いになるようでは困る。

月夜のロマンからはほど遠く、「権益確保」なる言葉が登場する昨日の本紙記事だった。知ってか知らずか、手つかずのあばた面(づら)は天空で「寒けく澄める」光を静かに放っている。

2013年12月16日月曜日

社長さんは、早朝出勤がお好き

私は社長を約25年間、今の社長の中さんは丸4年だ。

二人でコンビを長く組んで会社を経営してきた。私には私なりの性情、習慣がある、中さんにも中さんの家庭の事情がある。そんな二人に共通しているのは、夜早く寝て朝早く目が覚めることだ。私が社長になった当初、寝つきが悪く、そのための催眠にと夕食時に酒を飲む習慣をつけてしまった。酔いの勢いで寝ついても、間もなく目が覚め、深夜に追い酒を飲むわけにはいかず、眠れぬならば起きだすしかないと、当時は未明に出勤していた。

夜早く寝れば朝早く目が覚めるのは、当然のことだ。この当然を良いことに、二人は朝早くから仕事をすることにしている。中さんも私も、摂食については真面目なので、きちんと自分の食事を済ませ、今は5時半夏は4時頃に待ち合わせをして、スタッフが検討中の物件の下見に出かけるのだ。私は自分だけの食事を作ればいいのだが、中さんの場合は家族全員の食事と息子の弁当も作るのだ。

早朝ならば、道は空(す)いていて車はすいすいと進む。効率よく見回れて仕事ははかどるのだが、その反動が午後の体調に現れる。11時前後に早飯(はやめし)を食い終わって1時間もすれば、急に睡魔に襲われる。体中の血液が胃袋に集中するらしい、脳の血液は薄々(うすうす)、持続可能な範囲すれすれだ。運転手の中さんは欠伸の連発に耐えながらハンドルを握る、私は申し訳ないと思いつつ、後部座席で、運転手さんへの配慮はそっちのけで熟睡に入る。

 このようなスケジュールをとった日に痛感することがある。24時間営業の牛丼屋ではなく、普通の地元のラーメン屋さんや食堂に入りたくても、我々のような早朝からの労働者には、店の開店時間が遅過ぎる。メジャーなレストランに金を落とすのが嫌なんだ。大体、開店時間は11時半か11時、二人とも、人並み以上に空腹に対する忍耐力が弱い。朝5時前に飯を食うので、通常の生活者よりも早く腹が減るのは当たり前。

そんな折、よく利用するラーメン屋さんの店頭に、今まで11時の開店だったのが、10時45分に早めたことを知らせるシールが張ってあって、二人はニンマリ、このラーメン屋の主(あるじ)は、よく解っている人だと感心した。主は、この15分の差に商売のネタが埋蔵されていることを見抜いたのだ。商魂たくましい。狙いは図星、11時前には多くの我々と同じ、早朝出勤労働者たちが目を血走らせて入ってくる。

私のマーケット調査は更に進む。

会社の近くのイオン系のスーパーマーケットでは、食料品売り場は7時から営業している。こちらの方でも、やはり、我々のような早起き仕事野郎が朝飯を漁(あさ)っていた。

そして先日、東京は渋谷のハチ公前で、お世話になっている人と夕方4時半に待ち合わせをして、一杯飲みながら話しましょうということになって、手ごろな酒場を探した。が、営業中の店はどこも五月蝿(うるさ)かった。静かそうな店は、どこも開店時間が6時以降ばかりだった。

そうだよなあ、俺たち年寄りは、朝が早いんだから、昼飯も早くなり、当然飲みたくなる時間も早くなるもんだよ、まだ居酒屋組合は、マーケットを調べ上げてないな、、、、、、。

2013年12月10日火曜日

堤清二さんの死に想う

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西武百貨店、西友、パルコを中心とした流通グループをセゾングループとして育てた。一方、辻井喬(つじい・たかし)のペンネームで作家・詩人としても活躍した堤清二さんが86歳で、25日に肝不全のために死去したことを知って、何故か、私がかって勤めた会社の社長で異母弟の堤義明氏のことも、併せて考えてしまった。

堤清二さんと堤義明氏、二人に欠けていたのは自らの企業グループ内に、自分の考えを理解して実行する人材、将来を見据えたグループを代表する後継者を育てられなかったことだろう。

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私は学校を卒業し、西武鉄道グループの中核会社のコクド(入社時は国土計画だった。社長は堤義明)に入社、9年7ヶ月勤めて、昭和57年(1981年)33歳で退社した。この会社の未来に失望したのだ。

国土計画ほどの大会社が、モノの見事に社員の人材育成をしないのには驚いた。チャンスも与えない。何を計画したくて、このような社名にしたのだろうか。内輪での人材育成に留(とど)まり、会社の将来の展望を見据えた人材を育てようとはしなかった。瑣末なことに、社長は会社をキリキリ舞いさせていた。オリンピック、体協、各冬季競技の団体役員などの公務は華々しかった。同期入社は40人足らず、前年もその後も体育会系と縁故関係を主力に採用して、各部門のスペシャリストを育てようとしなかった。個性的な人材を採用したにもかかわらず、平均化、イェスマンに仕立てた。個性を活かすのではなく殺す方に注力していた。社員の能力は、社長指示事項を従順に忠実にこなすこと、それだけを求めた。

会社の全ての指針が、社長からの指示事項で決まってしまうのだ。社長に異論を唱えられる人は居ない、怖かったのだ、袋叩きにあう、世にも不思議な会社だった。虚勢だけは大いに奮う裸の王様。幹部は虎の衣を借る狐。繰り返すが、そのことに失望したのだ。入社して退社するまで、家族友人の慶弔による欠勤を除いて、一日の病欠もしなかった。

この二人の父親は衆院議長にもなった堤康次郎だ。政治家としての彼よりも実業家としての方に刺激を受けた。この創業者には、異母兄弟が皆で何人居るのか、当の兄弟の一人と特に親しくされていた方から、本人さえその正確な人数を把握していなかったそうだよ、と教えられ、本当なんだからと聞かされても、本気で、そうなんですか、とは返答できなかった。10年も前の話ではない

若かりし頃は元共産党員。詩人や文化人としての辻井喬さんの活躍は誰もが認めるところであるが、この稿においては触れない。経営者としての堤清二さんは、大衆消費社会に、文化が付加価値になる文化資本主義を大きく花開かせ、70年代後半から80年代に、世界的にもまれな広告の黄金時代をもたらした=朝日新聞・文化、上野千鶴子氏。文化事業を経営に融合させる手法で、事業を拡大させていった。

その文化事業を経営に融合させる手法は、演劇や現代美術を取り込み、セゾン文化として発信、コピーライターやアートディレクターが文字や映像で表現した。その気運によってグループ会社のイメージを高め、小売業として売り上げを伸ばした。私が懇意にさせてもらっている某小劇団にも協力を惜しまなかった。

だが、インターコンチネンタルホテル買収から始まって、不動産や観光、ホテル事業の展開による金融機関からの多額の借入金による拡大路線がバブル崩壊で破綻、セゾングループは崩れた。

このような、文化的、カリスマ経営者の後釜は、グループ内では育たなかった。育てようとはしたのだろうが、無理だった。確かに、グループ内には彼の影響を受けた方や、感動社員の何人にもお会いしたが、グループを主導、主宰できるだけの後継者としては、誰もが無理だった。だが、身の退き際は潔かった。

堤義明氏も同じように、後継者を育てられなかった。転落のとば口になった原因は兎も角、コクド体制の崩壊は必然、自業自得だった。

業界は違えども、稀代(きたい)まれな異母兄弟の大経営者二人は、かくして経済界から去ったのでした。

 

 

20131128

朝日・天声人語

1980年前後、渋谷の公園通り界隈でよく遊んだものだった。西武百貨店の81年のコピー「不思議、大好き。」や翌年の「おいしい生活。」が時代の空気を彩っていた。モノから、情報へ。消費社会の変容を仕掛けた元セゾングループ代表の堤清二さんが亡くなった。

その仕事には常に文化が薫(かお)った。優れたクリエーターを集め、斬新な広告を繰り出す。劇場や美術館をつくる。芸術の発展と創造に抜群の貢献をしたと、音楽評論家の故吉田秀和さんは絶賛していた。頼りになるパトロンでもあったのだろう。

だが、消費社会は堤さんをも追い抜く。バブル絶頂の88年のコピーは「ほしいものが、ほしいわ。」だ。買い物には飽きた。欲望も萎(な)えた。人々の心変わりに、売り手が困り切っているようにも読めた。3年後、グループ代表からの引退を宣言する。

元は政治青年だったせいか、その方面の発言に遠慮がなかった。55年体制に幕引きせよと主張し、自社連立政権の役割に期待した。「個人」の尊重を説き、古くさい愛国心教育論を退けた。憲法の平和主義へのこだわりも再三語った。

回顧録『叙情と闘争』に、小学生のころ同級生に「妾(めかけ)の子」といじめられ、大げんかした話が出てくる。後年の反骨精神の源の一つだっただろうか。経営者として挫折を経験したが、詩人で作家の辻井喬(つじいたかし)として多くの著作を残し、健筆を貫いた。

〈思索せよ/旅に出よ/ただ一人〉。回顧録の最後に掲げられた短い詩の一節が、旅立ちに似合う。

2013年12月5日木曜日

墓参りに、郷里に向かう

経営の最前線から一歩後退して、経営責任者の中さんのサポートをする立場になって2年、気分に余裕ができたのか、望郷の懐(おも)いに度々駆られることがある。その懐いとは父母や祖母、若かりし頃の私を可愛がってくれた今は亡き人々のことだ。そして、この秋のお彼岸に墓参りを思いついた。が、仕事の都合で果たせなかった。

父母は16年ほど前、祖母は40年前に亡くなった。母が癌で亡くなった同じ年に父も癌で亡くなった。父は、棺の中の母に向かって、迎えに来てくれよと叫んだ。そんなことを言うものではない、と戒められても意に介しなかった。父の葬儀の日、親戚のおじさんたちに、よっぽど二人は仲が好かったんだねと冷やかされた。

墓参りを思いついてからは、何度も何度も、田舎での活気に溢れた生活を懐かしんでいる。懸命に野良仕事に精を出していた父母、留守を守り家事を担当していた祖母。母の毎年の藪入りに一緒に連れて行ってもらった際には、女主人の伯母と伯母の母(母の母)はいつも温かくもてなしてくれた。中学生のときから大学に行くように進めてくれた吉岡先生。酒を飲んだ勢いで、タモツ、タモツと大きな声で話しかけてくれた叔母の夫。そして、私と杯を交わすのを楽しみに、帰郷する私を待っていてくれた妻の父。彼らが、天界で私の墓参りを待っているような気がするのだ。

冬の夜、お湯割りの焼酎の酔いと仕事の疲れで、ボヤ~ンとしていると、田舎の風景が頭に浮かんでは消える。横浜の私の貧しい部屋の窓から、鷲峯山が吹き下ろす冬の冷たい風や、夏の田畑の草いきれ土の臭い、製茶工場の窓から新茶の香りが、漂ってくる。そんな気がするのだ。

タモツ少年は、真っ赤な夕焼けを背に、野原で牛の散歩をしている。紐を放たれた子牛は、草を食(は)む親牛の周りをじゃれている。父と母は、仕事の手を休めて私や牛たちを眺めている。

今度こそ、墓参りを決行しようと、20131212の深夜バスに乗って帰郷することにした。

2013年11月26日火曜日

猪瀬都知事さん、あなたまで?

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20131123 朝日新聞・朝刊

定例会見で徳州会からの5千万円受け取りについて説明する猪瀬直樹都知事=22日午後、東京都庁、飯塚晋一撮影

猪瀬さん、やっぱりあなたも、黒い闇に巣食う政治屋に堕(お)ちましたか。

東京都の猪瀬直樹知事(67)が昨年12月の知事選前に医療グループ「徳洲会」側から現金5000万円を受け取った問題で、東京地検特捜部が、現金提供の経緯について複数の同会関係者から任意で事情聴取していることが、関係者への取材で分かった。

この件は、徳洲会グループ創業者の徳田虎雄・元衆院議員(75)の次男・徳田毅(たけし)衆院議員の、前回の衆院選挙における公職選挙法(運動員買収)違反容疑の取り調べのなかで、発覚したというか、露見されてしまったのだろう。その後、徳田議員の捜査はどうなっているのか、と気になっていたら、特捜部は既に小者(こもの)の徳田議員の容疑は固まって、主たるネライは猪瀬都知事に向ったようだ。この方が捕物としては力が入る。

猪瀬都知事は、私よりも2歳先輩の昭和21年(1946年)生まれの67歳、私は2年浪人後の入学なので、大学4年間は同じ期間を過ごしたことになる。私はサッカー部に所属しながら、クラスの友人に誘われて、大学の構内外でのデモ、国際反戦デーと佐藤首相訪米阻止闘争に過激なデモの一員として狩り出され機動隊と衝突した。1969年、2年生のときだ。2つのデモでは、同じように最榴弾を背中に受け、濡れネズミになって、高田馬場の後輩のアパートに寒さに震えながら逃げ帰った。

一方、猪瀬都知事は信州大学の全共闘議長として、同じ時期に同じ場所で、私と同じようにデモっていたことを知った。それに彼の著作だ、私が就職した西武グループと堤家(当時の社長は堤義明で、創業者は父・堤康次郎)らを皇族と絡めて著した「ミカドの肖像」を楽しく読んだ。その著作で、私が気にかけている第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したものだから、尚更、私は勝手に親近感をもっていた。

先の東京都知事選においては、都の財政が破格に豊かだからこそ、耄碌ジジイの石原慎太郎が大いにサボっても無駄遣いをしても、批判はさほどに起こることもなかった、が、さすがに批判の波が押し寄せてきたと察知した狡(ずる)いジジイは、自ら演出して映画「ロッキー」のテーマ曲をバックに、都庁から追い払われるように去った。悲しい男だ。そして猪瀬副知事が都知事に当選した。

そこで、やっと、行政の実務家としての猪瀬直樹氏の登場を、私は好ましいものと喜んでいたのだ。ところが、どっこい、ここにきて、やっぱり、お前までもか、やっぱり、そうだったのかとガッカリさせられている。この元全共闘も腐ってしまったようだ。

徳洲会グループ創業者の徳田虎雄氏に知事選への支援を要請した後、今や豚小屋(ブタバコ)行き寸前の徳田議員から議員会館で5000万円を現金で受け取った。今どき、5000万円を現金で手渡すなんて、そんな前近代的なことは一般社会ではしない、非常識、異常だ。「選挙資金ではなく、個人的な借り入れだ」と言うが、無利子無担保、返済期限が決められていない借り入れなんてこの世の中にあり得ない、異常だ。もらったのでは、ないの? 借用書が本当に存在するのか。

その金は、手をつけずに、妻名義の貸し金庫に保管しておいたところ、徳田議員への強制捜査が入った直後、返済したという。こりゃ、マズイと泡を食ったのだろう。

選挙のための借り入れだったのか、個人的な借り入れだったのか、それとも、選挙のための寄付金だったのか?

徳州会側からのあらぬ目的のため?に、、、そして徳州会の事業に配慮する。いつまでも返済しなくてもいいですよ、と甘言され、、そして、時を経て自分のものにする、そのような双方の語らず、書き残さずの了解があったのだろう。 

学生運動を共に闘った同志と、勝手に思い込んでいたのです、、が、、、、。

 

 

20131123

日経・春秋

闇に埋もれた事実を暴くノンフィクション作家・猪瀬直樹がこの席にいたら、果たしてどんな質問をぶつけたのか。そんな想像をしつつ、きのうの猪瀬直樹東京都知事の記者会見を見ていた。知事選前に猪瀬さんに徳州会側から5千万円わたっていたことの釈明である。

行きつ戻りつした説明はこうだ。選挙に出ることを決めた昨年11月、徳田虎雄氏に挨拶に行った。初対面である。しばらくすると徳田氏側から5千万円貸そうという申し出があった。「厚意で貸してくれるなら」と借用書を書いて個人名で受け取った。そのまま妻の貸し金庫に保管した。すぐにもう不要だとわかったーーー。

初めて会って5千万円? などなど、筋の通らぬところはいくらもあるのだが、わけても不思議なのは、「選挙のことを知らなかったし、これから何があるか解らないので借りたが、選挙とまったく関係のない金だった」という部分である。投票日の1ヶ月ほど前の大金だ。よもや本人もこれで世が納得するとは思うまい。

猪瀬さんは駆け出しライターだった30代のころ、仲間と飲んでどんなに座が盛り上がっても午後10時には店を出て仕事場に戻った。自分と向き合うためだという。「酒の席を適当に切り上げる習慣は今も変わっていない」と最近も書いている。二人の猪瀬直樹が向き合って、知事は作家を丸めこむことができるのだろうか。

2013年11月23日土曜日

ケネディ銃殺された日の私は?

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                      朝日新聞 遠藤啓生撮影

アメリカの新しい駐日大使になったキャロライン・ケネディ氏(55)が、20131115、着任したとの新聞記事を読んだ。にこやかに報道陣に囲まれ、軽やかに堂々としていられるのは、やはり血筋の為せる技か。1963年に暗殺されたジョン・F・ケネディ元大統領の長女で、女性初の駐日米大使だ。成田空港に到着後、声明文を読み上げた。そこには、父は米国大統領として初めて訪日することを望んでいたこと、日米両国の緊密な関係の強化に取り組めることは、私にとって特に名誉なことだ、と。

彼女の外交官としての力量は解らないが、オバマ大統領に近しい人だ。19日、着任挨拶を兼ねて天皇陛下にオバマ大統領の信任状を奉呈するために皇居に向かった。沿道には、今までには例のない大勢の人出があった。彼女は沿道の人々に笑顔を、カメラの放列に手を振って応えた。

父親のジョン・F・ケネデイ元大統領が暗殺されたのは、1963年11月22日のこと、そして今日は50年後の11月22日だ。葬儀の日、父の棺を見送る幼いキャロラインのスカート姿が痛々しかった。

今回は、キャロラインさんのことでもなく、元大統領の死でもない。光陰、矢の如し。ケネデイ元大統領が銃殺されたその日、私は何をしていたかをよく憶えている。ボヤ~ンと生きてきた私だけれど、この日のことは本当によく憶えている。

当時、私は15歳、京都府の宇治田原町立維孝館中学校の3年生だった。

従兄弟のなかで一番年上の清市さんが、私も良く知っている農協のマドンナのサッちゃんと結婚した。50年前のことだ。私たちの田舎では、新郎側から、結婚したカップルが新婚旅行から帰ってきた数日以内に、結婚に際してお世話になった人や、お祝いをくれた人たちに、お礼返しをする習慣があって、私はそのお礼返しの品を配達していた、その日に、事件が起こった。お返しの品は紅白の餡入りのお饅頭で、100軒ほどに届けた。このような仕事をあてがわれるのは、昔から大体子どもで、配達先で寸志を包んでくれるのをいただけたのだ。いただいた寸志の総計は2万円にもなった。大金を稼いだことになる。

このような役をそつなくこなせるのは、新郎の周辺では、私だったのだ。品物を3回に分けて配ったのだが、2回目に清市さんの家に戻ってきたときに、テレビのニュースがただ事ではない取り扱いをしていることに、気になった。サッちゃんは、アメリカの偉い人が殺されたそうなんや、と冷静だった。その時代には衛星放送などなかった筈だから、どのようにその映像はアメリカから日本のテレビ局まで届いたのだろうか。

2013年11月17日日曜日

大岡越前通りとは?

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私と経営責任者の中さんとは、スタッフが検討している物件の全ての現場を確認をしているので、多い日には車で300キロメートルを移動することもある。見る現場が多い日には、15件ぐらい見て回ることだってある。中さんが運転、私は後部座席でウトウトしながら、身を沈めて乗っている。中さんには悪いなあと思うのだが、今、我々が移動に使っている車を私は運転できない。

道すがら、名所、旧跡、珍しい建物や有名なお店、好奇心をそそる地域や地点に至った時には、必ず2人は何だかんだと話題にする。物知りの量では圧倒的に中さんの方が多く、私はいつも聞き側に立っている。感心事が初物(はつもの)ならば共同で知恵を出し合う。

今回は、中さんも私も知らないことに出くわした。

茅ヶ崎市のみずきの物件に向かうために地図を見ていて、茅ヶ崎の北のはずれ、寒川寄りの道路が、なんと、大岡越前さんの名を冠にした「大岡越前通り」と銘記されているのに気づいた。中さんは知らないらしい。中さんが、神奈川県内で、地名の知らない在所なんて、有り得ないと思っていたので、彼が知らないフリをした時には、私の方が吃驚した。でも、加藤剛主演のテレビドラマでお馴染みの大岡越前さんについては、お互いによく知っていた。大岡家の菩提寺が浄見寺で、その前の大きな通りが大岡越前通り。

大岡越前さんの勤務先は江戸南町奉行所で、中央の高級幕臣(官僚)だと思っていたが、どうして、こんな田舎においでだったのだろう?と思ったが、なんてことはない、彼の生まれが此処だったのだ。言わば本籍地だ。

大岡越前守と呼ばれた大岡忠相(おおおか ただすけ)(1677~1751)は、八代将軍徳川吉宗が進めた亨保の改革で、江戸町奉行では判官(はんがん)としてその仕事ぶりは”大岡裁き”と呼ばれた。司法以外にも市中行政にも携わった。

 

茅ヶ崎観光協会のホームページで、大岡越前祭のことを知った。以下の写真と文章はそのホームページのものをお借りした。

忠相公は1751年(宝暦元年)、75才で亡くなりましたが、数々の功績に対して1912年(大正元年)、従四位が贈られ、翌2年に忠相公の墓前で贈位祭が行われました。これが大岡越前祭の始まりとなりました。
大岡越前祭は関東大震災や戦争などで中断していましたが、昭和31年に復活し、茅ヶ崎の春祭りとして、墓前祭、越前行列など様々な催しが行われ、市の内外を問わず親しまれています。

 

浄見寺

浄見寺は堤村を本領とした大岡家の二代当主忠正が、父忠勝の追善のために慶長16年(1611年)に建立しました。
山号は窓月山、寺号は浄見寺といい、浄土宗の寺だ。
浄見寺は大岡家代々の菩提寺で、元和元年(1615年)にこの寺に改葬された初代忠勝の墓石をはじめとして、13代まで一族累代の墓碑58基が整然と並んでいます。

2013年11月13日水曜日

ア式蹴球部思い出アラカルト4

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そんなこともあったか!!

 

私たちの大学のサッカーチームからは、日本のサッカー史上、多くの名物人を傑出してきた。

サッカーが日本に持ち込まれた当初は、師範系大学から帝国大学に、そして一般大学に広まった。その草創の頃から、我が大学は先駆的に関わり、発展の過程に特別な人たちを輩出してきた。その人が監督だったり、コーチだったり選手だったり、その面々は余りにも個性的で多彩だ。

私がこの大学のア式蹴球部に所属した4年間だけでも、私を魅惑した先輩、こんなオッサンにはかないっこない!! そんなスーパーマンを何人も見てきたが、今回は、その中でも代表して3人の傑物をここに登場してもらおう。もの凄く傑物なのに、ほんの一部しか紹介できないのが残念だ。このオッサンたちから大きな影響を受けて、私は学生時代を過ごした。

 

一番目に登場願うのは、なんと言ってもキングこと工藤孝一(1909~1971)さんのことだ。

早稲田大学のサッカー部が、Jリーグの発足(1993年)に合わせるように発展的?な運営を意識、未来のサッカーを思考し始めた。私が在学中(1968~1972)は、早稲田だけではなく、日本のサッカー界全体がまだまだ手探(さぐ)り状態だった。競技のレベルとしては、東京オリンピック(1964)を経て、メキシコオリンピック(1968)で銅メダルを獲得してから、進化の芽が吹きだしつつも、爆発的な人気が持続するまでには至らなかった、それでも日本サッカー協会は努力し、我々愛好家は一所懸命ボールを蹴った。

それより50数年前のこと、1936年(昭和11年)のベルリンの奇跡は、代表選手16人中10人を早稲田が送り出した。このときに、工藤さんは日本の代表チームのコーチとして帯同した。監督は早大OBの鈴木重義氏、もう一人のコーチは東大の竹腰重丸氏だった。手前味噌になるが、この日本代表チームの大半は早稲田の選手が占め、早稲田のメンバーが中心になってチームは強固な意志をもつ一本縄に仕上げた。この大会の少し前から、日本の代表チームや早稲田大学のチームには常々、必ずそこには工藤さんが監督として、コーチとしてそこに居た。それから、亡くなるまで早稲田の主(ぬし)であり、精神的大黒柱だった。

私が1968年に入部して、最初、工藤さんを見たときに不思議なジジイだなあ、と思った。東伏見駅の方から、毎日、杖をついて不自由な左足を引きずりながらやってきては定位置のベンチに座り、じっと練習を見つめる。1966年に病に倒れ、その後遺症で体の半身が不随になった。毎回、練習や試合を終えて工藤さんの前に集まって講評を求めた。工藤さんは、全体的なことには触れないが、ワンポイント、気づいた選手のプレーについてコメントした。その際の表現が辛らつだった。でも、工藤さん特有のユーモアを含んでいるので、その表現が酷ければ酷いほど、笑って受けとめられた。東伏見での一日の練習の全てを見終わって、ゆっくりゆっくり坂道を自宅に向かって歩いて帰る。今でもこの光景は網膜に焼き付いている。

なかなかパスを出さないで、一人でボールを保持し過ぎて、墓穴を掘ることが多かった海さんに、「お前は、いつまで片肺飛行をやっているんだ」とか「片目をもぎ取られたトンボみたいだ」と批評した。又、ラフなタックルを売り物にしている先輩に対しては、「お前のことを、?大学の監督が関東蹴球協会でも注意して欲しい、なんて言ってたけれど、俺はアイツは頭が変なので、大目に見てやってくれ、と言っておいたので、心配しないで、いつものようにやってこい」、と指示していた。

2年生になって、みんなと同じ練習になんとかついていけるようになった頃、工藤さんに「尻(けつ)に糞を挟んで走っている奴は、偉そうな名前のヤマオカか? そんなんじゃ、サッカーはできない、田舎へ荷物をまとめて帰れ」と怒鳴られた。瞬間、この糞ジジイと思ったが、この時期の私は、他の人から何と批判されようが、びくともしなかった。そんなことに、構ってなんかいられなかったのだ。

それから、ときどき交代選手として試合に出してもらえるようになった頃のことだ、紅白試合の最中に、何を思ったか工藤さんが杖をつきながらグラウンドに入ってきたのだ。どうも、工藤さんの向かっているのは私のようだったので、嫌な予感がした。そこで、試合は中断。私の前まで来て、お前は下手(へた)なんだから、ここからここまでは、と言いながら杖でグラウンドに線を引いて、この線の中だけは、絶対に、確実に相手のプレヤーにボールを自由にさせるな、この線からは出るなとも言われた。当時のフォーメーションはWM方式で、私はフルバックを任されることは多かった。オフサイドトラップをかけなくてならないときもあるし、時にはチャンスにドリブルでサイドを突っ走らなくてはならないときもある。でも、工藤さんのここからここまでのエリアでは、命がけでデェフエンスしろ、の戒(いまし)めは徹底的に厳守した。その結果、守ることには部内でも評価されるようになった。

3年生の9月、工藤さんは亡くなられた。葬儀は23日、早稲田大学ア式蹴球部葬として、同期の井出多米夫さんが葬儀委員長を務められた。棺を自宅からグラウンドまで、ベルリンオリンピックの代表者たち、次いで卒業年度順に、棺をグラウンドまで運んだ。グラウンドの中央のセンターサークルに棺を置き、ベルリンオリンピックの代表監督だった鈴木重義、現役、早大OB、慶応のサッカー部関係者で円陣を組み、「都の西北」と「紺碧の空」を歌った。

4年生のときには、工藤薬局の2階に下宿させてもらった。行儀の悪い学生だったけれど、工藤さんの奥さんは文句一つ言わずに置かしてくれた。奥さんの笑顔は最高だった。その工藤さんの息子が同期の工藤大幸だ。次女の京子さんは同じ学部の先輩だ。

工藤さんは1909年(明治42年)、岩手県岩手郡(現・岩手町)に生まれた。地元の小学校、中学校から早稲田大学第一高等学院に入った。それから、工藤さんの早稲田とサッカーとの関わりが始まった。私は、このジジイは、どうも岩手県の岩か石から生まれたのではないかと思うようになった。風貌は凡庸でよくよく見かける路傍の石、口数少なく、だが、意志は強過ぎて固過ぎる、コチンコチンの細工のきかない石のような岩のような男だった。人生のほとんどの時間をサッカーにかけた。見事なサッカー狂人、サッカー馬鹿だった?このような人生を過ごした人を、他に見たことないし、聞いたこともない。 

工藤さんは私にとって、雲上の人だった。

 

二番目は堀江忠男教授(1913~2003)だ。

入部した時の4年生のメンバーは他の大学を圧倒するような優秀な選手が揃っていたにもかかわらず、残した成績は戦後最悪だった。そして翌年、監督には堀江教授、キャップテンは松永章でスタートした。そこで、監督の堀江教授を初めて知った。以前にも監督をしたことはあったが、チ-ム再建のために、教授の再度の出番をOBたちが求めたようだ。

さすが教授だけあって、黒板に戦況を描き、それぞれの選手の動きを多少は理論的?に話されたが、基本は、局地において1対1で勝つこと、ボールをゴール前に集めて、それをなんとかゴールに持っていくこと、単純に表現すればこれだけのことだった。伝統的な早稲田の百姓一揆の復活か?を目指していたと言ったら、天上の堀江監督に叱られそうだ。 ところが、その単純明快な教えを、監督は自ら実践を織り交ぜて説明した。

堀江監督は日本代表(ベルリンの奇跡)でもフルバックだったので、守りにおける心構えや、対処の仕方は実にユニークで、堀江流だった。ボールを挟んで二人が相撲のように、レスリングのように肩と肩をガツンガツン、突っつき合ってのボールの争奪戦を実践して見せた。最初は、滑稽に思えて失笑してしまったが、そのうち、監督の迫力に誰も何も言えなくなってしまった。

タックルの仕方だって、多分当時55歳位だった監督が、両足を前後に大きく股を開いて猛然とボールにタックルして見せるのだった。筋肉の落ちた白い足が、にゅうと器用に伸びた。相手の懐深いところに入り込むことの見本を見せたかったのだろう。その程度のことぐらい、言われただけでも理解できたが、身を挺して模範を見せて説明しないと、監督は満足しなかったのだ。そして、監督が独り言を漏らしたのを聞き逃さなかった、「俺は、やったぜ」と。

学校は、入学して間もなく2年間はロックアウトされ、学校での授業は開かれず、単位はレポート提出で取得していた。2年生の終わり頃のことか? うちの大学のグラウンドではなかったが、監督が私を呼びつけて、「ヤマオカ、お前のあのレポートでは単位はやれないよ。でも、可をつけといたから悪(あ)しからず、、、」と言われた。勉強不足の私には、堀江教授が提示した命題の意味が解らなかった。だから、レポートらしいレポートなど書けやしなかったのだ。私のレポートは、きっと、教授が求めていたこととは、大外れで、チンプンカンプン、デタラメだったのだろう。

3年生の時、学校から高田馬場駅までの帰途、いつものように古本屋の店頭に並べてある文庫本を物色していたら、前の道を早足で歩く堀江教授に見つけられ、一緒に東伏見に帰ろうと言われた。ハイと答えて、持っていた文庫本の束を棚に投げ入れて、並んで歩くことになった。私からは何も話す内容を持ち合わせていない。早足だった。教授も、私などに話すことなど何もなかったのだろう。一緒に帰ろうと言われても、こんなに息苦しいことはない。そして、高田馬場駅の改札口を過ぎた瞬間、黒い鞄を手下げたまま、初老の教授は階段を2段飛びでダッシュした、その表情は真剣、猛進するさまは異状だった。私は、ニヤニヤして後ろを追っかけた。そして、私は教授から逃げることを考えた。これ以上、二人っきりになるのが怖くて、先生、やっぱり、僕、古本屋さんに戻ります、と言って、実際に本屋さんに逃げた。彼と、私とはモノが違うと実感した。

工藤さんに教えられた通り、ここからここまでは、絶対、相手に自由にボールを持たせるなの戒めを、私は忠実にこなした。そんな私の守備を、監督からも少しは評価されるようになって、少しづつ、試合に出してもらえるようになった。

私たちの4年の時も堀江監督だった。私たちの学年にはスーパースターがいなかったからか、どうかは、よく解らないが、キング工藤・堀江監督の考え方をチームに生かすことが最善と、誰もが思い始めていた。チームの結束は固かった。その結果、一人ひとりの実力はそんなに大したことはなかったにもかかわらず、関東大学リーグ優勝、全日本大学選手権優勝の2冠獲得につながった。

卒業して数十年後、堀江教授は後輩の結婚披露宴の主賓のスピーチで、私のことを、田舎からやってきた無芸無才の男が、努力して試合に出られるまでになったことを話したと後輩から聞いた。監督からは何も言われなかったが、私のことをそのように理解してくれていたのかと、嬉しかった。

堀江監督は人生の先生でもあった。

 

 

三番目は、胡崇人(えびす たかと))さんだ。

このオヤジも凄いんだ。日本サッカーリーグ(JSL)の日立製作所サッカー部のコーチだった。背丈は私と並んでも10センチ以上低かったので、おそらく155センチぐらいの小兵だったが、ぴりりと辛い男だった。

日立のサッカー部の監督さんは早稲田大学のOBで日本代表チームの監督も務めたこともある高橋英辰(ひでとき)=通称ロクさんだ。そのロクさんが目指したのは、走るサッカーだった。「これまでの日立は60分走るのが精いっぱいだった。90分走り続ける体力がまず必要」だと考え、その指導を徹底するには、大学の後輩の、胡崇人=通称エビスさんがコーチになるのが必須条件と考えた。

当時の日本サッカーリーグは、テクニックや個人技を重んじるヤンマー、スピードを誇る三菱重工、組織力の東洋工業(現・マツダ)や古河電工がいた。そのなかで、走るチームがなかったことに注目した。どのチームも、日本のサッカーは走り足りないとロクさんは考えた。

そこで、登場したのがエビスさんだった。

日立のサッカー部のグラウンドは吉祥寺にあって、私たちの大学のグラウンドとは近く、公式戦のない時は毎週末と言ってもいいほど、練習試合をした。日立の選手が来る1時間前に、エビスさんはグラウンドを一人で駆け巡る。グラウンドを確かめながら。前日の練習で疲労くたくたの私には、エビスさんが元気でグラウンドを走っているのがまぶしくて、言葉にならない呻(うめ)き声を上げた。 エビスさんが走っている!!ぞ。

性格が気さくな人で、我々学生の誰とでも親しく話してくれた。ちょっとインテリ風で物静かなロクさんの目の届かない部分をエビスさんが引き受けていた。日立のチームは何故かキーパーを除いて、エビスさん同様小柄な選手ばかりだった。背丈165センチの野村六彦選手を中心に、走って走って走り回るサッカーを作り上げた。その走り回って、走り回って、相手に優位に試合を進めている場面を見ると、私の目に涙が潤んでくるのだった。それほど、感動的なのだ。

当時、グラウンドは今のように芝生ではなく地面だったので、雨の日などは泥んこ状態になることもあった。そんな時こそ、日立の低い位置に備えられたエンジンは、バランスよく、俄然パワーを増すのだった。日立の底力だ。個人的なテクニックを重んじるヤンマーやスピードの三菱重工、組織力の東洋工業や古河電工を、こてんぱにやっつけた。そこには、ロクさんの発想と、現場監督のエビスさんがいたのだ。この名将の陰にこの名補佐あり。

このように元気で、溌剌とした人を今までに見たことがなかった。

エビスさんは私の理想の人だった。このような男になりたいと思った。

2013年11月6日水曜日

第2の果樹園に本格的鍬入れ

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今日20131106(水)は、横須賀市衣笠栄町にある弊社所有地を果樹園にするための準備をしてきた。この2番目の果樹園の名前は、「ケンタウルスの果樹園」だ。宮沢賢治さんが生きていたら、きっとこのように命名してくれただろう。ギリシャ神話に出てくる上半身人間で下半身が馬のあの星座のことだ。「銀河鉄道の夜」では、「ケンタウルス、露を降らせ」と星たちが群舞する。横浜市保土ヶ谷区今井町の1番目の果樹園は、「イーハトーブの果樹園」だ。豊穣の果樹園になってくれた。

本日の作業員は、経営責任者の中さん、私、中さんの義弟の3人だ。勇敢な有志だ。

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果樹を植えるために大きな穴を掘ってきたのだ。何故って? 普通の土地なら、何も気にせずに、苗木を植えればいいのだが、この土地は、以前は住宅地でも、地面の表層1メートルには大小様々な石が混入していて、かつ路盤のように固くなっていた。そんな土壌に果樹なんか直接植えられるものではない。

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今度弊社が経営に参加することになった建設会社の社長さんのアドバイスで、ハンマードリルと発電機を建設機械のレンタル会社で借りてきた。延長コードは会社から持ち出した。次女の夫の竹ちゃんには、彼が勤めている会社からツルハシを借りてきてもらった。直径1メートル深さ1メートルの穴を12個、3時間ほどで掘れた。ハンマードリルやツルハシで土を柔らかくして、スコップで土を放り出す、それの繰り返し。深いところからも、大きな石や粘板岩がゴロゴロ出てきた。我々は、この手の仕事をするのに、力の配分というか、要領、ペースが解らなくて、目先の仕事を何とか早く終えたいと思うから、仕事のペースは早くなりがち、自然に急いでしまう。急激な筋肉の緊張は、過酷だ。中さんの全身の筋肉には破滅的な衝撃を与えたようだ。腰痛持ちの私にも、結構なお仕事でした。

1週間前、一人でスコップで掘ってみたら、1時間程かかって直径50センチ深さ30センチの穴を掘るのが精一杯だった。ドカタ上がりの私でも、この手掘りの作業はきつかった。疲れた手と足と腰を掌(てのひら)で叩いて、このありさまを前に可笑しくなるほど、クラクラ、ガッカリ、気落ちしたのだ。

そのように気落ちしていた私でも、今日は朝からエンジン全開だ。朝一番で建設機械のレンタル会社に行って、予約してある内容を受付のネエさんに話すと、彼女はマイクで弊社の会社名と機械名を呼ぶ、そうすると、作業員の方が私の車に機械を乗せてくれる。ほんの数分間の出来事だ。いろんな建設会社のトラックやダンプカーがどんどんやってきて、いろんな建設や土木に使われる機械が積まれては去っていく。初めて見る緊張感のある光景、面白かった。借りた機械の作動の仕方をレンタル会社のスタッフに詳細に教えてもらった。

さて、この後はどうすればいいのだろうか? 

穴を掘ったのはいいが、果樹を植えるには穴の中に良質な土を大量に入れなくてはならない、難儀だ。もっと周囲の土壌も改良しなければならないだろう。

まだまだ、気を許せないのだ。この土地は階段約50段程の高さにあって、当然、車を横付けにはできない。これからのハードルをどのように越えればいいのだろう。 鳩首、いい知恵を出そうぜ。

2013年11月4日月曜日

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そんなことも、あったか!!

私が浪人時代にドカタ稼業で得た資金は、大学の3年間の授業料と3年間の生活費を合わせて見積もった300万円に近い額だ。郷里の農協に貯金をして、その貯金通帳と届け出印を母に預け、当面の資金だけを持って、1969年、昭和44年の2月のある朝、高田馬場駅に着いた。前の日の深夜、京都を急行列車銀河で発った。高価な新幹線などには乗らなかった。

私は、早稲田大学でサッカーをやるために、はるばる東京までやって来た。

大学に行きたいが、1浪しても2浪しても、勉強したいモノを思いつかなかった。だが、飢えていた。何でもいい、何にでも熱中、夢中になりたかった。この熱病者は、虐(いじ)めつけて引き留めておかないと、どこかに、飛んでいってしまいそうだった。熱(ほとぼ)りのはけ口をサッカーに向けた。

2年間の浪人時代はドカタ稼業と少しの受験勉強に明け暮れた。朝、目覚め、飯を腹一杯に食って、昼間、親方の指示に従って、仲間と共同して思いっ切り体を使って働いた。夕方、仕事を終えると、親方から酒を振る舞われ、帰宅、夜、酔って机に向っても、ほんの数分で居眠り、そのまま熟睡してしまうこともしばしば。働いているときは充実しているが、ドカタが雨で休みの日や、ドカタ弁当を食い終わって一息入れたとき、夜中に目が覚めたときなどに、屡々(しばしば)、急に不安になり焦燥に駆られた。夜中、ぶるぶる震えることもあった。

他にも数校の大学から合格通知はもらっていたが、決めたのは本命だった。当時の大学のチャンピオンで、日本サッカーリーグのどのチームと戦っても、十分互角に戦えるチームだった。学部は社会科学部だったが、どの学部でも構わなかった。

実家は貧しい農家だった。でも、実家の跡取りの5つ年上の長兄も父も、私が東京の大学に入ることには大賛成で、仕送りすることにも大いに賛同してくれていた、が、私にも意地があって、できるだけ貯めたお金でやり繰りしたいと考えていた。4年生の時の1年分の授業料は父と兄のお世話になるとして、生活費については、貯めた3年分の生活費を倹約に倹約を重ねれば、何とか4年間を過ごせるのではないか、と目論んでいた。

長兄は父の期待に応(こた)えるように、高校進学を諦め、2年間の高校の定時制(昼間、週に2、3日の授業)の茶業科に進みながら、お茶と米作を主とした農業に精を出した。村の人々が吃驚するほどの勤勉なお百姓さんになった。この兄は、中学生の頃でさえ、大人顔負けの仕事をこなした。

高田馬場駅の近くのホテルに1泊しただけで、翌日にはアパートを決めた。そのアパートの住所を郷里に電話で知らせ、布団や衣類、私がまとめておいた荷物を送ってもらった。大家さんは人の良さそうなおばあちゃんだった。荷物が届いて、入学の手続きを終えた。履修科目の登録も済ませた。

ようし、これからが大事な仕事に取り掛かるのだ、と気合いを込めた。サッカー部に入部するための手続きにグラウンドのある西武新宿線の東伏見に向った。当時の住所は、東京都北多摩郡保谷町東伏見だ。

東伏見駅に下りて、駅員さんにサッカーグラウンドの位置を尋ねたが、この坂を下りて行くと、色んなグラウンドがあるので、そこで聞いてご覧、と言われた。駅を出て右を見ると、東伏見稲荷神社への案内板があった。京都・伏見の稲荷神社にはよく行ったので、なあんだ、伏見稲荷の東の国の支社だ、こりゃ縁があるぞと親近感を持った。上背があって、屈強で筋肉モリモリのえんじ色のトレーニングウェアーの学生らがふざ(悪戯)けながら、坂を上(のぼ)ってきた。彼らの振る舞いは、天衣無縫、奔放だった。奴らは何部なんだろうか。大学の運動部はさすがに迫力あるなあ、と恐ろしくなった。あんな奴らに負けるもんかと力んでいた。今までに見たことのない体つきだ。

坂を下った突き当りが、サッカーのグラウンドだった。練習の終わった時刻だったのだろう、グラウンドには4、5人が銘々勝手に練習していた。グリーンハウスの前のベンチでしばらく周囲を見回したが、目ン玉がサッカーグラウンドから離れない。

急に近視眼になったように、サッカーグラウンド以外の風景は、漠然と霞がかっていた。

水飲み場で、水を飲んで顔を洗って、足を洗っている部員に近付いて行った。彼に、此処が私が入部を希望している早稲田大学のサッカーグラウンドであることを確認した。そして、入部を希望しているのですが、どうすればいいのですかね?と尋ねると、サッカー部の寮を教えてくれて、「そこで、海本さんに、聞いたら?」と関西訛りで答えてくれたので、私もつい、おおきに、と応えた。間抜けた質問だったのか。

その彼は新入部員の銀だった。球さばきが上手く、1年生でレギュラーに選ばれた。すっかり部員になりきっていて、大学生の風格のようなものを既に漂わせていた。この銀ちゃんとは、在学中も卒業してからも抜き差しならぬ関係?になってしまった。 

海本さんは新人監督で、後で知ったが、寮長さんでもあった。寮に行って海本さんに、面談を求めると集会場のような20畳ほどの部屋に連れて行かれて、お前はどっから来たんやと聞かれたので、京都の宇治にある京都府立城南高校出身であること、チームは強くなく部員も少なく、きちんとは練習していなかったことを話した。出窓に腰を下ろしてリラックスしながら、俺も京都出身で山城高校や、と海本さんは同郷のよしみ、か?親しみを込めて話しかけてくれた。私は恐縮して畳に正座していた。

さすが、強豪校の出身で4年生にもなれば、タイしたもんだなあ、と感心していたら、ええよ、分かったから、早く寮に来い、新人は強制的に入寮することになっているんだ、と言われ、数日前にアパートを決めて荷物が郷里から届いたばかりだったので、驚いた。少しは混乱した。賃貸借契約をしてたかだか1週間しか経っていないのに、家賃と礼金、敷金は戻ってこない?ものだと、と思わないといけないのか。悔しかった。

後で知ったのだが、ほとんどの新入部員は、大学の入試を受ける前からサッカー部のマネージャーと合格してからの手続きなどの打ち合わせをしていたのだ。セレクションというのがあることも知らなかった。私ら2、3人以外の新入生は、私が初めてこの寮を訪ねた日よりも、1ヶ月も2ヶ月も前から、練習に参加していたのだ。

セレクションなどに参加などしていたら、先ず、走力などに極めて劣っていた私は、バッテン印をつけられたことだろう。結果的に、直接、藪から棒に入部を申し出てよかったのだ。この海本さんが、誰にも相談なく、その場で決めてくれたことにも感謝したい。

当時の4年生は、日本代表(今でいうA代表)や大学選抜に数人が選ばれ、高校時代のユース代表が数人いて、他の大学とは比較にならないほど優秀な選手が揃っていた。そんなチームだったので、私のような者の入部は想定外だったのだ。入部にふさわしいだけの基礎的な能力を、私の自己申告だけで、判断してしまった。違う、判定などしようとしなかった、その太っ腹、鷹揚さに感謝。私は嘘をついたわけではない、私は幸運だった。

海本さんに、1週間前にアパートを決めたこと、それでも3日後にはアパートを引き揚げて入寮するので、よろしくお願いしますと、何度も頭を下げた。

問題はアパートの賃貸借契約の解約のことで、頭がいっぱいだった。どのように大家さんに話せばいいのか気を揉んだ。私の入居を大家さんは非常に喜んでくれたのだ。家賃は安いだけにそれなりに環境が悪かった。それでも、私には十分だったのだ。

大家さんは、上品でいいおばあさんだった。部屋を10日間使わせてもらったのに、家賃も礼金も敷金も全額そのまま返金してくれた。敷金は兎も角、家賃は、使った日数だけでも日払いで取ってくださいとお願いしたが、笑っているだけで、受け取ろうとはしなかった。礼金などもらえないよ、と顔を赤くした。恐縮する私に、頑張りなさいよ、しっかり練習するんですよ、と励ましてくれた。何度も何度も頭を下げて有難う御座いますと繰り返した。明日からは俺も早稲田のサッカー部だと思うと、興奮していつまでも眠れなかった。

翌日、田舎から送られてきた布団や諸々の荷物を、何もかも布団袋に押し込んで、高田馬場駅まで背負って行った。私の体の1、5倍もの荷物だ。腰を屈(かが)めているので見えるのは地面だけ、やっとのことで駅の改札口に辿り着いた。駅員さんがにこやかな笑顔で、切符に鋏を入れてくれたのを、顔を斜めにして確かめた。

かくして、高田馬場暮らしは10日間だけだった。

さつま芋の蔓を食った

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鍋に入れる前の、カットを済ませたさつま芋の蔓

 

先の大戦の終わりごろ、日本は苦戦を強いられ戦況に歩調を合わせるように酷い食料事情に陥った。終戦直後の都会は全くの飢餓状態だった。

それでも私の生家は農家だったので、都会での深刻な状態など露知らずだったようだ。私たちが住んでいた村は、交通の不便な人里離れた辺境の地だったのに、そんな村にまで、京都や大阪から農作物の買い付けに、人々がやって来たらしい。

庭先に、干し柿を作るためにむいた渋柿の皮を干しておいた。柿の皮は、糠漬けに入れると芳醇な香りを出すためのもので、漬物作りには欠かせない。そんなものでも、分けて(売って)くれませんかと頼まれたよ、と話してくれた。

大学に入って、東京育ちの学友の父から、戦中、戦後、私らはよく「すいとん(水団)」を食いましたよと聞かされた。米がなくその代用食としてすいとんを食ったのです。小麦粉が不足していたので、小麦粉を水で緩く溶いて、汁、または熱いお湯に直接落とし込んで団子状態にしたものを食いました。まあ、よく食わされました。当然、汁には充分な味付けなどはしていないので、いくらなんでも美味いとは言えなかった、よ。

そして、この夏、2013の終戦記念日、私はすいとんを作って、食った。往時を偲(しの)ぶつもりだったが、立ち寄った友人から、そんなのすいとんとは言わないよ、すいとんはもっと貧しいものだよ。これは、野菜のごった煮に小麦粉の練ったものを入れただけじゃないか、とにべもなかった。

そのような話をしたり聞いたりしていると、私は私の田舎でのことを思い出した。私の故郷のほとんどの家は田畑を多かれ少なかれ持っていた。でも数軒は家の庭先しか耕作地を持たない家もあった。そのような家庭の働き手が、現金収入を得られる仕事につけなかったら、その生活は大変だった。

遊びに行った友人の家(うち)の食事を見て、吃驚したのだ。さつま芋の葉を細かく切って鍋に入れたのを見た。芋はなかった。さつま 芋はおやつとして、ふかしたものや焼き芋を食ったことはあっても、蔓も葉も捨てていた。その光景を母に話したが、ふう~んと言っただけだった。

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できあがったさつま芋のキンピラ。

 

それから約55年後の今、イートハーブの果樹園の隅っこで芋(安納芋)を作っている。来週あたりに、孫と一緒に掘れたらいいなあ、と思っているが、孫も忙しいようで、どうなることやら。このさつま芋を植えた時から葉を食ってみると決意していた。そして、昨日、山田農園主の手伝いの最中に、さつま芋の葉を食おうと思っているんだ、と話しかけたら、農園主は「芋の葉ではなくて、蔓をキンピラにすると美味しいよ」と教えられた。

早速さつま芋の蔓を、山田農園からもらって帰った。作った、食った、美味かった。キンピラ作りはオテノモノ、美味しく頂きました。

ところで、葉っぱを食うことはどうなったんだっけ? 肝心なことが先延ばしになってしまった。

2013年11月1日金曜日

何故、日本勢はACLで勝てないの

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20131026 朝日・朝刊

準決勝で大敗した柏。過密日程をどう避けるかが、今後の課題に浮上した。

 

20131026 朝日・朝刊/スポーツ、「敗れ去る日本勢の真の敵は」「サッカーACL 5年連続外国勢で決勝」の記事に注目した。日本チームのACLでの活躍を期待するサッカーファンにとって、関心深い記事だ。この数年の日本チームの戦いの不出来に、気を揉んでいたのだ。

今月の26日から始まるACL決勝には、日本勢は5年連続で決勝の舞台に出場できなかった。そこには、何か理由(わけ)があるのではないか? 何故か、勝てない。その理由を探った内容だ。Jリーグのチームが、やっと、出場の権利を得ても、抱える難題は多いようだ。活躍を阻害しているものは何か。

今大会に於いては、日本勢は広島、仙台、浦和の3チームが1次リーグで敗退。唯一決勝トーナメントに残った柏が準決勝で広州恒大に大敗した。この負け方が余りにも、異常だ。

07年に浦和、08年にガ大阪が優勝してからは、09年4強、10年16強、11年8強、12年16強、今回は4強止まりだ。

 

以下、新聞記事のダイジェスト。

1、JリーグにとってACLは、浦和など集客力のある一部クラブを除いて、準決勝以上に進出しないと赤字が出る事業だった。そこでJリーグは日本協会(JFA)とともに、負担の重い敵地への渡航費の補助に踏み切った。1次リーグでは80%を援助した。

2、チームを支える活動資金の量が、今回、柏と準決勝戦を戦った広州恒大は圧倒的に潤沢だ。年間予算は、柏の35億円(12年度)の倍以上、J最多の浦和でも53億円だ。

3、柏のネルシーニョ監督は完敗を認めつつ、「本来の体調ではなかった」と、準決勝第2戦まで20日間で6試合を戦わざるを得なかった日程面の問題を指摘した。準決勝に残った中国、韓国、イラン勢はいずれも国内リーグの日程を大きく変更するなど対応をとっていた。

4、アジアのライバルに比べて加盟クラブが多いなど、自由が利かない事情もあるJリーグだが、今季の結果を受けて、柔軟な対応が可能な日程の検討を始める。

2013年10月29日火曜日

ネエネエ、八丁畷って

今度、京浜急行線の八丁畷駅から歩いて2分ぐらいの所で、中古住宅をリフォームして販売する予定だ。この物件に関わる仕入担当者や工事担当者が、何度も口から発する「八丁畷/はっちょう なわて」が、聞く度に耳に残り、見る度に3文字の漢字が網膜から消えない。

ちょっとこれは、調べてみる価値はあるな、とネットに頼った。

Yahoo 知恵蔵によれば、八丁畷の地名の由来は、川崎宿から次の市場村まで距離8丁の「あぜ」道があったことによる、とある。

畷(なわて)とはあぜ道のことで、8丁は870メートルに相当するそうだ。

あぜみち?

不動産の登記簿謄本や公図を前にして、我々不動産業に携わる者たちは、よく畦畔(けいはん)という言葉を口にする。大体は国有地で、たまには地元の自治体の所有地になっている。少し意味が違うが赤道とか青地と呼ぶこともある。そして、その畦と畔は、ともに畦道(あぜみち)であって、畔道(あぜみち)なのだ。田畑の端で通行の用途に供される細長い土地のことだ。通行に使われていない畦畔は、傾斜地になっていることが多い。

ならば、この畦のあぜと、この畔のあぜはどのように違うのだろう? 昔、高峰三枝子の「湖畔の宿」という歌謡曲が歌われていたので、畔はどうも「辺り」(あたり)という意味が含まれているのだろう。「山の淋しい/湖に/ひとり来たのも/悲しい心」の歌詞で知られる大ヒット曲だ。

畦は、水田と水田の境に水田の泥を盛り上げて、堰のようにして水が外に漏れないようにする。その際に土の上に土を盛り上げるさまをイメージして、圭の文字を使って表現したのだろうか。作物を植えたり種を蒔いたりするのに、周囲の地面よりも高くする畝(うね)とは違う。

私の考察は、レベルが低過ぎますか!

2013年10月23日水曜日

今年も「銀河鉄道の夜」が近づいてきた

銀河鉄道の夜

今年も、東京演劇アンサンブルの、ブレヒトの芝居小屋での宮沢賢治・「銀河鉄道の夜」の公演が近づいてきた。

早速、例年通り招待状を3日前にいただいた。招待を受ける日は12月23日(天皇誕生日)、15:30~だ。招待を受けた私だけが観劇に行ったところで、劇団さんには収益的には喜んでもらえない。

今年の7月25日、長女の娘・梅(小1)と次女の息子・晴(小3)と私の3人組で、松居スーザン・「はらっぱのおはなし」を、このブレヒトの芝居小屋で観た。音楽劇だった。このときに、初めて芝居を観た梅が、こんなに喜んでくれるなら、次回もこれからも、、、暫くは、オイラは一緒の3人組だ、と決めた。よって、今回は当然のように3人組で行く。

従兄妹同士の晴と梅、仲がいいのがジジイには微笑ましい。この孫たちにいつまでも寄り添っていたい、成長を見届けたいと思う。この3人組が、3年後には4人組になり、5年後には5人組、7年後には6人組になるだろう。きっと、そうなる。

そして先月、梅の誕生日に、私からの誕生プレゼントとして、このお芝居の招待状を手作りして手渡した。

劇団からの郵便封筒には、招待状とa letter from the Ensembleが入っていて、そのなかに、親しくさせてもらっている代表者の入江洋佑さんの「やるしかない」と、演出家の青井陽治(あおいようじ)さんの「銀河鉄道の夜」とブレヒトのことに触れた文章を見つけた。ブレヒトを余り理解していない私にとって貴重な文章でもある、ここに転記、マイファイルさせてもらった。

 

「やるしかない」

著・入江洋佑

「何をやっても間に合わない/世界ぜんたい間に合わない」 1927年8月の詩稿である。「銀河鉄道の夜」は、最愛の妹トシの死を賢治自身どう昇華しようかと志した作品だ。恐らく24年のサハリン旅行の悲しみの中で構想が閃いたに違いない。しかし、それから10年間改稿を重ね推敲を続けても納得のできる作品にならなかった。そのことは賢治にとって妹トシの死、そして広く人間の死をどう考えたらよいのか一生位置づけることが不可能だったのだろう。賢治の「銀河鉄道」の草稿の中に何回も鉛筆で「いとしくおもうものが そのままどこへいってしまったかわからないことから ほんとうのさいは(わ)いはひとびとにくる」と書いては消し書いては消したあとが10回にわたってみとめられると研究者の紹介文がある。妹トシ⇔カンパネルラの死をそのように考えたかったのだが、その甘さを許せなかったのだろう。冒頭に引用した詩句は、自分の身体の不調、(死を予感したのだろうか)、実践としての羅須地人会の困難、東北の飢饉、世界大恐慌の予感、そして自分の詩作の「銀河鉄道」の未完の焦りの中でふと漏らした悲鳴なのだ。

(何をやっても間に合わない)、これは今の僕の実感でもある。

アンサンブルは来年創立60年になる。1954年に18人で出発した。創立の文書には「明日を待ち望み、明日のために汗する人たちと共に」と翻訳調の言葉が並べられている。アメリカがビキニ環礁で世界初の水爆実験を行い200キロメートルも離れた海域で操業中の漁船第五福龍丸の乗組員が全員被爆し死者も出るという衝撃的な事件のあった年だ。第1作「みんな吾が子」(ミラー作) 第2作「森の野獣」(ヴオルフ作) いづれも激しい反戦のドラマだった。その頃は日本国中(敗戦から10年)みんな戦争に反対だった。4000万人の死者を出した第2次世界大戦、人類は再びこの愚かな行為は繰り返さないだろうと考えていた。しかしそれから60年、地球上で戦争のなかった年はない。そして、日本はもう戦争をする国になっている。集団的自衛権、憲法9条改悪も時間の問題といっても良いだろう。時には自衛のためには日本にも原爆が必要だという声も聞けてくる。アメリカも中国もロシアもいや世界中が。僕は60年間何をやってきたのか、宮沢賢治の「何をやっても間に合わない/世界ぜんたい間に合わない」この言葉が痛く強く身に沁みる。でも諦めるわけではない。「海鳴りの底から」(堀田善衞)の作中明日全滅と覚悟した中で一人の老女が話す「この世の中は本当に善くなっていくのだろうかと思う大勢の人の溜息が天に届くのさ」そして一人の農民が明日の死を知りながら、麦を踏む。そう仕事は続けなければならない。「銀河鉄道の夜」の最初のシーンで水俣の水銀に冒されて骨の曲がった魚が生まれないように僕たちにできることはなにか。ジョバンニは、真っ黒な宇宙を見つめてこう叫ぶ。「あの闇の中にほんとうの幸いがつまっているかもしれないんだ」。そう、かもしれないんだ。やってみるしかない。

 

「銀河鉄道の夜」

著・青井陽治

朗読やリーデイングのワークショップの時、銘々好きなテキストを選んでもらう。必ず誰かが選ぶのが、宮沢賢治・金子みすず・谷川俊太郎。だが、彼らを選ぶ人は要注意だ。いかにもな声を作り、独特のtーンで読む。しかし、詠嘆風に、嘘臭いユーモアや作り物の透明感など漂わせても、太刀打ちできる相手ではない。やさしい、だが強固な文体。言う間でもないことだが、賢治はやわではない。みすずも俊太郎も。その文体も、その世界も、雰囲気で絡め取るなど不可能だ。じゃがいものような実体をつかまなくては!

ブレヒトってのはな、ヨーロッパの演劇のおもしろさ、楽しさ、はなやかさ、うまい見せ方ーーーーすべて知り尽くしたおっさんなんだよ。その達人がちょっとここから見てごらんと、未知の視点を示す。すると陽画が陰画に反転する。泰西名画の向こうに、世の中の仕組みや美女の骨格と血の巡りが透けて見える。それが異化ってことだよ。同化、つまり、うっとりさせる力あっての異化なんだ。街角の洋食屋のオムライスだって、パセリがちょこっと乗っかってると、うまそうに見える。異化はそのパセリだよ。

ところが日本のブレヒト信者たちは、パセリだけ皿に山盛り出してきて、これがブレヒトだと言う、おいしいオムライスを作ろうとせずに。44年前の、師の言葉。賢治とブレヒトの魂は響き合うのか? ブレヒトの総本山で、賢治はどう異化の視点を持って舞台化され、かつまたその磁場に僕を捕え、陶酔させてくれるのか?僕は、賢治の見た夢を追えるのか?

ある時、舞台監督が、うれしそうに寄って来た。「ちょうど設定の年に出た漱石全集が見つかったんですよ! この家にあったらぴったりですよね!いい感じに古びててですねーーー??!!」。笑顔が退いて行った。

「そうなんだよ、ごめん。その年にはぴっかぴかの新刊だったんだよね、あの漱石全集は!」。僕たちは昔の人を昔の人だから古いとしばしば勘違いする。古いものとして、その良さに迫ろうとする。彼らより進化した人間として、彼らの素晴らしさを再発見しようとなどする。とんでもない! 鴎外や漱石は言うに及ばず、鏡花も万太郎も、そして賢治も、その時代に、どんなモダンな、新しい人であったかを忘れては、正しく捉えられない。70年、50年、100年前の作品と向き合う時、それがその当時、どれほど斬新だったか、時には革命的でさえあったか、その視点を持ち損ねたら、お終いだ。作家に大変な失礼をすることになる。

作家は、自分の本質とか真実ばかりを、作品の核に置くわけではない。憧れや願望も、時には立派な動機になる。としたら、賢治は、たとえば自作を故郷の訛りや音声化されるなど望んだだろうか、外国や宇宙にいつも思いを馳せた彼が? もちろん、故郷の訛りなくしては成り立たない作もあるけれど。

僕には、ジョバンニの銀河旅行が、臨死体験とも思えてならない。母が行ってしまう死の世界を、母より一足早く、ジョバンニは夢のなかで視察に行ったのではないか、母に「こわがらなくても大丈夫だよ」と言ってあげたくて。僕は、恋多く頃、好きになった人が死ぬ夢を見ると、「あ、本気だな、僕!」と知った。カンパネルラは、ジョバンニの夢の中で死ぬのでは駄目だったのか。

武蔵関の駅からブレヒトの芝居小屋まで、いろいろ思いが交錯した。僕は、方向音痴ではないのだが、この駅では、毎回、どっちが劇場だかわからなくなる。僕の磁場を掻き乱す何かがあるらしい。それを脱出して、間違いなくブレヒトの芝居小屋へ向かっている、と軌道を確認してからの道は、これから見る芝居に思いを馳せたり、心を空にしたり。『銀河鉄道の夜』の帰り道は、行きのさまざまな思いに、美しい、確かな答えを得て、西武線を新宿とは反対方向に乗りたくなった。そしたら、もしかしたら、まわりはいつの間にか闇となり、電車はふわりと浮いて、銀河をめざしてはくれないだろうか。そんな期待に、胸がうれしくざわめいていた。

内田が語るドイツサッカー

38℃。。。だと?!|off the wall  内田篤人のブログはこまめ日和?噂のCMグリコ2013!裏話とは ...

世界のスター選手が集う欧州にあって、ブンデスリーグ(ドイツ1部)の競技レベルは、スペイン、イングランドに次ぐ3位に位置すると欧州サッカー連盟は算出しているそうだが、昨季に限ってはとんでもない、ドイツサッカーこそが欧州で一番存在が目立った。

そんなドイツで、強豪シャルケに所属して、チームにとってかけがえのない選手になった日本人選手・内田篤人が、新聞紙上に語っていた内容が印象的だった。

それは、サッカーを少しやった者なら、誰もがやる練習の一つに、ボール回しというのがある。コートを少し狭くして、両チームを5人から7人に分けれて、攻撃と守備に分かれてボールを奪い合う練習だ。この練習について、内田選手は日本とドイツの違いに驚いたようだ。

私もその違いを聞いて、やはり驚いた!! だが、未だに、子どものサッカー教室などでコーチに関わっている人でさえ、知らないままの人が少なくないのではないか?と思って、この文章を綴っている。

ドイツ人は体が大きくてパワーがあり、目の前の敵との1対1にこだわって、相手を崩すとか、抜くとか、力で潰そうとする。が、日本では、この練習を自然に「上手にパスをつなごう」ということになる。私も、大学においてはこのように練習してきた。地元のサッカー教室でも、子どもたちに私がやってきたように教えた。

パス回しという名称からも、ボールを持つとマークを外している味方を見つけてその者にパスを出す。又、パスをもらうために動きに緩急をつけたりフェントで相手のマークを外す。空きスペースを効率よく使う、そして相手のマークを受けながらのキックやトラップの精度を高める、そのような練習だが、得てして、日本ではパス回しを最優先にした練習になっている。

ところがドイツでは、前の方で触れたように目の前の敵との1対1にこだわって、そのマークする相手を自らの力で抜こうとする。1対1の潰し合い。サッカーの攻撃の原理原則の第一条は、数的有利な状況を作り出すこと。ボールをキープした者が、パスを出す前に相手マークを外して、スピードに乗れば、ボールを保持する側は極めて有利になり、守る側は大ピンチに陥る。

そこで、特に子どものチームのコーチの方々に考えてもらいたい。ドイツ式のパス回しと、香川真司が仙台で子どもの頃所属していたチームの、パスをしないでドリブルで前進、相手ゴールに迫る練習を取り入れて欲しい。これらは、1対1の対人プレーに強くなるいい練習方法だと思う。

もう一つ内田がドイツのサッカーについて言っていたのは、日本と同じように、何よりも「チームのため」「勝利のため」という自己犠牲の精神が尊重されることらしい。ミーテイングでも、そればっかり監督が強調して、ちょっと意外でしたと述懐している。

2013年10月20日日曜日

ア式蹴球部思い出アラカルト2

   そんなこともあったか!!                                                

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1969年、大学に入学入部して2、3ヶ月経った頃、新人戦があった。関東地区の大学間でのトーナメント方式による大会で我がチームは優勝した。

この大会は、さほど重要な大会ではなく、新しく大学に入った学生たちの、学校間の交流を深めようとの試みか、新入部員にちょっとした刺激を与える程度のものだったのか、それにしても、私には大きな影響を与えた。

実力的にメンバーに選ばれるほどの技量を持ち合わせていなかった私は、最初から蚊帳の外、傍観者に過ぎなかったが、仲間が頑張って優勝したことを目の前で見せられ、茫漠として、掴みどころのないこれからの4年間の過ごし方が、少し形をなしたような気がした。そして、心に何か沸々(ふつふつ)としてくるのを感じた。

優勝はしたものの、ア式蹴球部内においては、それほど目出度いことではなく、まあよくやったなあ、程度の評価だった。当時のチームのメンバーは、日本A代表や大学選抜、高校時代にはユース代表だった選手たちがごろごろ、サッカーエリートの集団だった。メンバーの毛並みの良さでは他大学に追随を許さなかった。ワセダ、ザ、ファースト、常々にチャンピオンであらねばならない、と全員が自負していた。上級生たちにとっては、新人たちが新人戦に優勝したことで、わいわい騒いでいることなど、どうでもよかったのだ。

それでも、優勝したことには代わりはない。上級生たちからは、今夜は寮で君たちで勝手に宴会でもやってくれ、とあくまでも他人行儀だった。本堂マネージャーが、幾ばくかの予算をあてがってくれての宴会だった。

寮には会合できる畳20畳ぐらいの広さの部屋があって、そこが宴会場だ。食って、飲んで、歌って踊って、大はしゃぎした。宴会慣れている奴が面白い出し物を披露してくれた。3時間、4時間とダラダラ続いた。酒のコップを交わしての、仲間との初めての交流だった。私にとって、このような宴会は初めての経験で、彼らの強い個性に圧倒され、仲間の一人ひとりに興味を持った、このチームに入部したことを喜んだ。

ツマミは乾き物、エビセんに鯖の水煮、他は忘れた。ビールにウイスキー、ワイン、日本酒をチャンポンにしてぐいぐい飲んだ。宴会が盛り上がり、誰かが窓のガラスを箒で叩き割った。そのことが、宴会の勢いを尚一層高め、2枚、3枚、次々と10枚以上は叩き割った。誰も、止めるようなことはなく、みんなゲラゲラ笑っているばかり。痛飲に泥酔、久しぶりに天井がぐるぐる回り、それから先のことは全然憶えていない。きっと、ノックアウトされたボクサーのようにバタンと倒れたのだろう、その後寝っ転がったまま朝を迎えたようだ。

朝、目が覚めて、自分の顔を持ち上げようとしても畳から顔が離れない。反吐が糊になって顔が畳に接着されていたのだ。倒れこんで目が覚めるまで動かなかったことになる。死んだように倒れていたのだろう。顔を畳から剥がそうとしても、容易には離れない、畳に顔の表皮をめくり採られるように痛かった、それでも何とか剥がせたが、顔には畳の模様が深く刻まれていた。窓の外は、真っ青(さお)な青空、頭は二日酔いでズキンズキンと重たかったが、気分は爽やかだった。

そのうち皆が部屋から出てきて大掃除だ。4年生で新人監督で寮長の京都府出身の山城高校卒の海さんが、怖い顔をして、ガラス屋さんに行ってガラスをはめてもらうように頼んで来い、と指示した。ただそれだけだった。怒られなかったことが、不思議だった。この寮長の海さん、皆から何故か「和尚さん」と呼ばれていた。

大学のルールはどうなっているのだろう、私には解らなかった。このような部風ならば、俺のような男でも何とか4年間は過ごせる、頑張れるような気がした。同時に、いいクラブに入れてもらったことに感謝した。

今では、入部を希望しても希望者が多いために、簡単には入部が許されないそうだ。

2013年10月16日水曜日

謎の蝶、アサギマダラ

毎週日曜日の朝日新聞と日経新聞の書評欄を楽しみにしている。

関心外の本には目もくれないが、取り上げられる本のだいたいは、私に関心のあるものばかりだ。よくも、このように編集できるものだと、担当者の努力に脱帽。書評を読んだだけで、本を半ば読んだつもりになる。お金と時間が許されれば、購入して読めばいいのだろうが、スマン、私の現在の懐具合ではそうもいかないのだ。

今日は、20131013の日経新聞が取り上げた栗田昌裕氏の「謎の蝶アサギマダラはなぜ海を渡るのか?」のことが面白かった。ひぇ~へえ~と驚きながら、記事を読むだけで、スマン。このアサギマダラって奴の不思議さが異様に頭の中に残った。

この書評をここに転載させてもらう。得意のパクリだ。

 

 

本の題名・謎の蝶アサギマダラはなぜ海を渡るのか?

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著者・栗田昌裕(くりたまさひろ)

群馬パース大教授、東大病院内科医師などを兼任。

 

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重さ0.5グラムに満たない体を風に揺られながら、春から秋にかけ、1000キロも2000キロも旅をするアサギマダラ。世界でも唯一、海を渡ることで知られるこの蝶に魅せられ、アマチュアとして調査を始めて10年。これまで13万もの個体に接してきた。調査報告を基に、その不思議な生態の謎を教えてくれる本だ。

2002年、台風が過ぎ去った直後の自然公園で、おびただしい数のアサギマダラの群れに出会ったことが調査にのめりこむ直接のきっかけ。「ふだん目に見える群れで活動しているわけではない彼らが、最悪の気象条件下でどうやって集まれるのか。何を考え、どういうセンサーで動いているのかが知りたくなった」。

捕獲した個体の翅(はね)に日付や場所などの印を付けて放すマーキングの手法で生態を追う調査が、全国の研究者や愛好者らの協力で実施されている。その調査に03年から参加。「どうせやるなら自分にしかできない調査がしたい」と、ひと夏で1万頭以上もの個体にマーキング。離れた土地で再捕獲される数を基に数量的なデーターを作り、さらに「本州で捕獲した蝶を奄美大島で自分で再捕獲する」ことを目標に掲げた。

本書では実際に様々な地で再捕獲された話に加え、調査過程で明らかになったさらなる不思議な現象への驚嘆がつづられる。追い風もないのに1日200キロも海を渡り、なぜか好みの花が多い島を臨機応変に選び出す。毎年「渡り」を経験できる渡り鳥と異なり、アサギマダラの寿命は1年未満で、すべては初めての経験の中で判断されている。

「グローバルに眺めると、彼らは集団で何らかの羅針盤と天気図を持ち、気象を読んでいるとしか思えない」。医学や数学を通し、自然を数理的に見てきたと自認するが、「今はアサギマダラが『確率』を超えた存在と直感している」。(PHP研究所・1500円)

新聞配達のオジサンに感謝

20131016の朝日・天声人語に触発されて、この文章を綴り始めた。

私が此処に住み始めてから、新聞の朝刊が配達されるのはぴったり4時だった。私の一日の活動を始める時間とうまい具合に合致して、この時間に配ってくれることに非常に感謝していた。以前に住んでいた所では7時過ぎだった。

ところが、どういう訳か、新聞屋さんの都合か、配達する人の都合か、2ヶ月前から5時前後の配達になった。まあ、それでも、文句をつける理由にもならないし、しょうがないか、それならばそれで、慣れればいいんだと諦めていた。

そして10日程経った或る日、ゴミ出しに玄関を開けたその時に、偶然、新聞配達のオジサンに出くわした。ご苦労さん、ありがとう、と新聞を受け取って顔を見合わせた瞬間、オジサンは「この頃少し遅いでしょ、大丈夫、明日から順番を変えて、今まで通りの時間に入れましょ」と、私が、あっそう、と、それ以外口にする前にそれだけ言って、去(い)ってしまった。

オジサンは、私が1時間遅れて配達されることに不満を持っているように感じたのだろうか? そのことに文句を言おうとして、配達する自分を待ち構えていたのではないか、と勘ぐったのだ。私、そのようには微塵も考えていなかったのに、でも、今では、オジサンの早トチリに感謝はしているんだが。

そして今朝、大型の台風26号が関東に接近、4時は暴風雨だった。新聞はいつもの新聞受けではなく、雨がかからない庇が深く窓の格子の奥まったところに挟んでおいてくれた。オジサンの粋な計(はか)らいだ。

そして、今日は水曜日、弊社の営業部の定休日、私は出社するつもりで最寄の相鉄線弥生台駅に向かったが、突風が持続しているので、暫くは運行を見合わせます、とのこと。仕方なく自宅に戻って、この文章を綴ることにした。

 

20131016 朝日・天声人語

「いつの日も 真実に 向き合う記事がある」を今年の標語にして新聞週間が始まった。高らかな理念も、しかし、新聞配達という仕事なしにはありえない。日本の新聞の95%は戸別に配達され、それを全国の37万人が担っている。今日のような朝は、とりわけ頭の下がる思いがする。

同時に、どうか無理せずにと祈りたくなる。大型の台風26号は、ちょうど新聞が届く未明から朝に本州に近づく。「苦労に報いるコラムを書いているか」と自問したくなるのはこんなときだ。

日本新聞協会が毎年募集する「新聞配達のエッセー」を読むと、ねぎらいを寄せてくださる読者は多い。青森県の長山和寛君(15)は、3・11の翌未明に、凍てつく道を歩いて届けてくれた若いお兄さんが忘れられないと書いていた。

配達員も思いをつづる。長野県の豪雪の村で、早く起きて自宅前に道を作ってくれるおじいさんがいる。道路から離れた家々では、道端に冬用の新聞受けを出してくれる。人々の温かさで続けられている、と村山由美子さん(62)は感謝を記す。

社会をゆさぶる調査報道も、キャンペーンも読者に届いてこそである。バイクの音、新聞がポストに落ちる音で一日が始まる人は多い。届けるという行為の素朴さが、夜明けの匂いを連れてくる。

今朝は多くの地域で嵐をついての配達となるだろう。その安全を願うのに自社も他社もない。お手もとに届いた新聞は、皆さんの前で少しほっとした風情かも知れない。人の心を映すように。

2013年10月12日土曜日

ア式蹴球部思い出アラカルト1

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そんなこともあったか!!

 

大学時代のクラブ活動を、あれこれ、思い出してみた。

体力、テクニックにおいて極めて稚拙な私だったけれど、よくも頑張ったよと2人は褒めてくれた。20131004の夜、同期の高と淀との会食中のことだ。高校時代にきちんとクラブ活動をしていなかった、それに、2年間の浪人時代のドカタ稼業で、スポーツにふさわしくない筋肉が徒(あだ)となり、足の裏を地面にべったり踏みつける癖がついて、これがサッカーにはよくなかった。

入部当初、私を含めて新入部員の数人はチームプレーを主とした練習メニューには、グラウンドマネージャーからヤマオカと誰々は外へ出て、キック板でボールを蹴ってろ、と言い放される。情け容赦なく追いやられ、仕方なくみんなの練習を見ながらひたすらボールを蹴り続けた。この処分はしょうがないと受け止めた。下手なんだから。こんなことが1年間は続いた。

キック板に向って的を定めて蹴る。キック板に左斜め右斜め、直角に向ってドリブルして蹴る。アウトサイドでインフロントで、たまにはループ。吊るされたボールにヘッデイングをする、少しボールを下げてボレーキック。

インターバルといって、ゴールラインから向こう側のゴールラインの100~110メートルを16秒で走り、1分間で戻ることを繰り返す、こいつが私には非情だった。10本をこなすぞと言われても、最初の3本くらいはなんとかクリアーしても、その次に入れないと、もうその後は、どんなに藻掻いても入れない。10本でみんなが上がって、私だけが居残り、タイムを計るまでもない、意識が朦朧。容赦なくスタートの笛は鳴らされる、ふらふらしながらスタートをきる、意識が薄れて、タッチラインから逸(そ)れ、近くのグラウンドの外の生け垣に頭もろとも突っ込むことがしばしばだった。顔はツツジの固い枝で傷だらけ、痛さは感じない。何本走ったか解らない。先輩たちは、つま先で走るんだよとか、ハーフェイラインまでダッシュすればなんとか入れるんだよとアドバイスをくれるのだが、余力がない、体を制御できない。夏の合宿では、1日の全ての練習を終えた後、一人居残りで108本走った日もある。1本走るごとに塚さんがバケツの水を頭にぶっかけてくれた。神の水だ。誰もいなくなったグラウンドに仰向けにひっくり返ったまま、我にかえるまで暫くの時間が必要だった。

雨の日の練習は楽しかった。テクニックのある選手は、泥んこのグラウンドを恨んだが、私にとっては、この時こそ、上手い奴のボールを掻っさらういいチャンスでもあった。ボールをキープするテクニシャンに、多少遅れてでも詰めることができたし、5、6メートル先からのスライデイングでも、ボールを奪うことができた。泥んこグラウンドは気持ちがいい。

練習の定休日の月曜日に、山岡と吉祥寺までよく走ったよなあ、俺よく憶えているよ。きっと一人では面白く無いので、同期の淀を誘ったのだろう。練習のない日だって私は休まない、気楽に自分勝手な練習に励めた。体力、とりわけ走力がなかったので、練習といえば走ること、グラウンドを走っていても面白く無いから、街中をどこまでも限りなく走り回ることだった。電柱と電柱の間を、全速力で走り、次は普通の走り、そして歩く、を繰り返した。疲れては腰をおろして街の風景を楽しんだ、そして歩いてまた走った。吉祥寺の井の頭公園、善福寺公園までは定期コース、たまには多摩湖へも遠征、周りを走った。

高には、4年間、部費と寮費の徴収で苦しめられた。補佐役のマネージャーから本物のマネージャーになったが、金欠未払いの私を、な、か、な、か、見逃してはくれない。いつまでも、しつこく追い回された。「罪と罰」の主人公の青年のようにこの高の頭を斧で叩き割ってやろうかとまでは考えたことはないが。でも、やっぱり、私には支払った記憶がないので、最終的には、高はきっと私をリストから外してくれたようだ、と密かに考えているが、怖くて確認できない。そんなこともあって、15年程前に、雀の涙ほどの寄付をさせてもらった。帳尻を合わせておかないと、死んだら閻魔(えんま)さんに、舌をペンチか何かで抜かれるそうだから。

遅れてクラブハウスの風呂に行くと、誰かが風呂で歌っている奴がいる。練習が終わる頃には一斉に皆が入るので、湯は泥色、浴槽の底には砂利がじゃりじゃり。入浴ラッシュ時から2時間程経った後は、人気(ひとけ)がなく、湯は澄んでいる。着替え室でジャージを脱いでいると、しんみりとテレビ番組の銭形平次の主題歌を歌っているのが聞こえてきた。そうっと静かに浴室のガラス戸を開けると、そこに後輩の広島からきた新入部員の杉老が、涙を溢れんばかりに流して、顔はぐっちゃぐちゃ。まずいものを見たようで、気まずかったが、どうしたんだと声を懸けた。山岡さん、広島の彼女のことを思い出したんです、と意外にあっけらかん。彼女と銭形平次とどういう関係があるんだと、聞いたが答えはなかった。

グラウンドの管理人の菊間のオヤジには可愛がられた。オヤジさんには高校生の娘さんがいたので、オヤジには何か思うところがあるようだった。そんなふしが見られた。心臓を患っていた菊間さんから、アルバイトでグラウンドの隅っこに生ゴミの捨てる穴を掘ってくれるように頼まれた。一穴(ひとあな)2000円だった。労働時間は3時間。直径3メートル、深さ2メートル。地表は関東ローム層で、ドカタ上がりの私にはいとも容易い作業だった。お金をくれて、その夜晩飯に招待してくれた。思いっきり食って、思いっきり飲ませていただきました。

グラウンドと菊間のオヤジさんの住まいを兼ねた管理事務所の間に、無花果(いちじく)が毎年大きな実がいくつも生るのだが、その無花果が熟すまでに私は内緒でちょうざいしていた。オヤジからは必ず、お前が採っただろうと、怖い顔で叱られた。私側の言い分は、これはグラウンドのものだから誰でも収穫する資格があるのだと、オヤジにしてみれば、自分の庭先の物は自分の物で無花果も管理の範囲内なのだと思っていたのだろう。熟するまでに、食われる前に食う、これ生存のための知恵だ。

3、4年生の時は、一日中グラウンドにいた。朝から昼までは、サッカーの体育の授業の助手をしていた。講師はサッカー部のコーチの吉さんだ。この吉さん、いい加減な先生で、雨が降ると必ず来なかった。私が授業に来た学生にサッカーのルールを教えて出席を取って、余った時間を学生たちに勝手にチームを作らせて試合をさせておいた、それで一丁上がり。吉さんは大学の体育の講師と喫茶店経営にサッカー部のコーチの三足の草鞋(わらじ)を履いていた。私に支払われるアルバイト料は、時給120円だったが、授業には2人の助手が必要だと吉さんが体育局に申告しておいてくれたので、2人分をもらえた。それでやっと時給240円也、これでも超割安で誰も引き受けなかった。

それからの昼間の1時間は、駅前の中華料理店吉葉で、皿洗いと飯盛り、メニューのオーダーを受けて、料理をテーブルまで運ぶアルバイトをした。お金をくれたが、それよりも嬉しかったのは、賄いつきというか、昼飯を只で、何でも思いっきり食わせてくれたことだ。これは助かった。サッカー部の連中が食いに来て、そのときの飯の盛りに苦心した。顔を見るとついつい盛りが多くなってしまい、それを店のおっちゃんが、おいおいヤマオカ、それはナンボナンデモ多過ぎるよ、たしなめられた。この仕事を終えて、13:00に再びグラウンドに戻った。

16:00頃、皆と一緒の練習が終わると、ほとんどの部員は風呂に出かける。クラブハウスの風呂か、銭湯だ。私や淀、他の数人にとっては、練習が終わってからこそが、面白い。誰にも迷惑かけなく、思いっきり好き勝手に、やりたい放題の練習が楽しいのだ。淀は、ドロップキックで50~60メートル蹴る、そのボールの受け役を担うのだ。ボールをトラップする際には、頭で、足で、胸で止め、自分のやりたい方向にボールを運び、そして思いっきり力を込めて大きく蹴り返す。右の足で、左の足で、高くゆるいボール、低く速いボール、これの繰り返し。

16;30頃、そうこうしていると付属高校の練習が始まって、そこに入れてもらって練習をする。紅白ゲームにも参加する。日没、照明のないグラウンドで全く見えなくなる時点が練習の終わり時だ。この付属高校からも大学のチームにやってくる者もいる。私の大好きな山梨県出身の志君もその一人だ。

たまには伏見湯にも行った。カッチャン風呂だ。カッチャンと呼んで憧れていた娘さんが番台にいる。嬉しいやら恥ずかしいやら。生活資金が慢性的に枯渇していたので、食うこと、古本を買うこと、酒を飲むこと以外に費やす金はなかった。銭湯の帰りに、卒業後も増々交流を深めるようになるマサが、ヤマオカさん、美味そうやなあと、2人は肉屋のショーウインドウに並べられている手羽焼きに熱い視線で釘付け。私に金がないことを百も承知なマサは、ニンマリとして、金はあるさかいに、といいことを言ってくれる。後輩に一番大きな手羽焼きを買ってもらって御機嫌だった。卒業したら、何かでお返しをしなきちゃイカンと思っていたが、未だにお返しをしていないばかりかお世話になりっ放しだ。

湯上がりのいい気分、東伏見駅の前の下り坂を寮に向っていたら、焼き鳥屋の店先から、菊間のオヤジが、ヤマオカ、飲んで行けと、私を見つけたときは必ず声を掛けてくれた。オヤジには持病があったので、ダラダラ飲み続けることはなく、ジョッキー2、3杯と焼き鳥5、6本を私にくれて、彼は帰っていく。焼き鳥屋の前を通る時、彼が店の入口付近にいるのを楽しみにしていた。いないときはがっかり落胆、いない方が普通なのに、いない彼を恨んだ。

金を使わないためにも読書に耽ることにした。デカダンから自然主義派、左翼系、手当たり次第に、古い文庫本を買って読んだ。学校からの帰り、高田馬場までの間に古本屋さんが何軒もあって、店先に並べられた1冊10円とか、10冊で100円とかの本を片っ端から買った。大学時代に読み終えた文庫本は優に1000冊は超えた。途中で読むのを止めた本もかなりある。

大きな大会が迫ってくる秋は寮内では禁酒、門限はいつも11時だった。3年生頃から、疲れた心身を癒すために、皆が寝静まった頃、湯沸しポットで酒を燗して飲んでいた。誰もが嫌って、近づかないバアチャン部屋で一人で寝ていた。寮の部屋は色んな間取りになっていて、2人部屋、4人部屋があった。バアチャン部屋は日当たりがなく一日中真っ暗だった。寮の建物全体はL字になっていて、バアチャン部屋はLの角部分にあった。一人で酒を飲んでいると、12時を過ぎて酔っ払った1年先輩の畑さんが帰ってくる。門限破りやで、と私にも禁酒の掟破りの負い目があるので、小さな声で話すと、戻ってきた説明に妙に筋が通っていて納得させられた。上手いこと言うものだと感心させられた。それは、俺は昨日の門限には帰ってなかったが、今日の門限には帰ってきているやろ、という言い訳だ。腑に落ちないが、まあ、ええやろう、だ。

このバアチャン部屋ではネズミがよく捕れた。布団の上を縦横無尽に移動するのを眠気眼で追う。ネズミ捕りを仕掛けたら面白いように捕れた。目の前でネズミ捕りに入っていくのを見ていた。餌は何でもよかった、酒のつまみにしていたエビセン。小さい手足の赤い指が可愛いく震わせて、お尻が実にセクシーなのだ。このちゅうチュウの声が、卑猥な音に感じられた。きっと私の頭の中も卑猥だったのだろう。朝の起床の体操のときにネズミの入ったネズミ捕りを持ち出す。体操を終わって、先輩の脇道さんがネズミ捕りをそのままをバケツの水に浸(つ)けて殺した。ちゅうチュウの声が耳から離れない。私は土に穴を次々と掘って埋葬した。

次回は「ア式蹴球部思い出アラカルト2」だ。

旧交を温めた

     

20131004、金曜日の夜、大学のサッカー部を4年間一緒に過ごした同期の淀と高と私の3人で、横浜から歩いて5分の季節料理店で、一献傾けた。我らが卒業したのは昭和48年、1970年のことだ。

淀はかってはJリーグのあるチームの社長さん、出身は兵庫県の進学校。高は東証上場の情報通信の製造ソフト会社の管理部門の幹部だった。実家は横浜駅を眼下に見下ろす丘陵の一番いい所にデンと構える大きな屋敷。築年数は約150年。お父さんも同じ大学の先輩で、ベルリンオリンピックの日本代表選手だった。私はと言えば、不動産会社の経営者の端くれ、主たる業務は、中古住宅のリフォーム再販だ。

淀にしても高にしても、彼らの卒業後の活躍においては、目を見はるものがある。比べて、私の方は恥ずかしい限りだが、ここに至っては後の祭り、何とか我が街道を進むしかない。これからだって、大挑戦は無理でも、ほどほどに無理したい。勇気無き者はグラウンドから去れ、だ。

今回の飲み会の私の大きな目的は、私が思いついたものの、果たして喜ばれるものかどうか、OB会の役員をしているご両人に意見を求めることだった。サッカー部の部員のための奨学金を私の雀の涙ほどの資金を寄付することで発足したいと考えたことについてだ。肩すかし、彼らからはこの件に関してはにべもなく、よろしく頼むわで終わってしまった。

後は家族のことと現在の仕事をほんの少し確認し合ったぐらいで、ほとんどの時間を昔の思い出話に花が咲いた。私は急ピッチで焼酎のお湯割りを作っては飲み、作っては、飲んだ。いい気分だった。

この3人は多くの仲間と一緒に、45年前に、新入部員として東伏見のサッカーグラウンドで出会った。それからの4年間は自分との闘いだった、貴重な鍛錬の日々だった。高はマネージャーの道に進み、淀はキーパーだ。彼たちの目に私のことがどのように映っていたのか、私のことをどのように考えていたのだろうか、それが興味深かった。

 

秋の夜長、学生時代のつまらぬことをこの機会に書き出してみよう、、、、。思いつくままのよしなしごとだ、、、、。

それでは、、、、、、、、、、、トウザイトウザイ。

思いつくまま、「W大ア式蹴球部思い出アラカルト」として、書き加えていきます。乞うご期待!!

奨学金制度

2013 9 24

 

早稲田大学ア式蹴球部

OB会長 川本章夫 殿

各役員、各理事のみなさん 

 

昭和48年卒  山岡 保

                  

                 寄付をさせていただくことについて

 

寄付金の総額・金・・・万円

支払い時期・2013 10 31までに、金・・・万円

        2014 10 31までに 金・・・万円

        2015 10 31までに 金・・・円

 

寄付をさせていただくことの趣旨と、寄付金の使途についての希望を述べさせてください。

私は昭和44年に2浪の末に入部させてもらいました。高校時代に、きちんとしたクラブ活動をしていたわけではないので、技術は稚拙極まりなく、体力は極端に不足していました。その貧弱さは余りに悲惨なものでした。それでも、何とか4年間を過ごすことができたのは、「早稲田大学ア式蹴球部」だったからだと感謝しているのです。その4年間に得たものは、サッカーの技術や知識は当然、先輩後輩同輩から、得難い、膨大なモノを獲得させていただきました。このモノって奴を、私の持つ語彙の量と筆力では著せません。部活動の周辺や超えたところでも、素晴しい友人知人にも恵まれました。これらのことに感謝して今回の寄付を思いついたのです。

4年生の時には大学選手権優勝、関東大学選手権優勝の2冠の栄誉に輝くことができたこと、この栄誉の一端をささやかながらも担うことができたことは、私の人生においてこの上ない喜びになりました。幸せ者です。その後、社会人になって、幾多の苦難に遭遇した際にも、大学時代を何とか頑張り抜いたことが大きな自信になり、その自信が支えになって冷静に対処できました。

卒業してから今まで、仕事にかまけて、OB会の活動に協力できなかったことに対する罪滅ぼしでもあります。

リーマン・ショック以降、荒波にもまれていた会社の経営が一段落して、最近やっと落ち着いたところです。再起を図るべき時期に入りました。

ア式蹴球部に何かで恩返しをしたいと考えるようになって、同期の工藤君と高島君に相談した結果、経済的な事情を抱えながらも入学入部を希望している者や、在学中の学生の資金提供者に経済的変動などの発生等で、生活費の捻出に困窮している学生らがいると聞いて、ささやかだが彼らの奨学の資金にしていただけたらと思いついたのです。

対象とする学生の選考や、奨学資金の運用方法は全てOB会にお任せします。一年に一度の運用報告を いただければ幸甚の至りです。

OB会の運営に日頃ご尽力を頂いている会長はじめ各役員、各理事のみなさまには感謝しております。今後共、ア式蹴球部がますます活躍してくれることを祈願して止みません。

この書状の基本的な文章を綴ったのは、私の65歳の誕生日の夜のことでした。

2013年10月1日火曜日

竹の花って

竹の花

20130929、弊社が、ある建設会社に経営参加するために、その打ち合わせに真鶴に行った。運転手は経営責任者の中さん、私は車中、後部座席で、眠気眼(ねむけまなこ)をこすりながら、窓外を何気なく眺めていたら、小田原の街中だったか、「竹の花」という信号に気づいた。

ナヌ? 竹の花って一体なんだ?と!! 本物の田舎者を自負している私でも、竹の花を今までに見たことがない。これはまずい。私の沽券に関わる問題だ。子どもの頃は、竹で竹馬や水鉄砲に紙鉄砲、竹とんぼを作った。筍(たけのこ)掘りもやった。このように、竹に慣れ親しんだこの俺さまが、知らないではすまされないと焦った、素早く手帳に竹の花と殴り書き、帰社して調べることにした。

この文章を綴っている最中に、スタッフに「竹の花」って交通信号を知ってるかと聞くと、信号は知りませんが、小田原に「竹の花商店街」「竹の花通り」がありますよ、と教えてくれた。やはり、小田原だったのだ。

上の写真2枚は、ネットから拝借した。

 

そうしたら、、、、、、、。

タケ(竹)とは、イネ目イネ科タケ亜科で、茎が木本(木)のように木質化する種の総称である。笹なども竹の仲間。多年草だ。

どっぷり田舎で過ごしたから、樹木や草花を十分に知り尽くしている筈だったのに、竹の花だけは確かめたことがない。

そこでネットで調べれてみると、面白いことに、竹の花が咲いた時には不吉なことが起きるなんて、ミステリアスな文章まで見つけて、俄然、関心が高まった。

竹の種類によって例外はあるらしいが、毎年花を咲かせるようなことはない。種子から発芽して、数十年後から100何年後かに花が咲いて、そのとき実を実らせるのだろうが、その後に一斉に枯れるらしいのだ。どうして枯れるのかは謎だが、一斉なのは、地下茎で多くの竹が繋がっているからだろう。その枯れた一団の竹林を想像すると不気味だ。そのようなことから、昔から不吉なことが起こる前兆などと言い伝えられる。

竹の群生を竹藪と呼んでいるが、丘陵地になっている藪の竹が全て枯れてしまうと、地盤を固めていた地下茎も枯れて、崩落しやすくなる。昔の人はこのようなことを心配して、竹の花が咲いたら不吉だと言ったようだ。

竹の不思議なことがもう一つある。それは、親木から株分けや挿し木したものも、親の竹の枯れる時期とまったく同じ時期に花を咲かせて枯れてしまうことである。親木から遠く離れた場所でも、環境の全然異なる場所に植えらても、1年もたがわずに、同じ時期に枯れるのである。

そう言えば、竹取物語も謎めいた不思議な物語だ。世界最初のSF小説だと言う人もいる。

2013年9月27日金曜日

ジャッキー・ロビンソン

昨日、私のこのブログで『「差別やめよう」大行進』を綴った。

そして今日、20130927の日経新聞の「春秋」は、ジャッキー・ロビンソンが人種差別と闘ったことを取り上げた、この文章もマイポケットに蔵(しま)いたくて転記させてもらった。春秋氏も天声人語氏には負けてはいない。蔵うを「しま」うと当て字にしてみたが、私のセンスは如何なもんですか?

 

ジャッキー・ロビンソン

20130927 日経・朝刊

春秋

黒人初の大リーガーといえば、第2次大戦が終わって間もない頃にドジャースで活躍したジャッキー・ロビンソンの名前が思い浮かぶ。実際には、19世紀に黒人大リーガーが誕生していたらしいのだが、人種差別の壁を打ち破ったのは何といってもロビンソンの功績だ。

その背番号42は大リーグの全球団に共通の永久欠番となっている。彼が大リーグにデビューして50周年にあたる1997年4月15日からのことだ。ただ当時すでに42番をつけていた選手は継続使用を認められた。それから16年。この番号を背負った最後の現役選手となったヤンキースのリベラ投手が、今季限りで引退する。

つまり来年から、42番をつけた選手がプレーすることはなくなる。もちろん4月15日の「ジャッキー・ロビンソン・デー」は例外だ。この日は逆に、すべてのプレーヤーがこの番号を背負う。大リーグの歴史にあって、ロビンソンの存在はそれほどに重い。すばらしいプレーの記憶に劣らず、卓越した人柄の記憶によって。

内外の反発を押し切ってロビンソンをドジャースに招いたリッキー会長が、初めて会ったときに口にしたと伝えられる言葉は、「やり返さないだけのガッツを持って欲しい」。人種差別に敏感という評判のあったロビンソンに、自制する根性こそ本物だと指摘したのだ。そして大リーグの宝が生まれた。

 

毎年4月15日の、ジャッキー・ロビンソン・デーには、かって球団に所属していたアフリカ系アメリカ人のOBたちが招待される。それは、ジャッキー・ロビンソンがアフリカ系アメリカ人の代表と認められているからだろう。そして、この日の試合は42番を背負った多くの選手たちで行われると聞く。

とりわけ、1997年4月15日はジャッキー・ロビンソンがデビューして50周年のこの日、ドジャースvsメッツのゲームで5回終了後、当時のアメリカの大統領だったクリントンが記念式典に参加し次の言葉を残した。「すべてのアメリカ人は、ジャッキーに感謝しよう。彼のおかげで、アメリカはより強く豊かな国になれた。次の世代の明るい未来のために、彼の遺産を大切にしていこう」と。時のアメリカ大統領に、ここまで言わしめたジャッキー・ロビンソンのプレーする雄姿をこの目で見たかった。

偉大な選手に尊敬の念を抱くのはどこの国でも同じだろうが、それにしてもこれほどに尊敬されるスポーツ選手は他に例がないのでは。人種差別に対して、静かに怒りをもって闘っていた。マーテイン・ルーサー・キング牧師やマルコムXと同じように語り継がれている。

上の春秋の中にもあるが、ドジャースのリッキー会長が、オーナー会議において15-1で否決され、それに、実力だけならもっといい選手がいたにもかかわらず、ジャッキー・ロビンソンの入団を決意したと、野球記者=ナガオ勝司の文章で知った。実力だけで評価したのではなく、「アフリカ系アメリカ人を代表できる、優れた人格者」だと判断したのだろう。

 

ジャッキー・ロビンソンの言葉より

 

「不可能」の反対は、
「可能」ではない。
「挑戦」だ!!

 

一流になれ、
そうすればものが言える。

 

もし、他人に何かの
インパクトを与えるような、
生き方が出来なかったとしたら、

人生などそれほど
重要なものではないと思う。

20130924 私65歳になりました

その日、私の生家では父と祖母が落ち着きなくそわそわしていた。65年前の今日、とりわけ祖母は、母が女の子を生むのを期待していた。ところが、期待を見事に欺(あざむ)くかのように、私の産声は、男で何か文句あるのか、と言わんばかりに大きかった。昭和23年9月24日の昼前のことだ。

長男、次男に次いで、三番目には女の子を強く望んだ祖母は、あからさまに落胆したそうだ。母は困ったが、母には罪はない。それでも、大学に入るまでの田舎暮らしでは、祖母は私を滅茶苦茶可愛がってくれた。生誕の地は、京都と滋賀の国境(くにざかい)、京都府綴喜郡宇治田原町南亥子(いね)78番地。父・勝治、母・ハナの三番目の子ども、三男坊だ。

気がついてみたら65歳! というのが正直な気持ちだ。何で、どうして、いつの間に?と考えても、光陰矢のごとし、毎年誕生日ごとに、年齢を確認していたのに、ここまできてしまった。朝一番、目に入れても痛くないほど可愛い孫・晴からは、お祝いのメールをくれた。

冷感症の行政省庁、厚労省は、65歳からは前期高齢者、75歳以上は後期高齢者、85歳以上を末期高齢者と呼ぶ。いかにも、死期が近付いてきたことの露骨な告知、そろそろお迎えがきますネ、そんな響きをもつ。この末期という用語は、世界保健機構(WHO)でも公式に使っているというが、英文ではどのように表現されているのだろうか。末期高齢者という言語が日常に使われていることに、ぎょっとしたのは私だけではないだろう。

総務省の発表では、今月16日の敬老の日の人口推計で、65歳以上の高齢者が3186万人、総人口に占める割合が25%に達した。4人に1人が高齢者だそうだ。医療保険では、前期高齢者医療制度に65歳以上75歳未満の人が適用される。当然、私も今日から対象者だ。

少し前までは、このブログでも何かにつけて、私のことを初老ですと紹介してきた。或る小文を読んでいて「初老」が気になって調べた。講談社の日本語大辞典で、初老のことを「もと、40歳の別称」「老年期に入る年ごろ」と教えられ、それまでの無知さに赤面したものだ。この40歳というのは、人生50年とか言われていた時代の名残りで、今はそうでもないが、それにしても65歳は立派な老人であることは間違いない。

お陰様で、全身丸々、隈なく異常なし、至って健康体。それでだ、これから、当面の5年をどのように過ごせばいいのか、と考える。5年は今までと変わらず活動できるとして、だが。会社勤めと、個人的な生活を如何に過ごすかってことだ。

会社においては、取締役会長の肩書をもらっているが、為すことは、経営者の一人として社長を支えること。細かくは、私が犯したミスを二度と社長が犯さないための番人役、スタッフが働きやすいように環境を整備する、中長期の経営計画策定、社内における円滑なコミュニケーションを確保することだ。

そして、仕事以外の生活においては、本を読み、拙い文章を綴り、果樹を育て、野菜を作ることにおいては、ますます進化したい。友人らとの交流を深めたい、4人の子どもの頑張りぶりと孫の成長を見届けるのも楽しい作業だ。

加えて、大学時代に、強い社会人になるための心棒になる部分を育ててくれたクラブに何らかのお返しをしたいことだ。特別にお世話になったア式蹴球部。恩返しなんて、気恥ずかしいが、何かで喜ばれることをしたいと考えている。来月4日、同窓で同期の高と淀と酒を飲んでの打ち合わせで妙案が浮かべばと楽しみにしている。淀は、かってJリーグのチームの社長さん、高は東証上場の某情報通信ソフト会社の幹部だった。

2013年9月26日木曜日

「差別やめよう」大行進

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20130923 朝日・朝刊

横断幕やプラカードを掲げ撤廃を訴え行進する参加者=午後、東京都新宿区、仙波理撮影

 

ヘイトスピーチに強い関心を持つ。

20130922 「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)など差別的な動きへの反対を訴える「差別撤廃 東京大行進」が東京・新宿で行われた。ツイッターなどの呼びかけで、約1200人が参加したと20130923の朝日新聞・朝刊の記事で知った。昨今のむき出しの民族蔑視に反対する行進だ。

記事によると、デモ隊の先頭は、黒のスーツ姿で「一緒に生きよう」などと書かれたプラカードを掲げた。1963年に米国でキング牧師が人種差別撤廃を訴えた「ワシントン大行進」がモデルだ。

この機会に、ネットでヘイトスピーチのことを調べて、その実態の醜さに肌寒くなった。私の一番嫌う話題だったからだ。

ヘイトスピーチって奴の言葉の意味は、hate(ヘイト=憎む、憎悪する、嫌う)+speech(スピーチ=演説、発言)からなるらしい。また、ヘイトスピーチとは、人種、民族、国籍、宗教、思想、性別、性的指向、障害、職業、社会的地位、経済状態、外見など、自分ではどうしょうもない事柄を抱えている人たちに対する憎悪や差別を正当化もしくは助長する発言のことをいう。

皆殺しとか、国外退去といった過激な言葉で在日韓国・朝鮮人を批判するデモが、東京・新大久保などのコリアタウンで繰り返されている。このように街頭をのし歩く連中がいるってことが不思議だ。不毛だ、そこから生まれるのは憎しみだけ。何で、そこまで敵意を表すのか、どうして、そこまで自分に気に入らない連中を排外しようとするのか。一人ひとりに聞き質してみたい。郎党を組んで行動するのではなく、一人では自分の主張ができないのだろうか。弱虫、馬鹿者だ。

私の悩ましい感慨を友人に話したら、ヤマオカさん、中国や韓国のネットでは凄まじい表現で日本人が虐(いじ)められているんですよ、その表現は、二度と聞きたくないほど非道(ひど)いものですよ、それに対する反抗とも思われます、右翼や国粋主義者らとは違います、と応えた。

韓国のマッカリ酒場でのこと。日本人のグループが、混雑している客席に分け入り、韓国の若者たちを睨み付け、「チャンコロ、日本軍のお通りだ」と言って座についた。日本語の解らない異国の人たちはポカーンとしていたが、隣の席の日本人には、何もかもが解っていた。

おかしいぞ、何とヘイトな表現?なこと!! 私は今まで何があっても日常、このような言語を使用すべきでないと心がけるが、このようにヘイトする奴とそれらの行動に反対する人たちが同じテーブルについて、互いに主張し合えないものか。

思考の浅薄な私の解決策は、ヘイトする奴らを強権を使ってでもやらせないようにするしかないと考えるが、この方法は、横暴だと批判されるのだろうが。いくら表現の自由を認めているといえども、絶対許すわけにはいかない、言語?同断だ。

 

憲法学者の桧垣伸次さんのネットにあった記事をここにダイジェストさせてもらう。日本ではヘイトスピーチを規制する法律はない。名誉毀損罪(刑法230条)、侮辱罪(刑法231条)が適用できる場合があるが、表現の対象が、人種民族などの不特定多数の場合は適用できない。

あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(人種差別撤廃条約)4条が人種に基づく差別の煽動を禁止し、処罰することを義務づけているが、日本は条約加入に際し、4条について、言論の自由に抵触しない限度で履行する旨の留保を付している。

2002年、国会で人権擁護法案が審議されたが、翌年廃案、2005年には、人権侵害救済法案が提案されたが、審議が進んでいない。桧垣伸次さんもまた、表現の自由という極めて重要な権利を規制することにつながりかねないと、懸念されている。

2013年9月23日月曜日

ジイジイ恰好いいよ!!

俺さまの最新のオシャレ? これって、やっぱり、ちょっと変な気分だ。

これから綴りたいことを綴ろうとするには、恥を忍んで、どうしてもプライベートなちょっとした部分、ランクの高い?マル秘事項を晒(さら)さないわけにはいかない。それは、私の持ち物の中で下着類が極端に少ないことだ。

独り暮らしの私には、少ない方が管理しやすいから、、、は表向きで、本当はものぐさで補充してないだけのこと。最近、そんなことを酒の席で話題にすると、事情を察した友人が早速パンツを差し入れてくれた、肌着は未だに夏用は2枚だけ、靴下は家人が買ってくれた。それで、よかったねでは、これからの話が進まない。

パンツはゴムヒモが緩んだ時が捨てどきで、ついに3枚になってしまった。同時に靴下も底をついた。靴下は、弊社の商品である中古住宅の家の周りの除草や樹木の伐採などの作業で、傷みが酷く洗っても汚れが落ちないものを、左右の揃いを気にしないでドンドン棄てるものだから、押入れの小さなケースには片足づつがバラバラの靴下の山だ。

その結果、左右不揃いの靴下を履くのが日常的になってしまった。

ところが或る日、たまに会った娘(長女)の娘(孫・小学1年生)が、ジイジイの左右不揃いの靴下を見つけて、破顔、腹を抱えて、全身を前後左右にワナワナ揺すり、驚天動地、大いに面白がってくれた。その興奮がいつまでも終わろうとしない。

  運動会 043

 MX-3500FN_20130923_170515  孫からの手紙の一部

 

そんなことがあって、最初は片ちんば(※)の靴下を履いての外出を多少気にしていたのだが、この孫からの称賛?を受けてからは、面(つら)の皮が一層厚くなったようで、堂々と平気で出歩くことにした。

懐かしい片ちんばという言葉を、この際きちんと確認しておきましょ。

(※)日本語俗語辞書=片ちんばとはもともと片方の足が不自由なことや左右の足の長さが揃っていないことをいった。ここから靴や下駄、靴下など左右異なったものを履いて揃っていないこと、片一方しか履いていないことをいう。更に箸や手袋など足に関係ないものでも、本来対の物が揃っていないことを片ちんばというようになる。跛(ちんば)ともいうが、どちらも差別的表現を含む言葉である 。

数日後、今度は二番目の娘(次女)に言われた。「お父さん ナウイ、ネエ アメリカでは、今、有名人が左右柄違いの靴下を履いてコマーシャルに出て、その靴下の人気が沸騰中なんだよ。日本の店頭にも上陸したそうよ、ネットでも販売してるわ」、と、きた。

念の為に、友人Aにも聞いてみたら、「そうなんだよ、 最近、街なかで女の子が柄違いの靴下を履いているのを見たことあるぞ。あ、れ、れ、と思ったけれど、なかなか可愛いいんだよ」と言った。

そうか!! これがオシャレならば、俺はブームの最先端をいっていることになる。孫に会うときぐらいはできるだけ柄違いの靴下を履くことにしよう。