2018年11月29日木曜日

インフルエンザ予防接種に行く


本日(20181129)13:00に育成会横浜病院で、インフルエンザ・ワクチンの予防接種をした。
それも、横浜市が実施する「高齢者インフルエンザ予防接種」という。

注射器
今まで、勤めていた会社が行うものなら、何の躊躇(ためら)いもなく接種したであろうが、今回は、誰の指図(さしず)を受けた分けではなく、自らの意思で接種した。
それほど、私の環境は緊張気味なのです。

私の家族には長老の義母〈92歳)が居て、保育園に通っている子(3歳)がいる。
そして我々夫婦は70歳前後、娘夫婦は30歳の始まり。

我が家には、お客さんが彼是(あれこれ)多くて、我が家では伝染するような病気を持つことはどうしても避けなければならない。
公衆用衛生は当然、家庭内感染なんて、あってはならないことだと、腹を決めている。
公衆衛生で大事なことの大一番は、先ず自分が間違いなく手を洗い、且つ病気、それも伝染病にはなってはならない、ことだ。
そんなことで予防接種することを決意した。

ところで知識の薄い私には、こんな予防接種をしたら、まずインフルエンザに罹(かか)ってしまうのではないかと疑いをかける。
でも、そんなアホのようなことはないだろうとは思う。
そこで調べたら、インフルエンザは不活化ワクチンなので感染力はないとネットで知った。

問題はかくの如しだ。
インフルエンザは、インフルエンザウイルスに感染することによって起こる急性ウイルス性疾患である。
38度以上の発熱、頭痛、関節炎、筋肉痛など全身の症状が突然現われるので、風邪とは区別して考えるべき病気だ。
また風邪と同じように、のどの痛み、鼻汁、咳などの症状も見られる。
高齢者や免疫力の低下している方では肺炎や脳症を発症することもあって、重症になることがある。

インフルエンザ・ワクチンを接種すると、人間の体はインフルエンザウイルスに対する物質(抗体・免疫)ができ、感染症・インフルエンザにかかりにくくなる。
この働きを利用するのがワクチン接種である。

例年11月頃から徐々に患者が増え始め、1月頃に流行がピークに達し、4月過ぎに収束する傾向がある。
インフルエンザは自然治癒することもあるが、必ず抗インフルエンザ薬が必要な病気ではないが、それは無茶なことかも知れない。

私に新たな問題が思いついた。
一体全体、このインフルエンザというのは、いつの時代から発生したのだろうか?
機会ができたら、一発、調べておきたい。




「インフルエンザ予防接種済証」より

★予防接種を受けた後の一般的注意事項
1、接種後30分間は、急な副反応が起こることがあるため、医師とすぐに連絡を取れるようにしておきましょう。
2、インフルエンザ・ワクチンの副反応は24時間以内に多く出現するため、この間は体調に注意しましょう。
3、入浴は差し支えありませんが、注射した部位を強くこすることはやめましょう。
4、接種当日は激しい運動や大量の飲酒は避けましょう。

★インフルエンザ予防接種後の副反応
予防接種の注射の跡が、赤みを帯びたり、はれたり、痛んだり、また、熱が出たり、寒気がしたり、頭痛、全身のだるさなどがみられることがありますが、通常2~3日のうちに治ります。

また、過敏症としてまれに発疹、じんましん等が現われることがあるほか、非常にまれですがアナフィラキシー様症状、けいれん、肝機能障害、喘息発作等の報告があります。

接種後、接種した部位が痛みや熱をもってひどくはれたり、全身のじんましん、嘔吐、顔色の悪さ、低血圧、高熱などの症状が現われたら、医師の診療を受けてください。

★予防接種済証について
この「インフルエンザ予防接種済証」は、横浜市が実施するインフルエンザ予防接種を受けたことを照明する書類です。
 











2018年11月27日火曜日

東京五輪の公式記録映画は、河瀬直美監督

20181118 朝日新聞・総合3を転載させてもらった。
昭和39年に行われた東京オリンピックの記録映画は、高校3年の時に、通っていた城南高校の体育館で観せてもらった。

下の記事のようなことが、各界にて議論されていたなんて興味なかった。
そんなことよりも、よくぞここまで芸術的に作ったものだと感心してしまった。

当時、私はサッカーだけに興味があっただけだ。

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「政治家と俳優の丁々発止」
日曜に想う 編集委員・曽我 豪

東京オリンピックの公式記録映画を河瀬直美監督が撮ることになった。
あの静謐(せいひつ)なタッチで選手の躍動をどう描き、被災地との関わり合いをいかに物語るか、世界の映画ファンが心待ちにすることだろう。
ごたごた続きの後で下された英断をまずは寿(ことほ)ぎたい。

ただし、余計な口出しがなければの話だ。
昭和の東京五輪の際は混乱した。

五輪の翌1965(昭和40)年、市川崑監督が完成させた公式記録映画に対して、試写会で見た河野一郎国務相が「記録性をまったく無視した映画だ」と酷評し、扱いが宙に浮いた。
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記録か芸術か。
映画俳優高峰秀子さんが東京新聞に反論文を載せ世論は沸騰する。
細川隆元氏が間に入り「週刊サンケイ」誌上で2人の直接対決と相成った。

これがちょっと今日ない面白さだ。

河野氏はソ連と北方領土交渉をし五輪担当相も務め幾度も首相候補にあがった党人派の雄、高峰さんは「二十四の瞳」の主演で知られ、細川氏は元朝日新聞政治部長の政治評論家だ。

その河野氏がまずぶつ。

自分はマラソン界では「相当の指導的立場におる男」だとした上で「将来記録として残されるべきものが、ぜんぜん残されていない」と評価を下す。
「市川さんは芸術家だろうけれど、競技についてはぜんぜん無知」だと指摘した。

聞くだけ聞いて高峰さんは「きょうはお願いに来たんですよ」と切り出す。

近くマレーシアで日本大使館が試写会を開く話に絡めて「フィルムが間に合いませんでしたなんて、第一みっともないですよ」と指摘、市川監督側が「みなさんのご満足のゆくように」海外版を「内緒で」作っていると明かし、「一ぺんそれを見てあげてくださいよ」ともちかけるのだ。

抜群の呼吸である。
これでは、河野氏も「いやいや、ぼくはいやなんて言わないですよ」と降りるしかなくなる。
「いまの映画を焼いて棄てちまえと言っているんじゃない。---とくわかりました、田口(助太郎・東京オリンピック映画協会長)にはすぐ連絡します」

細川氏は2人を握手させる。
河野氏が英国の映画俳優デボラ・カーさんと握手した際、手の柔らかさに惚れた話を持ち出して仲直りの儀式にしょうとしたが、高峰さんはその手に乗らない。
「あたしの手はカタくてつめたいでしょう」

政治談議に移っても主導権は俳優にある。
細川氏が河野厚生省はどうかと振ると高峰さんは「家をぶっこわしたりするほうが似合いますね」。
続けて、イタズラっぽい笑顔で「なに大臣をやりたいですか」と切り込むのだ。
まるで、首相以外に野望はなかろうと言わんばかりに。

事実、細川氏が、外相はどうか、蔵相は、と次々聞いても、河野氏は「やりたくない。だから無任所大臣で、こうやっているのがいいんだ」。

最後の大物大臣評はこう。
「するとおっしゃったことはチョッピリでもなさること、これは国民も認めてますよ、チョッピリね」

対談掲載の3か月後、河野氏は大動脈瘤破裂で急死した。
享年67。
今は孫の太郎氏が祖父がやりたくないと言った外相に就き、祖父と父洋平がなれなかった首相を目指す。
高峰さんは俳優引退後も名エッセイストで知られ、8年前に86歳で亡くなった。
往時(おうじ)茫々(ぼうぼう)である。

さて皆さん、今ならどうだろう?
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きっと、仲介者も含め当事者はネットの炎上とワイドショーの追及で身動きがとれない。
発言を撤回せよ、大臣を辞めろ、極論が横行して、肝心の映画の話はどこかへいってしまうに違いない。

10年以上たって高峰さんは市川監督と騒動を回顧した(斉藤明美監修「高峰秀子」 キネマ旬報社)。
実際会えばわだかまりも消え解決策を話し合えた河野氏を2人でしのび、高峰さんは言った。

「ああいうのを即時解決っていうんだ。大物だった」

国会の惨状や貧困なる言論空間を思えば、丁々発止と歩み寄りが共に成立した時代が、チョッピリ、うらやましい。

2018年11月26日月曜日

近藤啓太郎ー「微笑」








 近藤啓太郎の「微笑」(昭和49年 新潮社)を読んだ。

作家・近藤啓太郎さんの寿美夫人に異変が起こった。
この「微笑」は、近藤啓太郎氏の家族のみなさんと、近藤氏と寿美さんの個人的なお付き合いの人々とのことを書いた本だ。
診察を担当した幾多の医師たちとのお付き合いも、なかなか友愛に溢れたもので、ほのぼのとさせられた。
患者として見事に頑張った夫人と、夫人を看まもる家族たち、夫に長男に長女。

夫人に異変が起こった昭和46年8月25日からが、この話の始まりになる。
癌の発病から、闘病生活、さらにその壮絶な死までを追った辛く哀しい自伝小説になる。
夫人に対しては、この痛みが癌によるものだとは、病気で寝るようになってからも、話さなかった。
自宅は、千葉県の鴨川。

詳しくは、小田病院の院長や、国立東京第二病院(東二)の医師、亀田総合病院の若先生など、多くの方々が親身になって尽くしてくれたことが順を追って語られている。
それ以外に、近藤や寿美夫人の近親者だったり仲間だったり。
近藤の学校時代の同期生、近所の仲間たち。
近藤の気晴らしに、作家仲間も大勢出現したが、物語そのものには、余り影響なかったからここは、出現したことだけにしよう。

物語は、飽くまでも夫である作家・近藤啓太郎と妻の寿美さん、二人の子どもを含めての辛く哀しいが強く逞しい、愛情いっぱいの哀切な家族劇だ。

近藤は近藤で、作家の仕事をやりながらの妻を想う気持ちが、読む者に刺激を与える。
入院中の寿美夫人の病気の程度がなかなか良くならないことを確認して、娘にも付添い看護をさせた。
気の利く娘さんで、衷心、母の心までいたわっていたようだ。

亀田総合病院で近藤の子どもたちが生まれている。
夫人が癌に罹る前だが、吉行淳之介と阿川弘之が鴨川を訪れたとき、何故か、近藤が同病院で血液検査を受けるように誘い、三人で受けたこともあった。
何故、こんなことを近藤は企てたのか? それは解からない。

近藤が子どもの頃から最も仲良くしている、鴨川グランドホテルの鈴木政夫氏から電話があった。
「おれの出来ることなら、なんでもするから、もし困ったことがあったら、遠慮なく言ってくれよ」と優しい言葉をもらっている。
この鴨川グランドホテルは恋の句を多数残した情熱の女流俳人・鈴木真砂女の実家である。
ホテルの地下1階には、「鈴木真砂女 ミュージアム」が設置されている。
近藤も鈴木真砂女に短歌を習うなど親しく交流していたようだ。
そんな関係もあってのことだろう、現在の社長さんのお父さんかおじいさんの鈴木政夫氏と、仲良くなったのだろう。

作家・丹羽文雄は近藤啓太郎の文学の師である。
近藤夫婦の結婚・披露宴において、丹羽文雄夫婦は仲人役の任を受けた。
寿美夫人の容態は、ときには良くなったり、ときには酷く辛そうな日もあった。
痛みの発覚当初は、後1か月持てば良いと言われていたけれど、何とか長期間伸びそうになってきている。
病状の変化は凄まじく変化、その変化のさまの報告書でもある。

気分の好かった日に、近藤啓太郎と寿美夫人に会話があり、その会話が次のようであった、
近藤=「あんまり好き勝手のことばかりしていたものだから、とうとうわたしにも罰が当っちゃいました」
と言ったら、
寿美夫人=「冗談じゃないわ。罰の当る方向が違ってますよ。罰は直接あんたに当ればいいのに…」と言われた。

卵巣癌は七転八倒するほど痛い。
激痛に唇が歪んで、縦になってしまうほど、苦しむんです。
地獄の責苦。
卵巣癌の母親の苦悶のさまを見て、頭が変になった娘がいるという話は聞いていた。
が、寿美夫人は常に微笑を浮かべていた。
そんなことから、この本の題名が「微笑」になったのだろうか。

2018年11月16日金曜日

玉箒(たまばはき)って何だ?

五木寛之氏の「知の休日」 副題=退屈な時間をどう遊ぶか(集英社新書)を読んでいて、初めて
「酒は愁(うれい)を払う玉箒(たまばはき)」という慣用句を知った。

いつものように知らない漢字や、珍しく経験のない読み方には、興味を持つのは変わらぬことだ。
今回は箒(ほうき)を、「ばはき」と読むことが面白い。
ネットで調査に入りました。
玉箒」の「玉」は、美称の接頭語。
箒はあくまでも「ほうき」。
酒は心配事や悩みなどを掃い去ってくれる美しいほうきのようなものだという意味から。
「憂い」は「愁い」とも書く。


玉箒(たまばはき)とは。

玉を飾り付けた箒(ほうき)で、蚕室(さんしつ)を掃くのに用いた。

古代、中国の制に倣い、帝王が耕作をするのに用いる「辛鋤(からすき)」に対し、皇紀が養蚕ををする意味を表すものとして、正月の初子(はつね)の日に飾ったのち、臣下に賜い、宴を開いた。

この実物が現在正倉院に残っている。
「憂いを払う玉箒(たまはぎ)」といい、憂いを掃き除く意から酒の異名でもある。

ところで、
★この初子(はつね)の日とは何ぞや。
その月の最初の子 (ね) の日。
特に、正月の最初の子の日。
古く、野外に出て小松引きをしたり、若菜を摘んだりして遊び、子の日の遊びと呼んだ。

★小松引きとはーー平安時代、正月初めの子(ね)の日に、野に出て小松を引き抜いて遊んだ行事。子の日の遊び

こんな具合に、知らないことを知っていけば、知識は広がるようだ。






2018年11月15日木曜日

癇酒好きのやっかみ?

20181114の朝日新聞の「天声人語」を転載させてもらう。

今回の文章の最初は、「癇酒(かんざけ)好き」で始まって、「今年の気象状況」になり、最後には「ビール」だ。
私の好みと、今年の気象が余りにも激しかったことが原因だろう。
こんな文章なら、やはり私のポケットに仕舞いたいと思ってもしょうがない。

たまたま今読んでいる五木寛之氏の「知の休日」(集英社新書)で、酒に余り悪酔いしないで、それなりの気分を味わうためには、1杯の杯を3分かけて飲むと、その後の飲酒に好(い)いとあった。
五木氏は随分お酒好きの人だと思っていたが、それなりの知恵がお持ちだった。

今夏、始めの頃から終わりにかけて、激しい雨風の伴う台風に日本列島の彼方此方(あっちこっち)で襲われた。
夏の気温は圧倒的に暑く、今、秋の終わりにかけても、気温は下がらない。
出社帰社の徒歩で楽しみにしている保土ヶ谷公園の数々の樹木が、その風で枝は枝と喧嘩越しに叩き合い、葉は葉と殴り合った、結果、葉は枯れたように焦げ茶色になってしまった。
紅葉を楽しみにしていたのに、何とも情けない光景だ。

天声人語では、稚内でまだ初雪が見られないと書いてあったが、この天声人語を読んだ翌日に、偶然、初雪が北海道の各所で観測された。






★天声人語
癇酒(かんざけ)好きのやっかみかもしれないが、冷酒(ひやざけ)がもてはやされすぎている気がする。
だからこういう文章に出会うと、うれしくなる。
「『欄』という手数の加わることが、日本酒の席の気分を、何かフクザツな、味のあるものにしているのではないだろうか」。

作家の小田嶽夫(たけお)さんの随筆である。
コップでぐいぐい飲むのと違い、癇酒は「小さい杯でゆっくり飲むからこそ、酒を楽しむ時間が長く持てる」。
当方は夏でも燗を楽しむ口だが、やはり寒くなりかけの秋が一番いい。

例年ならそういうことなのだが、今年はどうも勝手が違う。
11月も半ば近いのに、あたたかな日が続く。
最近の1週間を平年と比べると、列島の広い範囲で平均気温が2度以上高かったという。
エルニーニョ現象の影響で暖冬も見込まれる。

北海道ではきのうの夕方までに、初雪が観測されていない。
稚内でまだ降らないのは、統計を取り始めた1938年以来初めてだという。
「暖房費の節約になる」という声の一方で、「スキー場はいつ開けるのか」との心配も聞こえてくる。

きのうの東京都心では、コートを着ている人をほとんぞ見かけなかった。
ワイシャツ姿の人もちらほらいた。
木枯らしのあとに訪れるとうれしい小春日和だが、今年は毎日のように、そんなあたたかさがある。

まだまだビール日和だという方もおられるか。
過ごしやすい日が続くのはありがたい。
しかし夏の異常気象を経験したばかりの身からすれば、少し心配にもなる11月である。

2018年11月13日火曜日

四万十に「ハイジ」なぜ

ヤギと散歩する少女「楽しい」

20181106の朝日新聞・夕刊、社会面に出ていたものを、ここに転載させてもらう。
だって、ヤギと散歩? 少女「楽しい」? そのような表現とその言葉。
少女とヤギが仲良く並んでいる写真が載っていれば、私の感心が頗(すこぶ)る。
私は決して、立派な父親ではなかったが、子育ての大切さはよくよく理解している筈だ。

私の頭の中は、11日未明、3時半に横浜市神奈川区大口通りの商店街で、近くに住む会社員女性(34)が刺されて重症を負った事件の渦が、1(ひと)ヒネリ2(ふた)ヒネリ、こんがらがっていた。
犯行現場は、弊社から5キロもない至近の場所だ。
その犯人が、12日に現場から700メートル傍に住んでいる71歳の老人が逮捕された。
右手で杖を突き、左手はポケットの中で凶器の準備をしていた。
お酒の好きな人で、その金を欲しくて襲ったのか? 捕まった後の調べで詳細はわかるのだろう。
酒癖の悪さなのか、認知症が発症したのか?
ヒネリの大きな原因は、犯人が71歳で私が70歳、両人とも酒を大いに楽しみ、多少酒に現(うつつ)を抜かしかけていることが、お似合いザ。
そんな惨事を前に、一体俺は、果たしてこのオジサンと何か違うものを持っているのか、まさか、よく似た同士? そっくりの相似ではなかったよナ~
そんなことを考えて、不思議に嫌な気分で居たときの、新聞記事だったのだ。
そりゃ、新聞記事を読む気力は凄(すご)む。




記事とはーーー。

「最後の清流」と呼ばれる高知県の四万十川のほとりで、ヤギと散歩する少女に出会った。

四万十川の緑濃い岸辺や青く光る水面を、冷たい風が渡っていく。
少女は稲刈りが終わった晩秋の水田を抜け、コスモスが咲く道をたどる。
お供は、生後10ケ月の雄のヤギだ。
ときおり、首の鈴がチリリンと小さい音を立てる。

少女は同県四万十市の小学5年生、林海風(みかぜ)さん(10)。
ヤギは4月に、両親と3人で暮らす自宅に段ボール箱に入れられやってきた。
家の周りの草刈りに疲れた両親が「草を食べてもらおう」と飼うことにしたのだ。
1月に生まれたばかりの子を譲り受けた。

真っ白な顔の一部が少し茶色だったので、「チャチャ」と名づけた。
海風さんが餌や水の世話をし、放課後や土日に散歩を始めた、

海風さんが背負うリュックには、小さなピンクのバケツが入っている。
のどが渇いたチャチャに川の水を飲ませるためだ。

初めは自宅周辺だけだったが、歩く距離はどんどん延びた。
約2キロ離れた四万十川の佐田沈下橋まで約1時間かあけて往復する。
沈下橋は、増水時に川に沈むように設計された欄干のない橋で、四万十川を代表する風景だ。
橋の観光に訪れた外国人に話しかけられたり、写真を撮られたりすることもある。

「食べ過ぎだよ」
散歩は発見の現場だ。
ゆったりとした歩みに合わせていると、いつもの風景が違って見えてくる。
季節ごとに変わる四万十川の川面や魚たち、野山に咲く花、飛び回るチョウやミツバチ。
カラスの水浴、トンビのけんかも目にした。

チャチャは何度も立ち止まり、道端の草をおいしそうに食べる。
満足するまで動かない。
「もう行くよ」「食べ過ぎだよ」、引っ張るが脚を踏ん張って抵抗する。
油断していると、今度は猛然と走り出す。

昼間の目は細くて、最初は怖かった。
でも今は「夜は目が丸くなってかわいい」。
耳の動きで、うれしいのか怒っているのか、気持ちが伝わってくる。

まるで人気アニメ「アルプスの少女ハイジ」のような牧歌的な光景を、地元の人たちは温かく見守る。

「大きな犬かと思った。ヤギか」「かわいいね」。

11月初旬、総出で草刈りをしていた地区の人たちから声がかかった。
海風さんは「チャチャと一緒に地域の人とあいさつしたり、話をしたりすることが楽しくなった」と笑う。

12月にはチャチャを見合いさせる。
相手は、自宅近くのトンネルの向こうで飼われているヤギだ。
海風さんは「赤ちゃんが早く見たい。チャチャと子どもと親子で散歩する日が楽しみ」と毛をそっとなでた。

(笠原雅俊)



2018年11月6日火曜日

秋なのに!!

今日は11月6日。
私にとって、生活習慣病健診の日だ。
健診を受ける病院は、有難いことに弊社の真正面、距離でいえば10メートルも離れていない。

【日本の秋】9月〜11月の天気や観光できるもの、適した服装

それはさて置き、日本の9月、10月、11月は四季のなかで、誉れ高い「秋」だ。
一番爽やかで気持ちのいい季節だ。
そのように、小学校の頃から先生から親からも教えられてきた。

大人になってからは「食欲の秋」、「収穫の秋」、「スポーツの秋」、「読書の秋」、「芸術の秋」と聞いてきた。
山岡は、然程(さほど)欲深くなく、欲張らない人間だけれど、たっぱり秋らしく、ちょっとぐらいは欲張ってみたい。
食欲、読書に関してはマ~マ真剣に! 腕を振るう。 
収穫、スポーツ、芸術に関しては通常通りで、ホゾホゾ、マイペース。
どうしても欠かせない自宅から会社までの出勤時と帰途の徒歩、休日の散歩と水泳、これらは私の心の歪(ひず)みにも影響がある。

こんなことを記述したくて文章を書き出したのではない。
会社までの出勤時と帰途、いつものように歩く横浜市保土ヶ谷公園の通行路から眺める樹木の葉が、毎年のように元気がない、葉の表情に夏が過ぎて冬を待つ、そんな季節感が感じられない。



以前、このブログで病葉(わくらば)のことに触れた。
葉が普通の葉の状態でないことが時にはある、調子の狂った葉のことだ。
これらの状態のことを病葉と言う、そんな話だ。
ところが今年、久しく紅葉が美しくない。
何故、会社までの通勤路を遠回りしてまで、保土ヶ谷公園を通るのかと言えば、数ある樹木がなかなかの大樹で、枝っぷりもよく、それらを眺めながら歩くのが愉しいのだ。

そんなことを感じていた1週間前。
庭の樹木を世話している近所のオジサンに、えらく早くから頑張っていますねと声を掛けたら、そのオジサンは、怖い顔をして塩害ですよと、の・た・ま・わ・れた。
どの台風だか覚えてないが、海から塩を含んだ風がここまでやってきて、この木の葉っぱをやっつけたんですよ。
だから、今年は紅葉になりませんよ、面白くないわ。
この叔父さんの庭からは、富士山の山容が麓まで、横浜港の大部分まで、よく見える。

最初に話したように、保土ヶ谷公園の樹木の落葉が、毎年の私の楽しみだった。
黄色、赤色、橙色などが葉の表面に色よく、柄(がら)立てていた。
その色々な葉模様の美しさが、私の心の奥まで染み込んでくる
ところが、今年の落葉は表情の色柄に生気が足りない。
いつものように心がときめいてこない!!!
その色々な葉を集めて、会社まで持って来て、机の上に揃えて皆を喜ばせた。
これが、私のささやかな楽しみであったのに。

不思議なんだ、共感、私の胸まで響く。
頭は当然、足、腰までが軽く浮き上がる。



「さつまいも」の画像検索結果
サツマイモ(月初めに収穫を終えた)


(ミズナ これから収穫だ)

吾輩の畑=イーハトーブには、現在、ミズナ、玉葱、葱、大蒜(にんにく)、ほうれん草がじわじわ成長している。
サラダ菜、と小カブの種を買ってきているので、今週の日曜日ぐらいに種を蒔くつもりだ。





2018年11月3日土曜日

色彩を持たない「つくる」とは?

この吾輩のブログで、読後感想を書いてない本が幾つもある。

それにしても、今年は大学の4年間と余り違わない本数を読んでいることに、贔屓目に誇りに想う。
学生時代は、立派な学問を学問らしく勉強することに感心が余りにも低かった。
その結果、私のできることは、泣り振り構わず、手当たり次第にある本を読むことだった。
校舎は4年間のうち、2年間はロックアウトしていた。
こんなことも、私が勉強しない癖をつけるに好都合だったのかもしれない。

ただ、サッカー部の選手としては、よくぞ頑張ったと胸を張っている。
入部した者の中では、平均点以下か?そんな生易しいものではなかった。
入部した段階で可能な限りの能力が、余りにも低く、随分皆にお世話になった。
1,2年生の時は、みんなと一緒に練習するなんて、その程度の選手ではなかった。
技術レベルについては一番低劣! 馬力についてはお尻にくっついていくのが精一杯だった。
皆が練習を終えてグラウンドを去ってからでも、定休日の月曜日でも、私には私なりの練習をする好い機会だった。
そんな私でも、4年生になって、3試合に1度は試合に出してもらえた。
部員が少なかったのと、私の立場から言えばとっても失礼な話なんだけれど、怪我人が出ると、私の出番になった。


10月半ばに、村上春樹氏の本を読む。
著者には申し訳ないのだが、私の読解力のなさが一番の弱点なんだが、彼の本にはなかなか馴染めないモノがあった。
私の脳は、どうも未文化的なのか、未時代的なのか? ーーーー修練不足だった。
それでも、今回の村上春樹は、私のような能力不足な人間にだって、ちょっとは分かり易かった。
そのうちに、どんな作家モノについても堪能できるように特化していく心算だ。



★本のタイトルは、
「色彩を持たない 多崎つくると、彼の巡礼の年」だ。






Murakami Haruki (2009).jpg
村上春樹氏

文学の解りの悪い私だからこそ、どうしても村上春樹の本は読めなかった。
読みずらくて、どうしても手が伸びなかった。
この本の先ずタイトル「色彩を持たない多埼つくると、彼の巡礼の年」に感心が進んだ。
そして、読み出したら、比較的読み易かった。

その「色彩を持たない」とは? 「彼の巡礼の年」とは何だ?
村上氏の作品は、理解しがたい抽象的な表現が多いが、この本は可なり現実的だった。
私の頭は、「彼の心象風景を描いた文章」が少なかったこと、いつものように「ぶっ飛んだ人物」が出てこなかったり、これらが入り易かった原因だろうと思う。

★あらすじ
高校時代から親友だった5人のグループ。男3人女2人だ。
つくるは育ちの良いハンサムボーイだった。
調和のとれた完璧な共同体であったが、大学2年の時に、つくるはそこから切り捨てられた。
フィンランドでクロに会ったとき、つくるは正直にその時の感慨、思念、心模様を話した。
「16年前あのグループから追放されたあと、5ヶ月間ばかりだけれど、死ぬことだけを考えて生きてきた。本当にそれだけを考えていたんだよ」、「ぎりぎりの端っこまで行って、中を覗き込んで、そこから目を逸らせなくなってしまった」。

生きる気力を失い傷を負った時期もあるが、何とか冷静に自分の生活を取り戻した。
それから36歳を過ぎて、傷ついた過去から元のように回復することができるのだろうか。

大学時代には2歳年下の灰田、36歳にはガールフレンド沙羅と親しくなる。
灰田は音楽、水泳、その他についていろいろ話をして、好ましい友人になったが、ある日、何故か連絡が取れなくなった。

その沙羅がつくるの傷の原因を追う。
つくるは沙羅の希望する4人の姓名と当時の住所と電話番号を机の抽斗から手帳を出して、ラップトップの画面に正確にタイプした。

4人とは。
赤松慶(あかまつけい)    ミスター・レッド
青梅悦夫(おうみよしお)   ミスター・ブルー
白根柚木(しらねゆずき)   ミス・ホワイト
黒埜恵理(くろのえり)    ミス・ブラック

沙羅はつくるに告げた。
「私は個人的にその人たちに興味があるの。その4人について、もっとよく知りたいの。あなたの背中に今でも張り付いている人たちのことを」。
インターネットを通じて解かったことだけを、つくるに話した。

・アオ/ミスター・ブルーは、現在、名古屋市内のレクサスのディーラーでセールスマンをしている。
ずいぶん有能らしく、ここのところ連続して販売台数のトップ賞を手にしている。
高校時代は能天気なスポーツマンだった。

・クロ/ミス・ブラックは、フィンランドに住んでいる。
愛知県立芸術大学工芸科?
彼女は名古屋にある女子私立大学の英文科に入ったはずだが。
実家に電話をして母親からクロのことをいろいろ教えてもらった。
フインランドのご主人と二人の小さな娘とヘルシンキに住んでいる。
だから、彼女に会いたければ、そこまで出かけるしかない。
高校時代は機転の利くコメディアン。
フィンランドでクロから「私のことをクロとは言わないで、エリと呼んで。柚木のこともシロとは呼ばないで。できれば私たちはもうそういう呼び名をされたくないから」と言われた。

・アカ/ミスター・レッドはけっこう波乱万丈の人生を歩んでいる。
名古屋大学経済学部を優秀な成績で卒業後、大手銀行に入行。
この銀行を3年で退職し、いささか荒っぽい噂のある金融会社に転職した。
それも2年半で辞め、自己啓発セミナーと企業研修セミナーと企業研修セミナーを合体させたようなビジネスを立ち上げた。
高校時代は頭脳明晰なインテリ。

・シロ/ミス・ホワイトは、現住所を持っていないと告げた。
住所を持ってないとは、余りにも不自然な言い方だ。
彼女は今から6年前に亡くなった。30歳の時だ。
名古屋市の郊外にお墓があるだけ。
高校時代は可憐な乙女。



沙羅の調査で、グループのひとり=シロが殺されていたことを知る。
この事件の犯人は誰だろう。
沙羅は、事情を知るにつけて、気持ち悪がり、強引につくるに指示したり、質問に答えなかったり。
沙羅は「長く待っているよ」とつくるに意味ありげに話したーーー、それはどういうことだ。
そして、つくろもグループの生き残り人に会って話してみたいと思った。

つくるは名古屋の実家に帰ってレクサス販売のアオに会った。
大学2年生の時に、他の4人とは付き合わないで欲しいと告げられた。
何故、追放されたのだ。
「何が理由だったのだ?」と、つくるから問い質されたアオはその理由を話した。
シロは「君、つくるにレイプされた」と話したんだよ。
かなりリアルに細部まで説明してくれた。

そんなことがあって、我々の仲間に君を入れないようにしようとしたんだ。
「僕は昔からいつも自分を、色彩とか個性に欠けた空っぽな人間みたいに感じてきた」。
「空っぽも容器。無色の背景。これという欠点もなく、とくに秀でたところもない。そういう存在がグループには必要だったのかもしれない」。
アオは、「シロは音楽大学を卒業したあと、自宅でピアノの先生をしていたが、やがて浜松市に移り、一人暮らしをしていた。
それから二年ほどして、マンションの部屋で絞殺されているのを、母が見つけた」。

沙羅は「来月になれば、今かかっている仕事は一段落」「その目途がついたら、フィンランドに行きたいと思っている」。
そうしたら、一緒に行かないかと、つくるは沙羅に進められた。
沙羅はロンドンで仕事を終えれば、つくると同行できるという。
つくるは行く気になった。

つくるには奇妙な感覚があった。
おれという人間の中には何かしら曲がったもの、歪んだものが潜んでいるのかもしれない。
シロの言った通り、おれには表の顔からは想像もできないような裏の顔があるのかもしれない。
いつも暗闇の中にある月の裏側のように。
そんな暗い裏側はやがていつか裏側を凌駕(りょうが)し、すっぽり吞み込んでしまうのかもしれない。

「自分は空っぽの容器だ。自分には何もない」という考え方から「空っぽだからこそ、他人を受け入れる器になる」と認識は変化した
自意識の肥大でなく、他者に想いを馳せるようになれば、絶望の淵から這い上がれるだろうか。
沙羅は「あなたの中で何かがつっかえていて、それが自然な流れを堰き止めているのかしれない」とも言った。

つくるがヘルシンキ行きの飛行機に乗る数日前、青山通りから神宮前に向けた穏やかな坂で、沙羅は中年の男、たぶん五十代前半の感じのいい顔立ち、その男と仲よさそうに手を繋いで通りを歩いていた。

そしてヘルシンキに向かった。
沙羅の会社のフインランド支店の友人が、ホテルを予約しておいてくれた。
友人から、簡略化した地図とクロが住んでいる家の電話番号などを教えてもらった。
今はサマーハウスに居ることも友人が調べてくれて、其処へ行くまでの地図とレンターカーの申し込みもしてくれた。

そして、クロ(エリ)のサマーハウスに着いた。
ハウスには、クロは散歩に出かけていて、クロの夫だけが留守番していた。
彼からクロの生活、ここまでのいきさつなどを教えてもらった。
夫は二人の女の子を連れて買い物に出かけた。
クロと二人っきりにするための夫の配慮だったのだろう。

「誰かに突き落とされたのか、それとも自分で勝手に落ちたのか、そのへんの事情はわからない。
でもとにかく船は進み続け、僕は暗く冷たい水の中から、デッキの明かりがどんどん遠ざかっていくのを眺めていく。
船上の誰も舟客も舟員も、僕が海に落ちたことを知らない。
そのときの恐怖心を僕は今でも持ち続けている」。

クロは「つくる、君はもっと自信と勇気を持つべきだよ。
だって私が君のことを好きになったんだ。
いっときは君に自分を捧げてもいいと思った。
熱い血がたっぷり流れている一人の女の子が、真剣にそこまで思ったのだ」のだよ。

二人は、長く抱き合った。

長い二人っきりの会話の最後にクロ(エリ)が言ったことは「ねえ、つくる、ひとつだけよく憶えておいて。
君は色彩を欠いてなんかいない。
そんなのはただの名前に過ぎないんだ。
私たちは確かにそのことでよく君をからかったけど、みんな意味のない冗談だよ。
君はどこまでも立派な、カラフルな多埼つくる君だよ」。

クロは何故、シロの保護者のようなことをしていたのか?
親友といえども、そこまでするか!
シロはつくるを愛していたし、クロ(エリ)だってつくるを愛していた。
そんな複雑な環境を、クロは消滅したくて、つくねを輪の外に追い出したのか。

クロ(エリ)だってある意味では人生の亡命者だと言える。
心に傷を負い、その結果いろんなものを置き去りにして、故郷を捨てた。

沙羅が明日には、つくるのマンションにやってくる。
つくるはラザール・ベルマンの演奏する『巡礼の年』をターンテーブルに載せ、針を落とした。
書名になっている「巡礼の年」とは? こういうことだったのか!
その音楽に耳を澄ませていると、ハメーンリンナの湖畔の光景が浮んだ。

明日、沙羅がおれに好意を持っていなかったら、俺を選ばなかったら、おれは本当に死んでしまうだろう。
現実的に死ぬか、比喩的に死ぬか、たぶん大した変わりはない。
確実に息を引き取るだろう。

「すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃないんだ」、それがつくるがフィンランドの湖の畔で、エリに別れ際に伝えるべきことーーーでもそのときには言葉にはできなかった。

沙羅はつくねのマンションに来なかったのか? 来たのか?





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本を読んだ後、その本について、どのように感じたのか、どのように思ったのか、自らの感性はどのような影響を受けたのか、それらを書く機会が有るには有るのだが、どうも時間が無いわけではないのに、しっかり書けていない。
此のことについては、情けなく恥じ入っている。

そんなことを、何も理由をつけて此処でグチュグチュ言っている訳(わけ)ではない。
勤めている会社の社長さんのお陰で、読書時間はいっぱい手に入ることに感謝したい。
そして、8月、9月で読み上げた本はかくの如しだ。


・ビルマの竪琴    竹山道雄            新潮文庫
・創作の現場から   渡辺淳一            集英社文庫
・ワルのぽけっと   灰谷健次郎           角川文庫
・闇の子供たち    梁石日(ヤン・ソギル)     幻冬舎文庫
・砂の城       遠藤周作            新潮文庫
・火車(かしゃ)   宮部みゆき           新潮文庫
・母性        湊かなえ            新潮文庫


2018年11月1日木曜日

運・根・鈍は成功の三要素


運・根・鈍は成功の三要素

何で、そうなったのか?不思議なことなんだ。
この何日間か! 私は夢遊病者のように、馬鹿だ馬鹿だと自らに鞭打つことがある。
嫌な思念から抜けたいと思うことはあっても、その手順が思いつかない。

そんな時期だからか、大事業の成功に必要な要素として、日本では昔から、『運(うん)・根(こん)・鈍(どん)』ということが言われている、この語句に気がとられた。
或る本を読んでいてこの語句を知った。

何故、このような語句に興味を持ったのかと言えば、5年ほど前に起こした樹木からの落下事件で受けた高次脳機能障害の一つに少しばかり苦しんでいるからかもしれない。
会社の仕事を最少にしてもらい、休日を最大限増やしてもらったから、楽なサラリーマン生活と思われるかも知れないが、ナンノナンノ、そうでもない。
でも、このままの能天気な生活ではイカンのだ。
そんなことを考えている矢先の「運・根・鈍は成功の三要素」だった。

現在の私の仕事は、会社での業務、私所有の横須賀・衣笠にある宅地の整備、保土ヶ谷・今井町にある畑(イーハトーブ)での農作業、これらが仕事のあらましだ。
今井町の農作業といっても、3分の1は隣のオジサンに、3分の1は娘の義父に、私の管理しているのは残りの3分の1だ。
野菜の耕作に似つかない部分には果樹をできるだけ多く植樹した。
ミカンは各種で10本、甘柿3本渋柿1本、栗3本、桃1本、スモモ1本、ブルーベリー2本、苺(いちご)、無花果(いちじく)1本
ミカンは今から来年のGWまでは、なんだかんだと収穫はある。
梅の木もどうしても植えたい。

そんな折、大学時代のサッカー部の同期生の「高」から電話をもらった。
来年の入学を希望している高校生から、親の経済的な事情で奨学金ではなく生活費を学校で工面してもらえないですか? との申し出を受けてどうしたらいいかと考えている。
暗中模索の最中なんだよ。
この高校生は、サッカーの実力も学力も並々ならぬ者だ。
なんとか便宜を図ってやりたいが、部費はそうは豊かではない。

そこで、今でも仕事をしているお前のことを思い出したんだよ。
今まで、それなりに寄付はしてくれたし、怪我をしたことは能々(よくよく)知ってはいるのだが、どうだろうか?
この高校生の入学内定は12月の中頃に決まる。
決定はその時まででいいのだが、よう考えておいてくれ。
各月、少額でいい、一切無理はしないでくれ、と忠言された。

その話を聞いたのは、昨日の夕方。
暫らくしてして私は小さい頭痛を覚えた。
ちょっとしたお話を受けたり、考えたりすると、頭がフラフラすることが多く、多いといっても、ガターン、ビシーとした大地震ではない。
理由の解らない、フラフラに襲われることだけなんだけど。

こんな話を聞いて、何とかしてやりたいと先ず思う。
どうなんだろう? 私の体のことは!
定期的に健診はしているけれど、好転しているのか後進しているのか?

吾輩の在学時代のことを考えると、相手のこと、助けてあげたい人のことを考えるよりも、その前に、私こそ大学のサッカー部にどれだけお世話になったか、そのことで頭の中は一杯になった。
体は3か月に一度の定期検査で、何とかチェックは果たしている。
良いも?悪いもなく、現状維持できればそれでOKだと思ってくださいと担当医師から言われている。
体が激変すれば、それはそのときの按配で、何とか乗り切るしかない。
やはり、同期生で事務局長を務める高と相談しよう。


ネットでも調べてみたたら、かくの様な文章を見つけた。
古河財閥の創業者の古河市兵衛氏は、『私はいつも「運 鈍 根」を唄え続けてきた。
運は鈍でなければつかめない。
利口ぶって、チョコマカすると運は逃げてしまう。
鈍を守るには根がなければならぬ。』

運・根・鈍のことを詳しく説明すると下記の如しだ。
運(うん)とはまさにチャンス、幸運のことで、全力を尽くしたときに運を得られるということ。
根(こん)とは最後まであきらめずに粘り強く続けていくこと。
いくら才能があっても、続けなければ意味がありません。
鈍とは切れ味が悪くてどこか鈍い方が、努力する才能に恵まれているということです。
努力する才能というのも後天的には必要になってきます。
有名人には意外と「鈍」な人も多いものです。

似たような表現で、「チビ・ハゲ・デブは出生する」というのがある。
それは、コンプレックスがあったほうが努力するということ。
松下幸之助は「貧乏・病弱・無学歴を跳ねのけた」と評価されている
恵まれた人生もよいものでしょうが、創りあげる運命もまたよいものだ。