2011年2月25日金曜日

散歩雑感、月がとっても青いから

毎朝、4時半の目覚めと同時に布団から抜け出し、それから10分以内に家を出るのが、習慣になっている。散歩です。今朝(20110225)の4時半は暗かった。一旦は持ち出した手袋とマフラーを外に停めてある車のボンネットに置いて出かけた。外気は温(ぬる)い。以前は、可愛い犬のお供がいたのですが、今は一人っきりだ。持ち物は、歯ブラシ、タオル、携帯電話。この携帯電話には、歩数を計る機能がついている。

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夜半を過ぎて布団に入っても、必ず4時半には目が覚める。アラームのお世話にはならない。前夜、へべれきに酔って布団にもぐり込んだ。まだ脳底には酒精が澱(よど)んでいて、談笑の余韻がまだ残っている。それでも4時半になると、頭がクラクラして、足腰がフラフラして、顔が真っ赤でも、兎に角目が覚めるのです。そして起きる。

体がどんな状態でも、朝の外気は気持ちいい。雨が降っていようが、雪が降っても、冷たい風や強い風が吹きつけても、朝一番、外で吸う空気は気持ちいい。思いっきり空気を吸う。肺腑で酸素を得た血液が、脳細胞を刺激し体の各部を活気づける。

散歩コースがいくつもあって、その日の気分で選択するのです。旧街道、県道、裏道、公園を突きぬけ、店の閉まった商店街、樹木がこもった暗い道、その網の目になった道を、腕を曲げ伸ばし、首や腰を回しながら歩くのです。手を振り、足を上げて。距離を伸ばしたい時、アップダウンを求めたい時、コンビニでの買い物をしたい時、お好みのコースを選ぶのです。

今朝のコースは、天王町から桜ヶ丘高校前の学園通りを過ぎて、保土ヶ谷公園の中を突っ切って戻ってくる。公園の中の早朝の森林浴、薄暗闇の中で梅が満開だった。甘い香に誘われた。

今、寝起きしている場所での最初の頃は、散歩中、必ず「星は何でも知っている」を歌いながら歩いた。この歌は、子供の頃に平尾昌晃が歌って大ヒット、私は完全にマスターしていた。

私が陰日なたなく一生懸命頑張っていること、ちょっとサボったことも、友人や仕事仲間が考えていること、想っていること、そんなものは全て、「星は何でも知っている」んだ。

サムネイル

 

満天の星です嘘はいえません(作・薮内千代子)

 

友人に、君の考えていることは、星がみんな知っていて、私にそっと教えてくれているんだよ、と話したら、友人は怪訝な顔をしていた。

そのうち、いつの間にか、口ずさむ歌が「月がとっても青いから」にかわっていた。

月は太陽系の中でも、地球に最も近い自然の天体で、餅を撞(つ)く兎さんや竹取物語として、地球人は昔からこの天体を一番親しんできた。

遠まわりして帰ろうーーー、以前からこの歌詞が気に入っていた。私だって、恋人との散歩なら、どこまでも遠まわりしようと企てたことだろう。この歌も、幼少の頃にマスターしていた。先天的な音痴なので、他人様にはどのように聞こえようが、そんなことお構いなしだ。私はそれなりに上手に歌えていると思っている。

月は自ら発光しているのではなく、太陽の光を反射している。私の目には、白色だったり、黄色、橙(だいだい)色に見えることはあっても、どうしても青色には見えない。この歌の作詞者の意図は、感じ方はどうだったのだろうか。若い2人が月光を浴びながら、夜道を散歩している光景が目に浮かぶのですが、月の光が白でも黄でもなく、青でなくてはならなかったのは、何故か?

月夜の空は、濃紺のビロードのように見えることもあるのですが、月の色が青い?とはねえ。

月は地平線上で見たときとか、満月を、いつもよりは大きく見えるように感じるのですが、その視直径は、当然のことながら同じで、その大きさは腕を伸ばして持つ五円玉の穴の大きさにほぼ等しい、とネットで知った。

今朝の月は半月だった。つい先日、満月だったのに暫く曇り空や雨が続いたので、月を見たのが久しぶりだったのだ。一気(いっき)に欠けたように感じた。

5時半、散歩の最後には歯磨きと洗面のために公園に寄る。公園は住まいの周りにいくつもあるが、今日は、天王町駅前の公園にした。冷たい水が、口腔に、顔に気持ちがいい。でも、今朝の水はさほど冷たく感じない。

駅に向かって、電車に乗る人がばらばら集まってくる。まだ薄暗闇の中なので、俺はそんなに怪しまれてはいないだろう。正真正銘、決して、危険なオジサンではありません。

今日の歩行距離は約5キロちょい。いつもよりは長かった。

2011年2月23日水曜日

川柳でんでん太鼓 田辺聖子

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浪速(なにわ)のおばちゃん文士、田辺聖子さんの「川柳でんでん太鼓」(講談社)を読んだ。

小説現代の昭和58年の10月号から60年の7月号にかけて連載されたものを本にまとめたものだ。約800句ほどの川柳にそれぞれ田辺屋の女大将の解釈が添えられている。

田辺屋の女大将が選んだ川柳はどれも、それは愉快で抱腹絶倒ものから、苦々しくも悲痛、怒り心頭に至るものまでの人間の感性の豊かさが披露されていて、よくぞ皆さんいろいろと、詠ってくれているものだと感心させられた。無粋な私には、どの句も雲上の文学作品に思えて、頭がくらくらするばかりだ。一つ一つを評することは不可能だ。ただ、ただ感服しながら楽しませてもらった。

浪速の美人作家・田辺聖子さんの文章が、実に愉快で、大阪弁で、タナベセイコワールドをイカンなく表現されているのにも、感心、感激させられた。頭の切れる大阪の女子(おなご)はんには、かないませんわ!と言いたいところだ。

遅読で、遅読で、嫌になるほど本を読むのが遅い私が、今回は猛烈なスピ-ドで読んでしまった。どの句も、恥ずかしくなるほど狭量な私の感性の隅っこを、爪楊枝のようなもので擽(くすぐ)られた。気持ちがよかった。

その中から、幾つかを紹介したい。これらは、唯、私にとって面白かったり、痛快だったり、極めて同情したものであって、作品の良し悪し、優劣を言っているわけではない。くれぐれも、繰り返しますが論評できる知識も能力も持ち合わせていない。

女の人に、偽(いつわ)られたり、田辺聖子さんが仰るチメチメとされると、私の感性は異常に反応するようで、選んだその①とその②はその類のものだ。その延長線上に、少し趣(おもむき)は変わるのですが、男女問題においては同じ係累かと、おまけ、その④を追加した。

見事に鈍感な私でも、女性に関することに関しては異常に反応し易くなっているようだ。こんなことにナッチャッタのは、生まれながらの性癖か、成人になってからか、老境に入ったからか、どこで、私はこのようになってしまったのだろうか。

その③は、もうこれは私の「怒りの世界」でもあって、一旦、このような文章を目にしたならばそう易々とは引き下がれない。一生拘ります。そんな訳で、鶴彬(つるあきら)さんコーナーを、たっぷりとらしてもらった。誰もが、この人の作品は一読する必要があると思うのです。

以下、細字は筆立ち名人の女狐か女狸か?田辺のおばちゃんが、本に書いている文章のままです。

 

その①

いじめ甲斐ある人を待つ胡瓜(きゆうり)もみ  (田頭良子)

は、女のおかしさであろう。この「いじめ甲斐」がいいのだが、これは、姑(しゅうとめ)が嫁をいじめると解してはこの句はワヤになる。

無論、女が男をいじめるから、楽しいのである。

その男は人がよく(お人よし、とは少しニュアンスがちがう)少々のことでひがんだり、青筋たてていきまいたり、すねたりしない。何を言われてもニタニタしている。コタえてないのやろか、ともっときつく言葉でチメチメしても、それがかえって彼を面白がらせる。それは双方、お互いに好意をもち合っているからであろう。

好きなんである。

早く言えば。

そういう男にごちそうしようと胡瓜もみを刻んでいる。女の心うれしさというものは、まあ何と言えばよかろう。これは佳句(かく)である。

ついでに言うが、女に言葉でチメチメされて、つい同じように応酬する男はあかんのです。女は男女平等を口で唱えながら、やっぱり男性神話を信じているところがある。男は寛容で度量ひろくて、小事にこせつかず、頼り甲斐あると思いたい。だから女がウソついてもいちいちそれをあばき立てたりせず、チメチメしていじめても、ニタニタと看過していただきたい。よけい図にのっても、よしよしと言っていただきたい。

田辺のおばちゃん、チメチメされてとはなんじゃいなあ。チメチメしていじめる? 田辺先生、見本を見せてください--田辺ファンより。

 

その②

いつわりを庇(かば)うかたちで足袋を履く   (窪田久美子)

足袋を履くときは背を丸め、かがまらないとコハゼがはめられない。ソックスなら、突っ立ったまま、足を曲げてはけるが、足袋は体を曲げねばならぬ。

それを「いつわりを庇う」と表現した手腕は凡ではない。

女がよむと、どことなし、思い当たるというような、ドキッと一閃(いっせん)する鋭さがある。

しかく、女はみな、大なり小なり、いつわりにみちみちている、もっとも善なるいついわりもあれば美しきいつわりもあり、猛毒のいつわりもあれば、毒にも薬にもならぬいつわりもあるが、まあ大体に於いていつわりを持っとらん女は居(お)りませんな。

 

その③は、----。小林多喜二は「蟹工船」で世間によく知られたプロレタリア文学の代表的な作家だが、川柳にもプロレタリア作家がいたことを、私はこの本で初めて知った。

その作家というのが、鶴彬(つるあきら)だ。「飢えた胃袋で直感する」プロレタリア川柳作家だ。彼は一連の作品によって検挙され、獄死する。

小林多喜二ほどに鶴彬の獄死を知っている人は少ないと思われる。それは川柳という分野だったせいだろうか、と田辺聖子先生は仰っている。学校の教科書などで、短歌や俳句と同じ扱いで取り上げられたことなど、聞いたことがあろうか。

21歳、鶴は金沢第七連隊に入営。陸軍記念日(3月10日)に連隊長の訓辞を聞いて質問するという、前代未聞(みもん)のことをやらかす。一叩人(いつこうじん)氏の『反戦川柳人・鶴彬』に「かってみない勇気ある行動」とあるのもおかしいが、命令と服従で成り立っている軍隊で、新兵が連隊長に質問するというのは反軍行動である、重営倉へ収監され、結局4年余りを軍隊にとられた。

今まで幾度か書いてきたが、世間の人の川柳観は、日常卑近の野鄙(やび)な題材を面白おかしくまとめるもの、あるいはポルノまがいの狂句をさすもの、または新聞の時事川柳によくあるニュースを、五七五にしただけの、「はあ、そうですか」というほかない作品、---そんなものが川柳で、下世話(げせわ)にくだけた、ひまつぶしのお遊び、と思っている人も多いようだ。

田辺のおばちゃんは、怒っている。 ヤマ

本に出てくる順に、片っ端から転載させていただくことにした。そうして、句を連ねていくと、長詩のようになった。感動しました。

 

その③

手と足をもいだ丸太にしてかへし

高粱(こうりゃん)の実りへ戦車と靴の鋲(びやう)

屍(しかばね)のゐないニュース映画で勇ましい

出征の門標があってがらんどうの小店

万歳とあげていった手を大陸へおいて来た

胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき

 

タマ除(よ)けを産めよ殖(ふ)やせよ勲章をやらう

稼(かせ)ぎ手を殺してならぬ千人針

ざん壕で読む妹を売る手紙

 

玉の井に模範女工のなれの果て

みな肺で死ぬる女工の募集札

ふるさとは病(やま)ひと一しよに帰るとこ

修身にない孝行で淫売婦

お嫁にゆく晴着(はれぎ)こさへるのに胸くさらせてゐる

ふるさとへ血へど吐きに帰る晴衣(はれぎ)となりました

吸いにゆくーーー姉を殺した綿くずを

売られずにゐるは地主の阿魔(あま)ばかり

 

働けばうづいてならぬ●●●●のあと  注「ごうもん}が該当すると推定される

 

仇(かたき)に着す縮緬(ちりめん)織って散るいのち

日給三十五銭づつ青春の呪(のろ)ひ織り込んで

 

神代から連綿として飢ゑている

これしきの金に主義一つ売り二つ売り

銀座裏残飯(ヅケ)を争う人と犬

 

暁(あかつき)を抱いて闇にゐる蕾(つぼみ)

 

半島の生まれ〈連作〉

半島の生まれでつぶし値の生き埋めとなる

内地人に負けてはならぬ汗で半定歩(筆者注・日本人の賃金の半分)のトロ押す

半定歩だけ働けばなまけるなとどやされる

ヨボと辱(はづか)しめられて怒りこみ上げる朝鮮語となる

鉄板背負う若い人間起重機で曲がる背骨

母国掠(かす)め盗(と)った国の歴史を復習する大声

行きどころのない冬を追っぱらはれる鮮人小屋の群れ

 

しゃもの国綺譚(きたん)〈連作〉

昂奮剤射たれた羽叩(たた)きてしゃもは決闘におくられる

稼ぎ手のをんどりを死なしてならぬめんどりの守り札

賭(か)けられた銀貨を知らぬしゃもの眼に格闘の相手ばかり

決闘の血しぶきにまみれ賭けふやされた銀貨うづ高い

遂にねをあげて斃(たお)れるしゃもにつづく妻どり子どりのくらし

勝鬨(かちどき)あげるしゃもののど笛へすかさず新手(あらて)の蹴爪(けづめ)飛ぶ

最後の一羽がたふれて平和にかへる決闘場

しゃもの国万歳とたふれた屍(しかばね)を蠅(はへ)がむしってゐる

をんどりみんな骨壷となり無精卵ばかり生むめんどり

をんどりのゐない街へ貞操捨て売りに出てあぶれる

骨壷と売れない貞操を抱え淫売どりの狂ふうた

 

おまけ、その④

おまけです。特別に追加したのは、どうしてもこの川柳をこのコーナーに写し置きたいと思ったのです。その真意って? だからって、今度会ったときに私の目の奥を覗き込まないでくださいね。こ、こ、だ、け、の、話、、、、、、だからね。

愛咬(あいこう)やはるかはるかにさくら散る   『時実新子(ときざねしんこ)』

愛咬の美しい歯形はその一つ一つがさくらの花片と化し、まなかいを散りまがう。夢の瘢痕(はんこん)はさくらなのか、さくらは目くらむ恋のうつつの吹雪なのか、裸身におしあてる愛の印判。かぐわしきエロスが匂い立ち、心を振盪(しんとう)させる。そしてまなうらいっぱいにさくらは散る。

田辺のオバチャン、ようそんなに恥ずかしい文章をスラスラ書けるな!感心です。田辺のオバチャンに会いたいと思う。 ヤマ

注 まなかい=(眼、間、目交い) まのあたり

   まがう=(紛う) 入りまじる

   かぐわしい=(芳しい、馨しい、香しい) かおりがいい かんばしい

だだ、ダ、だ~ん、萎(しな)びた男ども、目が醒めたか!!!

2011年2月21日月曜日

ネット世代が動かした、エジプト革命

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チュニジアのジャスミン革命の次はエジプト革命だった。いずれの革命も、主役は市民だが、大いに活躍したのはインターネットだった。市民デモの中核メンバーは幾人もいるのでしょうが、ネットを駆使しての仕掛け人、二人のことが紹介されていたので、20110215の朝日・朝刊の記事をダイジェストさせてもらった。

 

これは革命だ 確信した。

エジプトデモ、呼びかけた30歳

思いもしない大群衆

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その一人、アフマド・マヘルさん(30)。

1月25日のエジプトの祝日「警察記念日」にデモをしようと計画したのは、昨年12月のことだ。「威張って国をだめにしている張本人が警察官。その記念日なんてお笑いぐさだと訴え、失業問題や貧困に関心を集めようと思った」という。大学で土木工学を学んだ。就職口はなかなか見つからなかった。選挙は不正ばかり。友人らと3年前、賃上げや民主化などを訴える「4月6日運動」を立ち上げた。インターネットの交流サイト・フェイスブックなどで呼びかけ、デモを始めた。だが、デモをしても警官の方が参加者より多かった。

1月25日のデモも「二、三千人くればいい」と思っていた。フェイスブック上の別のグループも、この日のデモを呼びかけていた。

そこに同14日、チュニジアでベンアリ政権が倒れた。デモ呼びかけへの賛同者が突如として増え始め、7万人を超えた。ネットの威力に、改めて驚いた。

25日。1万人は優に超える市民がカイロ中心部タハリール広場に集まった。最初の「若者に仕事を」「汚職を追放」といったシュプレヒコールは、いつの間にか「独裁政権打倒「ムバラク追放」に変わった。

26日、27日とデモを続けながら次の手を打った。イスラム教金曜礼拝がある28日の大規模デモの呼びかけだ。政権側は携帯電話とインターネットを遮断したが、メンバーが各地に走り、デモのことを知らせた。午後1時過ぎ、金曜礼拝を終えた人々が、各方面からタハリール広場に向かった。「ガルベーヤ」という伝統的な服を着た貧しい農民や労働者、ジーンズ姿の若い女性、家族連れ。その多くは、これまでのデモで見かけたことのない顔ぶれだった。

マヘルさんは腹をくくった。「チュニジアを見て、人々の勇気に火がついた。これはもはや抗議活動じゃない。革命だ。この流れは、だれにも止められない」

今月11日午後6時過ぎ、ラジオでムバラク退陣を知った。

マヘルさんは言う。「デモは、まだ続けるよ。エジプトが自由で民主的な社会になるまで、僕らは闘う。あきらめない。これまでも、いつか変化はくるとずっと信じていたのだから」

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(ひび割れたムバラク大統領のイラスト 越田省吾撮影)

 

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(戦車に上り写真を撮る子供たち 越田省吾撮影)

青年の涙 ネット世代動く

もう一人、インターネットを通じて決定的な役割を果たしたのは、ワエル・ゴネイムさん(30)。

検索サイト「グーグル」のドバイ駐在社員としてインターネット技術に精通。匿名で立ち上げたフェイスブック上のグループ「ハレド・サイード連帯」で1月25日のデモを呼びかけてエジプトに帰国したところを、拘束された。

「ハレド・サイード連帯」は、昨年6月に北部アレクサンドリアのネットカフェで身分証明証の提示や所持品検品を拒否したために警察官の暴行を受けて死亡し、圧制による理不尽な犠牲の象徴となった28歳の青年の名を冠した。フェイスブック上の賛同者は70万人を超えている。

ゴネイムさんは、釈放された今月7日夜、テレビ局のインタービューで、自分の呼びかけたデモで命を落とした若者たちの写真を見て絶句。「僕は安全なところからキーボードを叩いただけだ。英雄は街頭にいるあなたたちだ。権力にしがみつくやつらが悪いんだ」と泣きながら語った。

これが共感を呼び、映像サイトのユーチューブに転載され、フェイスブックでは「僕らはゴネイムを信じる」という新たなグループができた。参加者が減りつつあったデモが、匿名をかなぐり捨てた青年の涙で、息を吹き返した。

10日のデモが初参加だった医師タレク・ワヒドさん(26)は「ワエルさんのような有能なエジプト人が母国を愛して行動している。デモに参加して殺され、けがをした人々もいる。自分も何かしなければと思った」と話した。

無党派の若者主体の民主化運動グループ「4月6日運動」もデモ動員の土台を作った。2008年4月6日、北部の工場であった賃上げストに連帯したフェイスブックなどで呼びかけたのを原点とする。中心となる学生らはその後、複数のデモにかかわり、一定の経験を積んできた。賛同者の多くは「ハレド・サイード連帯」と重なる。

治安当局に拘束された大学生(23)は「どこの国にカネをもらった」「お前はイスラム過激派か」と尋問を受けた。「ネットでデモを知り、加わった普通の若者が中心だということを、体制側は理解できていなかった」と話す。

「エジプトは、本当の民主主義を知らずにきた。僕らの世代は、こんなことができるなんて想像すらしなかった。世界に通じる価値観を求め、それを実現する知識も持つ若者たちの新しい精神は、宗教や世代の違いを超えて伝わったよ。多分、最後にはムバラクにもね」

カイロ=貫洞欣寛、古谷祐伸

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(タハリール広場でムバラク退陣を祝う人たち 越田省吾撮影)

 

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(犠牲者になった人たちの写真が立てかけれている 越田省吾撮影)

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朝日・朝刊

社説/エジプト革命

自由と民主主義の浸透を

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若者たちが立ち上がり、それに市民が合流した。20年続いた強権支配は18日間で崩れた。民衆の支持を失った権力者の哀れを印象づけたエジプトのムバラク大統領の辞任だった。

前夜に演説し、辞任を否定した。ところが翌日、副大統領から退陣を発表されることになった。

100万人の市民が連日、カイロのタハリール広場に集まって「大統領の辞任」を求めた。デモが全国的に広がってはもつはずもない。20世紀末の東欧を思い起こさせる民衆革命である。

強権支配の下で言論の自由はなく、政府批判には秘密警察が目を光らせていた。政府に腐敗が広がり、若者たちは、有力者のコネがなければ満足な就職もできない。

若者たちの希望を奪ってきた体制だった。それだけに、大統領辞任に歓喜するエジプト国民の思いは世界に伝わった。しかし、辞任させて終わりではない。大変なのはこれからである。

軍が全権を握ることになった。

民政への移行が火急の課題となる。民主国家として生まれ変わるために、憲法の改正と総選挙が必要だ。

そして新しい政府では、軍が政治に介入したり、軍人が大統領や閣僚になったりするこれまでの仕組みを、改めなければならない。

憲法や選挙法などの整備に若者を含めて国民の幅広い参加が必要である。

国民の間に、自由と民主主義を浸透させる作業が必要だ。選挙ひとつとっても、これまではテレビは与党の選挙運動だけを放送し、野党の選挙運動に様々な制約が課された。金権選挙が横行し、議会の圧倒的多数を与党が占める一党独裁体制が続いた。

民主化支援で、欧米の国々は政府や非政府組織(NGO)が草の根的な取り組みまで積極的にかかわっている。

日本も及び腰にならず、準備段階から専門家を派遣し、エジプトの民衆とともに民主化に取り組むNGOの活動を支援するなど、積極的な取り組みを進めたい。

カイロには、アラブ連盟の本部がある。エジプトはアラブ世界の調整役であり、中東和平の仲介でも重要な役割を担う。エジプトの民主化の達成に国際社会が支援すれば、アラブ諸国や中東にとってもモデルになる。

チュニジアで1月に始まった民主化の動きは1ヶ月でエジプトに及んだ。強権支配が横行する中東で、この動きは止めることができない。

民主化に抵抗し、権力にしがみついたムバラク大統領の見苦しい姿は、中東の指導者たちに、直ちに民主化にとりかからねばならぬという教訓を与えたと期待したい。

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(タハリール広場で投石に使われた石を片づける市民たち 越田省吾撮影)

2011年2月19日土曜日

何年ぶりの銭湯だろうか?

何年ぶりの銭湯だろうか、と感慨深げに湯船に浸かっていた。

今、個人的なちょっとした事情で一人暮らしをしている。その寝食の場には、アメニティの何もかもが整っているのですが、唯、風呂だけがないのです。

そんな不自由を解消しようと、弊社の隣にあるスポーツクラブの会員になったのです。今更、手足を上げ下げして筋肉をつけたり、尻を振ったりする心算はなかったのですが、サウナと風呂が魅力だったのです。施設の利用規則がいくつかあって、それでついつい足が遠のいていった。そして、私が向かったのは、やはり昔馴染みの銭湯だった。

以前、銭湯に行ったのは何年前のことだろう、大学4年生の時、カッチャン風呂に最後に行ったのが、銭湯に行った直近になる。と、すれば、約40年前のことになる。10年一昔と言うが、、、ええ、そんな昔のことになるのか!!

カッチャン風呂の正式な屋号は伏見湯(東京都西東京市東伏見)だった。可愛い娘さんが番台に座っていて、そのことだけが楽しみで通った。そのカッチャン風呂のお姉さんはサッカー部の先輩と結婚した。私は、妹さんのファンだった。ただ、私たちはニッコリ微笑みを交わすだけの特殊?な関係。その銭湯の在った所は今はマンションにかわっている。

サッカー部に所属していた私は、グラウンドの隣にあるクラブハウスの浴室をよく利用した。が、この浴室を利用するには、先輩よりも先に入ることができても、気兼ねをしなくちゃナランかった。後になればなるだけ湯が汚れ、ついつい入りたくなくなる。泥だらけの体にくっついて持ち込まれた砂は、いつまでも湯船の床にジャリジャリと溜まっていた。

そして、時間に余裕があるときは、この風呂に入らないで、先ほどのカッチャン風呂に行った。私は、田舎で育ったものだから、大学に入るまでは、銭湯の経験は薄かった。高校があった宇治市で、一度か二度ぐらいだろう。人前で素っ裸になったのは、数少ない銭湯と、修学旅行などでみんなで大きな風呂に入ったぐらいしかなかった。

大学時代のクラブハウスの風呂での1コマを思い出した。この風呂はいつも汚れていたのですが、絶えず新しい湯が加えられているので、みんなが入浴を済ませて、それからしばらくすると、砂は除かれないものの、湯は澄んでくる。ゆっくり入れる者にとっては好機なのです。そんな時機を見計らって、私はよくこの風呂を利用していたのです。なんせ、タダなんですから、貧乏人の私には有り難かった。

練習を終えて、寮で十分休んでからクラブハウスの風呂に出かけた。管理人の藤間のオヤジが栓を抜く前に入らねばと急いだ。更衣室でトレーニングウエアーを脱いでいると、浴室から歌声が聞こえてきた。誰も居ないと思っていた。テレビドラマの忠臣蔵の主題歌を歌っている奴がいる。私は静かに覗き込んだが湯気でよく見えない、が、察しはつく。一人で、メガネをかけたまま、目を閉じて、歌詞にウットリ、曲調に身を委ね、大声で、他人を寄せ付けない雰囲気があった。きっと、アイツだ。まさか、誰かが進入してくるとは、思っていないのだろう。

ドアを開けて、そいつを確かめたら、案の定、1年後輩の広島・国泰寺高校出身の松若だった。入学したばかりの1年生だ。現在は、マツダ工業の偉いさんになっていることだろう。オーい、松若、どうしたんだ? 松若の目には涙が溢れていた。おい、どうした? 顔が変にゆがんでいた。お~い、松若、何を考えていたんだ? 彼の口から出た言葉は、この歌が好きなんです、だけだった。それから、より大きな声で、怖い顔して再び歌いだしたのです。何に彼は思いを馳せていたのか、私には解らない。広島で、歓送会をしてくれた友人、恩師のことを思っていたのだろうか。それとも家族のことか、彼には似合わないけれどまさかの恋人?のことでも思い出していたのだろう。我々は多感だった。そんな青春時代のことを思いだしてしまった。

田舎では、農繁期などは家庭風呂でさえ毎日沸かすわけにもいかなくて、近所の家に風呂を貰いに行ったり、逆に、私の家に近所の人が風呂に入りに来ることは、しょっちゅうでした。

第二常盤湯

(これは、銭湯業協会の写真を勝手に使わせてもらったのですが、このおばあちゃん、写真と全然変わってない、可愛いおばあちゃんだった)

今日初めて行った銭湯は、保土ヶ谷区帷子町の第二常盤湯という。第一常盤湯は保土ヶ谷区の峰岡にあったのですが、その方は戦災で燃えてしまったのですが、この第二の方は戦災を免(まぬが)れたようです。昭和27年に建て替えられたそうだ。商店街の道路から1,5メートル幅の脇道を30メートルほど入ると、そこにこの銭湯があった。番台から上品なおばあちゃんが、可愛い声で、いらっしゃいと迎えてくれた。

昔馴染みの、情趣溢れた銭湯で、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の一場面のようだ。

何もかもが古びていているが、けっして不衛生ではなく、きちんと管理されているのが微笑ましかった。きっと、このおばあちゃんが、せっせせっせと、掃除しているのでしょう。床は奇麗に拭き磨かれている。おじいちゃんの姿は見えない。娘夫婦か、息子夫婦の誰かが陰で手助けをしているのだろう。洗い場も奇麗だ。タイル壁には定番の富士山ではなくて、京都・竜安寺の庭のような、枯山水が描かれている。このような絵模様は珍しい。黄色いポリの洗面器の底には、赤い字でケロリンと書かれていた。懐かしいーーーー、ニンマリしてしまった。

私以外は、きっと通い慣れたお客さんなんだろう。きょろきょろしているのは私だけだ。ここの銭湯の贔屓客は、それぞれマイボックスがあてがわれていて、そこにタオルや歯磨き、石鹸など私物を預けている。蓋は開きっぱなしなので、大事な物は入れることはないだろうが、仕事からの帰りなどに寄るには便利だろう。

第二常盤湯第二常盤湯

入浴料は450円也でした。サウナに入って、30円で買った石鹸で、風呂に入っていなかった5日分の垢を落とした。一度石鹸を塗りつけたタオルで全身をこすった。そして同じようにもう一度全身をこすった。頭も石鹸でごしごし洗った。頭がフケだらけだったのだ。それが気になって風呂に強く入りたくなったのです。足の指と指の間も洗った。こんなところを洗うだけで、なんでこんなに気持ちよくなるのだろう。

とりあえず、久しぶりに行った銭湯が嬉しかったのです。

2011年2月17日木曜日

鳩山氏側からの反論を乞う

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鳩山 由紀夫

鳩山由紀夫氏が首相の座を降りる時に、次回の選挙には出ませんと言った。それを聞いた私は、そりゃそうだろう、この首相の任期中の失政のヤマは、辞めるぐらいのことを言わないと、国民は許してくれないだろう、と思っていた。人様に顔向けできない、まして沖縄県民に対しては、尚更だ。

そしたら舌の根の乾かぬ内に、辞めるどころか、政府の要人として、中国やロシアを訪問して、今後も議員活動を続けると言った。内政の失敗の総括もしないうちに、外交で仕事をしているようなパフォーマンスをやってくれた。民主党の創設者としての矜持だけはお持ちなようだ。

むさ苦しくて、邪魔で、目障りなのに、かっては民主党の党首であり内閣総理大臣であった故に、氏の活動の報道は、並みの議員扱いではない。やはり、記者は否応なしに注目する。扱いも大きくなる。

小沢一郎

そして、昨今、氏は何をほざいているかと言えば、小沢一郎の政治資金規正法の虚偽記載について、当初小沢氏は、国会の場で説明しますと言っていたのですが、その後政治倫理審査会なら、出席します、と言い代え、それから出席する時期が予算国会が始まる前とか、後ならばとか、言を何度も変転させた。最後には、何処にも出席しません、ときたもんだ。先月末、検察の不起訴を覆して検察審査会が起訴議決し、強制起訴された。そして公判が進められる段取りになっている。民主党常任幹事会で、党員資格を判決が確定するまで停止する処分を15日に決めた。

このような民主党内での小沢一郎と執行部のやり取りを、鳩山氏は執行部による小沢一郎イジメだと言い張った。この問題を、いじめ、とか言って憚らない。この男はどこまで狂っているんだろう。

そして、ここにきて「方便」発言だ。米軍普天間飛行場の移転先を、「国外、最低でも県外」を目指すとアピールして政権交代を果たした。が、それは無理なことだと認識して、元通りの辺野古案に回帰した。その際、「学べば学ぶほど」「海兵隊の抑止力を知った」と。そして抑止力という言葉を使用したのは「方便だった」と発言。何も解ってない、アホな首相だ。「国外、最低でも県外」案は、「一笑に付されていた」と言い、外務省や防衛省では全然相手にされなかった、とも言ってのけた。馬鹿か。政府の最高責任者が、何てことだ。民主党の政治主導という掛け声はいいけれど、裸の王様だと笑ってなんかいられない。

決定的なことは、米国に最初から私自身が乗り込んでいくべきだった、と言った。当たり前のことではないか。自ら乗り込むか、代理を送り込みながら電話ででもオバマ大統領と直談判することだって可能だったはずだ。緻密な日常の仕事をサボって、絵空事を公約にしてします、もうアホか馬鹿を通り越して、狂人としか思えない。

民主党の創設者と、軒先を借りて母屋を掻っ攫おうとした者が、2人して民主党を壊そうとしている。壊した方がいい、と思う。党としての目先と将来ビジョンを併せ持たないままに、スタートしてしまった未熟な党だ。

鳩山氏に対する怒りはつのりばかり、さりとて文章にできないもどかしい日々の最中(さなか)に、今朝の朝日新聞は社説で鳩山氏の発言を取り上げてくれた。

鳩山由紀夫さん、今後とも議員活動をなさるなら、この朝日新聞のあなたに対する批判に、答えて欲しいと思うのです。

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20110216

朝日・朝刊

社説/鳩山氏の発言

「方便」とは驚きあきれる

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「最低でも県外」という公約を果たさなかったばかりか、その理由として米海兵隊の抑止力を挙げたのは「方便」に過ぎなかったとは。

沖縄における背信をさらに重ねる行為以外のなにものでもない。

鳩山由紀夫前首相が沖縄タイムスなどに、米軍普天間飛行場の移設問題に対する政権当時の取り組みを語った。

鳩山氏は昨年5月、自公政権が決めた名護市辺野古案に回帰した際、「学べば学ぶにつけ」沖縄に海兵隊が存在することで米軍全体の抑止力が維持できるという思いに至ったと説明した。

しかし、インタービューでは「辺野古に戻らざるを得ない苦しい中で理屈づけをしなければならず、考えあぐねて『抑止力』という言葉を使った」と、後付けの理由であることを認めた。

沖縄県民はすでに県内移設ノーの固い民意を示しているが、今回の鳩山発言で政府への不信を一層深めるだろう。辺野古移設を確認した日米合意の存立を揺るがしかねない事態である。

菅直人首相は基地負担の軽減や経済振興策を通じ、沖縄との信頼関係を築き直したうえで、何とか地元の理解を得たい方針だが、その道のりはさらに険しくなった。

鳩山発言への見解を問われた菅首相は「沖縄の海兵隊を含む在日米軍全体として、我が国の安全、地域の安定に大きな役割を担っている」と繰り返した。このような紋切り型の言葉が沖縄県民の心に届くはずがない。

菅政権が引き続き日米合意の実現を目指すというなら、海兵隊の抑止力や沖縄駐留の必要性について根本から、丁寧に説明し直すことが不可欠だ。

今回、改めて鳩山氏の稚拙な政権運営の実態が浮き彫りとなった。

成算のないまま沖縄県民に期待を抱かせた。政治主導の看板とは裏腹に、外務・防衛両省の壁を突き崩せなかった。首相として関係閣僚を束ねるリーダーシップも発揮できなかった。対米交渉にも本気で当たらなかったーーー。

鳩山氏は、政治家としての言葉の軽さをこれまで繰り返し露呈してきた。氏個人の資質に最大の問題があることは言うまでもない。しかし、そこに民主党政権の抱える構造的な欠陥が凝縮して表れている側面も否定できない。

言いっ放し、やりっ放しではなく、錯綜する利害やもつれ合う議論を解きほぐし、説得し、ものごとをまとめ、決めていく能力の不足である。

菅首相は一連の政治プロセスを深刻に省み、二度と失態を繰り返さないよう教訓をくみ取らなければいけない。

今年前半に予定される訪米時には同盟深化の共同声明も発表される。

菅首相の強調する「日米基軸」を、沖縄に基地負担を強い続ける免罪符にしてはならない。今度こそ本気で沖縄の負担軽減に向き合うべきである。

2011年2月15日火曜日

ムバラク大統領辞任

20110114、チュニジアのベンアリ前大統領が国外に追いやられるように逃げた。23年間も続いた強権政治を民衆の力がねじ伏せたのだ、見事な民衆革命だ。その民衆革命を国の花になぞって、ジャスミン革命と呼ばれるようになった。民意、民衆の力をみくびった為政者を葬ったのだ。

今度は、20110214、エジプト・ムバラク大統領だ。

各国の民衆革命後、中東の国々、北アフリカ、特にアラブ諸国がどのような情勢に推移していくのか、気になるところだ。混乱するのか、安定するのか、不安は付き纏うが、自国のことは自国の叡智と努力で何とか安定化して欲しいと思う。

アメリカ・イスラエルやイスラム圏の安全保障環境が一時的には混乱するのだろうが、どうか、穏便に民主的な手法で国が、地域が治まって欲しいと思う。

この類のニュースに、私の血は異常に滾(たぎ)るのです。先天的に無謀な私は、後先(あとさき)のことよりも、このような混乱が愉快に感じるのです。でも、そんなことに糠(ぬか)喜びしているわけにはいかない。これからが肝腎。どうか、革命後の政治のリーダーには頑張ってもらいたい。二度と、革命前と同じようなファラオ【国民を虐げる圧政者】の誕生はご免だ。

民族や宗教、主義主張は変われども、誰もが平和を望んでいるのです。平和第一主義でその政治を司って欲しいものです。俺を裏切らないで欲しい!!!

 

20110212の朝日新聞・朝刊の記事から

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(タハリール広場で11日、ムバラク大統領の退陣を求めて気勢を上げる市民たち=越田省吾撮影)

【カイロ=貫洞欣寛、古谷祐伸】エジプトのスレイマン副大統領は11日、ムバラク大統領が辞任し、軍の最高評議会に権限を渡したと発表した。ムバラク氏は10日夜(日本時間11日朝)にテレビ演説し、大統領としての権限をスレイマン副大統領に移譲すると発表。同時に、大統領としての地位にはとどまる意向を示していた。だが、即辞任を求める大規模デモが11日も起き、激しさを増したことなどから、辞任を決断したとみられる。

中東の地域大国エジプトで5期30年にわたり強権支配を続けてきたムバラク氏が大衆行動によって追いつめられ、退陣したことは、今後の中東各国の情勢に大きな影響を与えることになるとみられる。カイロ市内では発表直後、一斉に車のクラクションが鳴り、タハリール広場のデモ隊は歓声を上げて大騒ぎになった、

一方、エジプト軍最高評議会は11日、声明を発表し、①混乱収束後直ちに非常事態令を解除 ②総選挙の結果に関する不服申し立て受理 ③憲法改正 ④自由で公正な大統領選挙の実施 ---を保証するとした。さらに、権力移行が完結するまでは市民の要求に真剣に向き合い、デモ参加者を訴追しないことなどを確約した。

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(タハリール広場で10日、演説するムバラク大統領がスクリーンに映し出された=越田省吾撮影

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中東壮大な実験始まる

中東アフリカ総局長/石合 力

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サダト大統領暗殺、湾岸戦争、そして米同時多発テロ。「1」のつく年は中東世界で大乱が起こるといわれる。2011年が始まったとき、エジプト国民には9月の大統領選で二つの選択肢しかなかった。ムバラク氏の6選か、次男ガマル氏への権限委譲かーーー。わずか40日あまり後、民衆は自らの力で、どちらでもない選択肢を手に入れた。

チュニジアでベンアリ独裁体制を崩壊させた「ジャスミン革命」に続くエジプト民衆革命は、フェイスブックやツイッターや携帯電話でつながった「ネット力」が強権政治を突き崩す武器になることを改めて証明した。失業、腐敗、人権抑圧に対する若者らの「理由ある反抗」は世代を超えて国民を巻き込んだ。

一連のデモの間、タハリール広場は、縁日のようなにぎわいだった。即席のスクリーンでテレビに見入るひと。焼け焦げた治安車両の脇でサッカーに興じる少年。20代の女性は携帯電話で記念撮影をしていた。被写体は「これがムバラク政権の墓場だ」と書かれたゴミの山だった。

ジャスミン革命は、権力に従順だった中東アラブの民衆意識を決定的に変えた。自由と権利を求める人の波は戦車にも治安部隊の銃にも勝てる、という自信を与えた。

30年前の大乱以来、「現代のファラオ」となったムバラク氏は、その意識変化に最後まで気づかなかった。ネットと携帯を遮断し、治安部隊で一度は強制排除したが、力で抑え込もうとすればするほど、デモは広がった。「携帯電話の女性」はもう、怖がってはいなかった。

中東アラブ諸国に限らず、強権支配を続ける国の指導者は、ネットを活用した民衆革命の波がいつ来るのか、気が気でない日々が続くだろう。

「ムバラク後」のエジプト政治は、与党の翼賛体制からムスリム同胞団を含む複数の野党勢力が参加する新たな形を模索する。

だが、その行方は必ずしもバラ色ではない。長年の抑圧で、ただちに政権を担える野党勢力は存在しない。イスラム勢力の政治参加が突出すれば、アルジェリアやパレスチナ・ガザ地区の二の舞になりかねない。強固な治安組織が解体されなければ、新たな独裁が顔をもたげてくる。

親米アラブ穏健派の代表格だったエジプトの激変が、地域の安全保障環境に影響を及ぼすことは間違いない。民意が新政権にストレートに反映されれば、従来の親米路線が維持されるとは限らない。イスラエルは、安保政策の見直しを迫られるだろう。イランは「イスラム革命」輸出の好機とみている。権力の空白に乗じて、国際テロ組織アルカイダなど過激派の動きが活発化する恐れもある。

一連の政変は、口先で民主化を促しながら、過激派の伸張を防ぐという名のもとに強権支配を容認してきた欧米各国の矛盾も浮き彫りにした。人びとが訴えた自由の拡大や、貧富の解消をどう側面支援していくのか。日本には、どのような役割があるのか。

エジプトのジャスミンが、本当に花開くかどうか。それは、中東世界の今後を左右する。強権を崩したネットの破壊力を、民意をくみ取る創造力に転化できるかどうか。大乱の年は、中東全体の壮大な実験が始まる年でもある。

2011年2月12日土曜日

甘夏蜜柑が鈴なりだ

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イーハトーブの果樹園では、甘夏蜜柑が鈴なりに生った。

私の果樹園の名前を、私の勝手で宮沢賢治さんにつけていただいた。賢治さんは、宇宙の何もかもを愛した人だ。私如きちっちゃな石ころ見たいな人物の素行を許していただける筈だ。その名は誉れ高い「イーハトーブ果樹園」です。

年末に様子を見に行ったところ、実が余りにも沢山生って、何本かの枝は今にも折れそうだった。間引きしなかったことが悔やまれた。いずれも、昨年のものより小粒だ。どの実も、確実に熟す段階に入っていた。一昨年は3個、昨年は14個が採れた。今年は、50個近く生っていた。幾つかは落下していた。落下を見つけたら、収穫の時期にきているのだ。

蜜柑の生態で、実が熟すと落下を促すシステムがきちんとあるんだろうと思う。熟すと実と枝の接合部分に離れやすくなるように、その接合部分に何かが発生したり、消失したりするんだろう。

お隣の方にも声を掛けた。胸を張って、自由に採って食べてくださいねと。いつも雑草を刈って貰っているのです。盆暮れのビールを届けるだけでは、心苦しいかった。

一緒に蜜柑を採りに行こうよと誘ってものってこなかった孫・晴は、私が20個ほどビニール袋に入れて車に戻ってくると、オウーと驚いて見せた。彼の想像の域を超えていたのだろう。

昨年、夏には桃、無花果が生って、秋には栗、柿、ブルーベリーが生った。甘夏蜜柑を採り終えた。金柑がいっぱい生っていて、熟するのを待っている。金柑がとりわけ好きなんです。子供の頃から、「金柑、皮食って、実やろうか」と口癖だった。豊穣じゃ、豊作じゃ。

上の写真は、収穫の途中で写真を撮ることを思いついたものです。

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蜜柑を採り終えて、他の果樹をチェックして廻った。寒いとか、風が冷たいとか言いながらも、誰もが春を待っている。梅一輪、一輪ほどの暖かさ、だ。そうだ梅の木も植えなくてはいかん。

栗の木の下に、植えた覚えがない水仙が5,6株、花を咲かせていた。水仙の花に目が釘づけになった。そろそろ、フキノトウでも顔をだすのではないか、今年見つけたら、天ぷらにしてやるぞ、そんなことを考えていたので、水仙の花は不意打ちだった。

ネットで拾った情報を書き加えておく。ギリシャ神話で、美少年ナルシッサスが水面に映る我が姿に見とれ、そのまま花になってしまったのが、水仙だということです。英名はnarsissus。自分の美貌に酔いしれる人をナルシストと呼ぶのもここからきているのでしょう。

水仙は、この果樹園の中で一番最初にに春を告げている。むやみやたらに、嬉しくなった。確実に春が近づいてきているのだ。

ここに居ると必ず、幸せな気分になるのです。今回も、幸せな気分は裏切らなかった。

2011年2月11日金曜日

アゴタ・クリストフ/道路

20110211、ブレヒトの芝居小屋でお芝居を観てきた。

 

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この劇団と私は、40年以上のお付き合いになる。学生時代、芝居小屋の隣町の東伏見に住んでいて、テレビドラマの脚本家の牛さんにこの劇団に連れて行かれたのが、お付き合いの始まりだった。

お芝居の内容については、後記に委ねる。劇団代表の入江洋佑さんとその息子さん・龍太と私の写真を撮ってもらったのでここに、貼り付けた。洋佑さんと息子・龍太の顔を広く昔の友人達に紹介したくて、私が無理無理に企画したものです。実は、入江親子のその後の顔を見たいという、私の友人からの要請でもあったのです。

息子と親父がそっくり、と言うことは世間にままあることだけれど、じっくり、この写真をお楽しみください。公開することを快諾していただきました。カメラマンは、この芝居小屋によく付き合ってくれる仕事上の友達だ。この友人は戯曲を読むのが楽しいと言い、昔は戯曲しか読まなかったと言う。私には戯曲を読みこなすだけの能力がない。

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20110211 19:00~

『道路』

原作/アゴタ・クリストフ

訳/堀 茂樹  演出/三由寛子(育成対象者)

主催/(社)日本劇団協議会  制作/東京演劇アンサンブル

平成22年度文化庁芸術団体人材育成支援事業「次世代を担う演劇人育成公演」

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私にとって、アゴタ・クリストフさんは、今回初めて遭遇した作家だ。昨今、私が気にかけている運命的な「めぐりあい」になった。やはり年齢のせいか、この年になって、知り合いになったり、初めて知る事物や事象には、どうも運命的なものがあるように思えてならないのです。 

それにしても、今日、日本は全国的に意味のよく理解できない「建国記念日」だ。未だに私にはピーンとこない。祭日としての盛り上がりもない。馬鹿な右翼だけが、車を連ねて、意味もなく拡声器で我鳴りたてている。何を言っているのか、サッパリ解らない。日本書紀に神武天皇が即位したとされるのが紀元前660年2月11日、かっての紀元節だ。また、大日本帝国憲法が発布されたのも1889年のこの日だ。よく解らないのと、どうでもいい、この二つの記念日と理解していいのだろうか。

この日本の「建国記念日」に、アゴタ・クリストフの「道路」の芝居を観ることは、私にとって新しいもう一つの記念日になった。

「道路」は道路を、今まで通りではなく、豊かな未来を夢見ることではなく、過去を清算するものとして、お芝居にした。その主張は現在の日本では反権力だと言われることになるのだろう。そして、今日、私にとっては反建国記念日になってしまった。コンクリートから人へという民主党のスローガンは政権奪取一年目で兜(かぶと)を脱いだ。

アゴタ・クリストフは、21歳の時にハンガリー動乱から逃れるために夫と共に、スイスに亡命した。そこで習得したフランス語で小説を書き始めた。成人してから習得したフランス語なので、デビュー作の「悪童日記」はそのぎこちない文章がかえって、独特の作風に仕上がり、好評を博した。文体は、叙情的な記述を徹底的に排除して、事実を客観的に表現している、とアマゾンの作品紹介で知った。この「悪童日記」は、後日必ず近いうちに読む。

でも、今日の芝居は「道路」だ。

芝居の良し悪しを評することは、私にはできません。そんな能力を培ってはいない。でも、劇団の幹部連中も、考える余地は大いにありそうな表情をしていた。お芝居の原点をもう一度確認することではないだろうか。芝居の要素は、そういっぱいあるわけではない、限られた少ない要素で、意図して物語を作る。その中に、強いメッセージを込める。この芝居に付き合ってくれた友人は、ちょっと退屈そうだった。

ハンガリー出身のフランス語作家、アゴタ・クリストフに挑んだ東京演劇アンサンブルの若手たちのやる気に喝采。 私にはできることは、それまでだ。若手演劇人の今後の活躍に期待しよう。

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(あらすじ  パンフレットより)

ある「未来」の一時代。

地球はすっかりコンクリートに覆われている。

そこにあるのは道路ばかり。ほかには何もない。

人びとは道路で生まれ、道路で生きる。

彼らは徒歩で、車のために建設された道路を通行する。

自動車は遥か昔に機能しなくなり、残骸と化し、打ち捨てられ、「休憩所」と呼ばれている。

人類は原初的な状態に戻ってしまい、われわれの文明のことは、「伝説」を通じてしか知られていないーーーー。

その不思議な世界へ、高速道路設計者である「三つ揃えの男」が迷い込んでくる。

彼は道路で、様様な人物と出会う。

昨夜、市長のレセプションで出会ったはずの女歌手と庭師。

なぜ高速道路を歩いているのか。

出口はどこなのかと三つ揃いがたずねるが、ちんぷんかんぷんの答えしか返ってこない。

さらに、太陽、星星がかって頭上にあったのだという伝説を信じる「暗い女」。

それを否定する「明るい女」

赤ん坊のふりをした少年。

本を読めば宇宙の秘密がわかるといいながら『創世記』を朗読し始める「学者」。

突然道路を逆走してくる「逆行男」。

怖い、怖いと逃げ惑う人々の中に暴力的に出現する「野獣たち」----。

人びとは強制的に歩かされているのだろうか。

それならば、何者に強制されているのだろうか。

それに対する答えは示されず、登場人物たちは、前へ前へと歩き続ける。

 

「原初的な状態」とは何か。

人びとは歩きながら食べ物を探している。

食べ物とは、どうやら死んだ人間らしい。

出口がどこにあるのか、誰も知らない。

しかし、実は誰もが出口を探している。出口がどこなのか教えあうものはいない。

徹底的なコミュニケーションの喪失。言葉の喪失。

そんな悪夢の世界を歩き続けた三つ揃いの男は、

高速道路は人間のために作られた物ではない、と気づき、神に祈る。

「コンクリートの迷路から出してくれるのなら、ぼくはもう道路なんかいっさい建設しないことをお約束します!」と。

すると、奇跡が起こるーーーーー。

 

コンクリートを突き破って生えてきた一本の木。

それを見守る「狂人」は、出口はここなんだ、コンクリートを壊すのを手伝ってくれ、と叫ぶ。

「道路では、どんなことも起こらないとはいえないがね、たいていのことは起こらないし、確実なことなんて一つもないよ「。

 

アゴタ・クリストフの絶望の言葉なのか、希望の言葉なのか。

 

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全体主義の幻影

渡邊一民(わたなべ・かずたみ)

仏文学者

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東欧の文学を理解することはむずかしい。東欧諸国は第二次大戦中ナチス・ドイツの統治下におかれ、大戦終結とともにソヴェトに事実上支配され、そうしたクビキから解放されるには、ベルリンの壁の崩壊を待たなければならなかった。その間半世紀にわたって人びとに君臨したイデオロギーは、ファシズムとコミュニズムという相対するものだったとはいえ、人びとはあらゆる自由を奪われ恐怖につき動かされ、「だれもが囚人であるとともに看守である」(トドロフ)ことを強いられていたのである。そうした悲惨な状況は、たとえば、アンジェイ・ワイダの映画「カティンの森」に端的に示されている。そういう全体主義体制下にあってなお自由に語ろうとする人びとは、西欧に亡命し、あるものは異国の言葉フランス語で、あるものは祖国に残したものに累のおよぶことを恐れ難解な言語を駆使して、表現しなければならなかった。そのような亡命作家として広く知られているが、ミラン・クンデラとアゴタ・クリストフだと言っていいだろう。もっともいま述べたような理由から、たとえば1984年のクンデラの「存在の耐えられない軽さ」は、作中で史的事実と舞台を正確に現実から借りながらも、つねに作中人物を突きはなしあくまでもアイロニカルに描きだし、他方86年のクリストフの「悪童日記」は、いっさいの史的事実と場所と時間とを捨象し、子供の感覚にとらえられたことだけを忠実に記録していくのだ。

『道路』は1976年に発表された作品である。高速道路がドイツでも、ソヴェトでも、完璧な支配体制を保障するものとして、おびただしい囚人の人海作戦によって建設されたことはよく知られている。そして舞台に現出するのは、太陽が一面のスモッグに覆われて緑が失われ、方々に廃車が放置され、人びとを強制的に歩かせるだけの、出口がなく一方通行しか許されない道路ーーーそれはゴダールの映画「ウィークエンド」の幕の降りたあとの場景のようにわたしには思われた。

とはいえこの劇が、エコロジーなどほとんど人びとの関心を引かなかった1976年に、ハンガリーの亡命作家によって書かれたということを忘れてはならない。それはとりもなおさず、全体主義体制下のハンガリーでは、こうした終末観がひそかに人びとによって共有されていたということだろう。『道路』は、いってみればこの劇に感銘を受ける2011年のわたしたちの抱く危機意識を、30年以上先どりしていたのにほかならない。そしてわたしは、今日のグローバリズムの終焉ののちにわたしたちが未来に想像するものが、全体主義体制下で苦しみつづけた人々の終末観と重なりあうという事実に、慄然たる思いにとりつかれざるをえない。前世紀でおわったはずの全体主義が、かたちをかえてふたたびわたしたちのかたわらに忍び寄っているのだろうか。『道路』はさまざまな問題を投げかけずにはおかない。

2011年2月9日水曜日

永山則夫「無知の涙」から、多くを学んだ

弊社では、毎週水曜日が営業の定休日になっている。管理の担当者が出社しているだけなので、社内は極めて静かな一日だ。私は、と言えば午前中は会社の中で、何をするわけではない、とりあえずゴミの片づけから、周辺の整理整頓をする。場合によっては現場に出かけるか、それとも静かに本を読む。

今日は、以前に読んだ永山則夫の「無知の涙」を飛ばし飛ばし読み直した。やっぱり、かって感じたやるせない気持ちになった。

無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)

永山が1968年10月、東京プリンスホテルの敷地を巡回していたガードマンを射殺、それから、京都、北海道、名古屋と合わせて4人のガードマンやタクシードライバーを1ヶ月の間に次々と射殺した事件だ。19歳だった。恨みつらみのない、偶然行き当たった人をピストルで撃ち殺した。翌年から始まった裁判は、1990年に死刑が確定するまで、約22年間続いた。その間、獄中で書いた読書ノートが井上光晴氏が責任編集していた雑誌「辺境」に掲載された。それからです、私が興味を持ち出したのは。井上光晴氏を個人的に好感をもっていた。辺境を熱心に読んでいた。私の生活は、大学生活を終え、結婚して子供が生まれて、その子育ての過程と歩調を合わせるように裁判も進んだのです。

子育てを始めたばっかりの私には、永山の子供時代のことが関心のほぼ全てであったような気がする。永山は、人間に、母にさえぎゅっと抱きしめられたことが一度もなかった。公判のなかで明らかにされていく内容、時間の経過とともに繰りなす永山の周辺の人びとの営み、胸をキュンとさせられながら辺境を読み、裁判の経過を見据えていた。子供と親、とりわけ父と子、母と子、兄弟、身内、これらを取り巻く社会との関係をこの事件で、大いに考えさせられた。

裁判の終わりごろ、病床で伏している母を永山の代理で見舞いに向かう女性に、母にリンゴをむいてやってください、とお願いをした。永山はここにきて母を許したのでしょう。

読後、やるせない気持ちで、ブルータスのバックナンバーを何となくパラパラ捲(めく)っていたら、永山の住んでいた網走とは遠く離れたニュージーランドで、生息数がドンドン減っていくイエローアイドペンギンの写真を見つけた。

厳寒の地、網走。親に捨てられた子供たちだけで、隙間だらけの家に、乏しい食料、乏しい暖房、体をくっつけ合って暮らしていたその家と、この写真の家が勝手に私の頭の中でクロスしたのでした。ペンギンにとってこの家は、十分な憩いの場なのでしょうが、永山たちの家もこの程度の普請だったのではと思いを馳せた。外は、荒涼たる雪原。雪は古い家を覆(おお)いつぶさんばかりに降り、室内の奥まで雪が吹き込んでいたという。

午後は孫・晴を幼稚園に迎えに行って、それからは孫と一緒にサッカーをして遊ぶのです。が、今日は、プールに連れて行って欲しいと次女(晴の母親)から頼まれている。孫の水泳のレッスンが親の都合で、何日間は受けられなくて、その代替えのレッスンのためだ。

今は昼飯(ひるめし)後の休憩時間だ。2時半に幼稚園、3時半にプールだ。言われたように義務を果たさなければ、いいジジイになれない。私にとって、これが一週間の中で一番楽しい時間なのだ。

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ブルータス2006年9月15日号からこの写真を拝借しました。以下の紹介文もそのまま引用させていただきました。スマン。私はブルータスの熱烈な読者ですから、ちょっと多めにご配慮ください。

撮影されたのは、7月。南半球は真冬。その姿が残るわずかな生息地のひとつは、ここニュージーランドの南島。このペンギンさんの名はイエローアイドペンギン。現在、地球上に住むペンギンのなかで、最も数が減少している絶滅危惧種だ。

小沢元代表 強制起訴

菅首相や民主党の幹部、なんでこんな男にいつまで振り回されているんだ。

以下の文章は全て、2月1日の朝日新聞・朝刊からそのまま抜粋したものです。

やはり、これは後日のためにマイファイルしておかなくてはならない事件だと思っている。この、今、読んでいる新聞は、雑誌らと一緒に故紙回収トラックに乗せられていく運命にある。記事をいつまでも記憶に留めることができるほどの頭脳を持ち合わせていない私にできることは、キーボードを叩いて、備忘録に収めておくことだろう。

 

小沢元代表強制起訴

政治資金虚偽記載の罪

本人「無実、離党せず」

小沢一郎・民主党元代表の資金管理団体「陸山会」の土地取引で、東京第五検察審査会の「起訴議決」を受けて検察官役に指定された弁護士は31日、政治資金規正法違反(虚偽記載)罪で小沢氏を東京地裁に起訴した。市民の判断で政治家が強制起訴されたのは初めてだ。

昨年の1月に東京地検特捜部は衆院議員石川知裕、大久保隆規、池田光智の3元秘書を政治資金規正法違反容疑で逮捕し、2月に起訴。小沢氏については市民団体の告発も受けて捜査したが、不起訴(嫌疑不十分)とした。

市民団体はこの不起訴処分を不服として検察審査会に審査を申し立て、04,05年分の事件を担当した東京第五検察審査会は10年4月に「起訴相当」と議決。2度目の審査でも「起訴すべきだ」との起訴議決を10月に公表し、強制起訴が決まった。07年分を審査した第一審査会の議決は、強制起訴に至らない「不起訴不当」にとどまった。

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《解説》 有罪立証には困難も

検察が「証拠が足りない」と判断した事件を市民が翻す形で、小沢氏が「被告」となった。疑惑の解明に期待が集まるが、検察官役の指定弁護士が有罪を得るには困難も予想される。

審査会は、小沢氏に「報告した」とする元秘書らの捜査段階の供述を重視した。小沢氏の共謀認定には元秘書らの虚偽記載罪の成立が大前提になるが、捜査段階で自らの容疑を認めた元秘書らは起訴後に否認に転じた。小沢氏の公判でも調書通りの証言はしないとみられる。供述調書の信用性などが争われる予定の元秘書らの一審判決は秋までに出る見通しだ。この行方も小沢氏の公判に影響しうる。

検察の不起訴を翻し、市民の手で公開の法廷に進む強制起訴の仕組みだが、政治資金規正法違反罪は裁判員裁判の対象ではなく、従来通りプロの裁判官が裁く。証拠が十分かどうかについて、同じ法律家である検察に近い判断を下す可能性もある。

ゼネコンマネーの扱いも焦点の一つだ。検察は当初、土地の購入原資となった「小沢氏からの借入金4億円」を伏せた動機は、4億円に含まれるゼネコンからの裏金隠しだと見たが、解明できなかった。検察はそれでも裏金に執念を見せ、自ら起訴した元秘書らの公判では背景事情としての立証を裁判所に許された。指定弁護士は、4億円と裏金の関係を立証するかどうかについては「答えられない」と話しているが、「4億円の出どころ」に不自然さを感じていると見られる。

検察が「暴走」した郵便不正事件と違い、今回は検察が「自制」した事件だ。無罪が出れば、検察の判断をチェックする審査会制度のあり方も問われる(久木良太)

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天声人語

ジョークの宝庫といえば結婚である。哲人ソクラテス曰(いわ)く。「まず、結婚せよ。良妻を得れば幸せに、悪妻ならば君は哲学者になるだろう」。青木雨彦さんの『洒落た関係』から男のざれ言を続ける。

夫の証言。「新婚の妻は食べてしまいたいほどかわいかった。あの時食べときゃよかった」。もう一つ。「金曜に結婚すると不幸が起きるというのは本当ですか」。「もちろん」と劇作家のバーナード・ショー。「金曜だけが例外でいられるはずがない」。

最後のは、必然を言いたい時に応用が利く。「月曜に起訴されると有罪になるというのはーーーーー」と、問いを換えることもできた。検察の信頼が揺らいだ今は「いや、月曜には例外もある」と答えざるをえない。

その検察が諦めた小沢一郎氏の「疑惑」を、検察審査会が法廷へ押し出した。強制起訴された氏は検察嫌いの上、素人の検審が新聞やテレビに流されたと思っているのだろう。無罪を前提に辞職も離党もしない意向という。

民主党の幸不幸は、思えば小沢自由党との「結婚」に始まる。今や別居寸前だが、菅首相が「あの時ーーー」と悔やんでも遅い。たくさん生まれたチルドレンは多くが小沢氏につき、家を出るならそっちと言わんばかりだ。

被告席から政治闘争を構える「党内党」を背負い、ねじれ国会の針山を登る首相。今さら哲学者にもなれない。ソクラテスは「天下を動かすには、まず自ら動け」と諭したが、動きようがない。次々と降りかかる難題を前に結束すべき時に、ああ犬も食わない権力劇である。

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社説

小沢氏起訴/市民の判断に意義がある

民主党の小沢一郎元代表が、政治資金規正法違反の罪で起訴された。検察審査会の2度の議決をうけたもので、ふつうの市民が政界の実力者を刑事被告人の座に据えたと言っていい。

いったん検察が起訴を見送った事件だ。裁判の行方は予断を許さない。

起訴の権限は検察が長く独占してきた。足利事件のような大きな過ちもあるものの、有罪が確実に見込まれるものだけを起訴する運用により、有罪率99%という刑事司法を作り上げた。

それは一定の評価を得る一方で、裁判の形骸化をもたらした。検察が強大な権限をにぎることになり、独善的な体質を生む素地ともなった。

検察審による強制起訴はこれに風穴を開けた。検察がとってきた起訴と不起訴とを分ける基準や個々のケースへの対応は、一般の感覚と正義感に沿うものか。問い直す機会を市民が初めて得たと言っていいだろう。

今回問題になったのは政治資金規正法の解釈・運用だ。これまで検察は、収支報告書に実態と異なる記載があっても、ヤミ献金など重大悪質なものでなければ摘発対象とせず、また、実務担当者を超えて政治家本人の責任まで問うには、よほど確かな証拠が必要だという方針で臨んできた。

これに対し検察審は、規正法が目的に掲げる「国民の不断の監視と批判」を言葉だけのものにしてしまう。ずさんな記載のありように、より厳しい目を向けた。政治資金の流れの透明性を重視する姿勢は、検察が「小沢氏自身の関与を裏付けるとまでいえない」と判断した秘書らの供述を、積極的にとらえ直すことにもつながった。

裁判でこうした点がどう評価されるか、軽々に予測はできない。検察審をひきついだ指定弁護士の言い分が否定される可能性はあるし、訴追される側の負担にも配慮が必要だろう。

だが、国民が抱いた疑問をうやむやにせず、法廷という公の場で議論し、裁判所の判断を求める、その意義は、日本の政治や司法制度を考えるうえで決して小さくない。起訴イコール有罪といった決めつけはせず、冷静に公判の行方を見守りたい。

政治の側が早急に取り組むべき課題もある。今の収支報告制度は、秘書任せ・他人任せを容認する内容になっている。報告書に政治家本人の署名を義務づけるなど、自覚を促し、責任を明確にする仕組みに改めるべきだ。

小沢氏は、検察による起訴と強制起訴との違いを強調して離党などを否定した。その時どきで都合のいい理屈を持ち出し、国民に正面から向き合おうとしない姿勢には失望を禁じえない。

法廷で争うことと、政治家として責任を果たすことは別問題である。国会での説明すらできないのなら、自らしかるべく身を処すのが筋ではないか。

2011年2月7日月曜日

八百長力士を、重箱力士という。

今更、何をやっているんだ日本相撲協会さん。

大相撲の八百長問題で揺れる日本相撲協会は6日、東京・両国国技館で臨時理事会を開き、大阪府立体育会館(大阪市浪速区)で3月13日に初日を迎える予定だった春場所の開催を中止し、八百長問題が解決するまで本場所開催を見合わせると発表した。特別調査委員会の調査で、何人かの力士は八百長を認めている。

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(春場所の中止について記者会見する放駒理事長。6日午後、両国国技館)

(竹田津敦史撮影、読売新聞)

読売新聞の一面では、「春場所中止」、「相撲史上最大の汚点」、「清瀬海も八百長認定」という題字が大きく印刷されていた。

牛さんの茶の間で、牛さんと私の2人は炬燵に入って、テレビの相撲中継を観ていたときのことです。観終わった取り組みが2人とも納得いかなかったのですが、私は語調を強めて負けた方の力士を責めた。余りにも、踏ん張ら無いままに負けたからです。あんなに簡単に負けてどうするんだ。やる気があるのか。ところが、牛さんは冷静に、ニコニコ笑って、大好きなネスカフェのインスタンコーヒーを飲んでいた。黒いラベルの普通の奴です。ゴールドブレンドなんかとは大いに格下の、当時、一番廉いインスタントコーヒーだったのです。

この牛さんに、私は大学時代に何かと強い影響をを受けた。テレビの脚本家だった牛さんはスポーツに関しては、どの競技においても、何でも知っていた。過去の名勝負、選手の出身地から学校、キャリア、それに彼には不似合いな艶(つや)っぽいゴシップまで、機会のあるごとに話してくれた。今から約40年前、1970年頃のことです。私は21歳だ。

そのとき、彼は相撲の八百長の話をしてくれたのです。山ちゃん、昔から、八百長をやる相撲取りのことを「重箱力士」と言うんだよ。八百長が必要になった時、空っぽの重箱の底にお金を入れて、風呂敷に包んで、八百長をやってくれる力士の親方にお願いに行くのが、慣例になっていたそうです。昔から、それはずうっと前から秩序としてあったのよ。テレビ局で、スポーツでも相撲を担当している人なら、みんな知っている。牛さんの発言は過激だった。牛さんは、亡くなって30年は経ってしまった。

今回の事件を知って「相撲の八百長」をネットで調べても、「重箱力士」というのは出てこなかった。牛さんから教えてもらった重箱力士というのは、そんなに普遍的な名称ではなかったのだろうか。

この問題が発覚したから言うわけではないが、相撲が何故国技なんだと、不思議に思う。相撲は国民にすっかり馴染みが薄まってしまった。プロレスやボクシングと同じレベルで興行的で、国技と謂われるほどの格式を感じなくなってしまった。この際、誰がどのように決めたのか知らないが、国技という表現はやめよう。

かって、朝青龍が大一番で勝って、ガッツポーズや両手を挙げて万歳の格好で勝利の喜びを表したことがしばしばあった。その所作は横綱としての格式がないと非難された。国技に携わる者は、なりふり構わずに喜怒哀楽を表すものではないのだ、と相撲有識者らは口を揃えて批判した。感情をぐうっと押さえ込んで、決められたしきたりに従う、それが格式なのだという。が、私はそれらの意見に納得できなかった。それに、相撲を神技とか、相撲を神の儀式にそぐわせるなんて、私には理解できない。

ガッツポーズのどこが悪いのだ。

そして税制面で優遇を受けられる公益法人からも下ろそう。

日本相撲協会そのものが、ガンなのかも。そのことも所轄官庁はチェックすべきだろう。

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人間は、転んでも何かを身につけようとする賢い動物だ。私もお陰さまで、八百長の由来まで勉強する機会を得たことに感謝。

Wikipedia(のまま)=八百屋は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)}といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていた。

しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れ渡り、以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになった。

2011年2月6日日曜日

今更、旭日旗はないだろう

先月25日に行なわれた、サッカーのアジア杯準決勝の日韓戦で、日本のDF今野の手痛いファウルでPKを献上した。

前半23分、ペナルティーエリア内に送られたロングボールを朴智星(パク・チソン)と競り合った。今野のデフェンスは、相手に自分の体を密着させて自由にさせない、これは守備では当たり前のことだけれども、それが徹底しているからこそ、今野は日本代表には不可欠な選手なのだ。相手と移動しながら、走るコースに入ってしまったのとタイミングが少しずれたので、相手の肩を押すことになってしまった。そして、ファウルをとられた。相手は、韓国主将の朴智星、手強(てごわ)い奴だった。

PKのキッカーは、韓国チームのMF奇誠庸(キ・ソンヨン)選手。奇選手は現在、中村俊輔がかって所属していたこともあるスコットランド・セルティックの所属だ

それから、問題が発生した。

奇選手がPKを決めた後、仲間に囲まれながら観客席に向いて猿真似をしたのです。膨らませた頬を左手で猿のように掻(か)いた。その挙動が韓国内で、賛否両論がおこっている。猿の真似は、かって白人が黄色人らに対して侮辱する時にするポーズだ。韓国内では日本人を侮辱する際によくやるパフォーマンスらしい。

私は、この試合をリアルタイムで見ていなかったが、その猿真似を見ても、それが日本人を侮辱している仕草だとは気が付かなかっただろう。実際に日本ではその状況をとらえて放映されたのだろうか、私が見たニュースではそのような場面は見受けられなかった。

でも、この「サルのセレモニー」に対する批判は、日本国内からではなく、韓国内から上がった。

その批判に驚いたのか、心配になったのか、奇選手はツイッターで日本の応援席でサポーターを掲げる旭日旗(きょくじつき)を見て、僕の心は涙を流したとつぶやいたそうだ。頭にきて、ついこの行動に出たということだ。

国際サッカー連盟(FIFA)は、人種、宗教、国籍などあらゆる差別に対し、勝ち点の剥奪や失格処分を含む厳しい罰則規定を設けている。そのFIFAから罰則処分を受ける可能性が高まると、一転、それまでの主張を翻し、自身がプレーするスコットランドでサポーターに侮辱されたことがあるので、その報復だった、と矛先を変えた。

そうすれば、どうなるか、今度はイギリスで炎上(ネットで大騒ぎすることをこのような表現を使うらしい)中だ。それにイギリス最大発行紙のサンは、「ずうずうしいmonki」の見出しで、奇選手の発言を批判した記事を掲載した。

この奇選手の猿真似で、日本人のどれだけの人がその意味するところに気づいただろうか。寛容な態度を示したわけではない。日本人は気が付かなかったのだろう。

それにしても、今更、旭日旗とは驚いた。旧日本軍の連隊旗、旧海軍の軍艦旗でもあった、あの日章と旭日を意匠したものだ。韓国人ならずとも、日本人である私でさえも、その旗には違和感を覚える。かっては、軍用だけではなくスポーツの応援などにも使われていたようだ。でも、それは昔、古い憲法の時代のことだと思うが。1990年、イタリアW杯に行ったとき、イタリア人に何故、自分の国の旗を持ってこないのかと非難されたが、そのことには納得したが、まさか旭日旗を持って行こうとは、どんなことがあっても思いつかなかっただろう。

韓国の世論はこの猿真似について大まか、奇選手に対して批判的らしい。韓国の監督は試合後のインタービューで日本のチームの技量とまとまりを認め、祝福の言葉を述べた。

極端な例をここで出そう。私が所属していた早稲田大学は韓国の高麗大学と、今でも毎年恒例で交流試合をしています。私が入学したのは昭和44年、1969年。大学に入ったときに、先輩から聞いた話では、韓国内で各大学と5試合ほどするのですが、田舎の大学では早稲田が勝ったままで試合が終了して、両チームが向かい合って最後のお辞儀をした瞬間、ベンチに猛スピードで逃げ込むんだよ、だって、観客席から石が投げ込まれるんだよ、と聞かされた。ニックキ(憎い)、日本の大学め、と言うことらしい。そんなことが現実にあった。50年ほど前のことだ。

猿真似のことは、時間の経過とともに何らかに収束されるだろう。その後、奇選手も反省しているようです。

2002年日韓がW杯を共同開催した。日本はベスト16進出で敗れたが韓国は4強入りした。韓国は日本チームを応援し、日本は頑張る韓国チームに感動しながらエールを送った。新宿・新大久保のコーリアンタウンは赤いシャツで沸いた。ソウル市役所前の10万人にも上る真(ま)っ赤(か)な群集にど胆を抜かされた。私は、韓国の熱気が羨ましかった。

それから、9年が経った。日韓のサッカーを通じての交流が成熟の時代へと、新しい段階に入っているという実感がする。

あえてこの章の終わりに、10年前に起こった悲しい事件を追想しよう。2001年1月26日、東京・新大久保駅で、韓国人留学生の李秀賢(イ・スヒョン)さんが転落した人を助けようとして電車に轢かれ、他の2人と共に亡くなった。

今更、旭日旗なんか持ち出すな。

2011年2月4日金曜日

独居老人の孤独を想う

昨夜は友人と打ち合わせを兼ねた食事会を、居酒屋でした。

私の話す内容に納得できない友人は、私を強く責めた。友人の言うことが余りにももっとも過ぎて、私は追い込まれていく一方だった。相手の気持ちが解れば判るだけ、私は気が滅入っていく。でも、それならば、いっそうの事、なんて自棄糞な気持ちは絶対避けなくてはならない。壊したくない。

私は気分がすぐれなかったのです、体調が悪すぎた。昼ごろから腹痛に苦しんでいた。極度に緊張すると、私はいつも急性の神経性胃炎を起こすのですが、今日はそうではない。友人は、カキのフライ、焼きそばを食って、焼きうどん食って、最後に鮭茶漬けを、目の前で美味しそうに食った。私は、友人の食いっぷりが羨ましかった。不思議な生き物を見るようでもあった、失礼。

腹痛は、朝、牛乳を飲んだときから始まっていたような気がする。牛乳が古かったわけではない。一緒に食った卵もそんなに古くない。牛乳を温めなかったからなのだろうか。友人は、お前の腹の中には、牛乳を消化する酵素がないんじゃないか、ともっともらしい理屈を言ってくれる。そして、ヤマオカ、牛乳は本来子牛が飲むものだよ、お前は何か大きな勘違いをしていないか?と病人に容赦ない。

22:00、帰宅して、着の身着のまま、外出着のまま布団にもぐった。痛みは引かない。新三共胃腸薬を飲んだがそう簡単には痛みは消えない。

私は今個人的な事情があって、一人暮らしをしている。

朝04:30起床と同時に洗面セットを持って散歩にでかけた。お腹がゴロゴロしていて気持ちが悪い。熱はあるのかないのか定かではない。友人にメールで空模様と気温のお知らせをしたのだが、曇っているからそんなに寒くない、と文字を刻んだのは、私の体に熱が少しあったからなのか。途中の100円ショップで、牛乳ではなく、納豆を買った。6個210円也。もう牛乳は買わない。歩数5,990歩、歩行距離3,8キロ、散歩の成果だ。大きな団地の帷子川に面した公園で、歯を磨いて、顔を洗った。いつもは冷たい水ですごく爽快な気分になれるのに、今日はお腹が痛くて気が重い。

それでも、05:15、朝食の準備にとりかかったが、この状態では何も食えないような気がして、粥も、鯵の塩焼きも、納豆も諦めた。そして布団にもぐった。

朝、会社に出社した。社員のA君は一昨日から持病の尿結石で激痛と格闘しているそうです。救急車で病院に行ったそうです。今日も休ませてください、と奥さんからの電話がありました。そんな報告を聞いて、私の腹の痛みも増してきたようで、私も休みをもらって、布団の中にもぐった。それから、4時間熟睡した。昨夜、痛みが激しくて睡眠不足だったのだ。疲れていることもあるのだろう。

昼過ぎ、経営責任者の中さんが、昼飯にと有名なお店のカツ丼を持ってきて、これでも食って元気をだしてください、と差し出されても、視線はそのカツ丼を避けた。カツ丼とは彼らしい。カツ丼を食えば、どんな状態の人でも元気になるとでも思っているのだろうか、不思議な人だ。肉こそが全エネルギーの源だと確信しているふしがある。寒くないですか、ドアーを閉めときましょうか、病院に行かれた方がいいんじゃないんですか、彼はどこまでも優しい人だ。

ありがとうと言いながら、静かに彼が去っていくのを待った。午後も同じように寝入った。

そこで、考えた。私も初老の域に入っている。幸いなことに友人やスタッフに恵まれているものの、一人暮らしを続けるには、絶対健康であらねばならない、と痛感したのでした。痛みが二日も三日も続けば不安は極度に増すだろう。

夕方になって、痛みは少しづつ引いたような気がした。苦しい2日間だった。

明日の朝、腹減った、と叫べればいいなあ。

2011年2月3日木曜日

今年の心構えは、、、、、。

毎年、私はそのときどきの会社の状態を考えて、この一年、社員が心がけなくてならない、心構えを紙に書いて、会社の彼方此方に張るようにしているのです。

昨年は、新しく書くことはできなくて、一昨年に書いたものを2年間続けて掲げた。一昨年と昨年は、会社の状況は変わらず、仕事に向かう姿勢も心構えも変わらなかったからだ。

掲げたものは、『愚直に、強い意志をもって、復活だ』。

 

そして、今年正月に書いたものはこれだ。

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年末年始にかけて、我々は大きい波にのまれた。だが、まだまだ波は静まり止まぬが、新たなスタート台に立てたことに、感謝しよう。常々驕(おご)ってはならない。大胆とはいかなくても、緩やでもいい、着実に復活しよう。支えてくださっている関係者の方々に恩返しをしなければならない。

そういうわけで、今年の我々は『慎み、感謝して、大胆に復活だ』にした。

2011年2月1日火曜日

ザックジャパン、アジアカップ優勝

下の文章と写真は、20110131の朝日新聞の記事をそのまま、転載したものです。

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(香川⑩らのユニフォームを掲げて喜ぶ日本の選手たち。ドーハのハリファ競技場、西畑志朗撮影)

日本一丸アジアの頂

カタールで行われたサッカーのアジアカップ決勝で、日本は29日、延長戦の末に豪州を1-0で下し、2大会ぶり4度目の優勝を飾った。控えを含め一丸となったチームワークは、ベスト16に進んだ昨年のワールドカップ(W杯)南アフリカ大会以降、日本代表の色になりつつある。

「ヒーロー次々」

⑧MATSUI ⑩KAGAWA ⑫SAKAI ⑳MAKINO。優勝の歓喜に包まれる会場で、「いないはずの選手」が観客席に走った。

実際に走ったのは出場した選手たち。松井大輔(仏・グランノーブル)、香川慎司(独・ドルトムント)、酒井高徳(新潟)、槙野智章(独・ケルン)の4人はドーハに来ながら、けがで途中離脱した。彼らのユニフォームを身につけ、全員で戦った証を見せた。主将の長谷部誠(独・ウォルフブルク)は振り返った。「総力戦で勝ったことがうれしい。試合ごとにヒーローが代わった。そういうチームは強い」

日本代表は2006年のW杯ドイツ大会で、一つになれず、敗退した。逆に南アフリカ大会は、それを知るベテラン選手の献身があった。W杯後に初代表入りした細貝萌(独・アウクスブルク)は「サブにも役割があることを思い知らされた」と言った。メンバーが南ア大会と半分以上入れ替わっても、変わらない「一丸」への意識。W杯の遺産が受け継がれている。

実際、控え選手の意識は高かった。試合前、控え陣だけで「どうしたら途中からうまく試合に入れるか」、「ピッチにいる選手にどう声をかけるか」を話し合っていたという。初戦で控えだった岡崎慎司(清水)、猪野波雅彦(鹿島)、細貝が、その後の試合で得点。決勝の決勝点も、途中出場した李忠成(広島)が生んだ。李は「出たいという気持ちはずっと抑えて、まずチームのためだった。でもラッキーボーイになってやると思っていた」と話す。

そのチームのスイッチが入ったのは、初戦ヨルダン戦(9日)の後だった。世界ランク29位の日本は同107位の相手に終了直前、辛うじて引き分けに持ち込んだ。

翌10日、アツベルト・ザッケローニ監督が練習前、選手たちをグラウンド中央に集めた。昨年末の大阪合宿でも、ドーハーに入ってからも一度も見ない光景だった。監督は輪の中で約15分間、心構えを話した。「雰囲気が『アジアカップ』になっていない。やるべきことをやっていこう」

W杯は終わったのだ。アジア相手だからと簡単に勝てないのも歴史が証明している。選手たちの表情が変わった。「なめていたわけではないが、自信があった」と香川は反省した。「アジアは難しい」が取材の中でも選手の合言葉になった。選手だけで集まり、話し合うようになった。

戦術面で試合ごとに完成度を高めた流れも、日本サッカーには今後の指標となりそうだ。今回の代表は欧州クラブの所属が半分近い。短い準備期間で公式戦に臨まざるを得ない。多くの代表選手が欧州でプレーする強豪国なら、どこも同じだ。ますます欧州に渡る傾向が予想される日本には貴重な経験になった。

14年のW杯ブラジル大会へ、順調に歩みだしている。

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(延長後半4分、左足でボレーシュートを決める李忠成=西畑志朗撮影)

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社説

アジア杯制覇/この勢いでピッチの外も

決勝のゴールを決めた李忠成選手のボレーシュートは、胸がすく完璧な一撃だった。サッカーのアジアカップ決勝で、日本代表が豪州を延長戦の末破り、2大会ぶりに頂点を極めた。

昨年、南アフリカでのワールドカップ(W杯)で16強入りし、日本中を熱狂させた時を思い起こさせる、歓喜あふれる優勝だ。

舞台のドーハは日本サッカー界因縁の地である。1993年の米国W杯アジア最終予選、イラク戦で終了間際に追いつかれ、W杯初出場を逃した。「ドーハの悲劇」と呼ばれてきたが、そんな過去も一蹴した。

14年ブラジルW杯へ向け、チームを勢いづける価値ある優勝だ。

「素晴らしい団結力だ。成長しながら、団結しながら勝利をつかんだ」。ザッケローニ監督がこう話した通り、日本代表には、主力も控えもない強固な連帯感と厚い信頼感があった。

李選手は延長戦からの出場で、決勝点は代表初ゴールだった。彼に象徴されるように、代表経験の浅い選手の働きも主力に劣らなかった。李選手ら4人が今回、代表初得点を挙げている。

全選手に気を配る指揮官のこまやかさと的確な采配。そして監督の意をくみ、準備を劣らない選手の高い意識がかみ合っての栄冠と言える。

王座に返り咲くまで、楽な試合はひとつもなかった。退場者を出すゲームが2度、相手を追う展開が3度あった。準決勝ではここ5年半、5度の対戦で1回も勝てなかった韓国に対し、PK戦の末、勝利をもぎとった。

W杯で苦しんで得た自信と、まだ高みを目指せるという向上心。今の代表に満ちている前向きなベクトルが、苦闘を勝ち抜いた原動力だろう。

サッカーの本場欧州から見ても「遠いアジア」ではない。南アW杯で日本と韓国が16強入りしたように、躍進する国が増えている。アフリカが優れた人材供給源と目されたように、熱い視線がいまアジアに注がれる。

今大会、欧州のスカウトがこぞって有能な選手の動きを追った。中でも、日本の選手は小柄ながら俊敏で技量が高く、団結力にも優れる。そんな個性を改めて印象づけた。日本への注目は今後、従来以上に増すだろう。

ピッチ上で躍動した日本だが、大会直前に開かれたアジアサッカー連盟選出の国際サッカー連盟理事選で、田嶋幸三・日本協会副会長が落選した。22年W杯招致失敗に次ぐ敗戦で、サッカー界での発言力低下は必至だ。

東京五輪招致にも失敗したように、日本スポーツ界の国際的な影響力低下が著しい。世界での発言力が落ちている日本を象徴するようだ。

再度目指そうとしているW杯招致に向け、芝の外でも存在感を増す戦略が日本サッカー界には求められる。

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(後半、好セーブを見せるGK川島。中央は岩政)

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李、決勝弾 鮮烈ボレー

サッカー アジア杯 29日

最終日は決勝があり、日本は延長戦の末に1-0でオーストラリアを下して、2大会ぶり単独最多となる4度目の優勝を遂げた。2013年にブラジルであるコンフェデレーションカップの出場権を手にした。

日本は高さのある豪州の攻撃に押し込まれながら、GK川島の攻守など粘り強い守備で対抗。延長後半4分に、途中出場の李が永友の左クロスを左ボレーで合わせて決勝点とした。ザッケローニ監督は就任後、5勝3分け(引き分けに1PK戦勝ちを含む)で、最初の公式戦で初めてのタイトルを獲得した。

大会最優秀選手に本田圭が選ばれ、得点王は韓国のMF具滋哲(クジャチョル)が5点で獲得した。

MVPは本田圭

守勢に回ったときほど、本田圭の存在感は増す。接触プレーに強い豪州相手にひるむこともなくパスを受けては攻めの起点となった。「サッカーは『一番』が一番いい。でも個人的には悔しさの方が残った。個人でチームを救える存在になりたい」と話した。MV受賞については、「個人的にはヤットさん(遠藤)だと思う。ああいう人がいなかったら勝負は紙一重だった」。その遠藤とは常に会話をもち、「優勝でみんなに箔(はく)がついた。自立したいいチームになる」と期待感を示した。

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流れ変えた「5分後」の交代

オーレ

延長の李のボレーシュートが試合のハイライトなら、ザッケローニ監督が後半最初に切ったカードが決勝点へつながる分岐点だった。

それは珍しい光景だった。後半の立ち上がりを見極めて、ベンチは動きの悪いMF藤本を外してDF岩政を入れようとした。ところが、ピッチの中で盛んにやり取りをした選手たちが、タッチライン際に立った岩政をベンチへと押し返す。5分ほど待って、結局、同じ交代が告げられた。

その5分で、交代の中身と意味合いはまるで変わった。最初の時点で監督が考えたのは「MFに厚みを持たせるために今野をDFからMFに上げよう」。布陣の4-3-3への並び替えを決断していた。しかし、今野自身が長くMFから離れていたことへの懸念を示した。選手の意を受けて、大会を通して効果的な采配を見せてきたイタリア人は柔軟に手を打つ。

布陣はそのままに、岩政を予定通り中央でケーヒル封じに専念させ、今野を左DFに長友を左MFに移して、手を焼いていた豪州の右サイドを二人掛りで封じ込める。左から右に回った岡崎はそれまでの守備の負担から解放された。一つの交代にいくつもの意味を持たせた。

後半に回り続ける悪い流れを断ち切った。押し込まれながら、日本は息を吹き返す。落ち着いた粘り強い守りから本田圭を経由して、左右の長友、岡崎が長い距離を走り始めた。カウンター攻撃から好機は増えていった。決勝点は左をしつこく突き続けた長友のクロスから枠をとらえたわずか3本のシュートから唯一のゴールが生まれたのは必然でもあった。

きめ細かい分析と約束事の多さの割りに、イタリア人の懐は深い。「最終的に決めるのは監督。でも選手のいうことを受け入れてくれる」と遠藤は話した。ピッチでの感触を優先させた選手の主張と、それを尊重した監督。大会を通じて築き上げた信頼感が王者の座を手繰(たぐ)り寄せた。(編集委員・潮智史)

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あんなきれいなゴール 一生とれない

自分自身でも驚く。美しいゴールだった。左サイドの長友からのクロスにあわせ、ボレーシュート。李は韓国から国籍を変えて4年。幼い頃から夢見た代表初得点は、優勝を決める決勝点だった。

日本代表で2試合目。延長前半、出番は初戦のヨルダン戦以来20日ぶりだった。試合に出てなくても「良いプレーをしている。気持ちを保ってくれ」とザッケローニ監督から言われ、「もう一度チャンスはある」と信じていた。

延長後半4分、ほんの一歩の小さなフェントで豪州のDFが大きく振られ、マークが空いた。ベンチで「相手は疲れている。ちょっとの動きで外せる」と分析していた通りだった。左足を振り抜くと、シュートは一直線でゴールへ。GKは一歩も動けなかった。「あんなきれいなゴールは一生取れない」

在日韓国人4世。国籍を替え、「イ・チュンソン」から「り・ただなり」になったのは2007年2月。北京五輪を目指す22歳以下日本代表の反町監督から興味を示されたのがきっかけだ。幼い頃から日本代表にあこがれ三浦(横浜FC)の得点後のパフォーマンス「カズダンス」をまねていた、普通の日本に住む少年。日本代表を目指すのは違和感はなかった。

国籍を変えても、日韓両国を大切にしている。日本の通名「大山」があってもあえて名字(みょうじ)で「李」を残したし、準決勝の韓国との対決は「(韓国代表にもあこがれていただけに)心が痛んだ」という。

「日本に生まれ、日本の文化で育ってきた。だから日本代表のメンバーとして優勝できて最高の幸せ」。この日は「日本人」としての喜びを爆発させた。(河野正樹)

 

長友、縦横無尽 完璧クロス

まさに獅子奮迅の活躍だった。左サイドを激しく上下動していた長友だった。後半11分の交代策に伴い、DFからMFに位置替え。持ち前のスピードを生かしてタッチライン際を駆け上がった。同21分には岡崎の頭にクロスを合わせ、もう少しで先制点という場面を作った。

決勝点を導き出したのは延長後半4分。ステップを踏んで抜け出し完璧なクロスを李に送った。0-0が続いた緊張感にも「これが僕らの成長。ぎりぎりの戦いをしてきた」。試合後、けがでチームを離れた香川のユニフォームを掲げた。「試合前に本人から電話があって、優勝したら持ってと頼まれていた」と明かした。W杯後にイタリアに渡り、進境著しい。30日にそのセリエAの舞台に戻った。「また厳しい戦いが始まる」と話した。

 

川島、好セーブ連発

20本のシュートを浴びて、水際で危機を救ったのは川島だった。絶体絶命のピンチは次から次にやってきた。

前半19分、CKから頭でつながれてキューウェルがシュート。枠に飛んだ球を右手指先に当ててかき出す。後半27分は、再びキューウェルの至近距離からのシュートを右足でセーブ。前に出たときの勝負強さを発揮した。

DFとの連係の悪さは決勝でも見られた。カタールとの準々決勝では位置取りを誤るなど安定感に欠けた。「ミスを引きずっていたら前には進めない。1点が試合を大きく左右すると思った。ゼロで終わらせてよかった」。常に強気の守備陣がほっとした笑顔を見せた。大会を通じて、監督から「信頼している」と声をかけられ続けた。「こういうタフな経験は実際してみないとわからないものだった」。実感のこもったひと言だった。

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(長谷部と抱き合う)

「日本のため頑張り 在日の新しい歴史を」

背中押した父との約束

サッカーアジア杯 李選手「人生最高の1ページ」

試合ごとにヒーローが生まれ、アジア王者に返り咲いたサッカー日本代表。決勝で貴重なゴールを決めたのは、交代出場の李忠成(25)。東京都西東京市出身の在日コリアン4世だ。活躍の陰に、父と交わした約束があった。

「お父さん、やったよ!」貿易業を営む父・鉄泰(チョルテ)さん(53)の携帯電話に李選手から電話がかかってきたのは、試合終了後まもなくだった。

興奮がおさまらない様子の息子を、父はねぎらった。「頑張ったかいがあったな。神様がボールくれたな」

李選手は今大会、初戦に交代出場したが、その後は出番がなかった。韓国との準決勝の前、李選手から鉄泰さんに電話があった。焦りをのぞかせる息子に、父は「頑張らんと、次呼ばれへん。あいつがいたらプラスになるって仕事しないと」と励ました。そして念を押した。「難しく考えるな。簡単にプレーしろ」。

鉄泰さんが「頑張れ」というのは、サッカーだけの意味ではない。日本と朝鮮半島の間で生きてきた者としての思いがある。「我々は周りと同じレベルでは認められない。いい時はいいが、だめだと必要以上に批判される」

李選手は以前、鉄泰さんと同じ韓国籍だった。韓国のユース代表の選抜合宿に参加したこともある。だが言葉は通じず、壁も感じた。日本国籍を取得したのは4年前だ。

北京五輪の日本代表入りを目指して日本国籍を選んだ時、親子は話し合ったという。「堂々と本名を名乗りながら、日本のために頑張る在日がいてもいい。一つでも在日の新しい歴史をつくろう」。

少ないチャンスをものにした息子を、鉄泰さんは誇らしく思う。「簡単にプレーを」というアドバイスを実践した決勝点。「ボールをいったん止めたりしたら入らなかったな」。

勝利の後、李選手は朝7時まで眠れなかった。パソコンの動画サイトで自分のゴールを繰り返し見続けたという。

ブログも書いた。「正直眠れません。僕の人生において最高の1ページを築けた日だったから」「『俺がヒーローになるんだ!』と、自分に言い聞かせながら常に自分を信じ続けピッチに入りました」

そして、スタッフやサポーターとともに「僕を常に支え続けてくれたアボジ・オモニ(韓国語で父母の意味)」に感謝の言葉を贈った。

「みんなの想いを乗せたシュートでした」 (舟橋宏太)

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李投入「論理とひらめき半々」

ザッケローニ監督一問一答(記者会見)

*よく眠れたかーーー

試合を振り返ってしまって寝付けなかった。優勝したから不満や後悔を言いたくないが、体調面でもっと準備してボールを保持するサッカーをしたかった。

*李を投入した判断はーーー

論理的な部分と感覚的なひらめきと半々。前田にセットプレーの守備で長身のジェデイナクをマークさせていた。それを外していいかという判断。チームのコンセプトと同じ勇気そのものだった。

*ーーー遠藤と長谷部を使い続けた。

先発を変えなかったのは土台を築きたかったから。代えがきかない選手はこのチームにはいない。ただ、二人はチームがどうあるべきかを早くから理解して周囲に伝えてくれた。さらに控え選手がここまで結果を出す状況は記憶にない。

*ーーー練習でも頻繁に選手に声をかけていた。

もともと私はコミュニケーションを取るタイプ。お互いにもっと分かり合いたいと思っていたからだ。

*ーーーアジアから世界に出て行く上で何が必要か。

勇気とバランスというコンセプトは同じ。あとは相手の特徴を踏まえて対策を立てていく。異なるタイプとやることで経験値は上がる。欧州にいる選手も多いので、海外で合宿、試合をやるのも悪くない。