2018年12月29日土曜日

日日是好日(にちにちこれこうじつ)

今日(20181229)11:00~12:50、映画「日日是好日」を観て来た。

映画館はジャック&ベティ

監督・脚本=大森立嗣(たつし)
キャスト=黒木華  樹木希林  多部未華子  原田麻由  川村沙也
制作=東京テアトル株式会社

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茶道教室に通った約25年について記した森下典子のエッセイを映画化した人間ドラマ。

正確には、森下典子さんが通った茶道教室での日々を綴ったもの
「お茶」が教えてくれた15のしあわせを映画化したのが、正確なこと。

下部の文章においては、主人公の女子大学生を黒木華、従姉の女子大学生を多部未華子、茶道の先生を樹木希林さんとして著した。
黒木華の母親も父親も立派な役者のようだが、私には語ることを持ってはいない。

随分、お世話になった東京テアトルが創ったと言うならば、3日後に元日が来るというのに、万難を排してでも観に行かなくっちゃならねえ、そうだろう。
私の心の秘められた処にテアトルが在る、そんな私です。

母親の勧めで茶道教室へ通うことになった大学生の黒木華が、茶道の奥深さに触れ、成長していく姿を描く。

監督は「ぼっちゃん」などの大森立嗣。

私が観た映画のなかでは初めての監督さんだが、「ケンタとジュンがカヨちゃんの国」「さようなら渓谷」など数々の作品で好評を得ている。
今後、機会ができたら観るべきだろう。
監督の父は舞踏家で「大駱駝艦」の創始者である麿赤兒さん。
この父親は大森監督の作品では常連の俳優さんで、脇役としてはたびたび出演している。
主人公は黒木華、彼女と一緒に茶道を学ぶ従姉を多部未華子。
茶道の先生は、今年9月に他界された樹木希林さん。

黒木華が二十歳の春のこと。
自宅で、母から「武田のおばさん」=樹木希林は茶道教室の先生であることを告げられた。
そのタダものではないと噂の「武田のおばさん」(樹木希林)の、丁寧なお辞儀のさまに驚いたと話す。
娘は、真面目で、理屈っぽくて、おっちょこちょい。
黒木華は大学生活を送っていたが、本当にやりたいことを見つけられないまま、悩んでいたところだった。
たまたま遊びに来ていた多部未華子にも、一緒に茶道を習うことをすすめた。
多部未華子は、お茶を習うことに乗り気になり、黒木華は誘われるまま流されるように通いだした。
見たことも聞いたこともない「決まりごと」だらけのお茶の世界に触れた黒木華は、それから20年にわたり武田先生(樹木希林)の下に通うことになった。

多部未華子は貿易会社に入り、茶道を止めた。
その会社も辞めることになって郷里へ帰り、お医者さんのお嫁さんになり幸せな家族を築いた。
黒木華は正社員として出版会社には入れず、文章書き屋さんの立場で入社、そして失恋、大事な父親を亡くし、お茶や人生における大事なことに気づいていく。

この映画は、内なる自由と生きる喜び、そしてかけがえのない”今”を描く物語。
黒木華と多部未華子、武田先生(樹木希林)に、黒木華の父母によって描き出される時の流れは、美しく、儚(はかな)い。
とは言うものの、時間の経過は、色んなことを人に知らしめる。

粗筋とは懸け離れた話になるが、この9月に亡くなった樹木希林さんの映像を観られたのが、何よりも嬉しかった、などと発言すれば、この野郎とぶん殴られるかもしれないが、
そんな気分でもあった。
私の自宅・保土ヶ谷区権太坂から映画館のある中区若葉町までの往還、歩いた。
総歩数は2万4千歩、所要時間は片道1時間40分*往復=3時間20分。
翌日の散歩には影響が大なり、緩やかな少になった。





2018年12月27日木曜日

22日は冬至、柚子湯だ

22日は冬至だった。

我が家の浴槽には、この権太坂地区で、どこの家(うち)にも負けないほど、大量の「柚子(ゆず)」が入っていた。
柚子の数が多いから、当然と言えば当然だが、うっとりするほどの好い香りが、浴室いっぱいに漂っていた。
今井町の畑=イーハトーブのお隣のオジサンが、自前の柚子をいっぱい呉れたので、こういう結果になった。
道理で、私の体の肌は誰よりも綺麗な筈なんだが、その気配(けはい)はどうも感じられない。
柚子湯だけではなく、2升の柚酒も仕掛けた。
来年の2月以降、私は酒乱になっているかも。
この楽しみは私だけのものなので、声を潜めて吐露したまでです。


これより下部の文章は、全てネットで得たものです。
折角得た文章なので、ここらで、もう一度冬至を正しく知りたいと思った。
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冬至とは、北半球において太陽の位置が1年で最も低くなり、日照時間(日の出から日没)が最も短くなる日。
冬至はいつかというと12月21日頃ですが、固定ではなく毎年変動します。
冬至の日の日照時間を、太陽の位置が1年で最も高くなる夏至(6月21日頃。同)と比べると、北海道の根室で約6時間半、東京で約4時間40分もの差があります。

冬至の日の食べ物には、よく知られるかぼちゃの他、「冬至粥」や、地方によって小豆とかぼちゃを煮た「いとこ煮」を食べるところなどもあります。
 

冬至の食べ物は「ん」がつくもので運盛りを
かぼちゃは「南瓜(なんきん)」とも呼ばれ「ん」がつく

「南瓜(なんきん)」だから「ん」のつく運盛り!
冬至には「ん」のつくものを食べると「運」が呼びこめるといわれています。
にんじん、だいこん、れんこん、うどん、ぎんなん、きんかん……など「ん」のつくものを運盛り といい、縁起をかついでいたのです。
運盛りは縁起かつぎだけでなく、栄養をつけて寒い冬を乗りきるための知恵でもあり、土用の丑の日に「う」のつくものを食べて夏を乗りきるのに似ています。

また、「いろはにほへと」が「ん」で終わることから、「ん」には一陽来復の願いが込められているのです。

 

かぼちゃが冬至の日の食べ物なのはなぜ?

かぼちゃを漢字で書くと南瓜(なんきん)
つまり、運盛りのひとつであり、陰(北)から陽(南)へ向かうことを意味しています。

また、かぼちゃはビタミンAやカロチンが豊富なので、風邪や中風(脳血管疾患)予防に効果的です。

本来かぼちゃの旬は夏ですが、長期保存が効くことから、冬に栄養をとるための賢人の知恵でもあるのです。

 

かぼちゃ以外の冬至の食べ物「冬至粥」って?

かぼちゃなどの運盛りのほかにも、冬至の日の食べ物には、小豆(あずき)を使った冬至粥があります。
昔から小豆の赤は邪気を祓うと言われていますから、冬至粥で邪気を祓い、翌日からの運気を呼び込もうというわけです。

 

かぼちゃと小豆のいとこ煮って?

【いとこ煮】かぼちゃ400g、小豆100g、砂糖大さじ4、醤油小さじ2(4人分) ※甘いゆで小豆を使えばおやつになります。

1:小豆を水煮しておく。
2:小豆とかぼちゃに水を加えて20分煮る。
3:砂糖と醤油を加えて味を整え5分煮る。
4:火を止め、しばらく置いて味を含ませれば出来上がり!
冬至には小豆とかぼちゃを煮た いとこ煮 を食べるという地方もあります。
本来、いとこ煮とは硬いものをおいおい(甥)入れて、めいめい(姪)炊き込んでいくことから いとこ煮 と名付けられた料理なので、小豆とかぼちゃ以外の場合もあります。

 

冬至に こんにゃく?

冬至にこんにゃくを食べる地方もありますが、これを「砂おろし」といい、こんにゃくを食べて体内にたまった砂を出すのです。
昔の人は、こんにゃくを「胃のほうき」「腸の砂おろし」と呼び、大晦日や節分、大掃除のあとなどに食べていたことの名残りでしょう。


なぜゆず湯(柚子湯)に入るの?

【ユズ】ミカン科の常緑植物。耐寒性に優れているので東北地方でも栽培。表面がでこぼこしていて大きなオオユズ、小ぶりのハナユズがある。
柚子(ゆず)=「融通」がきく、冬至=「湯治」
こうした語呂合せから、冬至の日にゆず湯に入ると思われていますが、もともとは運を呼びこむ前に厄払いするための禊(みそぎ)だと考えられています。
昔は毎日入浴しませんから一陽来復のために身を清めるのも道理で、現代でも新年や大切な儀式に際して入浴する風習があります。
冬が旬の柚子は香りも強く、強い香りのもとには邪気がおこらないという考えもありました。
端午の節句の菖蒲湯も同様です。

また、柚子は実るまでに長い年月がかかるので、長年の苦労が実りますようにとの願いも込められています。

もちろん、ゆず湯(柚子湯)には血行を促進して冷え性を緩和したり、体を温めて風邪を予防したり、果皮に含まれるクエン酸やビタミンCによる美肌効果があります。
さらに、芳香によるリラックス効果もありますから、元気に冬を越すためにも大いに役立ちます。


ゆず湯のやり方

銭湯などでは、かなりたくさんの柚子を丸ごと入れています。
ゆず湯の方法も各家庭によって違いますので、幾つかご紹介します。
柚子湯に入りながら「一陽来復」と唱えると、さらにハッピーになれるそうです。

●丸ごとお風呂へ……柚子1個や2個では香りを感じるほどにはなりませんので、たくさん入れたほうが良いでしょう。

●輪切りや半分にカットしてお風呂へ……柚子は香りもよく、成分も出やすい方法です。
ただし、だんだんグシャグシャになってきて果肉や種がお湯に浮いてくるため、お掃除がちょっと大変かもしれません。

●柚子を輪切りや半分にカットし、袋に入れてからお風呂へ……ガーゼなどで袋を作り、中身が出ないようにします。
柚子が見えないのが残念ですが、香りや成分も出やすくお掃除も楽。洗濯ネットでもOKです。

●このほかにもゆず湯には様々な方法があり、複合技にする場合もあります。
・皮を何ヶ所か削いで、丸ごと入れる。
・浅く切り込みを入れてから、丸ごと入れる。
・皮だけしか入れない。
・液をしぼって入れる。
・半分に切って熱湯でよく蒸らしてから、お風呂へ入れる。

曹洞宗大雄山・最乗寺

今日(20181226)は大雄山・最乗寺に行ってきた。



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大雄山最乗寺(道了尊)



何故、最乗寺かと言えば、それはそれなりに理由がある。
鶴見にある曹洞宗の大本山の「総持寺」では、子供の教育においてお世話になった。
そのお寺でも、曹洞宗の良さを大いに感じさせてもらった。

弊社では、昨年(2017 10)に神奈川県南足柄市怒田(ぬだ)で、和風造りで太陽パネル付き、オール電化の中古住宅の販売をした。
怒田は、「ぬた」ではなく「ぬだ」だ。
屋内は大黒柱・梁が丸見え、1階の玄関を入った辺りの土間の広大だったこと。
お客さんが百人ぐらい同時にお見えになっても、靴の置き場所は足りなくなかった。
広々としていて、何だか面白くないなあと、感じる人も居るだろうけれど、私には申し分なかった。
私のような田舎臭さが好きな人間には、堪(たま)らないモノ!だった。
仕事を離れて、私が買える物ならば、きっと、誰其(だれそれ)そっちのけにして私が買っていただろう。
お父さんが大工で、自分の娘用に創りあげた貴重な物件だった。
その物件は、買っていただいたその人の好み通りだったようで、購入できたことを凄く喜んでもらった。
我々の目論見通り。

その現場に行く度に使う電車の終着駅・大雄山駅では、曹洞宗大雄山・最乗寺の案内板を見つけた。
伊豆箱根鉄道大雄山線・大雄山駅からバスで10分とあった。
今日は、小田原駅から大雄山駅までの電車賃と、大雄山駅から最乗寺(道了尊)までのバス賃を、割引された乗車券(中学生以上 1,030円)で買った。
スイカは使えず、現金払いだった。

自宅を7:00に出て境木中学校前でバスに乗ったが、JR東戸塚駅でも、小田原駅での大雄山駅までの乗り換え、そして大雄山駅から道了尊までのバス、全ての乗換えがスムーズで、道程時間は測ってはいないが、最短だった。
「道了尊」については、後の方で、ネットよりいただいた文章をお読みくだされば、了解されるでしょう。
道了尊へのバスの運転手さんは女性で、私以外には客は居なく、一番前の座席に座らせてもらった。
確実なドライブ捌(さば)きで、運転のお手本のようだった。

道了尊から、最乗寺の境内の隅々まで歩き出した。
参道は前も後ろも、当然右左も杉の巨木に囲まれて、澄んだ空気も加わり、静かな趣が何故か私の心までじっくり。
仏さまの静寂というものだろう、私の今の生活とは違うものを感じた。
杉が巨木だと簡単には言い終われない。
高さが20から30メートルほどもあるかと思われる。
人間が5~6人、両手を広げないと1本の幹を囲めない、そんな太さの木も多かった。
だって、2階建ての住宅が10メートルとすると、3階から4階建て並みだ。
数々の石碑があって、いつ誰がどの位寄進したのか、そんなことが書かれていた。
大正のある時期に5千円とか3千円とか、差し入れのお金のことだろう、銘入ってあった。
東京の何とか講が、大正の時代に杉の苗を何万本、というのもあった。
何の資料で見たのか、樹齢600年の杉が2万本もあるとあったので、総計では大変な本数になるのでしょう。
寺を囲む山林には、この杉の苗も使われたのだろう、私にはどうしても数えられない。
こんな山奥にこれだけ多くの石材を使っての寺の杜、どこから持ち込んで来たのだろうか、それとも、この山の中から集材したのだろうか。

最乗寺は箱根外輪山・明神ヶ岳の山林の中腹に存在する、境内で見る頂上辺りからの湧き水の清らかしには驚いた。
私だって田舎育ちの本当の田舎育ち、もっともっと誰にも文句言わせないほどの田舎育ちだ。
こんな処で、グチャグチャ言うつもりはないが、一滴の水、一葉の落葉、小さな虫にだって、感無量になったものだ。
その綺麗な水を頼って、富士フイルムが工場を設置し、アサヒビールだって負けじと工場を作った。
日本企業の創造主の頭の中は凄かったと感心させられた。

帰り道は、来た時に通った道を戻った。
境内と帰り道で歩いた歩数は8千歩、毎日自宅から会社までが7千歩なので、少し多く歩いたことになる。
1時間近く歩いたので、この最乗寺に来る時に乗せてくれたバス、それもあの時の女性運転手さんとも、すれ違った。
運転手さんも、私のことをきちんと確認していた。
大雄山駅で昼飯にしようとお店を探したが、大雄山臭(ぐさ)さのメニューはなく、いつものようにラーメン屋さんに入った。
お品書きにあるサービスラーメンには、何か特別なサービスしてくれるのかと思ったが、何てことはない、普通のラーメンだった。
お汁(つゆ)が生温(ぬる)く、不愉快だったので、主人に悪く思われないように、穏かな口調で不平を言った。
主人さんがどのように思われたかしらんが、言わなくてはならんことは、必ず言うことだ、と大阪にいる私の大学時代の友人の決めごと。




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20181221の朝日新聞・朝刊を転載させていただいた。

旅人と語る 富士・伊豆・箱根
大雄山最乗寺

座禅純粋な心と向き合う
箱根外輪山・明神ヶ岳の山林を抱く大雄山最乗寺。
板の間の壇上に畳を敷いた参禅道場で、オランダ人芸術家たちに、若い僧侶が滑らかな英語で語りかけた。

「背筋を伸ばし、深くゆっくりと呼吸する。ひたすら座り、あなたの純粋な心と向き合う。何かのイメージや考えが浮かんだら、心にとどめず、そのまま消えていくようにする」

十数人が神妙な表情で座った。
数分後、座禅は鐘の音と合掌で終わった。

画家らの訪問団は11月、オランダのティルブルグから来た。
最乗寺のある南足柄市と姉妹都市で、ともに富士フィルムの工場がある。
座禅と写経の後、元富士フイルム社員で南足柄市長を2期務めた沢長生さん(71)が境内を案内した。

曹洞宗の最乗寺は1394年開創。
境内山林の約128ヘクタールに巨大な杉並木が広がる。
箱根の山塊の伏流水・金剛水が湧く水屋を前に沢さんが英語で話した。

「山と森が雨水を濾過し、大量の清水が街まで流れ下る。
だから、80年以上前、富士フイルムが工場を建てた。
市内にアサヒビールの工場もできた。
この金剛水を美しい人が飲むと、もっと美しくなります」。

どっと笑い声が起きた。
中高年の日本人ならば「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに(写る)」と、フジカラーのCMを想い出すだろう。

伝説の天狗 見守る

御真殿への入り口にあたる結界門は、両脇の天狗の像が訪れる人を見下ろす。
「伝説の天狗が門を守り、邪悪な心の人間の侵入を許さない」と沢さん。
オランダ人女性は「私たちは座禅と写経で純粋になったから大丈夫」と応じた。

男性団長のヤン・ファン・ライセンさん(63)は、「美しく穏かな環境で座禅を体験し、世界への新たな洞察力と霊感が私たちに与えられた。
ティルブルグ市民の心に響く、新たな芸術活動につながるかもしれない」と話した。

南足柄市の「最乗寺と杉林」や湧水地・清左衛門地獄池は2016年、箱根ジオサイトになった。
20年春までに市と箱根町仙石原が新県道でつながらい、東京五輪で訪れる外国人も増えるだろう。

境内の階段は700段を超え、週末には多くの人が最も高い奥の院へ黙々と上がる。
その階段の近くで今月8日、英国出身で秦野市在住のトム・ラプシーさん(44)がカメラを巨木に向けていた。
「最乗寺は5回目。色づいた落ち葉で林床がこうして彩られるのを待ち望んでいた。
里山の風景が好きなんです」。
最乗寺は紅葉の名所でもある。

もうすぐ初詣。
参拝客が境内を埋め、天狗の神通力を受ける「パワースポット開運守」や階段の効用に通じる「足腰健康守」のお礼に新年の願いをこめる。

(村野英一)





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★以下はネットよりいただいた文章です。
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最乗寺は、室町時代の応永元年(1394年)に了庵慧明(りょうあんえみょう)が創ったとされています。
了庵は曹洞宗大本山の總持寺(そうじじ)など様々な寺の住職を勤め、50歳を過ぎて故郷の相模国(神奈川県)に帰り、最乗寺を創建しました。
優れた禅僧として名高く、弟子も多かった了庵の下に集った一人が、道了です。


大雄山最乗寺は、曹洞宗の寺院です。今から600年以上前、了安慧明(りょうあんえみょう)という禅僧の袈裟を1羽の大鷲が掴んでそのまま足柄山まで飛んでいき、大きな松の枝に袈裟を引っ掛けて飛び立っていきました。
高い位置にある袈裟は、了安慧明禅師は坐禅をしたところ肩に落ちてきました。これを何かの前兆であると感じた了安慧明禅師は、ここに寺を建立することを決意しました。

了安慧明禅師が寺を建立するという話を聞いた弟子で修験道の行者であった妙覚道了は、空を飛んでやってきて神通力を使い、了安慧明禅師が寺を建立する手伝いをしました。
妙覚道了はひとりで500人分の力を発揮したと言われており、妙覚道了の助力で寺は1年あまりで完成したと言われています。
これでできたのが大雄山最乗寺です。

了安慧明禅師の死後、妙覚道了は大雄山最乗寺を守るために天狗となり山中へ飛び去ったと言われています。

現在、大雄山最乗寺の境内には天狗の像がいくつもあり参拝者を見守っています。
また、天狗と関連性のある高下駄も数多く奉納されていました。
現在高下駄の奉納は行っていませんが、境内には世界一といわれている。


まずは「かながわ美杉50選」の総門へと続く小径へ!
写真:木村 優光
神奈川県西部の最大都市である小田原駅から、伊豆箱根鉄道大雄山線に乗り、目指すは終点の大雄山駅。
そこから西へ約3km、鬱蒼と覆い茂る杉林の坂道をひたすら上り切ると、両側にお土産店、真正面に写真のような「大雄山最乗寺」の入口が見えてきます。

ここから先は徒歩専用の小径へ!この小径は「かながわ美杉50選」に指定されていて、非常に背の高い杉の木が林立しています。
まるでどこか遠い過去へと通づるかのような雰囲気に、一度は通っておきたいところ!また、小径沿いにはアジサイがたくさん植えられているため、梅雨時は美杉とともに素晴らしい光景となります。
参道をアジサイ参道とも言われている。
まずは「かながわ美杉50選」の総門へと続く小径へ!
写真:木村 優光
小径を歩くこと数分、目の前には「大雄山最乗寺」の山門が出迎えてくれます。
山門の周囲にはモミジの木がたくさん植えられているため、春の新緑と晩秋の季節は見応えあり!この山門は平成15年建立とかなり新しいもので、内部には放光菩薩、四天王菩薩、十六羅漢像が安置されています。
まずは「かながわ美杉50選」の総門へと続く小径へ!
写真:木村 優光
山門を抜けて参道をゆっくりと上って行きましょう。
緩やかな階段でつい足早に進んでしまいますが、この先の境内には沢山の階段があるため、ここはゆっくりと進んで体力を温存しましょう。
しばらくすると、目の前には境内へと続く立派な入口門が現れます。

写真の入口門は「瑠璃門」で、南隣にも同じように境内に入ることができる「碧落門」があります。
どちらをくぐるかは貴方次第!なお、「瑠璃門」の手前の参道にはモミジの木が沢山覆いかぶさっており、晩秋の季節は真っ赤なトンネルと化しますが、春から初秋にかけての青モミジのトンネルも非常に素晴らしいですよ。

入口門をくぐり境内に入ってみよう!

入口門をくぐり境内に入ってみよう!
写真:木村 優光
入口門をくぐるとすぐ目の前に飛び込んでくる建物は書院。
背後に青々とした木々を従えた書院は、「大雄山最乗寺」の代表的な建物で、堂々たる佇まいは格好の被写体!撮影後はこの書院にて手を合わせてから次へ進みましょう。
入口門をくぐり境内に入ってみよう!
写真:木村 優光

書院の左横には本堂があり、その手前は広場となっている境内。
ここが「大雄山最乗寺」のメインステージともいえる場所です。
「大雄山最乗寺」の代名詞的な本堂と書院を同時に見るには、尚宝殿入口あたりに立つと良いでしょう。
尚宝殿前には沢山の自動販売機があります。
水分補給も忘れずに!

なお、本堂は1954年に再建されたもので、中にはご本尊の釈迦牟尼仏、脇侍の文殊・普賢両菩薩が祀られています。
書院と同様に手を合わせてから次へ行くと良いでしょう。

書院と本堂を参拝したら境内のさらなる奥地へ!

書院と本堂を参拝したら境内のさらなる奥地へ!
写真:木村 優光

本堂を背にしたら今度は境内を南へと進んでみましょう。
やがて右手に不動堂が見えてきますので、不動堂と真正面で向き合える石橋の上に立ってみましょう。
すると、まるで不動堂の建物下から滝が流れ下ちているかのような構図が!この滝、「洗心の滝」と名が付けられており、その名のごとく心を洗ってくれるもの!しばし見ていると本当に心が洗われるかのような効果抜群のパワースポット!
書院と本堂を参拝したら境内のさらなる奥地へ!
写真:木村 優光

洗心の滝から流れ落ちた水は、自分が立っている石橋の下を流れていきます。
水の透明度も高く、まさにお寺の中にある渓谷!滝で発生する水しぶきとともにマイナスイオンが石橋の周辺を囲んでくれます。

境内最高峰の奥の院道了堂へアクセスしてみよう!

境内最高峰の奥の院道了堂へアクセスしてみよう!
写真:木村 優光

広い境内が特徴的な「大雄山最乗寺」には、最高峰の奥の院道了堂があります。
本堂から西へ250mと、距離的にはさほど遠いイメージはありませんが、最終地点にはなんと300段を超える階段が!

写真のように奥の院までまっすぐ伸びているため、ここでくじけてしまう人も多いです。しかし、ここまで来たからにはラストスパート!ゆっくりでもいいので頑張って約300段の階段を上がり切ってみましょう。

なお、階段のスタート地点近くの両脇には天狗の銅像が置かれています。
これは、「大雄山最乗寺」が天狗の里にちなんでいることから設けられたもの。
寺の建設に携わった了庵慧明禅師が亡くなると、寺の守護神として天狗に化けたことから天狗伝説が始まりました。
以後、境内のあちこちにはたくさんの天狗の銅像が置かれています。
境内最高峰の奥の院道了堂へアクセスしてみよう!
写真:木村 優光
約300段の階段を上がり切ると、目の前に奥の院道了堂が現れます。
「大雄山最乗寺」の中でも一番のパワースポットでもある「奥の院」ですので、階段を上がり切った疲れなんて吹き飛んでしまうかもしれませんね。
なお、奥の院には道了尊の化身とされる十一面観音菩薩が祀られています。
境内最高峰の奥の院道了堂へアクセスしてみよう!
写真:木村 優光

奥の院から下山する場合、順路に沿って下りてくると、大雄山道了尊の脇に出ることができます。
この大雄山道了尊の横には大変珍しいものがあります。
それは様々な大きさの下駄!一番大きいものは1ヶ月以上もかけて造られたものも!まさに天狗がお召しになる下駄ということで、迫力は満点!インスタ映えもしますので、様々な角度から写真を撮ってみると面白いでしょう。

2018年12月25日火曜日

さようなら 銀河鉄道




今日(20181223)は14:00からの「さようなら 銀河鉄道」を観に行って来た。
今までの「銀河鉄道の夜」に「さようなら」がついて、正式の演題は「さようなら 銀河鉄道」になった。
よくぞ付き合っていただいた! 東京演劇アンサンブル殿。

芝居小屋の改札口を入場すると、何はともあれ、代表の入江洋祐氏、共同代表の志賀澤子さんに挨拶した。
師走にあること、今日は劇団ご自慢の「銀河鉄道の夜」の上演、そしてブレヒトの芝居小屋の今後のことに就いてのお伺いもあって、代表らとは目を見入って話した。
何よりも「銀河鉄道の夜」を、私の脳波にガツ~ンと大量の知血を巡らさせてくれたことに、感謝。

作=宮沢賢治
脚本・演出=広渡常敏
音楽=林光
ブレヒトの芝居小屋=西武新宿線、武蔵関駅より歩いて10分
全席自由/当日4500円/前売一般3800円 
前売学生3000円
開場/12:30  開演/14:00


劇団のお陰で、これまでどれだけ愉しませてもらったことか、代表の入江さん、感謝しています。
代表の息子さんの龍太君にも感謝している。
私は長女と長女の子供(小2・女)と一緒に行った。
我が家に同居中の三女の子供は、未だ3歳なので、ちょっとお芝居を観るのは難しいだろうと考えて、200メート側に住んでいる長女と二人の娘を連れて行こうと考えた。
長女の二人の子どもは、姉が小6、妹が小2。
が、小6はお勉強があって無理、長女と小2だけを連れて行くことにした。
小2の観劇料は、ジジイの私が負担すると言って、その気にさせた。

予期しなかったが、入江さんの長女(ツム)と劇場でばったり会えた。
私が大学生だったころ、中学生だったり高校生だった。
大学を卒業後、東京演劇アンサンブルの劇団員になった。
その前からのお付き合いになるから、50年前後の付き合いになる。
この劇団とも仲の良かった脚本家の牛島さんの家で、ツムに始めて会った。
そういうことで、私と牛島さん、ツムとツムのお父さんである入江さんと劇団が、一串のダンゴ虫になってしまった。

飯尾昌克家族(奥さんのトンガさん、次女と三女、次女の夫)とは、偶然、西武新宿線・武蔵関駅で合流した。
昌克とは短期間だったけれど、同じ大学のサッカー部で練習した仲だ。
何がどうなって、どうしたのか、二人の仲はいつまでも睦まじいものになった。
昌克は、私に簡単に逃れられない支障が発生した時などには、必ず傍に来てくれた。

昌克とツムとも長い付き合いになったが、会えば、流石に嬉しいものだ。

これからも何度か、劇団に来させて貰うと思うが、今日のお芝居「銀河鉄道の夜」が、私と劇団の縁を作ってくれたようなものだ。
その時のジョバンニ役の入江さんの長女(ツム)も、縁結びの別格のもう一人だった。
座席ではツムと学生時代から今に至るまでのことを、アッチ行ったりコッチ行ったりしながら、話をした。
彼女は、元この劇団のスタッフだったせいか、何か物思いなところを端々見せながら、芝居のことも話してくれた。

この劇団がやるお芝居の題名に「さようなら」が付くだけで、何故こんなに私の心はセンチメンタルに揺らぐのか。
劇団と付き合い出して、40年以上経っただけで、頭の芯にブレヒト菌でもほじくられたのか。
怪我の後遺症なのだろうか? こんな心情に陥るのは、やっぱり可笑しくなりだしているのだろう。

お芝居の内容については、下記に転載させてもらったものを読んでいただければ、大体は解かってもらえるだろうから、触れていない。


★パンフレットより。
ケンタウルス祭の夜、ジョバンニは不思議な旅をする。
宮沢賢治の幻想四次元の空間へ、ジョバンニとともにぼくらは旅立つ。
銀河の夜の空をはしる軽便鉄道の彼方に、人間の愛の愛が、歴史の歴史が、
そして生命の生命が燃えているかもしれない。
現実世界は銀河の夜の彼方に広がる世界の世界の影らしいのだが・・・・・・
語り手 奈須弘子
ジョバンニ 山﨑智子
カンパネルラ 冨山小枝
車掌 浅井純彦
ザネリ 永濱渉
灯台守 川邊史也(劇団銅鑼)
赤ひげ 竹口範顕
尼僧/母 上條珠理
青年 篠原祐哉
男の子 藤廣果歩(イッツフォーリーズ)
女の子 重田めぐみ(イッツフォーリーズ)
サソリ 洪美玉
信号手 大橋隆一朗
影たち 雨宮大夢
 
スライド 三木元太
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2018 12/22(土)
19:00~
ブレヒトの芝居小屋

no,126
 a letter From the Ensemble(2018 1030)

「さようなら 銀河鉄道」




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★さようなら 銀河鉄道
入江洋佑(劇団代表)

1982年、宮澤賢治作『銀河鉄道の夜』初演から毎年年末クリスマス公演と名付けて36年間連続上演してきた武蔵関「ブレヒトの芝居小屋」の『銀河鉄道の夜』が、今年でついに終わることになってしまいました。
タイトルの「さようなら」はその想いです。
「さとうなら」とは「そうならねばならぬなら」という辛い別れの現在形だそうです。

もうご存知の方が多いと思いますが、地主さんの諸々の事情によってこの東京演劇アンサアンブルの「ブレヒトの芝居小屋」は来年3月の『クラカチット』を打ち止めにして閉じなければならないです。
勿論『銀河鉄道の夜』はアンサンブルの大切なレパートリーですから芝居はまだまだ、劇中のせりふのように「どこまでも、どこまでも」続けていくのですが。

「さようならブレヒトの芝居小屋」でもあるのです。

そして次なる新しい空間を決めるのも大変なことです。
そのための各委員会はもう動きだしているし、データも集め始めています。
でもその費用として皆様に「劇団移転・応援基金のお願い」をお知らせしている次第なのです。
よろしくご高配ください。

芝居は舞台上における俳優の精神行為なのだと僕は考えています。
俳優が舞台上で気を抜くことなど、どんなコンデションの時でも絶対にありません。
でも、ひとつうまくいかなかったなあという実感の日も事実あります。
俳優にとって公演は連続でもお客様はその日一回の出逢ひなのです。
でも今年の五回の最後の芝居はアンサンブル全員にとって、まして出演しているメンバーには特別ななにかが芝居の空間で閃くとぼくは思います。その一回限りの芝居に是非立ち会っていただきたいとお願いします。

『銀河鉄道の夜』は生きていく中で「ほんとうの幸いはいったい何だろう」を問いかける芝居だと思います。
その生きているジョバンニの問いに死者でありいまや天上に旅立つカンパネルラは答えず、空の孔石炭袋の闇を指して消え去ります。
その真っ暗などおんとした闇を責めてジョバンニは心の中で叫びます。
「あの闇の中にほんとうの幸いがつまっているかも知れないんだ」
そうかも知れないのです。
かも知れなのです。
宮澤賢治が妹とし子が亡くなった時、死というものを、そしてその死の自分に対する問いかけを考え続け、その闇の中から何かが見つかるかも知れない。
何かが生まれてくるかも知れない、かも知れないと考え続ける修羅が『銀河鉄道の夜』を生み出したのでしょう。

いま、ぼくたちの周りの世界は真っ暗闇です。
でも人間である以上何かが変わるかも知れないと仕事をつづけていきましょう。
変るかも知れないのです。






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★東京演劇アンサンブル版
『銀河鉄道の夜』の魅力
池田逸子(音楽評論家)



「’82 都民芸術フェスティバル/東京アンサンブル/76銀河鉄道の夜/1982年2月9日→22日/朝日生命ホール」と記された大判のプログラムが、いまも手元にある。
音楽=林光の名にひかれて、初日公演を観た私は、当時、発行していた手書きの同人誌に感想を書いた。
「音楽劇と呼んでもいいくらいに、全編、音楽が流れる。‐--『銀河の底でうたわれた愛の歌』は、ほんものの沖縄民謡かと錯覚させられるほどで、美しい。
『サウザンクロスの彼方で聞えた父が息子にあたえる歌』は――――心にしみるソングと。
以来、ブレヒトの芝居小屋で上演され続けて、ことしで36年目になる。

東京演劇アンサンブル版『銀河鉄道の夜』の魅力、それは何はともあれ広渡常敏の脚本と演出の素晴らしさであろう。
原作を大胆に整理し、語り手を登場させて、光と影、音楽を巧みに用いる演出が、異次元を行き来する幻想物語を可視化、可聴化した。

この広渡演出を支え、補強しているのが林光の音楽(広渡作詞の9曲のソング)である。
それらは時にの物語を中断して観客(あるいは演者たち自身)に問いかけ、語りかけつつ、メリハリをつけて場面を切り拓いてゆく。
音楽はこの劇の胆と言ってもよいだろう。

林光は少年時代から宮澤賢治に親しみ、”ケンジニア”を自称していたほどだが、82年当時はまだほとんど賢治ものの作曲に手を染めていない。
70年代に賢治詩をテキストにした歌曲(室内楽曲)を書き、1981年にオーケストラのための童話『セロ弾きのゴーシュ』を作曲したが、その『ゴーシュ』のオペラ化までにはさらに5年を要した。

『銀河鉄道の夜』の音楽はこのような歩みの中で書かれたのだが、賢治のオリジナル詩ではない分、緊張(?)せず、かえって愉しんで作曲したのではないか。
「歴史の歴史のうた」なんて、ぜったいに面白がって書いたにちがいない。
そのほか、林光の独自な作曲語法となる沖縄旋法による「銀河の底でうたわれた愛の歌」、クルト・ヴァイル風なリズムを伴奏に用いた「傾く銀河のうた」、舟歌のリズムに乗せて林光的抒情をたたえた「サザンクロズの彼方できこえた父が息子にあたえる歌」等々。

東京演劇アンサンブル版『銀河鉄道の夜』がいつまでも魅力を失わず、多くの観客に愉しまれているのは、広渡常敏や林光が劇に込めた提案や仕掛けを、役者やスタッフが、毎回、総力で舞台化しているからだと思う。

タリ(広渡常敏)さんもヒカル〈林 光)さんも銀河鉄道に乗って旅立ってしまったけれど、サダンクロスの彼方の銀河の底でケンジ〈宮沢賢治)さんとめぐり逢って、世界の世界、歴史の歴史、愛の愛などについて語らっているのだろうか。
私もこの暮は、移転間近な芝居小屋に出かけて、また幻想四次元の銀河の空を旅することにしよう。



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★脚本・演出家の広渡常敏さんが、1974年11月1日に書いた文章があったので、ここに転載させていただいた。

「プリオシン海岸の化石  -星のない夜に」
秋が深まった。
すだく虫の声にさそわれて、深夜戸外に出て星を仰ぐ。

降るような満天の星といいたいところだが、東京の空は濁っていて目を凝らして一分間は見あげていないと、星は見えてこない。
見えてきても三等星か四等星ぐらいの明るさでしかないのでほとんど見えないのだ。

東京の小学生はこのごろでは夜空を描いても星を書きこまないといって、先生をやっている友人を嘆く。

今年の夏、出雲の日御崎で眺めたものすごいばかりの星空の印鑑をたぐりながら、ぼくは高円寺の灰色の夜空を仰いでいる。

一昨年の十月八日、ぼくは徳島にいた。
真夜中に宿の下駄つっかけて外に出た。
あいにく雲がたれこめていて、なにも見えなかったのだが、雲のうえでは流星雨が地球めがけて降り注いでいるはずであった。

まだ開いている赤提灯などがあって、道端に躊っているぼくを通りかかった人は酔っ払いと間違えて声をかけた。

だがあの時、ぼくの網膜にはおびただしい流星群が降っていた。
それはこどもの時分に、玄界灘の海辺で眺めた流れ星のようでもあったし、またカリブ海のバルバドスあたりで見た小石のような星のようでもあった。

ケンタウルス、つゆをふらせ!
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のなかの声がきこえてくる。

そして星を想うとき、いつも浮ぶのは”プリオシン海岸の化石”の話である。

灼きたての鋼(はがね)のような夜の空にすっくりと、軽便鉄道にのって行くと、まもなくぼくたちはプリオシンの海岸につく。
車窓から化石を掘っている男たちが見える。

あれはなんの化石だ。

地上で人知れず流された、涙の化石かもしれない。
もしかしたらそっと掃きだされたタメ息の化石かもしれない。
果たされなかった約束だの、破られた希望だの、踏みにじられたこどもの心だの、人々の嘆きやのろい、悲しみやあきらめ、打ちのめされた心の化石かもしれない。

賢治はこの地上で実現されなかったもの、人間の歴史に記述されることのない、忘れられたものを、プリオシンの海岸に化石させようとした。

ぼくたちは銀河鉄道でそこに運ばれて、歴史をディングする男たちと共に化石を掘り起こし、化石を掌(たなごころ)にのせて耳を近づけるならば、いろんな音や声をききとることができるのである。
宇宙の海岸で化石のうたが聞こえてくるのである。

ぼくらが芝居をするということの意味も、考えてみると賢治の”プリオシンの化石”を掘ることなのではないだろうか。

「ジョー・ヒル」そして「かもめ」など、すくなくともぼくらはそんなつもりで仕事にとりかかったと思う。
『第三帝国の恐怖と真実』(ブレヒト)だって、それから『オットーと呼ばれる日本人』だって、ぼくらはプリオシンの化石のうたを聞きとるような気持ちで、稽古をするのだ。

プリオシンはぼくらの想像力が寄せては返す海辺なのである。











2018年12月21日金曜日

彼女に励みの一発、無理するな!!

12月19日の朝日新聞・朝刊を読んで、この記事の主人公に対して、衷心より万感、色々お察し申し上げたい。

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下部にその新聞記事を転載させていただくが、主人公を山岡保子さんとして偽名を使わせてもらった。
私の妹とでも理解してもらうと嬉しい。
私にとって、頑張っている彼女のことを、新聞記事のように、そう簡単に扱うことはできないのです。
瞬時、遠くに居る彼女と手を取り合って生きたいと思った。
紙面に載っている現場となったスーパーや、彼女の記者との面会時の写真は除かせてもらいました。

何故か、他人のことながら、そう簡単にはス・マ・サ・レめーと思ってしまった。
新聞記事の題目にギョッとし、瞠目、記事を鬼の目にして読んだ。
何とも言えぬ、心痛を感じてしまった。
新聞記事を書く記者は、そう自分勝手な思惑で書くわけにいかない、感情的に書くわけにもいかない。
事実を正に事実らしく書くしかないだろう。
今回の記事の新聞を、そう簡単に捨て置くわけにはいかないこと、主人公のことを考えると吾輩(格式ばって、今は我輩なのだ)は、居ても立ってもいられなくなった。

私は高校、大学とサッカーに凝り固まっていた。
サッカーに対する技量は余りにも乏しいのに、どうしたことか? 日本一レベルの高い大学で過ごしたかったし、そのように実現した。
今でこそ入部資格のようなものが、暗黙の裡に出来上がっているのだろうが、無転向な私には、そんな基準なんてアリャ~しなかった。
座頭市の勝新太郎のように、怖い者知らずだった。

私が入部した時の3年生の松永 章さんは、卒業後、日本サッカーリーグで日立サッカー部に所属して2代目のリーグ得点王になった。高校は藤枝市、藤枝東高校。
初代の得点王=釜本邦茂さんは、この人も同じ大学の卒業生で、ヤンマーディーゼルだった。
日本サッカーリーグ得点王。
日本サッカー協会の元副会長さん。高校は京都市の山城高校。
メキシコ五輪においても得点王、銅メダル獲得の立役者だった。
松永さんとは在学中2年間、釜本さんとは釜本さんが内臓を壊してヤンマーでの練習を休んでいたその何ヶ月間を、我が大学のグラウンドで同じように練習をした。
他にも、多士済々、立派な人たちが日本サッカー協会、同協会と各クラブ、Jリーグと各クラブに参加して頑張っていただいた。
その銘々の名前を挙げればいいのだが、その人たちは余りにも多いので、勘弁させてもらう。
日本のサッカー界を引っ張ってきた人々ばかり、名前を出せば、皆さんはへ~へ~と驚かれることだろう。

私の大学時代の過ごし方の一々を、細かいことまでここで述べる心算はない。
私はと言えば、ことサッカーに関しては、箸にも棒にも掛からない状態だったので、ここで、ミーとかハーとか何とも書けないのが寂しい限りだ。
が、そのサッカー部での心身の苦しみは、ちょっとぐらいの紙片では著せない。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ。
艱難辛苦。
哀しいと言えば悲しいが、豊かと言えばこれほど裕(ゆた)かなことはなかった。
簡単に言えば、苦しく悲しかったけれど、本当の本当は、私の人生でこれほど幸せだったことはないのだ。

そんな私だからなのか?
私にはサッカーの技量だけではなく、二重苦、郷里からの送金は他人よりも少なかった。
浪人生活を組みながらドカタで自ら貯めきったお金を、母が月々、私が困らない程度に送ってくれた。
私が残額を気にしながら、送金額を電話で話すのだが、母や父は、本当の私の生活なんかな~んにも考えないで、平気だったようだ。
私の生活にどれほどの費用が必要なのか、考えたこともないようだった。
私がどんな生活をしているなんか、細かいことは、何~んにも話さなかった。

そんな大学生活を何とかやり遂げ、4年間を過ごせたことを、郷里の父母には大したことではなかったのか?
そのように感じたのは私だけで、郷里の親戚の人によると、父母共々、私の大学生活のことはいとも大袈裟に喜んでいてくれたようだ。
関東大学サッカー選手権、全日本大学サッカー選手権、この二つの選手権で優勝した時に、田舎に電話で知らせたのだけれど、ア~、あ~、、、、ソウ、だけだった。
こういうことも、私にとって幸せの一つでもあった。

そんな私が、今回の新聞記事を読んで、唯(ただ)では済まされめーと意気消沈。
そこまで気にすることはないよ、とお思いなるのは不思議なことではないだろう。

山岡保子さんは、自我の踏ん張り根性が人並み以上にあり、それに基づいてそれなりの記録を達成してきた。
数々の成果を知って、骨の痺(しび)れるような感動を受けた。
窃盗症という、私の理解の進まない病気に罹(かか)り、練習以外の病苦に悩んでいた。
この窃盗症については、私は、もっと知ろうと欲している。

かってはサラリーマンだったが、今ではそのように恵まれていなかった。
「なんでこんなことに成るのか、素直で練習熱心だった」「泣きながら走るような頑張り屋さんが」と言われるのが悲し過ぎる。
こんな新聞記事を読んで、なんだかいつものように、つまらない話にしないで欲しい。

できるだけ、陰ながら精励の声を掛けてあげたい。
山岡保子さん、私は元気になる貴方(あなた)を待っています。




★新聞記事の転載になります。
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万引き繰り返す 心の病
マラソン女子元代表に猶予判決

衝動を抑えきれずに自分でもわからないまま、万引きを繰り返してしまう。
陸上女子のマラソン日本代表だった元選手が執行猶予中に計382円のお菓子を万引きしたとして、再び窃盗罪で執行猶予つきの有罪判決を受けた。
精神疾患の一種クレプトマニア(窃盗症)に悩まされていたという。
判決後、病気の克服を誓った。

自分でも、なぜ、そうしたのかわからない。
スーパーのお菓子コーナーで、キャンディー1袋、クッキー2袋を買い物かごへ。
調味料コーナーに移り、その3袋を着ていたコートに隠し持った。

店内を歩くうちに我に返ったところで警備員に声を掛けられた。
財布には2万円ほどの現金やクレジットカードが入っていた。

万引きの再犯で今月3日、前橋地裁太田支部から懲役1年保護観察付き執行猶予4年の判決を言い渡された岡山保子さん(36)=栃木県●●。
公判では、万引きを繰り返す過程が明らかにされた。

菓子382円分 お金はあったのにーーーーーー
実業団に所属し、2005年の名古屋国際女子マラソンで初優勝。
日本代表に選ばれた同年のヘルシンキ世界選手権では、日本人選手最高の6位に入賞したトップランナーだった。
その裏で、厳しい体重制限に起因する摂食障害と、窃盗症に苦しんでいたという。

体重測定は1日4~6回。
前日より100グラムの増加でも許されない。
ある日、我慢できずクッキーを一口食べた。
あまりにもおいしくて止まらずに2袋食べた。
過食が始まった。

初めはサウナで体重を落とした。
やがて吐くことを覚えた。
「高校までは走るのが好きだった。でも怒らないよう体重を落とすために走るようになった」。
夜に合宿所を抜け出し、食べ物を求めてスーパーに足を向け、万引きをした。

引退しても、治まらなかった。
万引きで何度も検挙された。
さらに、昨年11月には、化粧品や清涼飲料水など8点2673円分をコンビニエンストアで万引きしたとしたとして宇都宮地裁足利支部で執行猶予判決を受け、摂食障害と窃盗症の治療を受けていた。

入院先から足利の実家に戻っていた今年2月9日夜、群馬県太田市のスーパーで再び万引きをした。

判決は執行猶予中の再犯は原則実刑としつつ、「再犯防止に向けた環境などが相当程度、ととのえられた」と再び執行猶予をつけた。
裁判官は「あなたがしっかり更生することでいい影響を与えます」「世界で活躍したあなたには努力できる才能があるはず。同じような患者に努力する姿を見せてください」と説諭した。

記者会見で山岡さんは「この病気を絶対に治す。同じ病気の方々に私が少しずつ克服する姿を見てもらい前向きになってほしい」と述べた。
千葉県内の病院の関連施設に住み込んで治療し、人材派遣会社で事務職として働いているという。

(山崎輝史)



再犯防止 刑罰より治療

1700人以上の窃盗症の疑いのある患者を診てきた赤城高原ホスピタル(群馬県渋川市)の竹村道夫院長(73)は「再び執行猶予とした今回の判決は妥当。再犯を防ぐためには刑罰よりも治療の継続が有効だ」と話す。

摂食障害は「窃盗症を併発しやすいが、メカニズムに定説はない」。

竹村院長は、患者の過度な飢餓状態が要因と説明する。
「過度では満たされない生理的飢餓感と、承認欲求に似た心理的飢餓感が重なり、患者自身を責めた立てる」。
そして食べ物や金銭がなくなってしまう恐怖が生まれる。
自分が置かれた社会的地位や財産状況とは別に、「所持金を減らさず、食べ物や生活用品をため込みたい」と万引き運動が生まれる、という。

一度万引きに成功すると、万引き依存が始まる。

ホスピタルでの治療の核は、週17回の患者同士のミーティング。
生い立ちや窃盗への衝動について話し合う。
「それぞれの立ち直りを模索させる。こうした治療は有効だが、中断すると再び検挙されることが多い」と竹村院長は言う。

国内の患者数に関する統計はないが、米国では1千人に3~6人という調査もあるという。
単純にあてはめることはできないが、警察庁のまとめでは、昨年検挙された成人の万引き犯5万6千人のうち、約2割に窃盗の前科があった。

2018年12月17日月曜日

又、又 樹木希林さん

20181214の朝日新聞・天声人語を下部に転載させてもらった。

画像

★下の文章も、ネットからいただいたものです。
悠木千帆の名を競売に出したことがある。
東京・青山のブテイックの店主が落札し、その落札価額はチャリティーとして寄付した。
落札した旧名は、この店主から無償で2004年に女優の2代目悠木千帆に譲渡された。

樹木希林の名前のいわれは、「樹や木が集まり希(まれ)な林をつくること=みんなが集まり何かを生み育てる」ということを連想し、自ら樹木希林に決めた。




★天声人語
亡くなってはや3ヶ月、樹木希林さんの出演した映画を立て続けに見ている。
「あん」「わが母の記」「日日是好日」。
どれも老境をさりげなく演じて、余韻が深い。

お目にかかったことはないけれど、取材依頼の返事を電話でいただいたことがある。
「マネージャーもメイクさんもいないのよ。取材応対も私ひとり」「ご存じかもしれないけれど、私もう全身病気だから」。
「老いや病気にブレーキをかけたいとは考えない」「病を悪、健康を善とするだけなら、こんなつまらない人生はない」。

日ごろ心がけたのは、身の回りの始末である。
毎朝、ひとしきり掃除をする。
服はボロボロになるまで着る。
「長くがんと付き合っていると、『いつかは死ぬ』じゃなくて、『いつでも死ぬ』という感覚なんです」。

言葉は人々の胸にじんわりと染みこんだ。
この秋、本紙の「ひととき」欄に投書が載った。
「胃ろうなど延命治療は受けたくない」。
遠慮があって長く言えずにきた本心を、樹木さんの訃報に接して息子に伝えることができたという。
79歳の女性だった。

ともすれば長く生きることのみを是とする思考に陥りがちだが、人生に潮が満ちる年代ともなれば、病を隠さず、老いにあらがわず、死から目を背けない。
樹林さんにならい、「自分の人生を使い切りたい」と願うのみである。

2018年12月14日金曜日

はこべ(繁縷)

ハコベのことをちょっと書いてみたくなった。
誰もがよ~く知っている植物だけれど、何故、山岡がキーを叩くことになったか? 皆さんは驚かれただろう。
ハコベ

今朝、会社の前の駐車場の側にある庭に生えた雑草を抜き取った。
この庭には、使い出し始めた頃に、柿の木を2本植えた。
それから20年近くなるが、今年の実りは豊穣だった。
夏の頃、余りに多く咲いた花を、無理してまで間引いたのが、功を奏したのだろう。
柿の実は、私にとって掛け替えのないもので、大学に入れなかった浪人時代、一夜に20個ぐらい食うのが日常だった。
我が家の柿は直ぐになくなり、腹具合を心配してくれた従兄弟が、彼の畑の柿を取りに来るように催促してくれた。
此の庭の管理? 
花を植えたり除去したり、柿の実の収穫に関わることは私の特別に課せられた任務だと心得ている。
今年はそれに付け加えて、チューリップなど数々の花も植えた。

そして、本日の除草だ。

雑草の種類は幾つもあったが、このハコベについては、随分以前に、ハコベとはこういう漢字を使うんですよと言って「繁縷」を教えられた。
が、この漢字は思いだせなかった。

このハコベだけはどの植物よりも成長が早く、どうも他の草よりも威張っているように思えてならなかった。
今日の私は、草を除く側の人間で、このハコベのことが憎たらしくてならなかった。

自分の机椅子に戻りパソコンを使って、遠い昔に教わった漢字を調べた。
その漢字を見て、初めて知った時のように新鮮だった。
それほど、私の頭から「繫縷」は居なくなってしまった。
遙か遠くに、行ってしまったようだ。

このハコベを知っている人は、当然のように、野菜や樹木の根の周りの空地に、しっかり根を張っているハコベを嫌がった。
私の畑=イーハトーブにも、うっかりできない程、生えてくる。
でも、根を深くまで張らないので、早い時期に引っ張ればいとも簡単に抜ける。

ネットで調べたことも交えて文章を綴ってみた。
全国いたる所に生える越年草。
春の七草の一つで七草粥に入れたり、小鳥の餌としてお馴染みだ。
根・茎を除いて、柔らかそうな茎先だけを摘む。

食用には葉っぱを塩水で茹で、水にさらして青臭さを抜く。
ザルなどに上げて、ぎゅっと水気を絞り、細かく刻む。
ほうれん草よりも長く茹でてもオッケーだ。
薬効としては、産後の浄血、催乳、利尿作用がある。

私の郷里では、食用にはしなかったけれど、ウグイスなどの餌にした。
葉っぱを小さな器に入れて、胡麻を擂(す)るように胡麻木(こまき)で繊維を無くした。
ウグイスの羽根の色が、このハコベを餌としてあげることで、ことさら立派になるのではないかと、自ら考えていた。
ジャム状になったものを、箸でウグイスの口の前に持っていった。
そのような想いでばなしはいくつもある。

ハコベの漢字は「繁縷」だ。

2018年12月8日土曜日

日韓、遠のく和解

20181203(月)の朝日新聞より下部に転載させてもらった。


国際的に、ギクシャクしている国家間折衝問題。
アメリカは、我が国は保護貿易国ではない。
経済において、中国の覇権を絶対、どんなことがあっても許さないなんて考えてはいません、と言いながら、貿易については関税に限りなく中国に負担を厚くする。
方(かた)や中国は、有り余る国民の消費力を利用して、コツコツと覇権をめざす。
アメリカの大統領の顔色、声音(こわね)の激しいことと同様に、優しい顔をしながら中国の習近平主席だって苦しんでいる。
当初目論んでいた貧困撲滅、債務削減を排し、大型財政出動に舵を切ったが、株価の下落や人民元安になり、国内での経済に耐えかねている。
国内経済減速とアメリカとの熾烈な貿易戦争だ。

北朝鮮はどんな反応をしかけてくるのか、最初の元気が今、見えてこない。
中国には細少にわたって、打ち合わせをしているのだろうが、これもよく解らない。
韓国だって、何か頭でも可笑しくなったのではないかと疑われることが多事にある。
先ず、韓国の最高裁が韓国人の徴用工訴訟で、確定(審判)させた波紋が国内外で続いている。
1965の日韓国交正常化の土台を突き崩すような司法判断だから、大騒ぎになるのは当然だ。
だが、日韓双方で勘違いや誤解も多過ぎる。
支持率が下がりつつある文在寅大統領は、この支持率の下がり止めをなんとか阻止したいから、急に、変な動きになったのか。
国民に対して自棄(やけ)に親愛を見せている。
北朝鮮の最高指導者の金正日にしても韓国の文在寅大統領にしても、日本との今後の関係について、良く図られるための策の提案が何もないのが、楽しくない。

ウラジーミル・プーチキン大統領の支持率が、8割から37%にまで急落した。
この原因は、年金問題だ。
ロシアでは、W杯(サッカー)の開幕直前に年金受給開始年齢を引き上げる改革案を議会で可決しようとした。
年金だけではなく医療などの社会保障に対する国民の不満は大きく、世界銀行がロシア政府に対して、この分野にもっと資金をまわすべきだと提言した。
プーチン大統領が9月の東方経済フォーラム総会の場で、前提条件なしでの露日平和条約を年内に締結したいと提案があった。
このプーチキン大統領さん、日本に何かと口挟んでくるが、どうしても契約の締結までは到達できない。
日本にとっては、何もかも深く考えていないのではないか。
日本にとっては、先ずは領土問題の解決ありきが前提問題なのだ。


★朝日新聞より
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政治/断簡
編集委員・佐藤武嗣

背を向ける日韓 遠のく和解

「今の文在寅(ムンジェイン)政権は北朝鮮しか見ていない。徴用工の判決に韓国国民が喝采し、慰安婦合意見直しも歓迎だ。
対日関係を真面目に考える官僚は外され、政権はポピュリズムに走っている」。

ある韓国の記者が解説してくれた。
米国大使館の招きで来日した韓国の記者と交流する場があった。
お互い酒を飲みながら、自衛艦旗の抑揚問題や慰安婦財団の解散など、なぜ歴史問題を蒸し返す動きが韓国で再び活発になっているのか尋ねた際の考えだ。

だが、その記者は逆にこう疑問もぶつかってきた。

「日本の外相が街頭演説で、『元徴用工への補償は韓国政府が責任を持て』という趣旨の発言をした。
なぜ、ことさら韓国政府を刺激するのか。日本も韓国との関係を真面目に考えている人がいないのではないか」。

慰安婦をめぐる日韓合意の扱いなど、韓国の対応にも問題はあるだろう。
さりとて感情に任せて『(合意は)1ミリも動かさない』(菅義偉官房長官)とか、徴用工判決に「暴挙」だ(河野太郎外相)と必要以上にとげとげしい言葉をぶつけたのでは、日韓関係はささくれ立つだけだ。

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3年前の慰安婦日韓合意の際、ワシントンで特派員をしていた。
日韓両国が「歴史をめぐる和解」に一歩踏み出したのを心強く思った。
橋渡し役を演じたオバマ政権も合意を大いに歓迎していた。
だが今、日韓は背を向け、その距離は再び広がりつつある。

「歴史和解」にオバマ氏はこだわった。
4千人超の日系人や戦争捕虜が強制的に抑留されたハワイのホノウリウリ日系人収容所跡地を国定史跡に指定。
「過去の失敗を繰り返さぬよう、我々の苦痛を伴う部分を史跡にしたい」と語り、歴史と向き合う姿勢を鮮明にしたのが印象的だった。

安倍晋三首相が米議会演説で「先の大戦に対する痛切な反省」を口にしたのもオバマ氏の有形無形の働きかけがあったからだろう。
その後、大統領は被爆地・広島へ、首相はハワイ・真珠湾を互いに訪れて「和解」を誓った。

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オバマ氏が日韓両政府に和解を呼びかけ、その延長線上に日韓合意もあったが、立役者が去り、トランプ氏が大統領に就任した。
同氏はかって首相の真珠湾訪問で「真珠湾への奇襲攻撃をなぜ議論しないのか。何千もの米国人が命を落としているんだ」とオバマ氏を批判。
日韓の「和解」にまるで興味はなさそうだ。

地道な交渉を積み上げた合意がほごにされ、携わった人に落胆と憤りはあるだろう。
だが、日韓悪化をひそかに喜び、利用できると中国や北朝鮮が考えてもおかしくない。

首相は総裁選で、残り任期を「戦後外交の総決算」にあてると誓った。
北方領土のみならず、隣国・韓国との「歴史和解」も総決算に値する。

相手をなじるだけでは負のスパイラルに陥れるだけだ。
首相が米議会で口にした過去への「痛切な反省」を韓国側に陰に陽に伝えつつ、問題だと思う部分は二国間、国際社会で理をもって堂々と反論する。
そうした大局的観点から関係改善に尽くしてほしい。


2018年12月4日火曜日

俺にとって、この夕刊はビッグだ!!①、②、③

20181127の朝日新聞・夕刊は、私にとって面白ことが3つもあり、新聞好みには有難いものだった。


その①は、ベトナムのフランスからの独立運動家=ファン・ボイ・チャウを支援した日本の医師=浅羽佐紀太郎の話だ。
私の中学生時代は、ベトナムの沼地に米軍の爆撃機から霰(あられ)のように爆弾を降下させる新聞の記事を見て、何と儚い夢の無いことを、いつまでも続けていることが、私の良心の芽をつむった。
子どもの心は繊細だった。
そんなベトナムでの戦争の内容を少しでも見聞きするだけで、アメリカ嫌いになり、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)たちを応援したくなった。
沖縄からも何百、何千の戦闘爆撃機がベトナムに向かって発射した。
ベトナム民主共和国の初代首席になったホー・チ・ミンさんのことも、尊敬の人となった。
かってサイゴンと言われていた市名は、ホーチミン市に変わった。


その②
大学受験に失敗、その浪人中のこと、何かの拍子で村山槐多の木炭画を観た。
作品のことは兎も角、作者の名前の「槐多」を「かいた」とは読めなかった。
その時の衝撃を、この新聞記事を観た瞬間思い出した。
決して技巧的ではないが、その特徴的な筆さばきに、私の胸の辛抱は50年前の私に戻ってしまった。
荒々しいが、でも筆致は心優しいものだ。


その③
宇宙のことには、なんでもかんでもニュースらしいものには興味がある。
難しいことは何も解らないが、ただ、興味を持っているだけだ。
アメリカ航空宇宙局(NASA)だけではなく、日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)らが、発表するものには、気を使っている。
中学生の頃、太陽系の惑星の位置を、「水金地火木土天海冥」ー「すいきんちかもくどってんかいめい」と覚えた。
ちょっと気になることをテレビの報道番組で知った。
火星には、少しの大気と水があるらしいとこことだった。

今年の20180701に朝日新聞の記事をそのまま転載させてもらって、我がブログの記事にした。
「はやぶさ2 リュウグウに到着」だ。
探査機「はやぶさ2」が地球から約3億キロ離れた小惑星「リュウグウ」に到着した。
今後1年半滞在し、3回着陸して生命の元となる有機物が含まれていると思われる小惑星の砂の採取に挑む。
地球に戻ってくるのは2020年の予定。
東京オリンピックが行われる年でもある、楽しみだ。

この程度の知識しかない、恥かしい限りだ。
■新聞記事をそのまま転載させていただいたので、それを読んでいただければ私の気持ちまで理解してもらえると思考した。
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★その①
日本とベトナムの交流
両陛下が思いをはせて

独立運動支援した浅羽医師の碑 訪問へ

天皇、皇后両陛下が27日、私的旅行で静岡県に入った。
午後に袋井市梅山を訪れ、ベトナムの独立運動指導者ファン・ボイ・チャウの活動を支援した医師浅羽佐喜太郎(あさば・さきたろう)の石碑を視察する予定だ。
今年は碑建立100周年の節目。
地元は盛り上がりをみせている。

袋井市梅山の常林寺。
境内に高さ約2,3メートルの碑が立つ。
100年前、フランスからの独立を目指して日本へ留学生を送る「東遊(どんずー)運動」を展開したチャウが、日本滞在中に世話になった佐喜太郎への追慕と、ベトナム独立への願いを込めて地元の人々と協力して建てたものだ。

両陛下は昨年のベトナム訪問でチャウの記念館を訪れており、佐喜太郎とチャウの交流に感銘を受け、今回の視察も両陛下の意向で実現した。

佐喜太郎がチャウを支援したことは、当時フランスと友好関係にあった日本の意向に反するものだった。
そのため子孫らは長い間積極的に語らず、功績が広く知られることはなかった。

「埋もれた歴史に光を当てて下さり、佐喜太郎も喜んでいるのでは」と中村真典住職(54)は話す。
住職となった約20年前は、碑の周囲も手入れが行き届いておらず、地元でもあまり知られていなかったという。

2001年ごろ、ベトナム人留学生が卒論で取り上げるため訪れたことをきっかけにベトナムと地元の人々との交流が始まり、03年にはチャウの孫やベトナム大使館幹部も出席して建立85周年記念式が開かれた。
その後市民の有志が「浅羽ベトナム会」をつくり、ドキュメンタリーの上映会などで交流を深めた。

12年には袋井商工会議所などを中心に市民訪問団を結成、現地の工業団地などを視察した。
人手不足の市内の企業はベトナム人技術者を受け入れ、日本語学校に通うベトナム人も増えた。
13年には佐喜太郎とチャウの絆を描いた両国共同製作のドラマも放映された。

両陛下は今年7月に常林寺を訪れる予定だったが、西日本豪雨で取りやめに。
それだけに地元の人々の期待も高まる。

原田英之市長は「佐喜太郎の存在、物語を多くの人に知ってもらうこの上ない機会」と期待する。
浅羽ベトナム会の安間幸甫代表(74)も「日越関係や両国の歴史を深く知るきっかけになればいい」と話す。

中村住職は「佐喜太郎の功績がさらに認められ、身内の方も肩の荷が下りるのでは。両国の新たなつながりの場になってくれれば」と話している。

(長谷川智 多田晃子)




★ネットの内容をそのまま転載させてもらった。

ファン・ボイ・チャウ

ベトナム独立のもう一人の英雄を知る

ベトナムの独立の英雄といえばホー・チ・ミンが知られていますが、彼に先駆けてベトナム独立を模索したもう一人の英雄を知っていますか?占領国フランスからの独立運動を指揮し、初代国家主席となったホー・チ・ミンとも交流がありながら、最近になるまでその活躍がほとんど顧みられなかったファン・ボイ・チャウです。実は彼は、日本とも深い縁と絆がたした。

フランスに次々と占領されるベトナム

フランス占領後にはつぎつぎとフランス風の建物が建てられます
フランスに占領されたベトナムで、ファン・ボイ・チャウが独立のために活動を始めたのは1904年のことです。その時ファンは37歳、フランスがダナンを砲撃して侵略を始めた1947年から50年以上経っていました。
その50年の間に、フランスはダナンから南部3省、ハノイと次々に占領を広げ、ベトナム支配を巡る清との戦争(清仏戦争)で清に勝利すると、1887年ベトナムを全面的に占領、「仏領インドシナ連邦」として植民地化していました。

独立支援を求め日本へわたったファン・ボイ・チャウ

1904年にファンは仲間とともに「ベトナム維新会」を結成し、1905年にはなんと、ひそかに日本にやってきました。反仏独立運動の支援を日本に求めるためです。そこでファンは静岡県袋井市の医師・浅羽左喜太郎に出会います。浅羽はファンの熱意に胸を打たれ、知り合いを通じて有力政治家だった大隈重信と犬養毅に会わせることに成功します。
ファンが日本に求めたのは、フランスと戦うための武器の調達でした。しかし大隈と犬養は武器ではなく、人材の育成こそが独立には必要と説き、ベトナムからの留学生を日本で受け入れることを提案します。そこから若いベトナム人学生を日本に留学させる活動(東遊運動)が始まり、1905年から1909年の間に、100人以上の学生が日本で学び交流を深めたのです。
しかし占領国のフランスはこの活動を妨害します。すでに結んでいた日本との協約を理由に、ファンら留学生たちを国外退去させるよう要請、日本にいられなくなったファンたちは中国に逃れ、広東で独立運動を続けるのですが、1925年にフランス軍に逮捕され、ハノイで終身刑を受けます。その後国民からの強い反発を受け恩赦となりますがフエで軟禁生活となり、1940年、独立を見ることなく亡くなりました。
ファンと日本の深い友情
ファン・ボイ・チャウは日本で留学生らと交流していた4年間を「人生で最も華やかな、幸福な時代」と振り返っていたと言われています。この4年間、そしてその後日本を追われ、行き場を失った留学生たちを支え続けたのが浅羽です。浅羽は亡くなる1910年まで支援を続け、その姿に感動したファンは、浅羽の墓に記念碑を建てたそうです。また袋井市には今もなお浅羽ベトナム会という組織があり、ベトナムとの交流を続けています。
はるか100年以上前の、ベトナム人と日本人との小さな出会いかもしれませんが、深い信頼と絆で結ばれた友情は、100年後の現在でも人々の心に広く深く浸透し、今なお人々の心に生き続けて、交流の輪も広がり続けているのです。

ファンゆかりの地フエへ

世界遺産にも登録されたベトナム最後の王朝・阮朝の王宮。
フランス軍に逮捕され、軟禁生活のなかで亡くなったフエには、ファン・ボイ・チャウの記念碑や記念館などが整備されています。長い間歴史に埋もれ、評価されてこなかった彼の運動と生涯が、少しずつ紹介されるようになってきました。
もちろんフエの魅力はそれだけではありません。フ ランスに占領される前、最後の王朝・阮(グエン)朝の都が置かれていたフエは、今でもそこここに古都の面影を色濃く残しています。王宮を始めフエ宮廷美術 博物館や、天女伝説のあるティエンムー寺など、中国の影響を深く受けていたことが伺える建物が点在し、一方、フランス占領後のいかにもヨーロピアンな建物 も見られ、ベトナムの歴史の奥深さを感じます。
またフエはベトナム戦争時に激戦地となった街でもあります。ベトナム の世界遺産として最初に登録された王宮は、ベトナム戦争時に大半が破壊されてしまい、現在もなお復旧作業が続いています。10年以上に及ぶベトナム戦争が もたらした傷は決して浅くはありませんが、ベトナムの人々は今なおその傷を癒そうとしているようにも感じられます。
フエに今なお残るベトナム戦争激戦の跡です。



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その②
村山槐多(かいた)19歳の作品 
100年ぶり発見

信州の風景 情感あふれる筆致



約100年ぶりに見つかった村山槐多の「信州風景」。
状態も良く、黒々とした木炭の色がはっきり残る。
力強い筆致で、決意と意気込みが伝わってくる作品だ。

美術や文学の分野で大正時代に活躍し、早世(そうせい)の天才といわれる画家・詩人の村山槐多(1896~1919)の19歳の作品で、約100年間行方が分からなくなっていた木炭画2枚が、京都市内で見つかった。
専門家は槐多のデッサン作品の中では第一級に値すると評価する。

槐多は幼少期から京都に住み、詩作や小説に早熟な才能を発揮。
上京後、院展などの美術展で受賞を重ね注目を集めたが、退廃的な生活を送るなか、結核性肺炎のため22歳で急死した。

見つかった2枚は1915年「信州風景」。
稲刈りの時期を迎えた農村の様子や重なる山並みが、情感あふれる筆致で描かれている。
槐多の日記には、信州で木炭画50枚を描くという計画が記されており、そのうちの2枚という。
19年に東京で開かれた遺作展に出品されたが、その後は行方不明だった。
「村山槐多全画集」(83年、朝日新聞社刊)の中でも「所在不明の主要作品」と紹介されている。

遺作展で購入された絵を、槐多の同級生の遺族関係者が保管していたとみられ、家族らが書庫を整理していて見つけたという。
発見に立ち会った京都在住の美術商の男性は「ずっと行方知らずだった作品が没後100年の節目を前に見つかり、槐多の執念を感じた」と話す。

槐多研究者で美術史家の村松和明(やすはる)さんは「デッサンに一から取り組む決意で描いたもので、画面に表れた緊張感といい、槐多の風景デッサンでは最高クラスの連作。
なかでも今回見つかったものはとりわけ良い作品」と評価する。
日本の近代絵画に詳しい東京・府中市美術館学芸係長の志賀秀孝さんは「人物画にも通じる生動感が風景にも感じられる。短命で作品数が限られているなか、槐多の画業をたどるうえでも大事な発見だ]と話す。

追記(山岡)
ところで、村山槐多(かいた)さんの「槐」とは、その後、読む本や新聞で、見かけたことはない。
一体、この字は何を意味するのか、講談社の日本語大辞典で調べてみた。
エンジュ。
マメ科の落葉高木。中国原産とあった。
これだけでは、よく解らない状態だ。


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その③
火星のおなか 調べよう
米探査機が着陸


火星着陸に成功した探査機「インサイト」から送られてきた画像。
ほこりでレンズが汚れているが、地平線までほぼ平らな地形に岩のようなもの(画像下)が見える。

火星の内部を調べる探査機「インサイト」のイメージ図=いずれもNASA提供


米航空宇宙局(NASA)の探査機「インサイト」が27日午前4時54分(日本時間)、火星に着陸した。
今後2年かけて地下の構造を初めて直接観測し、45億年前に火星がどのようにできたのか調べる。
火星への着陸は2012年の探査機「キュリオシティ」以来。
着陸直後に交信を絶った旧ソ連の探査機をのぞくと8機目となった。

インサイトは5月、カリフォルニア州のバンデンバーグ空軍基地から打ち上げられ、火星まで約半年かけて4億8200万キロを飛行した。

開発費は約10億ドル(約1130億円)。
乗用車ほどの大きさで、ロボットアームを使って、火星表面に地震計を設置したり、地下5メートルの深さまで熱流量計を埋め込んだりして、火星で起きる地震や地中の温度を測る。

内部の構造や成分を調べることで、地球のような「岩石惑星」が生まれた過程の解明につながると期待される。

火星は、大気圧が地球の100分の1程度。
突入時には鉄が溶けるほどの高温になるにもかかわらず、パラシュートで十分に減圧させるのが難しい。
今回は耐熱シールドにパラシュート、ロケットの逆噴射を使って着陸を成功させた。



(松本紗知)