2010年11月11日木曜日

友人に感謝

友人は、有り難きかな。

他人には決して口外できない重ッ苦しい難題を背負ってしまった。この難題についての私の結論は出ていた。でも、私の出した結論が、如何ように周りに影響を及ぼすのか、そしてそれは今後、どう推移するのだろうか、と第三者に判断してもらいたかった。そのために私は、大阪は寝屋川宝町の金の家に向かった。金だけには話さざるを得なかった。

私の結論は出ているものの、実際にどのように踏み込めるか、まだまだ心の整理ができてない部分も抱えていた。

前日、交通費を安く上げるために夜行バスを会社のスタッフに予約してもらった。横浜から新大阪。4000円也。途中トイレ休憩が2回あった。新大阪から慣れぬ駅名を数えながら上ってくるよりも、京都で下りて慣れた駅を近鉄、京阪を乗り継いで寝屋川に向かう方を選んだ。京都駅には早朝の6時ころ、寝屋川には7時。ヤマオカ、寝屋川駅は南口で下りるんやデ。寝屋川から、金の自宅まで歩いてみようと思いついた。心配したほど迷わなく、しっかりと金の家の前に自力で着いた。

彼は大学時代のサッカー部の同輩です。私は2浪してやっと大学の入口に辿り着いたのですが、彼は現役で入学したので、2歳下だ。金は一軍のフォワードのトップ、私はそのトップを何が何でも殺さなければならない二軍のセンターバック。紅白ゲームは激烈だった。私が率いる二軍は、一軍に負けたことはない。

私は今62歳、彼は還暦の祝いを少し前にしてもらった、と言っていた。

相談の内容については何も言わないまま、訪問する日を前もって報せておいた。40年の間に、二人にはあうんの呼吸で相手の悩みのふり幅や深度までが自然に理解できるほどの付き合いになっている。いちいち、相談の内容をああだ、こうだと言わなくても、私らには相手の状況を最大限に考えて、最良のアドバイスを出し合えるのです。

今回も、私が相談があるので会ってくれと、たったそれだけを言っただけなのに、彼の直感は鋭敏に反応したのだろう。「待ってるわ」のその一言のイントネーションで、私は私の悩みを見抜いてしまわれたのではないか、と恥ずかしくなった。照れ隠しに、カネの相談やないよ、と付け加えることを忘れなかった。

でも今回は違った。私は既に結論を出していた。今回の訪問は、結論に従って実行する場合に発生するだろう諸事に立ち向かう俺を、見捨てずにフォローしてくれ、ケアしてくれと一方的にお願いするだけだったのです。

金の自宅に着いて、即、厚かましくも友人のよしみで、ビールを奥さんに所望した。金は、私が道に迷っているのではないかと、家の周りから大きな道路まで見てくると言って出て行ったそうだ。金の帰りが待ちきれなかった。朝の8時のビールは旨かった。奥さんと何かを話したのだろうが、憶えていない。一睡もしていないので、頭が重い、血が昇っている。

金が帰ってきて、開口一番私に話した内容で、私のこの重ッ苦しい難題は瞬時に晴れた。金に事情を説明するまでもなかった。実は、この顛末をどのような手順で話せばいいのか、苦慮していたところだった。ところが、いきなり私が出していた結論の実行を踏みとどまらせる一報が金の携帯電話に入っていた。晴れたことが、将来私にとってハッピーなのかハッピーでないのか、それはわからない。

それと引換えに激しい胃痛に襲われた。金に余り心配しないようにと気を使った心算なのですが、この痛さはどうしょうもなかった。用意してくれた朝食を思う存分いただけなかったことが、奥さんに悪かったなあと思う。難題は私から離れて、私抜きで別のステージに移ったのです。この場で、金さんに相談することは何もなくなった、晴れたのです。

この胃の痛さは、そう易々とは治まってくれそうにはなかったので、帰るしかない。

滞在1時間で帰ることにした。金は、分っていた。そうか、それなら、そうしたらええわ、金のやさしい言葉だ。金の家に入った一報で、金は何もかも察したようだ。私の気落ちした様子、私が意を決して晴れたと言ったことに、金は何やらホットしたようでもあった。金さんの事務所に顔を出して金の弟に会ってから帰ることにした。

帰りも夜行バスの予約をしてあったのですが、急遽新幹線のぞみに乗って横浜に戻った。胃が痛くて、座席に座っていても海老のように反り返ったり、真ん丸くなったり、惨めな気持ちだった。会社には6時頃着いた。

そこで思う。大事なときに居てくれる友人を私は持っている。そのことに感謝したいと強く思った。