2018年11月27日火曜日

東京五輪の公式記録映画は、河瀬直美監督

20181118 朝日新聞・総合3を転載させてもらった。
昭和39年に行われた東京オリンピックの記録映画は、高校3年の時に、通っていた城南高校の体育館で観せてもらった。

下の記事のようなことが、各界にて議論されていたなんて興味なかった。
そんなことよりも、よくぞここまで芸術的に作ったものだと感心してしまった。

当時、私はサッカーだけに興味があっただけだ。

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「政治家と俳優の丁々発止」
日曜に想う 編集委員・曽我 豪

東京オリンピックの公式記録映画を河瀬直美監督が撮ることになった。
あの静謐(せいひつ)なタッチで選手の躍動をどう描き、被災地との関わり合いをいかに物語るか、世界の映画ファンが心待ちにすることだろう。
ごたごた続きの後で下された英断をまずは寿(ことほ)ぎたい。

ただし、余計な口出しがなければの話だ。
昭和の東京五輪の際は混乱した。

五輪の翌1965(昭和40)年、市川崑監督が完成させた公式記録映画に対して、試写会で見た河野一郎国務相が「記録性をまったく無視した映画だ」と酷評し、扱いが宙に浮いた。
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記録か芸術か。
映画俳優高峰秀子さんが東京新聞に反論文を載せ世論は沸騰する。
細川隆元氏が間に入り「週刊サンケイ」誌上で2人の直接対決と相成った。

これがちょっと今日ない面白さだ。

河野氏はソ連と北方領土交渉をし五輪担当相も務め幾度も首相候補にあがった党人派の雄、高峰さんは「二十四の瞳」の主演で知られ、細川氏は元朝日新聞政治部長の政治評論家だ。

その河野氏がまずぶつ。

自分はマラソン界では「相当の指導的立場におる男」だとした上で「将来記録として残されるべきものが、ぜんぜん残されていない」と評価を下す。
「市川さんは芸術家だろうけれど、競技についてはぜんぜん無知」だと指摘した。

聞くだけ聞いて高峰さんは「きょうはお願いに来たんですよ」と切り出す。

近くマレーシアで日本大使館が試写会を開く話に絡めて「フィルムが間に合いませんでしたなんて、第一みっともないですよ」と指摘、市川監督側が「みなさんのご満足のゆくように」海外版を「内緒で」作っていると明かし、「一ぺんそれを見てあげてくださいよ」ともちかけるのだ。

抜群の呼吸である。
これでは、河野氏も「いやいや、ぼくはいやなんて言わないですよ」と降りるしかなくなる。
「いまの映画を焼いて棄てちまえと言っているんじゃない。---とくわかりました、田口(助太郎・東京オリンピック映画協会長)にはすぐ連絡します」

細川氏は2人を握手させる。
河野氏が英国の映画俳優デボラ・カーさんと握手した際、手の柔らかさに惚れた話を持ち出して仲直りの儀式にしょうとしたが、高峰さんはその手に乗らない。
「あたしの手はカタくてつめたいでしょう」

政治談議に移っても主導権は俳優にある。
細川氏が河野厚生省はどうかと振ると高峰さんは「家をぶっこわしたりするほうが似合いますね」。
続けて、イタズラっぽい笑顔で「なに大臣をやりたいですか」と切り込むのだ。
まるで、首相以外に野望はなかろうと言わんばかりに。

事実、細川氏が、外相はどうか、蔵相は、と次々聞いても、河野氏は「やりたくない。だから無任所大臣で、こうやっているのがいいんだ」。

最後の大物大臣評はこう。
「するとおっしゃったことはチョッピリでもなさること、これは国民も認めてますよ、チョッピリね」

対談掲載の3か月後、河野氏は大動脈瘤破裂で急死した。
享年67。
今は孫の太郎氏が祖父がやりたくないと言った外相に就き、祖父と父洋平がなれなかった首相を目指す。
高峰さんは俳優引退後も名エッセイストで知られ、8年前に86歳で亡くなった。
往時(おうじ)茫々(ぼうぼう)である。

さて皆さん、今ならどうだろう?
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きっと、仲介者も含め当事者はネットの炎上とワイドショーの追及で身動きがとれない。
発言を撤回せよ、大臣を辞めろ、極論が横行して、肝心の映画の話はどこかへいってしまうに違いない。

10年以上たって高峰さんは市川監督と騒動を回顧した(斉藤明美監修「高峰秀子」 キネマ旬報社)。
実際会えばわだかまりも消え解決策を話し合えた河野氏を2人でしのび、高峰さんは言った。

「ああいうのを即時解決っていうんだ。大物だった」

国会の惨状や貧困なる言論空間を思えば、丁々発止と歩み寄りが共に成立した時代が、チョッピリ、うらやましい。