2013年11月4日月曜日

ア式蹴球部思い出アラカルト3

そんなことも、あったか!!

私が浪人時代にドカタ稼業で得た資金は、大学の3年間の授業料と3年間の生活費を合わせて見積もった300万円に近い額だ。郷里の農協に貯金をして、その貯金通帳と届け出印を母に預け、当面の資金だけを持って、1969年、昭和44年の2月のある朝、高田馬場駅に着いた。前の日の深夜、京都を急行列車銀河で発った。高価な新幹線などには乗らなかった。

私は、早稲田大学でサッカーをやるために、はるばる東京までやって来た。

大学に行きたいが、1浪しても2浪しても、勉強したいモノを思いつかなかった。だが、飢えていた。何でもいい、何にでも熱中、夢中になりたかった。この熱病者は、虐(いじ)めつけて引き留めておかないと、どこかに、飛んでいってしまいそうだった。熱(ほとぼ)りのはけ口をサッカーに向けた。

2年間の浪人時代はドカタ稼業と少しの受験勉強に明け暮れた。朝、目覚め、飯を腹一杯に食って、昼間、親方の指示に従って、仲間と共同して思いっ切り体を使って働いた。夕方、仕事を終えると、親方から酒を振る舞われ、帰宅、夜、酔って机に向っても、ほんの数分で居眠り、そのまま熟睡してしまうこともしばしば。働いているときは充実しているが、ドカタが雨で休みの日や、ドカタ弁当を食い終わって一息入れたとき、夜中に目が覚めたときなどに、屡々(しばしば)、急に不安になり焦燥に駆られた。夜中、ぶるぶる震えることもあった。

他にも数校の大学から合格通知はもらっていたが、決めたのは本命だった。当時の大学のチャンピオンで、日本サッカーリーグのどのチームと戦っても、十分互角に戦えるチームだった。学部は社会科学部だったが、どの学部でも構わなかった。

実家は貧しい農家だった。でも、実家の跡取りの5つ年上の長兄も父も、私が東京の大学に入ることには大賛成で、仕送りすることにも大いに賛同してくれていた、が、私にも意地があって、できるだけ貯めたお金でやり繰りしたいと考えていた。4年生の時の1年分の授業料は父と兄のお世話になるとして、生活費については、貯めた3年分の生活費を倹約に倹約を重ねれば、何とか4年間を過ごせるのではないか、と目論んでいた。

長兄は父の期待に応(こた)えるように、高校進学を諦め、2年間の高校の定時制(昼間、週に2、3日の授業)の茶業科に進みながら、お茶と米作を主とした農業に精を出した。村の人々が吃驚するほどの勤勉なお百姓さんになった。この兄は、中学生の頃でさえ、大人顔負けの仕事をこなした。

高田馬場駅の近くのホテルに1泊しただけで、翌日にはアパートを決めた。そのアパートの住所を郷里に電話で知らせ、布団や衣類、私がまとめておいた荷物を送ってもらった。大家さんは人の良さそうなおばあちゃんだった。荷物が届いて、入学の手続きを終えた。履修科目の登録も済ませた。

ようし、これからが大事な仕事に取り掛かるのだ、と気合いを込めた。サッカー部に入部するための手続きにグラウンドのある西武新宿線の東伏見に向った。当時の住所は、東京都北多摩郡保谷町東伏見だ。

東伏見駅に下りて、駅員さんにサッカーグラウンドの位置を尋ねたが、この坂を下りて行くと、色んなグラウンドがあるので、そこで聞いてご覧、と言われた。駅を出て右を見ると、東伏見稲荷神社への案内板があった。京都・伏見の稲荷神社にはよく行ったので、なあんだ、伏見稲荷の東の国の支社だ、こりゃ縁があるぞと親近感を持った。上背があって、屈強で筋肉モリモリのえんじ色のトレーニングウェアーの学生らがふざ(悪戯)けながら、坂を上(のぼ)ってきた。彼らの振る舞いは、天衣無縫、奔放だった。奴らは何部なんだろうか。大学の運動部はさすがに迫力あるなあ、と恐ろしくなった。あんな奴らに負けるもんかと力んでいた。今までに見たことのない体つきだ。

坂を下った突き当りが、サッカーのグラウンドだった。練習の終わった時刻だったのだろう、グラウンドには4、5人が銘々勝手に練習していた。グリーンハウスの前のベンチでしばらく周囲を見回したが、目ン玉がサッカーグラウンドから離れない。

急に近視眼になったように、サッカーグラウンド以外の風景は、漠然と霞がかっていた。

水飲み場で、水を飲んで顔を洗って、足を洗っている部員に近付いて行った。彼に、此処が私が入部を希望している早稲田大学のサッカーグラウンドであることを確認した。そして、入部を希望しているのですが、どうすればいいのですかね?と尋ねると、サッカー部の寮を教えてくれて、「そこで、海本さんに、聞いたら?」と関西訛りで答えてくれたので、私もつい、おおきに、と応えた。間抜けた質問だったのか。

その彼は新入部員の銀だった。球さばきが上手く、1年生でレギュラーに選ばれた。すっかり部員になりきっていて、大学生の風格のようなものを既に漂わせていた。この銀ちゃんとは、在学中も卒業してからも抜き差しならぬ関係?になってしまった。 

海本さんは新人監督で、後で知ったが、寮長さんでもあった。寮に行って海本さんに、面談を求めると集会場のような20畳ほどの部屋に連れて行かれて、お前はどっから来たんやと聞かれたので、京都の宇治にある京都府立城南高校出身であること、チームは強くなく部員も少なく、きちんとは練習していなかったことを話した。出窓に腰を下ろしてリラックスしながら、俺も京都出身で山城高校や、と海本さんは同郷のよしみ、か?親しみを込めて話しかけてくれた。私は恐縮して畳に正座していた。

さすが、強豪校の出身で4年生にもなれば、タイしたもんだなあ、と感心していたら、ええよ、分かったから、早く寮に来い、新人は強制的に入寮することになっているんだ、と言われ、数日前にアパートを決めて荷物が郷里から届いたばかりだったので、驚いた。少しは混乱した。賃貸借契約をしてたかだか1週間しか経っていないのに、家賃と礼金、敷金は戻ってこない?ものだと、と思わないといけないのか。悔しかった。

後で知ったのだが、ほとんどの新入部員は、大学の入試を受ける前からサッカー部のマネージャーと合格してからの手続きなどの打ち合わせをしていたのだ。セレクションというのがあることも知らなかった。私ら2、3人以外の新入生は、私が初めてこの寮を訪ねた日よりも、1ヶ月も2ヶ月も前から、練習に参加していたのだ。

セレクションなどに参加などしていたら、先ず、走力などに極めて劣っていた私は、バッテン印をつけられたことだろう。結果的に、直接、藪から棒に入部を申し出てよかったのだ。この海本さんが、誰にも相談なく、その場で決めてくれたことにも感謝したい。

当時の4年生は、日本代表(今でいうA代表)や大学選抜に数人が選ばれ、高校時代のユース代表が数人いて、他の大学とは比較にならないほど優秀な選手が揃っていた。そんなチームだったので、私のような者の入部は想定外だったのだ。入部にふさわしいだけの基礎的な能力を、私の自己申告だけで、判断してしまった。違う、判定などしようとしなかった、その太っ腹、鷹揚さに感謝。私は嘘をついたわけではない、私は幸運だった。

海本さんに、1週間前にアパートを決めたこと、それでも3日後にはアパートを引き揚げて入寮するので、よろしくお願いしますと、何度も頭を下げた。

問題はアパートの賃貸借契約の解約のことで、頭がいっぱいだった。どのように大家さんに話せばいいのか気を揉んだ。私の入居を大家さんは非常に喜んでくれたのだ。家賃は安いだけにそれなりに環境が悪かった。それでも、私には十分だったのだ。

大家さんは、上品でいいおばあさんだった。部屋を10日間使わせてもらったのに、家賃も礼金も敷金も全額そのまま返金してくれた。敷金は兎も角、家賃は、使った日数だけでも日払いで取ってくださいとお願いしたが、笑っているだけで、受け取ろうとはしなかった。礼金などもらえないよ、と顔を赤くした。恐縮する私に、頑張りなさいよ、しっかり練習するんですよ、と励ましてくれた。何度も何度も頭を下げて有難う御座いますと繰り返した。明日からは俺も早稲田のサッカー部だと思うと、興奮していつまでも眠れなかった。

翌日、田舎から送られてきた布団や諸々の荷物を、何もかも布団袋に押し込んで、高田馬場駅まで背負って行った。私の体の1、5倍もの荷物だ。腰を屈(かが)めているので見えるのは地面だけ、やっとのことで駅の改札口に辿り着いた。駅員さんがにこやかな笑顔で、切符に鋏を入れてくれたのを、顔を斜めにして確かめた。

かくして、高田馬場暮らしは10日間だけだった。