12月19日の朝日新聞・朝刊を読んで、この記事の主人公に対して、衷心より万感、色々お察し申し上げたい。
下部にその新聞記事を転載させていただくが、主人公を山岡保子さんとして偽名を使わせてもらった。
私の妹とでも理解してもらうと嬉しい。
私にとって、頑張っている彼女のことを、新聞記事のように、そう簡単に扱うことはできないのです。
瞬時、遠くに居る彼女と手を取り合って生きたいと思った。
紙面に載っている現場となったスーパーや、彼女の記者との面会時の写真は除かせてもらいました。
何故か、他人のことながら、そう簡単にはス・マ・サ・レめーと思ってしまった。
新聞記事の題目にギョッとし、瞠目、記事を鬼の目にして読んだ。
何とも言えぬ、心痛を感じてしまった。
新聞記事を書く記者は、そう自分勝手な思惑で書くわけにいかない、感情的に書くわけにもいかない。
事実を正に事実らしく書くしかないだろう。
今回の記事の新聞を、そう簡単に捨て置くわけにはいかないこと、主人公のことを考えると吾輩(格式ばって、今は我輩なのだ)は、居ても立ってもいられなくなった。
私は高校、大学とサッカーに凝り固まっていた。
サッカーに対する技量は余りにも乏しいのに、どうしたことか? 日本一レベルの高い大学で過ごしたかったし、そのように実現した。
今でこそ入部資格のようなものが、暗黙の裡に出来上がっているのだろうが、無転向な私には、そんな基準なんてアリャ~しなかった。
座頭市の勝新太郎のように、怖い者知らずだった。
私が入部した時の3年生の松永 章さんは、卒業後、日本サッカーリーグで日立サッカー部に所属して2代目のリーグ得点王になった。高校は藤枝市、藤枝東高校。
初代の得点王=釜本邦茂さんは、この人も同じ大学の卒業生で、ヤンマーディーゼルだった。
日本サッカーリーグ得点王。
日本サッカー協会の元副会長さん。高校は京都市の山城高校。
メキシコ五輪においても得点王、銅メダル獲得の立役者だった。
松永さんとは在学中2年間、釜本さんとは釜本さんが内臓を壊してヤンマーでの練習を休んでいたその何ヶ月間を、我が大学のグラウンドで同じように練習をした。
他にも、多士済々、立派な人たちが日本サッカー協会、同協会と各クラブ、Jリーグと各クラブに参加して頑張っていただいた。
その銘々の名前を挙げればいいのだが、その人たちは余りにも多いので、勘弁させてもらう。
日本のサッカー界を引っ張ってきた人々ばかり、名前を出せば、皆さんはへ~へ~と驚かれることだろう。
私の大学時代の過ごし方の一々を、細かいことまでここで述べる心算はない。
私はと言えば、ことサッカーに関しては、箸にも棒にも掛からない状態だったので、ここで、ミーとかハーとか何とも書けないのが寂しい限りだ。
が、そのサッカー部での心身の苦しみは、ちょっとぐらいの紙片では著せない。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ。
艱難辛苦。
哀しいと言えば悲しいが、豊かと言えばこれほど裕(ゆた)かなことはなかった。
簡単に言えば、苦しく悲しかったけれど、本当の本当は、私の人生でこれほど幸せだったことはないのだ。
そんな私だからなのか?
私にはサッカーの技量だけではなく、二重苦、郷里からの送金は他人よりも少なかった。
浪人生活を組みながらドカタで自ら貯めきったお金を、母が月々、私が困らない程度に送ってくれた。
私が残額を気にしながら、送金額を電話で話すのだが、母や父は、本当の私の生活なんかな~んにも考えないで、平気だったようだ。
私の生活にどれほどの費用が必要なのか、考えたこともないようだった。
私がどんな生活をしているなんか、細かいことは、何~んにも話さなかった。
そんな大学生活を何とかやり遂げ、4年間を過ごせたことを、郷里の父母には大したことではなかったのか?
そのように感じたのは私だけで、郷里の親戚の人によると、父母共々、私の大学生活のことはいとも大袈裟に喜んでいてくれたようだ。
関東大学サッカー選手権、全日本大学サッカー選手権、この二つの選手権で優勝した時に、田舎に電話で知らせたのだけれど、ア~、あ~、、、、ソウ、だけだった。
こういうことも、私にとって幸せの一つでもあった。
そんな私が、今回の新聞記事を読んで、唯(ただ)では済まされめーと意気消沈。
そこまで気にすることはないよ、とお思いなるのは不思議なことではないだろう。
山岡保子さんは、自我の踏ん張り根性が人並み以上にあり、それに基づいてそれなりの記録を達成してきた。
数々の成果を知って、骨の痺(しび)れるような感動を受けた。
窃盗症という、私の理解の進まない病気に罹(かか)り、練習以外の病苦に悩んでいた。
この窃盗症については、私は、もっと知ろうと欲している。
かってはサラリーマンだったが、今ではそのように恵まれていなかった。
「なんでこんなことに成るのか、素直で練習熱心だった」「泣きながら走るような頑張り屋さんが」と言われるのが悲し過ぎる。
こんな新聞記事を読んで、なんだかいつものように、つまらない話にしないで欲しい。
できるだけ、陰ながら精励の声を掛けてあげたい。
山岡保子さん、私は元気になる貴方(あなた)を待っています。
★新聞記事の転載になります。
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万引き繰り返す 心の病
マラソン女子元代表に猶予判決
衝動を抑えきれずに自分でもわからないまま、万引きを繰り返してしまう。
陸上女子のマラソン日本代表だった元選手が執行猶予中に計382円のお菓子を万引きしたとして、再び窃盗罪で執行猶予つきの有罪判決を受けた。
精神疾患の一種クレプトマニア(窃盗症)に悩まされていたという。
判決後、病気の克服を誓った。
自分でも、なぜ、そうしたのかわからない。
スーパーのお菓子コーナーで、キャンディー1袋、クッキー2袋を買い物かごへ。
調味料コーナーに移り、その3袋を着ていたコートに隠し持った。
店内を歩くうちに我に返ったところで警備員に声を掛けられた。
財布には2万円ほどの現金やクレジットカードが入っていた。
万引きの再犯で今月3日、前橋地裁太田支部から懲役1年保護観察付き執行猶予4年の判決を言い渡された岡山保子さん(36)=栃木県●●。
公判では、万引きを繰り返す過程が明らかにされた。
菓子382円分 お金はあったのにーーーーーー
実業団に所属し、2005年の名古屋国際女子マラソンで初優勝。
日本代表に選ばれた同年のヘルシンキ世界選手権では、日本人選手最高の6位に入賞したトップランナーだった。
その裏で、厳しい体重制限に起因する摂食障害と、窃盗症に苦しんでいたという。
体重測定は1日4~6回。
前日より100グラムの増加でも許されない。
ある日、我慢できずクッキーを一口食べた。
あまりにもおいしくて止まらずに2袋食べた。
過食が始まった。
初めはサウナで体重を落とした。
やがて吐くことを覚えた。
「高校までは走るのが好きだった。でも怒らないよう体重を落とすために走るようになった」。
夜に合宿所を抜け出し、食べ物を求めてスーパーに足を向け、万引きをした。
引退しても、治まらなかった。
万引きで何度も検挙された。
さらに、昨年11月には、化粧品や清涼飲料水など8点2673円分をコンビニエンストアで万引きしたとしたとして宇都宮地裁足利支部で執行猶予判決を受け、摂食障害と窃盗症の治療を受けていた。
入院先から足利の実家に戻っていた今年2月9日夜、群馬県太田市のスーパーで再び万引きをした。
判決は執行猶予中の再犯は原則実刑としつつ、「再犯防止に向けた環境などが相当程度、ととのえられた」と再び執行猶予をつけた。
裁判官は「あなたがしっかり更生することでいい影響を与えます」「世界で活躍したあなたには努力できる才能があるはず。同じような患者に努力する姿を見せてください」と説諭した。
記者会見で山岡さんは「この病気を絶対に治す。同じ病気の方々に私が少しずつ克服する姿を見てもらい前向きになってほしい」と述べた。
千葉県内の病院の関連施設に住み込んで治療し、人材派遣会社で事務職として働いているという。
(山崎輝史)
再犯防止 刑罰より治療
1700人以上の窃盗症の疑いのある患者を診てきた赤城高原ホスピタル(群馬県渋川市)の竹村道夫院長(73)は「再び執行猶予とした今回の判決は妥当。再犯を防ぐためには刑罰よりも治療の継続が有効だ」と話す。
摂食障害は「窃盗症を併発しやすいが、メカニズムに定説はない」。
竹村院長は、患者の過度な飢餓状態が要因と説明する。
「過度では満たされない生理的飢餓感と、承認欲求に似た心理的飢餓感が重なり、患者自身を責めた立てる」。
そして食べ物や金銭がなくなってしまう恐怖が生まれる。
自分が置かれた社会的地位や財産状況とは別に、「所持金を減らさず、食べ物や生活用品をため込みたい」と万引き運動が生まれる、という。
一度万引きに成功すると、万引き依存が始まる。
ホスピタルでの治療の核は、週17回の患者同士のミーティング。
生い立ちや窃盗への衝動について話し合う。
「それぞれの立ち直りを模索させる。こうした治療は有効だが、中断すると再び検挙されることが多い」と竹村院長は言う。
国内の患者数に関する統計はないが、米国では1千人に3~6人という調査もあるという。
単純にあてはめることはできないが、警察庁のまとめでは、昨年検挙された成人の万引き犯5万6千人のうち、約2割に窃盗の前科があった。