2018年3月6日火曜日

カエルを見た!

「啓蟄」の画像検索結果

自宅から会社までの徒歩中、丁度神奈川県立広陵高等学校の正門前の道路上に、大型のカエルの死骸を見つけた。

会社に着くまでの約1時間、春夏秋冬、目につく物、悲しいことだけではなく楽しいこともいっぱいある。啼(な)けることだって、ある。
今は梅の花の時期だ。
ここにきて、私の心身共の健康が蘇ってきたのだろう。小さな花だけれど、その多さだけで、私の心は嬉しくなって足音が軽くなる。頭だってスッキリ爽やか。心なしか声音も澄明になってきた。

冬眠から覚めて、何処かに散歩にでも出かけたのだろう。

長い激寒での冬眠、頭の隅々までが、人間様の無情を忘れてしまったのだろうか。
死骸になったカエルに、悪意はなかった筈だ。
久しぶりの人の世、散歩の往きか還りの道すがら、容赦ない車にでも曳かれたのだろう。

私だって、このカエルほどじゃないけれど、永い冬眠生活だった。

高い木の枝から落下、後頭部を強く撃って、リハビリを含めてほぼ1年間の入院生活。
体の痛さよりも、脳作用の調整乱発・狂乱に気が狂わんばかりに悩んだ。
そんな私だからか、春めいてくることが、堪らなく嬉しい。
この嬉しさは、足の裏から頭のてっぺんまでまで感じた。血の1滴1滴まで、筋肉の裏表の隅々まで、輝くのだ。

今日のことは、カエルと言えども、哀しい物語だ。
腹が破れ、臓腑が乱れたように体にくっついていた。よく見かけた光景と言えども、命が果てた様子は、どうしても哀しくなってくる。
「大きい蛙」の画像検索結果
ウシガエル

そう言えば、啓蟄の頃、よくこのような光景を目にしたものだ。

今回、私が見かけたのは「ウシガエル」だった。アメリカ東部で産まれたカエル。大正時代に日本に輸入された。食用であったため、「食用ガエル」と呼ばれている。

啓蟄をネットで調べた。

啓蟄(けいちつ)は、二十四節気の第3。二月節(旧暦1月後半から2月前半)。「啓」は「 開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意で、「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意を示す。春の季語でもある。 現在広まっている定気法では太陽黄経が345度のときで3月6日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から約76日後で3月8日ごろ。 期間としての意味もあり、 この日から、次の節気の春分前日までである。

今日は3月6日だ。前記の3月8日ではない。カエルだって極めた個性動物で、そう簡単に、人間様が考えたようにはいかないものだ。カエルだって、カエルの考えがある。

「蛙の子は蛙」=(大辞林第三版)

子供はたいてい親に似るものだ。また凡人の子はやはり凡人になる、の意とも。

ところで、私が二日に一度は顔を出す今井町の畑「イーハトーブ」を思い出した。

今年だって、蕗(ふき)の薹(とう)を3度収穫した。
この蕗の薹の天ぷらが格別に旨い。

その蕗が密集して花を咲かせるコーナーに、毎年、蛇(へび)が出る。ニシキヘビだと思われる。

畑と道路との境は急な斜面になっていて、必ず、その斜面を乗り越えてどこかへ行く。
そのどこかを見届けてはいない。
帰ってくるのを見届けた訳ではないので、真実は分からないままだが、毎年、同じ蛇なのかそれも分かってはいないが、見かけることは、私のことだから間違いはない。
どんな動物にも愛着は感じるのだが、万に一つ、蛇だけは苦手なのです。
イモリもヤモリもへっちゃら、ゴキブリだってお友達だ。

啓蟄と聞いて、今年もきっと私の畑に、カエルや蛇の姿がきっと見せるのだろう、と思いをはせた。

今朝見かけたカエルと我が畑・イーハトーブの蛇にとっても大事な季節がやってきたのだろう。
この啓蟄をどれだけ多くの動物たちが、首を長くして待っていたことだろう。

そっと我が胸を見る。
私にもここらで、啓蟄の季節がやって来たのではないか、と。