その本の著作者は京都で有名なお寺の貫主さんだった。
「日本の漢字文化に目覚める」だ。
この文章は下の方に、本に書かれたままに転載させていただいた。
朝のことが此の頃、凄(すご)く気になっていた。
それは、この数年間において腰痛の痛みから解放されて、日々の生活が快活になっているからだろう。
正確には腰痛の痛みが全くゼロまでにはなっていないが、多少なりの痛みはあることはあるが、痛さは極めて弱くなっている。
そんなことが、裏自信になっているのだろうか。
朝、目が覚めて、寝間着から出勤用の服に着替えて、義母にご飯を出し、私もそれから朝ご飯に入る。
そのとき、何か不思議な気?が、私とご膳の前に迫り来る。
その朝ご飯の一つ一つのメニューを前に、気分が頗(すこぶ)る好いのです。
このメニューの一つ一つが、何を私に示しているのだろうか。
家の外が雨天であろうが、晴れていようが、曇っていても、朝ご飯を前にして神経が澄み、一日のやる気が湧くのです。
この気分は何なのだろう?と朝ご飯を前にして思う。
夕ご飯、晩飯はどうなんだと思われるかもしれないが、晩飯の時は、気分ではなく、もう少し不思議さが込み入った雰囲気?
この頃の私の仕事の量は、決して皆に喜ばれるほどのこともない。
会社に対する貢献度は、情けないほど少ない。
晩飯気分は、変なモノではなく持続的で躍動感か充実感が漲(みなぎ)る情趣?か情調?と言えば、判ってもらえるだろう。
私は幸せ!なんだ、ろう!!
この朝ご飯にしても晩ご飯にしても、義母へのベッドへの配達は私がやっている。
膳をベッドの側に置いた時に、何かを話す。
外の天気模様やら、ご飯の一つ一つのメニューについて、私のそれなりの感想を述べることにしている。
それらのささやかな会話でも、義母には微笑みが見られ、高齢で体はなかなか言うことを聞いてはくれないが、なんとか頑張ってもらいたい。
★お寺の貫主さんの書いた文章より。
私はこのところ皆さんに繰り返し言っている事柄があります。
「朝、起きた時は感動しないといけない」ということです。
「朝」という漢字は「十月十日(とつきとおか)」と書きます。
お母さんの胎内に十月十日宿って、そして生まれてきた時が「朝」です。
私たちは毎朝、生まれ変わっているのです。
皆さんは子供や孫が産まれた時は大喜びし感動しています。
ところが、自分が毎朝、起きて生まれ変わっているのに、どうして感動しないのでしょうか。
慣れているからです。
「朝、目が覚めるのは当たり前や。決まっている」。
本当にそうでしょうか、夕べ寝て、今朝目が覚めるかどうか、誰にも保証はできません。皆さん、明日の朝は気を付けないといけません。
ですから、私は毎朝、「ああ、目が覚めたなあ」と感動しているのです。
嗚呼(ああ)、そうなんだと納得していたら、下のような文章も知ってしまった。
2004/9/1923:22:35