2009年6月28日日曜日

日韓共催W杯 ブラジルが優勝(号外)

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会社の机の中をゴソゴソ整理していたら、三段ある引き出しの一番下の奥の方で、ケースからはみ出してぐじゃぐじゃになっている新聞が出てきた。その新聞を広げたら、それは日本(横浜国際総合競技場)で行われたFIFA 日韓共催のサッカー・ワールドカップ(W杯)の決勝戦の内容を告げる号外だったのです。決勝戦を見終わって、帰途のためにJRの新横浜駅に向かう長蛇の列のなかで揉まれながらもらったものだ。新聞の色は薄黄色く焼けていたが、内容はブラジルのロナウドが先制のゴールを決めた瞬間の写真が躍(おど)っていた。

このまま、この新聞を捨て置くわけにはいかないなあ、どうしたらいいものかと思案ロッポウの果てに、このブログにでも貼り付けておこうと決めた。そうしておけば、私的なファイルにもなるし、関心ある人ならば、懐かしく思い出してくれるだろう、と。

同時にあの頃のことが蘇ってきた。

決勝戦は2002年6月30日だったから、大阪の金さんが私に電話をしてきたのは、25日のことです。山岡なあ、ワールド・カップの決勝戦の入場券が4枚手に入りそうなんや、観に行く気があるか?観に行く気があるのんやったら手配するで、一枚?万円や、そりゃ、お世話になった人にお礼もしなくちゃいかんさかいにな、俺と弟は行くわ。金ちゃんには、ボランティアでアメリカのサッカー協会の仕事を手伝っている友人がいて、その人はワールド・カップの本部事務局にも顔が利くということだった。私は、即、入場券を買いたいこと、金額は了解したことを告げた。こんな具合にして、ワールド・カップの決勝戦観戦の準備が始まったのだ。金額については、色々な人に関係が及ぼしたらまずいので、今回は知らん振りをする。高額だったけれども、この入場券はプラチナ以上、ダイヤモンド級の価値はあった。

(当日の入場券)

券は限定4枚だ、一番いい席だった(カテゴリー1)。金ちゃんと金ちゃんの弟と俺で3枚、後は誰にするかと思い巡らして堅い(賢い)生活をし続けているマサチカに声を掛けた。即、オッケーの返事が返ってきた。

そして当日、金ちゃんの弟が石川町(横浜・中区)の叔父さんの家に用事があるというので、4人は横浜中華街で集合して、春巻きとシュウマイで、紹興酒とビールを飲んで下ごしらえをした。久しぶりに会ったことで、話に花が咲いた。幾らでも飲めたのですが、今日は、酒を飲んで馬鹿話に興じる日ではなく、どこの国のサッカーが世界で一番強いのかを決する重要な試合の立ち合いに行くのだ、と金ちゃんの発声で4人は、本来の目的を再確認し合った。

金ちゃんと私は、1990年のイタリアで開催されたワールド・カップに行っているのです。その時は、ベッケンバウアーの西ドイツが優勝した。この年の前年11月、ベルリンの壁は崩壊され、この年の10月に東西のドイツが統一されたのです。イタリアの歴史的な建造物には驚かされた。私に地理や建造物、歴史、美術に知識があったら、否、無くてもだ、この際勉強をしようとする意欲が少しでもあれば、もう一丁有意義な観戦ツアーになっていたのです。恥ずかしい、生来の怠け者を幾ら悔やんでも遅かった。我ら日本人一行を見つけた、きっとイタリア人と思われるオジサンから、ニチ・ドク・イ(日独伊)サンゴク(三国)ドウメイ(同盟)、と呼びかけられたときは、吃驚(びっくり)した。

新横浜駅に着くと、各国入り乱れてのサポーターが、太鼓や笛の鳴り物入り、顔面から手、足、腹、背中を国旗の模様にペインテイング、踊っている、歌っている、わんさかわんさかのお祭り騒ぎだった。サポーターが自分の国の国旗を掲げ、振る。

オーレー、オレオレオレー、オーレー、オレオレオレー。

スタジアムに向かうまでの道路には、各国のユニフォームやTシャツ、その他サッカーグッズの露天の店が並んでいた。店の主(あるじ)は、外人7割日本人3割。

頭はアルコール漬けでいい気分、視界に入る光景は、普段見慣れない、夢の世界のようだった。天気は良かった。

我らが観客席に着いたのは、試合の始まる約1時間程前だった。ゲームの始まる前の、日本の祭りをイメージした演舞は華々しかった。和太鼓、神輿、余りよく憶えていないが、こりゃ東洋的で、日本的で外国の観衆には興味を惹いたことだろう。後日、家人の友人の旦那さんが、警察官なのですが、神輿を担いでいたらしいよ、と聞かされた。隣の席には、30人程ワールドカップの公式スポンサーのコカ・コーラの関係者が占めていた。缶代金を入れても、原価5~6円位のものを100円以上(異常だ)で売り捌く、世界的な飲料の製造販売する会社だ。開発途上国で飲料の植民地化を進めている。国の文化意識が高まれば、この企業はその国から追い出されるのが、今までの常道だ。私はこの40年間、この会社の製品には手をつけたことがありません。

試合が始まる前のドイツのGK オリバー・カーンの緊張したウォーミングアップから、我ら観衆にも否応なしに、その息詰まる雰囲気が伝わってきた。

ブラジルの先制の得点は、しめしめ、うまくいった、ニンマリものだった、だが、ドイツにとっては思わぬ悔やまれる失点だったことだろう。ドイツの2点目の失点も、またしても納得いかぬものだったのではないだろうか。このような緊張した試合では、試合の流れの小さな綻(ほころ)びから、勝敗を決するゴールの得失が生まれるのだ。得た者が勝ち、失った者が負けるのです。

勝負はいつも過酷だ。勝者は歓喜し、敗者は惨憺(さんたん)だ。

試合が終わって、金ちゃん兄弟は新幹線で大阪に帰った。マサチカは葉山へ、私は権太坂に帰った。

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以下は、20020630の読売新聞のW杯速報を知らせる号外の裏表です。

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2009年6月22日月曜日

バン・クライバーン国際ピアノコンクール、辻井伸行さん優勝

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7日、米テキサス州フォートワースで開かれていた「バン・クライバーン国際ピアノコンクール」で優勝の栄冠を獲得した全盲の辻井伸行さん(20)はずば抜けた音色の美しさと叙情性で、多くの聴衆に強い感銘を与えた。

辻井さんの快挙の報を新聞記事で読んで感動していたら、私は私自身の音感のことを、昔から恥ずかしく思っていたことをこの機に白状しておこうと思いついた。辻井さんが優勝して大変目出度いことのついでに、私ごとき者のことを一葉に肩を並べて文字を綴ると言うのは、非常に破天荒なことだということは理解しています。でも、幾ら理不尽なことでも、思いついたらやりきらないと気がすまない性格なのです。

中学時代のことです。授業では、算数も理科も国語も割りとよくできた方だった。特別褒められるまではいかなかったけれど、十分胸張って、誇り高い中学生だった。体育に関しては超A級でした。球技、体操、陸上、なんでもこい状態でした。山野を駆け回っていましたから。

ところが、音楽だけはどうにもならなかった。それは努力すれば、何とかなるってなもんではなかった。ペーパー試験においては、意味が解らなくても覚えておけばなんとかなるのですが、和音の聞き取りのテストには参りました。いろんな和音はあるのでしょうが、そのときはドミソ、ドファラ、シレソの三種類を先生がピアノの鍵盤を叩いて、どの和音であるかを、答えるものでした。どの和音を弾かれても、私には区別が全然つきませんでした。幸い音楽担当の先生が、私が入部していたバスケット部の顧問で、私の生家とは遠縁にあたる人だったのです。そういう特殊な関係にあった先生だったからか、よく諦めもせずに私につきあってくれました。先生の名字は梅田だったので、私たちは陰で梅チュウと呼んでいました。たった一人残されて、異なった和音も混ぜながら、何度繰り返しても最後まで聞き分けられなかった。

そして、大学生になってサッカー部の仲間とカラオケ屋に行ったときのこと、私にとっても楽しいひと時だった筈なのに、私が歌っていると何所からか、クスクスと笑い声が耳に入ってくるではないか、なんじゃ、この冷ややかな笑いは、と想いを巡らしながら歌っていたのでした。一人ひとりが歌うことに飽きて、みんなで合唱したときも、隣で歌っていたQ男は、俺の顔を見て苦笑しているではないか。このイヤな感じは何だろう?

私の音感がおかしいこと、みんなと同じ音階で歌っていないことが原因なんや、と一番親しい友人の金ちゃんから教えてもらって初めて自覚したものでした。家人が、まだ恋人だったときには優しく私に音のはずれた部分を指摘してくれた。女房になってからは、もう激しく酷評されっ放しだ。

そして結婚して子供が生まれて、子供たちはみんなピアノ教室に通った。風呂の中などで、いい気になって大きい声で歌を口ずさみだすと、たちまちの内に子供たちは一斉に大声で笑い出すのです。テレビで、昭和の歌謡大全集?なんて題名の歌番組を見ていて、歌手に合わせてちょっとでも歌おうとでもしたら、白い目攻撃を受けて、その場に居ずらくなり、退散させられてしまうのでした。もうこれは非難中傷の域です。そうして私は、他人の前で焼け糞で歌う意外は、歌うことを躊躇うようになってしまった。

そんな音痴な私には、今回の辻井伸行さんの快挙は想像を絶するものでした。何度も繰り返しますが、辻井さんの快挙と、私の音痴を同じ土俵で著すなんて、なんと荒唐無稽なことだということもよくよく十二分に分かっています。辻井さんのピアノのことをコメントできる資格はないのもよお~く解っています。優勝して賞賛されていることに私はとても幸せな気分になり、私はうっかりちゃっかり脱線したようです。お許しください。

15日、TOKYO FM「クロノス」で辻井さんの帰国後初に演奏したものが、再放送されると新聞記事で知っていたのですが、放送される時間は書いていなかった。ところが、出勤のために車で車庫から出た直後、カーラジオから再放送による演奏が聞こえてきたのです。7時15分ころ、グッドタイミングでした。決勝で演奏したラフマニノフのピアノ協奏曲だった。ピアノのことや音楽のことがサッパリ解らない私にも、何やら不思議な感覚が全身を打った。イチローがWBCで打撃不振に陥ったとき、心が折れそうですと自分の心境を表現して、こんな表現の仕方もあるのかと驚いた。授賞式での辻井さんの表情や記者会見での彼の発言を見聞きして、その優しげな表情や言葉が、もう完全に頭の中に焼付けされ、音楽のことがサッパリ解らない私にも、演奏は全く辻井さんの人となり、「そのもの」なんだろうと思った。辻井さんの演奏からは、人間の心を強さと優しさで、慰撫される感覚を味わった。歌詞などで、文字には非常に感応するタイプなのですが、楽器の演奏だけで、こんな不思議な感覚に陥ったのは、ひょっとして初めての経験かもしれません。

 

この辻井さんのことは、私のノートにファイルしておかなければならないと思い、あちこちの新聞記事で拾ったものを記録した。

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以下は新聞からの抜粋です。

*辻井さんが上野学園大学に入学して以来、指導しているピアニストで同大教授の田部京子さんは、「本当に嬉しい。『全盲のピアニスト』じゃなくて、一人のアーティストとして彼を見て欲しい、とずっと思ってきた。優勝でそのスタートラインに立てた」と喜ぶ。辻井さんは、右手と左手の音を別々に録音したテープを聴いて覚えてから、レッスンを受けた。「最初のころは、私の後に続けてその通りに彼が弾く。耳のよさ、反応の速さ、感受性の鋭さは格別だった」と語る。2年目からは自分はあまり弾かず、「この曲をどう感じるか」などと問いかけて辻井さんの音楽作りの道を手助けした。

*「もし目が見えたら何が見たいか」と問われると、「両親の顔が見たい」と答えつつも「今は心の目で見ているので満足しています」と笑みを浮かべた。

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*吉原真理=予選の演奏で、ショパンの練習曲ハ長調作品10の1が始まってわずか数小節で、1,2分もたつと辻井さんが盲目であることはすっかり忘れてしまった。実にまっすぐな解釈でありながら音楽的に洗練され、聴衆の心に訴える演奏なのだ。演奏の後、聴衆は総立ちでブラボーを連呼し、拍手は5分以上も続いた。ソロ・リサイタルだけでなく、セミ・ファイナルで課される室内楽とファイナルでの協奏曲に至るまで、彼の演奏はあくまで誠実で深い人間性にあふれたものだった。それはあたかも人類への希望や信頼を聴衆に与えるかのような幸福な音楽だった。決勝では、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を弾いた。

*辻井さんは生まれつきの全盲。生後8ヶ月の頃、ショパンの「英雄ポロネーズ」のCDを聴いて足をばたつかせて喜ぶ姿に母のいつ子さん(49)が芸術的な感性を感じ取った。すべての感性を豊かに育てることが、音楽家としての人生を豊かにする。そんな思いからいつ子さんは辻井さんを美術館にも積極的に連れて行った。作品ごとに、目の前の芸術の色、形、様子を語って聞かせる。「花火に行っても、心の中で色とりどりの花火が開く。母のおかげで、何でも心の中で見られるようになった。不自由はありません」。今回のコンクールではベートーベンが聴覚を失ってから書いたソナタ「ハンマークラビーア」を選び、奏でた。「障害を乗り越えてこんな素晴らしい作品を書いたベートーベンに挑んでみたかった」。

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20090618

朝日・夕刊

熱狂が隠す本質/辻井さん報道とコンクール

岩田純子

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バン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行さんが、各地で凱旋公演中だ。副賞として3年間のコンサートツアーも決定、一躍寵児になりつつある。しかし、日本の多くのメディアはいまだに「全盲」を強調し、辻井さんの演奏家としての正当な評価を覆い隠し続けている。

このコンクールは米のピアニスト、バン・クライバー(74)が冷戦下の58年、旧ソ連のチャイコフスキー国際コンクールに優勝したことをたたえ、62年に米テキサス州の音楽愛好家や地元の富豪家らが設立した。「チャイコフスキーやショパンなどの大コンクールと並ぶ登竜門」と報じたメディアもあったが、世界には何百もの国際コンクールがあるわけで、これは正確ではない。ボランティアや地元有志の手で育てられてきた。人肌感を残す温かなコンクールとして理解するのが自然だ。

むしろ注目すべきは、弦楽四重奏との競演でアンサンブルの資質を見るなどの独自の基準だろう。中でも主催者が作曲家に新曲を委嘱し、1曲を選んで弾かせるのは個性的。辻井さんは、その新曲演奏にも最も秀でた人に贈られる「ビバリー・テイラー・スミス賞」も受賞した。

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これは辻井伸行というピアニストの個性を知るうえで、とても重要だ。辻井さんは他のどのフャイナリストも選ばなかった難曲を耳で記憶し、自らの解釈で生き生きと奏でてみせた。単独インタビューの際には「ジャズみたいなリズムが楽しく、自分に合っていると」と選曲の理由をひょうひょうと語ってくれた。つまり、このコンクールが明らかにしたのは、辻井さんがすでに自分の資質を知った、成熟したアーティストであるということだ。

辻井さんが筆者に最も生き生きと話したのは、母のいつ子さんとウィーンを訪れ、クリムトの「接吻」に接した時のこと。「一番の思い出」と繰り返し、魅力を語り続けた。街中の雑踏から切り離された、静謐な美術館の空気。そして愛する母の、優しく穏やかな語り口。そういった空気すべてで、辻井さんの心はクリムトを確かに感じたのだろう。

辻井さんは「全盲ピアニスト世界一」というメデイアが創作したドラマの主人公になることを望んでいない。帰国翌日の記者会見後、取材を抑制しているのもそのためだ。彼が見据えているのは、もっと大きな壁、偉大な作曲家たちの世界だ。

辻井さんの活躍は、障害のある子やその親を勇気づけたに違いない。みな彼が、世界の一流の芸術家たちと同じ土俵で切磋琢磨する姿を見たいと願っていることだろう。ならばなおさら、我々は「全盲」のレッテル抜きで、芸術家としての辻井さんの今後を冷静に見守っていくべきではないだろうか。

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写真は全て、朝日新聞の紙面から拝借させて頂きました。

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宅地造成工事現場から、奈良時代の瓦窯跡が出た

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弊社が行っている横須賀秋谷1丁目での宅地造成工事現場から、奈良時代のものと思われる瓦を作るための登り窯の跡が見つかったのは、平成19年の9月のことでした。当該地は、横須賀市の教育委員会では乗越(のりごし)遺跡の隣接地と言われています。

造成工事は、窯跡が見つかるのと同時にストップがかかって、立ち入り禁止の札が立てられ、我々のスタッフも遠巻きに眺めるしかなかった。埋蔵文化財ですから、学術的に大切な遺構ですから、今回発掘できるのは珍しい登り窯なのですから、などなど、協力をしてくださいと言われれば、それは仕方のないことだと納得した。

発掘に参加している人たちは、地主である弊社に、それはそれは夢見心地で楽しく説明してくださるのですが、私とこの宅地造成工事を担当してくれているK取締役は、調査が終わるのはいつのことやら、と行(工)程や資金のことを考えて憂鬱だった。夏の盛りは過ぎたといえども、炎天下の作業は大変そうでした。調査員や作業する人たちが、なだらかな丘陵地に蟻の行列のように連なって手作業をしていた。作業員の人に、南傾斜で住宅地としては最高でしょうと話しかけたら、窯にとってもこの傾斜は海からの絶え間なく吹き付ける西風が、窯の焚口に入れた薪を燃やし続けるのによかったのですということだった。

奈良時代に、相模国分僧寺(海老名市)が創建されたときに使われた瓦の模様が布目のもので、その瓦が作られたと思われる生産工場が何処かにあったと想定はされていたものの、その場所が確認できていなかった。そのような背景のなかで、この登り窯が発見された意味は大きいのです、とは調査員の力の入った弁です。

国分寺は天平13年(741)、聖武天皇の詔により、全国60余国に造園された僧寺と尼寺のことです。奈良の東大寺・法華寺を総国分(僧・尼)寺とした。日本の歴史の中で、最初で最大の国家プロジェクトであったようです。地元の人間は使役としてかり出され、大変な負担だったようです。

時代は奈良時代。

聖武天皇。国分寺(僧寺と尼寺)

相模の国、今の海老名、三浦半島。

瓦の生産工場と寺の建立。

窯を作って瓦を焼いた職人、その作業を支えた関係者たち、とその家族たち。瓦職人集団は、帰化人(渡来人)だったのだろうか。秋谷が選ばれたのは、瓦に適した土が採取できたからなのだろうか。現場から100メートル近くには入り江があって、そこから生産された瓦は船で積み出されたようです。

海を渡って、川を遡(さかのぼ)り、陸路で現場へ。陸路は人力による荷車か、馬か牛で車を引かせたのだろうか。搬送に使った船は何が動力だったのだろうか。帆船だったろうか、まさか人力による櫂か、いや帆と櫂の併用か。

建築の監督も帰化人(渡来人)か、帰化人二世か三世か、帰化人から教わった弟子か。 瓦以外の建築資材は何処でどのように調達したのだろうか。工事に要した道具は。資金はどうしたのだろうか、時の朝廷が用意した国家予算からか、篤志家からの寄付か、民衆からのお布施か。内装は、水回りは、便所は。当時の仕事に携わった人たちの住居は、服装は、食事は、移動手段は。瓦の工場や建築作業場での徒弟関係、仲間、恋愛からめでたく職場結婚に至った若者もいたのではないのか。

そんなことの想いが次から次に連なる。遠く、奈良時代のロマンを追うなんて、粋(イキ)なことじゃござんせんか。

横須賀市の教育委員会からは、協力していただいたことに感謝して、調査した結果を本にまとめたら贈呈させていただきますから、と言われていた。その本が届いたのです。

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横須賀市文化財調査報告書 第46集

2009年3月31日

横須賀市教育委員会

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横須賀市乗越遺跡発掘調査の概要 ...

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2009年6月21日日曜日

日本、4大会連続W杯出場

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日本代表は、サッカーの10年ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会の出場を決めた。6日、日本時間23時から、日本はアウェーで、ウズウベキスタン(タシケント)と戦った。前半9分、中村憲剛(川崎)からのパスを、岡崎慎二(清水)が前線裏で相手DFと競りながら受けて2,3歩のドリブルの後放ったシュートをGKがはじき、スピードに乗ったままゴールに向かった岡崎は、そのボールを頭で押し入れた。走っている岡崎の丁度目の前にボールは転がってきた。神様がいたのだと、テレビ解説者は言っていたけれども、これは完全に岡崎の技ありのプレーだった。このようなシュートこそ、日本代表が目指していたものだったからだ。収穫は大きい。

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この試合に先立って、東京・国立競技場で、5月の27日にはチリー(世界ランク26位)と、30日にはベルギー(同62位)の3国で争うキリンカップが行われた。試合の結果は両試合とも日本の楽勝だった。相手の両チームは、主力の選手を欠いたいわば二軍チームだった。ここで、私は心配したのです。興業的にも止むを得ないのかもしれないが、公式のなにがなんでも勝たねばならない試合を前に、このような試合を行うことによって、いいこと、悪いことが起こり得るからです。「勝って兜の緒を締める」ことができるか、負けて日本の戦術を見失ったり、指針を狂わせないか、と。

私の尊敬するセルジオ越後さんが、何かで言っていたことを思い出したのです。強いチームに最後まで食らい突いていって、負けるのがいいのですよ、そうすれば自チームの弱点がはっきりと解るからです。これこそが、本当の勉強になるのです。そのことについて、さすが岡田監督は理解していた。予選を通過した直後に、「このままではいい」とは思えない。「強豪と試合をして差を実感したい」と言っていた。これこそが進化の証(あかし)なのだ。アジア予選の最終戦のオーストラリアとの試合で、先取したものの守りきれなかった。この試合こそ、いい勉強になった。無理して無理して、そして無理しないと、勝たせてはくれないことを。

W杯南アフリカ大会(首都・ヨハネスブルグ)は32チームが参加し、来年6月11日から7月11日まで開かれる。今年12月にケープタウンで1次リーグの組み合わせ抽選会が行われる。

岡田監督のコンセプト(作戦)が確かなものになろうとしている。そのコンセプトは簡潔で、練習であきれるほど繰り返されてきた。当たり前の積み重ねだ。「欧州や南米と同じサッカーをやっていても勝ち目はない。バレーの回転レシーブや一人時間差攻撃のようなものを生み出す発想も必要かもしれない」とも語っている。就任早々は「接近・展開・連続」を強調した。豊富な運動量、俊敏性と機動力、細かい技術が必要不可欠だ。速い好守の切り替えで接近してボールを奪い、高速パスを相手の鼻先で展開する。その攻撃の手綱を緩めない。

その具体的な戦術の一つひとつを確認しておこう。でも、一番チームに刺激を与えるのは、岡田監督のコンセプトをよく理解したニュー・フェイスの出現だ。このニュー・フェイスの1人、2人、3人の出現こそチームを一段と高いステージに登れることを可能にする。このことを切に願う。まだ、本大会までには、まだ1年あるのですから。

*前線に大久保嘉人(ウォルフスブルク)や玉田圭司(名古屋)ら小兵でテクニシャン、スピードのある選手を据えた。日本の俊敏性をいかした。田中達也(浦和)、山田直輝(浦和)や岡崎慎二も加わった。相手防御の裏をつく。相手ゴールの近いエリアまでボールを運び、そこで豪快なシュートをするのではなく狭いチャンスコースを、速いスピードで作り出す。そのボールに対して数的有利な状況を作り出すこと。

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*ボールを奪われたときには、奪われた場所に近いところでボールを奪い返すか、追いかけて相手攻撃のスピードを抑える。高い位置でボールを奪えれば、その効果は抜群だ。奪ったボールは、すぐに攻撃の起点にする。長谷部誠(ウォルフブルク)や遠藤保仁(大阪)、中村俊輔(セルティック)は、全体の攻守の動きを把握する。遠藤に全体の統制を委ねることで、中村俊は自由に動き廻れる。そして中村俊が相手を振りほどいたときに、遠藤からすうっとパスを出す。この二人の独特のポジションを変えての、動きとパス出しがチャンスを生む。そして、ここに中村憲がニューパサーとして新味を加える。

*自陣ペナルティーエリア内での防御については、MFがいち早く戻って、数的有利を作って布陣を整えて跳ね返す。中央は中澤祐二(マリノス)や田中マルクス闘莉王(浦和)が絶壁を作る。中澤は、高さ、強さ、横や後、コミュニケーションと緊張のなかでの勇気をもったプレーで味方の戦意を鼓舞する。守備の全体をコントロールする。長友祐都(東京)や内田篤人(鹿島)は、遠藤や中村俊を飛び越えて、何度も左右サイドを行き来し、コースを変える。体を張って、守って、攻撃だ。中澤と闘莉王は中央の高い部分を完全に抑えなくてなならない。もう一人、二人の高い防御や強いデフェンスに耐えられる選手の出現が望まれる。タフな試合になると、必ず怪我人がでる。そのための強いデフェンスのできる補充要員の確保だ。

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*キーパーはゴールから離れる時には必ず、ボールに触ることだ。キャッチできればいいが、キャッチできないときはパンチをできるだけ大きくする。キーパーが選手の体が邪魔になってボールにアタックできていない、そのときこそ最大のピンチだ。コーナーキックからの失点はこのケースが一番多い。キーパーの後ろからの指示の徹底。楢崎正剛(名古屋)や川口能活(磐田)、その次のキーパーの育成が求められる。

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*中澤は岡田監督の広報役をこなしている。中村俊は、チームメイト一人ひとりに助言や確認をして、コミュニケーションを図っている。

 

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朝日新聞・社説

日本の「色」が見えてきた

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敵地という重圧をはね返した。サッカーの日本代表がウズベキスタンを破り、南アフリカで来年開かれるワールドカップ(W杯)への出場を決めた。

厳しい試合だったが、選手たちはひるまなかった。ヘディングで押し込んだ岡崎のゴールには、W杯への執念を感じた人が多かっただろう。08年のフランス大会以来、4大会連続4度目の大舞台だ。来年6月11日の開幕が待ち遠しい。

一昨年、オシム前監督が病に倒れ、岡田監督に白羽の矢が立った。含蓄のある言葉で選手を引っ張った名将の後任である。楽ではなかったろう。

岡田氏が98年、W杯初出場のフランス大会で指揮をとったときは3戦全敗だった。守りを固め、逆襲をねらうしかなかった。02年日韓大会は、トルシエ監督のシステムを重視した考え方が功を奏し16強入り。日本中が熱狂した。だが06年ドイツ大会は、自主性を重んじるジーコ監督の方針を選手が消化しきれないまま1分2敗に終わった。

初の代表監督から10年余り。岡田氏は自らの哲学を選手に浸透させ、過去にないスタイルで代表を率いている。

それは日本人らしい機敏なサッカーだ。小回りが利き、球さばきにたけるという特性を生かし、よりゴールに近づき、パスに多くの人間がからんで好機をつくる。バランスよく人を配する定石を捨てた。大胆な戦術だ。

強国のまねを戒めたオシム氏の「日本代表の日本化」という言葉を、岡田流で実践したともいえる。ウズベキスタン戦でも、目指すサッカーが確かに見えた。

日本のサッカーは93年にJリーグが始まったのを機に、爆発的に人気が高まった。それも90年代後半にはいったん静まり、観客の伸びは鈍化した。

だが、98年のW杯初出場で流れが変わった。日韓W杯の盛り上がりを経て昨年、リーグ国内公式戦の総入場者数は初めて900万人の大台に乗った。

10チームでスタートを切ったJリーグは年々加盟クラブ数が増えた。99年から下部のJ2もスタートし、今年は最多となる計36チームに達した。地域に根ざしたすそ野の広がりが、頂点を高めることにもつながりつつある。

スペインの守備より攻撃を重視したスタイル、イタリアの守りの堅実さーーー。サッカーには、国の「らしさ」が如実に出る。過去のW杯での日本代表は、その「色」が希薄だった。

今回は、海外の模倣ではない「ジャパン・オリジナル」の形が、予選を戦う中で徐々に固まってきた。「目標はW杯本大会でベスト4.世界をあっと驚かせたい」というのが岡田監督の思いだ。

本大会まで1年。日本代表が自らを研ぎ澄ませていく姿を見守りつつ、アフリカ大陸初の祭典を待ちたい。

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写真は全て朝日新聞の紙面から拝借させて頂きました

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2009年6月19日金曜日

福島千里、女子百、日本新11秒24

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20090607 鳥取市のコカ・コーラウエストスポーツパーク陸上競技場で開かれた陸上・スプリント挑戦記録会、女子百メートルで福島千里(北海道ハイテクAC)が11秒24の日本新記録を樹立した。福島は世界選手権(8月、ベルリン)の参加標準記録A(11秒30)を突破した。

福島のことを初めて知ったのは、前回の北京五輪の代表選考に関しての新聞記事だった。

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当時の標準A(11秒32)を突破すれば代表入りの可能性があるといわれていたのですが、あと0秒04まで迫ったが標準A突破が叶えられなかった。だが、陸連は、「突出した競技力があるか、若手であること」を条件に、残された出場枠の1人に入れて、福島の出場が決まったという内容でした。そして、福島は1956年のヘルシンキ五輪の吉川綾子以来56年ぶりの五輪出場となったのです。

その後、福島は陸連を裏切ることなく、着実に記録を伸ばしてきた。二十歳の乙女は、あどけない表情で淡々と記録を積み上げていく。その肢体は眩(まぶ)しいほど清清(すがすが)しい。競技の場を生まれ育った北海道にこだわるところにも、私は気が惹かれたのです。

4月の織田記念では追い風ながら11秒23、5月の静岡国際では二百メートルで23秒14の日本新記録をマークした。

北京五輪出場に賭けていたときは11秒36で、今回の日本新記録は11秒24だ。目を瞠(みは)るほど進化している。11秒1台に突入すれば、世界選手権では準決勝進出が見えてくるから、心が騒ぐのです。

福島千里さんは、将来が楽しみな若者です。注目しよう。みんなで応援しましょう。

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6月16日、浜松で私達の仕事を手伝ってくれているSさんと、仕事の後、酒を飲んだ。Sさんは磐田で生まれて、磐田で育った人です。Sさんは磐田南高校のときには、走り幅跳びと三段跳びの選手でした。そんなことを知っている私は、元アスリートの彼に、福原千里さんのことを知っていますか、と聞いてみたのです。

そしたら彼は、よく知ってますよ、5月に静岡国際で、二百で日本新記録を作ったとき、そのとき競技場に見に行ってたのですよ、と返ってきた。高校を卒業して40年以上も経っているのに、未だに、彼のアスリートとしての血は冷めてはいなかった。

この話を持ち出す前は、お互いの貧乏物語で盛り上がっていたのです。元アスリートは、毎月きちんと生活費を家に入れられなくて、女房の機嫌が悪くて、ここ何日間も喋っていないらしい。朝飯はご飯と納豆だけでいいと言ったら、本当にここ何日は、飯と納豆だけなんです、とかなんとか。

人と交わるのは楽しい。

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写真は全て朝日新聞の紙面のものを拝借しました

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2009年6月8日月曜日

愚直って、真っ正直ってことダ

気象庁の入梅(つゆいり)宣言はまだなのに、6月の天気は曇りと雨ばかりで、鬱陶しくて憎たらしい。仕事柄、雨は嫌なのです。だけど、紫陽花(あじさい)は、私の思惑なんか知らんっぷり、この時とばかりに大輪を晴れやかに咲かせている。我が社の玄関前の庭にも、紫色の花が6輪咲いた。5月の末頃には、薄っすらとした紫だったのですが、今は濃い紫色になってしっかりその存在を誇っている。色がついている部分は花ではなく額(がく)で、花はその額の中心に点のように集まっている部分だそうです。咲く花の色はその土壌が酸性かアルカリ性かによっても、変わるそうです。酸性土壌ならば、青色が強く、アルカリ性土壌ならば、赤色が強く出ると言われている。

紫陽花は、このように今盛りだ。そんな、梅雨前の今、私達の会社は、ここでこそ、この場こそ、ド根性を発揮してみせるぞと意気込んでいます。得意とする分野のみに、知恵と資金を集めて愚直に業務をまい進するしかない、と決意しています。

そこで、仕事に携わる我が社のスタッフの皆さんに、業務に対する今後の心構えのようなものを、文字でスローガンとして掲げてみたいと思いついたのです。協力していただいている同業者の方や、金融機関の方々にも、弊社の気概を汲み取っていただきたい、と思っています。今後とも末永くお付き合いをお願いします。

 

 

山岡 保

2009年6月3日水曜日

ゼネラル・モーターズ 破綻

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20090603

朝日朝刊

天声人語

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びょう-んと琵琶が鳴って、平家物語の一節が胸をよぎる。〈奢(おご)れる人も久しからず、唯(ただ)春の夜の夢の如し〉。16兆円を超す負債を残し、アメリカンドリームの一つが終わった。

破綻したゼネラル・モーターズは20世紀のある時期、間違いなく「世界で最も倒産しそうにない会社」だった。アメリカという国家と、自動車という消費財。二つの隆起が重なる高みに、資本主義の一丁目一番地に、その巨塔はそびえていた。

倒れぬはずの塔は、しかし倒れるべくして倒れた。ひと続きの世界市場で、ガソリンがぶ飲みの車は通じない。日本車との競争、環境上の制約がはげしくなるのに、研究開発を怠り、身内への厚遇、身の丈を越す工場群や販売網を切れなかった。〈盛者必衰のことわり〉である。

旧GMの良い部分を継ぐ新生GMは、米政府が6割の株を持つ国有企業となる。つぎ込まれる公費は都合5兆円近い。救う側、救われる側とも、自由経済の権化としてこれ以上の堕落と恥はあるまい。

株主代表となるオバマ大統領は、「投資」を強いられた納税者に「GMは再び米国の成功シンボルになる」と訴えた。新たな失職者には「次世代が車を作り続けるための犠牲です」。だが、税金が生きる保証はない。

クライスラーに続く出直しだ。身軽に生まれ変わる米業界は、時代と消費者が求める車を再び世に問えるのか。例えば、キャデラックやシボレーを名乗るエコカー。こちらの想像力が足りないせいか、なにやら春夢の続きを見せられている気が、しないでもない。