2018年11月1日木曜日

運・根・鈍は成功の三要素


運・根・鈍は成功の三要素

何で、そうなったのか?不思議なことなんだ。
この何日間か! 私は夢遊病者のように、馬鹿だ馬鹿だと自らに鞭打つことがある。
嫌な思念から抜けたいと思うことはあっても、その手順が思いつかない。

そんな時期だからか、大事業の成功に必要な要素として、日本では昔から、『運(うん)・根(こん)・鈍(どん)』ということが言われている、この語句に気がとられた。
或る本を読んでいてこの語句を知った。

何故、このような語句に興味を持ったのかと言えば、5年ほど前に起こした樹木からの落下事件で受けた高次脳機能障害の一つに少しばかり苦しんでいるからかもしれない。
会社の仕事を最少にしてもらい、休日を最大限増やしてもらったから、楽なサラリーマン生活と思われるかも知れないが、ナンノナンノ、そうでもない。
でも、このままの能天気な生活ではイカンのだ。
そんなことを考えている矢先の「運・根・鈍は成功の三要素」だった。

現在の私の仕事は、会社での業務、私所有の横須賀・衣笠にある宅地の整備、保土ヶ谷・今井町にある畑(イーハトーブ)での農作業、これらが仕事のあらましだ。
今井町の農作業といっても、3分の1は隣のオジサンに、3分の1は娘の義父に、私の管理しているのは残りの3分の1だ。
野菜の耕作に似つかない部分には果樹をできるだけ多く植樹した。
ミカンは各種で10本、甘柿3本渋柿1本、栗3本、桃1本、スモモ1本、ブルーベリー2本、苺(いちご)、無花果(いちじく)1本
ミカンは今から来年のGWまでは、なんだかんだと収穫はある。
梅の木もどうしても植えたい。

そんな折、大学時代のサッカー部の同期生の「高」から電話をもらった。
来年の入学を希望している高校生から、親の経済的な事情で奨学金ではなく生活費を学校で工面してもらえないですか? との申し出を受けてどうしたらいいかと考えている。
暗中模索の最中なんだよ。
この高校生は、サッカーの実力も学力も並々ならぬ者だ。
なんとか便宜を図ってやりたいが、部費はそうは豊かではない。

そこで、今でも仕事をしているお前のことを思い出したんだよ。
今まで、それなりに寄付はしてくれたし、怪我をしたことは能々(よくよく)知ってはいるのだが、どうだろうか?
この高校生の入学内定は12月の中頃に決まる。
決定はその時まででいいのだが、よう考えておいてくれ。
各月、少額でいい、一切無理はしないでくれ、と忠言された。

その話を聞いたのは、昨日の夕方。
暫らくしてして私は小さい頭痛を覚えた。
ちょっとしたお話を受けたり、考えたりすると、頭がフラフラすることが多く、多いといっても、ガターン、ビシーとした大地震ではない。
理由の解らない、フラフラに襲われることだけなんだけど。

こんな話を聞いて、何とかしてやりたいと先ず思う。
どうなんだろう? 私の体のことは!
定期的に健診はしているけれど、好転しているのか後進しているのか?

吾輩の在学時代のことを考えると、相手のこと、助けてあげたい人のことを考えるよりも、その前に、私こそ大学のサッカー部にどれだけお世話になったか、そのことで頭の中は一杯になった。
体は3か月に一度の定期検査で、何とかチェックは果たしている。
良いも?悪いもなく、現状維持できればそれでOKだと思ってくださいと担当医師から言われている。
体が激変すれば、それはそのときの按配で、何とか乗り切るしかない。
やはり、同期生で事務局長を務める高と相談しよう。


ネットでも調べてみたたら、かくの様な文章を見つけた。
古河財閥の創業者の古河市兵衛氏は、『私はいつも「運 鈍 根」を唄え続けてきた。
運は鈍でなければつかめない。
利口ぶって、チョコマカすると運は逃げてしまう。
鈍を守るには根がなければならぬ。』

運・根・鈍のことを詳しく説明すると下記の如しだ。
運(うん)とはまさにチャンス、幸運のことで、全力を尽くしたときに運を得られるということ。
根(こん)とは最後まであきらめずに粘り強く続けていくこと。
いくら才能があっても、続けなければ意味がありません。
鈍とは切れ味が悪くてどこか鈍い方が、努力する才能に恵まれているということです。
努力する才能というのも後天的には必要になってきます。
有名人には意外と「鈍」な人も多いものです。

似たような表現で、「チビ・ハゲ・デブは出生する」というのがある。
それは、コンプレックスがあったほうが努力するということ。
松下幸之助は「貧乏・病弱・無学歴を跳ねのけた」と評価されている
恵まれた人生もよいものでしょうが、創りあげる運命もまたよいものだ。