2010年11月28日日曜日

寂しさをまぎらすには、タンゴだ!!

友人を一週間前に亡くした。公私にわたって付き合ってきた友人だ。

私が40歳になったころに知り合ったので、ほぼ23年の付き合いになる。突然死だった、ショックだ。怪我や病気ならば、症状の程度にもよるが、傍にいて話をすることができる。介護の手を差し伸べることだってできる。だが、死には絶望しかない。寂しさに、苦しんでいてもしょうがないじゃないか、死んだ人は生き返ってこないのだから、と何度も自分に言い聞かせた。

この彼からは、読書の味わい方、映画や演劇の見方、ダンスを観る楽しさを教えてくれた。読書は母親の影響だと言っていた。小津安二郎の命日にお墓参りした。ゴッホは横浜美術館、フェルメールは上野の美術館。私は井上揚水、彼は中島みゆきとマドンマ、舞踊はピナ・ヴァウシュ。クラシック音楽を楽しんでいた。ピアノは子供の頃から弾いていた。だから、学校も音楽系だったが、スポーツセンスはレベルが高いのだと言っていた。ユダヤ、ホロコーストには感心が深くて、互いにこのジャンルの本を競って読んだ。文章の綴り方を勉強していた。使用する話し言葉や書き言葉にうるさかった。社会問題については、お互いに真面目に話し合った。差別に関しての彼の言辞は厳しかった。私があの人と言って人差し指を差すことをひどく嫌った。色や形には独特の反応をした。臭いには敏感だった。煙草の煙、車の排気ガスを異常に避けた。器用貧乏なところがあって、それを指摘するとムキになって否定した。子供は好きじゃない。神経が繊細なところがあるかと思いきや、今度は破天荒に大胆な行動をとったり、私にはいつも刺激を与えてくれる変な奴でもあった。職歴は、私には到底真似のできない内容ばかりだった。仕事を変える度に、求められる資格をいとも簡単に取得した。血液型は0型だった。気性が激しかった。お互いに意地っ張り、妥協を許さなかった。讃岐ウドンをよく食った、ビールも飲んだ。でも彼はワインが好きだった。自宅では酒は飲まない主義だった。パンが好きだった。冷たい飲み物や食べ物は極力避けていた。私は肉を食ったが、彼は菜食主義者だった。魚は少し食った。喉が渇いても飲む水の量は少ないことに驚かされた。私は犬派、彼は猫派だった。動物愛護の人で、動物実験反対や革製品などをボイコットしていた。盲導犬、介助犬は人間の犬に対する虐待だと怒っていた。野良猫を保護しては、里親を探す活動をしていた。ちっちゃな虫さえ殺さなかった。レストランでお膳に乗っかっていた小さな虫を私は潰してやろうと手を伸ばしたら、その手を払いのけて、箸袋に入れて館外に逃がした。ちっぽけな命も大切にしていた。花や樹木を愛(め)でた。

話題ごとに口角泡を吹かしての談論風発、愉快だった。彼の吐くフレーズは短くて、私に反論の余地を与えなかった。彼とは一生の友人付き合いができるものだと決め込んでいた。だが、早くに、突然亡くなってしまった。もうこの世には生きていない。彼を友人にもったことを誇りに思っている。

そして今日は水曜日、弊社の営業部の定休日だ。

いつもと同じように会社に出社したものの、工事会社に支払予定の連絡を4社にしたら、後は頭の中がポカ~ンとして、何かに取り組もうとする気が起こらない。休日はこうだから、嫌なんだ。頭の中に隙間が生まれ、そしてその隙間に風が吹く。体がしゃんとしない。本を読もうと開いてみても、目が字を捉(とら)えない。読む気が起こらない。こういう時には、よく無茶苦茶散歩することで気を紛らしたものだが、今日はどうしても体を張る気力が湧かない。

ならば、映画でも観るかと思いついて、株主優待券が使えるテアトル系のキネカ大森の上映作品とスケジュールを調べてみたら、「アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロ」というのが上映されていて、その作品のオフィシャルサイトを見ると、これがとんでもなく楽しそうな映画に思えて、12:40の上映開始に間に合うように会社を出た。入場チケットを受け取る際、係員からフイルムが古くて一部見苦しい箇所がありますが、予(あらかじ)め了承してください、と言われたが、私にはそんなことどうでもいいことだった。忘我自失の心境になりたかった。私は洋画を観る時には用意周到に準備をしておかないと、見終わって、何が何だかさっぱり判らないことが多いのです。誰よりも、瞬間的に状況を判断する能力が欠けているようです。だから、今日はブッ突けなので、ややこしい複雑な映画は観たくなかったのです。

映画は予想通りだった。一夜限りのコンサートで往年の大スター、マエストロが一堂に集まることになった。マエストロがタンゴをこれでもか、これでもかと体現する。映画の始まりから終わりまで、ただただタンゴの曲が流れっ放し。目がくらむほどのタンゴの名曲集だ。コンサートに向けて思い想いに個人的に演奏に耽る。友人と再会しては共演を楽しむ。準備に夢中なのだ。映画の中では会話はそれなりにあるのですが、それは画面だけのこと、耳に入ってくるのは、激情に駈られたタンゴだけ。私は夢中になっていた。

音感の悪い私の体なのに自然にスウイングしていた。靴底で床を叩いていた。膝に置いた手は、鍵盤を叩くようにリズムを打っていた。ストーリなどで頭を悩ますことはない。全身、タンゴで痺(しび)れまくり。

このときばかりは、彼のことを忘れることができた。

写真(以下の文章は、館内でいただいたパンフレットから)

「アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロ」

タンゴとは、愛、祖国への誇り、そして人生全てを捧げた音楽(ムジカ)。

総勢22名のタンゴマエストロが結集。伝説の一夜(ステージ)限りのコンサートが鮮やかに甦(よみが)る。

監督 :ミゲル・コアン

出演者:カルロス・ガルシーア/オラシオ・サルガン/ホセ・リベルテーラ/レオポルド・フェデリコ/マリアーノ・モーレス/ヴィルヒニア・ルーケ

2006年ブェノスアイレスのもっとも古いレコーディングスタジオで、1940年代から50年代に活躍し、アルゼンチンタンゴの黄金時代を築いたスターたちが感動的な再会を果たした。彼らはアルバムに収録する名曲を歌うためにこの場所に集まってきたのだ。60~70年もの演奏歴をもち、いまなお現役で輝き続ける、まさに国宝級とも言えるマエストロたち。時を重ね、人生の深みを増した歌声が響く中、彼らは激動の歴史と共にアルゼンチンに脈々と生き続けてきた、タンゴの魅力と自らの思い出を語り始める。なけなしの金で父が買ってくれたバンドネオン、街角のカフェから成功の階段を共に上った仲間たち。亡き師への変わらぬ熱い思い。彼らの人生のすべてがタンゴという3分間のドラマに刻まれていく。

「ブロークバック・マウンテン」「バベル」でアカデミー作曲賞を受賞した音楽家グスタボ・サンタオラージャがプロデュースするアルゼンチンの伝統音楽タンゴのドキュメンタリー。

タンゴの偉大なる巨匠たちがミラノ・スカラ座、パリ・オペラ座と並ぶ世界最大劇場の一つであるコロン劇場で一堂に会した夜、二度とは観ることのできない、奇跡のコンサートの始まりだ。すでに惜しまれつつこの世を去ったカルロス・ラサリ、オスカル・フェラーリなど、二度とは見ることのできないアーテイストたちの共演は、近年屈指の希少性をもち、音楽史に永遠に伝えられることだろう

2010年11月25日木曜日

APEC特需、有難うございました

APEC(Asia Pacific Economic Cooperation)。アジア太平洋経済協力会議。

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こんな難しい会議が横浜みなとみらい地区を中心に開催されたのですが、この会議開催のおかげで弊社が運営している相模原、北里大学病院前にあるホテル、パラディス イン 相模原が8日間に亘って、警備関係の人たちの宿泊で連日、高稼働。宿泊の期間は開催前の準備から、会議が終了、後片付けまで。おかげさまで、少しは儲けさせていただいたのです、感謝です。地方の警察と地元神奈川県警の一部の警察官がお客様でした。宿泊の取り扱い旅行会社は、さすがJTBでした。

私も警察官が大勢泊まってくれている状態はどんなものかと、朝の食事が終わる前に行ってみた。ホテルへと保土ヶ谷バイパスを相模原に向かって車を走らせていた。道すがら、反対車線の横浜方面へは警察の車両が、何台も何台も走っていた。護送車あり、パトカーあり。車のナンバーはどれも地方のものだった。30分間ぐらいの間に、見かけた警察関係の車両は20台を越していたでしょう。

ホテルの社員は、警察の人たちはまとまって来て、サッと食って、サッと居なくなるので、仕事をしやすく、行儀の悪い人も居ませんし、お客さんとしては上客です、と言っていた。ただ、宿泊料の支払いが遅いのがちょっと気になりますが。

時は同じくして、場所は変わる。三浦海岸に土地の売却の紹介があって、現地で長いお付き合いの不動産屋さんと打ち合わせて、私は缶コーヒー、不動産屋さんは煙草を一服した。そして彼が言い出したことは、そこにあるホテルなんですがね、私の友人が経営しているのですが、今、満杯なんですって、エイペックで、と。ええっと、驚いた。ここまで、そうなんだ、と肯いた。

横浜銀行の横浜駅前支店で打ち合わせがあって、担当者に横浜駅周辺は警察がいっぱいいますねと尋ねたら、横浜駅周辺は岐阜県警が多いですねと仰っていた。地域ごとに、担当する警察を決めているようだ。このように、全国から警備のために警察官が集められた。

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折角だから、会議の内容のことを少しばかり書いておこう。20101114の朝日新聞の記事のダイジェストに、私が加筆したものです。余り理解していない私のことだから、不完全なものとなっていることを免じてもらいたい。今月の7日から14日まで、環太平洋の21カ国・地域の間で、ヒト、モノ、カネの移動が自由に行なわれているかを話し合う会議だった。会議に参加する21カ国・地域を合わせると、2008年時点で国内総生産(GDP)は世界全体の53%、人口は43%を占めるという。

会議の主な内容は、アジア太平洋地域の経済統合の未来図をどう描くかということらしい。APECは、将来域内全域で貿易の自由化を進める「アジア太平洋自由貿易圏」(FTAAP)の実現を掲げる。その道筋に米国が主導する環太平洋パートナーシップ協定(TPP)や、東南アジア諸国連合(ASEAN)プラス3国〈日中韓〉がある。国ごとに事情は違うのだろうが、日本では農作物の自由化には、そう簡単に受け入れられないと関係者は述べていた。これをどのようにすればいいのか、新たな国の農業政策が望まれる。

また、日本は昨今の領土問題でロシアや中国との関係修復にはいい機会だったのだが、どの程度話し合いがもてたのだろうか。ロシアの大統領は聞き耳を持っているようにも思えなかったし、中国の主席との対談は、当方最高責任者の菅首相は官僚の作ったメモを見ながら、顔も見ないで、話し合った。果たして日本側の意向は如何に伝わったことでしょうか。

2010年11月23日火曜日

「はやぶさ」 大金星

はやぶさが持ち帰った物質は、正にイトカワで採取したものだった。これに関する朝日新聞の20101116の夕刊と17日の朝刊の記事をここに転載させていただいた。社説も転載した。記事の内容に重複することがあるが、それは、それ。記事を保存することに専念した。

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(豪州の砂漠地帯に落ちていた回収カプセル=宇宙機構提供)

小宇宙探査機「はやぶさ」は、20030509に打ち上げられ、2005の夏イトカワに到着、60億キロの旅を終えて、今年20100613に地球に還ってきた。イトカワでは移動しながら、岩石質のものを採取してくる予定だったのですが、故障があって、十分な採取はできなかったようだが、それでも1500個の微粒子を持ち還ってきた。一時は通信が途絶えたり、イオンエンジンにトラブルが発生したりしながらも、堂々と帰還した。大気圏に再突入の際、はやぶさは赤く燃えて消滅したが、回収カプセルはオーストラリアにパラシュートで落下、回収された。一仕事を終えたはやぶさが赤く燃えて消滅した光景は多くの人を感動させた。

今の世の中、リストラにもめげず、不況風にも耐えながら頑張っている、ちょうど私の年頃の人たちには、このはやぶさの健闘に涙ながらに声援を送り、その奮闘する姿が我がごとのように思われた。まるで、同志だと。元気をもらい、どれほど勇気付けられたことか。

これから書き込もうとしている内容は、不確かな情報によるもので、客観的に調べたわけではないので、注意して読んで欲しい。間違っていたならば、即訂正したいのでお気づきの方は早い目に教えてください。それはこんなことです。二つのエンジンがあって、もしかどちらかのエンジンが壊れたならばと心配した研究員は二つのエンジンに連結する導線を配線しておいたらしい。そこで、案の定二つのエンジンが停止したのですが、その導線が二つのエンジンの壊れていないところを稼動させ、一つのエンジンとして発動させることができたらしい。この導線を結びつけたのは、当初からの設計に基づいて行なわれたのではなく、研究員がその場で思いついたらしい。それも故障して初めてそのように仕組んでいたことが判明したらしい。このことも、運がいいだけではすまされない。研究員のすばらしい叡智だった。このことは、何かで聞き取ったような気がするのです。

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はやぶさ 大金星

イトカワ粒子、太陽系の起源照らす

数々のトラブルを克服して60億キロの旅を成し遂げた探査機「はやぶさ」が持ち帰ったカプセルに、小惑星「イトカワ」の微粒子が入っていた。初の成果に世界の研究者も分析結果に注目する。はやぶさが使った新型のイオンエンジンは燃費がよく、耐久性も裏づけされた。さらに応用が期待され開発したNECは新たな市場開拓をねらう。

カプセル内から見つかった約1500個の微粒子。イトカワのものと判断できたのは、多くを占めたかんらん石と輝石の成分だった。

これらの鉱物に含まれる鉄の割合は、地球上にある同種の鉱物の5倍もあった。差が大きく、地球で混入した可能性が否定された。はやぶさが観測したイトカワの表面物質の成分とも一致した。

最終的な決め手となったのは、微粒子の中に硫化鉄の一種が見つかったこと。隕石(いんせき)は普通にあるが、地表には珍しい。彗星(すいせい)や隕石に詳しく分析に加わった東北大の中村智樹准教授は「この結晶が見えたとき、心の中でガッツポーズした」と話す。

微粒子は今後、兵庫県にある大型放射光施設「スプリング8」や米航空宇宙局(NASA)など、国内外の機関に配られ、詳しく分析に入る。

わずか0,01ミリほどの粒子を薄くスライスして結晶構造を顕微鏡で観察したり、スプリング8で3次元構造を調べたり、宇宙線などによって結晶が変化する「宇宙線化」も見えそうで、宇宙線にさらされた期間、つまりイトカワの年齢が推定できる。小天体の衝突など、衝撃を受けた経歴などもわかる可能性がある。微粒子を蒸発させたガスなどを分析すれば、イトカワはどれだけ熱を受けたかがわかる。

イトカワは太陽が誕生したころにできた姿をとどめている「太陽系の化石」のような存在。イトカワがどんな時期にどうやってできたか。太陽系の成り立ちの解明にもつながると期待されている。(東山正宜)

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日の丸エンジンに脚光

NEC米大手と新型開発

はやぶさは、新型のイオンエンジンの性能や、内臓のコンピューターで状況を判断して着陸する技術などの確認のために打ち上げられた。

イオンエンジンは、ロケットのように燃料を燃やすのではなく、電気の力で進む高効率のエンジン。NECが開発した。推進力は弱いが、燃費がいい。大型の太陽電池と組み合わせることで、原子力電池を持たない日本でも、木星など遠い場所の探査ができるようになると期待されている。

耐久性に難があった。宇宙機構宇宙科学研究所の国中均教授らが新たなエンジンを開発。小惑星を往復して技術を裏付けることになったが、はやぶさにトラブルが相次ぎ、帰還が3年延びたことで、逆にイオンエンジンの耐久性が示された。

NECは16日、人工衛星のエンジン製造で世界首位の米エアロジェットと提携し、新エンジンの共同開発に着手したことを明らかにした。はやぶさ用に開発したイオンエンジンを、ほかの人工衛星でも使えるように見直すとともに、推進力も20%向上させる。衛星ビジネスは実績が次の受注を大きく左右する。エアロジェットはNECへの納入で高い実績がある。NECは今年度からの3年間で累計20億円の売上をめざす方針だ。

はやぶさの微粒子がイトカワのものだったことを受け、NECの遠藤信博社長は「日本の技術力の高さが示された」とコメントした。(野村周)

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はやぶさ 挑戦の系譜

探査機「はやぶさ」が持ち帰った微粒子は、小惑星「イトカワ」のものだった。地球外の天体に着陸して試料を採取したのは米アポロ計画や旧ソ連のルナ計画以来、微粒子は国内外の研究機関に配られ、詳細な分析に入る。一方、宇宙航空研究開発機構は今回の成功を追い風に、後継機「はやぶさ2」の予算化に期待をかける。

はやぶさ計画で、日本は科学的成果だけでなく、新型エンジンや探査機が自ら考えて航行する技術も得られた。カプセルを大気圏に再突入させた耐熱カバーの技術は、国際宇宙ステーションから試料を持ち帰る補給船や、将来の有人宇宙船の開発につながると期待される。

成果を踏まえ、宇宙機構は、後継計画の「はやぶさ2」で、生命の起源につながる炭素など有機物の多い小惑星を目指す、表面の砂の採取だけでなく、はやぶさができなかった内部の試料の採取にも挑む。もしアミノ酸が見つかれば、生命の起源にも迫れそうだ。

打ち上げ目標は2014年。目標としている小惑星の軌道から、15年までに打ち上げられないと、地球に近づく次のチャンスは10年後になる、と宇宙機構は訴える。

文部科学省は来年度予算の概算要求で、開発費148億円の一部を「元気な日本復活特別枠」で要望した。現在、政策コンテストで審議の渦中だ。18日には、事業仕分け第3弾で宇宙開発予算も取り上げられる。

そんなさなかとあって、成果を高木義明文科相みずから記者発表した。宇宙機構の研究者らは「この時期になったのはたまたま」と強調するが、パフォーマンスではないかとの質問が相次いだ。国民的人気と世界初の成果を背景に「はやぶさ2」の優先順位は来月初めに決まる (東山正宜)

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はやぶさ試料

生命の卵あるかな

アミノ酸の分析が可能 大粒子50~60個

電子顕微鏡を使った測定はまだだが、イトカワの粒子の可能性が高い。すでに見つかった約1500個の微粒子の10倍の大きさで、わずかしか入っていない成分も検出しやすく、アミノ酸を作る炭素や有機物を調べるのに、十分な大きさという。

アミノ酸は、地球に落ちた隕石や米航空宇宙局(NASA)の探査機が接近した彗星でも検出された。イトカワで見つかれば、太陽系の至る所に生命の卵があることになり、火星の地下や、地底に海がある木星の衛星に微生物がいる期待が広がる。宇宙機構の藤村彰夫教授は「大きいものは貴重で人類の宝。どう分析するか、1500個の微粒子とは別に検討した」と話した、〈東山正宜)

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20101118 朝日新聞の社説

イトカワの砂

あっぱれを、次の宇宙に

日本の小宇宙探査機「はやぶさ」が持ち帰った微粒子が、小惑星イトカワのものであることが確認された。

月より遠い天体に着陸し、採取した物質を人類が手にするのは初めてのことだ。宇宙探査の歴史に残る快挙といっていい。

イトカワまでの距離は、地球から太陽までの距離の2倍に当たる約3億キロもあった。はるか遠来の使者は何を語ってくれるだろうか。

小惑星は45億年前に太陽系が誕生したときの名残をとどめているとされ、太陽系の化石ともいわれる天体だ。

微粒子はこれから、日本国内だけでなく世界中の研究者に分配されて詳しく分析される。イトカワの生い立ちはもちろん、それを通して太陽系の起源に迫る成果を期待したい。

今回、はやぶさのカプセルから見つかったのは細かな砂のようなもので、0,01ミリ以下の微粒子約1500個に加え、やや大きいものもあった。

弾丸を発射してイトカワの表面の物質を飛ばす装置は動かなかったが、着陸の衝撃で舞い上がった砂粒がカプセルにうまく入ってくれたようだ。

目には見えない物質を分析チームの研究者がていねいに集めて分析した。鉱物の組成は地球の物質と異なって隕石に似ており、イトカワの観測から予想された成分とも一致することを確かめた。量はごくわずかだが、最新の装置を使えば、ほぼ予定通りの分析ができそうという。

道のり60億キロに及ぶ旅の途中で交信が途切れ、エンジンも故障した。南天を赤く燃やした、この6月のはやぶさの奇跡的な帰還は記憶に新しい。

プロジェクトを率いた宇宙航空研究開発機構の川口淳一郎教授が「帰ってきただけでも夢のようだったのに、さらにその上」というように、ちっぽけな「はやぶさ君」は今度もまた、うれしい方へ予想を裏切ってくれた。「あっぱれ」というしかない。

はやぶさの構想は四半世紀前、若い研究者の挑戦から始まった。計画の着手から15年かかった。川口さんは更に「宇宙科学研究所として40年以上に及ぶ積み重ねがあってこそです」という。加えて、野心的な目標と、高い技術力、研究者たちの献身的な努力が「オンリーワン」の成果を生んだ。

野心的な計画は、若者たちにとって多くを学ぶ場にもなったことだろう。だが、アジア諸国が研究に力を入れる今、日本の科学は陰りも言われる。

私たちはなぜ、自然科学の探求を続けるのか。すぐに実利に結びつくわけではないが、知を求める不断の情熱が人類を進歩させてきたことは疑いない。時代に応じた予算のバランスをとりつつ、若者が研究に打ち込み、存分に独創性を発揮できるような研究環境を整えていく必要がある。

2010年11月21日日曜日

今年も、銀河鉄道の夜がやってきた

20101119 東京演劇アンサンブルから、第28回クリスマス公演として、毎年恒例の「銀河鉄道の夜」の案内書をいただいた。招待状も入っていた。今年も、ジョバンニやカムパネルラは不思議な旅をする。決して引き返すことのない軽便鉄道に乗って、本当のさ・い・わ・いを見つけ出す旅に出る。お母さんの愛の愛が、人間の愛の愛が、三次元から四次元の世界へと誘(いざわな)われていく。今年は12月23日か24日に行くことになるのでしょう。誰かを誘わなくてはならん、と思っていたら或る友人がひっかかってくれた。グッドタイミング。友人がふらっと会社に寄ってくれたのです。私は招待を受けているので、有料客を首に紐をつけてでも連れて行かなくてはならないのです。これは私の劇団に対する義務です。友人に感謝。美味い物でもご馳走しなくっちゃ。

その案内書に同封されていたNO95 a Letter From  the Ensemble に劇団員の羽鳥 桂さんの文章が掲載されていた。その中に、羽鳥さんが引越しのための片づけで、『銀河鉄道の夜』の広渡常敏の脚本の初稿が出てきて、それと1999年の「稽古場の手帖」の原稿も見つかって、その原稿を紹介していた。初稿は一字一字いとおしむように丁寧に書かれた広渡の原稿からは、この戯曲への思い入れがそのまま伝わってきたと記述していた。

「宮沢賢治の詩的小宇宙”銀河鉄道の夜”における作品行為を辿る」と題された文章に広渡は書いている。以下はその文章のまま(手を加えていません)転載させていただいた。

作家は自分じしんにむかって書いている。書くという行為が文学であり、その作品行為の痕跡として文学作品があるのだ。作家の作品行為における精神のはたらき、心の動きを読者であるぼくらが追体験しようとする。追体験しながら(当然のことながら)ああ、いいなとか、これはどうかな?などと共感し批評しながら、さらに作品の内奥に分け入ってゆくーーーーー読むという行為はこういうことではないだろうか。

このように考えてくると、読むという行為も書くという行為と同じように、自分にむかって読むといえるようだ。そしてまた芝居することも自分にむかって行為するのだ。こうして読むことも演技することも、その行為を通して自らの想像力の変化に賭けることになる。想像力が変化するということは自分の生き方が変わることだ。宮沢賢治は生き方を求めて行為を書き続けた。ぼくらも生き方を求めて賢治の作品にむかい、ブレヒトに、チェーホフにむかいあうのである。

ーー中略ーー”銀河鉄道の夜”はその祈りも生き方も童話的発想そのものの中で発酵し醸成された作品である。童話という形式の中に宮沢賢治の祈りや思想が盛り込まれたなどと考えないでほしい。童話だけが到着できる地点、童話でなければ表現できない祈りと思想、それが”銀河鉄道の夜”の作品世界である。

そして、今回も羽鳥さんは語り手を担当なさる。稽古の中で先ず演出家から言われたのは「語り手の余計な感情を出すな」だったそうです。賢治の物語を語っていくだけ、目の前に見える景色を、今起こっていることをそのまま観客に伝えるのだ、と羽鳥さんは書いていた。

今年の銀河鉄道の夜はどのように演出されるのだろうか。毎年観に行くのですが、演出の変化も楽しみの一つです。

話は、午後の授業。活版所、家、ケンタウルの祭りの夜、天気輪の柱、銀河ステーション、北十字とプリオシン海岸、鳥を捕る人、ジョバンニの切符、と続く。

2010年11月20日土曜日

ルネッサンス

私の就寝の時間は早い。夕方から飲みだした酒の酔いがほどほどに回ってきた頃が、私が布団に入る時間なのです。それが大体、8時から9時頃の間です。そして、最初に目が覚めるのが夜中の1時頃。1時頃に目が覚めて、暫く本を読んでまた寝て、今度は3時半頃にはきっちり目を覚ますのです。また本を読んで、5時の犬の散歩に備えるのです。

目が覚めても、考えごとを仕出すには暫く時間が必要だと、世間ではよく耳にするのですが、私の場合はそんなことはなく、覚めた瞬間に考えごとが可能なのです。本も直ぐに読める。昨日の反省と復習、今日の予定を確認する、作戦を練る。

そんな諸々の考えごとの隙間に、フッと頭に浮かんだ言葉が「ルネッサンス」という言葉だった。学校で習ったルネッサンスは文芸復興だ。日本語訳では、今では文芸という言葉を外して、復興、再生と言っている。ウィキペディアによると、14~15世紀にイタリアを中心に、西欧で興った古典古代の文化の復興のことだ。文芸だけではなくあらゆる芸術、産業、精神を復興しようとする歴史的文化革命、あるいはその運動をさす、と説明を受けた(一部、山岡が加筆した)。

そうだ、俺にもルネッサンスが必要なんだ、と想い起こして興奮してしまった。賢者は常にこういうことを意識して時を過ごしているんだろう。

洗脳された先入観に縛られて実(じつ)の生まれぬ作業を続けてはいないだろうか。旧式、旧弊に拘っていないか。悪習慣による無駄はないか。旧態依然とした不合理な手順、計略で作業をしていないか。革新を怖れていないか。

イタリアのルネッサンスの時代も決して明るい時代ではなかったらしい。今、日本では戦争はないものの、不況の嵐が吹きすさび、精神は暗く閉ざされがちだ。そんな現実において、私が夢想したルネッサンスを、私の精神世界の中から、何かを導き出せるのだろうか。今日からの日常業務の中で意識を澄ましてみたい。

兎に角、いい言葉を想起させてくれたもんだ。

2010年11月17日水曜日

水曜日の私の喜び

水曜日は、弊社の営業部の定休日です。私は会社に出社するもののできるだけ午前中に仕事を片付けて、午後は読書、ブログの書き込み、イーハトーブ果樹園の手入れ、時には映画やお芝居を観に行くことで、定休日を大いに活用しているのです。

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ところが、半年前から水曜日の夕方5時には、孫・晴を保育園に迎えに行くようになった。晴は幼稚園の年長組さんなのですが、幼稚園の時間が終われば保育園に移動して、そこで私の迎えを待って居るのです。晴の両親は共稼ぎなのです。幼稚園と保育園が道を挟んでいて、一体で運営されている。一度、何か晴の父親・竹チャンの都合がつかなくて、代わりに迎えに行くように頼まれて、そしたら晴が非常に喜んでくれて、私も有頂天になって、そのまま水曜日には私が迎えに行く習慣になってしまった。

私が迎えに行くと、保母さんが晴の名前を呼んで、おじいちゃんが迎えに来てくれたよと声を掛ける。ニタッと微笑みながら帰りの準備に入るのです。私は、保母さんに向かって深深(ふかぶか)と頭を下げて日頃のお世話に感謝の言葉を述べる。

それからが楽しいのです。晴は徐(おもむろ)に、帰宅の準備を整えながら何かを考えているような顔つきで私のところにやって来る。帰り荷物を保母さんが確認する。靴を履いて、ランドセルを背負う。私は、晴が友人や先生達にきちんと挨拶することを見届ける。挨拶にはうるさいジジイなのです。

保育室を出た晴は、遊び道具入れの所へ入って、サッカーボールを持ってくる。それからが私と晴のサッカー練習なのです。一番最初の時は、否応なし、相談なし、意向、都合は聞かないで付き合わされた。でも、やりだしたら、これが結構楽しいのです。私が制限時間を決める。時間制限しないと限りないのです。自分からは、絶対やめようと言わないから。ジジイと晴が、キーパー役とシューター役を交代して、それを何回も何回も繰り返すのです。時には激しく晴のキープするボールに強くタックルすると、これが嬉しいらしくて喜んでくれるのです。時には、本気になることも必要らしい。晴は、右足に確実にボールをとらえてインステップキックが上手にできるようになった。体が大きいので、蹴ったボールはそれなりに威力がある。左足も何とか意識しながら蹴っているので、上手く蹴れるようになるのは時間の問題だ。

ジジイとのサッカー練習の最中(さなか)に、保育園の子供達が園庭に遊びに来て、私は怖い思いをしながらボールを蹴っているのですが、晴が蹴ったボールがどういうわけか、上手いこと子供達の頭に当たるのです。度々当たった。ボールが柔らかいから、そう心配はいらないんだが。その度に肝を冷やして、晴にやめようと声を掛けるのですが、その意味をのみ込めない晴を納得させるのは至難の業なのです。顔馴染みになった保母さんたちが、二人の戯れに優しい眼差しで微笑んでくれる。

それでも何とか納得させて自宅に連れて帰っても、晴の頭のサッカー熱はそう簡単には冷めやらぬ。今度は近くの公園まで行って、同じことを繰り返すのです。遊び足りないのだ。体力が余り過ぎ。お陰でジジイにも、昔のサッカー気違いだった頃の、40年から45年前の感覚がささやかながらも蘇ってくるのが不思議だった。これって快感、我ながら凄いと思う。

そんな水曜日の夕方が、私には至福のひとときなのです。この頃、11月のお迎えは4時です。

2010年11月16日火曜日

さすが、野茂さん

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20101109 朝日・朝刊のオピニオン/耕論・「企業スポーツの冬」に野茂英雄さんが昨今の企業スポーツについて、記者に語っていたことが文章として掲載されていた。その記事は下の方に丸々転載させていただいた。

これからの文中、野茂さんを敬称なしで進めさせて貰う。下の新聞記事をを読んで感じたことなのだが、野茂の考えにはこれまでのキャリアが大きく影響しているんだろう、その発言の内容は、ただ野球を愛する者だけではなく、スポーツを愛する者には、神さま仏様の言葉のように聞こえてくる。器の大きい人だ。その一言一言に心が洗われていく。さすが野茂と尊敬してしまう。

そんな野茂のキャリアをたどってみた。

メジャーリーグでの活躍は我々日本人には、海の彼方で凄腕の外国人バッター相手にバッサバッサと三振にうちとっているニュースが映像とともに報じられ、気分のいい思いをさせてもらった。その後、日本人大リーガーが続々と野茂の後を追うようにアメリカに渡った。彼は先駆者だ。その昔、メジャーで活躍した日本人投手に、マーシーと呼ばれた村上雅?を憶えている。南海ホークスではそれほど目立った成績はあげられなかったのですが、子どもの私には彼の活躍が嬉しかった。野茂はメジャーでノーヒットノーランを2度も成し遂げた。が、そんな栄光に輝いていた野茂ではなくて、メジャーに行くまでと、メジャーからお呼びがかからなくなってからの野茂を探ってみた。

父とキャッチボールをするときに、父から「ボールを体を使って投げろ」とは言われていた。その言葉は野茂の頭脳と体に沁み込んだ。小、中学生時代は目立った選手ではなかったが、各名門高校のセレクションは受けたものの、どこの学校からも声がかからず、公立高校の成城工業高校に入学した。高校の恩師は、野茂の投法が体をひねって投げるので、つむじ風投法と呼んでいた。このころから、トルネード投法の、原型が出来上がったのだろう。

高校卒業時には近鉄からの誘いはあったものの、社会人野球の新日鉄堺に入団した。

新日鉄堺の監督さんは言っていた。入団当時、球速が130キロちょろちょろ、140キロにははるか及ばなかった。ローテーションに加わる為には、1種類でいいから変化球を身に付けろと言って、スライダーを徹底して練習させた。フォークボールをものにしたのは、このあたりなのだろう。だから、なのか2年目にはエースになった。都市対抗での活躍が評価され、アマチュア日本代表に選ばれ、1988年のソウルオリンピックで銀メダルに貢献した。

1989年のドラフト会議では8球団から1位指名をを受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。近鉄への入団の契約内容に、投球ホームを変更しないという条項を入れた。契約内容にこんな条文を書き加えたなんて、前代未聞だ。野茂は自由な裁量で指揮を執る仰木監督の下で、才能を伸ばしていった。監督は、野茂のフォームに対する批判を一切聞き入れず、野茂自身にトレーニングを調整させた。この仰木監督という人も、珍しい名指揮官だ。鈴木イチローを育て上げたのも仰木監督だった。野茂は自分で考え出した投法にこだわり続けた。

その後、後任の鈴木啓示監督が、野茂の制球難を克服するには、フオームの変更が必要だと迫った。そんなことがあって、きっと自分の投法に口出しするような監督のもとではやってられないと思い出したのだろう。誇り高い野茂のことだ、メジャーへの挑戦に切り替えた。代理人は団 野村だ。

ここでも、野茂の野茂らしい近鉄退団だった。野茂は近鉄との契約更改で複数年契約と代理人制度を希望したが、1994年には肩をこわして投げることができなかったことで複数年契約には応じられないとのことだったので、近鉄を追い払われるように任意引退選手として、代理人にメジャー入りを委(ゆだ)ねた。これまでこのようなやり方で退団して、メジャーをめざすのは初めてのことだった。野茂は、揺るぎなく自分の意志を貫いた。

それからのメジャーでの活躍は、私がここでとやかく言うまでもない。ネットその他で資料はいくらでも手に入る。私には、そんなことよりも、メジャー時代のことで注目することが二つある。その1は、2002年に同じくメジャーリーグでプレーする伊良部秀輝、鈴木誠とアメリカの独立リーグの球団を買収したことに注目したい。エルマイラ・パイオニアーズだ。下の新聞記事にもあるように、日本でプレーの場がなくなった選手にチャンスを与えたいとの思いだったようだ。自分は無名高校から社会人野球を経て、順調にプロの選手に歩むことはできたが、そうでもない選手を沢山見てきたのだろう。チャンスを作ってやりたいと真剣に考えた結果だった。その2は、1995年にドジャースに入団してから、2008年7月にロイヤルズを退団するまでに7球団に籍をおいたことになる。アメリカではよくあることなのだろうが、それにしても多くの球団を巡ってきたものだ。これも飽くなきチャレンジャーとしての野茂の真骨頂だ。探求し続ける、それは粘り強い野茂だ。

メジャーリーグからは、戦力的に見放された野茂は、それでもそう簡単には諦めなかった。2007年ドミニカ共和国のウインターリーグに参加を試みたのですが、右ひじの回復が思うようにいかず断念した。そして、次にはベネズエラのカラカス・ライオンズに入団するものの成果は出せなかった。このように、かってはメジャーの大投手だったそんな誇りも糞も投げ捨てて、ボロボロになるまで、少しでも可能性があると見極めたならば、どこまでも挑戦を繰り返した。

現役選手としてプレーできないと判断したら、大阪府堺市に「NOMO ベースボールクラブ」を設立した。今度は選手を育てる立場で頑張りだした。これも、野茂らしい。社会人野球が低迷して、アマチュアから優秀な選手が生まれなくなったことに気を揉んでいた野茂は自ら球団を立ち上げた。野球を目指す者たちに、活躍の場を提供したいと想ったのだろう。都市対抗野球にも出場するまでになった。日本の野球界の将来の発展を見据えて、身を挺している。

野茂の野球人生から、我々が学ぶものが多い。

野茂英雄

〈以下は新聞記事です)

大リーグ・ドジャースにいた2002年、米国でプレーする他の日本人選手と共に米独立リーグの球団を買収しました。日本では社会人野球から撤退する企業が増えていました。プレーの場がなくなった選手を米国の自分の球団へ送りたいと思ったのです。

投手の入団テストをしたら驚きました。1人で練習している選手ばかりなのに、いい球を投げる。3人採用しました。素質ある選手は野手にもいるはずで、もったいないと思いました。プロになる機会をもっと与えたいと、僕が資金を出して03年春にクラブチームを堺市に作りました。

クラブは翌年、NPO法人となり、地元企業や全国の個人会員などから年会費の支援を受けて運営しています。すでに6人がプロ野球に入りました。地域の理解を広めるため、小中学生の野球教室や大会を開催しています。応援してくれる人がいて何とか続けていますが、支援先を見つけるのはずっと苦しいです。

野茂の名前があっても、です。例えば毎月1万円お願いしますと言われて、あなたなら出しますか?企業だって売上は、まずは会社や社員のために使いたい。クラブ支援にはメリットも欲しいですよね。記者さんの前では言うのは何ですが、口で言ったり、書いたりするのは簡単です。実際に行動に移すことは非常に難しいです。

企業がスポーツ界に貢献してきたことは間違いないです。僕がいた高校の野球部は全国で無名でした。僕は1987年から3年間、新日鉄堺でプレーして都市対抗やソウル五輪に出たことでプロになりました。今の時代なら、なれなかったかもしれない。

都市対抗の試合では全国から社員が集まります。「野球部のおかげで昔の同僚に会えた」「同じ会社でも知らない者同士で応援できた」と声をかけてもらいました。会社の一体感づくりに貢献していると思うと、野球、仕事への張りも違います。福利厚生としてのスポーツが、会社の利益として還元されていると感じました。

でも、今は企業スポーツはもう限界です。不況でリストラしたり、事業統合したり。会社の存続が第一です。スポーツを見捨てるな、と言っても誰が拾ってくれるのですか。朝日新聞がチームを持ってくれますか。

国に言いたいです。スポーツ振興のために頑張っている団体を救うシステムを作れないですかね。スポーツ支援のため寄付しても、国が認定した一部のNPO法人に対するものでないない限り、税金控除はないのが現状です。様々な団体への無駄なお金が流れている状況を事業仕分けで変えようとしているのはわかりますが、そうしたところにも目を向けてください。

プロ野球選手を夢見ている子どもたちは本当に多いです。うちのクラブのように夕方まで働きながらでも野球をしたい選手は大勢います。そういう彼らにチャンスの場を広く提供したいと、僕たちと同じ志で取り組んでいる人たちもたくさんいます。

野球に限らずスポーツによって世界中の人々が感動を共有できます。一人でも多くにスポーツの大切さを知ってもらい、実際に行動してもらいたい。そのために、僕が言わなければいけないと思っています。

(聞き手・金重秀幸)

2010年11月14日日曜日

友人んの納骨の日に思ったこと

たった5年の間に、これだけの病魔に襲われた人に、今まで遭ったことはない。亡くなって1年半後の昨日(20101113)、多摩霊園に納骨された。森さんのことだ。

森さんと知り合ったのは、30年前のことだ。私が学校を卒業して、某電鉄系の観光会社に就職したのち、不動産会社に転籍した。昭和51年の初夏。職場は、横浜の天理ビル20階。当時横浜駅の周りには天理ビルが一番背が高かった。私が勤めた不動産会社は分譲を主たる業務としていた。当時、横浜、鎌倉、逗子、横須賀では他社を圧倒する量の建売住宅やマンションを分譲をしていて、私はその建売住宅やマンションを今まで住んでいた住宅を売却して購入するお客さんの、その売却物件の売却を担当する仲介部に所属していた。

私が不動産の業務についた頃のその不動産会社は、分譲住宅を買ってくれるのだから、そのお客さんの所有する物件を売って手数料をもらうなんて、そんなことをしていて・・・・・いいのですか????そんな雰囲気がまだ残っていた時代だったのです。同じ電鉄系でも東急系は、この仲介手数料の売上げを本気で収益の柱にしようと取り組んでいました。

そんな会社のそんな体質だったので、私の所属した仲介部は、のんびりしていた。そののんびり、ゆったりした時間の中で仕事しながらも、秘かに知識を豊かに深めること、と広く同業の人と知り合いになって情報を交換することを怠(おこた)りなかった。情報と言っても、不動産の情報だけではなく、各会社の仕事の仕方や、営業の極意や、失敗をした例や失敗しないための予防策、土地利用の仕方、宣伝方法、宅造法などの不動産に関する法律の内容からそれの手続き、などなどを酒を飲みながらの談笑、そして交流を深めた。痛飲したこともしばしばだった。

そんな仲間の一人が森さんだった。森さんが勤めていた会社は、桜木町の駅前のビルのなかにあった。昭和23年生まれで同(おな)い年。森さんは、東京都は木場の材木屋の長男として生まれた。家業の方はお父さんの代で仕事をやめることを、既に早くから決めておられたようだ。森さんは、日本でも授業料が指折りに高い学校を卒業していた。金銭的には恵まれていたのでしょう。

そんな付き合いが35年程続いた。

そして、6年前のこと、一発目の病、心筋梗塞だった。カテーテルを入れて、それが不具合で、再再度の入れ直しを行なった。それでも、この病気は最初の一発目だったことで、それほど深刻にならないで、療養していた。そして徐々に回復した。

それから1年後のある日、私と鎌倉の極楽寺に一緒に仕事に行っての帰り、私の会社で少し休憩してから森さんは駅に向かった。それから、20分後東戸塚の改札口の向かいのコーヒーコーナーから私に電話がかかってきて、気持ち悪いから来てくれと言われて行った。カウンターに頭を伏せていた。頭から顔にかけて玉の汗が噴き出していた。私は、尋常じゃないことを瞬時に察し、駅員に救急車の手配をお願いした。心筋梗塞のときからお世話になっている鎌倉・大船にある鎌倉湘南病院へ行くようにしてもらった。その病院には、森さんの体の状態が判る全てのデーターがあるからです。私は付き添いで乗り込んだ。救急車の走行は緊急車両なので、交通法規は全て無視して走るものだから、私は怖くなってそのうち気分が悪くなって吐きそうになった。

二発目は脳梗塞だった。病院に着いたときはまだ意識も手足も緩慢だけれども作用していたが、病室に入ってから3,4日は意識は朦朧、大変苦しんだそうだ。1年前に心筋梗塞を患いながらもここまで復活してきたのに、ここにきて何で、脳梗塞なんだ、と私と森さんの奥さんとは共に悲しみ、嘆いた。

手足の運動と言語に障害が残った森さんは、リハビリに励んだ。鶴巻温泉にあるリハビリセンターだ。それでも、車椅子から、松葉杖から、何も頼らないで歩行できるようになった。でも、長時間の歩行は無理だった。奥さんは働きに出かけられるようになって、森さんは留守番をしながら簡単な食事は自分で作れるようになった。気分転換のために、家の周りの散歩を楽しみにしていた。

それから、今度は食道ガンに襲われた。三発目はガンだった。手術をして摘出した。そして1年後、四発目もガン。転移したのだろうか、今度は肝臓のガンにかかった。さすが、この段階にきて森さんは弱音を吐き出した。私の友人と二人っきりのときに、俺はそろそろ駄目らしい、と吐露したらしい。彼の気持ちを推し量ることはできないけれど、さどかし辛かったのだろう。

6年前に最初の心筋梗塞、それから5年の間に、脳梗塞、食道ガンに肝臓ガン、こんなにも強烈な病魔に襲われた人を他に知らない。不幸と言えば、これほど不幸なことはない。でもいつも傍には親身になって介護していた奥さんが、悩み事をいくつも抱えながらも、献身的に働かれていたのが印象的だった。

森さんの病歴を奥さんの了解の下に詳(つまび)らかにしたのは、今、この世で恰(あたか)も健康そうにお過ごしの方にも、45歳を過ぎたら、真剣に自分の体の具合をチェック、内容を把握、対処を速やかに的確に行なってください、と言いたかったのです。慢心はイカンですよ、45歳を過ぎたら要注意ですぞ。

森さん、ご冥福をお祈りいたします。

確(しっか)り、生きたいと思う

遠藤周作氏のエッセイ集を読んでいたら、終戦直後、氏が学生だった頃の友人で詩人だった野村英夫の詩を2作その本の中で紹介していた。

詩人は31歳で昭和23年に死んでいる。私が生まれた年だ。遠藤氏の友人だから、きっとキリスト教つながりの人だったのか。この2作の詩は、死を予感しながら病床で書いたのかもしれない。清澄で、力強い詩だ。

詩のなかで、キリスト教の施設を有効的に使っている。

昨今の経済状況の中で、自分の立ち位置を見失いがちになっている此の頃の私だから、特にこの詩に惹かれたのだろう。一段一段、確りした足取りで進みなさい、そうすればあなたの生涯は満たされたものになる、と。ふらふらしていたら、アカンってことだ。

そして日々の生活のささやかなことにも、丁寧に、慈(いつく)しみ、優しく接していきたい。苦難にも正しく辛抱強く対処したい。感謝すること、素直に謝ることも忘れないようにしたい。友人を果てしなく愛したい。

私に自分の人生を熟すことができるだろうか、と自問した。できますかね?と再度自問した。

神様は、それァできるよ、できますとも、と私に自答を促した。

幸いなことに、私は健康に恵まれている。そして誰からも愛されている。

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陽を受けた果実が熟されてゆくように

心のなかで人生が熟されてくれるといい。

さうして街かどをゆく人達の

花のやうな姿が

それぞれの屋根の下に折り込まれる

人生のからくりと祝福とが

一つ残らず正しく読み取れてくれるといい。

さうして今まで微かだったものの形が

教会の塔のやうに

空を切ってはっきり見えてくれるといい。

さうして淀んでゐた繰り言が

歌のやうに明るく

金のやうに重たくなってくれるといい。〈仮名づかい、原詩のまま〉

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心の石段を一段一段昇ってゆこう。

丁度、あの中世の偉大な石工達が

築き上げた美しい聖堂を

一段一段、塔高く昇ってゆくように、

私達の心のなかの石段を

一段一段、空高く昇ってゆこう

さうしてもう一度だけその頂から

曠野(あれの)の果ての荘厳な落日に

僧院の庭に音立てる秋の落葉に

人びとの群がった街かどに

また愛するものの佇(たたず)む窓辺に

別離の眼(ま)なざしを向けよう。

さうしていつか私達の生涯が

このやうに荘厳に終えて呉れるといい。〈( )内は山岡が書き入れました〉

2010年11月11日木曜日

今日のポン太の足取りは軽い

昨日(20101109)の朝、ポン太が退院したのです。

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(我が家のポン太さまです。ちょっと可笑しいのが魅力なのです)

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(三女が作った作品です。ポン太〈シーズ)、ツバサ(ピーシャ)、ゴン(ラブラドール))

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(ポン太はぶさいくですが、ツバサは男っ前です。三女のデッサン途中です)

私が自宅に戻ると、エリザベスカラーをつけたポン太が玄関で迎えてくれた。しばらくの入院生活で、我が家が恋しかったのだろう、家の中をすごく嬉しそうに歩き回っていた。6日に手術して、9日に退院。入院するまでのポン太は、居眠りをしているのか、夢想に耽っているのか、ただぼんやりしていただけだったのか、この元気はどうしたんだ、オレは嬉しいじゃないか。

手術の内容は、臍(へそ)ヘルニア整復、右眼マイボーム腺腫除去、去勢手術を一度におこなったのです。臍ヘルニアは、そんなに悪化はしていなかったのですが、着実に肥大して硬化してきていたので、ここらでストップをかけなくてはと思った。

右眼の目蓋(まぶた)の裏にいくつものイボができて眼球の表面を傷つけだしたのです。時には血が滲(にじ)んでいたのです。これはさすがのポン太も気分が悪そうだった。

早朝(10日)の散歩のために、エリザベスカラーを外すと、ポン太は俄然元気が出てきて、早く外に出たがった。いつもは、ツバサが先頭をきって歩くのですが、今日はポン太が先頭を歩いた。入院中の宿便があったのだろうか、早足で歩いて、今朝は4回もウンコをした。食事も、元気いっぱいだ。

この犬たちのご主人さまも、オレのことだが、出物(でもの)、腫れ物が多いのです。かって背中にできた脂肪瑠がいくつもできて、それがすくすく育つものだから、怖くなってきて病院で切って貰ったことがあります。私が把握してない物まで医師が見つけてくれて除去した。それでも現在、右脇下に小指の爪ほどのイボが成長中です。孫からは気持ちワルがられています。どうしたもんだろうか。

1週間後に抜糸だ。

初代横綱若乃花が亡くなった

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「土俵の鬼」といわれた初代若乃花幹士(かんじ)、本名花田勝治氏は、2010年9月1日亡くなった。伝説の人になった。

世間では、栃若時代と言われていたようだが、少年だった私には、そんなことは分らず、父の尋常高等小学校の同期が営(や)っている近所の木下自転車屋さんのテレビを、大人の頭越しに見ていたことを思い出す。

このように、何もすることがなく、フラっとよそのテレビなどを見ていたのは、私が8歳ぐらいまでの時期だったと思う。10歳くらいからは、学校から帰ると大辻商店で店番をしていたからです。横綱になったのは、1958年だとすると、私が10歳の時だ。中学校から高校は、クラブ活動にどっぷりの生活を優先したので、テレビ、まして夕方などは観たことがない。

栃錦も強かったが、後の朝潮との試合の方が印象に残っている。成長するにつれて記憶は濃く残っている。

その日の取り組みは、冬場所だったのだろう、夜は早くやってきた。野良仕事を終えた大人たちがヤケに騒いでいて、みんなの目は真剣、全身に力が入っていた。一番五月蝿(うるさ)かったのは、サブやんだった。サブやんは町民運動会で土嚢を背負って走るレースでは、断トツに強かった。名物男だ。それが、朝潮との優勝決定戦だったように思う。どちらが勝ったのかは憶えていない。

その後、若乃花は勝ち星を重ねた。でも特別関心を寄せることもなかったのですが、小学校だったのか、中学校だったのか、講堂で若乃花の映画を鑑賞した時の感動は大変なものだった。感受性の高い少年だったのでしょう。

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その映画で強烈に印象的だったのは、花田家の稼ぎ手としての後の若乃花の奮闘振りが胸を打った。北海道のある港で、船に乗せていたのか下ろしていたのか、天秤棒の前後のざるに鉄鉱石か石炭をてんこ盛りにして、岩壁と船にかけた板の上を担いで渡っていたシーンが、何故か記憶に残っている。このシーンが長かったように思う。

筋肉隆々の男たちに紛(まぎ)れて奮闘する。灼熱の太陽。玉の汗。板を数枚繋ぎ合わせた幅1メートルほどの桟橋(さんばし)を、バランスを崩さないように歩む。

私は田舎育ちで、野良仕事や土木工事では今のように建設重機はなく、仕事は何でも人力によるしかない、そんな作業を日々目にしていた私は、強烈な印象を受けたのです。

その後の若乃花の活躍、弟・貴乃花の活躍、若乃花の子どもがちゃんこ鍋に落ちて亡くなったこと、韓国の愛人がいてその人との間に生まれた子が相撲取りになったが大成しなかったこと、若乃花系からは立派な相撲取りが続々輩出したこと、など、など、もっと若乃花のことを書きたかったのですが、--野暮用が入りまして---ちょっと未完成のまま、ここは終幕。

諸君、初代若乃花のことは、今後話す機会があるだろう。

友人に感謝

友人は、有り難きかな。

他人には決して口外できない重ッ苦しい難題を背負ってしまった。この難題についての私の結論は出ていた。でも、私の出した結論が、如何ように周りに影響を及ぼすのか、そしてそれは今後、どう推移するのだろうか、と第三者に判断してもらいたかった。そのために私は、大阪は寝屋川宝町の金の家に向かった。金だけには話さざるを得なかった。

私の結論は出ているものの、実際にどのように踏み込めるか、まだまだ心の整理ができてない部分も抱えていた。

前日、交通費を安く上げるために夜行バスを会社のスタッフに予約してもらった。横浜から新大阪。4000円也。途中トイレ休憩が2回あった。新大阪から慣れぬ駅名を数えながら上ってくるよりも、京都で下りて慣れた駅を近鉄、京阪を乗り継いで寝屋川に向かう方を選んだ。京都駅には早朝の6時ころ、寝屋川には7時。ヤマオカ、寝屋川駅は南口で下りるんやデ。寝屋川から、金の自宅まで歩いてみようと思いついた。心配したほど迷わなく、しっかりと金の家の前に自力で着いた。

彼は大学時代のサッカー部の同輩です。私は2浪してやっと大学の入口に辿り着いたのですが、彼は現役で入学したので、2歳下だ。金は一軍のフォワードのトップ、私はそのトップを何が何でも殺さなければならない二軍のセンターバック。紅白ゲームは激烈だった。私が率いる二軍は、一軍に負けたことはない。

私は今62歳、彼は還暦の祝いを少し前にしてもらった、と言っていた。

相談の内容については何も言わないまま、訪問する日を前もって報せておいた。40年の間に、二人にはあうんの呼吸で相手の悩みのふり幅や深度までが自然に理解できるほどの付き合いになっている。いちいち、相談の内容をああだ、こうだと言わなくても、私らには相手の状況を最大限に考えて、最良のアドバイスを出し合えるのです。

今回も、私が相談があるので会ってくれと、たったそれだけを言っただけなのに、彼の直感は鋭敏に反応したのだろう。「待ってるわ」のその一言のイントネーションで、私は私の悩みを見抜いてしまわれたのではないか、と恥ずかしくなった。照れ隠しに、カネの相談やないよ、と付け加えることを忘れなかった。

でも今回は違った。私は既に結論を出していた。今回の訪問は、結論に従って実行する場合に発生するだろう諸事に立ち向かう俺を、見捨てずにフォローしてくれ、ケアしてくれと一方的にお願いするだけだったのです。

金の自宅に着いて、即、厚かましくも友人のよしみで、ビールを奥さんに所望した。金は、私が道に迷っているのではないかと、家の周りから大きな道路まで見てくると言って出て行ったそうだ。金の帰りが待ちきれなかった。朝の8時のビールは旨かった。奥さんと何かを話したのだろうが、憶えていない。一睡もしていないので、頭が重い、血が昇っている。

金が帰ってきて、開口一番私に話した内容で、私のこの重ッ苦しい難題は瞬時に晴れた。金に事情を説明するまでもなかった。実は、この顛末をどのような手順で話せばいいのか、苦慮していたところだった。ところが、いきなり私が出していた結論の実行を踏みとどまらせる一報が金の携帯電話に入っていた。晴れたことが、将来私にとってハッピーなのかハッピーでないのか、それはわからない。

それと引換えに激しい胃痛に襲われた。金に余り心配しないようにと気を使った心算なのですが、この痛さはどうしょうもなかった。用意してくれた朝食を思う存分いただけなかったことが、奥さんに悪かったなあと思う。難題は私から離れて、私抜きで別のステージに移ったのです。この場で、金さんに相談することは何もなくなった、晴れたのです。

この胃の痛さは、そう易々とは治まってくれそうにはなかったので、帰るしかない。

滞在1時間で帰ることにした。金は、分っていた。そうか、それなら、そうしたらええわ、金のやさしい言葉だ。金の家に入った一報で、金は何もかも察したようだ。私の気落ちした様子、私が意を決して晴れたと言ったことに、金は何やらホットしたようでもあった。金さんの事務所に顔を出して金の弟に会ってから帰ることにした。

帰りも夜行バスの予約をしてあったのですが、急遽新幹線のぞみに乗って横浜に戻った。胃が痛くて、座席に座っていても海老のように反り返ったり、真ん丸くなったり、惨めな気持ちだった。会社には6時頃着いた。

そこで思う。大事なときに居てくれる友人を私は持っている。そのことに感謝したいと強く思った。

2010年11月6日土曜日

我が第3号の孫、初めての誕生日

 

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(鵠沼海岸の浜に寝っころがって見上げた空は、青空だった)

20101103、私の長男・草の第一子、そらの初誕生会を鵠沼のドッグ・デプトの宴会室で行なった。愛称、ソラマメの第一回目の誕生日を祝おうってことです。

本当の誕生日は、11月8日なのですが、この3日は水曜日で文化の日だったのと、ジジイである私の会社の定休日が水曜日なので、その日に決めてくれたようだ。一年の中でも、数少ない水曜日が休日の日だったのです。

3日は、朝から晴天なり。私はこの何年間海で泳ぐ機会に恵まれなかった。よし、今日は泳ぐぞ、と思いついたものの、今の海の水温は果たしてどの位のものなのか、想像がつかなかった。かって、真冬以外は平気で素っ裸で泳いだものです。自然をなめてはイカン年頃に入ってきている。我が老体の各部にボロが出てきている。用心することに越したことはない。寒いと困るので、次女の夫・タケさんのウエットスーツを借りることにした。臆病になってしまったワイ。これさえあれば、鬼に金棒だ。そのことを、耳ざとく察知した次女の息子・晴は、自分も泳ぐのだと言い張った。寒いからやめなさい、と言っても、こんな話を聞いた段には絶対妥協しない、晴君でした。

次女の車に、我が家族(私、愚妻、三女・苑)と次女家族(次女・花、タケ、晴)、花の運転で権太坂から鵠沼に向かった。

ドッグ・デプトには、犬の遊び場があってそこで方々から集まってきた犬たちが、勝手に犬たち同士で自由に遊べるようになっている。入場料は、犬一匹につき500円。食事を1000円以上摂った人には、犬1匹までは無料。この店には我が苑がアルバイトをしている関係で、ちょくちょく犬を連れて遊びに来ていたのです。花とタケちゃんの結婚報告会もここで行なった。鵠沼の付近は、海岸を背に立派な屋敷が続く住宅街で、連れてきてもらっているどの犬も、行儀がよく手慣らされていた。しっかり飼い主に愛されていない犬は、このようなところに放されると、必ず問題を起すそうです。名前の知らない高価そうな犬も多かった。お金持ちが多いのだろう。すぐに、ひねくれてしまう心が情けない。

会場に着くと、本日の主役の姫が白いドレスに身をまとって、鎮座されていた。この姫こそ名前は「そら」、愛称ソラマメです。その周りで、準備にいそしむソラマメの父・草と母・元。会場の隅っこには、大きな白と赤の直径15センチほどの御餅、正月に神棚に飾る鏡餅と同じ格好のもの2個と、藁で作った赤い布の鼻緒のついた草履一足、長さ5センチほどのものがビニールシートに置かれていた。どちらも、ソラマメの五島列島は宇久島に住む祖母が用意してくれた。

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(なかなか海から上がろうとしなかった晴、最後まで付き合うタケちゃん)

私はウエットスーツに着替えて、晴の手を引いて海に向かった。水は温(ぬる)んでいた。冷たくはなかった。サーフインをしている人たちの後ろの方で小さな波を最初は踏みつけていたのですが、そのうち腰までどっぷりつかって、大波の来るのを待つ。波にのまれて体が踊るように舞う。ジジイの手をしっかり握っている。それが面白いらしい。深いところへ行って放り投げても、スイミングクラブに通っている彼は、へっちゃらだった。晴が波に慣れてきて、自分で遊べるようになったので、それに海岸には保護者が監視中なので、私は晴の手を払って、沖の方に向かって泳ぎ進んだ。

沖に出た。波に揺られた。この数日間、我が身に降りかかった難題も忘れていた。今日のこれからは、幸せな時間を過ごすことになるのだろう。ウエットスーツが必要なほど水は冷たくなかった。沖合いからはるか海岸線を見ると、蟻の巣のようにごちゃごちゃしたところで、若い人たちがサーフインをしているのが、滑稽に思えた。晴とタケちゃんが、何やら話してる。波に乗れても5、6メートル、せいぜい20メートルの波乗りなんて、そんなことでいいの?といいたくなってしまう。ここで基本を身に付けて、どこか大海原の波に乗る夢を持っている人もいるんだろう。映画やテレビでしか見られないが、大きい波に乗ったアクロバチィックなサーフインを、誰もが頭に描いているのだろう。若者はそうでなくっちゃ。

少し泳いだだけだったけれど、満足度は高かった。かって、海の近くに行く時には、必ず泳ぐことを念頭においていたではないか。この時期に、この俺が泳ぐなんて言うと、どうしてみんなに笑われちゃうんだろう。

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(バースデイケーキを前にした、ソラマメと晴。いつまでも仲良くしてくれよ)

午後0時半、ソラマメの父・草の、参加していただいた方々へのお礼の挨拶の後、乾杯で宴会は始まった。料理は洋風のコースになっていた。今回は会費制なのですが、ジジイとバ~バはいりませんと言われた。温かい配慮だ。折角オリジナルのメニューを用意していただいたので、ここに料理人に敬意を表して内容の紹介です。巣篭もりのサラダ/カボチャのポタージュ/メルルッツオのクリームクレープ包み/ローストビーフ/サーモンリゾット/チーズフロマージュ

今日の出席者は、ソラマメの家族以外には、我が家と長女家族に次女家族。それにソラマメの父の大学時代の友人たち、東京何とか大学の泣く子も黙るド・ボ・クの仲間たちだ。草以外、今は東京都職員だ。ソラマメの母の大学時代の友人で看護婦をめざしている女性も参加してくれた。

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(餅を風呂敷に入れて担ぎ、藁草履を履かされようとするのですが、本人にはその意志まるで無し)

一升餅を背負い、藁草履に足をおいた。食に恵まれるように、体が丈夫でありますように、との願いからこのような風習が生まれたのだろうか、これは我流による解釈ですですから保証は効きません。私ら夫婦の郷里、京都界隈ではこのようなことはしなかった。上の写真がその時の写真なんですが、カメラマンの私が酒に酔っていたのか、写真からは、状況がよくわかりません。スマン。

2010年11月4日木曜日

「梅棹忠夫 語る」を読む

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20101031 朝日・朝刊に幾つかの本の書評が掲載されていた。その中に、梅棹忠夫(話し手)さんと同じく国立民族博物館の現在は名誉教授の小山修二(聞き手)さんとの対話本の書評が出ていた。人文科学の京都学派と呼ばれる流れのなかの重鎮だった梅棹忠夫さん。

先輩の今西錦司さんの山登りや学問以外の本は痛快丸かぶりで楽しかった。こんな面白い、偉い人が居るなんて、初めての経験だった。梅棹忠夫さんの秘境の探検は胸をゾクゾクさせられたものです。その後、京大のずうっと後輩の本多勝一さんの本では、私は本多さんの鼻息に呼応するかのように、世事のこと如くを嘆き、怒ったり、似非(えせ)知識人や文化人らを批判したりして、勝手に本多派を任じさせてもらっていた。

そんな三人のうちの梅棹忠夫さんの人柄が滲みでる対話形式の本なら、梅棹忠夫の正体〈考え方・生き方〉が窺(うかが)えるいいチャンスだと思った。新聞の書評の(評)が、横尾忠則さんだったので、これまた楽しく読ましてもらった。この書評を下で転載させていただいた。

私はこの書評を読んだ午前中に、最寄の本屋さんに取り寄せて貰うように依頼した。現在読書中です。こんなにして、新刊書を予約したのは何年ぶりのことだろうか。不景気で、私の可処分所得は減る一方で、本を買うのはもっぱら何とかオフの中古本オンリー、それも105円もので何とか満足しているのです。これはこれで、なかなか興味深い世界なんですぞ。

梅棹忠夫さんは、京都大学の人文科学研究所教授を経て、1974年に創設された国立民俗学博物館の初代館長を務められた。本年7月死去された。

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「梅棹忠夫 語る」  梅棹忠夫〈著〉

聞き手・小山修三/評・横尾忠則〈美術家)                           日経プレミアンシリーズ

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生前、今西錦司さんと対談した際、「あんたは学者と違うさかいに今日は遺言のつもりで何でもしゃべるでえ」と言って今西弁の放談が始まったが、本書を読みながら梅棹さんと今西さんがダブってならなかった。というのはこの書が出る前に梅棹さんが亡くなられたので、最後の言葉が現在の日本人に対する遺言に聞こえるのだった。だとすれば心して拝聴せなあかん。

梅棹さんの底の抜け方は今西さん同様、尋常ではない。痛快の一言に尽きる。冒頭から全編、日本のインテリに対する批判が炸裂する。「インテリというものはサムライの後継者」で「オレたちが知識人だ」と町人民衆をバカにしているとーー。

例えばこんな調子だ、「こんなあほらしいもん、ただのマルクスの亜流やないか、----何の独創性もない」と著名な学者の実名を挙げて痛烈にこき下ろす。他人の本を読んでいるだけでは独創性は認められない、独創は思いつきから生まれるもので、「悔しかったら、思いついてみ」と、頭で学問をする人間への舌尖(ぜっせん)はとどまるところを知らない。

学問からは思想は生まれないので自分の足で歩き、自分の目で見たものを自分の頭で考えた文章を書くべきで、他人の本を引用する文章家を「虚飾や」と一刀両断に切り捨てる。

そして自分の人生を究極的に決定したのは「遊びや」と主張し、ついでに思想も遊びにしてしまう。このことはまさに芸術にも一脈通じ、人生の無目的性へと昇華していくが、こんな発想を裏づけるように自らを老荘の徒と呼び、無為、自然の道を重んじた老荘思想の実践者であった。

未練も物欲も享楽に溺れることも捨てた「痛快なる無所有」者は齢(よわい)90という長命のせいではなく、元来がニヒリストで「明るいペシミスト」(本人弁)として、人類全体の一個体として消えていく存在と自覚しておられたようだ。かって今西錦司さんをリーダーとして学術探検に出かけるなど、すべて自前の足と目で学んだ梅棹さんの人生観に触れてみたら如何やろ。