2012年8月11日土曜日

久しぶりのJ2観戦だ

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20120722

会場=ニッパツ 三ツ沢球技場

18:00~

横浜FC VS ガイナーレ鳥取

結果 3-1

 

久しぶりのサッカー観戦だった。私にとって、三ツ沢競技場は懐かしい競技場の一つだ。大学時代にこの競技場で秋季の関東大学サッカーリーグの何処かの大学とゲームをした。観客席がピッチに近くて、観る方もプレーする方も楽しかった。

観に行った仲間は、孫のハルとハルのクラブ友だち、その母親と次女夫婦の6人組みだ。何かとツルむお馴染みのメンバーだ。

J2を、あなどっちゃイケナイ。現在は両チームともJ2の中位だけれども、そのスピードやテクニックは相当なものだった。試合は初めから終わりまで、決して飽きることがなかった。

試合の最中、私の「三浦知良(かずよし)を観たいなあ」の独り言を聞いた次女夫婦とハルら三人はお揃いで、「お父さん、まだ無理だよ、2点差がつけば、監督は安心してカズを出すけど、まだまだ」と諭(さと)された。結局、3-1になって、カズの出番は後半残り15分くらいにあって、大きな拍手でピッチに迎えられた。カズ人気は衰えない。この試合では思うようにプレーでできなくて、いいところはないままゲームは終了した。中山ゴンもカズと並ぶJリーグの華だ。

 

この際、「サッカー徒然(つれづれ)、我がまま乱れ話」と戯れたい。

カズは、私立静岡学園高校の卒業を待たずにブラジルにサッカー留学、そして地元プロチームで活躍していたが、1990年、Jリーグ発足に合わせて帰国、読売サッカークラブに所属した。その年に、この競技場でカズのプレーを観た時は強烈な印象を受けた。タッチラインぎわでのボールテクニックに目を奪われた。サンバのリズムで踊るカズダンスにも、目を瞠(みは)った。

このようなボールタッチする日本人選手を初めて見て、サッカーの新しい時代の到来を自覚した。思い通り、その後、数多の優秀な選手が輩出した。

そして、優秀な選手が海外からもやってきた。カズ以前には、絶妙なフェントを日本人に見せつけたのは藤和不動産のセルジオ越後だった。この選手がボールを持ったら、私なんかでは絶対彼からボールは奪えなかったと思う。越後氏は日本語をよくマスターして、辛口サッカー解説でその才を振るっている。私が最も信頼する解説者だ。

大学時代、当時では珍しく私は長髪だった。このことを大阪日日新聞が取り上げた。タイトルは「サッカー界にも、長髪族がーー」だった。古河電工の荒井選手と私のことが書かれていて、早稲田の山岡などは、ゴムひもで結んでいるほどだ。そんな内容だった。何も、美を意識して長髪にしていたわけではない、ただ金がなかっただけで、少額の資金はレバー野菜と酒代にまわって、その残りで全てを賄っていた。調髪などにまわるお金などサラサラなかった。

立命館大に在籍していた郷里の小中高校と同じ芦原君が、学食で散らかっていた新聞記事の中に、私のことを書いた記事を見つけた。その後、その新聞記事は送られてきて、マイファイルして置いた。三ツ沢で試合をした数日後のことだったので、多分この試合で記者は取材したのだろう。

4年生の時、韓国に一人で旅行した時に入ったレストランで、あなたはナンバー10(テン)だ、と言われた。ナンバー10とは、一番恰好悪いよ、と言うことらしい。ソウルだったか、プサンだったか定かではないが、当時まだ韓国は戒厳令下にあって、昼間に敵機を模した新聞社の飛行機が上空を飛んできて、街路では車は黄色い旗を上げて路肩に駐車、歩行者は建物の陰に隠れ、人は姿を消した。飛び去った後は、普通の状態に戻った。10分間ほどのできごとだった。定期的にこのような訓練が行われていた。

大学時代の4年間、この競技場で試合があった時には、神奈川区高島台町にある先輩の家に全員が食事の招待を受けた。毎年の恒例の行事になっていた。先輩の何代目かの祖先が高島嘉右衛門だった。この高島嘉右衛門翁は明治の横浜の経済人としては傑出した人物だった、彼のことは別の機会に話そう。先輩は1936年ベルリン五輪にサッカーの日本代表として、優勝候補のスウェーゼンを破ったチームのメンバーだった。サッカー界では、いわゆる「ベルリンの奇跡」と言われている。この大会は「前畑ガンバレ」でも有名だ。引退後は神奈川県のサッカー界において重要なお仕事をされた。この偉大な先輩の息子が、同じクラブの同期の高だった。

先輩の屋敷は、横浜港を見下ろせる高台にあった。明治時代、商業の中心は関内地区で高級住宅は山手地区。此の家は別荘地として高島嘉右衛門が利用していたから地名は神奈川区高島町なのだ。

その日のメニューは毎年決まっていた。肉だった。ローストビーフや焼肉がふんだんに用意してくれて、同期の父母は勿論、同じ敷地に住んでいるお姉さんたちも、我々の平らげる皿の片付けや補充に、汗を流してくれた。食った、食った。

大学のバスで送迎してもらったこともあるが、電車を乗り継いで来たこともあった。もうこれ以上は絶対無理と言うまで食った、じゃなく、頂いた。それでも、東伏見の寮に着いた頃には、お腹が空きだした。

こんなええ所に住んでいる同期の高が羨ましかった。

 私は学校を卒業して入社した会社の都合で不動産屋になってしもうた? そして独立してからは、高たちの遊休地活用のために、アパートを幾つか建てさせてもらったり、賃借人の斡旋などで個人的な付き合いは深まった。

そして、此の64歳の初老の孫がサッカーに夢中になっていて、ジジィと孫の間で、サッカー談義が絶えないことが嬉しい。又、この孫は、私が4年間サッカー部で一緒だった青ちゃんが代表をしているクラブに入っていて、青ちゃんの手ほどきを受けていることも嬉しい。