2016年2月23日火曜日

学生時代のスポーツを想う





私の学生時代の友は、と言えば、講義室内で和をつちかった友なんて一人もいない。
学力に力がなかったもので、挙げ句は2浪、20才で入学24歳で卒業。先ず、ここからが拙かった。

まるぜ、法螺吹きのように、誰のことにも気にせずに付き合えたのは、大学の体育局に所属していた者だけだった。
つまり、運動部仲間だ。ミスタースポーツ? ミスター早稲田を目指していた。

だからと言って、大人数ではない。
腹心を大いに探り合った仲でも、人間関係には小さな角があり、屁理屈がある。

私の所属していたのはサッカー部。私の学校ではア式蹴球部と言った。

かって、部ごとに寮があって、私は4年間のうち2年間は寮にお世話になった。
寮は競技場の周りにあって、30~50人ほどの寝泊りが可能だった。

お世話になった、と言うのは、廉い料金で寝泊りさせてくれたことだ。
こんなーーーー特権?見たことない。
私が利用した期間は、私自身=飯なし(メ・シ・ナ・シ)の極貧真っ最中だった。

練習の内容や厳しさについては、ここで、口角泡を吹かすこともない。
幾ら無理しても、口舌の徒にはなれない。
が落ち着いて体の心身を休めるときに、他部の人たちと繰り出す時間が、何とも言えない幸せモノなのだった。

サッカー部の前には競走部とスキー部、右隣はホッケー部、裏は水泳部。ずう~と前には馬術部。ずう~と左にはラグビー部。

私の血と汗がはみだし切れない競技場の周りには、競泳と水球と飛び込み併用のプール、サッカーグラウンド、ラグビーグラウンド、ハンドボールのコート、軟式球場、ホッケーグラウンド、競走用グラウンドがあった。

西武新宿線の東伏見駅の駅頭には、これらの施設が、はち切れんばかりに溢れていた。
体育の授業としても使われるグリーンハウスもあった。
私はここに登場するみんなから、エネルギーの全てをいただいていた。

私は琵琶湖の北側の貧しくも悲しい農家で育った。
不思議なことに、どいつにも勝ち誇れるだけの体力はなく、能力も知恵もなかった。
体だけは健康な、貧乏人にすぎなかった。
でも、心はこの大学の選手に選ばれて、日本一になることだった。
これが、私の夢。
お前、余り偉そうに考えるな! よく考えて、がっちり頑張ってみようよ。

入学当時は、みんなが飽きれる程、優秀な奴ばかりだった。
ところが、私は、特別早く走ること、きちんと言われたところへ蹴ることもできなかった。
チームのゲームを乱さないように働けなかった。

体力がなく、相手を牛耳ることができない。

田舎から、夢を持ってやってきたんだ、ゾ。
一人で挫(くじ)けて泣くことも、父や母のもとに、ションボリ帰ることもできない。


チームをなして、相手チームと戦うってことは、それなりの理由、方法、遣り方があった。
それを人並に、もっと優秀にできなければ、君はこのチームに居られないってことだよ、としつこく言われた。

そこで、脳足りんの私にだって、私なりの考えが浮かんだ。

★技術的に弱い私にできることは、誰よりも早く行動を開始することだ。守ることだって、攻撃に参加することだって、同じだ。

★ボールを蹴ることだって、誰よりも多く蹴ること、多彩なボールを無難に蹴ること。ボールを蹴るといっても、飛球の高低、スピードが速いのか遅いのか、それごとに対処しなければならない。

★チャージを相手の気分なんて気にしないで、余計にやらせてもらう。自陣の体型を緩めない。相手の負陣を攻め続ける。

★ボールの走るコースに入ること、これこそが一番大事に思った。入れなくても、素早くその位置を確かめる、これで相手の攻勢を弱める。

★自陣の気分を高めるような言動を重んじる。発生する言葉にも、テンポの良さと悪さ。言葉にも、質が必要なのだ。相手を喜ばすようなことは避ける。

★手にとったボールを攻勢の一番矢にする。相手が未だ守勢に入る前こそ、チャンスなのだ。攻勢の大事なことだ。

★相手がボールを持ち込んできた来た時には、相手を死に者狂いで叩きのめす。手足、体のどこも利用した。使えるものは、全て武器だ。

前記のようなことを真面目に行動するためには、定休日の月曜日は自分だけの練習日と決めて、時間を全て練習に割いた。やることと言えば、4時間も6時間もグラウンドから離れて走ること。走っている最中にも、極端に早く走ることもいれていた。ノロノロ走ることもあった。東伏見から、井之頭公園、善福寺公園までなんて、アットいう間だった。

毎日の練習にしても、13時から16時まで、凝り固まったものだった。
選手は全て優秀。高校時代、どこの都道府県でも代表になれる輩だった。

午前中はサッカーの授業の助手をした。
講師がサッカー部のコーチだったので、アルバイト代として私1人で2人分がいただけだ。
学生に交じって自分も一緒に練習をした。
この先生は雨の日など、必ず休むので、私がルール等の勉強を教えた。

そして昼飯を食ってから、正規のクラブの練習だ。
これが、糞苦しい!! いいじゃないか、これこそが大学のクラブの練習なのだ。
この昼飯は、夕方にアルバイトをしていた中華料理店で、只で御馳走になった。
この店にとって、私は重宝な男だった。

そしてこの正規の練習が終わったころに、付属高校のサッカー部の練習が始まる。
これこそが、私にとって、楽しい練習になった。
割と、有意義に楽しませてくれるからだ。




こんな私だったけれど、昭和48年度の全日本大学サッカー選手権と関東大学サッカー選手権には優勝することができた。
連戦の度に、怪我人がでる。
10試合で1試合ぐらい、試合に出してもらった。
このことを父母に電話で話したけれど、良かったとも、それでどうしたの、と反響が何もなかったことに、私の在るべき姿を観た気がした。
親は親、子供は子供、お互いにやれるだけやるしかない、人生で最初の天啓を得た。


それでも、成長できたことを、我なりに誇りに思っている。











2016年2月18日木曜日

俺は、やっぱり高次脳機能障害!!

俺は、やっぱり高次脳機能障害


 昨今。私の体は、特に夕方になると極めて弱ってくる。朝の元気が嘘のように変節してしまう。体の一部に変調がきたし、その痛みに嫌になる。このことをどうしても、社内の人には解ってもらいたいと思う。
毎週水曜日が定休日なので、その日の前日か後日、心身共に非常に苦しい。精神的には、何事にも気になりだす割には、行動する意識が薄くなってくる。鬱病の痛みか?偏頭痛?アルツハイマー? 単純な老化? 幾ら頭を捻っても解らない痛み。言いたくはないが、心身がグチャグチャの状態だ。
だからと言って、会社のスタッフにも家族にも、赤裸々な私(尻丸出し)、恥かしいものを見せびらかして、ゾーゾーと生きることは、ソ~リャ、できない。

脳はブチブチに千切れ、認知することに大いなる打撲を受け、新聞の大きな記事でさえ読めなくなった。題字を読解するのが精一杯だった。----でも、そんなことに負けない私だって、小さな文字短い文章でも、時間はかかるが、読み切れるようにノロノロ復活してきた。

明日、20160217 三成会新百合が丘総合病院に定期検査に行く。事故発生後3年間は、この病院の担任医師が管理してくれる。高所からの落下事故は2年前の5月。ホンの少しの動きでも、筋肉や骨は痛みを感じ、併せて精神的な痛みを話し、これから、少しでも良くなるような対策、方法、施術を教えてもらおうと思う。遣り方次第では、少しでもよくなるのだろう?
 治らないならば、それはそれで、何とか嫌な思いを少なくすることーーー 私には、この定期検査が異常に意味があるのだ。

脳波の検査に1時間かかった。髪や額に電線を20~30本程装着された。これで何を計るのですか?と聞いてみたら、返ってきたのは、脳から出る電波の状態を観るのです。接着する部分には効果を高めるものを付着させた。如何な電波なのか?、悪いのか良いのか?ということです。光も当てられた。何の調査か?目を開きなさい、閉じなさいと言われた。深呼吸を、本部から言われるままに、息を吸ったり吐いたりした。
この調査した資料は、その場で診療室の医師の元に届けられた。

そして、診査後の医者の話はこうだった。
ヤマオカさんの脳は、良くも悪くもなっていない!! 貴方の気の遣いが、きっと、イカンのだよ。頭は夕方になると気分が悪くなってくるし、体のアッチこっちが痛くなってくるなんて、これも気の持ちようだよ、と医師は気楽に言ってのける。悔しいけれど、そういうことなのかもしれんなあ、と思い込むことにした。

先生、時間が経って、私にも老化の序でに何かの病気になった時に、誰よりも体が悪化することだってあるでしょうね? そりゃ、ありますよ、その時には、ヤマオカさんも頑張らなくちゃいけないし、我々医師も頑張りますよ。
でも、事故後3年間は、この病院で貴方の体の状態を診察させてもらいます。

これで、昨日の診療は終わり。
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以下の文章は、ネットで得た高次脳機能障害の説明だ。

人が人間らしさを発揮できる所以が高次脳機能です。人の脳には、下等な動物にもある呼吸など生命維持に必要な部分や運動や感覚に必要な部分に加えて、物を覚えるとか判断するという高度の機能と関係した新しい部分があります。これら、人にしか存在しない部位が障害されると高次脳機能障害が起こります。
 高次脳機能の中心は認知機能です認知症では認知機能などの高次脳機能が障害されます。なかでも記憶障害(物忘れ)がいちばん目立ちますが、それ以外にもさまざまの高次脳機能が障害されます。記憶障害以外の高次脳機能障害として認知症の人でみられる症状を次に示します。
(1)発声、聴覚は正常なのに、言葉が出てこない、理解できない。(2)手足は動くのに、適切な行動(挨拶・手招きなど)ができない。(3)感覚的には感知できるが、それが何であるか判断できない。(4)ことわざの意味の説明や言葉の概念が言い表せない。
 それ以外にも、判断力、問題解決、社会適応などの重要な高次脳機能もあります。ただ、記憶障害がなく失語のみを示す人もあります。したがって、高次脳機能障害のほうが、認知症よりも多くの病的な精神状態を含んでいるといえます

2016年2月8日月曜日

収容所の絵 数奇な旅路

収容所の絵 数奇な旅路


20160107 朝日新聞(夕刊)に掲載されていた記事を後日のために、ここに転載させてもらった。

この記事のなかの絵に、驚天動地、なによりも驚かされた。

今時、このような材料をこのような筆致で描かれたものをみたことがない。

それよりも何よりも、一人一人の画家の筆使いが厳しく激しいのだ。

全体の画風。愉快で楽しい我が家に、突然、裸の爆弾が放り込まれた気がした。

こんなものを観た者は、この記事を捨ててしまいそうだ。

私には、先天的な要素を持って生まれたように思う。

アウシュビッツを描いた19点
日本人に託され20年保管、「帰国」へ

それでは、本番に入ります。


第二次世界大戦中、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所に収容され、奇跡的に生き残った画家の絵が、20年前に日本人に託され、保管されてきた。

「いつかはポーランドにかえしたい」。

そんな思いから、ポーランド側への寄贈に向けた準備が進んでいる。


人体実験用に生かされたとみられる子どもたち。


ほとんど具が入っていないスープを受け取るために並ぶ人。

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以下は、新聞から得た文章をそのまま、使わせていただいた。


ポーランドの画家、ミェチスワフ・コンチェルニャック氏(1912~93)が戦後、アウシュビッツの実情を伝えるために描き残した絵だ。
日本で布教をしたコルベ神父が餓死室で息絶えていく様子を描いたものもある。

コンチェルニャック氏は反ナチス運動に参加して逮捕され、41年、アウシュビッツに送られた。

絵の才能を認められ、収容所内の工房で啓発用のポスター作製などを手がける一方、ドイツ兵に頼まれて、肖像画を描くこともあった。

コンサート風景の中に収容所の顔を描き、外部にその人が健在であることを知らせた絵もある。収容中から戦後にかけて描いた絵は、約500枚残されているという。

作家の野村路子さん(78)=埼玉県川越市=は、95年に出版したアウシュビッツの写真集の編集を任された。その仕事進める中で、こんな思いを強める。
「被害者側が撮った写真だけでなく、被害者側の観点も必要なのではないか」

探してみると、収容者たちが描いた絵が残っていることを知った。

その一人がコンチェルニャック氏。
手紙を出すと、写真集への収録は快諾してくれた。
しかし、会う機会がないまま亡くなった。

出版から1年後、妻から相談が舞い込んだ。

「国が混乱し、生活もままならない。絵を日本で保管して欲しい」。
当時、ポーランドは共産主義から資本主義に変わり、急激な物価上昇などが続いた時期。
野村さんは19点を買い取り、日本で画集の出版や展覧会などを続けてきた。

だが、美術品用の倉庫の費用がかさみ、自身も高齢になったことから、「いつかはポーランドへ」との思いを形にすることに。

ポーランド大使館と話し合い、寄贈することが決まった。
野村さんは「本来あるべき場所で、多くの人に見てほしい」と思いを託す。

絵は契約が整い次第、ポーランドに送られ、現地で展示される予定。

ツィリル・コザチェフスキ駐日大使は「アウシュビッツの被害者が描いた絵は、人の心をとらえる力があり、とても貴重。

日本人の手で保管されてきたことにとても驚き、感銘を受けた。
歴史を伝えるものとして、多くの人に見てほしい」と話す。

《仲村和代》














2016年2月6日土曜日

映画 『杉原千畝 スギハラチウネ』

昨日20160203、JR大森駅前のキネカ大森で、映画「杉原千畝 スギハラチウネ」13:00~を観てきた。

2月3日は水曜日、弊社の定休日だ。

私の良き時代には、付き合ってくれる友人や知人が多くいた。 映画、演劇の鑑賞・観劇に同行してくれるパートナーは多情なのだ。 
ところが、今回は独りぼっちだった。私の工事現場での事故のせいか? 
他人は私に呼びつかない。

映画館は、私に馴染みの深いテアトル系。以前にはこの会社の貧弱な株主だったので、優待券をもらっていた。

事故のせいだけではなく、この杉原千畝という人の行動を、業務上知っていたから、私の頭はどうも可笑しく?変脳してしまったようだ。 
環境が戦争という大きなパズルに嵌まって、常識を常識らしく考えられなくなってしまった。

ブラウン管に映る雪氷に覆われた野原、そこに、宝のように映えた花は何だったのだろうか? 当時、私には解からなかった。
真っ白な上の燻(いぶ)し銀の花こそ、私には杉原地畝さんに思えた。
彼のことが、私の脳髄に刻印されていたのだ。

深夜、布団の中で、頭に浮かぶのは彼の非常識なまでの高潔性と強靭性だ。
彼の心性に頭がひっくり返った。

私は考えたーーーー。お前だったら? お前がこんな状況に追いやられたら?どうする? この俺は、どんな行動をとることができるんだ? 身も心も引き締められ、体中に苦虫を噛み崩した。

この山岡は、そんな貧相な男なのだ!!

私は自らの弱さを隠そう、としているのだろうか。
学生時代からちょっとした左翼だった。ばりばりのお金持ちを嫌った。
只管(ひたすら)に、体を使って働く人を好んだ。そんな私の気性を、この御仁はもっと激しく狂わそうとした。



杉原千畝さんについての基礎的な情報は、身につけていた。
20年前か? その前だったか?彼の住宅を弊社のグループで買わせていただいた。
彼の身内のことは、極めて個人的な諸事情が多くて、安易に話すことは避けたい。

彼の死後、売主としての契約当事者は奥さんと息子さんだった。
二人の住まいとしては、これほどまで大きな住宅は必要ないと判断されたようだ。

家屋の中に残された書類等を観ると、他ならぬこの人には、私たちに無いモノを持たれている!! というのが、痛い程解った。



★以下の文章は、ネットからいただいたものだ。

第二次世界大戦中のリトアニアで、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人に対して、日本政府の命令に背いて日本通貨ビザを発給し、約6千人もの命を救ったとされる外交官。自らの工場で働くユダヤ人を救ったこととして知られるドイツ人実業家、オスカー・シンドラーになぞらえて、「日本のシンドラー」とも呼ばれている。

「命のビザ」のエピソードが知られるようになったのは、69年にイスラエル政府が杉原に勲章を授けてからだ。85年1月にイスラエル政府から「諸国民の正義の人」として表彰され、91年には、リトアニアの首都にある通りの一つに「スギハラ通り」と名前が付けられた。
ポスター画像



杉原千畝 スギハラチウネ

杉原千畝 スギハラチウネ
監督チェリン・グラック
脚本鎌田哲郎
松尾浩道
出演者唐沢寿明
小雪
音楽佐藤直紀
撮影Garry Waller
編集Jim Munro
製作会社日本テレビ放送網
配給東宝
公開日本の旗 2015年12月5日
上映時間139分
製作国日本の旗 日本
言語日本語英語
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杉原千畝 スギハラチウネ』は、2015年制作の日本映画第二次世界大戦中、ナチスによる迫害から逃れるユダヤ人のために独断で日本通過のヴィザを発行して、6,000人あまりのユダヤ人を救った外交官・杉原千畝の生涯を描いた作品。ポーランドで9月13日から11月上旬まで約2か月にわたりロケが行なわれた。
本作では杉原が外交官としてだけでなく、堪能な語学力を使い、赴任した各国で類まれな情報収集能力を発揮し、貴重な情報を集めて日本に送り続けた「インテリジェンス・オフィサー(諜報外交官)」であった一面も合わせて描いている[1]

杉原の発行したヴィザ
昭和30年(1955年)、日本の外務省を訪れたユダヤ人ニシェリは、自分の命を救ってくれた「センポ・スギハラ」という外交官との面会を求めるが、応対した関満一朗から「センポ・スギハラという外交官は存在しない」と返答されてしまう。ニシェリは「必ず探し出す」と言い残し外務省を後にする。
昭和9年(1934年)、満洲国外交部の一員として働く杉原千畝は、白系ロシア人のイリーナとマラットと共に、ソ連との北満鉄道譲渡交渉を有利に進めるための諜報活動を行っていた。杉原はソ連軍が新型列車を盗み出そうとした証拠を掴むが、手を組んでいた関東軍の南川欽吾の暴走によってマラットとソ連兵が殺害されてしまう。穏便な解決策を無下にされた杉原は、満洲国を私物化する関東軍に嫌気が差したため満洲国外交部に辞表を提出し、日本に帰国する。帰国後、杉原はモスクワの日本大使館への赴任を命じられる。念願の任地への赴任を喜ぶ杉原だったが、ソ連から北満鉄道の一件を理由にペルソナ・ノン・グラータを発動され、入国を拒否されてしまう。落胆した杉原は友人の菊池静男とヤケ酒を飲み菊池の家に泊まるが、そこで菊池の妹・幸子と出会い恋に落ちる。
昭和14年(1939年)、杉原は新設されたリトアニアカウナス領事館への赴任が決定し、ソ連の動きを探るように命じられる。杉原がカウナスに赴任した直後、ソ連はナチス・ドイツ独ソ不可侵条約と締結し、ドイツはポーランド侵攻を開始した。杉原は、接触してきたポーランド人スパイのペシュと手を組み諜報活動を開始する。杉原とペシュは収集した情報を分析し、独ソが東ヨーロッパを分割支配しようとしていることを突き止めるが、日本は明確な対策を取ろうとはしなかった。
昭和15年(1940年)、ソ連軍がバルト三国を占領する。ドイツからの迫害を逃れて来たニシェリたちユダヤ人は、ドイツと同盟を結ぶソ連から逃れるため国外脱出を図るが、各国領事館はソ連軍によって次々に閉鎖され、脱出に必要なヴィザを受け取ることが出来なくなってしまう。そんな中、オランダ領事代理のヤンはニシェリたちにヴィザを発行するが、ドイツが支配する西ヨーロッパへの脱出は不可能であり、ニシェリたちは極東経由での脱出を目指し日本領事館にヴィザの発行を求めるが、外務省からペシュら協力者以外へのヴィザ発行を禁止されていた杉原はニシェリたちを無視するしかなかった。しかし、ヤンの行動や日に日にヴィザ発行を求めるユダヤ人たちが増えていくのを見た杉原は心を動かされ、独断でユダヤ人たちへのヴィザ発行を決断する。杉原は領事館が閉鎖され国外退去するまでヴィザを発行し続け、ニシェリたち多くのユダヤ人がリトアニアから脱出した。
リトアニアを退去した杉原は、東プロイセンケーニヒスベルクに赴任する。杉原とペシュはドイツ軍が国境地帯に集結している事実を掴み、ドイツがソ連への侵攻を計画していることを察知し、駐ドイツ大使の大島浩に「日本がアメリカと戦争になってもドイツの支援は得られない」と忠告するが、ヒトラーに心酔する大島は杉原の忠告をまともに取り合おうとはしなかった。独ソ戦開始後、ドイツはソ連への侵攻計画を漏らした杉原の国外退去を要求したため、ルーマニアへの赴任を命じられる。杉原は大島に対し、「アメリカと戦争すれば日本は負ける」と警告しルーマニアに向かう。
昭和20年(1945年)、杉原はソ連軍の捕虜収容所の中で手紙を渡され、その際に日本の敗戦を知る。子供たちと共に側にいた幸子は、杉原の心情を慮り場を離れ、落ち着いたところで手紙がイリーナからの物だと知り中身を確認する。手紙には、「杉原が発行したヴィザによって多くのユダヤ人たちが救われ、多くの人々の人生を変えた」と書かれており、最後に「ありがとう」と結ばれていた。手紙を読み終えた杉原は涙を流す。
昭和47年(1972年)、外務省を退官し貿易会社に勤務していた杉原は、任地のモスクワでニシェリとの再会を果たす。杉原とニシェリは数十年振りの再会を喜び、モスクワの街を歩いていった。