2012年8月29日水曜日

富士山に登ってきた

20120822(水)

早朝04:45に富士山の頂上に立った。

少し前に気が滅入る出来事があって、精神的に参っていた。私のうっかり、軽率が原因で他人に迷惑をかけて仕舞った。自分では細心の注意を払っているつもりでも、落ち度があった。強い衝撃を体験すると、思考が自閉モードに入り、状況を客観的に見られなくなってしまう。

そんな時に、突然、一昨年のこの時期に登った富士山のことを思い出して、よう~し、富士山にでも登ってスカットしてこよう、ということになった。霊峰富士に肖(あやか)りたい。0817、催行している観光会社をネットで調べた。休みは水曜日の一日だけなら、夜行日帰りしかない。

一昨年に登ったときは、孫がお世話になっている幼稚園の恒例の催事でだった。楽しかった。ゴリラ園長さん、可愛い保母さんにキャリアも性格も多彩な父兄さんたち、50人ほどの団体だった。孫に、私と次女夫婦が付き添った。孫はよく登ったものだと感心させられた。その時の孫の写真を見て、表情一つ取り上げても、この2年間の成長ぶりが余りにも大規模?なのに吃驚した。これからも、このスピードで成長していくのだろう。

ところで、俺は、この孫の成長に反比例して弱っていくというのか。確実に、死に近づいている。ならば、死ぬまでは懸命に生きたいと思う。

 

東京駅=8月21日 18:30集合

河口湖口富士5合目 22:00着 23:15にスタートした。

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参加者はバス1台、総員48名、1人で参加していたのは男性の3人だけ。1人は私で、仕事が急に無くなって毎日が日曜日になってしまったと仰る茨城の57歳、もう1人は、55歳でリストラされた後、三流大学の非常勤講師をしているという埼玉の69歳。

類は友を呼ぶようだ。3人は知らず知らずのうちに寄り添って、身の上話を小出しにしながら組みになって歩いた。こういう付き合いは気が楽だ。

足元がしっかりしている所を歩く時は、さほど、体の不安定さは感じなかったが、石が敷かれている所を歩く時は、バランスを崩して怖かった。足が石の上を踏みつけて前に進もうとするのだが、体がどうしてもふらふらする。夜の暗さのせいか、足腰が弱くなったせいか、この不安定さは初めての経験だった。

背を伸ばして歩くことはできなくて前屈み、急な坂の時には四つん這いになって進んだ。鉄の鎖が張られている所では、鎖を頼りにした。足と手で必死に登った。2年前、孫は蟹のように両手両足で石にへばりついて登ったが、まさしく同じ状態だった。

この2年間で、登山道は随分整備されていた。危なっかしい所は石垣にしてあった。私はその石垣に縋(すが)るようにして、いざというときには、石垣に身を預ければいいのだと考えた。軍手は岩にこすれて穴が開いた。

トイレが整備されていて、どこのトイレも綺麗になっていた。世界遺産登録を目指していることも、整備の後ろ盾になったのだろう。一度目に登った15年前と比べると、雲泥の差だ。

7合目 2700メートル=8月22日 00:20。

立ち休みしながら外界を眺めた。街が明るく輝いているのが不思議だった。何で、あんなに明るいんだ!! 炎上しているように見えた。写真を撮ろうとしたが、そんなことをする元気がない。休みは休み。

空には満点の星が、無数に煌(きら)めいていた。流れ星が見えた。星座表でその星々を間違わずに確かめられただろうが、今は、根気よく星を見られない。

非常勤講師は、ネパール人の教え子に連れられて、ネパールに行った時の話をしてくれた。私が勤めている大学は三流大学なので、外人の志望者がいれば誰でも入れちゃうんですよ。首都のカトマンズは半日停電しているんですよ。交通信号が点かなくても、何とかなるんですね。教え子の生家は田舎でね、私達の感覚では、弥生式時代の高床式住居ではなく縄文式土器の時代そのものでした。住居の中は土間で、鍋を使って窯(かま)で煮炊きするんだけれど、土間を触った手で料理するもんだから、お茶碗の中には土が入っている。それでも、平気なんですよ。風土病で若く亡くなる人が多いそうです。

富士山の中腹で休みながら見上げた空は、格別だった。大小さまざまな星が幾層にも重なって銀河をなしていた。星が今にも降ってきそうだった。非常勤講師は、星空を見上げて、久しぶりにネパールの夜空を思い出したと言っていた。ヒマラヤ登山の登り口でもある。

ヒンズー教と仏教が混ざり合っているようでした。牛は聖なる生きものだが、それに比べて水牛は、馬鹿扱いされていて、その肉も一番安くて不味くて、食物としては余り好まれていないようでした。ネパールの話はまだまだ続く。

8合目 3100メートル=03:00頃だ。それから、歩いても歩いても出てくる表示板には8合目で、まだだ、まだだ、と口に出した。ヨッシ、ヨシ、イチ、ニイ、オッイ、オイ、そのように手当たり次第に声をかけて、自らを激励した。

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富士山頂上 3776メートル=04:45着。歩きだしてから、5時間半。

最後の200メートぐらいから、登山者の列は込み入ってきて、危険が伴う恐れがあるので警備員が出ていた。登る列は、幾筋にもなって山頂に向かった、ご来光を頂上で見たくて焦った。

薄明かるくなってきた。最後の鳥居をくぐり抜けた。きつかった。今まで過剰なまでに自信に漲(みなぎ)っていた私だが、今度の今度はちょっと根を上げてしまった。そろそろ、老境の域か?

ご来光を写真に数枚収めた。この光景を外人たちはどのように感じるんだろう。売店の人の掛け声で、万歳三唱をした。日本人は万歳が好きだ。

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バンザイ!!

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富士山火口の一部                                富士山山頂気象測候所

 

1人ぼっち参加3人組は、お鉢巡りをした。2年前は、このお鉢巡りに差し掛かった時に急に雨が横殴りに降った。冷たかった。ところが、今回は最高のコンデイションのまま。

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影富士

 

影富士が見えた。東から昇る朝陽が富士山にあたって、美しい姿を裾野に影になって映したものだ。毎日が日曜の茨城のオジサンは、これを見たかったのです、と感慨深けだった。

ネパールは多民族が集まっているので、多言語国家です。それにヒンズー教の影響で、最下層の人々が多くいつまでも貧民街が変わらぬ状態なんですよ。どこも、貧民街ですよ。

お鉢巡りの行程の中ほど、富士山頂剣が峰3776メートルの気象測候所を下から仰ぎ見るように腰を据えて朝飯にした。私は前日に会社のスタッフ湖さんに作ってもらった握り飯を10個以上持って行ったので、同伴者2名にもお裾分けをした。悪くなっていないか心配したが、何ともなかった。

毎日が日曜日の茨城のオジサンは、富士山は休火山なのでいつでも噴火する可能性がある、週刊誌ではこれから何年かの間に、大爆発を必ず起こすと賑わしているんですが、それって、本当ですか、嘘ですっか?と聞いてきた。確かに、私はこのことをテレビで知っていた。

ヒマラヤ山脈に登るんじゃないんですよ、もう一度眺めたいので、来年、行こうと思っているんです。5000メートル以上の山に入るときには多額の入山料がいるのですが、それ以下だとかからないので、少しだけ、低い山を登ってみたいとも思うんですが、どうでしょうかね。

尻を地面に眺望を楽しんだ。遠くを眺めながら、前回来た時には東京・新宿のビル群が見えたんですよ、と言いながら手を伸ばして指先を遠方に指したら、その指先の向こうに、同じように江ノ島やみなとみらい、新宿のビルが雲の上に突き出しているのが見えた。インストラクターのいないグループなので、たったそれだけのことでも周囲の人には喜ばれた。

ネパールからの留学生の目的は、学業にではなく、学校に行きながらアルバイトに精を出すことなんです。そして金を貯めて帰るんですよ、100万円も持って帰れば家を建てても、まだ大金持ちですよ。建築は実にいい加減でした。数年前のこと、王宮が地震でぺちゃんこになったそうですよ。笑っちゃいますよね。

山頂に着きお鉢巡りも終えて、少しは緊張がほぐれたのだろう、欠伸(あくび)が止まらなかった。同伴者に笑われた。

7時過ぎに下山のスタートした。地面はカラカラに乾いていて、早足で起こす砂埃(すなほこり)で鼻の穴が真っ黒になった。頂上から6合目ころからまでは、植物と言えば、唯一、写真の草だけが下の方では比較的多めに、上の方ではまばらに生えていた。他のどの植物もここでは生きられないようだ。この植物のことを調べなくちゃ、イカンわ。

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富士五合目=11:45に着いた。約12時間後の帰還だ。6合目の安全指導センターに10:30までに着けなかったら、添乗員の携帯電話に連絡を取るように言われていたが、男3人組は楽々パスした。

いつもそうなんだが、下り切って平地をトボトボ歩くのが、これが想像以上に苦しい。足腰に疲労がたっぷり溜まり、頭がフラフラ、腹が減って、全身がもうすっかりクールダウン状態で、覇気もない。このような状態での30分の歩行は長い。

中国人らしい多くの観光客が、登山口で記念撮影していた。前回の時も中国人が多くて、戻って中国人の友人にその話をしたら、彼曰く、中国人は登ることよりも、写真におさめることが大事なんだ、帰国後皆に見せびらかすんですよ、恰も登ってきたかのように。偽の大学院の履修証明書とか、喋れもしないのに平気で英語ができます、コンピューターを自在に使えますとか、それと一緒ですよ。同胞の習性に批判的だった。

毎日が日曜の茨城のオジサンは、前回は雨で山頂に立つことができなかったが、今回はいい天気だったこともあるが、仲間に恵まれたと我らに感謝してくれた。

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毎日が日曜の茨城のオジサン

 

山中湖湖畔の石割の湯という施設に立ち寄り入浴して 約1時間の休憩。入浴後、かき揚げうどん400円也を食った。ロビーで地元の野菜を売っていたので、キュウリ、ナス、インゲン、シシトウ、各100円也を買った。今夜は得意の野菜炒めだ。

中央高速道路で東京に近づくと、いつもは混むのに、不思議にスイスイと走った。全身が重い、眠い。

新宿駅=18:00

 

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富士山のマグマだまりに

震災で大きな圧力がかかって、変形した。

地震から数年経ってからでも、噴火する可能性に警戒必要。

 

20120907に追記。20120906の日経新聞・夕の記事を抜粋させて頂いた。

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昨年3月11日の東日本大震災と4日後に静岡県東部で起きたマグニチュード(M)6・4の地震によって、富士山のマグマだまりに噴火を引き起こしかねないほどの大きな圧力がかかったことが防災科学研究所(茨城県つくば市)の研究でわかった。

富士山の直近噴火である1707年の宝永噴火で直前の宝永地震により富士山に加わった力より、今回の力は強く、研究チームは「地震から数年経ってから噴火する可能性もあり警戒が必要」としている。

力の向きはマグマを上下に押しつぶす方向と東西に引っ張る方向だった。静岡県東部の地震はマグマだまりの近くで起きたと推定されることから、大震災より影響は大きかった。

2012年8月26日日曜日

夜景を見て原発を考える

8月22日、富士山の山頂でご来光を仰いだ。05:00前後だった。

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ご来光。右は影富士。

 

この夏、最高のコンディションだった。この2年間、凄まじい経済環境に、もまれにもまれ、今、やっと復活の手応えを感じ始めている。強い精神力と体力でここをしのぎたい、そんなことを願っての夜行日帰り富士山登山だった。

前日の21日 23:15、富士山5合目から歩き出した。そして、歩を進め高度を上げていくごとに下界を振り返った。どんどん下界が広く見渡せて行く。真っ黒な闇の中で、富士吉田や、河口湖や精進湖の周辺、御殿場の街の夜景が、赤々と燃えているように見えた。そうなんだ、燃えているように見えたのだ。

少し前に観たテレビの終戦記念の特別番組の映像が、まだ、網膜で興奮状態のままのようだ。戦争を知らない私は、東京や日本各地の米軍による空襲で、街はこのように焼かれたのだろう、と想像した。それほど、異常に明るく見えたのだ。

空には満天の星。無数の大小さまざまな星々が幾層にも重なって銀河をなしていた。ネパールにも行ったことがあるという道連れの大学の非常勤講師は、久しぶりにネパールを思い出したと言っていた。この地球、大気圏を含めて汚したくないもんだ。

戦争が終って67年後、焼けているような街を見て、今度は、これって電気の使い過ぎではないかと考えた。

防犯、防災で必要な明かりは絶対必要だ。でも、大半の人間が就寝中に、果たしてこれだけの電力を消費しなくちゃならないほど必要なのか?それにしてもーーー、異常だ。もっと節電が可能なのではないか。

そんなことを思って富士山行は終った。

11:15 5合目に戻った。約12時間、ほとんど歩きっ放しだった。

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頂上周辺を歩く。

 

そして、想いは富士山から原発に向かう。

翌日の23日の朝日新聞は、野田政権が新しいエネルギー政策を決めるための「国民的議論」としてきた討論型世論調査などの結果が出揃ったこと、2030年の電力に占める原発割合について、すべての調査で原発ゼロの支持が最も高く、「多数意見」として政策決定に大きく影響しそうだ、との記事だった。私も、この多数意見組だ。

この夏、関西地区では節電するだけでは追いつかないと、関電や産業界は危機感を煽(あお)った。周辺の知事、地元市町村長は納得させられた。そして、関西電力大飯原発(福井県)を再稼働させた。

でも、実際に原発が再稼働しなくても、何とか計画停電は免(まぬが)れたのではないのか? 停止中の原発再稼働のための地ならし役だったのではないのか? 賢者の見解を聞きたい。原発推進派が言うほど、原発なしでは無理なんて理屈は、それほどでもないのかもしれない。

ついでに一言。脱原発は経済に影響するって、これも眉唾モンの気がする。確かに影響があるだろうが、恰も、経済がおかしくなるほどの意味合いで、朗々と論じる経済人や政治家たち。この輩にも要注意だ。騙されまないぞ。

原発や従来の化石燃料に変わる太陽光、太陽熱、風力、波力、潮力、バイオマス、地熱など再生可能エネルギーの技術開発が盛んに繰り広げられている。化石燃料の石油や石炭による低二酸化炭素ガス発生の新しい発電シシテムも研究されている。問題は、これらの新エネルギーの規模とスピードだ。

再生可能エネルギーの固定価額買取制度がスタートして発電する企業が増えることを期待する。現実に多々の企業がこの事業に参入している。風力発電には送電網の整備が不可欠。発電施設をもつ大規模な工場から出る余剰電力を売る会社も増えてきた。

これでも、まだまだ足りないのだろうが、原発ゼロに向かう体制を早急に望む。

我々も、節電の意識を尚一層高め、電力消費の見直しをすることだろう。住宅やビルなどの所有者や利用者の意識改革、特に街路などの照明設計を行政的にチェックする必要がある。

5、6年前のこと、息子が留学先で知り合ったノルウエー人の友人を我が家に招いた時、東京の夜の明るさに吃驚、エスカレーターの多さにも驚いていた、と息子から聞かされた。

少なくとも夜は、燃えるような街でなくていい。

2012年8月24日金曜日

新聞広告で偉大な医学者を知る

 

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上のニ葉は、テルモ株式会社の新聞広告

 

新聞広告を読んで、偉大な医学者のことを知った。

その広告というのは、201208??の朝日新聞に出ていたテルモ株式会社のものだ。上の写真はその広告に使われていた。

偉大な医学者をその広告で知り、その広告のコピーとネット=「ザ!世界仰天ニュース」(自分で自分を切り裂いた男)で、この医学者のことを下の文章にまとめた。

第一次世界大戦の影響で、輸入が途絶えた体温計を量産するために、北里柴三郎らが発起人になって創業し、そのうち私よりも少し年長のオジサンたちにお馴染みの仁丹が経営に参加した会社が、現在は立派な会社になっている。その会社がテルモ株式会社だ。今は、森下仁丹グループからは離脱しているそうだ。

内容からしてただの広告ではすまされない、興味を持った。広告主は、きっと私のような人間を狙い撃ちしたかったのだろう。的中だ。

ヴェルナー・テオドル・オットー・フォルスマンは、人間の心臓に初めてカテーテルを通した人物として知られている。偉大な医学者とは彼のことだ。

かって二人の行った実験を人間にも通用するのではないかと思いつく。その実験とは、風船のついたカテーテルを、馬の心臓に挿入し、血圧を測ったという。馬はほとんど痛みを感じず、カテーテルを入れたままエサを食べていたという。

当時、心停止した場合は、直接心臓に強心剤を注入するのが一般的な治療方法だったが、心臓の動脈を傷つけ、患者を死なせてしまうことが多かった。特に救急治療において当時の医療技術では救えない患者が多かった。腕などの静脈に注射した場合は薬が血で薄まってしまう。それで、心臓に直接かつ安全に薬を投与するには、カテーテルで薬を心臓に届けるしかないと考えた。馬で行った実験を自らの体で試すしかないと考えた。

この方法と検証を上司のシュナイダー博士に相談したところ取り合ってくれなかった。しかし、病院内では、手術用具一式を管理しているゲルダという女性だけが「自分の体を実験台にするのなら」と、条件付きで賛成した。ゲルダの了解なしでは実験が行えない。

ゲルダの決意は固かった。そして、ゲルダにお願いして、実験の準備に入ったが、ヴェルナーには元々、ゲルダに頼むつもりはなく、一芝居を打っただけだった。ゲルダの腕に鎮痛剤を打ったヴェルナーは、カテーテルをゲルダではなく自分の腕の静脈にを挿入した。その足で地下のレントゲン室に向かい、自ら挿したカテーテルが心臓に達したことを確認した。

その後、心臓に造影剤を投与することにも成功した。

だが、この実験結果を当時の学会は倫理的に認めれず、時代は第二次世界大戦に突入、埋まれたままになっていた。

そして25年後、開業医をしていたヴェルナーのもとに、思いも寄らぬ知らせが届いた。ノーベル賞の受賞を知らせる手紙だった。実はヴェルナーの実験は、アメリカのクールナン博士とリチャード博士に感銘を与えていた。二人は患者に心臓カテーテルを使い、その有効性を証明した。

1956年12月10日、ノーベル賞授賞式。彼は心臓カテーテル法の先駆者として、二人の研究者とともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。

あのヴェルナーの心酔者であったゲルタさんとは、結ばれなかったらしい。

2012年8月20日月曜日

私の今夜の晩飯メニュー

20120815の私の晩飯を紹介しよう。

今日は、終戦記念日というか、敗戦の日というか、やはり戦争のことを考えながら1日を過ごした。水曜日で弊社の営業部は休みだ。休みでもいつもは午前中出社していたが、今日15日は行けなかった。

イーハトーブの畑で、ネギを植え替えた。友人の山田農園主から頂いて育てていたネギが大きくなったので、深堀りして植え替えた。会社の前のプランターで育てていたネギも間引いて、イーハトーブに移植した。そして、イートハーブの空地部分の畳1畳分程の土を掘り起こした。「開墾」?した、ちょっと大仰過ぎないか! 堅くて粘土質、畑の土壌には不向きかもしれないが、何か植えるモノを、山田農園主にねだろうと思いついたのだ。

15:30から、山田農園で野良仕事のお手伝いをした。キュウリの苗を植えるために、耕して、苗を植える部分を深くに掘り下げて、鶏糞、何とかの化学肥料(硫安?)、枯れ草を入れて整地。50~60センチ間隔で、1株ずつ穴を掘って植えた。そんなに深く植えちゃ駄目、の声が飛んできた。この農園主、異常に神経質なんだ。穴には、たっぷり水を注いだ。

ニンジン、キュウリ、ナス、ナスの変形型?、紫蘇を貰って帰った。キャベツとブロッコリーの苗も貰った。

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独り暮らしの私が一体、何を食って生きているのだろうか、と心配してくれる友人たちのために、私の食事を実写でもって紹介しよう。

今夜は、焼酎の赤紫蘇のジュース割りを少し多い目に飲んでしまったので、ご飯は食えなかった。気が付かないうちにあ・り・が・と・うの日本酒にまで赤紫蘇ジュースを入れていた。

いつもは、お茶碗に1杯の玄米ご飯を食う。お椀2杯分の味噌汁も、この夜は作れなかった。不覚にもエネルギーが焼酎に傾いてしまった。

私の食事に何かアドバイスありますか?何が足りない、何が多過ぎるとご教授くださいな、今は素直な初老だ。他人の言うことが素直に聞けるようになりました。

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あ・り・が・と・うの日本酒(三女の結婚式のお土産だ)

 

●大豆の煮たもの=茹でて、ヤマサの昆布つゆで味付けをした。植物性の良性タンパク質としては、横綱だ。「畑の肉」だ。アメリカのカウボウイが、野宿するときに欠かさないのが、焚き火と大豆の煮たものだ。私の大豆のイメージの原点だ。

●ナスの糠(ぬか)漬け=漬かりが浅かったので、これにもヤマサの昆布つゆをかけた。この家庭的な糠臭さが堪らなく好きだ。糠床の理想的な状態がまだ解ってない。ナスは山田農園モノだ。

ヤマオカのプライベート・ブランド、誰かに味を一度チェックして貰いたい。

●焼酎の赤紫蘇ジュース割り=これが、いけるんですよ。体の中の血を洗ってくれるような気がする。なんてたって、日本の代表的な薬味だ。体中の殺菌だ。赤紫蘇は、山田農園にはまだまだあるので、もう暫らくは私もご相伴(しょうばん)に預かれそうだ。このような味わい方をこの夏、初めて教わった。

●ゴーヤ=瞬間的に茹でたものに、塩を振りかけて食った。苦味が体の中の毒素を取ってくれそうで、誰よりも毒の多い私には向いているようだ。もっともっと、ゴーヤを食わなくっちゃ。

●薩摩芋=茨城県産あかぎをフライパンで焼いた。薩摩芋は野菜の中で、一番親しみがある。焼き芋、干し芋、子供の頃はおやつだった。生芋(なまいも)もかじったことがある。(生芋食うモン、乞食の子)と、子供の私は自虐的に独りごちた。

●冷奴に「食べる小魚」=1丁26円です、その店のことは私の身の保護のために教えられません。小魚の袋には瀬戸内産(片口)と書いてあった。片口とは地名だろうか、何処やろうか、旅情をそ・そ・るナア

後で、知ったことだが、片口とは地名ではなく、「片口いわし」の片口らしい。下あごが上あごよりも短いために、このように呼ばれるそうだ。

●ハム=お中元で頂いた大きな高級ハムを、厚さ1,5センチに小刻みにして電子レンジでチ~ン。ケチケチ、食っている。在庫、後、3食分。

●トマト=天王町駅前の八百屋さんで買った。ここのアンちゃんも、夕方になるとビールを飲みながら店頭で頑張っている。俺の赤い顔を見ると、いつも笑顔で応対してくれる。

時々、特別価額の品をレジの傍に置いてあるのを、私は見逃さない。アンちゃんは、悪くなりかけているので今夜中に食ってくださいねと助言を受ける。私は彼に言われたように、そのままに無理繰り実行している。

 

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  大豆の煮物                                     ナスの糠漬け

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焼酎の赤紫蘇ジュース割り                    ゴーヤを少し茹でた

 

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薩摩芋                                                  冷奴に「食べる小魚」

 

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ハム                           トマト

2012年8月15日水曜日

遺憾とは、何が如何(いかん)?

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ロンドン五輪サッカーの3位決定戦後のことだ。韓国の朴鍾祐(パク・ジュンウ)が対日本戦後、独島(日本では竹島と呼ぶ)を韓国の領有だと主張するプラカードを頭の上に掲げた問題に関して、韓国サッカー協会は14日、「(日本側に遺憾とする内容の文書は送ったが)、謝罪はしていない」とのコメントを発表した。

その前には、日本サッカー協会会長の大仁邦弥氏は韓国側から謝罪のメールを受け取ったが、処分やこれからのことについてはIOCやFIFAに委(ゆだ)ねると話していた。

韓国サッカー協会は文書は送ったことは認めるが、「政治的な意図や計画性はない偶発的な行動」と説明し、遺憾の意を伝えたに過ぎない。謝罪の文書ではないとしている。この件について韓国が謝罪したと日本に思われることは、竹島が韓国の領土ではないと認めたように思われたくなかったのか。よく解らない。

韓国は本質をよく解ってないようだ。

五輪憲章では、選手は世界の国や地域を代表して参加した相手と互いに競い合うのであるが、それは国対国の戦いではなく、個人同士、チーム同士で戦うものだと、また各国各地域が抱えている政治は持ち込まない、と決められている。

この朴選手は何歳だろう? 兵役を控えた年齢だろう。国家主義の意識の高い国の国民だ、そんな彼が、意味もなくプラカードを勝手に、何が書かれているかも吟味しないで、今回のような行動をとるものか?

韓国サッカー協会は偶発的だった、と、それだけ。

そんな筈は断固としてない。プラカードに書かれていた内容を確認したからこそ朴選手は、勢いよく掲げたのだ。意識して。皆にもよく読めるように高く掲げた。

偶発的だから咎(とが)められない、という法はない。

よって、日本サッカー協会に送った文書は謝罪を伝えたのではなく、遺憾の意を込めただけ、と言うことらしい。遺憾なら如何(いかん)ともし難(がた)い?

「遺憾です」と言うなら、「遺憾です」から、どうだ?と言うんだ。

遺憾(学研国語大辞典より)=(希望通りにならないで)心残りなこと。残念なこと。不十分。気の毒。(学研国語大辞典)

2012年8月14日火曜日

なでしこは進化した

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20120810日経 後半シュートを阻まれる熊谷=写真 小川望

 

正直に書こう。ロンドン五輪が始まるまでは、なでしこジャパンがここまでいい成績を得るとは思っていなかった。

先のFIFAワールドカップ(W杯)ドイツ大会で、アメリカに勝って、次のオリンピックも金だ、と俄然注目されるようになったが、私はその実力を疑問視していた。

ところが、どっこい。なでしこはW杯後、度々の国際マッチを試み力強く成長していた。結果は銀メダルに終ったが、チームが強くなるためには何をどうしなくてはならないか、多くを学んだ成果だ。

W杯ドイツ大会での決勝戦にしても、宮間あやのシュートは兎も角、CKからの沢穂希のシュートなどは、幸運も実力のうちとは言うけれど、余りにも神がかり的なゴールだった。相手のバックスに当ってコースが変わったようだが、報道ではこの詳細には触れてない。良く言えば、沢の代表17、8年のキャリアが、こういうところで活きたのだろうが。

五輪が始まる直前、皆からそれなりの期待をされるのは当然で、そんな質問にもニッコリ笑顔で、金メダルを取ってきますとシャーシャーとヌカすではないか。この心臓に毛が生えたような自信はどこから来るのだろうか、と怪訝な気持でいた。そんなに甘くはないぞ、と言いたかったのだ。

こんな気持で、でも、胸は弾んでいた。

1次予選リーグ(F組)において、カナダに◯2ー1、スウェーデンに△0-0,南アフリカに△0-0、2位で予選通過、決勝リーグに進んだ。カナダに勝って、スウェーデンと南アフリカには負けなかった。

この頃になって、やっぱりなでしこは力をつけていると確信するようになった。

ここから、なでしこの快進撃が始まった。

8月3日、準々決勝 ブラジルに◯2-0。先のアテネ、北京の両大会で銀メダルのブラジルの猛攻にあうが、堅守で耐え、逆にカウンター攻撃で2ゴール。サッカー王国ブラジルを倒し、開催国のイギリス、サッカーの母国の人々を驚かせた。イギリスの各紙の紙面にサプライズの文字が躍(おど)っていた。ボールの支配率は36%で、逃げ切った。

6日、なでしこは、イギリスの国民を本気で驚かせたのだ。大会前の親善試合では0-2で負けたが、本番準決勝でフランスに接戦の末、◯2-1。フランスGKのファンブルやPKの失敗など、なでしこには幸運に恵まれたとしても、天晴(あっぱれ)だった。耐えて、強かった。

9日、準決勝戦でカナダを倒したアメリカと、ガチンコの優勝決定戦。アメリカは疾(はや)る気持ちを立ち上がりから見せた。前半の前半は、アメリカの気迫がムンムン。戦果は1-2、なでしこは負けた。試合を通して、なでしこにもチャンスがいくらもあったがゴールにならず一進一退を繰り返した。

この決勝戦を観て、なでしこの実力を本気で納得した。アメリカを脅かす効果的な攻撃を仕掛けることができた。戦い終えたDFの熊谷は、「W杯の決勝より、明らかに手応えを感じている」と、敗れた悔しさよりも先に充実感を口にした。

論点は少しずれるが、ピッチに入場してくるとき、試合開始直前に円陣を組む際にも、彼女たちは笑顔なのだ。ホイッスルが吹かれる前の緊張はピークなのに、どうして笑顔でいられるのだろうか。

決勝トーナメントに入ってからは、選手たちでよくミーテイングをしたと聞く。監督の部屋が皆の集合場所になって、監督は部屋を出て廊下をウロウロ、時間潰しが大変だったらしい。このスタイルが監督の望むところでもあり、自主的に選手同士で戦術や戦法を練る、そんな所からあうんの呼吸、以心伝心、イメージの共有、ピンチにも動揺しないで耐えること、そして強さを生み出したのだろう。理想的なチームづくりだ。

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20120810日経 米国に敗れ、涙を流す宮間を抱きしめる大儀見=共同

 

20120813の朝日新聞・スポーツ。データーによるなでしこの成長の証の記事を見つけたので、そのまま転載させていただく。

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パス交換が攻撃の生命線となるのがなでしこのスタイル。ピッチを相手ゴール側、中央、自陣ゴール前に3分割して、日本が出したパスの位置を見ると、マークが最も厳しい相手ゴール側で90本。W杯は延長を含め120分戦ったが、その総数よりも17本多く、90分の試合に換算すると35本増えた計算になる。成功率も2割以上高い74,4%を記録した。クロスの成功率も飛躍的に上がり、ペナルテイーエリアを脅かした数も2倍近く増えた。

後半18分の日本の得点は、相手ゴール前でMF宮間(岡山湯郷)、FW大野(神戸)、MF沢(神戸)と流れるようにパスを回し、最後は大儀見(ポツダム)が押し込んだ。「2点目もいけるな、という感じがあった」とMF川澄(神戸)。W杯決勝の日本の2点は、相手のクリアボールを奪ったものと、CKからのもので、相手を崩したゴールではなかった。

 

 

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20120811朝日 写真=矢木隆晴撮影

 

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朝日・朝刊/天声人語

植物図鑑を書き換えたい。ナデシコはもう花の名を超えている。【日本原産の多年草。厳しい環境に強く、夏の早朝に銀色の大輪をつける。花言葉=明るい忍耐】。花色はもどかしいけれど、女子サッカーの悲願がロンドンで咲いた。

ブラジル、フランスとの苦闘を制し、はい上がったピッチに、宿敵が待つ。最上の舞台で、最良の仲間と、最強の相手にぶつかる幸せ。代表歴が18年を超す沢穂希(さわ・ほまれ)選手は、「最高の夏」を口にした。

8万人を集めた聖地、ウェンブリースタジアム。五輪3連覇を目指す米国に、攻守とも引けをとらなかった。悔しさと、手にした自信の大きさを、八分咲き笑顔が語る。

頂点を見据えれば、決勝までの6試合はひと続きのゲームといえた。批判もあった1次リーグでの引き分け狙いは通過点だ。佐々木則夫監督が「私の指示です」と記者団に認めると宮間あや主将は「すべてを背負ってくれたノリさんの思いを無駄にしない」。いいチームだった。

将来をかけた舞台でもあった。W杯優勝で沸いた人気も、注目の五輪でしくじれば泡と消え、不遇に戻りかねない。重圧に耐えてのメダル一つで、どれほどの少女がボールを追い始めることか。中にきっと「明日の沢」がいる。種は確かにまかれた。

おめでとうの前に、ありがとう。思えば震災以降、彼女たちの活躍がなければ、日本はもっと沈んでいただろう。花の名を元気の素にしてしまうスポーツの底力を思う。なでしこ、今はまぶしい愛称である。

2012年8月13日月曜日

李明博大統領 竹島訪問

20120810、11の日経新聞・朝刊、夕刊より。

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韓国の李明博大統領が11日、日本と韓国の双方が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)を訪問した。韓国大統領が竹島を訪問したのは初めて。竹島の実効支配を誇示し、従軍慰安婦問題への対応を巡り対立する日本に強硬姿勢を鮮明にする狙いだ。日韓関係が一段と冷え込むのは避けられない。

15日の光復節を前に竹島を韓国の領土だと内外に訴える意図がある。李政権は、大統領の実兄や側近から不正資金を巡る逮捕者が相次ぐなど、来年2月の任期切れを控えてレームダック(死に体)化を食い止められずにいる。国内に反対意見がほとんどない竹島訪問を強行し、求心力を回復したいという側面も大きい。

韓国では1905年の竹島の島根県編入は日本による植民地支配のさきがけとされ、歴史問題ととらえている。~新聞記事はここまで。

この韓国の大統領の訪問の様子を、テレビで見て驚いた。住宅も兼ねていると思われる建物があって、そこの会議室のような部屋に警備隊員が何人もいて、大統領が島に居る人たちと談笑していたことだ。大統領自身が、お茶なのか、酒なのか住民に注いでいた。

竹島にあんなに人がいるなんて想像もしていなかった。今回のことで、1954年から警備隊員が常駐したことも新聞で初めて知った。1954年と言えば昭和29年、朝鮮戦争が停戦した翌年のことだ。1954年、警備隊員が入島したときに、何らかの手を打つべきではなかったのか、その時、手荒なことはできなかっただろうが、今の今まで放ったらかしにしておいた政府の責任は重い。行政の怠慢だと非難されるべきだ。

ナンタルちや、サンタルチアだ。

野田政権はこの領有権問題を解決するために、国連の枠内にある国際司法裁判所(オランダのハーグ)に提訴する考えだ。日本は1954年と62年に提訴を提案したが、韓国は国連に加盟していなかったが、91年に加盟しているので、国連憲章に基づき、紛争は司法で平和的に解決する義務を負った。下にあるように、当事国双方が提訴に合意しなければならない、とある。

日本は他の国とも領有権で主張が異なる問題を抱えている。この際、国際司法裁判所に訴えてはどうなんだろう。中華人共和国、中華民国と揉めてる尖閣諸島、ロシアとの北方四島問題だ。早くはっきりして欲しい。

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20120812朝日・朝刊

 

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20120811朝日・朝刊

10日、竹島に上陸し、コンクリート製の韓国国旗の前で説明を受ける李明博大統領(左から3人目)=東亜日報提供

 

こんな文章をネットで見つけた。誰が書いた文章なのか中身を検証しよう。

1.1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。

2.この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。

3.この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。
 「・・・合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」
 これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。

4.また、ヴァン・フリート大使の帰国報告にも、竹島は日本の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した島々には含まれていないというのが米国の結論であると記されています。

2012年8月11日土曜日

久しぶりのJ2観戦だ

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会場=ニッパツ 三ツ沢球技場

18:00~

横浜FC VS ガイナーレ鳥取

結果 3-1

 

久しぶりのサッカー観戦だった。私にとって、三ツ沢競技場は懐かしい競技場の一つだ。大学時代にこの競技場で秋季の関東大学サッカーリーグの何処かの大学とゲームをした。観客席がピッチに近くて、観る方もプレーする方も楽しかった。

観に行った仲間は、孫のハルとハルのクラブ友だち、その母親と次女夫婦の6人組みだ。何かとツルむお馴染みのメンバーだ。

J2を、あなどっちゃイケナイ。現在は両チームともJ2の中位だけれども、そのスピードやテクニックは相当なものだった。試合は初めから終わりまで、決して飽きることがなかった。

試合の最中、私の「三浦知良(かずよし)を観たいなあ」の独り言を聞いた次女夫婦とハルら三人はお揃いで、「お父さん、まだ無理だよ、2点差がつけば、監督は安心してカズを出すけど、まだまだ」と諭(さと)された。結局、3-1になって、カズの出番は後半残り15分くらいにあって、大きな拍手でピッチに迎えられた。カズ人気は衰えない。この試合では思うようにプレーでできなくて、いいところはないままゲームは終了した。中山ゴンもカズと並ぶJリーグの華だ。

 

この際、「サッカー徒然(つれづれ)、我がまま乱れ話」と戯れたい。

カズは、私立静岡学園高校の卒業を待たずにブラジルにサッカー留学、そして地元プロチームで活躍していたが、1990年、Jリーグ発足に合わせて帰国、読売サッカークラブに所属した。その年に、この競技場でカズのプレーを観た時は強烈な印象を受けた。タッチラインぎわでのボールテクニックに目を奪われた。サンバのリズムで踊るカズダンスにも、目を瞠(みは)った。

このようなボールタッチする日本人選手を初めて見て、サッカーの新しい時代の到来を自覚した。思い通り、その後、数多の優秀な選手が輩出した。

そして、優秀な選手が海外からもやってきた。カズ以前には、絶妙なフェントを日本人に見せつけたのは藤和不動産のセルジオ越後だった。この選手がボールを持ったら、私なんかでは絶対彼からボールは奪えなかったと思う。越後氏は日本語をよくマスターして、辛口サッカー解説でその才を振るっている。私が最も信頼する解説者だ。

大学時代、当時では珍しく私は長髪だった。このことを大阪日日新聞が取り上げた。タイトルは「サッカー界にも、長髪族がーー」だった。古河電工の荒井選手と私のことが書かれていて、早稲田の山岡などは、ゴムひもで結んでいるほどだ。そんな内容だった。何も、美を意識して長髪にしていたわけではない、ただ金がなかっただけで、少額の資金はレバー野菜と酒代にまわって、その残りで全てを賄っていた。調髪などにまわるお金などサラサラなかった。

立命館大に在籍していた郷里の小中高校と同じ芦原君が、学食で散らかっていた新聞記事の中に、私のことを書いた記事を見つけた。その後、その新聞記事は送られてきて、マイファイルして置いた。三ツ沢で試合をした数日後のことだったので、多分この試合で記者は取材したのだろう。

4年生の時、韓国に一人で旅行した時に入ったレストランで、あなたはナンバー10(テン)だ、と言われた。ナンバー10とは、一番恰好悪いよ、と言うことらしい。ソウルだったか、プサンだったか定かではないが、当時まだ韓国は戒厳令下にあって、昼間に敵機を模した新聞社の飛行機が上空を飛んできて、街路では車は黄色い旗を上げて路肩に駐車、歩行者は建物の陰に隠れ、人は姿を消した。飛び去った後は、普通の状態に戻った。10分間ほどのできごとだった。定期的にこのような訓練が行われていた。

大学時代の4年間、この競技場で試合があった時には、神奈川区高島台町にある先輩の家に全員が食事の招待を受けた。毎年の恒例の行事になっていた。先輩の何代目かの祖先が高島嘉右衛門だった。この高島嘉右衛門翁は明治の横浜の経済人としては傑出した人物だった、彼のことは別の機会に話そう。先輩は1936年ベルリン五輪にサッカーの日本代表として、優勝候補のスウェーゼンを破ったチームのメンバーだった。サッカー界では、いわゆる「ベルリンの奇跡」と言われている。この大会は「前畑ガンバレ」でも有名だ。引退後は神奈川県のサッカー界において重要なお仕事をされた。この偉大な先輩の息子が、同じクラブの同期の高だった。

先輩の屋敷は、横浜港を見下ろせる高台にあった。明治時代、商業の中心は関内地区で高級住宅は山手地区。此の家は別荘地として高島嘉右衛門が利用していたから地名は神奈川区高島町なのだ。

その日のメニューは毎年決まっていた。肉だった。ローストビーフや焼肉がふんだんに用意してくれて、同期の父母は勿論、同じ敷地に住んでいるお姉さんたちも、我々の平らげる皿の片付けや補充に、汗を流してくれた。食った、食った。

大学のバスで送迎してもらったこともあるが、電車を乗り継いで来たこともあった。もうこれ以上は絶対無理と言うまで食った、じゃなく、頂いた。それでも、東伏見の寮に着いた頃には、お腹が空きだした。

こんなええ所に住んでいる同期の高が羨ましかった。

 私は学校を卒業して入社した会社の都合で不動産屋になってしもうた? そして独立してからは、高たちの遊休地活用のために、アパートを幾つか建てさせてもらったり、賃借人の斡旋などで個人的な付き合いは深まった。

そして、此の64歳の初老の孫がサッカーに夢中になっていて、ジジィと孫の間で、サッカー談義が絶えないことが嬉しい。又、この孫は、私が4年間サッカー部で一緒だった青ちゃんが代表をしているクラブに入っていて、青ちゃんの手ほどきを受けていることも嬉しい。

2012年8月10日金曜日

お盆が近い

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お盆が近くなった。

20120802、弊社の社有物件の川崎市多摩区生田の中古住宅で、12:30から炎天下3時間半、庭を耕した。ふらふらになった。4時過ぎにスタッフの右藤が応援に来てくれたときには、疲労困憊。パンツからズボンまで汗でびっしょり。私はギブアップして、後は右藤に作業を任せた。

この物件はさほど高級仕様とは言えないが、建物の新しさや広さでは十分良好な住宅であることは間違いない。田舎では、大きな庭のある家はよく見る。都会でも、こういう家のことを豪邸と言うのか、と仰ぎ見る機会に度々出くわす。今回の此の物件の特長は、想定している販売価額帯では異常に贅沢なほど広い庭があることだ。この特長に比類がない。

建物に隣接して、もう1軒家を建てることも可能な敷地が含まれているのだ。その敷地の利用次第では格好の楽しめる住宅になる。日当たりは良過ぎるほど良い?ので、花や野菜を育てるのはバッチ・グー、芝生を張っての遊び場はナイス。ホビールームを増築?そりゃグレートだ。楽しみがいくらでもイメージできる。このように私が考えたならば、同じように感じて、買ってくれるお客さんは必ずいる。

今まで雑種地になっていた此の土地を一般公開する前に、整地しようと思った。でも、表面の草むしりだけなら、見る人のイメージが十分広がらないのではと思いつき、樹木や草を根っこから除去して完全に土むき出し状態にした。

この物件がどのような家族に購入され、どのように家庭生活の場になるのだろうか、と思いを巡らしながら作業していたら、ふと子供の頃、今は亡き父母が暑い日差しの下、農作業に勤(いそ)しんでいた姿が、日射でクラクラする視線の向こうに見えたような気がした。お盆が近づいてきたせいか。

この猛暑の時期、生家はお茶とお米の生産農家だったので、茶畑では雑草取り、雑草を取った後には山野で刈り取ってきた草を茶の木の根元に敷いた。地面が焼けるのを防いで、保水保湿のためだったのだろうか。今では、このような作業はしなくなった。水田では穂が実る頃、畦道などの雑草刈りだ。水田と茶畑ではこの程度の作業で比較的少なく、むしろ野菜作りに精を出していた。お盆や薮入りの期間は学校は夏休み中で、正月と同様、家族間で話を交わす機会が多く、家族が家族らしく感じられた。

父や母はあの頃何を考えてこの猛暑の中、休むことなく働いていたのだろうか。猛暑だけではない、冬の寒い日も雨の日も懸命に働いていた。家督相続したときは、分家だったので耕作面積が狭かったが、私が物心ついた頃には、相続した土地の3倍もの広い畑や水田を借金して手に入れていた。農地改革や離農する人が増えたことが、父には功を奏したようだ。

私の田舎では8月13日、お盆の入りの初日の夕方、玄関先で先祖の精霊を線香に火を点け焚(た)き火をして、野菜なども用意して迎えた。迎え火のことだ。極楽浄土からこの世に様子伺いに帰ってくる。滞在中?仏壇には線香、お茶、ご飯、お供えを絶やさなかった。私を可愛がってくれた祖母が元気だった頃、タモツがどのように暮らしているか、きっちり見に帰ってくるからね、とよく言っていた。15日の夕方、送り火に乗って、現世からあの世へ帰っていった。供え物は川に流した。しばらく経って、汚染防止のため禁止されるようになった。送り火には線香や白い槇などを焚いた。

怒られるか褒められるか、私の今の状態をありのまま報告しようと、作業中の私をカメラにおさめた。建物のペンキ塗りの手直しをしていた職人さんにシャッターを押してもらった。

これが、現在の私の姿だ。

この写真をお盆の期間、机の前の壁に貼ろう。お父さん、お母さん、おばあちゃん、俺は元気でやっています。お金持ちにも、偉い人にもなれなかったけれど、お父さんたちが死ぬまで働いたように、俺も頑張ります。

四人目の子(娘)の結婚に、乾杯

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結婚報告の葉書

 

20120804に、私の4番目の子供・ノソが軽井沢高原教会で結婚式を行う。

何ヶ月か前に予告されていたが、メモすることを失念して、一昨日20120715、あれっ!結婚式は何日(いつ)だったけと思いつき、確認のためにノソに電話したら、正確な日時を教えた後に、父には、乾杯の音頭をしてもらうことになっているからね、と言われた。

口下手なんだ。味の染(し)み出た? 言葉が出てこない、話法にも拙(つたな)いけれど、人前で話すことは好きなのだ。自分の本当の気持ちを自らの言葉で語れる貴重な機会だからだ。

今回は、新婦の父親なので、美辞麗句の必要はない。娘を嫁に出す父親の立場で「乾杯」の音頭役だ。嬉し恥ずかし、開演のスターターだ。

さて、何をどのように話せばいいものか、このページで試みてみた。

冗長は一番嫌われる、イカン、イカン。要領がよくて愛嬌、ユーモアがないと、イカンなあ。新郎新婦の琴線に触れる話ができたらいいな。これって非常に難しい。新郎新婦以外の人たちにも聞き応えのあるスピーチ、ますます難しいなあ。

それでは、本番です。読んでみてくださいな、添削、大いに歓迎するところだ。

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   ーーそれではーーはじまり、はじまりーー

今、司会者よりご紹介にあずかりました新婦・ノソの父親の山岡保です。ここに居るのが、女房の有子です。

タツー、ノソ、結婚おめでとう。龍之介君のことを横浜では、タッツンと呼んでいるのです。私はタツーと呼ぼうと思っている。松町家関係の皆さま方、今日は、この喜びを共に分かち合いましょう。

新郎のタツーとは、先月豚カツ屋で、二人っきりで話す機会がありました。結婚に至るまでの経緯から、今後の仕事における覚悟の程を話してくれました。私の方からは、身の上の状況を話し、心境を裏表無く話しました。タツーは、実の子供でないだけに、客観的に理解してくれたようでした。

いい友人がもう一人増えた思いです。

新婦のノソは、我々の夫婦にしては上出来のいい子です。我々夫婦の自慢の子ですが、まだまだ未熟者です。今後ともよろしくお付き合いしていただけることを切にお願いします。

タツーのことを、ちょっとでも多く知りたくて、私の子供に、タツーちゅう奴は一体どんな奴や?と聞いたことがあるのです。そしたら、タツーはノソを男にしたような奴や、と返事が返ってきて、その時は成る程と妙にスンナリ納得しました。きっとお似合いの夫婦なのでしょう。

二人は、造形を学ぶ学校で知り合っている。物作りは、着想したものを見えるものに仕上げる作業だ。創意と技術が必要です。その作業は、仕事にも、家庭作りにも、相通ずるように思うのです。モノ作りの喜びを共有していることは、十分に君たち固有の財産だと思う。

松町家の皆さん、タツーは我々の仲間に既に取り込んでしまいました。今度はノソを松町家の仲間に入れてやってください。

私の娘や息子たちはそれぞれに元気に家庭を築いています。、田森家あり、山岡家あり、内竹家ありで、これからは松町家の合流です。新郎新婦が作ってくれた家族同士が、末永くお付き合いできることを楽しみにしています。

マツーとノソの末永き幸せと、並びにこの宴にご参集の皆さんのご健康とご多幸をお祈りいたしまして、カンパイ!!

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タツー手作りの婚約指輪

 

20120808に追記

こんなラフな下書きを用意していたが、本番では「もう、何も言うことネエ」と北島康介の此の4月の日本選手権の時の言葉を借りた、それだけしか言えなかった。

それに、やっとの思いで「カンパイ」とだけ、発するのが精一杯だった。いつまでも、駄目オヤジぶりは変わらない。

2012年8月7日火曜日

笹船にアリでも乗っけるか

20120804 三女の結婚式と披露宴に出席するために、軽井沢に来ていた。

当地には前日の深夜に着いた。翌朝、結婚式を行う教会の隣接にあるハイカラなレストランで、パンとコーヒーで朝飯を終え、木陰で本を読んだり、周辺に流れる小川を眺めたりして、夕方の挙式までの時間を楽しんでいた。読んでいた本はV・E・フランクルの「夜と霧」だ。連れて行った犬たちも、軽井沢の風が気持ち良さそうだった。久しぶりに会った孫たちが、仲良く遊んでいるのを見て楽しんだ。

昼食後、次女夫婦と目に入れても痛くない孫たちの中で一番の年長者のハルを連れて、4人で小川に沿った小路を歩いていたら、ハルはパンツ1丁になって水に入り出した。さすがに水は冷たくて、潜ろうとはしなかったが、足をパンツぎりぎりの深さまで水につけて楽しそうだった。川床の石の上を慎重に歩いた。

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小路に突き出した熊笹で、次女の婿の竹さんが船を作った。笹舟だ。そして、「川に流そう、蟻(アリ)でも乗せて~」と孫に話しかけていたら、次女のハナが、そんな可哀相(かわいそう)なことをしちゃ駄目だよ、と話す声が後ろの方に居ても聞こえた。「そうだなァ」と婿の返答も聞こえた。この地球に住むどんな小さな命にも、気遣う子になって欲しいと思う母心なのだろう。あんなにヤンチャだった娘がよくもこんなに優しい母親になってくれたもんだ!! 大木の陰で、再び本を読んで時間が過ぎるのを待った。樹木の葉々から蒸散するシャワーが心地よい。

その後、結婚式を終え、披露宴も私の涙の乾杯コールで始まり、順調にお開きになったことは言うまでもない。

5日の夕方に横浜に戻り、会社に寄って一人アパートに帰った。

そして20120806の朝日・天声人語だ。自分の慣れ親しんだ居所で目を覚まし、お茶を飲み、飯を食って新聞を読む。実にありふれた生活、こんな日常がなんとも幸せなんだと、此の頃つくづく感じるようになった。ところが、その慣れ親しんだ、ありふれた日常の中に、軽井沢でのひとコマを思い出させることが起こった

天声人語の主題が事の重大な原爆で、なんてことの無い我が家の「笹舟アリ事件」が、今回の胸を打つ天声人語につながった、ということだけの話だが。

早速マイポケットする。

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朝日・天声人語

足元のアリが目にとまることがある。踏みたくはないが、人の想像力は知れていて、靴の裏で起きるアリの悲劇には思いが至りにくい。67年前の原爆投下は、人をアリと見る所業だった。

かって米国の博物館が企画した原爆展は、地上の惨状を紹介しようとして退役軍人らにつぶされた。担当者は「彼らは原爆投下を(原爆機が飛ぶ3万フィートの高さから見ようとしている」と嘆いたそうだ。

広島が死んだ日、原爆をつくった科学者たちはパーティーに興じた。設計通りに爆発したことのお祝いである。なんという想像力の欠如。救いは、自責の念から木陰で吐いていた若手がいたことか(文春新書「父が子に教える昭和史」)。

ウラン型の「成功」に続き、3日後には長崎でプルトニウム型が試された。科学者は核分裂のエネルギーを制御できたと喜んだが、最後は手綱を解いて暴れるに任せるのが核兵器だ。実際、見込み違いもあった。

原爆の破壊力のうち、開発陣は衝撃波に重きを置いたとされる。だから放射線と熱線の殺傷力を知って驚いた。「起きたことは私たちの想像をはるかに超えていた」と。乾いた述懐に、日本人として平静ではいられない。

翻って原発の制御は、廃炉まで暴走させないことに尽きる。事あれば国土の一部が失われ、放射線におびえる生活が待つ。福島の教訓は、核は飼いならせる代物ではないということだ。故郷を追われた人々に思いを致し、誰もが核被害者の、いわば「アリの目」を持つ時だと思う。

2012年8月1日水曜日

差別つぶやき

20120726の朝日・朝刊・社会で、ロンドン五輪の陸上女子三段跳びに出場する予定だったギリシャのボウラ・パパクリストウ選手(23)が、ツイッターで人種差別的なつぶやきをしたとして、ギリシャ五輪委は「オリンピックムーブメント(五輪運動)の理想にに反する発言をしたため、代表から外すことを決めた」との記事を見つけた。ソーシャルメディアによる発言で罰せられた最初の選手だ。

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AP通信によると、パパクリストウ選手は、アフリカからの移民をからかい、極右政党への支持を表明するようなつぶやきをしたという。

記事は小さな扱いだが、その意味は大きい。

国を代表して五輪に出場する資格を得るには大変なことだ。選ばれた選手は、猛烈なトレーニングを重ねての研鑽の日々、そうして並み居るライバルたちと激しく競って資格を得たのだろう、が、パパクリストウ選手から出場資格を取り消したことは、原因となった差別発言がいかに重要かと言うことだ。

五輪は、今じゃ五つの大陸?なんて観念は薄れ、世界の隅々までの国や地域が参加する、世界丸ごと大会だ。参加国・地域数は204。かって、女子の参加は認められていなかった時代はあったが、2012今回のロンドン五輪は女子の参加競技も増えたこともあって、史上初めて全ての参加国・地域から女子の参加があった。

クーベルタン男爵は、さまざまな民族同士が切り離している諸々の偏見を乗り越えるまで、平和を手に入れることはできない。個人の自由を尊重すること、すぐれた意思と肉体を持つ人間を育てることだと言った。スポーツ選手は記録を出す前に、より賢明で、よりスマートであらねばならない。そしてフェアプレイに徹する。

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wikipediaより拝借 ピエール・ド・クーベルタン

近代オリンピックの父・クーベルタンの言葉より、「自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである」。

 

話は変わるが、先のサッカー欧州選手権の決勝戦で両チームがスタジアムに入場する際、彼らを先導した青いフラッグには、「RESPECT DIVERSITY」(リスペクト ダイバーシティー)と書かれていた。他者の多様性を尊重しよう、ということだ。スポーツの世界において懸命に取り組んでいる問題だ 。私が考えている以上に荒廃している現状があるのだろう。 

人種、性別、宗教、言語、あらゆる違いをポジティブにとらえて「違うから排除する」のではなく、「違いこそが新しい何かを生む」と日本サッカー協会特任理事の野田朱美氏が述べていたことを朝日新聞の記事で知った。

 

★オリンピックムーブメント(五輪運動)

★オリンピズム