浪速(なにわ)のおばちゃん文士、田辺聖子さんの「川柳でんでん太鼓」(講談社)を読んだ。
小説現代の昭和58年の10月号から60年の7月号にかけて連載されたものを本にまとめたものだ。約800句ほどの川柳にそれぞれ田辺屋の女大将の解釈が添えられている。
田辺屋の女大将が選んだ川柳はどれも、それは愉快で抱腹絶倒ものから、苦々しくも悲痛、怒り心頭に至るものまでの人間の感性の豊かさが披露されていて、よくぞ皆さんいろいろと、詠ってくれているものだと感心させられた。無粋な私には、どの句も雲上の文学作品に思えて、頭がくらくらするばかりだ。一つ一つを評することは不可能だ。ただ、ただ感服しながら楽しませてもらった。
浪速の美人作家・田辺聖子さんの文章が、実に愉快で、大阪弁で、タナベセイコワールドをイカンなく表現されているのにも、感心、感激させられた。頭の切れる大阪の女子(おなご)はんには、かないませんわ!と言いたいところだ。
遅読で、遅読で、嫌になるほど本を読むのが遅い私が、今回は猛烈なスピ-ドで読んでしまった。どの句も、恥ずかしくなるほど狭量な私の感性の隅っこを、爪楊枝のようなもので擽(くすぐ)られた。気持ちがよかった。
その中から、幾つかを紹介したい。これらは、唯、私にとって面白かったり、痛快だったり、極めて同情したものであって、作品の良し悪し、優劣を言っているわけではない。くれぐれも、繰り返しますが論評できる知識も能力も持ち合わせていない。
女の人に、偽(いつわ)られたり、田辺聖子さんが仰るチメチメとされると、私の感性は異常に反応するようで、選んだその①とその②はその類のものだ。その延長線上に、少し趣(おもむき)は変わるのですが、男女問題においては同じ係累かと、おまけ、その④を追加した。
見事に鈍感な私でも、女性に関することに関しては異常に反応し易くなっているようだ。こんなことにナッチャッタのは、生まれながらの性癖か、成人になってからか、老境に入ったからか、どこで、私はこのようになってしまったのだろうか。
その③は、もうこれは私の「怒りの世界」でもあって、一旦、このような文章を目にしたならばそう易々とは引き下がれない。一生拘ります。そんな訳で、鶴彬(つるあきら)さんコーナーを、たっぷりとらしてもらった。誰もが、この人の作品は一読する必要があると思うのです。
以下、細字は筆立ち名人の女狐か女狸か?田辺のおばちゃんが、本に書いている文章のままです。
その①
いじめ甲斐ある人を待つ胡瓜(きゆうり)もみ (田頭良子)
は、女のおかしさであろう。この「いじめ甲斐」がいいのだが、これは、姑(しゅうとめ)が嫁をいじめると解してはこの句はワヤになる。
無論、女が男をいじめるから、楽しいのである。
その男は人がよく(お人よし、とは少しニュアンスがちがう)少々のことでひがんだり、青筋たてていきまいたり、すねたりしない。何を言われてもニタニタしている。コタえてないのやろか、ともっときつく言葉でチメチメしても、それがかえって彼を面白がらせる。それは双方、お互いに好意をもち合っているからであろう。
好きなんである。
早く言えば。
そういう男にごちそうしようと胡瓜もみを刻んでいる。女の心うれしさというものは、まあ何と言えばよかろう。これは佳句(かく)である。
ついでに言うが、女に言葉でチメチメされて、つい同じように応酬する男はあかんのです。女は男女平等を口で唱えながら、やっぱり男性神話を信じているところがある。男は寛容で度量ひろくて、小事にこせつかず、頼り甲斐あると思いたい。だから女がウソついてもいちいちそれをあばき立てたりせず、チメチメしていじめても、ニタニタと看過していただきたい。よけい図にのっても、よしよしと言っていただきたい。
田辺のおばちゃん、チメチメされてとはなんじゃいなあ。チメチメしていじめる? 田辺先生、見本を見せてください--田辺ファンより。
その②
いつわりを庇(かば)うかたちで足袋を履く (窪田久美子)
足袋を履くときは背を丸め、かがまらないとコハゼがはめられない。ソックスなら、突っ立ったまま、足を曲げてはけるが、足袋は体を曲げねばならぬ。
それを「いつわりを庇う」と表現した手腕は凡ではない。
女がよむと、どことなし、思い当たるというような、ドキッと一閃(いっせん)する鋭さがある。
しかく、女はみな、大なり小なり、いつわりにみちみちている、もっとも善なるいついわりもあれば美しきいつわりもあり、猛毒のいつわりもあれば、毒にも薬にもならぬいつわりもあるが、まあ大体に於いていつわりを持っとらん女は居(お)りませんな。
その③は、----。小林多喜二は「蟹工船」で世間によく知られたプロレタリア文学の代表的な作家だが、川柳にもプロレタリア作家がいたことを、私はこの本で初めて知った。
その作家というのが、鶴彬(つるあきら)だ。「飢えた胃袋で直感する」プロレタリア川柳作家だ。彼は一連の作品によって検挙され、獄死する。
小林多喜二ほどに鶴彬の獄死を知っている人は少ないと思われる。それは川柳という分野だったせいだろうか、と田辺聖子先生は仰っている。学校の教科書などで、短歌や俳句と同じ扱いで取り上げられたことなど、聞いたことがあろうか。
21歳、鶴は金沢第七連隊に入営。陸軍記念日(3月10日)に連隊長の訓辞を聞いて質問するという、前代未聞(みもん)のことをやらかす。一叩人(いつこうじん)氏の『反戦川柳人・鶴彬』に「かってみない勇気ある行動」とあるのもおかしいが、命令と服従で成り立っている軍隊で、新兵が連隊長に質問するというのは反軍行動である、重営倉へ収監され、結局4年余りを軍隊にとられた。
今まで幾度か書いてきたが、世間の人の川柳観は、日常卑近の野鄙(やび)な題材を面白おかしくまとめるもの、あるいはポルノまがいの狂句をさすもの、または新聞の時事川柳によくあるニュースを、五七五にしただけの、「はあ、そうですか」というほかない作品、---そんなものが川柳で、下世話(げせわ)にくだけた、ひまつぶしのお遊び、と思っている人も多いようだ。
田辺のおばちゃんは、怒っている。 ヤマ
本に出てくる順に、片っ端から転載させていただくことにした。そうして、句を連ねていくと、長詩のようになった。感動しました。
その③
手と足をもいだ丸太にしてかへし
高粱(こうりゃん)の実りへ戦車と靴の鋲(びやう)
屍(しかばね)のゐないニュース映画で勇ましい
出征の門標があってがらんどうの小店
万歳とあげていった手を大陸へおいて来た
胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき
タマ除(よ)けを産めよ殖(ふ)やせよ勲章をやらう
稼(かせ)ぎ手を殺してならぬ千人針
ざん壕で読む妹を売る手紙
玉の井に模範女工のなれの果て
みな肺で死ぬる女工の募集札
ふるさとは病(やま)ひと一しよに帰るとこ
修身にない孝行で淫売婦
お嫁にゆく晴着(はれぎ)こさへるのに胸くさらせてゐる
ふるさとへ血へど吐きに帰る晴衣(はれぎ)となりました
吸いにゆくーーー姉を殺した綿くずを
売られずにゐるは地主の阿魔(あま)ばかり
働けばうづいてならぬ●●●●のあと 注「ごうもん}が該当すると推定される
仇(かたき)に着す縮緬(ちりめん)織って散るいのち
日給三十五銭づつ青春の呪(のろ)ひ織り込んで
神代から連綿として飢ゑている
これしきの金に主義一つ売り二つ売り
銀座裏残飯(ヅケ)を争う人と犬
暁(あかつき)を抱いて闇にゐる蕾(つぼみ)
半島の生まれ〈連作〉
半島の生まれでつぶし値の生き埋めとなる
内地人に負けてはならぬ汗で半定歩(筆者注・日本人の賃金の半分)のトロ押す
半定歩だけ働けばなまけるなとどやされる
ヨボと辱(はづか)しめられて怒りこみ上げる朝鮮語となる
鉄板背負う若い人間起重機で曲がる背骨
母国掠(かす)め盗(と)った国の歴史を復習する大声
行きどころのない冬を追っぱらはれる鮮人小屋の群れ
しゃもの国綺譚(きたん)〈連作〉
昂奮剤射たれた羽叩(たた)きてしゃもは決闘におくられる
稼ぎ手のをんどりを死なしてならぬめんどりの守り札
賭(か)けられた銀貨を知らぬしゃもの眼に格闘の相手ばかり
決闘の血しぶきにまみれ賭けふやされた銀貨うづ高い
遂にねをあげて斃(たお)れるしゃもにつづく妻どり子どりのくらし
勝鬨(かちどき)あげるしゃもののど笛へすかさず新手(あらて)の蹴爪(けづめ)飛ぶ
最後の一羽がたふれて平和にかへる決闘場
しゃもの国万歳とたふれた屍(しかばね)を蠅(はへ)がむしってゐる
をんどりみんな骨壷となり無精卵ばかり生むめんどり
をんどりのゐない街へ貞操捨て売りに出てあぶれる
骨壷と売れない貞操を抱え淫売どりの狂ふうた
おまけ、その④
おまけです。特別に追加したのは、どうしてもこの川柳をこのコーナーに写し置きたいと思ったのです。その真意って? だからって、今度会ったときに私の目の奥を覗き込まないでくださいね。こ、こ、だ、け、の、話、、、、、、だからね。
愛咬(あいこう)やはるかはるかにさくら散る 『時実新子(ときざねしんこ)』
愛咬の美しい歯形はその一つ一つがさくらの花片と化し、まなかいを散りまがう。夢の瘢痕(はんこん)はさくらなのか、さくらは目くらむ恋のうつつの吹雪なのか、裸身におしあてる愛の印判。かぐわしきエロスが匂い立ち、心を振盪(しんとう)させる。そしてまなうらいっぱいにさくらは散る。
田辺のオバチャン、ようそんなに恥ずかしい文章をスラスラ書けるな!感心です。田辺のオバチャンに会いたいと思う。 ヤマ
注 まなかい=(眼、間、目交い) まのあたり
まがう=(紛う) 入りまじる
かぐわしい=(芳しい、馨しい、香しい) かおりがいい かんばしい
だだ、ダ、だ~ん、萎(しな)びた男ども、目が醒めたか!!!