2018年12月4日火曜日

俺にとって、この夕刊はビッグだ!!①、②、③

20181127の朝日新聞・夕刊は、私にとって面白ことが3つもあり、新聞好みには有難いものだった。


その①は、ベトナムのフランスからの独立運動家=ファン・ボイ・チャウを支援した日本の医師=浅羽佐紀太郎の話だ。
私の中学生時代は、ベトナムの沼地に米軍の爆撃機から霰(あられ)のように爆弾を降下させる新聞の記事を見て、何と儚い夢の無いことを、いつまでも続けていることが、私の良心の芽をつむった。
子どもの心は繊細だった。
そんなベトナムでの戦争の内容を少しでも見聞きするだけで、アメリカ嫌いになり、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)たちを応援したくなった。
沖縄からも何百、何千の戦闘爆撃機がベトナムに向かって発射した。
ベトナム民主共和国の初代首席になったホー・チ・ミンさんのことも、尊敬の人となった。
かってサイゴンと言われていた市名は、ホーチミン市に変わった。


その②
大学受験に失敗、その浪人中のこと、何かの拍子で村山槐多の木炭画を観た。
作品のことは兎も角、作者の名前の「槐多」を「かいた」とは読めなかった。
その時の衝撃を、この新聞記事を観た瞬間思い出した。
決して技巧的ではないが、その特徴的な筆さばきに、私の胸の辛抱は50年前の私に戻ってしまった。
荒々しいが、でも筆致は心優しいものだ。


その③
宇宙のことには、なんでもかんでもニュースらしいものには興味がある。
難しいことは何も解らないが、ただ、興味を持っているだけだ。
アメリカ航空宇宙局(NASA)だけではなく、日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)らが、発表するものには、気を使っている。
中学生の頃、太陽系の惑星の位置を、「水金地火木土天海冥」ー「すいきんちかもくどってんかいめい」と覚えた。
ちょっと気になることをテレビの報道番組で知った。
火星には、少しの大気と水があるらしいとこことだった。

今年の20180701に朝日新聞の記事をそのまま転載させてもらって、我がブログの記事にした。
「はやぶさ2 リュウグウに到着」だ。
探査機「はやぶさ2」が地球から約3億キロ離れた小惑星「リュウグウ」に到着した。
今後1年半滞在し、3回着陸して生命の元となる有機物が含まれていると思われる小惑星の砂の採取に挑む。
地球に戻ってくるのは2020年の予定。
東京オリンピックが行われる年でもある、楽しみだ。

この程度の知識しかない、恥かしい限りだ。
■新聞記事をそのまま転載させていただいたので、それを読んでいただければ私の気持ちまで理解してもらえると思考した。
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★その①
日本とベトナムの交流
両陛下が思いをはせて

独立運動支援した浅羽医師の碑 訪問へ

天皇、皇后両陛下が27日、私的旅行で静岡県に入った。
午後に袋井市梅山を訪れ、ベトナムの独立運動指導者ファン・ボイ・チャウの活動を支援した医師浅羽佐喜太郎(あさば・さきたろう)の石碑を視察する予定だ。
今年は碑建立100周年の節目。
地元は盛り上がりをみせている。

袋井市梅山の常林寺。
境内に高さ約2,3メートルの碑が立つ。
100年前、フランスからの独立を目指して日本へ留学生を送る「東遊(どんずー)運動」を展開したチャウが、日本滞在中に世話になった佐喜太郎への追慕と、ベトナム独立への願いを込めて地元の人々と協力して建てたものだ。

両陛下は昨年のベトナム訪問でチャウの記念館を訪れており、佐喜太郎とチャウの交流に感銘を受け、今回の視察も両陛下の意向で実現した。

佐喜太郎がチャウを支援したことは、当時フランスと友好関係にあった日本の意向に反するものだった。
そのため子孫らは長い間積極的に語らず、功績が広く知られることはなかった。

「埋もれた歴史に光を当てて下さり、佐喜太郎も喜んでいるのでは」と中村真典住職(54)は話す。
住職となった約20年前は、碑の周囲も手入れが行き届いておらず、地元でもあまり知られていなかったという。

2001年ごろ、ベトナム人留学生が卒論で取り上げるため訪れたことをきっかけにベトナムと地元の人々との交流が始まり、03年にはチャウの孫やベトナム大使館幹部も出席して建立85周年記念式が開かれた。
その後市民の有志が「浅羽ベトナム会」をつくり、ドキュメンタリーの上映会などで交流を深めた。

12年には袋井商工会議所などを中心に市民訪問団を結成、現地の工業団地などを視察した。
人手不足の市内の企業はベトナム人技術者を受け入れ、日本語学校に通うベトナム人も増えた。
13年には佐喜太郎とチャウの絆を描いた両国共同製作のドラマも放映された。

両陛下は今年7月に常林寺を訪れる予定だったが、西日本豪雨で取りやめに。
それだけに地元の人々の期待も高まる。

原田英之市長は「佐喜太郎の存在、物語を多くの人に知ってもらうこの上ない機会」と期待する。
浅羽ベトナム会の安間幸甫代表(74)も「日越関係や両国の歴史を深く知るきっかけになればいい」と話す。

中村住職は「佐喜太郎の功績がさらに認められ、身内の方も肩の荷が下りるのでは。両国の新たなつながりの場になってくれれば」と話している。

(長谷川智 多田晃子)




★ネットの内容をそのまま転載させてもらった。

ファン・ボイ・チャウ

ベトナム独立のもう一人の英雄を知る

ベトナムの独立の英雄といえばホー・チ・ミンが知られていますが、彼に先駆けてベトナム独立を模索したもう一人の英雄を知っていますか?占領国フランスからの独立運動を指揮し、初代国家主席となったホー・チ・ミンとも交流がありながら、最近になるまでその活躍がほとんど顧みられなかったファン・ボイ・チャウです。実は彼は、日本とも深い縁と絆がたした。

フランスに次々と占領されるベトナム

フランス占領後にはつぎつぎとフランス風の建物が建てられます
フランスに占領されたベトナムで、ファン・ボイ・チャウが独立のために活動を始めたのは1904年のことです。その時ファンは37歳、フランスがダナンを砲撃して侵略を始めた1947年から50年以上経っていました。
その50年の間に、フランスはダナンから南部3省、ハノイと次々に占領を広げ、ベトナム支配を巡る清との戦争(清仏戦争)で清に勝利すると、1887年ベトナムを全面的に占領、「仏領インドシナ連邦」として植民地化していました。

独立支援を求め日本へわたったファン・ボイ・チャウ

1904年にファンは仲間とともに「ベトナム維新会」を結成し、1905年にはなんと、ひそかに日本にやってきました。反仏独立運動の支援を日本に求めるためです。そこでファンは静岡県袋井市の医師・浅羽左喜太郎に出会います。浅羽はファンの熱意に胸を打たれ、知り合いを通じて有力政治家だった大隈重信と犬養毅に会わせることに成功します。
ファンが日本に求めたのは、フランスと戦うための武器の調達でした。しかし大隈と犬養は武器ではなく、人材の育成こそが独立には必要と説き、ベトナムからの留学生を日本で受け入れることを提案します。そこから若いベトナム人学生を日本に留学させる活動(東遊運動)が始まり、1905年から1909年の間に、100人以上の学生が日本で学び交流を深めたのです。
しかし占領国のフランスはこの活動を妨害します。すでに結んでいた日本との協約を理由に、ファンら留学生たちを国外退去させるよう要請、日本にいられなくなったファンたちは中国に逃れ、広東で独立運動を続けるのですが、1925年にフランス軍に逮捕され、ハノイで終身刑を受けます。その後国民からの強い反発を受け恩赦となりますがフエで軟禁生活となり、1940年、独立を見ることなく亡くなりました。
ファンと日本の深い友情
ファン・ボイ・チャウは日本で留学生らと交流していた4年間を「人生で最も華やかな、幸福な時代」と振り返っていたと言われています。この4年間、そしてその後日本を追われ、行き場を失った留学生たちを支え続けたのが浅羽です。浅羽は亡くなる1910年まで支援を続け、その姿に感動したファンは、浅羽の墓に記念碑を建てたそうです。また袋井市には今もなお浅羽ベトナム会という組織があり、ベトナムとの交流を続けています。
はるか100年以上前の、ベトナム人と日本人との小さな出会いかもしれませんが、深い信頼と絆で結ばれた友情は、100年後の現在でも人々の心に広く深く浸透し、今なお人々の心に生き続けて、交流の輪も広がり続けているのです。

ファンゆかりの地フエへ

世界遺産にも登録されたベトナム最後の王朝・阮朝の王宮。
フランス軍に逮捕され、軟禁生活のなかで亡くなったフエには、ファン・ボイ・チャウの記念碑や記念館などが整備されています。長い間歴史に埋もれ、評価されてこなかった彼の運動と生涯が、少しずつ紹介されるようになってきました。
もちろんフエの魅力はそれだけではありません。フ ランスに占領される前、最後の王朝・阮(グエン)朝の都が置かれていたフエは、今でもそこここに古都の面影を色濃く残しています。王宮を始めフエ宮廷美術 博物館や、天女伝説のあるティエンムー寺など、中国の影響を深く受けていたことが伺える建物が点在し、一方、フランス占領後のいかにもヨーロピアンな建物 も見られ、ベトナムの歴史の奥深さを感じます。
またフエはベトナム戦争時に激戦地となった街でもあります。ベトナム の世界遺産として最初に登録された王宮は、ベトナム戦争時に大半が破壊されてしまい、現在もなお復旧作業が続いています。10年以上に及ぶベトナム戦争が もたらした傷は決して浅くはありませんが、ベトナムの人々は今なおその傷を癒そうとしているようにも感じられます。
フエに今なお残るベトナム戦争激戦の跡です。



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その②
村山槐多(かいた)19歳の作品 
100年ぶり発見

信州の風景 情感あふれる筆致



約100年ぶりに見つかった村山槐多の「信州風景」。
状態も良く、黒々とした木炭の色がはっきり残る。
力強い筆致で、決意と意気込みが伝わってくる作品だ。

美術や文学の分野で大正時代に活躍し、早世(そうせい)の天才といわれる画家・詩人の村山槐多(1896~1919)の19歳の作品で、約100年間行方が分からなくなっていた木炭画2枚が、京都市内で見つかった。
専門家は槐多のデッサン作品の中では第一級に値すると評価する。

槐多は幼少期から京都に住み、詩作や小説に早熟な才能を発揮。
上京後、院展などの美術展で受賞を重ね注目を集めたが、退廃的な生活を送るなか、結核性肺炎のため22歳で急死した。

見つかった2枚は1915年「信州風景」。
稲刈りの時期を迎えた農村の様子や重なる山並みが、情感あふれる筆致で描かれている。
槐多の日記には、信州で木炭画50枚を描くという計画が記されており、そのうちの2枚という。
19年に東京で開かれた遺作展に出品されたが、その後は行方不明だった。
「村山槐多全画集」(83年、朝日新聞社刊)の中でも「所在不明の主要作品」と紹介されている。

遺作展で購入された絵を、槐多の同級生の遺族関係者が保管していたとみられ、家族らが書庫を整理していて見つけたという。
発見に立ち会った京都在住の美術商の男性は「ずっと行方知らずだった作品が没後100年の節目を前に見つかり、槐多の執念を感じた」と話す。

槐多研究者で美術史家の村松和明(やすはる)さんは「デッサンに一から取り組む決意で描いたもので、画面に表れた緊張感といい、槐多の風景デッサンでは最高クラスの連作。
なかでも今回見つかったものはとりわけ良い作品」と評価する。
日本の近代絵画に詳しい東京・府中市美術館学芸係長の志賀秀孝さんは「人物画にも通じる生動感が風景にも感じられる。短命で作品数が限られているなか、槐多の画業をたどるうえでも大事な発見だ]と話す。

追記(山岡)
ところで、村山槐多(かいた)さんの「槐」とは、その後、読む本や新聞で、見かけたことはない。
一体、この字は何を意味するのか、講談社の日本語大辞典で調べてみた。
エンジュ。
マメ科の落葉高木。中国原産とあった。
これだけでは、よく解らない状態だ。


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その③
火星のおなか 調べよう
米探査機が着陸


火星着陸に成功した探査機「インサイト」から送られてきた画像。
ほこりでレンズが汚れているが、地平線までほぼ平らな地形に岩のようなもの(画像下)が見える。

火星の内部を調べる探査機「インサイト」のイメージ図=いずれもNASA提供


米航空宇宙局(NASA)の探査機「インサイト」が27日午前4時54分(日本時間)、火星に着陸した。
今後2年かけて地下の構造を初めて直接観測し、45億年前に火星がどのようにできたのか調べる。
火星への着陸は2012年の探査機「キュリオシティ」以来。
着陸直後に交信を絶った旧ソ連の探査機をのぞくと8機目となった。

インサイトは5月、カリフォルニア州のバンデンバーグ空軍基地から打ち上げられ、火星まで約半年かけて4億8200万キロを飛行した。

開発費は約10億ドル(約1130億円)。
乗用車ほどの大きさで、ロボットアームを使って、火星表面に地震計を設置したり、地下5メートルの深さまで熱流量計を埋め込んだりして、火星で起きる地震や地中の温度を測る。

内部の構造や成分を調べることで、地球のような「岩石惑星」が生まれた過程の解明につながると期待される。

火星は、大気圧が地球の100分の1程度。
突入時には鉄が溶けるほどの高温になるにもかかわらず、パラシュートで十分に減圧させるのが難しい。
今回は耐熱シールドにパラシュート、ロケットの逆噴射を使って着陸を成功させた。



(松本紗知)