2018年2月24日土曜日

友人との愛別離苦!


2018年(平成30年)、今は2月。
私は昭和23年9月の生まれなので、この夏で70歳になる。余命と言うか余齢と言えばいいのか? 私の人生のこの末?どういうことになるか、果たして後何年生きられるのだろう。
今回は、別れの編になる。

・肝腎の人と言うのは、大学に入ってから知り合いになった人だ。同じ大学の水球部。
この彼が熊本へ帰ると言うものだから、私には一番にやることがあった。
サッカー部の彼奴(あいつ)にも相談しなくちゃ、如何わい。

決して、厭らしくなく、気持ち悪くなく、陰険でもなく、私よりも100倍も1、000倍もアナリストとしては優秀な奴だ。
私が箸にも棒にも引っかからないサッカー部員だったのに、彼は入学・入部したころには全日本代表に選ばれていた。当時日本の水球がどの程度のレベルだったのか定かではないが、それほどトップクラスではなかった。
代表の一員としてヨーロッパ遠征にも行った。我らサッカー同志には、思いも寄らないことだった。
そんな優秀な奴、人柄は柔和で、私にはいい友人の一人だった。
ある日ある時、そんな彼の練習を見ておきたいとプールに行った。
3年生のころ、主将だった彼はプールの上で笛をガンガン鳴らしては、部員に厳しい発破をかけていた。
そして、彼はどんなプレーをするのか、それを鵜の目(め)鷹の目(め)で待っていたが、何もしないうちに練習は終わった。
そんな日が多かったので、お前、何で、お前自身が水に入って練習をしないんだ? と聞き質した。
そんな時、彼の顔は何も変わらず、私の質問を気にしなかった。彼自身の思いがあったのだろう。
今から思い出してみると、どうも、彼自身も腰痛で苦しんでいたようだ。

それから、ほぼ50年は経った。同じ学部だったのに、勉強の話は一刻もしなかった。酒を飲み、下らない話にどれだけ時間を使ったことだろう。鯨飲鯨食、これしかなかった。
彼は熊本の出身で立派な高校を出ている。学業成績だけならば熊本高校を目指したが、彼にはそんなことよりも、水球で身を馳せたかった。
当時、水球を高校でやっているのは少なかった。我が故郷の京都では京都府立鴨沂(おうき)高校ぐらいだった。

学校を卒業した後、八百屋の手伝いや、世間相場の価額ではなく、何らかの理由あっての破格の値段で大量に仕入れては、そういう類の販売店に売り歩く仕事をしていた。私には分かり辛くて様子だけは見ていた。
それからは大学の同期の競泳部が社長をやっているスイミングクラブに入社した。子供たちを対象にしていたので、さぞかし面白いだろうなと思っていたが、彼からはそれほどの反響はなかった。
その仕事を25年ほど行って、ちょっと前から夜中の代替わり運転手をやっていた。
5,6年前から素浪人だった。
ちょっとした事件を彼が犯したときも、私は誰よりも気遣った。そんなことぐらいで、何故そんなにガタガタもめるの、と抗議したかった。落ち着いてきて、皆で鍋会を遣ったときの面白さは、彼には悪いけれど、私には面白かった。
事態を深刻に受け止めた彼の母が、熊本からやってきた。母は、彼のことを東京ルンペンだと言った。彼の人の好さをう~んと表現して、母を気遣った。
そのようにして、彼が上手く行こうが、上手く行かなくても、我々は仲間だった。
そんな彼とは、横浜と熊本で暮らすことになった。愛別離苦ってヤツ。

・この彼と私の間には、もう一人サッカー上手な男がいた。大阪生野区出身だ。
彼は長男として弟や妹たちの面倒をよく観(み)ていた。
彼の生家にも遊びに行って、彼の父にも母にも、これからの学生生活を頑張るように叱咤された。
彼は1年生でレギュラーになった。彼との付き合いは凄まじいものだった。1年の秋、ヤンマーディーゼルとの試合で、ハーフラインから一人ドリブルで駆け込み、絶妙のシュートを決めた。相手チームには、スーパースター釜本さんがいた。
その時、この男は只者じゃない、と思った。
彼はフォワードのトップ、俺はグチャグチャのバック専門男。
それでも、彼を殺さないと、、、、。
殺すと言ったって息の根を止めることではなく、彼の技術を押さえること、いいプレーをさせないことが、私の生きる選手としての唯一の生甲斐だった。だから、私にとっては無茶苦茶、激しい攻防になった。
でも、グラウンドを去った後は、これが不思議なほど仲が良かった。
俺のようなひっちゃかめっちゃかをよくそこまで付き合ってくれたものだと、感謝している。
深夜、彼が私の下宿にやってきて、ヤマオカ、一杯呑みに行くぞと誘ってくれた。
俺、金ないけど、ええか?の質問に、かまへん、俺、いっぱい持っているさかいにだった。
多分、親からの送金があった日の夜のことだったと思われる。こんなことが幾回もあった。私が貧亡の身であることをよく知っていた。
私への仕送は、私名義の金を私が決めるので、そんなに多くを求めなかった。
当然、財布の中はすっからかんが普通だ。皆で酒を飲むときも、私にはお金がないからねと、宴会の始まる前に宣言しておいた。
一番、私が彼のことを気に入ったのは、原理原則を厳守、贔屓目(ひいきめ)ではなく、理想的な意見を述べることだった。
ところがどっこい、教授の機嫌だとか有力な先輩の心を気遣う奴が多いことに気付かなかった。

私は、何もできない木偶(でく)の某(ぼう)だった。この男は、1年間学校を多い目に居たが、卒業後は出身高校の先生になった。
その後は、不思議なことに私と同じ仕事をすることになった。嫁さんのお兄さんに誘われたようだ。

水球部の彼が、熊本へ帰ると言いだした。自分のことは自分で決めればいい。そんなことに口幅ったく、言いたくない。
その彼とサッカー部の二人が、3月の8日に会ってがっつり飲んで一時的なお別れ会をやることになっている。
翌日、羽田空港から熊本へ帰る。大阪のサッカー部の友人もそのまま大阪へ帰る。
もうそれほど飲めなくなったので、今後の熊本での生活がどのようになるのか、そんなことでも話そう。


・話しは変わるが、私が西武鉄道の親会社を辞めてからお世話になった会社の社長さんが昨年、年末に亡くなった。
親の財産を食い物にしたように見えて、私は、30年ほど前、仕事仲間を前に大抗議をした。
嫌なことをしてしまったと悔やんでいる。人に対して絶対遣ってはいけないことを、彼はやってしまった。他の人は多らかに見守っていた。こんなことぐらいなら、会って、謝っておけばよかったのに、と思う。
彼は上智大学で新聞関係の学習をしていた。
反帝学評の闘士で、お会いした時はその勢いがまだまだ廃っていなかった。
私にも、そのかけらが残っていたのだろう、この男なら、どこまでも付き合えると感じた。その類の話をした時の二人は、それはそれは恋人のようだったと思う。
が、時間の経過と共に、何もかもが変わってくる。
彼は、私より1歳上で70歳だったと思う。その後、先月偲ぶ会を開催したが、私には、どうしても出席する気にはなれなかった。
その会の主要な人が、ヤマオカは避けろと指示をしたのかもしれない。
彼は子供のころから、余り好い体ではなかったのかしら。資金的に苦労することもなく不動産業を興し、それなりに成功したのではないかと思っていた。
学生時代に同じ学校の女学生をお嫁さんにして、2人の子どもを成長させた。この奥さんと私は仲が良く、よく話をしてくれた。
それから、何年後かに離婚して会社の社員を第二の奥さんにした。
こういうことを平気でやる男、私の嫌いなところだった。

・もう一人、昭和49年、西武鉄道の親会社の同期入社の人間だ。
今だから許してもらえると思えるから書く。
政治思想、著作物の数々、環境問題、好きな作家について、何故か気が合った。
仕事が違ったので、最近は詰めて時事問題等について話すことは少なくなっていた、これも口惜しい。
新入社員になって、1回目の事業所での見習い仕事は、池袋のスケートセンターで一緒だった。
学生時代に、ヘルメットを被って棒を持っていたかどうかは解らないが、私に話すことは、多少厳しい内容だった。政治思想については極めて同志だったが、父上が、高級公務員だったので、多少は気を遣っていたのかしれない。
彼のような人の入社には、誰か偉い人の紹介があった筈だ。
ならば、人事部に怒られるようなことのないように過ごすことになっている。
結婚する前までは、よくよく激しい話をして盛り上がった。でも、職場が違ったので、どこまでもどこまでも、くっ付いて話せなかったのが悔やまれる。

山へも行った。秩父連山のことをよく憶えている。僕は付き合い中の彼女と一緒だった。
その彼が、昨年11月、駅から自宅までのタクシーでの帰途、体の異変が急だった。運転手さえ気づいていなかった。
その内容は聞いてないので、真実は解っていない。
だが、2月の28日に彼女が彼の墓参りをすることになっていた。その時に、私も同行することになった。宇都宮駅の新幹線の出入り口に13:00集合。墓は、宇都宮からタクシーで行く。森の宮公園墓地だそうだ。
最初電話した時、私の友人たちから、奥さんは旦那の急変死に頭を苛められているので、お前が電話しようが、気をつけて話さないとアカンよ。
その通りに話しかけたが、彼女の応対は親切で、むしろ横浜のヤマオカに会うのが楽しみなんです、と言ってくれた。
急死されたときの状態は大変だったろう。俺の友人たちがどの程度の配慮を示したか解らないが、気が利いていなかったこともある。
奥さんは余りの急変に随分、気が滅入られたのだろう。

が、彼から私のことはよく聞かされていたので、あなたには会ってはいないが、以前からずうっと知っているような気がします、と言ってくれた。
こんなことになる前に、奥さんに会いたかった。私の女房も交えて、さぞかし楽しい散会が持てたのに。
言葉使いや、声音は全く澄んだものだった。美しく聞こえた。
彼が我が社の仕事をしてくれたことに感謝、感謝して、体の気遣いができなかったことのお詫び。




このように私の周りから遠ざかる人、あの世に出掛けた人。こようにして、みんな居なくなるのかな。郷里での後輩が3年前に逝っていた、これも口惜しくてしょうがないことだ。枡のことだ。
冬の最中にかかわらず、私の大事な畑に昨年11月、京野菜のミズナを植えた。寒気にぶるったのか、芽の出来ばえは弱弱しく、小さな芽はいつまでも大きくならない。
このミズナは全く俺みたいじゃないか、と笑ってしまった。
のんびり育つのを待って、のんびり食べさせてもらおう。

2018年2月18日日曜日

腰痛の歴史が私の一生!

2018年2月、69歳の此の私が、気が狂ったように?
こんな恐ろしい題名「腰痛の歴史が私の一生!」で、このブログに書く気になったのだろう、か?

今から45年前のことから、それからの45年間に起こったあれこれを、何故かこの頃よく思い出す。
大学時代23歳、社会人になってから8年目32歳、52歳、69歳は今の今状態。
良くない歴史は繰り返される、と昔からよく言われたけれど。
情けない話の連鎖劇か!

頭の芯が狂ったようにギクシャクしたり、腰の筋肉が突然、訳の解らない鼓動を起こすのだ。静かに深く。その節、同じような状態で。
意識もしないのに、このような心身の症状が何故発生するのだろうか。悪神か鬼神に乗り移られたのだろうか。太宰治ではないが、デーモン!!野郎、と叫びたくなる。

2浪で大学に入った。入った学校は都の西北にある名門校だ。
他の大学、法・明・中にも合格通知はもらっていたが、入学の目的は日本一のサッカーをする大学と最初から決めていたので、他の学校には申し訳なく思う。
どうせやるなら、清い空気や澄んだ水と過ごしたい。ややこしい風味? 苦みや辛味、糞味、そんな感覚はもう味わいたくない。
さすが、入学した学校には日本全国から優秀な者が、大きな夢を持ってやってきた。
出身地は、九州から北海道まで彼方(あっち)此方(こっち)だ。

唯の貧弱な心身能力だった私のような者が、平気でノコノコと入部して来なかった。
私だけが、何だか非人間っぽく、部の誰からも変節な奴だと思われたことだろう。彼奴(あいつ)は阿呆かいナ~と思われたのかもしれない。
練習だって、止まったボールを蹴ることはできても、それ以外のボールを何とも処理できない木偶(でく)の坊だった。

走ることだって、2年間のドカタ稼業を兼ねての受験浪人だったことが、酷いことにこのことが尚更激しく運動神経を疎(うと)くさせてしまった。
4年間の授業料と入学金その他の費用を稼げることはできたが、運動選手としては、どんどん悪くなっていた。
悪貨は良貨を駆逐する、なんて結語を思い出した。
案の定、そんな私が、皆との練習ではどうしても傷物(きずもの)になり、チームワークを調和・調整なんてできるどころか、迷惑の掛けっ放しになってしまった。
獣のような妖気でもあれば、皆から面白がってくれたかもしれない。

そんな状態でも何とかしなければ、入学入部したことなんて、何にもならない。臭い話だが、屁にもならない。
私の脳は、逃げ場のない、ガチガチの沼の底の底の泥状態。
そうなったら、私のやるべきことは何ざ?
やることは、やる、これしかない。
練習を人並以上に、徹底的に多くやることしかなかった。
一緒にやる練習では、無理矢理に自体を擲(なげう)って、恥かしげながらも強引に技を発揮することだった。
この自体を擲ってやると言われても、そんなに離れ業をこなせる訳ではなく、コナレタ小技を披露できるわけでもなく、無暗に一所懸命やるしかなかった。
言葉は悪いが、小腕、ヤケクソ状態。

入学した学校は、JR山手線の高田馬場駅から徒歩30分。直通バスもあった。
住所は、東京都新宿区にあった。優秀な人材を政・経・文・財・教に輩出した立派な学校だ。私には、とりわけスポーツ分野での傑出が目を見張る。
勉強については、情けなくなるほど夢も希望もなかったけれど、でも、ちょっとは人並みには頑張ろうとは思っていた。
が、入学して勉強しだしたのは3ヶ月ばかり。学校は学生運動の真っ盛り。
校地はバリケードに囲まれ、当たり前のように授業はできず、しばらくはちょこっと学校には行くがふらふらしているばかりだった。

お陰で、サッカーの練習には充実できた。
充実できたからと言って、私の実力は見るも無残な状態だったので、他人のことは兎も角、自分のこと、基本的な技術の鍛錬だけはしっかりできた。
しっかりできた、と表現しても、技術の品度が上がったということではない。
一人でできることに、精一杯、嬉しかった。

何しろ決めた場所にどんな蹴り方でも的確に蹴ること。相手には右、左、高く、早く、、、走る方向に蹴り分けることだ。
与えられたボールを如何に無駄なく処理すること。
高く飛んでくるボールを直接蹴るボレーキック。高くに吊らされたボールに対するヘッデイング、何度も何度も繰り返した。
これらは独りで、基本技術に没頭した話で、これではゲームの1プレーヤーとしては箸にも棒にもならん、情けないことだ。

対陣を交えての試合では、相手が目の前にいつでも飛び出してくる、相手を前に自陣の選手に如何に効率のいいボールを供給できるか、これが大問題だ。
自陣にこの効率の良いボールを出すことが難しかった。
自陣の都合、対陣の都合を考えての配給だ。


高校は、京都府と言っても宇治市のはずれの城南高校。
2年間の受験浪人を経て大学進学を目指したが、私にとって、恥かしながら、大学進学の目標や狙いが皆よりも気魄だった。
専門で学びたいものがなく、さりとて、立派な学業成績を収めて、立派な会社に入社することなんて露ほども考えたことがない。
当然、特に学びたい学問もなく、立派な学校に入りたいなぞ、考えたこともない。
どんな職場に就職しようが、一所懸命に働けば何とかなる、と思っていた。

生家が貧しい農家だったからなのか、他人の頭を下げさせる程の立身出世の気概など持ち合わせていなかった。
私は当然だけれども、私以外の人たちがちょっとでも豊かな生活が営めるようになれたら、それこそが、わたしの念願の喜びだった。
その程度の感覚だったので、いい加減な学生だった。

この大学での練習で、腰から足、肩にかけて大いに筋肉痛にどっぷり嵌まってしまった。それに、無理して無理しての練習は、サッカーの能力が無機能に果てていた、何とか一人前になろうと必死だった。
そんな日が、積み重なっていくと、気が付かないうちに、私の体はガタガタになってしまった。
下手は下手でも、他人に負けないほどには、到底無理だった。

だからやれることは二つしかなかった。
一つは、部の恒例の休みになっている月曜日に、何処までも何処までも走り込むことだった。寮を出て、井の頭公園や善福寺公園まで走る。
公園の中の樹木等の枝や幹を眺め、自分の将来は果たしてどういうことになるのやら?
豊かになれるのか、みじめったらしく終わってしまうのか。
ハット、悲しさに奮えることだってあった。
歩道を走ることだって、電信柱らと電信柱の間を、早く走ったり、ゆっくり走ったり。石垣にぼや~んと座ったり、やることはいっぱいあった。
公園の湖の水をじっと見つめていると、何か訳もなく、楽しい人生がやってくるのではないか、と思えてきて、顏が微笑んでくる。
この魚だって、何かを考えている筈だ。
こんな私だけの特別な休日もあるのだ。
若い男女がボートで楽しんでいる。嬉しそうに時間を過ごしている彼らを見ているだけで、私だって嬉しくなった。

もう一つは、皆とは上手く練習できなくても、その日その日を大切に頑張ることだった。
ヤマオカ、お前なんて幾ら練習したって、試合になんか出られないよ。
無理だよ。
こんなことを、誰から? どいつが言ったから知らないが、私の耳には届いた。
そんな暴言に糞垂(くたば)る私ではなかった。やるだけやるだけ、さ!
走ることだって、どれほど非力、劣悪だったか、自分ながら情けなかった。
だから、やることはやる。
大学の練習を終えた後、自分で自分だけの練習を企てて、一所懸命にやり遂げた。
走ること、キック板へのキックの練習、高く垂れ下がったボールに対してヘッデイング、ボレーキック。友人とのパス、ドリブル。

そんなことをやっていると、係属高校のサッカー部の練習が始まって、私もその部の一員として全ての練習をこなす。
幸い、年上だと言うこともあるが、皆に迷惑をかけなくて済むことで、我が方は気が楽だ。
これだって2時間はやった。この高校から我が大学のサッカー部に入る者もいた。
その中に、私の友人が何人もできた。

それから、グラウンドの側の部室の一部に作られた風呂で、ゆったりと入浴する。
私が入るころには、誰もいない。みんな入って、何処かへ行ってしまった。
この入浴ほど気分のいいものは無い。目をつぶり裏憶えの歌を歌ったり、じっくり居眠りもした。
田舎のことを考えて、自然に涙が流れてくることもある。
時には私が入る前に入浴している後輩が居て、テレビでお馴染みの大岡越前のテーマソングを歌いながら、涙を零している奴も居た。
彼は何を考え何を思っていたのか、そのことについて話したことはない。

郷里を出かける時に母から言われた助言?
生まれてから、母は私に一度もお節介めいた躾(しつけ)を言ったこともないのに、タモツ、お前のお兄ちゃんは家のことで良く頑張っているのだから、どんな大学に入ろうがどんな会社に入ろうが、警察や税務署のお世話になることだけは、絶対やめてくれよ。
母の躾のせいで、我が部の優勝の夜の西武鉄道・東伏見駅でのトラブルや、1970年の安保闘争においての新宿駅闘争、早稲田大学の授業料下げ交渉・会館の使用及び維持管理闘争においても、警察官にお世話になることはなかった。
タモツに言えるのは、唯、それだけや。
父からは、何の助言もなかった。
こんなことも思い出した。
繰り返す、この大学のサッカーにおいて体はやられてしまった。その後の、腰痛問題の種はここで生まれたようだ。無理して無理してこそ、何とか生きられたのだ。

最後に一筆。
こんな私だけれど、4年生になって3試合に1度は試合に出してもらった。
全日本大学サッカー選手権の優勝決定戦に出してもらったのが嬉しかった。私は神風だよ、神風の御蔭だと喚き散らしていた。その神風が、サンケイスポーツの記事に使われた。
関東大学サッカー選手権でも優勝した。2冠を制覇したことになる。


学校を卒業して入った会社は、西武鉄道の親会社。
入社して7年後に、アイスホッケー部に所属している者と私等2~3人以外は、不動産を扱う会社に転属した。持前の不動産を早く売り切らなくてはならないと判断したようだ。
私は、人事部の思惑は何だったのだろうか?原宿駅前の本社宣伝部に移った。
このことについては、同期の誰もが不思議がった。
宣伝のことに興味を持っている奴ならば嬉しく思うことだろうが、吾輩にとっては、こんな苦しいことはなかった。
ホテルやレジャー施設について、難しいこと以外についても、当たり前のように何も知らなかった。
そんな私が、施設や行事、レストランのことについて、誰もが知っているようなことを知らなかったので、各支部、各施設とのやり繰りは、物の見事に電話とファックスで激しく遣りあった。
観光名所や都内にある数々のホテル、ゴルフ場、スキー場、レジャー施設。
ちなみに施設といえば、高輪新・高輪、品川、麻布、横浜、日光のプリンスホテル。中里、三俣、苗場、かぐらのスキー場。
私が京都府出身だから、関連会社の近江観光・近江鉄道のレジャー施設。
それぞれの施設の看板支配人との楽しい会話や飲食については、楽しかった。
今でも忘れられない。

そして30歳の時、椅子に座っての原稿書きのときに、腰の一部に遠い遠い部分からやって来た小さな痛みが、あれよあれよと言っているうちに、ガア~ンガア~ンと雷のような光を発して暴れ出し、私は椅子に座っていることさえできなかった。
上司に状態を話せることもできなかった。
見るに見かねた先輩が、手配してくれた病院に担ぎ込まれた。提携病院だ。
歩くことは当然できなくて、タクシーに乗ることだって精一杯の状態。
その日、上司に診断の内容を話すことさえできなかった。
これが入社して8年目、2回目の腰痛だった。激痛からは暫らくで逃れられたけれど、微痛は付き纏った。
忘れようとしても、いつも痛みを背負っていた。この腰痛って奴はそう簡単に身を引いてくれない。
多分、この腰痛も退社する理由の一つだったと思う。
そして、入社ほぼ10年でこの会社を退社した。
朝、目覚めた時に決心した。ほんの1分間ぐらいの間に。34歳だった。
不思議なんだ、こんなにこの会社のことを一生懸命愛したのに、退社願いを出した瞬間に、愛社精神の一片もなくなるなんて、生まれて初めての経験だった。

52歳。
大学を出てほぼ10年勤めた会社を34歳で退社した。
随分お世話になったこと、知らないことを良くもこれだけ多く教えた呉れたと感謝している。
この会社を辞めるとき、これからの会社の予定があったわけではない。ここらで、暫らく休むことにしよう、これが私の本音だ。
自由になる時間が、急にふくれて、夕方になると誰かと飲みたくなり、ふらふらとあっち行ってグイこっち行ってグイの日々を愉しんでいた。

そんなある日のスナック、昔お世話になったwさんに巡り合って、私の今の状態を話して、その続きに、ところでヤマオカさん、これからどこの会社に入るの言われ、どことも何とも話していないことを話すと、それなら、俺の会社へおいでよと言われ、その翌日には彼の会社の玄関をくぐった。
wさんのことは前からの好みの人だったし、彼自身一所懸命仕事に精を出していた。そんな彼との一瞬の隙間に就職活動は終わった。

それからの仕事は、いいこと悪いこと、簡単に言えば、まあ~まあ~だった。
そして、どうしたのか会社の都合からなのか、ヤマオカさん、この会社を君がやりたければ君が責任者としてやればいいんだが?と相談があった。
wさんの頭の中がよく解らないまま、それはそれで結構ですよと言って、子会社は私の会社になった。役員の変更や出資金のことは短い期間で処理した。
それから暫らくして、親会社は倒産した。
この時、wさん、なんぜ、そんなに気楽に会社を諦めるの、と私の発言は遠慮なしだった。

それからは、よくやれたこともあるし、多少失敗ごともあった。でも、私には友人が多くいてくれたので、何となく頑張れた。
そんな日、毎日私が物件を車で見に行っていたので、足腰がまたまた狂いだした。車の運転も腰には悪かった。

ちょっとちょっとの痛みが、日に日に激しくなってきた。
今は、俺、社長さん。
痛みに真剣に向かわざるを得なかった。
今度は簡単に処理するわけにはいかず、近所の横浜国際病院に入院した。
この病院の施療には原則があって、腰痛には手術はしない、治すのは腰痛施療用の体操を徹底的にやること、これしかなかった。
気安く考えたわけではないが、なかなか治ることはできず、我慢しきれず10日ぐらいで退院した。
この退院した理由については、他人さまには話せないこともあるのだが、今回は書かないで許してもらおう。
痛い、痛いの生活は6か月は過ぎた。
痛みは完全に治したわけではないが、何とか日常を過ごせるようになって、これ以上を諦めた。

この頃、今弊社の経営責任者をやってくれているnさんが入社した。私はnさんの兄貴と仲が良かったので、兄がnを紹介してくれた。

65歳。
高い樹木の枝を払う仕事を自ら遣り始め、或る日、5,6メートルの高さから落下して頭の後頭部を強く打った。
4日ほど気を失ってしまった。気絶だ。
現場の中で大工さんが一人作業していて、その大工さんが私の状態に気づき、警察と救急車に電話してその両者が検分した。
警察の人は、この件については我々の出番はないと言って、帰って行った。
救急車は、脳を強く打っているので精神系のある病院を勝手に調べて、新百合ヶ丘にある立派な病院に私を運び込んだ。
それから、気づくまでは、何がなにやらさっぱり分からなかった。
家族や会社のnさんも病院の私を見回ってくれた。ある程度、怪我の内容を知ったことだろう。

その後遺症は凄まじいものがあって、一番最初にお世話になった病院に入院3ヶ月、リハビリ用の病院に入院したのが3ヶ月。
退院後の生活の最初のうちは、厳しかった。
混雑している通路を人さまにぶつからないように歩くこと、誰もいない階段の上り下りが不安だった。
バランスが悪くなって頭がくらくらするのだ。頭が回った。眩暈(めまい)に苦しんだ。
手摺がある階段ならば何とか我慢できたが、手摺の無い階段を利用するときは恐怖だった。
もっと怖かったのが、一人での夜の歩行だった。
前の電信柱の影に人影のようなものが見えて、と言うか思えてそれの実態が見えるまでの数分間怖かった。前から歩いてくる人間だって、何か奇妙な物像に思えて、近くになるまで心臓がバクバクするほど強震した。
夜中だけではなく、昼間だって、50メートル前の看板の模様が、変に見えたり、妖怪がうなっているようにも見えた。
方向感覚が悪くなったのが会社に出社してから、支障が有り過ぎた。
JRから私鉄に乗り換えるだけのことでも、行き先の方向が、これでいいのか?悪いのか?それだって、解らなかった。
街が、世の中の何もかもが怖かった。

今でも、一番最初にお世話になった病院に3ヶ月毎に定期検査を受けている。
私は担当医に、もう治ったように思えると言っても、妻や子供たちはとんでもない、可笑しなことを言ったり、したり、心配なんですと言う。
なかなか良くならないが、私自身は頭の中は変わらないと思っている。
事実、暗記力や企画力、想像力の継続のなさが目だってきた。
頭の中には色んな脳があって、それらが調整し合ったり、反響・交換し合ったりして、まとまった能力が発生するらしい。
それらのことが、可笑しいままなのだ。

そんな日々の中での日常活動、先ずは歩行さえぎこちないものになって、足腰、手足、肩に痛みが現れた。この痛みも激しいものだった。
最初はそれほど大したものだとは思えなかったが、日が経つにつれて重々しくなった。
そしてその痛みが激しくなって、激痛になった。
リハビリが必要だった。
糞!! このリハビリ中での激痛。人にもよるが、6ヶ月から10ヶ月の治療が必要になることは、知っていた。
元々、私には腰痛の恐怖症があって、人並み以上には治らないことを直感で分かっていた。
事故後11ヶ月後、やっと直ったようだが。
それが本当に治っているのか?
私には解らない。

そして去年(2018)の3月の頃、腰や太腿に痛みが出てきた。
これから桜が咲いて、公園の散歩などを楽しみにしていたのに、嫌な気がしてならなかった。
何も考えずに整形外科院に行った。
ヤマオカさん、これは立派な腰痛ですよ、私のところに100回来てくれたら治りますよ、医者の診断だった。
100回と言わず、私は200回程通う心算でいた。
こういう場合は多い目に採算しておけば、後悔も少ないだろう。

6月には痛みが烈しくなってお医者さんに相談すると、今度はヘルニアが発生していますねだった。
これや~、増々長期治療だ、と覚悟した。
会社では、私の足腰については良く理解してくれて、我儘な治療を許してくれた。
そんな、悲しくも辛い日々が続いた。
が、11月になって、何故か腰の痛みが不思議な程弱まり、会社には、どうも治ったようですと報告した。通算135回目の通院が終えたころだ。
徐々に病院行きは少なくなり、見た目は治ったように、皆は見ていたことだろう。

でも、そんなことを書きながら、今でも腰痛は完治していない。日常の何てことのない作業でうろちょろすることだって、怖くて怖くてしょうがない。

腰痛に頭のフラフラ状態で、どれだけ頑張れるか? それが、今の私の状態。
でも、我慢強い私のこと、何とか免れる方法を身につけている。
大学を卒業して2,3年経って、正式に配属になった事業所で、その事業所の支配人に、ヤマオカ、お前なあ、スイミングクラブの先生をやってくれ、と言われた。
この水泳が、一番の腰痛の療法になる、と後々知った。
お前の嫁ハンに大事なところをやってもらって、そのうちにお前も水泳を覚えてくれ。
俺の早稲田時代の後輩も辻堂と横浜にいるから、そんな奴らにも声を掛けるから、頼むわ、だった。
支配人の早稲田の水泳部の先輩・役員に飛び込み専門の人がいて、支配人に指示がでたのだ。
この飛び込みの先輩が、社長との会話でスイミングクラブを発足したいと、言ったようだ。

それからの私の従業員としての仕事っぷりは、がらんと変わった。
真夏はプールの仕事で忙しかったが、冬となれば、朝から夕方まで泳ぎ続けた。
1日最低5000メートル。
支配人の指示だから、先輩に明治の柔道部出身とか早稲田の空手部出身がいたが、誰にも誰からも文句を言われなかった。
3ヶ月もすれば1日1万メートル、もうすっかり、立派な水泳部になった。

だから、それから、運動不足で体が鈍(なま)ってくると、自然にプールに向かうようになった。
私のような人間にも、気前良くすごせる公設のプールがあっちこっちにできた。入場料が安く、余計なルールが少ない。
最近では、1日1、000メートルをクロールで泳ぐ。実質35分で充分。
平泳ぎが苦手で、バタフライは難しい。
ひたすらクロールだけにこだわっている。
クロールを1、000メートル泳ぐと、それなりに充実感が味わえる。
週に2,3日で月に15,000メートルが目標になっている。

腰痛が烈しい時は兎も角、当然病院に入っているとき、痛み止めの薬を痛飲っしているとき以外は、昔からの癖で、良く歩いた。歩いていると体がほぐれてくる、そんな感覚を身につけていた。
この15年だって、歩いて1時間で通える会社まで、特別なこと以外、歩いて通った。5キロほどあると思うのだが、歩く喜びを覚えてしまった。大きい公園の中、二つの高校の前と後ろ。こんなところでさえ、嬉しく感じるのは、山村育ちのせいかな。

もっと前には、実家から宇治の高校までの通学だって、通学バスならば1時間ぐらいかかるのですが、私は自転車で通学した。宇治川の川筋に沿った道を、下り坂では、バスを追い越した。夏休みを終えて2学期が始まった頃、サッカー部に入ったので、次兄が使っていたホンダ・カブをもらった。帰宅が8時頃になるので、都合が良かった。
これからサッカー狂熱にやられてっしまった。幸せな次代の第一歩だ。

天ヶ瀬ダム

こんなことをして、ずうっと、ずうっと腰痛に耐えている。俺の人生は腰痛との戦いのようだった。













2018年2月10日土曜日

吉田松陰に泣く

小説吉田松陰/童門冬二

そろそろ何かを読みたくなって、久しぶりに古本安売りチェーン店に行った。
途方もなく、何処までも何処までも歩きたくなる日が来る。腰痛の治療には徒歩が一番いいように思える。
私の行く本屋さんと言えば、東戸塚駅前、この類の店しかない。

私の頭が少し狂い出して、先ずは廉い価額で関心深い内容であることが大いに第一条件だ。この選択は割と当たりが多い。
私が、関心深い内容と言うのは、余りに普遍的ではなく癖が有り過ぎるので、この内容については、いつか話せる日があるだろう。私の平凡な人生に関係あるんざ。

吉田松陰の写真

今回は、「全一編 小説 吉田松陰」だ。著者が童門冬二(どうもん ふゆじ)

発行所・株式会社 集英社
文庫版
650ページ
¥108

童門冬二にとって、太宰治はデーモンであり、ペンネームの童門はデーモンからきている。
デーモンってネットで調べたら下記のようだった。
daemon(守護神)とはギリシャ神話に登場し、神々が煩わされたくないと考えた雑事を処理した存在である。同様にコンピュータのデーモンもユーザーが煩わされたくないタスクをバックグラウンドで実行する
17歳で終戦を迎え、特攻隊から戻った少年に対し世間の目は罪人を迎えるようで、その傷を癒したのは、太宰治の著書でその純粋さ優しさに取り憑かれた。
このデーモンについて、私は私なりに理解しているが、童門氏と太宰を併せて、説明するにはなかなか困難ざ。上の内容でエエのかなあ。

氏が都庁在職中、美濃部亮吉知事の都政3期12年に、知事のスピーチライターとして活躍した。美濃部知事退任と同時に自らも退職し作家活動に専念した、とネットで知った。
美濃部知事の都政の実績には、余り記憶はないが兎も角、好きな資質の知事だった。
当時、京都、大阪、福岡の知事が革新系だった。我が故郷、京都府は7期28年蜷川虎三知事だった。

それに輪をかけて、私の大好きな太宰治の人名から謂れを持つと聞いたら、本を手に、財布を振り回しながら、キャッシャーの前に立っていた。
年のせいか、新しく出版された小説には関心がなくなってしまった。
そして読み進んでいく度に、この本の読後感想が必要だなと思いついた。
ネットでの吉田松陰と本の内容が余りにも酷似しているので、両方の文章を借り上げて仕上げた。

松陰は、長州藩の学者だった。
山鹿流の軍学は佐久間象山。松陰の師で、師が書いた詩の書面を象山本人から頂いた。
ところが驚いたことに、思想家でもあったし、精神主義的な教育者でもあった。
「私は攘夷論者です。この日本を神州と思っています。醜夷(しゅうい)から守らなければなりません」
一般的には明治維新の精神的指導者であり理論家であり、倒幕論者であった。

自首した松陰らは下田奉行所に連れて行かれた。黒川嘉兵衛という下田奉行所の役人は、このころ、徳川幕府の主流の中にいた人間だ。
江戸城では、「海防掛らの外交関係の役人は、肩で風を切って歩いている」「飛ぶ鳥を落とす人間の群れだ」とも言われた。
黒川は、ペリーの頼みもあることだし、余り重い罰は与えたくないと考えた。

アメリカ密航を企てたが認められず、下田奉行所に自首したが許されることなく、果ては山口市萩の「野山獄」に幽閉された。何故か、此の塾で松陰は教える立場にたった。
このアメリカ行きには、象山は積極的に賛成?否、それ以上に扇動した。
その後、松下村塾に移り自らも教壇に立った。

私塾「松下村塾」では、後の明治維新で重要な働きをした久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、その他数々の面々を教育した。
この松下村塾では、一方的に師匠が弟子に教えることではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わした。兵学から俳句づくりや絵画までも行った。

基本的な理念は、良いところを引き伸ばそう。悪いところは目をつぶることだった。
被差別者解放活動をやっているものもいた。ヤクザだっていた。思いも寄らぬ知恵者や知識家もいた。
藩下では、この塾での生活を「生きた学問」と言われた。

「こういう事件はなぜ起こったのだろうか。政治とのかかわりはないだろうか。解決するにはどうしたらいいだろうか」という問いかけをして、いろいろ議論する。
学問とは「兵科」と「文科」である。
兵科で教える兵学は、山鹿素行のいわゆる「山鹿流軍学」だった。
文科の教材は雑多で、松陰は、「この本でなければならない」などとは決して言わなかった。
松陰は松下村塾に入門した者を、決してかれらを門人として扱わず「学友」と告げていた。
松陰は塾のみんなとの関係を学友同志とし、ともに学ぼうと言った。

「相手は、一本一本の木だ。種類が違う。したがって、ひそめている可能性もちがう。
それを引きだし、こっちの可能性と乗算(かけ算)を行うことによって、お互いに資質を伸ばしていこう」という、「平等な立場を重んずる相乗効果方式」を期待した。
学ぶ者が100人いたとしたら、学んだ成果は100×100=10、000を理想とした。決して、100+100=200ではなかった。


松陰は、1830年に生まれた。
1853年、同郷の足軽の金子重之輔と長崎に寄港中のロシア軍艦のプチャーチンに会合を持ちたかったが、了承してもらえず諦めた。
1854年、ペリーが日米和親条約締結のために下田に来航した。
長崎行きと同様、金子重之輔と二人で、海外につないであった漁民の小舟を盗んで、ポーハタン号に乗船した。
幕府からも藩からも許可を得て行ったわけではない。
渡航は拒否され、小舟は流された。二人は下田奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に投獄された。そして、山口に移された。

松陰は、行動を共にした金子重之輔に対して、自分が金子君を煽動してこういう目に遭わせたのではないか?と責任を感じた。
だが、松陰たちの獄の近場に治められていた金子が亡くなった。違う牢に入れられていたのだ。
「野山獄」にいた松陰の仲間たちは、金子の死亡を悼み、金子を想う心を俳句にした。金子も金子、野山獄の連中の誰もが心優しい人間だった。
松陰はこのことに泣いた。

ところで今日は、この本の中で使われている言葉に驚いたことから、この言葉はどういう意味なんだろうと、疑いは進んだ。そしてこの稿の始まりになった。
この本は確か1550年前後のことで、本に出て来る書籍や人脈はさすがに難しいものが多く、吾輩の頭脳では理解できないものばかりだ。

下田奉行所の黒川嘉兵衛は、佐久間象山が松陰にアメリカ行きをそそのかしたのだろうと詮索した。松陰は、今度のアメリカ行きとはまったく関係ありませんと答えた。
「師をかばっているね」
黒川はにこりと笑った。その笑顔がなんともいえない。引きつけられる。
人間には、「風度(ふうど)」というのがあるそうだ。
「他人に、”この人なら”と思わせる」というその”なら”のことだそうだ。
魅力、人望、カリスマ性、あるいは愛敬、いろいろなものが含まれる。
いわば一種の「オーラ(気)」のことである。
黒川嘉兵衛はこの風度に満ち満ちていた。松陰はすでに黒川嘉兵衛の魅力のとりこになっていた。


風度とはーーーー
態度・容姿など、その人のようす。人品。風采。風格。
「温和の性情、藹吉 (あいきつ) の―を習い長ずること」〈中村訳・西国立志編

1857年10月に初代の駐日公使ハリスが江戸登城をはたし、今結んでいる和親条約を、通商条約に変えてもらいたいと申し出た。
翌年、井伊直弼が大老になり、1858年、日本とアメリカ合衆国との間で日米修好通商条約をかわした。
江戸幕府が日本を代表する政府とした条約だ。
日本側は14代将軍徳川家茂、アメリカ全権はタウンゼント・ハリス。
徳川幕府が列強諸国と結んだ通商条約は、関税・課税基準の設定・治外法権など、日本にとって不利な条件ばかりだった。つまり、幕府は外国と不平等条約を結ばされたのである。
それもこれも、外国状態にまったく疎(うと)く、金融や物価に対して幕府の役人が無知だったからだ。

幕府は尊攘派の浪士や公家たちを捕縛し、朝廷に圧力を加えた。さらに、老中に就任していた間部詮勝(まなべあきかつ)と大老直弼は、次の将軍は、紀州和歌山藩主徳川慶福(よしとみ)さまとすると発表した。
これは一橋慶喜を次の将軍とする暗黙裡の協定はご破算になった。

一橋派の残党はすべて弾圧し、それが幕府の役人であったら追放してやる。と心に決めた。これが後に”安政の大獄”になる。
これらの幕府の動きに松陰は憤激した。

「天下は天下の天下ではなく、ひとり(天皇)の天下である」と主張していたから、井伊直弼の行動はまさしく、「天皇に対する不忠の極み」だということであり、「幕府要人を襲撃する」ということであった。
この過激な文章を次々と江戸の高杉晋作や久坂玄瑞たちに送った。

松陰によれば「天下は天下の天下ではなく、ひとりの天下である」。ということで、その一人を「天皇」とすれば、征夷大将軍とその指揮下にある徳川幕府も「天皇の臣下」のひとりにすぎない。

1858年6月、松陰は「狂夫の言」を発表した。
「世人は、ぼくを暴、狂とみている。そこでそういうみかたに対し、ぼくは自らをあえて”狂夫”と名乗ろう。したがって狂夫の提言であるから、これを狂夫の言と名づける」
これは「長州藩の改革案」である。
・人心一致
・言論の疎通
・人材の登用
・学問奨励による人材の育成

松陰の幕府要人の暗殺の考えは、いっこうに衰えなかった。次々と檄を飛ばしては、門人たちに具体的に、「だれだれを要撃せよ」と命じた。
吉田松陰はいよいよ危険な存在になってきたと警戒した。

松下村塾で新しい松本村を建設しようとしていた吉田松陰の耳に、「水戸浪士と薩摩浪士が手を組んで、大老井伊直弼を暗殺しようとしている」という情報が飛び込んできた。
松陰の血が騒いだ。

「井伊大老の暗殺は、水戸浪士と薩摩浪士に任せよう。長州藩士は独自に暗殺計画を立てるべきだ」。老中の間部詮勝を暗殺しようと企てていた。
純粋行動を取る者が、どんどん追い詰められていく。
松陰は切実に危機感を覚えた。

大老井伊直弼は腹心の長野主膳という学者を京都に送り込んだ。
長野は「長州藩の学者吉田松陰は悪謀の元凶です」と井伊直弼に報告した。
「吉田を厳しく取り調べろ」と命じた。井伊の頭の中では、「そんな不届き者は、必ず死刑にしてやる」と考えていた。

伝馬町の牢にいた松陰を、言葉通りなにくれとなく世話をしたのは高杉晋作である。
そこで、評定所のメンバーを前に、「実は私は、かって老中の間部詮勝さまを暗殺しようとしておりました」と述べた。

安政6年(1859年)10月27日の朝、吉田松陰は評定所へ呼び出され、覚悟していた通り、死罪が宣告された。
「慎んでお受けいたします」と静かに頭を下げた。
そして評定所のくぐり戸を出るときあたりから、朗々と詩を吟じはじめたという。
その声を聞いた人びとは「じつに落ち着いていて、われわれの胸に響いた」と述懐した。

吉田松陰は従容(しょうよう)として死んでいった。
(従容とは、ゆったりと落ち着いているさま。危急の場合にも、慌てて騒いだり焦ったりしないさま)

今の今、20180215。
この世にこの日本で、吉田松陰のような人がいてくれるのだろうか。私のような人間にこそ、このような先生が必要だったのではないか!そうしたら、私の人生にとって大層有難かったことだろう。
私だって、未だ未だ人生は続くのだから、私自身琢磨するしかない。貴重な本だった。