2018年2月24日土曜日

友人との愛別離苦!


2018年(平成30年)、今は2月。
私は昭和23年9月の生まれなので、この夏で70歳になる。余命と言うか余齢と言えばいいのか? 私の人生のこの末?どういうことになるか、果たして後何年生きられるのだろう。
今回は、別れの編になる。

・肝腎の人と言うのは、大学に入ってから知り合いになった人だ。同じ大学の水球部。
この彼が熊本へ帰ると言うものだから、私には一番にやることがあった。
サッカー部の彼奴(あいつ)にも相談しなくちゃ、如何わい。

決して、厭らしくなく、気持ち悪くなく、陰険でもなく、私よりも100倍も1、000倍もアナリストとしては優秀な奴だ。
私が箸にも棒にも引っかからないサッカー部員だったのに、彼は入学・入部したころには全日本代表に選ばれていた。当時日本の水球がどの程度のレベルだったのか定かではないが、それほどトップクラスではなかった。
代表の一員としてヨーロッパ遠征にも行った。我らサッカー同志には、思いも寄らないことだった。
そんな優秀な奴、人柄は柔和で、私にはいい友人の一人だった。
ある日ある時、そんな彼の練習を見ておきたいとプールに行った。
3年生のころ、主将だった彼はプールの上で笛をガンガン鳴らしては、部員に厳しい発破をかけていた。
そして、彼はどんなプレーをするのか、それを鵜の目(め)鷹の目(め)で待っていたが、何もしないうちに練習は終わった。
そんな日が多かったので、お前、何で、お前自身が水に入って練習をしないんだ? と聞き質した。
そんな時、彼の顔は何も変わらず、私の質問を気にしなかった。彼自身の思いがあったのだろう。
今から思い出してみると、どうも、彼自身も腰痛で苦しんでいたようだ。

それから、ほぼ50年は経った。同じ学部だったのに、勉強の話は一刻もしなかった。酒を飲み、下らない話にどれだけ時間を使ったことだろう。鯨飲鯨食、これしかなかった。
彼は熊本の出身で立派な高校を出ている。学業成績だけならば熊本高校を目指したが、彼にはそんなことよりも、水球で身を馳せたかった。
当時、水球を高校でやっているのは少なかった。我が故郷の京都では京都府立鴨沂(おうき)高校ぐらいだった。

学校を卒業した後、八百屋の手伝いや、世間相場の価額ではなく、何らかの理由あっての破格の値段で大量に仕入れては、そういう類の販売店に売り歩く仕事をしていた。私には分かり辛くて様子だけは見ていた。
それからは大学の同期の競泳部が社長をやっているスイミングクラブに入社した。子供たちを対象にしていたので、さぞかし面白いだろうなと思っていたが、彼からはそれほどの反響はなかった。
その仕事を25年ほど行って、ちょっと前から夜中の代替わり運転手をやっていた。
5,6年前から素浪人だった。
ちょっとした事件を彼が犯したときも、私は誰よりも気遣った。そんなことぐらいで、何故そんなにガタガタもめるの、と抗議したかった。落ち着いてきて、皆で鍋会を遣ったときの面白さは、彼には悪いけれど、私には面白かった。
事態を深刻に受け止めた彼の母が、熊本からやってきた。母は、彼のことを東京ルンペンだと言った。彼の人の好さをう~んと表現して、母を気遣った。
そのようにして、彼が上手く行こうが、上手く行かなくても、我々は仲間だった。
そんな彼とは、横浜と熊本で暮らすことになった。愛別離苦ってヤツ。

・この彼と私の間には、もう一人サッカー上手な男がいた。大阪生野区出身だ。
彼は長男として弟や妹たちの面倒をよく観(み)ていた。
彼の生家にも遊びに行って、彼の父にも母にも、これからの学生生活を頑張るように叱咤された。
彼は1年生でレギュラーになった。彼との付き合いは凄まじいものだった。1年の秋、ヤンマーディーゼルとの試合で、ハーフラインから一人ドリブルで駆け込み、絶妙のシュートを決めた。相手チームには、スーパースター釜本さんがいた。
その時、この男は只者じゃない、と思った。
彼はフォワードのトップ、俺はグチャグチャのバック専門男。
それでも、彼を殺さないと、、、、。
殺すと言ったって息の根を止めることではなく、彼の技術を押さえること、いいプレーをさせないことが、私の生きる選手としての唯一の生甲斐だった。だから、私にとっては無茶苦茶、激しい攻防になった。
でも、グラウンドを去った後は、これが不思議なほど仲が良かった。
俺のようなひっちゃかめっちゃかをよくそこまで付き合ってくれたものだと、感謝している。
深夜、彼が私の下宿にやってきて、ヤマオカ、一杯呑みに行くぞと誘ってくれた。
俺、金ないけど、ええか?の質問に、かまへん、俺、いっぱい持っているさかいにだった。
多分、親からの送金があった日の夜のことだったと思われる。こんなことが幾回もあった。私が貧亡の身であることをよく知っていた。
私への仕送は、私名義の金を私が決めるので、そんなに多くを求めなかった。
当然、財布の中はすっからかんが普通だ。皆で酒を飲むときも、私にはお金がないからねと、宴会の始まる前に宣言しておいた。
一番、私が彼のことを気に入ったのは、原理原則を厳守、贔屓目(ひいきめ)ではなく、理想的な意見を述べることだった。
ところがどっこい、教授の機嫌だとか有力な先輩の心を気遣う奴が多いことに気付かなかった。

私は、何もできない木偶(でく)の某(ぼう)だった。この男は、1年間学校を多い目に居たが、卒業後は出身高校の先生になった。
その後は、不思議なことに私と同じ仕事をすることになった。嫁さんのお兄さんに誘われたようだ。

水球部の彼が、熊本へ帰ると言いだした。自分のことは自分で決めればいい。そんなことに口幅ったく、言いたくない。
その彼とサッカー部の二人が、3月の8日に会ってがっつり飲んで一時的なお別れ会をやることになっている。
翌日、羽田空港から熊本へ帰る。大阪のサッカー部の友人もそのまま大阪へ帰る。
もうそれほど飲めなくなったので、今後の熊本での生活がどのようになるのか、そんなことでも話そう。


・話しは変わるが、私が西武鉄道の親会社を辞めてからお世話になった会社の社長さんが昨年、年末に亡くなった。
親の財産を食い物にしたように見えて、私は、30年ほど前、仕事仲間を前に大抗議をした。
嫌なことをしてしまったと悔やんでいる。人に対して絶対遣ってはいけないことを、彼はやってしまった。他の人は多らかに見守っていた。こんなことぐらいなら、会って、謝っておけばよかったのに、と思う。
彼は上智大学で新聞関係の学習をしていた。
反帝学評の闘士で、お会いした時はその勢いがまだまだ廃っていなかった。
私にも、そのかけらが残っていたのだろう、この男なら、どこまでも付き合えると感じた。その類の話をした時の二人は、それはそれは恋人のようだったと思う。
が、時間の経過と共に、何もかもが変わってくる。
彼は、私より1歳上で70歳だったと思う。その後、先月偲ぶ会を開催したが、私には、どうしても出席する気にはなれなかった。
その会の主要な人が、ヤマオカは避けろと指示をしたのかもしれない。
彼は子供のころから、余り好い体ではなかったのかしら。資金的に苦労することもなく不動産業を興し、それなりに成功したのではないかと思っていた。
学生時代に同じ学校の女学生をお嫁さんにして、2人の子どもを成長させた。この奥さんと私は仲が良く、よく話をしてくれた。
それから、何年後かに離婚して会社の社員を第二の奥さんにした。
こういうことを平気でやる男、私の嫌いなところだった。

・もう一人、昭和49年、西武鉄道の親会社の同期入社の人間だ。
今だから許してもらえると思えるから書く。
政治思想、著作物の数々、環境問題、好きな作家について、何故か気が合った。
仕事が違ったので、最近は詰めて時事問題等について話すことは少なくなっていた、これも口惜しい。
新入社員になって、1回目の事業所での見習い仕事は、池袋のスケートセンターで一緒だった。
学生時代に、ヘルメットを被って棒を持っていたかどうかは解らないが、私に話すことは、多少厳しい内容だった。政治思想については極めて同志だったが、父上が、高級公務員だったので、多少は気を遣っていたのかしれない。
彼のような人の入社には、誰か偉い人の紹介があった筈だ。
ならば、人事部に怒られるようなことのないように過ごすことになっている。
結婚する前までは、よくよく激しい話をして盛り上がった。でも、職場が違ったので、どこまでもどこまでも、くっ付いて話せなかったのが悔やまれる。

山へも行った。秩父連山のことをよく憶えている。僕は付き合い中の彼女と一緒だった。
その彼が、昨年11月、駅から自宅までのタクシーでの帰途、体の異変が急だった。運転手さえ気づいていなかった。
その内容は聞いてないので、真実は解っていない。
だが、2月の28日に彼女が彼の墓参りをすることになっていた。その時に、私も同行することになった。宇都宮駅の新幹線の出入り口に13:00集合。墓は、宇都宮からタクシーで行く。森の宮公園墓地だそうだ。
最初電話した時、私の友人たちから、奥さんは旦那の急変死に頭を苛められているので、お前が電話しようが、気をつけて話さないとアカンよ。
その通りに話しかけたが、彼女の応対は親切で、むしろ横浜のヤマオカに会うのが楽しみなんです、と言ってくれた。
急死されたときの状態は大変だったろう。俺の友人たちがどの程度の配慮を示したか解らないが、気が利いていなかったこともある。
奥さんは余りの急変に随分、気が滅入られたのだろう。

が、彼から私のことはよく聞かされていたので、あなたには会ってはいないが、以前からずうっと知っているような気がします、と言ってくれた。
こんなことになる前に、奥さんに会いたかった。私の女房も交えて、さぞかし楽しい散会が持てたのに。
言葉使いや、声音は全く澄んだものだった。美しく聞こえた。
彼が我が社の仕事をしてくれたことに感謝、感謝して、体の気遣いができなかったことのお詫び。




このように私の周りから遠ざかる人、あの世に出掛けた人。こようにして、みんな居なくなるのかな。郷里での後輩が3年前に逝っていた、これも口惜しくてしょうがないことだ。枡のことだ。
冬の最中にかかわらず、私の大事な畑に昨年11月、京野菜のミズナを植えた。寒気にぶるったのか、芽の出来ばえは弱弱しく、小さな芽はいつまでも大きくならない。
このミズナは全く俺みたいじゃないか、と笑ってしまった。
のんびり育つのを待って、のんびり食べさせてもらおう。