2011年8月31日水曜日

海を眺めて、露天風呂に

先日、三浦市初声町下宮田に中古住宅の調査に出かけた。弊社の長さんが担当して商品化を検討している物件だ。

この日は、暑い日だった。

この三浦に着くまでに、会社を出て、横浜市の保土ヶ谷区、瀬谷区、旭区、川崎市の麻生区、宮前区にある中古住宅を見てきた。車の走行距離は、今日は100キロになるだろう。8物件を見てきたのだ。到着したのは午後の4時だった。

弊社の経営責任者の中さんから、京急電鉄の子会社が運営しているホテルの、日帰り風呂の利用券を貰っていたので、この風呂行きを突然思いついたのだ。

しめしめ、なかなかいい思いつきだワイ。

MX-3500FN_20110830_094524_001

確か、そのホテルがあるのは城ヶ島だから、車なら10分もあれば行ける。思いついただけで、胸がワクワクした。でも、ちょっと待てよ、私以外の社員は、今頃それぞれの場所で、それぞれの仕事に精励しているんだぞ。そのことを思うと、後ろめたくなって、急にワクワク感が萎(しぼ)んでいく。でも、一たび思いついた誘惑から逃れられない。

スタッフの皆さん、たった1時間だけの休憩をさせてくださいな。諸君、許せ、と腹を決めた。

国道134号線の突き当たりに、ホテルの駐車場があって、そこに車を停め、タオル1本と利用券をもって、ホテルに向かった。土産物屋さんが並んでいる所を歩いて、その3軒目を右に入ると、視界が急に開けて全面大海原だ、ホテルまでの細い道のすぐ側まで、波が打ち寄せてきた。満ち潮だ。間近に大きい波を見ると、胸がキュンとなって足が竦(すく)む。掬(すく)われる感じだ。3・11の東日本大震災の津波で味わった恐怖が、頭の中に生きているのだろう。

ホテルの館内外には、夏休みを楽しむ家族連れや夫婦連れが、パラパラと居るだけだった。帰る準備なのか、来たところなのか。そろそろ、夏休みも終わろうとしている、そんな雰囲気が感じられた

この風呂行きに、秘密の異性を連れ添っているとしたら、なんてインモラルな白昼夢は見ませんでした? いつまでも生臭い! 恥ずかしい限りだ。

このホテルは、三浦半島の最南端にある。晴れた日には、富士山が真正面に見えて、夕日が奇麗なんだろうな。生憎(あいにく)、今日は曇り空なのだ。このホテルには始めてきたが、私の子どもが小さい頃には、葉山にあったソニーの保養所をひと夏に何度も利用していたので、このホテルからの眺望は大体想像がつく。

受付を済まして、「男」と書かれた暖簾をくぐった。屋内用の風呂と露天風呂があって、露天風呂に1人、屋内の大浴場に1人の先客が居た。私は、迷わず露天風呂に入ったが、湯温がヌルイので、屋内の大浴場でゆっくり、時間をかけて、このひと時を楽しんだ。

湯船の横から湯が勢いよく噴射してくるところで、腰をひねりながら、水圧をあちこちに当てた。疲れた体に、心地よかった。目を瞑って、色んなことを考えた。今見てきた物件の一つ一つの個人的な所見を纏めて各担当者に、今後の仕事の進め方を詰めなければならない。

この1年間の会社の状態を振り返ってみた。大変だった。今後はどのように推移するのだろうが、必ず復活しなければならない、と思う。素晴らしい、スタッフに恵まれている。この俺は今後、何を、どうすれば? そしたら、どうなる?納得、なっとく、ナットクするまで頑張らないと、気がすまない。

心ゆくまで、時を忘れてゆっくり温(ぬく)もりをお楽しみください、と頂いたパンフレットには書いてあったが、今の私には、そこまでの余裕はない。

湯船の中に45分は居ただろう。いつまでも、サボっているわけにはいかない、スタッフのことが頭をかすめる、えいっと声をかけて、惜しみながら湯船を出た。そして、冷たい水でシャワーをしたが、熱(ほて)っていて、いつまで経っても体が冷めない。それでも、冷たい水をかけ続けた。体を洗ってないことに気付いたが、別にそんなに汚いわけではないから、まあ、ええか!

浴室を出て、扇風機の風を受けながら、体重計にのった。この半年間で6キロ痩せたことになる。体はすこぶる快調だし、食欲は衰えていない。ただ、以前程、食べる量が減っただけだから、心配はいらないと思う。

それにしても、有り難い1時間だった。

2011年8月28日日曜日

耄碌した弁護士ほど、怖いものはない!

年をとれば、記憶力が鈍り、新しい情報を入手するにも億劫になり、高度な判断が求められる際にも、的確な指示が出せなくなることが、一般的には多々(おうおう)にあることだ。憲法は兎も角、各種の法律、条令、省令、施行細則、税制に関するものから、商法、刑法、民法、我々の仕事には宅建業法が身近にあって、それらの仔細に至るまで、日々めまぐるしく改定されている。これらの法律に関わることを生業にしている人は、その理解に大変だ。

今回は、年老いて知的能力が弱り果て、特に判断能力が鈍った人間が、弁護士の資格を普通のように振る舞ったら、それに関わった人は、えらい目に遭うって話なのだ。

そりゃ、人によっては、100歳前後になっても、矍鑠(かくしゃく)として、団体の役員や会社の重要なポジションで働いている人がいることも、充分に承知はしている。

6年前に、老人ホームに入るために不用(要)になったご婦人の住宅を、弊社で買わせて貰う契約の締結をして、手付金をご婦人に渡した。この売主は、現金を持ち歩くのは不安なので、不動産屋さんの田さんに、銀行まで付き添ってもらって入金した。

弊社としては、売主は高齢だということで万全の注意を払った。また懇意にしている弁護士さんがいると仰るので、契約の前に、その弁護士に取引の内容を報告した。弁護士は、老人だけれど、判断はつく人なので、よろしく頼みますと返答してきた。契約締結後は全ての関係書類をファックスで弁護士事務所に送った。

それから、契約に決められたことが進まなくなってしまったのだ。売主であるご婦人が、契約を締結したことを恰(あたか)も忘れてしまったような言動をし出したのだ。

どうしたらいいのか、と担当弁護士事務所に再三再四、足を運んで、善後策を練りながら弁護士に説得してもらったが、虚しく、契約は完結しないまま、宙ぶらりん。その時に、弁護士は、売主の代理人になって、買主である弊社の権利を守ることも含めて多くの書類を作ってくれたが、結局、やっぱり宙ぶらりんの状態に入った。

この時、困っている弊社の事情は理解できるものの、手付金は少額なので、裁判をおこすこともないでしょう、と説得され、当面、当該物件に所有権移転請求の仮登記を設定しておいて様子を見ましょう、ということになった。この登記を設定する際にも、何故、この登記を設定するのか、その内容を書面にして残した。

そして、この物件のことは、弊社も売主も、弁護士も不動産屋も、暫く様子をみましょう、と本格的にお蔵入りした。当時、弊社は年間300件近く扱っていたので、この物件は保留物件として、関心が薄れていた。

そして、6年後の今日のことだ。

一番最初に話があった時から、何かとこの仕事に関わってくれた不動産屋の田さんに、今度は老人ホームに入るのが確実になったので、何とか、この住宅の売却の手助けをしてくれないか、と担当弁護士から打診があって、早速、田さんは私の所に連絡をくれたのです。

そして、それから、、、、、のことが、この稿で問題にしたい事柄なのだ。

この物件には、色々問題があったけれど、弊社には縁があったのでしょう、購入させて頂きますと返答した。なんせ、この物件には弊社の仮登記が設定されたままなのですから。

ところが、過去6年前に、売買契約が弊社にとっては違約されたままの状態だったので、買主である弊社の権利を保全するために、この弁護士が作成した覚書や、確認書のことを、私が説明しても、この弁護士は忘れてしまっていたのだ。

忘れてしまっていて、私が弊社の権利を主張すると、あんたが、そんなこと言うなら、それは裁判だ、と断定して、私の言うことに聞き耳を全然持とうとしないのだ。過去に作った書類さえ目を通そうとはしないばかりか、私を面罵した。

この仮登記の扱いについては、弊社のことを考えて設定した訳ではなく、仲介の労を取ってくれた田さんの為に設定したのであって、あなたの会社とは関係ありませんよ、と全くに白々しく、平気で言われたのだ。

私が、粘って、少し書類でもご確認してください、と丁重にお願いしても言下に、断られた。

こんな耄碌ジジイ弁護士に、どう対処したらいいのだ。

ここで、未だ現役でバリバリ働いている年老いた弁護士さんに、お願いがあります。どうか、ご自分の能力を、過信なさらないで頂きたいのです。個人差があることも認識しています。仕事好きで、仕事に熱心な人ほど、仕事を辞める気が起こらないのでしょうが、ここは、勇気を振り絞って、同僚や、関係者の人の意見を聞いてみてくださいな、そして、その対処にベストの道を選んで欲しい。

このことは、弁護士だけではなく、公認会計士、税理士、司法書士、その他タイトルをお持ちのあなた、よく、考えてください。

今夜は、菅内閣最後の夜だ

MX-3500FN_20110828_123950_001

(記者会見で退陣を表明する菅首相=田中秀敏撮影 読売)

菅直人首相(民主党代表)は、26日に記者会見で辞任を正式に発表した。

記者会見では、1年3ヶ月の政権運営について、「与えられた厳しい環境の下でやるべきことはやった。東日本大震災からの復旧・復興、原発事故の収束、社会保障・税の一体改革など、内閣の仕事は確実に前進している」と自画自賛した。

6月に退陣表明しながら、政権に3ヶ月間居座り、政治空白を生じさせた責任追及には、復興基本法の成立、原子力安全庁の設置決定などを挙げて、大変実り多い政策実行の期間だった、と答えた。

東京電力福島第一原子力発電所事故については、首相として力不足、準備不足を痛感したのは、福島での原発事故を防げず、多くの被災者を出してしまったことだ、と振り返った。

そして、次期首相を担う民主党代表選が、29日に行なわれることになった。ということは、今夜が、菅直人内閣最後の夜になる。

この夜長を、昨今の各紙の記事から、この内閣の総括を試みた。

菅政権についての世間の声は厳しい。言うまでもなく、政治主導の政治を掲げながら政務三役らが、官僚を使いこなせないまま、拙速に、ちぐはぐに物事を進め、省の政務は成り立たなく、内閣は機能しなかった。東日本大震災後は、民主党が党を挙げて、また内閣が死に物狂いで、この国難に対処する働きは見られなかった。国民からは、失望や怒りが高まった。

民主党も、まずかった。菅首相を支えるために一枚岩にはなれず、党はバラバラ、支えるどころか、足の引っ張り合いだった。その元凶は元代表と前代表の二人だ。

小沢一郎元代表や、鳩山由紀夫前首相が、これだけ状況が変わっても、未だに先回に掲げて戦った衆院選のマニフェスト(政権公約)の見直しに反対している。この公約をどうしようとしているのだろうか、説明を聞きたい。

この妖怪二人がこの2,3日、大忙しなのだ。

二人が、今度の代表選においても、権力を保持できるように奔走している。否、奔走はしていないんだ、呼びつけているんだ。昔の田中角栄のように。党の金を自由に遣えるポジションを俺に用意してくれるなら、うちのグループは応援するよ、と。

そして、あの泣き答弁の海江田万里氏が、網にかかった。

 

そして、以下の候補者が名乗り出ている。

MX-3500FN_20110828_124042_001

(20110827読売朝刊より)

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

20110827

読売・朝刊/社説

菅首相退陣へ   

国政停滞を招いた野党的体質

 

1年3ヶ月足らずの菅「奇兵隊内閣」がもたらしたのは結局、国政の停滞と混乱ではないか。

菅首相が退陣を正式表明し、民主党代表選の27日告示ー29日投開票が確定した、30日にも新首相が選出される。

鳩山、菅両内閣が2代続けて迷走の末に短命に終わったことで、民主党の政権担当能力に重大な疑問符がついた。代表選の各候補は、民主党が今、瀬戸際にあるという危機感を持ち、過去の圧政を総括して代表選に臨むべきだ。

菅首相は記者会見で「厳しい環境の下で私自身はやるべきことはやった。一定の達成感がある」と自賛した。多くの国民の評価と大きな乖離があるのは明らかだ。

首相は、消費税率引き上げ、環太平洋経済連係協定(TPP)参加などの重要政策を場当たり的に打ち上げ、実現への戦略も覚悟もないまま、先送りを繰り返した。唐突に「脱原発」を打ち出し、エネルギー政策を混乱させた。

衆参ねじれ国会で野党の協力を得ようと、財源不足で破綻した政権公約(マニフェスト)の見直しに着手したが、子ども手当てなど一部の修正にとどまった。野党との連係は道半ばにある。

外交面でも、米軍普天間飛行場の移設問題で指導力を何も発揮しなかった。国家主権への意識に乏しく、尖閣諸島や北方領土の問題で中露につけ込まれた。

政官関係にも問題が多い。

首相は、官僚を基本的に信用せずに敵対相手とするという野党的体質を権力の中枢に持ち込み、行政を混乱させた。原発事故で民間人を内閣官房参与に次々に登用したことが、その象徴である。

無論、官僚にも前例踏襲、保身などの悪弊がある。だが、誤った「政治主導」で、官僚を思考停止に陥らせ、サボタージュを横行させる悪循環を招いた。これでは迅速な震災復興は望めない。

政治家が責任を取らない。議論の記録を残さない。政策実現に向けたカレンダーも持たないーーー。こうした民主党の未熟な政治文化が政権の混迷に拍車をかけた。

菅首相が6月の退陣表明後、3ヶ月近く「死に体」のまま居座ったことも、内政・外交の重要案件をすべて先送りするという政治空白を生んだ。その罪は重い。

民主党代表選は、小沢一郎元代表が海江田経済産業省への支持を表明するなど、党内の駆け引きが活発化している。官僚や野党との関係を再構築するための具体策を真剣に論じなければ、政権党の再生はおぼつかない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

20110828

朝日・朝刊

天声人語

ーーーーー

小沢一郎氏は携帯電話を持たない。政界で「先生の携帯」と尊(たっと)ばれるものは随行秘書が身につける。本人はめったに出ず、必要なら「おい、ピコピコ」と命じるらしい。秘書が長かった石川知裕氏の著書「悪党ー小沢一郎に仕えて」で知った。

この週末、ピコピコはなり続けただろう。民主党代表戦は5氏が争い、明日には「次の首相」が決まる。小沢氏が推す海江田経産相、世論受けする前原前外相を軸に、またぞろ親小沢と脱小沢の数合わせだ。

かれこれ20年、小沢氏は政界座標の真ん中にいる。政治家は氏からの距離と方位で論じられ、政変となればここから始まる。「原点0(オウ)」は今般、処分中ながら師匠ばりの闇将軍を任じている。

その面前で、「小沢先生のお力を借りなければ日本は救えない。力を存分にふるって頂けます様ーー」とべったり持ち上げた海江田氏である。念願の地位に就いても、なにかにつけてピコピコにお伺いを立てそうな気配がする。

代表戦の構図を、小沢氏は「民主党の原点回帰か、菅政権の継続か」と語った。自民党に言わせれば「小沢傀儡(かいらい)か、菅亜流か」(町村信孝氏)となる。小沢氏の復権という原点回帰」を争うのでは、危機にある政治の出直しに値しない。

氏の好きな言葉に、「人事を尽くして天命に遊ぶ」がある。通常の「天命を待つ」と違って、己に期待しない趣がいいそうだ。永田町で山あり谷ありを楽しむのはご随意だが、今の日本、与党の遺恨試合に付き合う時間はそうない。

-----------------------------------------------------------

20110827

朝日・朝刊

社説

首相退陣、代表戦へ  民主党は一から出直せ

ーーーーーーーー

菅首相がきのう、「やるべきことはやった」と述べて正式に退陣を表明した。

歴史的な政権交代から2年。あっという間に2人の首相が行き詰まり、去っていく。これは明らかな失政である。

原因は何なのか。

菅氏が掲げた政策の方向性が間違っていたわけではない。

原発事故のあと、脱原発に踏み出そうとしたのは、菅氏の功績といえる。消費増税を含む税と社会保障の一体改革という不人気な政策づくりに取り組んだことも評価する。

けれど、政治は合意を取りつけなければ前に進まない。菅氏は合意づくりの術がつたなく、時に閣内の根回しさえ怠った。方針を唱(とな)えるだけでは、思いつきの政治だと批判されても当然だった。

だが、あえて問う。もっと視野が広く調整能力のある首相なら、長期政権になったのか。首をかしげざるを得ないほど、民主党は混乱している。

 

未成熟な選挙互助会

菅氏が苦しんだのは、衆参のねじれとともに、党内の足の引っ張り合いだった。

めざした消費増税やマニフェストの見直しなどに、小沢一郎元代表が率いるグループを中心に反対意見が渦巻き、党としての意思決定がままならず、政権は失速していった。

対立が最も先鋭化したのが、6月の野党提出の内閣不信任案に、小沢グループが賛成する構えを見せたときだ。

あそこで採決による決着が避けたために、菅氏は辞任への道を歩み始めた。その際に、鳩山前首相と交わした覚書の第1項目に「民主党を壊さない」とあったことが、民主党の現実と限界を象徴していた。

もともと民主党は政策も政治手法も、水と油ほど違う勢力が一緒になった。衆院小選挙区で勝つために、「非自民」勢力を幅広く抱え込んだ結果だった。要するに、小選挙区制が生んだ「選挙互助会」だったのだ。

野党のころは「政権交代」の一点で共闘できた。しかし、成し遂げた途端に共通の目標を見失う。そして内紛を繰り返す現状は、政党と呼ぶには未熟過ぎるように見える。このままでは、次の政権も同じ愚を繰り返すに違いない。

「選挙互助会」から政党に脱皮できるかどうか。きょう告示される党代表戦は、民主党の存廃をかけた正念場にある。

前哨戦では、盛んに「挙党体制」「党内融和」という言葉が聞かされた。震災後も繰り広げられた党内抗争は、いい加減にやめようという響きもあって、一定の説得力を持つ。

だが、「挙党一致」に込められた意味が、政策の違いに目をつむろうということなら、あまりにも無責任な対応だ。

まして、小沢グループにカネと公認権を握るポストを譲るというなら、有権者の支持をさらに失っていくのは避けられないだろう。

 

結集するか分裂か

代表選でやるべきことは、はっきりしている。党の立ち位置を定め直すことだ。

第一に政権交代時に掲げたマニフェストへの対応を各候補者が明確にすることだ。見直すのか貫くのか。順守するなら、どの予算を削って財源を調達するのか。「歳出削減で賄う」という表現はこの2年で「願望」と同義語になっているのだ。

第二に、選挙後は勝者の方針のもとに結集し、政策の実現に協力することだ。それに沿ったマニフェストの質向上も要る。同意できない議員は党を割って出るしかなかろう。

民主党のみならず、自民党も幅広い勢力を抱えており、政策を軸に再編する余地はある。

有権者にとっても、「自民党がだめだから民主党」といった否定形の選択の代わりに、政策本位で政権を選ぶ道が開ける。

最悪なのは、各候補者が「票目当て」に、あいまいな政策を掲げることだ。代表選は乗り切れても、対立の種は残り、政治が前に進まない。

 

政策本位の政治へ

代表選では、政治手法や政権運営の方法も問われるべきだ。私たちは「数の力」で与野党が激突するばかりの政治を終わらせるべきだと考える。

民主党は小沢代表のとき、参院第一党の力を使い、徹底して自公政権を揺さぶった。日銀総裁を空席にするなどして政府を追い込み、早期の衆院解散、政権交代を迫った。確かに政権交代を果たしたが、今度は民主党が報復を受け続けている。

小沢氏は「財源はなんぼでもできる」と言い、子ども手当ては月額2万6千円出すと公約を上積みさせた。こうした政治手法の根っこにあるのは、権力奪取を第一とする発想だ。

こんな政治から卒業して、与野党が政策本位で合意点を探す政治に変えよう。それが、ねじれが常態化する時代の政治を動かす道だと、この2年の経験から学ぶべきである。

幸せになるんだ、ba-bi チャン

ネコ

今年の梅雨に入る前のことだった。

或る朝の通勤時のこと。毎朝、通勤につかっている最寄の駅の斜め右前に、コンビニがある。その隣は銀行のATM、その脇にはこの建物の階段があって、その階段下で、仔猫がニャオ~ン、と鳴いていた。

仕事を前にした私には、仔猫の鳴き声は、それ以上耳の奥までは届かない。全身に仕事モードのギアーが入っている。今日は、忙しいのだ。私は、彼にお構いなしに素通りした。その後は、電車がくるのを列をなして待ち、乗っては、いつものように昨日の新聞を読んでいたのだろう。その後は、あれやこれや、走り回って仕事をこなした。

そして、仕事を終えて帰宅途中。コンビニの前を、朝のことはすっかり忘れたまま、通り過ぎようとした時、聞き覚えのあるニャオ~ンが聞こえた。今は心に余裕がある。街路灯のほの暗い明りが、疲れた体を癒してくれる。会社で飲んだ缶ビール2本の酔いが、疲れた体に気持ちいい。ささやかな解放感だ。一日の仕事が何とか、終わったのだ。夕方の少しは涼しい風が頬を撫(な)ぜては過ぎていく。

階段の下の仔猫に近づいてみた。

imge33230cfzik2zj.jpeg

彼は、私が近づいても動こうとしないで、ただ、ニャオ~ンと鳴くだけ。朝、見たのは7時40分ごろ、今が夕方の7時20分ころだと、約12時間、この炎天下に居たことになる。生後1ヶ月ぐらい。そんな、生まれたての子猫がよくも耐えられたものだと思った。この2週間、季節は夏本番前なのに、すでに各地で35度が観測されたとか、36度とか騒がれていた。私の部屋にはエアコンがなくて、電気量販店の安売りチラシで、一番廉いものを買ってやる、と遅ればせながら、意気込んでいた頃でもあった。

私が、手を差し伸べても、動こうともしなかった。お尻を軽く触っても動かなかった。丸く小さな目で私を見た。愛くるしい。その美しい緑色の目を見て、ハッとした。この仔はもう死にそうなのではないかと思って、少し遠ざかりかけた。私は、急に怖くなったのだ。そんな彼に、私は何もしてやろうとしなかった。可愛いと思っても、可哀相だとは思わなかったのだろう。じゃあなあ~、その場を離れることに、多少後ろ髪を引かれる思いはしたが、結局、何もしなかった。

その足で、野菜炒めの材料を求めに、スーパーに行った。猫よりも、俺の方が大事とでも自分に言い聞かせていたのだろう。

野菜を炒めながら、焼酎を飲み、ご飯が炊けるのを待っていた。昼間の仕事疲れの体に、焼酎がどんどんと、沁み込んでいく。酔いは酔いを呼び、体と心は、ヘベレケ。それでも、きちんと料理してきちんと食事することが、私の再出発の第一歩なんだ。

そんなヘベレケ、クッキング、アンド、ドリンク状態の私のアパートに、友人が突入、腹減ったと入ってきて、いきなり、野菜炒めに箸を突っつきだした。箸がやけに進む友人。作り手にとっては、美味そうに食ってくれる奴は、それなりにイイ奴なんだけれど、美味そうだとか、食ってもええかとか、感謝の口上の果てに食ってくれると、ちょっとは違った気分を味わえるのに、この野郎!っの言葉を胸の中にしまった。

野菜炒め大皿盛り、大判の冷奴2個、キュウリとナスのお新香、トマト2個、ご飯1合を食い終わろうとした頃、友人にさっきの猫の事を持ち出した。朝のこと、夕方の猫の状態を、何回目かの最後の焼酎を、今度こそは最後の最後にしようと覚悟して飲み干して、それから話した。

そうしたら、友人は急に立ち上がった。ダンボール箱はないか、と言われてメーターボックスにしまってあったのを出してきた。友人は、その箱を切ったり折ったり加工しだした。ガムテープはあるか? と怒るように言われ、緊張していたので、ヘイとしか言えなかった。引き出しから出して渡した。

それから、一緒に行こう、と急(せ)かされた。私は、彼の言うことに従うしかなかった。

夕方、見た時から2時間は経っていたのに、仔猫は先程と同じ場所で同じ格好で、ニャオ~ンと鳴いていた。鳴けるのは、まだまだ元気のしるしか、と内心はほっとした。友人は猫の前に餌を置いて、ダンボール箱まで呼び込もうとしたが、呼び込んでも、動こうとはしない。友人は、猫が遠くへ逃げ去ることを怖れていたようだが、それほど体力はなく、友人が手を差し伸べるままに体を預けてきた。友人にとって、珍しく容易(たやす)い捕獲だったようだ。この時に群集の中から漏れ聞いたのだが、この仔猫は、2,3日前からここに居たようだ。よく頑張った。今日ぐらいが、生きられる最後の救出の日だったのかもしれない。

捕獲作業を見ていたご老人が、保護した友人に向かって、嬉しそうに、「ありがとう、よかった」と言って、頭を下げてお礼を言っていた。近所の人なのだろう、この老人は、この子猫のことが気になっていたようだ。自分では、捕獲、保護してあげたくてもできない事情があるのだろう。

友人は自宅に子猫を連れ帰って、その夜は、一睡もしないで様子を見ていたと思われる。極限の脱水状態だった筈だ。翌日の病院での検査の結果は、OKだった、と連絡があった。そして、3ヶ月が経って、体も二周り以上大きくなって、そして20110811(水)、晴れて平塚の有志がこの仔猫の里親になってくれることになったのだ。その移動の手伝いをした。

この仔猫と保護してこれまで世話してくれた友人を、その里親の所に届ける、その運び屋さんとして協力させてもらった。里親さんは、若くて可愛い女性だった。既に、一緒に暮らしている猫は居るのだが、独り(一頭)では寂しいのではないかと思えたので、声掛けさせてもらった、と言っていた。末永く幸せになって欲しいと思う。

友人が話してくれたことによると、この仔は保護した後、元気になってからは俺に付き纏うんだ、足元にいっつもくっつくので、踏みつけそうで危ないんだよな、と言うほど、人懐っこい仔に育った。野に放されて暮らす猫たちにとっては、本人以外は全てが敵で、神経が荒々しくなるものだが、この仔はそんな環境に慣れないうちに保護できたので、人間との暮らしは協調できる。よかったよ、と言っていた。

それにしても、私には生きものに対する愛情を、果たしてどれだけ感じているのだろうか。友人に比べて、なんとも恥ずかしい限りだと思う。

2011年8月27日土曜日

衆議院の解散しかない

(注/この文章は今年の6月頃のものです。)

菅さん、衆議院の解散しかないよ。

菅首相は、民主党内で、何の根回しもなく、民衆受けする案を思いつきで次々に提案しては政府を混乱させている。野党としての自民党にも、大いに問題があることはある。退陣を表明した首相の言うことなど、誰も耳を貸そうとしないのも当たり前だ。が、ここは、なんとしても与野党協力して政治の力を発揮してもらいたい。政策の違いを云々している場合でもないだろう。国会は、東日本大震災対策の一つひとつを起案、立法化して、何が何でも早く復興を軌道に乗せなければならないのに、対策法案が一向に進まない。

政事(治)より、政争に走る、国会議員。

そんな渦中の菅首相が、13日の記者会見で「原発に依存しない社会を目指すべきだ」と明言した。私には、やはり、ここに至って、この問題を持ち出してきたな、と思った。当然のように各閣僚や民主党の幹部たちは驚かされたが、私は、ここで問題にするのは当然のことと受け止めた。

この菅首相の脱原発発言に、即、賛同した議員は少ない。おおむね冷ややかだ。東電のしがらみにドップリ漬けられてしまったのだろう。

朝日新聞の最近の世論調査では77%が将来の原電廃止を望んでいる。民主党の各閣僚でも積極的に原電を維持しなければいけないというよりも、段階的に減らしていくべきだというのが大半の意見のように見受けられる。自民党のなかでは河野太郎議員ははっきり、即廃止すべきだと主張しているが、全体の意見を聞いてみたい。

でも、この原発を脱で進むのか、縮小するのか、維持していこうとするのか、これは早い目に国として結論出さなければならない。私には認識はないが、国策として原発を進めてきたと言うならば〈言われている〉、この是非というか成否には熟議をもって方針決めたい。

原発は要らない、できるものならば、再生可能な自然エネルギーの活用で、なんとかならないものか、と思っている人が、前の方で書いたように、国民の大半、77%を占めているからだ。

この結論を出すのに、欧州の国々のように30年から40年の議論の積み重ねがない日本では、議論するための準備を整えてもらいたい。一部では、かって論議を十分に尽くしたという人々がいるが、国民の大半はそのように受け止めていない。今後、新たな情報も交えて全て開示しながら、政官業学だけではなく、多くの民間人を取り込んでの会議を、全国の津々浦々で行い、議論された内容を公開する。

そこで、国民投票か?と思ったのですが、日本では憲法の改正に関してのみ認められていて、スイスやイタリアやフランスのように一般的な国政上の課題には、国民投票は認められていない。

ならば、菅首相、粘れるだけ粘って、衆院の解散だ。

かって、小泉首相が仕掛けた郵政民営化の是非を問う衆院の解散、選挙を思い出してしまった。自民党をブッ壊すと言った自民党総裁が、火の玉になって戦った選挙を思い出してもらいたい。

四面楚歌におかれました菅直人首相殿、もうあなた様には衆院解散という専権を振りかざすしかありません。法律的には「衆議院の解散を決定する権限は内閣に属する」とあるので、他の閣僚が内閣総理大臣に衆院解散詔書に署名を拒否されることもあり得るが、そこはご用心。

直ぐに原発を止めるというならば、与野党のほとんどの議員が反対するでしょうが、緩やかに縮小して、そして廃止するというならば、賛成者は増えるでしょう。

東日本大地震の被災地や被災された方々のことを考えると、こんなことを言っている場合でないことは重々、理解している。荒唐無稽。だが、そんなことも言ってられない。

国民は、将来的には廃止することを8割近い国民が望んでいるのですから。

2011年8月21日日曜日

高校野球の監督は、生徒に

昨日20110820、第93回全国高校野球選手権大会は終わった。決勝戦は、西東京代表の日大三高と、東北勢初の優勝を目指した青森代表の光星学園が対戦して、日大三高が11-0で破り、優勝した。

神奈川代表、地元横浜高校は0815の終戦記念日に、3回戦、和歌山県の智弁学園に9-4で負けた。

智弁学園vs横浜

私が卒業した京都府宇治市の府立城南高校を応援しようにも、統廃合で5,6年前になくなった。京都地区での予選では、毎年、精々2回戦までだった。娘や息子が通っていた横浜市内の高校は、今夏、応援もむなしく早々に敗退して、この学校ならどこまでも応援してやろうと思う学校が出てこない。今回の横浜高校も、そりゃ、名門で優秀な選手が揃っていることぐらいは知っていても、熱く応援する気にはなれない。

私は、高校野球の春夏の甲子園に、今一つ熱くなれないのだ。何故かって、それは又の機会に話そう。

そんな、神奈川県代表の横浜高校は、和歌山代表の智弁学園に9回2死から逆転負けした。8回裏まで、4-1で横浜がリード、横浜のペースで進めてきたが、9回にまさかの8失点になった。最終結果、4-9。屈辱的なスコアーで、横浜高校は敗退した。

選手や、チームの関係者はさぞかし、辛い思いを味わったことだろう。

ここでだ、私は、横浜高校の渡辺監督が、試合の結果を問われて応えたコメントが気に食わないのだ。朝日新聞の記事によると、「柳のスピードが落ちていたから継投の決断に迷いはなかった。同点まで柳でいけばと、反省している。選手に申し訳ない」、と。なんで、こんなことを言うのだろう?

私は思うのだが、監督も生徒がやればいいのではないか、と。日々の練習メニューや、野球そのものに関する指導とマネージメント、教育的指導は監督が担って、試合が始まってからのことは、全て、生徒に任せるべきではないかと思っているが、諸賢人の意見を賜りたい。

野球は攻撃と守備が交互に巡ってきて、その試合の最中に、重要な局面で指示を出すのが監督だ。生徒はその指示に従うだけでは、真の意味で高校生による競技だと思えない。もっと、監督の仕事を、生徒に譲ればどうだろう。

選手兼任の監督でも、1塁や3塁にコーチを兼ねた生徒の監督が居てもいいのではないか。

監督が私の判断が過ちだったとか、生徒に悪いことをしてしまったとか、こんな言葉は聞きたくない。監督は主役ではなくて、主役は、あくまでも生徒だ。まして、高校生たちの野球大会だ。

今日20110821の朝日新聞にも、こんな記事が出ていた。日大三高が06年の夏、西東京大会決勝で、斉藤(現・日本ハム)を擁する早稲田実に延長の末、4-5で屈した。この時の日大三高の小倉監督のコメントだ。

監督は負けたことが悔しくて、「力のあったチームなのに、自分の采配ミスで勝てなかった。情けないけど『早く負けてくれ』と思ってテレビを観ていた」と言っている。

可笑しいではないか、この監督の発言。高校生を預かって、指導する監督さんの言葉だと、思えますか? 

教育者、指導者の言葉として、異常な発言だと思うのは、私だけだろうか。

2011年8月18日木曜日

清武が発したメッセージ

20110810の日本代表と韓国代表とのサッカーの日韓戦は、日本の3-0の大勝利で終わった。

日本は香川(写真)の2ゴールなどで韓国に快勝。ホームで13年ぶりの白星を飾った

(香川は2ゴールを決める)

0814の私のこのブログに、「日本サッカー、韓国に大勝」のタイトルで、朝日新聞、ニッカンスポーツの写真を無断拝借しながら文章を綴った。

その文章を読み直して、その内容といい文章の勢いといい、日本の華々しい歴史的な勝利なのに、歓喜どころか、寧ろ韓国側に対して、どうしたんだろう?こんなことでは困るんダ、韓国さんよしっかりしてくれヨ、そんな筆調だった。文意の力点は、日本よりも韓国に置いていた。韓国は日本にとって、宿敵だが、おこがましくてライバルとは言わしてもらえない、正真正銘の先輩格だ。宿敵が不調では困るんだ。

確かに、日本代表にとってはホームで、やりやすかったこともあるだろうが、ベテランに若手、新人をも加えて新しく進化し続けるチームの姿は、大いに讃えられるべきだ。

でも、日本がスコアー並みに強くなったかと言うと、そう生易しいものではない。そのことを、サッカーをよく知る人は理解している。いい試合を目(ま)の当たりにして感動したい、次も、次の次の日韓戦の応援に参加したい。

そこで、敢えて、前回も今回も同じブログで、煙たがられる内容ばかりの繰言(くりごと)になるが、未だ、私はマスコミが言うほど、それほど日本は進化していないし、韓国はそれほど弱くなっているとは、思っていない。

日本の大勝を、野放図に喜べない私が、居る。

しばし、PCのキーボードを叩くのを休んで、考えてみる。ヤマオカは、今回の試合で途中出場した清武のことを、余りマスコミで騒がれていることに、面白く思っていない、ところがあるようだ。

彼に非凡さを感じるのはパスを受ける能力の高さ、巧みにステップを踏み、相手が嫌がる位置で前を向く。ボールを受ける時にいい体勢を保てるから体格差のある韓国DFも気にしない、と朝日新聞・編集委員の潮智史氏が書いている。私も全く、同感だ。

でも、清武はまだ雛(ひよこ)だ、マスコミが先走って、どうのこうのと言える状況ではない。若い優秀な選手は、もの凄い勢いで成長する。清武程の、ここまでのレベルにまで育った選手は何人も見ている。問題は、これから、どれだけ伸びることが出来るかどうかだ。

2本のアシストだからと言って、清武をそんなに一気に持ち上げるものでは、ございません。

この試合の高評価は、彼の成長過程の1ページに過ぎない。

本人の清武はよく解っていて、次のようなコメントを発している。そのコメントとは。「個人的には、シュートも打ってないし、もうちょっと積極的にいきたかったです。海外組と一緒にプレーできたことは、自分の成長にとってプラスだし、日本代表のプレーはいい勉強になりました」。

謙虚で頭のいい青年だ。もっと、もっと逞しくなって欲しい。

ライバルが豊富に控えている。森本、岡崎、松井、家長、柏木、細貝がいる、宇佐美が宮市がいる。

どうか、海外で、可能性を極めて欲しいもんだ。

2011年8月16日火曜日

民主代表選、候補者ぞろり

菅直人首相の、やっとここにきて退陣する日取りが固まりそうだ。問題は、ポスト菅争いだ。

こんなに人気の低い首相になり下がったのは、菅直人一人が悪かったわけではない。確かに、本人の行動や判断に問題はあったことはあった、が、しかし、大局を見ずもしないで、見て見ない振りをして、政治(事)を政争の具にして、一向に恥じない、与野党の国会議員一人ひとりにも、大いに反省すべきではないか。小沢さん、あなただって、東日本大震災の被災地対策にどのように奔走したのですか。地元が政治を求めて悲鳴を上げている。一兵卒になって頑張ると言っていたあなたには、名誉挽回の絶好の機会だった。鳩山さん、は?まだ母親からの養育費をもらっているのですか、被災者の苦しみがどんなものか解りましたか? 

こんなことまで、言われるようでは、議員を辞めてはいかがですか。

私にとって馴染みのない候補者も含め、我も我もと、足並みが揃ってきた。結構なことだけれど、各候補者の主張することを、党で熟議して欲しい。熟議も経ない自己中心の主義主張を振りかざす首相が登場して、党内再分裂、アホなことを二度と繰り返して欲しくない。とは言え、本気で心配せざるを得ない、今の民主党事情なのだ。

手を上げた候補者はそれぞれに、野党と大連立を積極的に組む、閣内にとどめる、協力し合う関係を作る、連立協力には慎重、消極的、又、立ち位置も、鳩山前首相と組む、小沢一郎元代表と組む、もしくは両方から支持を受けるか、両方の影響力を薄めたく思うグループ、さまざまに動きだした。

二度と鳩山元首相のように失政しても恥じないような人だけには、首相になって欲しくない。こんな男に、国政を任せられない。

国民の目先に餌をぶら下げて、民主党が大勝した手法を、今度は党員に向かって、媚を売ったり、脅かしたり、そんな手法で支持を求めるような党首選だけはやめてくれ、と。投票資格のある者は、目先だけのこと、自分だけのこと、親分のこと、そんなことにはとらわれずに、清き1票を投じて欲しい。

民主党議員は一人の党員として、次には責任政党として国の政治に携わってもらいたい。

そんな、私のモヤモヤを20110811の朝日・社説では、きちんと整理されていたので、ここにいつものように無断で拝借させてもらった。転載させてもらった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

社説

民主代表選へ

公約超えた知恵を競え

ーーーーーーーーーー

菅直人首相が、ようやく退陣する。

東日本大震災への対応に「一定のめど」がついたら引き継ぐと言って2ヶ月余り。赤字国債の発行を認める特例公債法の成立など、「退陣3条件」にめどがつき、首相はきのう条件が整えば辞めると明言した。これで政治が次の段階に進む。

ここでまた混迷を繰り返すわけにはいかない。単に首相を代えるのではなく、政治の出直しの機会としなければならない。

そのために大切なのが、民主党代表選のあり方だ。

これまで、党内の対立軸といえば「小沢か、脱小沢か」だった。小沢一郎元代表に近い勢力はマニフェスト(政権公約)の固守や消費増税反対を唱え、脱小沢勢力は公約の見直しや増税路線に傾くーーー。政争論争の衣かぶった権力争いがずっと続いてきた。

こんどの代表選は、もっと次元の高い戦いにしなければならない。なにしろ次の党代表、すなわち首相は、震災後の日本の再出発を担わなければならないからだ。

震災後の日本は、少子高齢化やグローバル化といった課題に加え、被災地の復興や放射能との闘い、原発稼動の制約に伴う電力不足問題まで抱えた。

それらを乗り切る知恵は、政権交代前にまとめた公約には記されていない。とすれば、問題は公約を守るか否かではなく、公約を超えた知恵のはずだ。

負担増は避けたいという感情論を排し、復興に向けた方策とその財源の確保に心血を注がなければならない。未曾有の原発事故を教訓に、新たなエネルギー政策を築いていかなければならない。

論ずべき課題は山ほどある。代表選にでる候補者はこれまでよりも若返るだろう。どんな知恵を持っているか楽しみだ。

けれども、古い発想の旧リ-ダーが裏で糸を引き、代理戦争を演じたのでは、世代交代の意味がない。これまで党を引っ張ってきた菅、小沢両氏に鳩山由紀夫前首相の「トロイカ」は今回、行動を慎むべきだ。

候補側も彼らのグループに頼って戦うべきではない。各候補がビジョンを示す。議員はそれを見極め、自らの判断で投票する。党の政策を定め直す代表選にしなければならない。

そんな論戦には時間が要る。一方で、政治空白は避けねばならず、9月は外交日程も立て込んでいる。菅首相は特例公債法などの成立を待たず、党代表を辞し、早く代表選をスタートさせるべきだ。

2011年8月15日月曜日

駄獣の群

会社は、夏休み休暇中。

けれど、事情があって、早い目の休暇をとった人や、これから休みをとる人が、2,3人は出勤している。私は、普段と何ら変わることなく会社にいる。会社に居ないと精神の調和が整えられないのだ。

別に特段の仕事があるわけではないが、私には思うところがある。慎み深く、感謝して、会社にいる。

今日は新聞の休刊日。昨日・20110814の朝日新聞を読みながらの出勤途中の電車の中、ザ・コラムの中で、歌人与謝野晶子の詩「駄獣の群」を引用した文章が掲載されていた。

編集委員の根本清樹氏の文章にも共感する部分があって、それはそれは、私には十分タメになったのですが、どうしても、この詩の全体を確認したくて、足早に、会社に着くなり、机のPCの電源を入れた。

苛烈きわまる議会批判の作である。

この作品が読売新聞紙上に発表したのは、1915年12月のことだ。晶子が歯痒く表現した選挙制度も、今では誰もが選挙に立候補することも、投票する権利も認められている。

が、しかし、晶子の時代から、約1世紀経った今でも、議会、政党や政治家に対する不信は、未だに、時代を超えて変わっていない。

変えようと思えば、変えられるはずなのに、何がどうなれば、何をどうすれば、いい政治が行なわれることになるのでしょうか。

ーーーーーーーーーーーーーー

駄獣の群     与謝野晶子

 

ああ、此国の

怖るべく且つ醜き

議会の心理を知らずして

衆議院の建物を見上ぐる勿れ。

禍(わざわい)なるかな、

此処に入る者は悉く変性す。

たとえば悪貨の多き国に入れば

大英国の金貨も

七日にて鑢(やすり)にて削り取られ

其正しき目方を減ずる如く、一たび此門を跨げば

良心と、徳と、理性との平衡を失はずして

人は此処に在り難し。

見よ、此処は最も無智なる、

最も悖徳(はいとく)なる、はた最も卑劣無作法なる

野人本位を以て

人の価値を最も粗悪に平均する処なり。

此処に在る者は

民衆を代表せずして

私党を樹て、

人類の愛を思はずして

動物的利己を計り、

公論の代りに

私語と怒号と罵声とを交換す。

此処にして彼らの勝つは

固より正義にも、

聡明にも、大胆にも、雄弁にもあらず、

唯だ彼等互に

阿附(あふ)し、

模倣し、

妥協し、

屈従して、

政権と黄金とを荷(にな)ふ

多数の駄獣と

みづから変性するにあり。

彼等を選挙したるは誰か、

彼等を寛容しつつあるのは誰か。

此国の憲法は

彼等を逐(お)ふ力無し

まして選挙権なき

われわれ大多数の

貧しき平民の力にてはーーー

かくしつつ、年毎に、

われわれの正義と愛、

われわれの血と汗、われわれの自由と幸福は

最も醜き

彼等駄獣の群に

寝藁の如く踏みにじらるるーーー

ーーー

文中のふりがな、以下も山岡が記入した。

阿附(あふ)=おもねりついて、人の気に入るようにつとめる。/禍(わざわい)

悖徳(はいとく)=背徳/鑢(やすり)/荷(にな)う/逐(お)ふ/寝藁(ねわら)

2011年8月14日日曜日

日本サッカー、韓国に大勝

20110810 19:00から日韓戦が、札幌ドームで行われ、日本代表は韓国代表に3-0で大勝した。

(下2枚の写真は、朝日新聞20110811のスポーツ面より無断拝借した)

MX-3500FN_20110814_094811_001

(前半35分、先制ゴールを決め喜ぶ香川。左は李=杉本康弘撮影)

 

4日に急性心筋梗塞で他界した松田直樹元日本代表DFの追悼試合にもなった。日本選手は上腕に黒い喪章を巻いて戦った。

日本は韓国戦に、ホームでは13年ぶりに勝利、また韓国から3点を取ることも、3点差以上の勝利も37年ぶり。この試合で2点を入れた香川は、韓国戦で2点以上を決めた日本代表の釜本邦茂氏に次いで2人目になった。

この試合は、親善試合だったが、9月から始まるW杯3次予選を前にした最後の実戦だった。双方にとって、その状況は同じだ。それに、日韓の両国にとって、サッカー史上の永遠のライバル同士、宿敵のライバルだ。

両国の誇りを賭けての試合は、いつのどの試合においても、深くて重い歴史を刻んできた。その意味では今回も同じだが、私にはちょっと違う何かを感じていた。

私の中では、韓国と戦うということは、他の国と戦うのとは意味が違うのだ。

世界ランキングでは日本が16位で、韓国が28位と差はついたけれど、そのランク差ほど力に差があるわけではない、と私は考えているし、多くの日本人の実感だろう。

そのように考えていた私にとって、今回の試合は想像以上の結果に終わった。韓国に対して、ちょっとがっかり。日本の大勝をぬか喜びできないでいる。試合前から、日本チームがそれなりにやるだろうとは、容易く予想できたが、結果、余りの韓国の元気なさに落胆した、と同時に心配もしている。韓国が元気でないと、日本の切磋琢磨力が弱まるのでは、と危惧するのだ。若い人は、日本はもっと新しい世界に突入しているんだよ、と言うかもしれないが。

私にとっても韓国は特別、近しいのだ。40余年前W大のサッカー部に所属していた時は、毎年W大と韓国の高麗大学とは定期戦を行なっていた。両校が隔年で、行ったり来たりした。朝鮮大学校ともしばしば試合を行なった。そして、大体がヤラレた。負けた。そんな過去がトラウマになっているのかもしれないが、韓国のサッカーを油断大敵、心のどこかで畏敬している。

だからこそ、韓国は頑張らないとイカンのや。

今回の私の興味は、日本のサッカーが若い海外組とJリーグ組が、ザッケローニ監督の下、どのように機動するのか、それと、いつも感動を与えてくれる韓国の熱い動的なパワーサッカーがどう変わっているのかを見極めたかった。

韓国のKリーグでは、昨年八百長事件が露見、約50人が起訴された。まだまだ残り火がくすぶっているようだ。そんなゴタゴタでパワーまで削がれてしまったのだろうか。

かっての体力をギリギリまで酷使して、タフに走り回るサッカーから、日本と同じ緻密なパスサッカーに切り替えようとしている端境で、混迷しているのだろうか。そんなことを何かで知った。韓国の監督は完敗を認めた。思わぬ怪我で中盤の主力選手が退場して作戦通りにはいかなかったこと、海外組と国内組みが巧く機能しなかったことが、敗因だとコメントした。

私は、我が目を疑った。韓国のチームは最初から動きが鈍(にぶ)かったのだ。試合が始まって、しばらく見ていて、アウエーということもあるのだろうが、余りにも、日本の動きがいいのに比べて、韓国は動きが鈍過ぎた。変だぞ。こんな韓国を見たことはない、ちょっと可笑しいぞ、と思っていた。前半、本来、あんな局面で、絶対怪我などしないチームなのだ。

そんなチームの流れに、孫・晴が気づいたのか、偶然なのか、「ジジイ、韓国は朴智星(パクチソン)がいないから、弱いんだよ」と言うから、「晴、そんなことはないよ、一人のスーパースターだけではサッカーできないのは、晴が一番よく知っているだろう」の返答に彼は納得したのだろう、しばらくテレビ観戦して、それから「ジジイ、水は、炎を消しちゃうんだよ」ときた。ジジイは「でも、少しぐらいの水では、大きな炎を消すことはできない。少しの水なら、逆に炎を勢いづかせることだってあるんだよ」と振り向けた。彼は黙っていた。

この敗戦は韓国側にとって大きな波紋を国内にもたらしたのではないだろうか。今回は分らないが、いつもなら、監督の責任問題は避けられないだろう。国技のサッカーで、隣国、それも何かと気になる(憎っくき)日本、目の上のたんこぶ、に負けたのだから、そのショックは余りにも大きい。

日本が成長の貌を見せて勝ったことは嬉しい、そやけど、、俺には何故か物足りない、、、。韓国の捲土重来(けんどちょうらい)、奮起に期待する。

 

得点は次のように生まれた。

前半35分、遠藤が相手陣内の右サイドでボールを奪うと周りの選手たちが即座に反応した。遠藤のパスはゴール前の李へ。すかさず、ワンタッチで李がヒールパスで中央に流すと、走り込んだ香川が右足でゴールを決めた。この李のヒールパスが絶妙だった。相手ディフェンスはこのワンタッチで、マークの距離を広げた、そこにマークを外して後ろから走りこんできた香川が、スピードに乗ったまま、もう一人のディフェンスを外して、余裕をもって蹴った。

MX-3500FN_20110814_094845_001

(後半10分、香川の得点をアシストする清武)

 

2点目、3点目は、初陣清武がアシストをした。ロンドン五輪を目指すU22代表の主力は、前半35分、岡崎の負傷で急遽2列目の右サイドに入った。

後半8分、駒野が左から相手ディフェンスをかわしてシュート。キーパーがはじいたこぼれ球を清武は本田につないで、本田のゴールをアシストした。本田は左インサイドキックで、狙いすましてゴール左隅っこに入れた。本田ならではの力強いインサイドキックだ。本田はゴールしたことを確認した後、両手を広げて大はしゃぎ。指を天に突き上げて、先日亡くなった元日本代表DF松田直樹選手にゴールを捧げた。

その2分後、後半の10分。今度は香川と清武とのワンツーで、香川は右足で左隅に、この試合2点目を決めた。

ザッケローニ監督が選んだシステムの布陣は、3バックを使わないで、慣れ親しんだ4-2-3-1だった。先ずは、来るべきオリンピック予選を前に、このシステムの成熟に努めた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下の資料は20110811のスポーツニッポンの紙面より無断拝借した。

MX-3500FN_20110814_102113_001

MX-3500FN_20110814_103716_001  MX-3500FN_20110814_105434_001

--------------------------------------------------------------

サッカー評論家の金子達仁氏が20110811のスポーツニッポンに寄稿している文章が、全てを巧く表現されているので、ここでもヤマオカ、お得意のパクリをさせてもらう。

----------------------------------

金子達仁の「春夏シュート」

こんな美しい日本 生まれて初めて見た

人間とは、サッカー選手とは、そしてチームとは、かくも短期間に、かくも大きな変貌を遂げることができるのか。わずか1年と少し前、手も足も出ずに、いや、出そうともせずに敗れた選手たちは、完膚なきまでに宿命を叩きのめした。韓国に勝つ日本を見るのは初めてではないが、こんなにも強く、美しく、翻弄して勝つ日本を見たのは生まれて初めてである。見事な、本当に見事な勝利だった。

何より驚かされたのは、攻撃面における意識の変化である。

思えば、日本のサッカーは長く「アシスト至上主義」に毒されてきた。玄人と言われる層は、ゴールばかりに目を向ける素人を嘲笑い、アシストこそがサッカーの華であるかのように振る舞ってきた。「点をとるだけがストライカーの仕事ではない」という言葉もよく聞かされた。

なるほど、嘘ではない。だが、ストライカーにとって最大の仕事は点をとることにあるのだという点を、長く日本人はボヤけさせてきた。献身的な守備をしていたから、確実にポストプレーをこなしていたからーーーーそんな理由で、ストライカーが点を取れなくても温かい目を向けていた。

だが、岡崎慎司は知ったはずである。点を取れないストライカー、特に外国から来たストライカーにドイツのファンはなんの価値も見いだしてくれないということを。李忠成も痛感したはずである。たった一つのゴールで、人生が激変することもあるということを。

岡崎しかり、李しかり、香川しかり。ゴール前に侵入した彼らがまず第一の選択肢として念頭においていたのは、ゴールだった。仲間のための美しい献身ではなく、自分が輝くためのプレーだった。ボールをもらう瞬間から、いや、もらうためのアクションに入った段階から、彼らはフィニッシュで終わるイメージしたプレーをしていた。そこが、目標なくプレーし、やたらバックパスを連発していた1年半前の日本代表との決定的な違いだった。

しかも、いい意味でのエゴイズムを身につけた選手たちに交ざって清武のような「典型的な日本人」もいた。素晴らしく美しかった本田のゴールは、いわば、欧米と日本の美学が合体したことによって生まれたものだった。なでしこがそうだったように、男子の日本代表もいま、未知なる段階に足を踏み入れようとしている。

いままで、そんなことは考えたことはなかったし、考える日がこんなに早く来ようとも思わなかった。だが、これほどまでに素晴らしい試合を見せられてしまうと、つい考えてしまう。スペインと戦ったらどうなるのだろうか、と。

(スポーツライター)

MX-3500FN_20110814_110827_001

2011年8月12日金曜日

チラシ配り、笑話

この稿は、1ヶ月前に書いたものです。それから、私の思惑とはちょっと違って、購入希望者は狙いどころからは発生しないで、外れの地域にお住まいのお客さんに買っていただくことになった。それにしても、嬉しい誤算だ。

この稿は、弊社ではこのような仕事もしているんだという、業務紹介ですぞ。

ーーーーーーーー

弊社では、週末の土、日には、必ず中古住宅の現地販売会を、2、3ヵ所で行なっている。

その販売会の告知のために、社員は手分けして周辺住宅に広告チラシを配る。チラシの投げ込みの対象は、主に賃貸住宅だ。賃貸住宅から脱出して念願のマイホームを弊社から購入していただくことが、我々の最大の目的なのだから。

私は、今までの経験上、物件にふさわしい顧客が住んで居そうな場所を嗅ぎ取る知恵を身に付けている。物件ごとに、購入予定者がどのようなヒトか、ある程度は想定できるのです。だからと言って、ずばり、当たったということは、正直少ない。

今回の物件は、藤沢市石川の中古住宅だ。この石川は、湘南ライフタウンとして40年ほど前(開始は1974年)から藤沢と茅ヶ崎の両市が開発が進めてきた大型の区画整理事業の一画だ。340、74ヘクタール、計画人口45、000人。藤沢市と茅ヶ崎に市にまたがっている。交通のアクセスがそれほどよくないので、当初、販売は遅々として進まなかったが、それでも、今では住宅が密集し始めてきた。学校、スーパーマーケット、銀行、その他生活に必要なものは、何でも揃っている。

私は、チラシ配りのメンバーの一人として、毎回、欣喜雀躍として参加する。

適度に体を動かさないと、体が鈍(なま)るのではないかと、怖いのだ。来月で63歳になる。これから20年は働ける体を維持したい。今回のこの物件を買っていただけるのは湘南ライフタウン駒寄、第一第二住宅に住んでいる人だ、と狙いを定めた。この団地は、一部に2階建てのテラスハウスもあるが、大半が5階建ての日本住宅公団特有の作りだ。各棟、2,3ヵ所の階段がある。その一つの階段には各階2戸づつあって、その階段を利用するは10所帯だ。

全部で51棟あるので、多分1、000所帯近くはあるのだろう。この公団住宅の住戸の全ての玄関ドアの郵便ポストにチラシを入れることにした。

1階の集合ポストには投げ込まない。弊社のチラシは、そんじょそこら(これって、関西弁?)のチラシとは違って、独自な内容が込められている、誰もが読み取って喜んでくれる情報なんだから、ゴミを捨てるような1階の集合ポストには絶対入れたくなかった。弊社の玉のような極上の情報を、石ころのような情報の中に混淆させちゃ、堪りませんよ。

住宅の購入を考えている人ならば、このチラシの内容に心を動かされる筈だ、と私ら社員は確信をもっている。

弊社が商品開発した物件は、緻密な市場調査に基づき、心憎いほどの繊細なリフオーム工事を施してるのですから。見ていただければ、間違いなく気に入ってもらえると確信している。客観的な事実で、決して自己満足ではない。

そこで、駒寄住宅は5階建てが多く、5階までは65段の階段を上り、下りすることになる。1段の蹴上(けあ)げを約20センチとする。この団地内の総階段数を、ざっと5、500段としたら、5、500(段)*0.2(m)=1、100(m) となる。水平移動の距離のことはさておき、この団地を一通り終えると1、100メートルの垂直移動したことになる。

昨年、富士山に登ったが、頂上が3、776メートルなので、富士山の第7合目(標高2、770)から頂上まで登ったことになる。

ここまでのことは、これから話そうとするための地ならしで、このチラシまきで面白いことが幾つもあったので、そのことの紹介が主目的なのだ。

 

その1

この団地の住民と思われるオジイちゃんが、団地のツツジの生垣を、尻を地面にこすり付けたまま葉や茎などを間近に凝視しては、何やら摘み取っていた。何をしているんですか? 躊躇うことなく訊ねた。彼は、よく聞いてくれましたね。私は、樹木については何でも知っているので、何でも聞いてくださいな、ときたもんだ。

所どころに、飛びぬけて枝が伸びている茎を見つけては、その茎を他のと同じ背丈に切ったり折ったりしていた。その切るか折るかする辺りに芽がある場合は、その芽を残すのです。背伸びしている奴だけが養分を吸ってしまうので、それを避けるためなのだそうだ。

植木屋さんがバリカンのようなでかいもので、一律に切り揃えるのは、そりゃ見た目には奇麗でしょうが、樹木の枝葉の細かいことには何も配慮されていないのです。あれでは、駄目なんです。

それに、表面だけを刈り揃えただけでは駄目で、中の方に隙間を確保してやらないと、虫が巣食ったり、風通しが悪いために病気になることが多いのです。その為に細い枯れ木などもとり除く。そのようにしてから、表面を刈り揃えるといいのです、これが大事なことなんですよ。

う~ん、何か他に聞きたいことは、ないの? 何でも教えて上げられます、と畳み掛けてくる、くる。

現在、私は自分の果樹園・イーハトーブ(宮沢賢治の理想郷)で、果樹の剪定に頭を悩ましているが、柿、栗、桃、スモモ、夏みかん、金柑、無花果、それらをどうしたら、いいのか、この場で聞きたかったが、聞くにも材料がない。今度、彼のような人に会う機会が生まれるかもしれないので、当方としても、何かと準備をしてこなくちゃイカンわ。

教え上手な人に、そう簡単には巡り会えるものではない。

 

その2

階段の途中で擦れ違った、きっと住民だと思われるオジさんに声を掛けられた。ニイさんよ、1枚幾らで配っているんだ、と聞かれた。階段の所を配るには、単価を上げてもらわなくっちゃ、たまらんわな。オジさん、これはうちの会社の仕事なんですよ。人に頼んで配ってもらうのではなく、社員が自ら配っているんです。

他人(ひと)に頼んで、金だけ取られて、どぶにでも捨てられたら、目も開けられないサカイに、自分たちの手で配っているんです。その場を離れようとしている私に向かって、オジさんから、暑いけど頑張ってよ、と励まされた。あのオジさんとおニイさんと呼ばれた私と、どちらが年長者なのだろうか、ふとそんなことを考えた。

いったい俺はいつまでこのようなことができるのだろうか。

 

その3

暑い。暑い日だった。今年は梅雨が明けるのが記録的に早かった。梅雨が明けたと同時に真夏に一気に変貌。太陽が怒ったように照りつけている。毎年、真夏になると急に埼玉、熊谷の名が、テレビやラジオで騒がれる。この二三日、熊谷が40度近くになった、と叫んでいる。そんな暑い日だった。

私は自分に妥協を許さない強い意志を持って、1階、2階と数えながら、各戸の郵便受けにチラシを入れていた。移動の際は、大体下を向いて歩いている。コンクリートの階段には、汗の滴りが、黒い点になって続く。

3階に辿りついて、ハッと頭を上げたら、そこは玄関ドアーが全開されていて、たたきの所で、パンツ一丁になったオジさんが、小さな椅子に座って、団扇を片手に涼んでいた。たたきの部分を独り占めするほどの巨漢だ。分厚い毛むくじゃらの胸には、大粒の汗が浮かんでいた。私が、ぎょっとした。熊のような人間を目の当たりにしたのだ。

私の驚いた仕草を見て、オジさんはそれでも、にっこり、暑いんだもの、しょうがないよなあ、余程体に堪(こた)えているようだった。節電しろと言われるし、金も無いのでどこにも行けないし、ここで涼むしかないよ。今日は、ここが一番涼しいんだ。このオジさん、それでもご苦労さんと、チラシを受け取ってくれた。いい家が近所に出たので買ってください、と言うことを忘れなかった、が反応はなかった。

彼には、この場では涼を取ることが、何よりの関心事だったのだろう。

 

その4

チラシを投げ込もうとしている最中に、突然玄関ドアが開いて、家から出ようとした人も私も、お互いに吃驚した。瞬間、顔が引きつった相手に、すみません、チラシを入れさせてください、と了解を求めた。彼女の顔に、鈍く緩(ゆる)みが走った。近所にいい家が出ましたので、買ってくださいというチラシなんです、と言いながら、手渡した。住民は老いたオバアちゃんだった。彼女は、私のチラシを何かご褒美でも貰う時のように、恭(うやうや)しく両手で頭を下げて受け取ってくれた。

去り行く私に、ご苦労様、有難うございました、とお辞儀で見送ってくれた。僭越です、恐縮しました、私、改めて敬老の念を深くした。

 

その5

私は上の方の階段から下りてきた。下の方から新聞配達のお嬢さんが上がってきた。彼女は俯(うつむ)いたまま、体を移動することに必死の様子だ。彼女が右に寄るので私は左に避けた。そのうち彼女は左に寄ってきたので私は立ち往生、避けられなくて待機、彼女の動きを確認していた。下を向いたまま気づかずに進んできた彼女は、真ん前の私の足元を見て、ハッと顔を上げて腰を抜かさんばかりに驚いた。

貴女がそんなに驚くほど、怖い人間ではないんだけどなあ。

その後、両者はニッコリ笑って、頑張りましょうとエールを交換して、次の行動に移った。

新聞配達のお嬢さんのことがあって、玄関の郵便ポストに入っている新聞の種類について気になりだした。彼女の配達の様子から想像してみたのですが、階段ごとに購読している新聞の紙名が偏っているように思われた。郵便受けの新聞に注意を払った。例えば、A階段ならば読売新聞、B階段は朝日新聞とかのように。

A階段の或る人から読売の購読の申し込みがあったら、読売の配達所からは、どうせこの階段を上り下りするならば、効率よく、もう1軒とばかりに、営業をかけた結果が、このようになったのだろう。

階段ごとの新聞社の寡占化が進んでいる。

2011年8月10日水曜日

東雲(しののめ)って?

先日、神奈川県平塚市の西部に中古住宅の現場調査に出かけた。

私は車の後部座席で、うつらうつらしながら、何気なく車窓越しに風景を眺めていた。車の揺れが心地いい。毎度不思議なことに、運転するスタッフには申し訳ないんだが会社をスタートして直ぐに寝付いてしまう。恐縮、目が醒めても、ぼや~んとした時間が有難い。スマンなあ。

そんなとろ~んとした状態なのに、視神経が交差点の交通信号機に書かれていた東雲橋の名に反応した。信号のあった道路に平行して、金目川が流れていたから、平塚の大磯寄りの辺りらしい。

それをし・の・の・め・ば・しと読むことは出来たけれど、しののめって何だっけ? 確か、東の雲なので、朝陽か、夜明けに関することだったようだ、と高校古文の勉強を思い出していた 。

今読んでいる出久根達郎著の「御書物同心日記 秘画」の主人公の名前が東雲丈太郎(しののめ じょうたろう)だということもあって、偶然にして縁があるわいなと、この東雲って奴をもうちょっとだけ、正確に知りたかった。丈太郎は、紅葉山御文庫の最大行事である御風(おかぜ)干し(書物の虫干しである)に精を出していた。御書物方同心にとって一番忙しい時期に、丈太郎の身の回りで面白いことが次から次に起こる、そんな物語だ。

帰宅してPCの前に座った。

早速、Wikipediaのお世話になった。

東雲とは、日本の古語で闇から光へと移行する夜明け前に茜色に染まる空を意味する。本来は夜半過ぎから、夜が明けるまでの間を「あかつき」(暁)、「しののめ」(東雲)、「あけぼの」(曙)と細かく区分している。

また、別のWikipediaに、明け方は、明け(あけ)、夜明け(よあけ)、暁(あかつき)、東雲(しののめ)、曙(あけぼの)、黎明(れいめい)、彼誰時(かわたれどき)などがある、とあった。

彼誰時(かわたれどき)=彼(かれ)は誰(だれ)と見分けのつかぬ時、の意。(講談社・日本語大辞典による)

2011年8月9日火曜日

ミスターマリノス 松田逝く

MX-3500FN_20110807_122348_001

2010年12月4日 サポーターに横浜マの退団あいさつをする松田直樹選手=日刊スポーツ

以下の文章は、20110805 朝日新聞・朝刊の記事を基に、そこに一部私なりのコメントを入れて作成した。

JFL松本山雅の松田直樹選手(34)は、急性心筋梗塞のため練習中に倒れ、心肺停止で意識不明のまま長野県松本市の信州大医学部付属病院に運ばれ、懸命の治療も虚しく、意識が戻らないまま、20110804午後、死去した。

松田選手は、2日午前の練習に数分遅刻し、ランニングに2周遅れで合流。その後、ストレッチしている時に、「やばい、やばい」と言いながら倒れこんで、そのまま意識不明になった。現場にも、救急車にもAEDがなく、心臓マッサージを繰り返し、病院に到着した。その間の救急対応に、もう少し知恵があっても良かったのではないか、と悔やまれる。

MX-3500FN_20110807_122418_001

今年7月9日の松本山雅ー佐川印刷の試合前、整列する松田選手

彼の肉声は、You-Tubeで初めて聞いた。今、テレビのないアパート暮らし、気が付いた時にはYou-Tubeのスポーツコーナーのあれこれにウツツを抜かしていることが多い。半年前のことだろう、マリノスの退団の挨拶をサポーターに向かって、何をどのように喋ればいいのだろうか、とスタジアムに向かう車中、自ら運転しながら悩む姿が映されていた。自分で撮影できないから、助手席から、誰かが撮ったものだろう。

俺、人前で何を喋ればいいんだ?何も喋れないから、有難うございましただけでいいだろう?そんなことを真剣に悩んでいる様子の動画だった。それは、まるで中学生か高校生のようなあどけない子どもっぽさだった。そして、本番。マイク片手に、マリノスのタオルを首にかけて、胸に垂らしていた。俺はマリノスが好きで、サッカーが好きなんだ、と叫んでいた。確かに、整然として喋れていなかった。溢れる感情を抑え込めない、浮かんでくる言葉をそのままサポーターにぶつけていた。

松田は、戦う男だった。純真だった。

私は学生時代フルバックやセンターバックを専門的にやっていて、技術的に高度な技術を駆使するプレーヤーではなく、守るだけ、徹底的なマンツーマンで、相手攻撃の芽を摘み取る、刈り取ることだけに専念した。無骨に働き者だった。私ができるのはこれしかなかった。潰すことさえできれば、先ずは危機から逃れられる、それが、攻撃の起点に絶対になる、と信じていた。だから、相手に対するプレーは容赦しなかった。

キングといわれた元W大監督、元全日本代表コーチを務められた工藤孝一さんが、右足の不自由な体で、私の所までやって来て、杖でグラウンドに線を引いた。ヤマオカ、この線の中では、絶対、相手を自由にさせるな。必ず、潰せ、と厳命された。私もその通りだと考えて、これこそ、チームに貢献できる全てだと思った。

そんな私にとって、松田のプレーは実に快かった。自分もこのようにプレーできていたら!ひょっとして、とアホなことを空想しながら、心を奪われた。好きなプレーヤーだった。日本サッカーの戦うディフェンスの原型を作ったのではないだろうか。

日本代表が史上初めてW杯でベスト16に進出した2002年日韓大会では、フラット3と呼ばれる3バックの不動の右サイドDF。厳しい指導でならしたトルシエ監督が「試合に出さなければただじゃおかないぞ、という迫力を感じる選手」と評していた。

当時のチームのDFには、1対1の強さに加え、攻撃の起点になる力が求められていた。中学までFWだった松田はパスセンスにも自信を持っていた。

ジーコ監督の日本代表では、また違った「戦う姿」を見せた。連覇を果たした04年アジアカップ。出場機会は準々決勝の延長後半途中からだけだったが、控えの立場からレギュラー陣をもり立てた。川渕三郎日本サッカー協会名誉会長は、この時の松田を「縁の下の力持ちとしてチームを支え、控えだったにもかかわらず懸命に練習に励んでいた。彼が練習の先頭に立ってチームを盛り上げたことが優勝につながった」と功績をたたえた。全試合に出た中村俊輔が「あの優勝は松田さんのおかげ。W杯経験者がベンチでチームに尽くす姿を見て、力を振り絞ろうと思わない選手はいなかった、と話していた。その後、日本代表からは、声がかからなくなった。

この中村俊輔は、松田が倒れて亡くなるまで、2度も足を病院に運んだ。忙しい中村が、よくもこの短い間に足繁く見舞ったものだ。松田を思う中村の心痛が偲ばれる。

W杯南ア大会の予選が佳境を迎えていた09年、「02年が最高の自分だったと勝手に勘違いしていたが、もっとうまくなれると気づいた。もう一度、W杯に出たい」と話すのを聞いた。

「丸くなった」と言ってはいたが、ぎらぎらした目は変わっていなかった。しかし、2010年は怪我をして出遅れ、16年在籍した横浜マから戦力外を告げられた。

昨季最終戦、横浜マのサポーターの大声援に涙した後、「マリノスを愛しているが、ここでサッカーを辞めるわけにはいかない。僕はサッカーが好き。もっとサッカーをしたい」と宣言。今季はJFLで最も応援が熱いと言われる松本山雅でJリーグ昇格に向けて戦っていた。もう一度咲かせる花があるはずだった。

松田の人柄のことは、松田と関わった各氏が彼を偲んで語っているコメントを聞けばよく分る。そんなコメントを新聞、その他で入手したものを下に書き揃えた。

☆横浜マ・中村俊輔=「すべてにおいて、豪快な人。厳しいことを言ってくれる兄貴分でした。」「以前、『松本山雅をJ2に上げるの?』と聞いた時、『馬鹿じやん。J1に上げるんだよ」と怒られたことがあった」

☆横浜マ・栗原=「負けず嫌いな人で『いつになってもお前には負ける気がしない」と言われた」

☆横浜FC・三浦=「『カズさんが辞めるまでは(自分も)辞めない』と彼らしい強気なことを言ってくれた。刺激にもなったし、自分も頑張ろうと思っていたので残念」

☆神戸・宮本=「同じ時代をプレーしたマツ。日韓W杯のロシア戦で勝利し、抱き合って喜んだことは忘れられない」

☆名古屋・楢崎=「いつまでも手のかかる、周りを心配させるヤツですよ」

☆名古屋・三都主=「逝って欲しくなくて、止めたくて、呼びかけたけれど届かなかった」

☆横浜マ元監督・前日本代表監督・岡田武史=「マツは2年連続でJリーグ年間王者になった時に一緒に戦った仲間。自分にとっても、とても思い入れの強い選手だった」

☆ガンバ大阪・前アトランタ五輪日本代表監督・西野朗=「規格外のインターナショナルな選手だった。(五輪代表)では一番若かったが、年代の違いを感じさせなかった」「メンタルティも強かった。(そのタフさが)高じることもあった」、そして揉めたことだろう。

アトランタ五輪代表メンバーにはオーバーエイジ枠を使わずに当時19歳の松田を選出し、全3試合をフル出場させた。マイアミの奇跡だ。西野監督は、意見の違いさえ頼もしく感じていた。

「将来は指導者としても魅力のあるサッカー人だった」

☆ガンバ大阪・明神=「ヤンチャでワガママで気分屋なところもあったけれど、僕ら下の世代には、ああいう生き方がカッコいいと映った」